讃嘆門
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さんだんもん
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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『浄土論』の阿弥陀仏を念ずる五念門の偈頌、
- 世尊我一心 帰命尽十方
- 無礙光如来 願生安楽国
の「帰命」を礼拝門、「帰命尽十方無礙光如来」を讃歎門、「願生安楽国」を作願門といふ讃嘆門をいふ。 御開山は、この五念門(五つの念仏の法門) の「讃歎門」が第十八願の「わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」を天親菩薩が顕わされた偈であるとみられた。
- いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。(浄土論 P.33)
この「口業をもつて讃歎したてまつる」の文を釈した曇鸞大師の『論註』「讃嘆門」には、
と、口業をもって「かの如来の名を称す」することは「如実修行相応」の修行の「行」であるとされていた。
この『浄土論』『浄土論註』の指示によって善導大師・法然聖人の力説した称名正定業説は、天親菩薩の『浄土論』の「口業をもつて讃歎したてまつる」讃嘆門によって往生浄土の「行」であることを『浄土論』によって完全に裏付けられたのである。
そして、
と、されて「第十七願」の「ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ(不悉咨嗟 称我名者 不取正覚)」に、第十八願の「乃至十念」が称名である根拠をみておられた。「第十七願」は、十方世界の無量の諸仏にわが名を称揚されようという願であるのだが、この諸仏の「不悉咨嗟 称我名者」は衆生に〔なんまんだぶ〕を称える「教」と「法」と「行」を告げしめる願であるとみられたのであった。それを第十七願に「往相回向之願」「選択称名の願」と表挙された意であり、阿弥陀仏の「第十八願」の乃至十念の称名が第十七願の諸仏の教位によってあらわされている大行であるとされたのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
- →讃嘆