欲知過去因
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
よくちかこいん
「過去の因を知らんと欲すれば」。『
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- 経言 欲知過去因 当観現在果 欲知未来果 当観現在因
- 経にのたまわく、過去の因を知らんと欲すれば、まさに現在の果を観るべし。未来の果を知らんと欲すれば、まさに現在の因を観るべし。→大正新脩大藏經テキストデータベース 法苑珠林
この語を「善因善果、悪因悪果」[1]のような宿命論的な因果一貫の業論として理解すると、仏教で説く縁起の道理に違背することになる。御開山はこのような「因果応報」説を「信罪福心」として否定しておられた。
補 註 |
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阿弥陀仏 |
往生・真実証・浄土 |
機・衆生 |
具縛の凡愚・屠沽の下類 |
業・宿業 |
正定聚 |
信の一念・聞 |
真実教 |
旃陀羅 |
大行・真実行 |
大信・真実信 |
他力・本願力回向 |
同朋・同行 |
女人・根欠・五障三従 |
方便・隠顕 |
菩薩 |
本願 |
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5 業(ごう)・宿業(しゅくごう)
業とは、梵語カルマン(karman)の漢訳であり、広い意味の行為のことで、おこない、はたらきのことである。通常、身口意の三業に分ける。また行為の結果、すなわち「善因楽果、悪因苦果」といわれるように、業による報いとしての業報の意味も含めて用いられる。
元来仏教の業は、仏教以前に用いられていた宿命論的な因果一貫の業論ではなく、縁起の立場に立つ業論である。それは
ことに親鸞聖人が用いられた業には、三つの用法があったとうかがえる。第一は、
『歎異抄』第十三条の宿業説は、悪をつつしみ、善人にならねば救われないと主張する異義を破るために、機の深信の立場に立って、煩悩具足の凡夫という存在をあらわそうとされたものである。宿業とは、宿世(過去世)の行為とその報いという意味の言葉であるが、現実の自己が限りない過去とつながっているという宗教的な見方を強調する言葉として用いられていた。そこで『歎異抄』はこの言葉を用いて、人間は自己の思いのままにすぐに善人になれるほど単純なものではなく、縁によってどのようなふるまいをするかわからない存在であり、自分でも手のつけようのない煩悩の深みをもつものであるという人間のありさまをあらわそうとしたのである。こうして『歎異抄』の宿業説は、「さればよきことも、あしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ」といわれるように、法の深信と一つに組みあって自力無功と信知する機の深信の内容としてのみ用いられるものであった。
この業、宿業の語が、仏教、ことに浄土教において誤って用いられた例が多い。「因果応報」というような表現をもって固定的な因果論を説き、現実社会の貧富、心身の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴までもが、その人の個人の前世の業の結果によるものと理解させ、貴賤、浄穢というような差別を助長し、それによって一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方で被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。
例えば、『大経』(下 62)の「五善五悪」(一般に「五悪段」と呼ばれる)に、「強きものは弱きを
こうして政治的につくりあげられた封建的な身分差別までも、すべて個人の業報であると説くことによって、社会的身分制度を正当化するような役割を果してきたのであった。このような宿業理解は近年までつづいている。すなわち、仏教は因果応報という天地宇宙の真理を説くもので、自己の幸、不幸は、あくまで自己の負うべきもので、いかなる不幸や逆境に遭遇しても愚痴や不平をいわず、他人をうらまず、その原因は自己にあることを知り懺悔(さんげ)して自己の欠点をあらため、善(よ)き因(たね)をまくようにしなければならないというふうに解説するものも少なくなかった。しかし現実の幸、不幸の原因のすべてを本人の宿業のせいにし、不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことはむしろ縁起の道理にそむく見解である。
現実の矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであり、それによってもたらされた不幸を、被害者である本人の責任に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらさせてしまうような業論が説かれるならば、それは誤りであるといわねばならない。
浄土真宗では『大経』の「五悪段」は、第十八願
なお、宿業とよく似た語であるが、意味の異なるものに
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- ↑ 「善因善果、悪因悪果」とは正確には「善因楽果、悪因苦果」である。善が善の結果を悪が悪の果をもたらすならば、仏教で排斥する運命論に陥ってしまう。善・悪とは、楽または苦なる果報を招来する因の名称であって、果の名ではない。果報は無記であるから、苦の状況であっても善なる行為が出来るのであり、楽の状態で悪を行うことも出来るのである。このように苦の状況を脱するために、苦を転じて楽の果報を招来するために善を行えというのが、仏教における正しい因果論である。