「報化二土」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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+ | :還相の利益は利他の正意を顕すなり。([[証巻#P--335|証巻 P.335]]) | ||
+ | と、[[還相]]のはたらきを恵まれることは、阿弥陀仏が衆生を救おうとされる本願の本意をあらわしている。化土に往生した者は、この衆生済度の還相が出来ないことからも阿弥陀仏の本願の意に背いているのであった。 | ||
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2021年11月15日 (月) 18:45時点における最新版
ほうけ-にど
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
ほうけ-にど 報化二土
真実報土と方便化土のこと。道綽、善導は聖道諸師の解釈に対し、阿弥陀仏の浄土は報土であることをあきらかにした。源信はこの報土である阿弥陀仏の浄土をさらに報・化の二土に分けて示し、『往生要集』第十大門問答料簡(七註 1127)に、懐感の『群疑論』の釈によって、『菩薩処胎経』に説かれる懈慢界を雑修のものが往生する化の浄土 (報中の化) とし、報の浄土には専修のものが往生するとした。
この解釈を親鸞は「正信偈」において
と讃えている。 親鸞は以上のような釈義をうけて、真の仏土 (真実報土) と仮の仏土 (方便化土) を示し、真仮あわせて大悲の願海に酬報した報土であるとしている。「真仏土巻」には
- 「すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」(註 372)
等とある。(浄土真宗辞典)
報土と化土という表現は、報という土と化という土の二つの浄土があるのではなく、化土は報土中の化土といふ特殊な浄土であった。いわゆる、報・応・化の土ではなく「報中の化土」であり、自力の機感に応じて化現しているものだから実体はない。そこは、深く自らの仏智疑惑心を悔責する場であった。もちろんそこで真実の仏智に気が付ば真実報土に入る。阿弥陀仏の真実心によって酬報された土は真実浄土であるから、阿弥陀仏の本意(随自意)である第十八願を仰信する者は報土に往生する。しかし阿弥陀仏の不本意(随他意)な道をいく者は、発菩提心 修諸功徳(菩提心を発し、もろもろの功徳を修して)〔第十九願〕や、植諸徳本 至心廻向(もろもろの徳本を植ゑて、至心回向して)〔第二十願〕の自力の諸行を死ぬまで実践しなければ往生できないのが化土であるのはいうまでもない。
御開山は『誡疑讃』(正像 P.610)で、
(60)
{…略…}
(72)
- 七宝の宮殿にうまれては
- 五百歳のとしをへて
- 三宝を見聞せざるゆゑ
- 有情利益はさらになし
{…略…}
(82)
- 仏智うたがふつみふかし
- この心おもひしるならば
- くゆるこころをむねとして
- 仏智の不思議をたのむべし
- 以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせるなり。(正像 P.614)
などと、化土に往生した者は、五百歳まで牢獄に閉じ込められ還相の利他行(有情利益)を出来ないことを戒められておられた。「証巻」末には、阿弥陀仏の本願力による還相の回向を、
- 還相の利益は利他の正意を顕すなり。(証巻 P.335)
と、還相のはたらきを恵まれることは、阿弥陀仏が衆生を救おうとされる本願の本意をあらわしている。化土に往生した者は、この衆生済度の還相が出来ないことからも阿弥陀仏の本願の意に背いているのであった。