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「現生正定聚」の版間の差分

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::それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。  
 
::それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。  
 
の、浄土で正定聚に住するという文を、
 
の、浄土で正定聚に住するという文を、
::それ衆生あつて、かの国に{{DotUL|生れんとするものは}}、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり。
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::それ衆生あつて、かの国に{{DotUL|生れんとするものは}}、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり。 ([[一多#P--680|一多 P.680]])
 
と、「生れんとするものは」と訓じられて現生に正定聚に住す意とされた。
 
と、「生れんとするものは」と訓じられて現生に正定聚に住す意とされた。
 
:→[[剋念して…入る]]
 
:→[[剋念して…入る]]

2024年7月18日 (木) 05:20時点における最新版

げんしょう-しょうじょうじゅ


 正定聚とは、必ずさとりを開いて仏になることが(まさ)しくまっているともがら()のこと。一般には菩薩五十二位の修道階位の「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」のうちの十地の初地である歓喜地を正定聚という。
以下の画像は、聖道門の菩薩の階位である『菩薩瓔珞本業経』の五十二位説を示す。

『菩薩瓔珞本業経』の菩薩の階位

正定聚とは、聖道門仏教では上図のように菩薩の修道の階位を表していた。この正定聚邪定聚不定聚の三定聚説を示す語を、御開山は、真仮分判の名目として転用して用いられた。つまり「第十八願」の行信に心が定まっている「弘願」の「」を正定聚、「第十九願」の「要門」の法義である諸行往生自力の行信に定まっている邪定聚とされた。そして「第二十願」の自力念仏の「真門」を行じているを、正定聚へ転入するか邪定聚へ退転するか定まっていないから不定聚とよばれた。称えている法(なんまんだぶ)は真なのだが行じている機が仮(自力)であるから不定になるのである。→「願海真仮論
この正定聚の意を、『一念多念証文』で、

この二尊の御のりをみたてまつるに、「すなはち往生す」とのたまへるは、正定聚の位に定まるを「不退転に住す」とはのたまへるなり。この位に定まりぬれば、かならず無上大涅槃にいたるべき身となるがゆゑに、「等正覚を成る」とも説き、「阿毘跋致にいたる」とも、「阿惟越致にいたる」とも説きたまふ。「即時入必定」とも申すなり。 (一多 P.680)

と、浄土真宗に於ける正定聚のことを不退転とも、等正覚とも、阿毘跋致とも、阿惟越致とも、必定ともいうと正定聚の異名を挙げておられた。→便同弥勒

そもそも浄土教では『無量寿経』の第十一願に、

設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚。
たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。(大経 P.17)

と「国中の人・天、定聚に住し」とあり、正定聚は浄土に往生して得られる利益とされていた。
御開山は、この彼土正定聚を龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の意を承けて、

しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(行巻 P.186)

と「歓喜地」(菩薩の階位の第四十一位) を示す語を引文され、真実の行信の徳を示し、真実の行信を獲れば歓喜が多いから、これを歓喜地と名づくとされた。また『御消息』では「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す」(御消息 P.735) と、摂取不捨の故に現生で正定聚に住すとされた。→即時入必定 →入正定聚之数

御開山は『十住毘婆沙論』「入初地品」、

凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。 (行巻 P.147)

と、初地に入る歓喜地に言及されている。そして「地相品」を引き、

「問うていはく、初歓喜地の菩薩、この地のなかにありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳を得ることをなすがゆゑに歓喜を地とす。法を歓喜すべし。なにをもつて歓喜するやと。
 答へていはく、〈つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆゑに歓喜多し〉と。かくのごときらの歓喜の因縁のゆゑに、菩薩、初地のなかにありて心に歓喜多し。(行巻 P.147)

と「必定して希有の行」(大行)」をあらわされておられる。このように歓喜という語に着目されておられるのは「本願成就文」の、

諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。至心廻向。願生彼国、即得往生、住不退転。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(大経 P.41)

の、阿弥陀仏の「至心に回向したまへる」信心を歓喜し「諸仏の大法を念ず」ることは「歓喜地」と同じであるとみられたからであろう。
また「信巻」で『華厳経』入法界品の結論である、

聞此法歓喜 信心無疑者
速成無上道。与諸如来等。

の偈文を引かれる。この偈文は通常は「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑いなければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」と読むのだが、御開山は、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」(信巻 P.237)と訓じられ、回向される如来の信心を歓喜する意に転じておられた。
なお、御開山は『一念多念文意』で「第十一願成就文」、

其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚。
それ衆生ありてかの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかん。かの仏国のなかにはもろもろの邪聚および不定聚なければなり。

の、浄土で正定聚に住するという文を、

それ衆生あつて、かの国に生れんとするものは、みなことごとく正定の聚に住す。ゆゑはいかんとなれば、かの仏国のうちには、もろもろの邪聚および不定聚はなければなり。 (一多 P.680)

と、「生れんとするものは」と訓じられて現生に正定聚に住す意とされた。

剋念して…入る
→「六三法門
歓喜地
正定聚
不退転
必定
阿惟越致
阿毘跋致
摂取不捨
第一希有の行