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出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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:Ⅰ 心に保持して忘れない。心に思うこと。口に称えること。→[[憶念]]、[[正念]]、[[念仏]]、[[十念]]。
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:Ⅱ きわめて短い時間をいう。また、その単位。→[[一念]]。(浄土真宗辞典)
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心と、音符 今(とどめておく意→含(カン)から成る、心にかたくとめておく意をあらわす)から成る形声文字で、<br />
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:① おもう。考える。おもい。「懸念」「残念」
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などの意味がある。古来、文字の無い/文字を読めない時代から、おもいは音声によって表出するするものであり、仏教では身心だけでなく[[身口意]]の[[三業]]として[[口業]](語業)を重視した。これが となえる「[[可聞可称]]」の阿弥陀如来の仏法であった。→[[念仏]]<br />
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① (梵)のスムリティ(smṛti)の訳で、憶、憶念とも訳す。心所(心のはたらき)の名。かつて経験したことを明らかに記憶して忘れないこと(明記不忘の義)。倶舎宗では十大地法の一とし、唯識宗では五別境の一とする。勝れた力をもっているから五根、五力の一の数えて、念根、念力ともいう。念の反対を失念という。<br />
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また単に「思い」「想い」の意味に「念」の語を用いる。<br />
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{中略}<br />
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浄土教でいう十念については異説があり、或いは仏のすがたを念じ、または称名念仏するのに多想をまじえないでおもいをこらして一〇の憶念を続けることとし、或いは十声の称名念仏を指すとする。後の説は善導の主張する説で、源空や親鸞が受けついだもの。特に浄土教ではこれを強調する。 →[[十念]]<br />
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③ また極めて短い時間を念と称することがあり、一刹那或いは六〇刹那或いは九〇刹那などを一念とする。 →[[一念]](仏教学辞典)
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龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』には、
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:阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち[[必定]]に入りて[[阿耨多羅三藐三菩提]]を得」と。このゆゑにつねに[[憶念]]すべし。 ([[十住毘婆沙論 (七祖)#no10|十住毘婆沙論 P.15]])
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と、念と称が説かれている。<br />
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善導大師は以下の第十八願の文を、
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:設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法。
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::たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 ([[大経上#18gan|大経 P.18]])
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を『観経』下下品の、
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:此人苦逼 不遑念仏。善友告言 汝若不能念者 応称無量寿仏。如是 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。
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::この人、苦に逼(せ)められて念仏するに遑(いとま)あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。([[観経#下品下生|観経 P.115]])
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の「具足十念 称南無阿弥陀仏」の十念の語によって称名であるとされた。
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『礼讃』で、
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:若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
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::もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。([[往生礼讃 (七祖)#P--711|往生礼讃 P.711]])
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と、[[第十八願]]の「[[乃至十念]]」の念は十声の「称念」であるとされた。
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この『礼讃』の文は、古来から「第十八願取意の文」といわれている。法然聖人や御開山は、この善導大師の指示によって第十八願の「乃至十念」は十声の称名念仏(なんまんだぶ)であるとされたのであった。御開山は『教行証文類』の後序においてこの『往生礼讃』の文を法然聖人が自己の嗣法(法統を受け継ぐこと)の証として真影の銘に真筆をもって書いて下さったことを「決定往生の徴(しるし)なり」[[EXC:感佩|感佩]]しておられた。([[化巻末#no118|化巻 P.472]])<br />
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また法然聖人は『選択本願念仏集』[[選択本願念仏集 (七祖)#P--1212|P.1212]]で『観経』の下品下生の
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:「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く(令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪)」([[観経#P--115|観経 P.115]])
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の文と[[会通]]して「[[念声是一]]」(念と声はこれ一なり)[[選択本願念仏集_(七祖)#念声是一|(*)]]とされた。
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後年、蓮如さんは、念声是一の意味がわからないという門弟に、
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:おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口も心もひとつなり。 ([[一代記#no4|一代記 P.1232]])
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と「法相の表裡」(行は口称の語業で、外に表に顕れているから表とし、心念は内に潜むものだから裡という)で示されたのは卓見である。<br />
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御開山が「信巻」で、三心(三信)を決釈した信楽(信心)の結論として、
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:まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。'''真実の信心はかならず名号を具す'''。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。([[信巻本#no50|信巻 P.245]])
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とされた意と相応するのであった。ここでの名号とは[[可聞可称]]の口業の〔なんまんだぶ〕である。その意味において真宗の布教使の営業用である〔なんまんだぶ〕は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」なのである。声高に信心や、その信心における社会を叫ぶ真宗坊主の真贋を見分けるには、語業である〔なんまんだぶ〕の大行を修しているか否かである。自己のアイデンティティー(組織である特定集団への帰属意識)を忘れた坊主のなれの果てであるが、可哀想ではある。<br />
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:→[[念声是一]]
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:→[[信の一念]]
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:→[[行の一念]]
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:→[[行信一念について]]
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:→[[安心論題/信一念義]]
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:→[[トーク:一念多念証文#.E4.B8.83.E3.80.80.E4.BF.A1.E3.81.AE.E4.B8.80.E5.BF.B5|梯和上の『一念多念文意講讃』の信の一念から]]
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外部リンク<br />
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{{JDS|念}}
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*wikipedia [[JWP:念_(仏教)]]
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[[Category:追記]]
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[[Category:追記]] <p id="page-top">[[#|▲]]</p>

2024年10月28日 (月) 09:55時点における最新版

ねん

 心に保持して忘れないこと。 (安楽集 P.260)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

ねん 念

Ⅰ 心に保持して忘れない。心に思うこと。口に称えること。→憶念正念念仏十念
Ⅱ きわめて短い時間をいう。また、その単位。→一念。(浄土真宗辞典)
念(ねん)

心と、音符 今(とどめておく意→含(カン)から成る、心にかたくとめておく意をあらわす)から成る形声文字で、

① おもう。考える。おもい。「懸念」「残念」
② 心にとめて忘れない。ねんのため。「念書」「丹念」
③ よむ。となえる。「念仏」「念誦(ネンジュ)」 ➡

などの意味がある。古来、文字の無い/文字を読めない時代から、おもいは音声によって表出するするものであり、仏教では身心だけでなく身口意三業として口業(語業)を重視した。これが となえる「可聞可称」の阿弥陀如来の仏法であった。→念仏
法然聖人は「念声是一」とされ、念と声は同義であるとされた。→(一代記 P.1232)

念(ねん)

① (梵)のスムリティ(smṛti)の訳で、憶、憶念とも訳す。心所(心のはたらき)の名。かつて経験したことを明らかに記憶して忘れないこと(明記不忘の義)。倶舎宗では十大地法の一とし、唯識宗では五別境の一とする。勝れた力をもっているから五根、五力の一の数えて、念根、念力ともいう。念の反対を失念という。
また単に「思い」「想い」の意味に「念」の語を用いる。
{中略}
浄土教でいう十念については異説があり、或いは仏のすがたを念じ、または称名念仏するのに多想をまじえないでおもいをこらして一〇の憶念を続けることとし、或いは十声の称名念仏を指すとする。後の説は善導の主張する説で、源空や親鸞が受けついだもの。特に浄土教ではこれを強調する。 →十念

③ また極めて短い時間を念と称することがあり、一刹那或いは六〇刹那或いは九〇刹那などを一念とする。 →一念(仏教学辞典)

龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』には、

阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。 (十住毘婆沙論 P.15)

と、念と称が説かれている。
善導大師は以下の第十八願の文を、

設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法。
たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。 (大経 P.18)

を『観経』下下品の、

此人苦逼 不遑念仏。善友告言 汝若不能念者 応称無量寿仏。如是 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。
この人、苦に逼(せ)められて念仏するに遑(いとま)あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。(観経 P.115)

の「具足十念 称南無阿弥陀仏」の十念の語によって称名であるとされた。

『礼讃』で、

若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚。
もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。(往生礼讃 P.711)

と、第十八願の「乃至十念」の念は十声の「称念」であるとされた。 この『礼讃』の文は、古来から「第十八願取意の文」といわれている。法然聖人や御開山は、この善導大師の指示によって第十八願の「乃至十念」は十声の称名念仏(なんまんだぶ)であるとされたのであった。御開山は『教行証文類』の後序においてこの『往生礼讃』の文を法然聖人が自己の嗣法(法統を受け継ぐこと)の証として真影の銘に真筆をもって書いて下さったことを「決定往生の徴(しるし)なり」感佩しておられた。(化巻 P.472)
また法然聖人は『選択本願念仏集』P.1212で『観経』の下品下生の

「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く(令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪)」(観経 P.115)

の文と会通して「念声是一」(念と声はこれ一なり)(*)とされた。

後年、蓮如さんは、念声是一の意味がわからないという門弟に、

おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なりとこころうれば、口も心もひとつなり。 (一代記 P.1232)

と「法相の表裡」(行は口称の語業で、外に表に顕れているから表とし、心念は内に潜むものだから裡という)で示されたのは卓見である。
御開山が「信巻」で、三心(三信)を決釈した信楽(信心)の結論として、

まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。(信巻 P.245)

とされた意と相応するのであった。ここでの名号とは可聞可称の口業の〔なんまんだぶ〕である。その意味において真宗の布教使の営業用である〔なんまんだぶ〕は「名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」なのである。声高に信心や、その信心における社会を叫ぶ真宗坊主の真贋を見分けるには、語業である〔なんまんだぶ〕の大行を修しているか否かである。自己のアイデンティティー(組織である特定集団への帰属意識)を忘れた坊主のなれの果てであるが、可哀想ではある。

念声是一
信の一念
行の一念
行信一念について
安心論題/信一念義
梯和上の『一念多念文意講讃』の信の一念から

外部リンク

参照WEB版浄土宗大辞典の「念」の項目