「補註10」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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その名義である[[光明智相]]とは、衆生の[[無明]](むみょう)を破り、往生成仏の[[志願]]を満たす<kana>[[力用]](りきゆう)</kana>をもつ名号であるということで、この名号のもつ破闇満願の[[力用]]こそ衆生を涅槃に進趣せしめる行としての徳義である。 | その名義である[[光明智相]]とは、衆生の[[無明]](むみょう)を破り、往生成仏の[[志願]]を満たす<kana>[[力用]](りきゆう)</kana>をもつ名号であるということで、この名号のもつ破闇満願の[[力用]]こそ衆生を涅槃に進趣せしめる行としての徳義である。 | ||
− | 「無碍光如来の名を称するなり」([[行巻#P--141|141]]) と行体を指して称名を大行であるといわれているが、称えたはたらきによって行となるのではなく、称えられている[[名号]]に大行としての徳をもち、この名義にかなって称えているから[[称名]]また[[大行]]といわれる徳があると、<kana>[[能所]](のうじょ)</kana><kana>不二(ふに)</kana> | + | 「無碍光如来の名を称するなり」([[行巻#P--141|141]]) と行体を指して称名を大行であるといわれているが、称えたはたらきによって行となるのではなく、称えられている[[名号]]に大行としての徳をもち、この名義にかなって称えているから[[称名]]また[[大行]]といわれる徳があると、<kana>[[能所]](のうじょ)</kana><kana>不二(ふに)</kana>の大行の義趣<ref>物事の根本的な意味。意義</ref>を示されたのが出体出願の釈である。 |
もともと、[[信心]]、[[称名]]といっても[[名号]]の活動相のほかになく、衆生は、称えているまま能称を忘れて[[無碍光如来]]の名義を聞き、[[本願招喚の勅命|本願招喚(しょうかん)の<kana>勅命(ちょくめい)</kana>]]を<kana>[[聞信]](もんしん)</kana>しているのである。それを「称名即名号」、「信心即名号」、「称名即信心」といい、このように信心、称名の全体が名号大行の活動相であるというのが「行巻」のあらわすところである。「<kana>信巻(しんかん)</kana>」は、この法体(ほったい)大行が衆生の上にとどいて<kana>[[大信]](だいしん)</kana>となり、衆生の往生成仏の<kana>[[正因]](しょういん)</kana>となっていくという機受の要義を顕すのであって、[[行]]と[[信]]は、[[法]]と[[機]]の関係にあるのである。 | もともと、[[信心]]、[[称名]]といっても[[名号]]の活動相のほかになく、衆生は、称えているまま能称を忘れて[[無碍光如来]]の名義を聞き、[[本願招喚の勅命|本願招喚(しょうかん)の<kana>勅命(ちょくめい)</kana>]]を<kana>[[聞信]](もんしん)</kana>しているのである。それを「称名即名号」、「信心即名号」、「称名即信心」といい、このように信心、称名の全体が名号大行の活動相であるというのが「行巻」のあらわすところである。「<kana>信巻(しんかん)</kana>」は、この法体(ほったい)大行が衆生の上にとどいて<kana>[[大信]](だいしん)</kana>となり、衆生の往生成仏の<kana>[[正因]](しょういん)</kana>となっていくという機受の要義を顕すのであって、[[行]]と[[信]]は、[[法]]と[[機]]の関係にあるのである。 | ||
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2018年5月28日 (月) 22:22時点における版
補 註 |
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阿弥陀仏 |
往生・真実証・浄土 |
機・衆生 |
具縛の凡愚・屠沽の下類 |
業・宿業 |
正定聚 |
信の一念・聞 |
真実教 |
旃陀羅 |
大行・真実行 |
大信・真実信 |
他力・本願力回向 |
同朋・同行 |
女人・根欠・五障三従 |
方便・隠顕 |
菩薩 |
本願 |
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10 大行・真実行
大行とは、第十七願に誓われた諸仏
行とは、一般に教・行・証という場合の行は、梵語のチャリヤー(caryā)の漢訳で、菩提、涅槃に至るための行為を意味する。『
このように大行とは、真如にかない、無量の徳をもち、
「行巻」の
その名義である光明智相とは、衆生の無明(むみょう)を破り、往生成仏の志願を満たす
「無碍光如来の名を称するなり」(141) と行体を指して称名を大行であるといわれているが、称えたはたらきによって行となるのではなく、称えられている名号に大行としての徳をもち、この名義にかなって称えているから称名また大行といわれる徳があると、
もともと、信心、称名といっても名号の活動相のほかになく、衆生は、称えているまま能称を忘れて無碍光如来の名義を聞き、本願招喚(しょうかん)の
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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- ↑ 物事の根本的な意味。意義