「行信」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2023年9月4日 (月) 22:48時点における版
ぎょうしん 行信
さとりを得るための行と信をいう。浄土真宗では、第十七願で誓われた行と第十八願で誓われた信とをいう。「行巻」には
とある。この行と信とが阿弥陀仏より回向されることを、「信巻」に
- 「しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし」 (註 229)
と述べられている。なお、方便の行信とは第十九・二十願で示された行と信をいい、「化身土巻」には
- 「これによりて方便の願を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり」「いま方便仮門の誓願について、行あり信あり」(註 397)
ぎょう-しん 行信
真宗の用語。一般仏教では心行というのにあたる。普通には、「行」とはさとりに至るための実践、「信」とは信心を意味するが、真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めないから、固有の解釈をする。
即ち、行をさとりにおもむかせるものという意に解して、衆生をして信じさせ称えさせる根源となっている如来の救済力の具体的な現れとしての名号のことを「行」、その名号のはたらきによって起こされた信心のことを「信」といい、その信心にもよおされて衆生が称える念仏のことも「行」という。
この行・信はいずれも如来のはたらきであるから大行・大信といい、衆生にとっては信がさとりに至る唯一の原因であるとする。 (仏教学辞典)
梯實圓和上は、 行と信は、法と機の関係として見ていくのが親鸞聖人であった、といわれていた。
そもそも「行文類」で顕された本願の念仏(名号)は、万人を救うて浄土にあらしめるべく如来が選択された無上功徳の行法であるから、正定の業といわれ、浄土に往生すべき能生の因ともいわれている。そしてそれは第十七願に誓われているように、十方の諸仏の讃嘆をとおして、十方世界の衆生にひとしく回向されている普遍の法であった。
それに対して信心とは、「如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」 (一多 P.678) といわれているように、疑いをまじえずに本願の名号を領受している状態を表していた。すなわち信心は、法を機の上に領受した機受をあらわす言葉であった。いいかえれば大行が万人を救う普遍の行法をあらわしているのに対して、大信はその法が個人のなかに実現して、一人一人の成仏の因種となっていることをあらわしているのである。このように行と信は、法と機の関係として見ていくのが親鸞聖人であった。それゆえ大行を教法の成就を誓う第十七願で顕し、大信を機受を誓う第十八願で顕されるのである。すでに述べたように『行文類』の一乗海釈のなかで、本願の念仏を絶対不二の教法とよび、本願の信心を絶対不二の機とよばれているのは、念仏と信心は、切り離すことのできない一乗の法と機であるとみられていたからである。(梯實圓『教行信証の宗教構造』 p.265)
「総序」には
とあり、 「行巻」の「正信念仏偈」の序に、
と、第十七願の真実の行と第十八願の真実の信の「行信」とある。方便の行信は「化巻」で説かれている。
御開山は行について『大経』流通分の弥勒付属の文、
にある乃至一念の文に拠って「行巻」で一声が無上の功徳である「行一念釈」をされ、信については本願成就文、
- あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん。(大経 P.41)
の、乃至一念の文に拠って「信巻」で信心が初めて開発する時の「信一念釈」をされた。これを本願力回向の大行・大信とされた。
大行・大信とは、「行巻」冒頭に、
と大行を〔なんまんだぶ〕を称えることであると定義されている[1]。阿弥陀如来から回向される行と信であるから、大行、大信というのである。
行信とは、第十八願の「乃至十念」を諸仏の教位として、第十七願で誓われた称名の「大行」と第十八願で誓われた三心即一の「大信」をいう。→三一問答
「総序」には
とあり 「行巻」の「正信念仏偈」偈前の文には、
とある。この行と信は阿弥陀如来より回向された行信であることを、「信巻」に、
- しかれば、もしは行、もしは信、一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまふところにあらざることあることなし。 (信巻 P.229)
と述べられている。行信とは『歎異鈔』に「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」(歎異抄 P.839)といわれているように、「本願を信じ」という「信」と「念仏を申さば」という「行」の実に単純明快な理論である。この行信を学問的に考究することを「行信論」といい、三業惑乱以後の本派の教学はこの行信論が「行信半学」というぐらい大きな位置を占めている。例すれば、「能行」とか「所行」のような論議が展開されるのだが、部派仏教の「阿毘達磨論」のような煩瑣な教学に陥り、愚直に、なんまんだぶを称えるご法義を疎外するおそれもあるかもである。
法然聖人は、第十八願と第十七願の関係を『三部経大意』で、
- つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八願の願これなり。
- その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。(三部経大意P.784)
とされておられた。御開山はこの意を承けられて、第十八願の「乃至十念」を第十七願の「
- ↑ なんまんだぶ〔南无阿弥陀仏〕はインド語の発音で、シナでは漢語に意訳して、帰命尽十方無碍光如来と、智慧の光をもって十方世界を照らして、さわりなく衆生を救いたもう如来という意に翻訳した。