▲
7 信の一念・聞
親鸞聖人は『大経』(下 41)の第十八願成就文に、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。(中略)すなはち往生を得、不退転に住せん」と説かれた「乃至一念」を信の一念とみなし、「信巻」(末 250) には、「それ真実の信楽を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」と釈し、また『一多証文』には、「一念といふは信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり」(678) と釈されている。
つまり、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心が開け発った最初の時を信の一念(時剋の一念)というのである。そのとき同時に衆生は、かならず往生することのできる身に定まるという利益を与えられる。そのことを、「すなはち往生することを得て、不退転に住せん」といわれたのであって、このことを信益同時という。このように、信の一念に衆生は必ず往生することができる身に定まるということによって、信心一つで往生が定まるという唯信正因の法義が確立する。そしてまた、救いはまったく如来の御はからいによって成就するのであって、衆生のはからいはまったくかかわらないという絶対他力のいわれがあきらかになる。
信の一念について、また「信巻」(末 251) には、「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ」とある。これを前の時剋の一念に対して信相の一念という。信相とは、信心のすがたという意味であり、阿弥陀仏の救済をふたごころなく疑いなく信ずることをまた一念というのである。
なお「信巻」(末 251) には、『大経』(下)の「聞其名号 (その名号を聞きて)」の「聞」を釈して、「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」といい、名号のいわれを正しく聞き開いたことが信心であるといわれている。これを「聞即信」といい、これによって他力回向の信心は名号すなわち如来の招喚の勅命を聞いて成就するものであることがあきらかになる。
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。