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領解

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

『浄土真宗聖教全書』五の『領解文』の解説

〔概説〕

本書は、異安心秘事法門等に対して、浄土真宗の正しい領解を示すために著されたもので、著者は蓮如上人であるとされる。
 蓮如上人は常々、自らの領解を口に出して述べることの重要性を指摘している。「蓮如上人御一代記聞書」第七四条には

「一向に不信の(よし)申さる人はよく候ふ。 ことばにて安心のとほり申し候ひて、口には(おなじ)ごとくにて、まぎれて(むな)しくなるべき人を悲く覚候」(註 1255)

とあり、たとえ不信の告白であったとしても、心中をそのまま申し出すことが肝要であるとされている。そして、その反対に口先で信心を得ているふりをして、そのまま命終えていくことがあってはならないことも述べられている。あるいは「同』第八六条にも

「蓮如上人仰られ候。物をいへいへと仰られ候。物を申さぬ者はおそろしきと仰られ候。信不信ともに、たゞ物をいへと仰られ候。物を申せば心底もきこえ、又人にもなをさるゝなり。たゞ物を申せと仰られ候」(註 1259)

とあり、たとえ誤った理解をしている者がいたとしても、自らの領解を口に出すことは、その理解が 是正される機会となることが示されている。
 このように蓮如上人は、法義領解について自らの心中を包みかくさず申し述べることが重要であるとしているが、また、「五帖御文章」 四帖目第五通には

「所詮今月報恩講七晝(昼)夜のうちにをひて、各々に改悔の心ををこして、わが身のあやまれるところの心中を心底にのこさずして、當寺の御影前にをひて、回心懺悔して諸人の耳にこれをきかしむるように毎日毎夜にかたるべし」(註 1170)

とあり、本願寺報恩講へ参拝した折には親鸞聖人御真影の前において改悔の心を起こし、回心懺悔してその心中を諸人に語るように述べられている。

これにより、本願寺報恩講では自らの信仰告白がなされるようになり、またその際、蓮如上人がその告白内容を聞き、教義に(かな)ったものであるかの判定を行っている。以降、本願寺の報恩講における信仰告白は重要な儀礼として定着することとなり、やがて改悔という言葉は、この信仰告白の儀礼全体を意味するようになった。「山科御坊事并其時代事」には、蓮如上人のころは三、四人が改悔を申していたが[1]、天文年間巳来は一度に五十人、百人が各々大声をあげて言っているので、まるで喧嘩のようだと批判していることなどから[2]、今日のように一同で「領解文」をとなえるようになったのは、かなり時代が下ると考えられる。
 こうして、蓮如上人によって本願寺の報恩講で行われるようになった改悔の儀礼は、長い歴史をもって今日まで伝えられ、現在では本書の内容を親鸞聖人や阿弥陀如来の前で出言することによって、自らの領解に誤りのないことを確認するという形式で継承されている。

本書の内容は、「安心」「報謝」「師徳」「法度」の四段から成っている。すなわち、「もろもろの難行……うしてさふらふ」という安心段では、自力を捨てて他力に帰するという浄土真宗の安心について示され、 次に「たのむ一念・・・まうし候ふ」という報謝段では、信の一念往生決定するのであるから、その後の称名は報恩にほかならないという領解が示されている。つまり、これら安心段と報謝段とにおいては、宗義の肝要である「信心正因称名報恩」の領解が述べられている。

次に「この御こと・・・くぞんじ候ふ」という師徳段では、今、自らが念仏の教えを聴聞し、その法義について述べることができるのは、親鸞聖人や、この教法を伝えられた善知識の方々のおかげによるものであり、その御恩に謝すべきことが述べられている。最後の「このうへは ・・・すべく候」という法度段では、「御文章」などに定められた三箇条や六箇条、八箇条等の掟に従い、念仏者としてのたしなみを生涯忘れることなく保ち続けるべきであることが述べられている。

さて、「領解文」という本書の呼称については、 慶証寺玄智著『大谷本願寺通紀』の天明四 (一七八四)年の項に 「三月領解文ヲ梓行ス」[3] とあるものがその初見であるが、この刊本は現存していない。また、本書が広く流布するようになったのは、天明七(一七八七)年、第十七代法如上人が本書を「領解出言之文」と名づけて開版されたことによっている。この法如上人証判本[4]には、嗣法文如上人による跋文が付されており、そのはじめには

「右領解出言之文は信證院蓮如師之定おかせるゝ所也 眞宗念佛行者已に一念歸命信心発得せる領解の相狀也 是故に古今一宗の道俗時々 佛祖前にしてこの安心を出言し 自の領解の謬なきことを敬白するなり・・・」領解文#教誡

として、本書が蓮如上人によって著されたことや、ここに記された内容を仏祖の前で出言すべきことが述べられている。また、この跋文については、実際には第六代 能化功存が校閲者として作成に関わっていたことが、玄智により指摘されている。この跋文では全体的に「彌陀をたのむ」「一念歸命」ということが強調されているが、後に第十九代本如上人は『御裁断御書』『御裁断申明書』において、「彌陀をたのむ」とは、蓮如上人が他力の信を示されたものであることを明らかにされている。

[本・対校本〕

 本書は、大阪府光善寺蔵 伝蓮如上人書写の領解文を底本とし、龍谷大学蔵天明七年法如上人証判本を対校本とした。
 大阪府光善寺蔵伝蓮如上人書写の領解文は、 奥書等はなく、一紙に 本文のみが記されている。 本文には変体仮名が多用され、漢字には全て右仮名が付されている。また、師徳段の本文をみると「御恩報謝とよろこびもうし候」とあり、法如上人証判本の本文と比べると「ぞんじ」の三字が無いことがわかる。真宗大谷派ではこの光善寺蔵の領解文を「改悔文」と呼称して使用している。 また、この光善寺蔵の領解文には模刻本[5]が作られているが、その制作年時は不明である。ただし、明和元 (一七六四)年に玄智がこの模刻本に基づいた一本を刻していることから、模刻本の制作はそれ以前のことと考えられる。光善寺蔵の領解文の体裁は一紙十三行、一行十五字内外である。
 龍谷大学蔵 天明七年 法如上人証判本は、先に示した文如上人による跋文の終わりに、「この故に今ひめおきし蓮師之眞蹟を模写し印刻して家ごとに傅へ戸ごとに授て永く浄土真宗一味の正意を得せしめんと思ふもの也。天明七年四月釋文如識之 (花押)」とあり、この 「ひめおきし蓮師之眞蹟」とは、本書の底本である大阪府光善寺蔵伝 蓮如上人書写の領解文のことである。つまり、本証判本は光善寺蔵の 領解文を模写したものを底本として開版されたものであるが、先述の通り、光善寺蔵の領解文と本証判とには文字の異同が認められる。本証判本の体裁は、本文と跋文共に一紙であり、本文は十行、一行二 十三字内外 跋文は十三行、一行二十七字内外である。


『浄土真宗全書』五 相伝篇下の「御文章集成」には、真偽未決として『領解文』類似の文が三文ある。 →御文章集成#真偽未決

  1. 『山科御坊事幷其時代事』p.940。 さて聽聞に望なる人は縁々に五人三人、後に佛前に被出候間(いでられそうろうあいだ)、人多みえ候時も百人とも候はず候、五六十、七八十人が多勢の分にて候間、坊主衆計(ばかり)一人づゝ改悔せられ、一心のとおり心しづかに被申(もうされ)、惣の衆五人か十人か後、終に被申間(もうされるあいだ)、殊勝なる改悔にてたふとく候つる。とある。
  2. 『山科御坊事幷其時代事』p.941。 一 此近年天文以來まいり候て、報恩講にあひたてまつり難有候。聽聞申候に、讚嘆はじまり、改悔五人三人被申歟(もうされるか)とおもへば、兔角して一度に五十人百人大聲をあげてよばゝりあげて被申時は、興ざめてきもゝつぶれ、たふとげもなく候。喧嘩なども出來候歟ときゝなし候事、古(いにし)へなき事にて候。 とある。
  3. 梓行(しこう)。書物を出版すること。木版印刷の版木に、多く梓(あずさ)の木を用いたことから梓行といふ。本の出版を上梓といふ。
  4. 証判本(しょうはんぼん)。権威と権限ある者の証判を受けた文書といふ意味で、ここでは、第十七代門主である法如上人の「証」明と「判」別がある「本」といふ意。林遊個人としては?マークがが百個ほどあるけど、まあいいか。
  5. 模刻本(もこくぼん)。元になる文字とそっくりに版木を彫刻すること。