操作

欲知過去因

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

よくちかこいん

 「過去の因を知らんと欲すれば」。『法苑珠林(ほうおんじゅりん)』に「経にのたまわく、過去の因を知らんと欲すれば、まさに現在の果を観るべし。未来の果を知らんと欲すれば、まさに現在の因を観るべし」の文があるが、経名は不明。(口伝鈔 P.874)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

経言 欲知過去因 当観現在果 欲知未来果 当観現在因
経にのたまわく、過去の因を知らんと欲すれば、まさに現在の果を観るべし。未来の果を知らんと欲すれば、まさに現在の因を観るべし。→大正新脩大藏經テキストデータベース 法苑珠林

この語を「善因善果、悪因悪果」[1]のような宿命論的な因果一貫の業論として理解すると、仏教で説く縁起の道理に違背することになる。御開山はこのような「因果応報」説を「信罪福心」として否定しておられた。


Dharma wheel

補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

5 業(ごう)・宿業(しゅくごう)

 業とは、梵語カルマン(karman)の漢訳であり、広い意味の行為のことで、おこない、はたらきのことである。通常、身口意の三業に分ける。また行為の結果、すなわち「善因楽果、悪因苦果」といわれるように、業による報いとしての業報の意味も含めて用いられる。

 元来仏教の業は、仏教以前に用いられていた宿命論的な因果一貫の業論ではなく、縁起の立場に立つ業論である。それは衆縁(しゅえん)によって成り立つ自己を、縁起的存在であるとみ、固定的な実体観を否定する無我の立場であるとともに、主体的な行為によって真実の自己を形成すべきことを強調する立場であった。

 ことに親鸞聖人が用いられた業には、三つの用法があったとうかがえる。第一は、法蔵(ほうぞう)菩薩(ぼさつ)本願よりおこる「智慧(ちえ)清浄(しょうじょう)の業」と、その果徳としての阿弥陀仏の「大願(だいがん)業力(ごうりき)」とであり、第二には、その阿弥陀仏の大智大悲の光明(こうみょう)に映し出され、あきらかに知らされた煩悩具足凡夫(ぼんぶ)のすがたを、機の深信(じんしん)として表白(ひょうびゃく)されたときに用いられる「罪業(ざいごう)深重(じんじゅう)」の業である。第三には、かかる罪業深重の私の上に、如来より回向(えこう)された大行(だいぎょう)大信(だいしん)を「本願名号(ほんがん-みょうごう)正定業(しょうじょうごう)」とか、「称名正定業」とか、「至心(ししん)信楽(しんぎょう)の業因」といわれるときの業がそれである。従来の浄土真宗の業に対する誤解は、その第二の用法にみられる「罪業」とか「業障(ごっしょう)」という言葉だけが、機の深信から切り離されて取り上げられたところから生ずるものである。

 『歎異抄』第十三条の宿業説は、悪をつつしみ、善人にならねば救われないと主張する異義を破るために、機の深信の立場に立って、煩悩具足の凡夫という存在をあらわそうとされたものである。宿業とは、宿世(過去世)の行為とその報いという意味の言葉であるが、現実の自己が限りない過去とつながっているという宗教的な見方を強調する言葉として用いられていた。そこで『歎異抄』はこの言葉を用いて、人間は自己の思いのままにすぐに善人になれるほど単純なものではなく、縁によってどのようなふるまいをするかわからない存在であり、自分でも手のつけようのない煩悩の深みをもつものであるという人間のありさまをあらわそうとしたのである。こうして『歎異抄』の宿業説は、「さればよきことも、あしきことも業報にさしまかせて、ひとへに本願をたのみまゐらすればこそ、他力にては候へ」といわれるように、法の深信と一つに組みあって自力無功と信知する機の深信の内容としてのみ用いられるものであった。

 この業、宿業の語が、仏教、ことに浄土教において誤って用いられた例が多い。「因果応報」というような表現をもって固定的な因果論を説き、現実社会の貧富、心身の障害や病気、災害や事故、性別や身体の特徴までもが、その人の個人の前世の業の結果によるものと理解させ、貴賤、浄穢というような差別を助長し、それによって一方ではそれぞれの時代の支配体制を正当化するとともに、また一方で被差別、不幸の責任をその人個人に転嫁してきた歴史がある。

 例えば、『大経』(下 62)の「五善五悪」(一般に「五悪段」と呼ばれる)に、「強きものは弱きを(ぶく)し、うたたあひ剋賊(こくぞく)し、残害殺戮(せつろく)してたがひにあひ呑噬(とんぜい)す(中略)神明(じんみょう)記識(きし)して、犯せるものを(ゆる)さず。ゆゑに貧窮(びんぐ)・下賤・乞丐(こつがい)・孤独・(ろう)・盲・(おんあ)・愚痴・弊悪(へいあく)のものありて(中略)また尊貴・豪富・高才(こうざい)明達(みょうだつ)なるものあり。みな宿世に慈孝(じきょう)ありて、善を修し徳を積むの致すところによる」と説かれたものを、江戸時代の説教などでは、これは現在の果を見て過去の因を知らしめるもので、現世の貴賤、貧富や、心身の障害も、すべてその人の過去世の業(宿業)の報いであると教えたものと解説してきた。

こうして政治的につくりあげられた封建的な身分差別までも、すべて個人の業報であると説くことによって、社会的身分制度を正当化するような役割を果してきたのであった。このような宿業理解は近年までつづいている。すなわち、仏教は因果応報という天地宇宙の真理を説くもので、自己の幸、不幸は、あくまで自己の負うべきもので、いかなる不幸や逆境に遭遇しても愚痴や不平をいわず、他人をうらまず、その原因は自己にあることを知り懺悔(さんげ)して自己の欠点をあらため、善(よ)き因(たね)をまくようにしなければならないというふうに解説するものも少なくなかった。しかし現実の幸、不幸の原因のすべてを本人の宿業のせいにし、不幸をもたらしたさまざまな要因を正しく見とどけようとしないことはむしろ縁起の道理にそむく見解である。

 現実の矛盾や差別は歴史的社会的につくられたものであり、それによってもたらされた不幸を、被害者である本人の責任に転嫁し、その不幸をひきおこした本当の要因から目をそらさせてしまうような業論が説かれるならば、それは誤りであるといわねばならない。

 浄土真宗では『大経』の「五悪段」は、第十八願成就文(じょうじゅもん)逆謗(ぎゃくほう)抑止(おくし)の教意を広く説かれたものと領解(りょうげ)されてきた。すなわち、未信者に対しては、悪を(いまし)めつつ自身の罪悪を知らしめて本願の念仏に導き、信者に対しては、機の深信の立場から、自身をつねに顧みて、五悪をつつしみ、五善をつとめるように信後の倫理生活を勧誡されたものとうけとめられてきたのである。このように宗教的倫理を勧めたものであるかぎり、現実を過去によって正当化することを目的として説かれたものではなく、現実の生き方を誡めて、正しい未来を開くための教説であるとしなければならない。ところがそのことを強調するために功績と褒賞、犯罪と刑罰というような因果の関係をすべてにおよぼすという論理が用いられている。たしかにわかりやすい倫理説である。   しかしそれはどこまでも悪を誡めて善をすすめるという本来の目的にそって領解されなければならない。もしそうでなくて現実に存在するさまざまな社会的な差別事象や、個人的な幸、不幸を説明するための教説と受けとるならば、すべての不幸は、その人の過去世の悪業の報いとしての罰であり、すべての幸福は過去の善行に対する褒賞であるという固定的な現実理解を生み出し、教説の本意から外れていくことになるであろう。さきにあげた説教などにおける教説の誤用はそこから生れてきたのである。ことにこのような説が輪廻(りんね)転生(てんしょう)という一種の宗教的な考え方に裏づけられたとき、それの誤解は人間の心の深い領域までも決定するような力を持ってくる。すべての不幸を罰として受けとるというような社会意識も、そこから生れてきたのである。「五悪段」の成立や翻訳には、その当時の時代背景や思想の影響があったことを十分留意して経の真意を読みとっていかねばならない。『大経』は、一切の不幸を罰として甘受せよと教えてはいなかった。あらゆる人々の苦悩を共感する大悲心をもって、苦悩の衆生(しゅじょう)を背負って立ちたもう阿弥陀仏の大願業力(だいがんごうりき)が、衆生の煩悩悪業を転じて、涅槃(ねはん)浄土にあらしめるという救いを説く経典であるかぎり、「五悪段」の経説も大悲救苦の仏意にたって領解しなければならない。

 なお、宿業とよく似た語であるが、意味の異なるものに宿善(しゅくぜん)ということがいわれる。宿善とは、「宿世の善因縁」ということで、信心を得るための過去の善き因縁という意味である。蓮如(れんにょ)上人が『御一代記(ごいちだいき)聞書(ききがき)』(末 1307)に、「宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふ」といわれたように、宿善の体は如来のお育てのはたらきであるとあおぐべきである。もともと宿善とは、他力の信心を得た上で、過去をふりかえって、仏のお育てをよろこぶものである。すなわち、獲信(ぎゃくしん)以前になしたさまざまな行善(ぎょうぜん)は、そのときは自力のつもりであったが、ふりかえってみると、他力の仏意に気づかせるための如来のお育てであったといただくものである。これを宿善の当相は自力だが、その体は他力であるといいならわしている。 (持名鈔 P.1013,一代記 P.1263)  

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。



  1. 「善因善果、悪因悪果」とは正確には「善因楽果、悪因苦果」である。善が善の結果を悪が悪の果をもたらすならば、仏教で排斥する運命論に陥ってしまう。善・悪とは、楽または苦なる果報を招来する因の名称であって、果の名ではない。果報は無記であるから、苦の状況であっても善なる行為が出来るのであり、楽の状態で悪を行うことも出来るのである。このように苦の状況を脱するために、苦を転じて楽の果報を招来するために善を行えというのが、仏教における正しい因果論である。