「現生十益」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2019年8月15日 (木) 10:47時点における版
御開山は「信巻」で真実信心の行人が獲る現生での利益を十種挙げておられていた。
- 金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つには冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり。(信巻 P.251)
「現生十種の利益」は聖典セミナー『教行信証』梯實圓著に詳しいのだが以下は行信教校のHPから転載した。→「現生十益」平成十八年度専精舎論題」
- 1.冥衆護持の益
- 2.至徳具足の益
- 3.転悪成善の益
- 4.諸仏護念の益
- 5.諸仏称讃の益
- 6.心光常護の益
- 7.心多歓喜の益
- 上に挙げた、心光常護の益を受け、諸仏称讃の益にあずかっているものの心には、何者にも換え難い利益を得た喜びがある。それを宗祖は『十住毘婆沙論』によって「しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく」(行巻 P.186)といわれていた。
- 8.知恩報徳の益
- 知恩報徳とは、阿弥陀仏の恵みに気づき、その恩徳を報謝することであるが、そこには自ずから阿弥陀仏の本願を教授された釈迦・諸仏、さらには祖師方の恩徳を報謝するという意味も含まれている。その報恩の具体的なありさまは、何よりも如来より賜った本願の念仏を相続する自信であり、如来の教法を人に伝える教人信である。
- 9.常行大悲の益
- それは道綽禅師の『安楽集』下巻に引用された『大悲経』に、阿弥陀仏の大悲を人々に伝え、念仏を勧めるものは「大悲を行ずる人」(信巻 P.260) と讃えられていることから採られた。それは、如来の大悲が、念仏者を拠点として、煩悩の大地に行ぜられていることを意味していた。真宗における伝道の原点を顕している。
- 10.正定聚に入る益
- 従来は彼土の益と考えられていた正定聚を、親鸞聖人が現生の利益であると領解されたのには、二つの理由が考えられる。その一つは信心の行者は、現生に於て摂取不捨の利益に預かっているからである、『親鸞聖人御消息』第一条に、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらいに住す」(『註釈版聖典』七三五頁)といわれたものがそれである。摂取不捨の利益に預かれば、不退転の位につけしめられる。それは必ず往生成仏することに決定している正定聚の位を意味していたからである。
- 第二は、如來回向の信心は凡心ではなく不可思議の仏智であるから、信心の行者は、無漏智をそなえた正定聚の機といわれるのである。言い替えれば凡夫でありながら聖者の徳を持つということになる。『入出二門偈』に「煩悩を具足せる凡夫人、仏願力によりて信を獲得す。この人はすなはち凡数の摂にあらず、これは人中の分陀利華なり」(註釈版聖典、五五〇頁)といわれているように、信心の行者は、凡夫の数には入らない。すなわち、聖者の部類に属するといわれるのである。こうして信心の行者は、煩悩具足の凡夫の身でありながら、頂いている信心の徳義から言えば聖者の仲間にいれしめられているから正定聚の機というのである。こうして信心の行者は、すでに智慧と慈悲を中心とした如来の秩序を真実と受け容れ、如来の秩序下におかれているものということができる。それを如来に摂取されているともいい、正定聚に入れしめられているともいわれたのである。 →「現生十益」平成十八年度専精舎論題」
- 従来は彼土の益と考えられていた正定聚を、親鸞聖人が現生の利益であると領解されたのには、二つの理由が考えられる。その一つは信心の行者は、現生に於て摂取不捨の利益に預かっているからである、『親鸞聖人御消息』第一条に、「真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚のくらいに住す」(『註釈版聖典』七三五頁)といわれたものがそれである。摂取不捨の利益に預かれば、不退転の位につけしめられる。それは必ず往生成仏することに決定している正定聚の位を意味していたからである。