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可聞可称

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2020年2月27日 (木) 22:30時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

かもん-かしょう

 南無阿弥陀仏は、聞くことができて称えることができるという意。とは「」でありとは「」である。→聞即信

御開山は、『大経』往覲偈(おうごん-げ)の文(大経 P.46)を『尊号真像銘文』で、

其仏本願力(ごぶつ-ほんがんりき) 聞名欲往生(もんみょう-よくおうじょう) 皆悉到彼国(かいしつ-とうひこく) 自致不退転(じち-ふたいてん)
「其仏本願力」といふは、弥陀の本願力と申すなり。「聞名欲往生」といふは、「聞」といふは如来のちかひの御なを信ずと申すなり、「欲往生」といふは安楽浄刹に生れんとおもへとなり。(尊号 P.645)

とされておられた。また「行巻」(行巻 P.142)、「信巻」(信巻 P.250) でもこの文を引文されておられる。

聞即信
其仏本願力…
聞名往生
名号度生

法然聖人は、なんまんだぶと、称えて聞こえる可聞可称の名号法を「声につきて往生の思いをなすべし」といわれていた。名というものは、耳に聞くものであり、口に称えるものであるからである。御開山が「六字釈」で「しかれば南無の言は帰命なり」とされ「ここをもつて帰命本願招喚の勅命なり」(行巻 P.170) と「浄土へ来たれと(まね)()ぶ」招喚とされた所以である。→
この、なんまんだぶと称え聞こえることを、本願招喚の勅命とされた根源は以下の法然聖人の示唆であった。

ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。 →(『和語灯録』-「往生大要鈔」)

「隠/顕」

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。 往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。 →(『和語灯録』-「浄土宗略抄」)


わか心のわろけれは往生はかなはじなとこそは、申あひて候めれ。そのうたかひの、やがて往生せぬ心にて候けるものを、たた心のよきわろきをも返りみず、罪のかろきをもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへて、声につきて決定往生のおもひをなすへし。その決定の心によりて、即往生の業はさだまる也。かく心うればうたがひなし。往生は不定とおもへは、やかて不定也、一定とおもへは、一定する事にて候也。 →(『拾遺語灯録』-「御消息」)


しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。 →(『西方指南抄』「上野大胡太郎実秀への御返事」)