「七高僧」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
23行目: | 23行目: | ||
#[[善導]]は 「[[古今楷定]]」は終南の功」。善導大師当時や、それ以前の[[聖道門]]の諸師の『観経』の解釈をあらためて、『観経』は凡夫の教えであることを示されたことを 「[[古今楷定]]」といふ。終南山悟真寺に住しておられたから終南といふ。 | #[[善導]]は 「[[古今楷定]]」は終南の功」。善導大師当時や、それ以前の[[聖道門]]の諸師の『観経』の解釈をあらためて、『観経』は凡夫の教えであることを示されたことを 「[[古今楷定]]」といふ。終南山悟真寺に住しておられたから終南といふ。 | ||
#[[源信]]は 「報化弁立は横川の功」。源信僧都は、往生すべき浄土の[[報土]]と[[化土]]を顕にされた。横川の恵心院に住しておられたので横川といふ。 | #[[源信]]は 「報化弁立は横川の功」。源信僧都は、往生すべき浄土の[[報土]]と[[化土]]を顕にされた。横川の恵心院に住しておられたので横川といふ。 | ||
− | #[[法然]]は 「弘興選択は吉水の功」。法然聖人は「選択本願念仏」の教えを弘く興(おこ)された。これは往生の[[浄土宗]] | + | #[[法然]]は 「弘興選択は吉水の功」。法然聖人は「選択本願念仏」の教えを弘く興(おこ)された。これは往生の[[浄土宗]]の立教開宗であった。法然聖人が比叡山を下りて、西山広谷を経て草庵を結んだ地を「吉水」といふ。 |
<!-- | <!-- | ||
これが、 | これが、 |
2024年7月2日 (火) 08:46時点における版
しちこうそう
七祖ともいう。親鸞聖人が浄土教の祖師と定め尊崇されたインド・中国・日本の七人の高僧。
インドの
七高祖(しちこうそ)
七高僧のこと。(一代記 P.1235)
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
しちこうそう 七高僧
親鸞が真宗の祖師と定め尊崇した7人の高僧。七祖ともいう。インドの龍樹・天親(てんじん)、 中国の曇鸞・道綽(どうしゃく)・善導、 日本の源信・法然 (源空) をいう。浄土真宗では七高僧が選定された理由に、 ①自身が願生者であること、 ②撰述された聖典があること、 ③本願力の救いが強調されていることの3種を挙げる。さらに独自の法門発揮があることを加える場合もある。
なお、 七祖それぞれの発揮について、 龍樹は 「二道の鴻判は南天の功」、 天親は 「宣布一心は北天の功」、 曇鸞は 「顕示他力は雁門の功」、 道綽は 「二門廃立は西河の功徳」、 善導は 「古今楷定は終南の功」、 源信は 「報化弁立は横川の功」、 法然は 「弘興選択は吉水の功」 といい習わされている。→難易二道、 一心、 他力、 聖浄二門、 古今楷定、 報化二土、選択本願。
- 七高僧の功績。
- 龍樹は 「二道の
鴻判 は南天の功」。鴻判の鴻は広い、大きいといふ意。南天とは龍樹菩薩は南インド出身であるからで南天(南天竺)といふ。二道は『十住毘婆沙論』の難行道と易行道のこと。 - 天親は 「宣布一心は北天の功」。『浄土論』に「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来」とある「一心」の信心を顕された功のこと。天親菩薩は北インド生まれであるから「北天」といふ。
- 曇鸞は 「顕示他力は
雁門 の功」。曇鸞大師は『論註』の覈求其本釈で他力とは阿弥陀仏の利他力(本願力)であることを顕された。曇鸞大師は山西省「雁門」の生れであるから雁門といふ。 - 道綽は 「二門廃立は
西河 の功徳」。道綽禅師は聖道門と浄土門を対判し廃立して浄土門のみが さとりに至る道だと示した。道綽禅師は西河汶水 の玄忠寺におられたので、西河禅師といふ。 - 善導は 「古今楷定」は終南の功」。善導大師当時や、それ以前の聖道門の諸師の『観経』の解釈をあらためて、『観経』は凡夫の教えであることを示されたことを 「古今楷定」といふ。終南山悟真寺に住しておられたから終南といふ。
- 源信は 「報化弁立は横川の功」。源信僧都は、往生すべき浄土の報土と化土を顕にされた。横川の恵心院に住しておられたので横川といふ。
- 法然は 「弘興選択は吉水の功」。法然聖人は「選択本願念仏」の教えを弘く興(おこ)された。これは往生の浄土宗の立教開宗であった。法然聖人が比叡山を下りて、西山広谷を経て草庵を結んだ地を「吉水」といふ。
七高僧のそれぞれの宗義の発揮は「正信念仏偈」に詳しい。