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| + | ;11 <kana>大信(だいしん)</kana>・<kana>真実信(しんじつしん)</kana> |
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− | <b>11 <ruby><rb>大信</rb><rp>(</rp><rt>だいしん</rt><rp>)</rp></ruby>・<ruby><rb>真実信</rb><rp>(</rp><rt>しんじつしん</rt><rp>)</rp></ruby></b> | + | 大信とは、阿弥陀如来よりたまわった[[信心]]の徳をたたえた言葉である。信心とは<kana>[[信楽]](しんぎょう)</kana>ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく[[本願]]の<kana>[[名号]](みょうごう)</kana>を領受した心をいう。それは<kana>[[大行]](だいぎょう)</kana>たる[[名号]]のはたらきが<kana>衆生(しゅじょう)</kana>に<kana>正(まさ)</kana>しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の<kana>正定(しょうじょう)</kana>の因となる」(<kana>信巻(しんかん)</kana>・[[信巻本#P--235|本 235]]) といわれている。これを[[信心正因|信心<kana>正因(しょういん)</kana>]]という。すなわち如来<kana>回向(えこう)</kana>の[[信心]]は<kana>[[真如]](しんにょ)</kana>にかない、無量の徳をもち、衆生を<kana>[[涅槃]](ねはん)</kana>のさとりに至らしめるすぐれた徳をもっているから大信心といわれ、また真実信といわれるのである。 |
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− | 大信とは、阿弥陀如来よりたまわった信心の徳をたたえた言葉である。信心とは<ruby><rb>信楽</rb><rp>(</rp><rt>しんぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の<ruby><rb>名号</rb><rp>(</rp><rt>みょうごう</rt><rp>)</rp></ruby>を領受した心をいう。それは<ruby><rb>大行</rb><rp>(</rp><rt>だいぎょう</rt><rp>)</rp></ruby>たる名号のはたらきが<ruby><rb>衆生</rb><rp>(</rp><rt>しゅじょう</rt><rp>)</rp></ruby>に<ruby><rb>正</rb><rp>(</rp><rt>まさ</rt><rp>)</rp></ruby>しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の<ruby><rb>正定</rb><rp>(</rp><rt>しょうじょう</rt><rp>)</rp></ruby>の因となる」(<ruby><rb>信巻</rb><rp>(</rp><rt>しんかん</rt><rp>)</rp></ruby>・本)といわれている。これを信心<ruby><rb>正因</rb><rp>(</rp><rt>しょういん</rt><rp>)</rp></ruby>という。すなわち如来<ruby><rb>回向</rb><rp>(</rp><rt>えこう</rt><rp>)</rp></ruby>の信心は<ruby><rb>真如</rb><rp>(</rp><rt>しんにょ</rt><rp>)</rp></ruby>にかない、無量の徳をもち、衆生を<ruby><rb>涅槃</rb><rp>(</rp><rt>ねはん</rt><rp>)</rp></ruby>のさとりに至らしめるすぐれた徳をもっているから大信心といわれ、また真実信といわれるのである。
| + | 「信巻」の冒頭には、「至心信楽の願」と第十八願がかかげられている。その願文には、[[至心]]・[[信楽]]・<kana>[[欲生]](よくしょう)</kana>という<kana>[[三心]](さんしん)</kana>が示されるが、[[天親|<kana>天親(てんじん)</kana><kana>菩薩(ぼさつ)</kana>]]は、本願の三心が疑いなく名号を信受する信楽の一心のほかにないことをあらわすために、『<kana>浄土論(じょうどろん)</kana>』に「[[一心]]」と示されたといわれている。すなわち[[至心]]とは、真実の心という意味であり、これは[[信楽]](信心)の体徳である。つまり衆生の信心は、阿弥陀仏の真実の心を体徳としているということである。[[欲生]]とは、阿弥陀仏が衆生を浄土に生れさせようと願いたもう大悲心であり、また衆生にとっては、必ず阿弥陀仏の浄土に[[往生]]できると浄土を<kana>期(ご)</kana>する心である。これは阿弥陀仏の本願を疑いなく[[信受]]した信楽のもついわれを別開したもので、[[信楽]]のほかにはない。このように[[至心]]も[[欲生]]も[[信楽]]の[[一心]]におさまることを「三心即一」といい、三心と誓われているが、本願の名号の[[いわれ]]を領受するのは信楽一心のほかにないことがわかる。この信心は、阿弥陀仏の[[本願招喚の勅命|本願<kana>招喚(しょうかん)</kana>の<kana>勅命(ちょくめい)</kana>]](衆生を招き喚ぶ声)に帰順する(したがう)心であるからこれを<kana>[[帰命]](きみょう)</kana>ともいうのである。 |
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− | 「信巻」の冒頭には、「至心信楽の願」と第十八願がかかげられている。その願文には、至心・信楽・<ruby><rb>欲生</rb><rp>(</rp><rt>よくしょう</rt><rp>)</rp></ruby>という<ruby><rb>三心</rb><rp>(</rp><rt>さんしん</rt><rp>)</rp></ruby>が示されるが、<ruby><rb>天親</rb><rp>(</rp><rt>てんじん</rt><rp>)</rp></ruby><ruby><rb>菩薩</rb><rp>(</rp><rt>ぼさつ</rt><rp>)</rp></ruby>は、本願の三心が疑いなく名号を信受する信楽の一心のほかにないことをあらわすために、『<ruby><rb>浄土論</rb><rp>(</rp><rt>じょうどろん</rt><rp>)</rp></ruby>』に「一心」と示されたといわれている。すなわち至心とは、真実の心という意味であり、これは信楽(信心)の体徳である。つまり衆生の信心は、阿弥陀仏の真実の心を体徳としているということである。欲生とは、阿弥陀仏が衆生を浄土に生れさせようと願いたもう大悲心であり、また衆生にとっては、必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を<ruby><rb>期</rb><rp>(</rp><rt>ご</rt><rp>)</rp></ruby>する心である。これは阿弥陀仏の本願を疑いなく信受した信楽のもついわれを別開したもので、信楽のほかにはない。このように至心も欲生も信楽の一心におさまることを「三心即一」といい、三心と誓われているが、本願の名号のいわれを領受するのは信楽一心のほかにないことがわかる。この信心は、阿弥陀仏の本願<ruby><rb>招喚</rb><rp>(</rp><rt>しょうかん</rt><rp>)</rp></ruby>の<ruby><rb>勅命</rb><rp>(</rp><rt>ちょくめい</rt><rp>)</rp></ruby>(衆生を招き喚ぶ声)に帰順する(したがう)心であるからこれを<ruby><rb>帰命</rb><rp>(</rp><rt>きみょう</rt><rp>)</rp></ruby>ともいうのである。
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2018年5月28日 (月) 22:36時点における最新版
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- 11 大信・真実信
大信とは、阿弥陀如来よりたまわった信心の徳をたたえた言葉である。信心とは信楽ともいわれ、無疑心のことであって、疑心なく本願の名号を領受した心をいう。それは大行たる名号のはたらきが衆生に正しく至り届いたすがたである。この信心は、「如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」(信巻・本 235) といわれている。これを信心正因という。すなわち如来回向の信心は真如にかない、無量の徳をもち、衆生を涅槃のさとりに至らしめるすぐれた徳をもっているから大信心といわれ、また真実信といわれるのである。
「信巻」の冒頭には、「至心信楽の願」と第十八願がかかげられている。その願文には、至心・信楽・欲生という三心が示されるが、天親菩薩は、本願の三心が疑いなく名号を信受する信楽の一心のほかにないことをあらわすために、『浄土論』に「一心」と示されたといわれている。すなわち至心とは、真実の心という意味であり、これは信楽(信心)の体徳である。つまり衆生の信心は、阿弥陀仏の真実の心を体徳としているということである。欲生とは、阿弥陀仏が衆生を浄土に生れさせようと願いたもう大悲心であり、また衆生にとっては、必ず阿弥陀仏の浄土に往生できると浄土を期する心である。これは阿弥陀仏の本願を疑いなく信受した信楽のもついわれを別開したもので、信楽のほかにはない。このように至心も欲生も信楽の一心におさまることを「三心即一」といい、三心と誓われているが、本願の名号のいわれを領受するのは信楽一心のほかにないことがわかる。この信心は、阿弥陀仏の本願招喚の勅命(衆生を招き喚ぶ声)に帰順する(したがう)心であるからこれを帰命ともいうのである。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。