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「唯信独達」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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[[浄土真宗]]の[[所依]]である『大経』には根本の願である「[[第十八願]]」に、至心・信楽。欲生我国といふ[[三心]]が誓われている。この[[三心]](信)を「三心字訓釈」に、
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[[浄土真宗]]の[[所依]]の[[EXC:経典|経典]]である本願を説く『大経』には根本の願である「[[第十八願]]」に、至心・信楽。欲生我国といふ[[三心]]が誓われている。この[[三心]](信)を「三心字訓釈」に、
 
:「弥陀如来、[[三心]]を<kana>発(おこ)</kana>したまふといへども、[[涅槃]]の真因はただ[[信心]]をもつてす」(信巻 P.229)
 
:「弥陀如来、[[三心]]を<kana>発(おこ)</kana>したまふといへども、[[涅槃]]の真因はただ[[信心]]をもつてす」(信巻 P.229)
 
とあるように、[[阿弥陀如来]]の[[回向]]したまえる'''「[[至心]]」'''([[智慧]])と'''[[欲生]]'''([[慈悲]])を成一した'''「[[信楽]]」'''である[[信心]]が、[[涅槃]]の信因(成仏)であることを'''<kana>唯(ただ)</kana>''' '''信'''のみといふ'''独'''特の、[[涅槃]]の真因の法門に通'''達'''された、[[御開山]]の[[EXC:法門|法門]]を、「唯信独達」といふ。その[[体]]は「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」(信巻 P.232)といふ、<kana>南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)</kana>であった。ともあれ近世の浄土真宗では、称名を重視する鎮西浄土宗との差別化をはかるため[[信心]]を強調してきたのだが、御開山は主著を『顕浄土真実教行証文類』と[[教行証]]の[[三法]]で顕されたのであって、(なんまんだぶと称える)「[[行]]」を抜きにした浄土真宗はありえないのであった。<br />
 
とあるように、[[阿弥陀如来]]の[[回向]]したまえる'''「[[至心]]」'''([[智慧]])と'''[[欲生]]'''([[慈悲]])を成一した'''「[[信楽]]」'''である[[信心]]が、[[涅槃]]の信因(成仏)であることを'''<kana>唯(ただ)</kana>''' '''信'''のみといふ'''独'''特の、[[涅槃]]の真因の法門に通'''達'''された、[[御開山]]の[[EXC:法門|法門]]を、「唯信独達」といふ。その[[体]]は「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」(信巻 P.232)といふ、<kana>南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)</kana>であった。ともあれ近世の浄土真宗では、称名を重視する鎮西浄土宗との差別化をはかるため[[信心]]を強調してきたのだが、御開山は主著を『顕浄土真実教行証文類』と[[教行証]]の[[三法]]で顕されたのであって、(なんまんだぶと称える)「[[行]]」を抜きにした浄土真宗はありえないのであった。<br />

2019年11月30日 (土) 01:08時点における版

ゆいしん-どくたつ。

浄土真宗所依経典である本願を説く『大経』には根本の願である「第十八願」に、至心・信楽。欲生我国といふ三心が誓われている。この三心(信)を「三心字訓釈」に、

「弥陀如来、三心(おこ)したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす」(信巻 P.229)

とあるように、阿弥陀如来回向したまえる至心(智慧)と欲生(慈悲)を成一した信楽である信心が、涅槃の信因(成仏)であることを(ただ) のみといふ特の、涅槃の真因の法門に通された、御開山法門を、「唯信独達」といふ。そのは「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり」(信巻 P.232)といふ、南無阿弥陀仏(なんまんだぶ)であった。ともあれ近世の浄土真宗では、称名を重視する鎮西浄土宗との差別化をはかるため信心を強調してきたのだが、御開山は主著を『顕浄土真実教行証文類』と教行証三法で顕されたのであって、(なんまんだぶと称える)「」を抜きにした浄土真宗はありえないのであった。
ただ、なんまんだぶと称えることを念仏成仏の正因として領解することを、「信心正因」とも「唯信独達」ともいふのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

信心正因
行信不離
三法
行信
三法立題
行信一念について