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聞即信

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2024年7月8日 (月) 05:00時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

もん-そく-しん

もんそくしん 聞即信

 浄土真宗におけるとの関係のことで、聞くことがそのまま信心であり、聞のほかに信はないということ。
第十八願成就文に、

「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん(聞其名号、信心歓喜、乃至一念)」(大経 P.41)

とある中の「」と「」について、親鸞は「信巻」に

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。信心といふは、すなはち本願力回向の信心なり」(信巻 P.251)

と述べ、また『一多文意』に

「聞其名号といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。信心歓喜乃至一念といふは、信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」(一多 P.678)

と述べている。→仏願の生起本末 (浄土真宗辞典)

聞即信」とは、法を聞き続けていけば、ある時突然()に信心が開け起こるという意味ではない。御開山は、

きくといふは、本顧をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり。 (一多 P.678)

とあるように、ただいまいている第十八願の教法が、そのままであるような状態を表現する語である。これを先人は「勅命のほかに領解なし」と云われていた。
「疑心あることなし(無有疑心)」とは疑い心があることが無いといふ、無い状態を示す語である。それは、わたしに疑わない心 (不疑心) が有るという意味ではない。わたしにおいて疑わないという「不疑心」は「無有疑心」の否定である。御開山の示される信とはわたしにおける計らいという有を無とした信であるからである。それを『唯信鈔文意』では、

「信」はうたがひなきこころなり、すなはちこれ真実の信心なり。(唯文 P.699)  →他力の信の特色

といわれておられた。
法然聖人は「仏願の生起本末」の末が衆生済度の名号法(なんまんだぶ)として展開する意を釈して、

たれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみず、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心をすなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。」(『西方指南抄』)

と具体的に示しておられた。この「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」とは、なんまんだぶと称えれば、なんまんだぶとわたしの耳に聞える。この可聞可称の声を御開山は「本願招喚の勅命」とされたのであった。浄土真宗は、聞いた法がそのまま衆生の心に印現する名号法のご法義なのであった。

仏願の生起本末
信心
トーク:聞即信
聞と信について
安心論題/聞信義相
聴聞
聞見
疑蓋無雑


聞即信
浄土真宗の印現説のたとえ

利井鮮妙和上 は、

左文字 おせば右文字 助くるの
外に助かる こころやはある

といわれていた。印鑑の左文字を紙に捺せば、そのまま右文字が現れる。左文字のままが捺された右文字の印現であり別のものではない。 阿弥陀仏の「必ず助ける」の左文字を、衆生の心に捺せば「必ず助かる」という右文字が現れるように、法より機への印現説である。
また、物種吉兵衛さんは、

「聞けばわかる、知れば知れる。聞こえたはこっち。知れたはこっち。こっちに用はない。聞こえたこちらはおさらばと捨てる方や。用というのはわりゃわりゃと向こうから名乗って下さる」

と、言われた。聞いた私には用事がないのである。私の努力をゼロにした時、私の信じる心を離したときに、如来回向のご信心の月は皎々と煩悩の繁る心に照って下さるのである。先人が如来の「勅命の他に領解なし」といわれた意である。

水月を感じて昇降を得たり
トーク:聞即信