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「浄土真宗」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(ページの作成:「浄土は地球上の存在でない、弥陀は歴史上の人物でない、それ故、論理や科学で浄土や弥陀の有無を論ずべきでないと、正統...」)
 
 
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浄土は地球上の存在でない、弥陀は歴史上の人物でない、それ故、論理や科学で浄土や弥陀の有無を論ずべきでないと、正統派の真宗学者はいう。しかしこれだけでは知識人を納得させるわけに行くまい。歴史というもの、科学というもの、空間・時間というものを認めて、そしてそれから出るとか、出ないとか、それに依るとか依らぬとかいってはいけない。今一歩進んで、その歴史・科学・時間・空間等というものは何だということを究めてかからねばならぬ。<br />
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{{Kaisetu|浄土真宗の特長について 梯實圓著 {{small|聖典セミナー}}『教行信証』「教行の巻p.52から抜粋。<br />
何故かというに、宗教生活・宗教意識、または仏教体験・真宗信仰なるものは、対象界を対象界と認識して、その上に出来たものではないのである。始めから超因果・超論理のところにいるのである。空間や時間の世界のまだ出来ぬさきのところに動くものが宗教なのである。それ故、宗教をさきにして、それから因果界に出なくてはならぬ。それを本にして論理を作らなければならぬのである。<br />
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リンクや参照、註、文字の強調などは林遊が追記した。
それを見ないで、まず科学とか歴史とかを認めて、それから話を進めようとするところに、その人の非論理性があると考える。論理は当にそんな論理を言い得ないところから始められなければならぬ。<br />
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 自分等から見ると、真宗の学者は余りに宗学なるものに囚えられている。宗学成立以前に遡ることが出来ないと、宗学そのものもわからぬかとさえ思うのである。体系が出来上がると、その事実は吾等に対して異常な圧迫力をもつ。吾等のすべての思索は、その方法と内容とに於いて、それからの指図を仰ぐことになる。即ち吾等は体系の奴隷になる。先覚者のこしらえた特殊の思想的体系に対してのみならず、この自然的環境及び歴史的環境なるものに対しても、また吾等は甘んじてその奴隷となる。環境たるものに対して独自の思索をやらずに、隣の人や向いの人のいうことをそのままに受け容れて、山が高いとか、風が吹くとか、戦があるとか、千年、二千年の歴史がどうのこうのということになっている。<br />
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それも便利には相違ないが、それがため吾等はどんなに錯誤──種種の意味に於いて──を犯して、それから不安の夢に襲われているかわからぬ。一般的なことはとにかくとして、浄土教だけの中の話にしても、先進の学者が編み出した体系に吾等はどれだけ恵まれているかわからぬと同時に、どれだけまた禍せられているかもわからぬ。<br />
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 正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。つまり自己の宗教体験そのものを深く省みることをしないという傾向がありはしないだろうか。お経の上で弥陀があり、本願があり、浄土があるので、それをその通りに信受して、自らは何故それを信受しなければならぬか、弥陀は何故に歴史性を超越しているのか、本願はどうして成立しなければならぬか、その成就というのはどんな意味になるのか、浄土は何故にこの地上のものでなくて、しかもこの地上と離るべからざるくみあわせにたっているのかというような宗教体験の事実そのものについては、宗学者達は余り思いを煩わさぬのではないか。浄土があり、娑婆があるということにたっている。──<br />
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;<big>浄土真宗の特長</big>
これをその通りに受け入れる方に心をとられて、何故自らの心が、これを受け入れねばならぬかについて、反省しないのが、彼等の議論の往往にして議論倒れになって、どうも人の心に深く入りこまぬ所以なのではなかろうか。始めから宗学の中に育ったものは、それでも然るべきであろうが、どうも外部に対しては徹底性を欠きはしないだろうか。『浄土系思想論』p.331~333
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「[[興福寺奏状]]」や「[[延暦寺奏状]]」、あるいは明恵上人の『[http://jodoshuzensho.jp/jozensearch/search/image.php?lineno=J08_0675A01 擢邪輪]』などの論難に対して、[[JDS:選択本願念仏|選択本願念仏]]の法門の真実性を顕し、浄土真宗こそ真の仏法であるということを、釈尊の言葉と祖師たちの釈文によって証明していこうとされたのが『教行証文類』だったのです。<br>
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 さらに法然聖人の門下には、法然聖人の在世中から、すでに[[念仏往生]]を誤解して、[[一念多念|一念義と多念義]]という両極端の異義が生まれ、互いに自己の立場の正当性を主張して、まるで水と火のごとく、激しく争っていました。また、[[Jds:諸行本願義|諸行本願義]]というような説を立てて、聖道門の教えと妥協し、法然聖人がせっかく開かれた万人平等の救いの道を閉ざしてしまうような人も出てきていたのです。<br>
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 このように、法然聖人滅後の[[浄土宗]]は、外的にも内的にも、さまざまな困難な問題に直面していました。こうした状況のなかで、選択本願念仏の真実義を明らかにし、法然聖人に対する非難や誤解を正していくという{{DotUL|直弟子としての思想責任}}を果たしていかれたのが、親鸞聖人の『教行証文類』の述作だったのです。<br>
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;<big>浄土真宗を開く
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 このように、『教行証文類』を撰述された親鸞聖人の意図は、'''[[浄土宗]]'''の真実義、すなわち[[浄土真宗]]を顕すという一事に尽きるといえましょう。その意図を成就するために、この『教行証文類』では、曇鸞大師の教学の導入という独自の方法を用いました。すなわち法然聖人から伝授された'''[[選択本願]]'''に基づく[[念仏往生]]の法義を、{{DotUL|曇鸞大師の『往生論註』の教学に示唆を受けて確立された'''[[補註12|本願力回向]]'''の宗義によって包括し、体系化していかれたのです。}}それによって、[[浄土真宗]]とは、[[往相]]・[[還相]]という[[本願力回向]]の二相を軸とし、その[[往相]]は教、行、信、証の四法として展開する教義体系であることを顕示されたのです。そして浄土門内に[[要門]]や[[真門]]という方便教のあることを明らかにし、さらに[[聖道門]]までも浄土真宗の方便の法門として包摂していくという壮大な体系を完成されたのです。<br>
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 要するに、親鸞聖人が『教行証文類』を著されたのは、浄土真宗という教法の何たるかを顕彰するという一点に集約できますが、それによって次のような事柄が明らかになっていきました。その意味で、これらのことを明らかにするために『教行証文類』が撰述されたということもできるでしょう。その主な事項を箇条書きにすれば、
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:① 浄土真宗は、[[第十八願]]を本体としていること。→[[選択本願]]
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:② 第十八願の法義は、釈尊が開顕された『[[無量寿経]]』の[[宗致]]であること。<ref>「教巻」に、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。」とある。→([[教巻#no2|教巻 P.135]])</ref> →「[[教巻#経体を指定する|教巻 P.135]]」
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:③ それは[[七高僧]]によって伝承された教えであること。→[[七高僧]]
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:④ それは念仏成仏の法義であること。→[[念仏成仏]]
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:⑤ 念仏成仏の[[法義]]は、往還二回向を軸とする真実の教、行、信、証として展開すること。→[[二種回向]]
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:⑥ 『無量寿経』は釈尊の出世本懐の経であること。<ref>「教巻」に「なにをもつてか出世の大事なりと知ることを得るとならば」として『大経』五徳瑞現の段を引かれる。また「正信念仏偈」には「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり)。」とある。([[教巻#微起 釈尊出世の本意|教巻 P.135]])、([[行巻#釈迦章|行巻 P.203]])</ref> →[[五徳瑞現]]
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:⑦ [[大行]]は[[一乗]]の教法であること。→[[誓願一仏乗]]
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:⑧ 往生成仏の[[正因]]は、願力回向の信心であるということ。→[[一念転釈#信心が仏因であることを顕す|信心が仏因であることを顕す]]
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:⑨ 願力回向の信心は、[[横超の大菩提心]]であること。→[[信巻本#横超の菩提心釈|菩提心釈 信巻 P.246]]
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:⑩ 信心開発の[[一念]]に[[正定聚]]の位に就くという[[現生正定聚]]説を確立されたこと。 →[[正定聚]]
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:⑪ 信心の行者は、[[弥勒]]と同じ[[一生補処]]の菩薩であり、如来と等しい徳を与えられているということ。→[[便同弥勒]]
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:⑫ 真実信心の行者は、真実報土に往生するが、それは[[難思議往生]]であって、[[往生即成仏]]の証果であること。→[[補註2|往生・真実証・浄土]]
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:⑬ 証果の必然として還相摂化の利他行が限りなく展開されること。→[[証巻#P--313|還相回向 証巻 P.313]]
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:⑭ 阿弥陀仏の浄土は真実報土であるが、それは生仏一如の[[無上涅槃]]であること。→[[無上涅槃]]
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:⑮ [[四十八願]]のなか、[[第十八願]]、[[第十九願]]、[[第二十願]]は、[[弘願]]、[[要門]]、[[真門]]という真仮三種の法門を誓われたものと領解し、それによって「浄土三部経」が開説されたとみなして三経にも真仮を分判し、『観無量寿経』と『阿弥陀経』の説相には[[隠顕]]があるという独自の真仮論を展開されたこと。→[[六三法門]]
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:⑯ [[聖道門]]を[[還相]]の菩薩が行う摂化法として浄土門内に位置づけられたこと。<ref>『御消息』に、「聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。……かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。」とされておられる。→([[消息上#P--736|消息 P.736]])</ref>
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:⑰ あらゆる宗教現象を、[[真実]]と[[権仮]]と[[邪偽]]という三種に分類するという独自の宗教観を樹立されたこと。→[[真・仮・偽]]
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ということになるでしょう。
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[[Category:追記]]

2024年8月31日 (土) 09:20時点における最新版

浄土真宗の特長について 梯實圓著 聖典セミナー『教行信証』「教行の巻p.52から抜粋。

リンクや参照、註、文字の強調などは林遊が追記した。

浄土真宗の特長

興福寺奏状」や「延暦寺奏状」、あるいは明恵上人の『擢邪輪』などの論難に対して、選択本願念仏の法門の真実性を顕し、浄土真宗こそ真の仏法であるということを、釈尊の言葉と祖師たちの釈文によって証明していこうとされたのが『教行証文類』だったのです。

 さらに法然聖人の門下には、法然聖人の在世中から、すでに念仏往生を誤解して、一念義と多念義という両極端の異義が生まれ、互いに自己の立場の正当性を主張して、まるで水と火のごとく、激しく争っていました。また、諸行本願義というような説を立てて、聖道門の教えと妥協し、法然聖人がせっかく開かれた万人平等の救いの道を閉ざしてしまうような人も出てきていたのです。

 このように、法然聖人滅後の浄土宗は、外的にも内的にも、さまざまな困難な問題に直面していました。こうした状況のなかで、選択本願念仏の真実義を明らかにし、法然聖人に対する非難や誤解を正していくという直弟子としての思想責任を果たしていかれたのが、親鸞聖人の『教行証文類』の述作だったのです。

浄土真宗を開く

 このように、『教行証文類』を撰述された親鸞聖人の意図は、浄土宗の真実義、すなわち浄土真宗を顕すという一事に尽きるといえましょう。その意図を成就するために、この『教行証文類』では、曇鸞大師の教学の導入という独自の方法を用いました。すなわち法然聖人から伝授された選択本願に基づく念仏往生の法義を、曇鸞大師の『往生論註』の教学に示唆を受けて確立された本願力回向の宗義によって包括し、体系化していかれたのです。それによって、浄土真宗とは、往相還相という本願力回向の二相を軸とし、その往相は教、行、信、証の四法として展開する教義体系であることを顕示されたのです。そして浄土門内に要門真門という方便教のあることを明らかにし、さらに聖道門までも浄土真宗の方便の法門として包摂していくという壮大な体系を完成されたのです。

 要するに、親鸞聖人が『教行証文類』を著されたのは、浄土真宗という教法の何たるかを顕彰するという一点に集約できますが、それによって次のような事柄が明らかになっていきました。その意味で、これらのことを明らかにするために『教行証文類』が撰述されたということもできるでしょう。その主な事項を箇条書きにすれば、

① 浄土真宗は、第十八願を本体としていること。→選択本願
② 第十八願の法義は、釈尊が開顕された『無量寿経』の宗致であること。[1] →「教巻 P.135
③ それは七高僧によって伝承された教えであること。→七高僧
④ それは念仏成仏の法義であること。→念仏成仏
⑤ 念仏成仏の法義は、往還二回向を軸とする真実の教、行、信、証として展開すること。→二種回向
⑥ 『無量寿経』は釈尊の出世本懐の経であること。[2] →五徳瑞現
大行一乗の教法であること。→誓願一仏乗
⑧ 往生成仏の正因は、願力回向の信心であるということ。→信心が仏因であることを顕す
⑨ 願力回向の信心は、横超の大菩提心であること。→菩提心釈 信巻 P.246
⑩ 信心開発の一念正定聚の位に就くという現生正定聚説を確立されたこと。 →正定聚
⑪ 信心の行者は、弥勒と同じ一生補処の菩薩であり、如来と等しい徳を与えられているということ。→便同弥勒
⑫ 真実信心の行者は、真実報土に往生するが、それは難思議往生であって、往生即成仏の証果であること。→往生・真実証・浄土
⑬ 証果の必然として還相摂化の利他行が限りなく展開されること。→還相回向 証巻 P.313
⑭ 阿弥陀仏の浄土は真実報土であるが、それは生仏一如の無上涅槃であること。→無上涅槃
四十八願のなか、第十八願第十九願第二十願は、弘願要門真門という真仮三種の法門を誓われたものと領解し、それによって「浄土三部経」が開説されたとみなして三経にも真仮を分判し、『観無量寿経』と『阿弥陀経』の説相には隠顕があるという独自の真仮論を展開されたこと。→六三法門
聖道門還相の菩薩が行う摂化法として浄土門内に位置づけられたこと。[3]
⑰ あらゆる宗教現象を、真実権仮邪偽という三種に分類するという独自の宗教観を樹立されたこと。→真・仮・偽

ということになるでしょう。


  1. 「教巻」に、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。」とある。→(教巻 P.135)
  2. 「教巻」に「なにをもつてか出世の大事なりと知ることを得るとならば」として『大経』五徳瑞現の段を引かれる。また「正信念仏偈」には「如来所以興出世 唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり)。」とある。(教巻 P.135)、(行巻 P.203)
  3. 『御消息』に、「聖道といふは、すでに仏に成りたまへる人の、われらがこころをすすめんがために、仏心宗・真言宗・法華宗・華厳宗・三論宗等の大乗至極の教なり。……かりにさまざまの形をあらはしてすすめたまふがゆゑに権といふなり。」とされておられる。→(消息 P.736)