「本願成就文」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2024年7月4日 (木) 16:49時点における版
ほんがん-じょうじゅもん
阿弥陀如来の「第十八願」が林遊(衆生の中の一人である自号名[1])の上に成就していることを、釈尊が衆生に告げられる文であるから「本願成就文」と呼ぶ[2]。
『大経』には、
- 仏、阿難に告げたまはく、「法蔵菩薩、いますでに成仏して、現に西方にまします。ここを去ること十万億刹なり。その仏の世界をば名づけて安楽といふ」と。
- 阿難、また問ひたてまつる、「その仏、成道したまひしよりこのかた、いくばくの時を経たまへりとやせん」と。 仏のたまはく、「成仏よりこのかた、おほよそ十劫を歴たまへり。(大経上#弥陀果徳)
と、十劫の昔に法蔵菩薩は阿弥陀仏に成られたとある。いわゆる法蔵菩薩の四十八願の「設我得仏……不取正覚」が十劫の昔に成就したといふのである。
しかして、御開山は、林遊の上に本願が成就する時剋の一念(信心の開け発おこった最初の時)を「本願成就」とされたのである。それが「あらゆる衆生」の内の林遊であった。
本願成就文には、
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(信巻 P.250)
とあり、三心釈の欲生心釈には、
とあるように本願成就文には至心回向したまふ「欲生心成就」の意味もあった。いわゆる「欲生とは信楽の持つ意味を別に開いた」義別であった。これを願往生心とも願作仏心ともいふ。
「本願成就文」とは、林遊の上に、可聞可称のなんまんだぶを称え聞いて、阿弥陀如来の本願が成就した時剋をあらわす経文であった。本願成就とは林遊の上に本願(第十八願:わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ)が信一念として成就したことを示す文であった。ありがたいこっちゃなあ。
阿弥陀如来の第十八願、
が成就していることを、釈尊が衆生に告げられる文であるから「本願成就文」と呼ぶ。
第十八願成就文は、第十七願成就文、
- 原文:
十方恒沙諸仏如来 、皆共讃歎 、無量寿仏威神功徳不可思議 。- 読下し:
- 十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃歎したまふ。(大経 P.41)
の諸仏讃嘆(名号讃嘆)を享(う)けた「あらゆる衆生、その名号を聞きて(諸有衆生 聞其名号)」に望めて、
- 原文:
諸有衆生 、聞其名号 、信心歓喜 、乃至一念 、至心回向 、願生彼国 、即得往生 、住不退転 、唯除五逆 誹謗正法 。
とあり、この成就文を通常の漢文として読めば『論註』のように、
と読むべきであろう。法然聖人はこの乃至一念 (すなわち一念に至るまで) を行の一念 (一声のなんまんだぶ) とみておられた。ところで御開山は、
- 御開山の読下し:
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(信巻 P.250)
と「至心に回向したまへり」と訓じられて、衆生から仏への回向ではなく、仏から衆生への回向であると読まれた。それは本願力回向の宗義をこの経文に読みとられたからであった。 阿弥陀仏より回向された信心の智慧によって成就文の経文を読み取られたのである。
御開山は『無量寿経』の異訳である『無量寿如来会』の成就文、
の浄信の語によって一念は信の一念であるとみられたのであった。
法然聖人が示された、なんまんだぶは「たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる」(選択集 P.1197) という教示により、衆生の側からの不回向とは阿弥陀如来からの回向であるとされたのである。法然聖人が浄土宗の所依の三経一論として挙げられながら言及されなかった『浄土論』『浄土論註』の本願力回向の語の示唆によって、法然聖人の深意を展開された本願力回向の浄土真宗の法義であった。まさに善導・法然の教学を包み込む、あらゆる衆生を仏陀のさとりの世界へ趣(おもむ)かせる「誓願一仏乗」の本願力回向の仏法であったのである。そして、それが、なんまんだぶを「行」とする、あらゆる衆生をさとりに趣かせる「選択本願は浄土真宗なり、定散二善は方便仮門なり。浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(御消息 P.735) という大乗仏教の本源であった。