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三部経大意(真仏本)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2021年10月19日 (火) 13:02時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

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真宗高田派本山専修寺に秘蔵されていた法然聖人の法語。第十八願の根本願の他に、第十二願、第十三願、そして諸仏称揚の願の第十七願をあげ、称名の出拠とされている。光明名号釋は親鸞聖人の両重因縁釋の原点であろう。また、特異だといわれる親鸞聖人の至誠心釈の訓点についても、正確に法然聖人の意を継いでおられるのが判る。上記の四願と『浄土論註』の「三願的証」の第十一願、第二十二願によって、第十八願の法義内容を開いたのが、第十七願(教と行)、第十八願(信)、第十一願(証)、第十二願、第十三願(真仏と真土)の五願であり、それによって教・行・信・証・真仏・真土の六法が完成していくと見られた。これに第二十二願によって成就された還相を加えると六願七法になるのである。なおページNo.は『浄土真宗聖典全書』巻三による。

参照:

トーク:三部経大意 三部経大意の解釈
和語灯録#三部経釈
三部経大意(真仏本) 専修寺本
三部経大意(良聖本) 金沢文庫本
『教行証文類』における『観経疏』三心釈の分引

三部経大意

無量寿経

『双巻経』・『観无量寿経』・『阿弥陀経』、これを浄土の三部経といふなり。
『双巻経』には、まづ阿弥陀仏の四十八願をとき、つぎに願の成就をあかせり。その四十八願といふは、法蔵比丘世自在王仏のみまへにして菩提心をおこして、浄仏国土・成就衆生の願をたてたまへり。おほよそその四十八願は、あるいは無三悪趣ともたて、不更悪道ともとき、或は悉皆金色ともいひ、無有好醜ともちかふ。みなこれかの国の荘厳、往生ののちの果報なり。

この中に衆生の彼国にむまるべき行をたてたまへる願を、第十八の願とするなり。「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆誹謗正法」「隠/顕」たとい我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ。ただ、五逆と、正法を誹謗するものを除く。{(大経*巻上)と[云々]。
おほよそ四十八願の中に、この願ことにすぐれたりとす。そのゆえは、かの国むまるゝ衆生なくは、悉皆金色の願も、無有好醜の願も、なにゝよりて成就せむ。往生する衆生のあるにつけてこそ、身のいろも金色に、好醜あることもなく、五通おもえ、三十二相おも具すべけれ。これによりて、善導釈してのたまはく、「法蔵比丘四十八願をたてたまひて、一一の願にみな、若我得仏、十方衆生、称我名号下至十声、若不生者不取正覚」「隠/顕」一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉) (玄義*分意) [1]と[云々]。
おほよそ諸仏の願といふは、上求菩提・下化衆生のこゝろなり。ある大乗経にいはく、「菩薩の願に二種あり、一には上求菩提、二には下化衆生なり。その上求菩提の本意は、衆生を済度しやすからむがためなり」と[云々]。しかれば、たゞ本意下化衆生のこゝろにあり。いま弥陀如来の浄土を荘厳したまひしも、衆生を引摂しやすからむがためなり。すべからくいづれの仏も、成仏ののちは内証外用の功徳、済度利生の誓願、いづれもふかくして、勝劣あることなけれども、行菩薩道の時の善巧方便のちかひ、みなこれまちまちなり。 弥陀如来は因位のとき、もはら我名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずは、なにおか期せむ。これによりて、かの仏はわれよにこえたる願をたつとなのりたまへり。三世の諸仏も、いまだかくのごときの願おばおこしたまはず。十方の薩埵も、いまだかゝるちかひはましまさず。「この願もし剋果すべくは大千感動すべし、虚空の諸天まさに珍妙の華をふらすべし」(大経*巻上)とちかひしかば、大地六種に振動し、天よりはなふりて、なむぢまさに正覚をなるべしとつげき。法蔵比丘いまだ仏になりたまはずとも、この願うたがふべからず。いかにいはむや、成仏ののち十劫になりたまへり、信ぜずはあるべからず。「彼仏今現在成仏、当知本誓重願不虚、衆生称念必得往生」「隠/顕」かの仏、今現にましまして成仏したまえり。まさに知るべし。本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得。(礼讚)と釈したまへる、これなり。「諸有衆生聞其名号、信心歓喜、乃至一念至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転、唯除五逆誹謗正法」「隠/顕」もろもろの衆生あって、その名号を聞き、信心歓喜し、乃至一念、至心に廻向して、かの国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得て、不退転に住す。ただ五逆と、正法を誹誇するものを除く。 ◇御開山の訓ではなく当面読みで読んだ。(大経*巻下)といへり。これは第十八の願成就の文なり。願には「乃至十念」(大経*巻上)ととくといへども、まさしくは願の成就することは一念[2]にありとあかせり。次に三輩往生の文あり。これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。発菩提心等の業をもて三輩をわかつといへども、往生の業は通じてみな「一向専念無量寿仏|一向専念无量寿仏」(大経*巻下)といへり。

これすなわちこの仏の本願なるがゆへなり。「其仏本願力(ごぶつ-ほんがんりき) 聞名欲往生(もんみょう-よくおうじょう) 皆悉到彼国(かいしつ-とうひこく) 自致不退転(じち-ふたいてん)「隠/顕」その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。(大経*巻下)[3] といふ文あり。漢朝に玄通律師といふものありき、小乗戒をたもつものなり。遠行して野に宿したりけるに、隣房に人ありてこの文を誦しき。玄通これをきゝて、一両返誦してのちに、おもひいづることもなくしてわすれにき。そのゝち玄通律師、戒をやぶりて、そのつみによりて閻魔の庁にいたる。そのときに閻魔法王ののたまはく、なむぢ仏法流布のところにむまれたりき。所学の法あらば、すみやかにとくべしと、高坐においのぼせられしときに、玄通、高坐にのぼりておもひまわすに、すべてこゝろにおぼゆることなし。むかし野宿にてきゝし文ありき、これを誦してむとおもひいでゝ、「其仏本願力」といふ文を誦したりしかば、閻魔王、たまのかぶりをかたぶけて、これはこれ西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて、礼拝したまふと[云々]。願力の不思議なること、この文にみえたり。「仏語弥勒、其有得聞彼仏名号、歓喜踊躍乃至一念、当知此人為得大利、則是具足无上功徳」「隠/顕」仏、弥勒に語りたまはく、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなりと。」 (大経*巻下)[4] といへり。弥勒菩薩にこの『経』を付属したまふには、乃至一念するをもちて大利无上の功徳とのたまへり。『経』の大意、この文にあきらかなるものか。

観無量寿経

次に『観経』には定善散善をとくといへども、念仏をもちて阿難尊者に付属したまふ。「汝好持是語」「隠/顕」なんぢ、よくこの語を持(たも)て。[5](観経)といへる、これなり。第九の真身観に「光明遍照、十方世界、念仏衆生、摂取不捨」「隠/顕」光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。[6](観経)といふ文あり。済度衆生の願は平等にしてあることなれども、縁なき衆生は利益をかぶる事あたはず。このゆへに、弥陀善逝、平等の慈悲にもよをされて、十方世界にあまねく光明をてらして、(うたた) 一切衆生にことごとくをむすばしめむがために、光明无量の願をたてたまへり。第十二の願 これなり。つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、[[[念仏往生の願]]をたてたまへり。第十八の願 これなり。その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために、諸仏称揚の願をたてたまへり。第十七の願これなり。このゆへに、釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば、光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讚したまひてきこえずといふことなし。「我至成仏道、名声超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚」「隠/顕」われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。 (大経*巻上)とちかひたまひし、このゆへなり。しかればすなわち、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべか らず。そのゆへに『往生礼讚』の序にいはく、「諸仏の所証は平等にしてこれひとつなれども、もし願行をもてきたしおさむれば、因縁なきにあらず。しかも弥陀世尊、もと深重の誓願をおこして、光明・名号をもて十方を摂取したまふ」といへり。又この願ひさしくして衆生を済度せむがために、寿命无量の願をたてたまへり。第十三の願これなり。しかれば、光明无量の願、横に一切衆生をひろく摂取せむがためなり。寿命无量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せむがためなり。かくのごとく因縁和合すれば、摂取不捨の光明つねにてらしてすてたまはず。この光明にまた化仏菩薩ましまして、この人を摂護て百重・千重囲遶したまふに、信心いよいよ増長し、衆苦ことごとく消滅す。

臨終の時には、仏みづからきたりてむかへたまふに、もろもろの邪業繫よくさうるものなし。これは衆生いのちおはる時にのぞみて、百苦きたりせめて身心やすきことなく、悪縁ほかにひき、妄念うちにもよをして、境界・自体・当生の三種の愛心きおいおこりて、第六天の魔王も、この時にあたりて威勢をおこしてさまたげをなす。かくのごときの種種のさはりをのぞかむがために、しかも臨終の時にはみづから菩薩聖衆と囲遶して、その人のまへに現ぜむといふ願をたてたまへり。第十九の願これなり。これによりて、臨終のときにいたりぬれば、仏来迎したまふ。行者これをみて、こゝろに歓喜をなして禅定にいるがごとくして、たちまちに観音の蓮台にのりて、安養の宝刹にいたるなり。これらの益あるがゆへに、「念仏衆生摂取不捨」(観経)といへり。

そもそもこの『経』(観経)に「具三心者必生彼国」ととけり。一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。三心まちまちにわかれたりといゑども、要をとり詮をえらびてこれをいへば、深心ひとつにおさまれり。善導和尚釈してのたまはく、「至といふは真なり、誠といふは実なり。一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべきことをあかさむとす。ほかには賢善精進の相を現じ、うちには虚仮をいだくことをえざれ」(散善義)といへる。その「解行」と いふは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願によりて、十声・一声決定してむまると、真実にさとりて行ずる、これなり。ほかには本願を信ずる相を現じて、うちには疑心をいだく、これは不真実のさとりなり。

{▼以下▲まで『和語灯録』所収の三部経釈では削除されている。ノート参照}

ほかには精進の相を現じて、うちには懈怠なる、これは不真実の行なり、虚仮の行なり。「貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性やめがたし、事蛇蝎におなじ。三業をおこすといゑどもなづけて雑毒の善とす、また虚仮の行となづく。真実の業となづけず。もしかくのごとく安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時に急走急作して、頭燃をはらふがごとくするものは、おほく雑毒の善となづく。この雑毒の善をめぐらしてかの仏の浄土にむまれむともとめむものは、これかならず不可なり。なにをもてのゆへに。彼阿弥陀仏の因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業に修するところ、みなこれ真実心の中になす。おほよそ施為・趣求するところ、またみな真実なるによる。又真実に二種あり。一には自利の真実、二には利他の真実なり。真実に、自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切菩薩とおなじく諸悪をすて諸善を修し、真実の中になすべし」(散善*義意)といへり。このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり。
たゞしこの至誠心は、ひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。これにつきて総別の義あるべし。総といふは、自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは、他力 に乗じて往生をねがふ至誠心なり。そのゆへは、『疏』の「玄義分」の序題の下にいはく、「定はすなわちおもひをとゞめてこゝろをこらし、散はすなわち悪をとゞめて善を修す。この二善をめぐらして往生をもとむるなり。弘願といふは『大経』にとくがごとし。一切善悪の凡夫むまるゝことをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふことなし」といへり。自力をめぐらして他力に乗ずることあきらかなるものか。しかれば、はじめに「一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべし。外賢善精進の相を現ずることをえざれ、うちに虚仮をいだければなり」(散善義)。その「解行」といふは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願に乗じて十声・一声決定してむまるべしと、真実心に信ずべしとな り。外には本願を信ずる相を現じて、内には疑心を懐、これは不真実の心なり。次に「貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性やめがたし、事蛇蝎におなじ。三業をおこすといへどもなづけて雑毒の善とす、また虚仮の行となづく。真実の善となづけず」(散善義)といふなり。自他の諸悪をすて三界六道毀厭して、みな専真実なるべし。かるがゆへに至誠心となづくといふ。これらはこれ総の義なり。ゆへはいかむとなれば、深心の下に「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁あることなしと信ずべし」(散善義)といへり。もしかの釈のごとく、一切の菩薩とおなじく、諸悪をすて行住座臥に真実をもちゐるは悪人にあらず、煩悩をはなれたるものなるべし。かの分段生死をはなれ初果を証したる聖者、なほ貪瞋痴等の三毒をおこす。いかにいはむや、一分の悪おも断ぜざらむ罪悪生死の凡夫、いかにしてかこの真実心を具すべきや。このゆへに、自力にて諸行を修して至誠心を具せむとするものは、もはらかたし。千が中に一人もなしといへる、これなり。すべてこの三心、念仏および諸行にわたりて釈せり。文の前後によりてこゝろえわかつべし。例せば、四修の中の無間修を釈していはく、「相続して恭敬礼拝、称名讚嘆、憶念観察、廻向発願して、心心相続して余業をもてきたしへだてず。かるがゆへに無間修となづく。又貪瞋煩悩をもてきたしへだてず。随て犯せば随懺して、念をへだて、時をへだて、月をへだてず、つねに清浄ならし む、又無間修となづく」(礼讚)といへり。これも念仏と余行とわかて釈せり。はじめの釈は貪瞋等おばいはず、余行をもてきたしへだてざる無間修なり。後の釈は行の正雑おばいはず、貪瞋等の煩悩をもてきたしへだてざる無間修なり。しかのみならず、『往生礼讚』(意)の二行の得失を判じて、「上のごとく念念相続して、いのちおわるを期とするものは、十はすなわち十ながらむまる。なにをもてのゆへに。仏の本願と相応するがゆへに、慚愧・懺悔の心あることあるがゆへに」といへり。この中に「貪瞋・諸見の煩悩きたり間断するがゆへに」(礼讚)といへるは、ひとり雑行の失をいだせり。爰しりぬ、余行においては貪瞋等の煩悩をお こさずして行ずべしといふことを。これに順じてこれをおもふに、貪瞋等をきらふ至誠心は余行にありとみえたり。いかにいはむや、廻向発願の釈は水火の二河のたとひをひきて、愛欲・瞋恚つねにやき、つねにうるほして止事なけれども、深信の白道たゆることなければ、むまるゝことをうといへり。

次に「深信は深信の心なり。決定してふかく自身はこれ罪悪生死の凡夫なり、曠劫より已来つねに流転して、出離の縁あることなしと信じ、決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願をもて衆生を摂受したまふに、うたがひなくうらもゐなく、かの願力に乗じてさだめて往生することをうと信ずべし」(散善*義意)といへり。はじめに、まづ「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁あることなし と信ぜよ」といへる、これすなわち断善の闡提のごときのものなり。かゝる衆生の一念・十念すれば、无始より已来生死輪廻をいでゝ、極楽世界の不退の国土に生ずといふによりて、信心はおこるべきなり。仏の別願の不思議は、たゞ心のはかるところにあらず、たゞ仏と仏とのみよくしりたまへり。阿弥陀仏の名号をとなふるによりて、五逆・十悪ことごとくむまるといふ別願の不思議力のまします、たれかこれをうたがふべきや。善導の『疏』(散善義)にいはく、「或人、なむだち衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうえにおきて、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見 等のつみをつくりて、いまだ除尽することあたはず。しかもこれらの罪は三界の三悪に繫属す。
いかむぞ、一生修福の念仏をもちてすなわち无漏无生のくにゝいりて、ながく不退の位を証悟する事をえむやといはゞ、こたえていふべし。諸仏の教行は、かず塵沙にこえ、稟識の機縁、心にしたがひてひとつにあらず。世間の人のまなこにみつべし、信じつべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有をふうみ、地のよく載養し、水のよく生閏し、火のよく成壊するがごとし。かくのごときの事はことごとく待対の法となづく。すなわち目にみつべし、千差万別なり。いかにいはむや、仏法不思議のちからをや、あに種種の益なからむや」といへり。極楽世界に水鳥・樹林、微妙の法をさえづるも不思議なれども、これおば 仏の願力なればと信じて、なむぞたゞ第十八の「乃至十念」(大経*巻上)といふ願をのみうたがふべきや。すべて仏說と信ぜば、これも仏說なり。華厳の三無差別、般若の尽浄虚融、法華の実相皆如、涅槃の悉有仏性、たれか信ぜざらむ。これも仏說なり、かれも仏說なり。いづれおか信じ、いづれおか信ぜざらむや。これ三字の名号はすくなしといへども、如来所有の内証外用の功徳、万徳恒沙の甚深の法門を、この名号の中におさめたる。たれかこれをはかるべき。『疏』の「玄義分」(意)にこの名号を釈していはく、「阿弥陀仏といふは、これ天竺の正音。こゝには翻じて无量寿覚といふ。無量寿といふはこれ法なり、覚といふはこ れ人なり。人法ならびにあらはす。かるがゆへに阿弥陀仏といふ。人法といふは所観の境也。これにつきて依報あり、正報あり」といへり。しかれば、弥陀如来・観音・勢至・普賢・文珠・地蔵・竜樹よりはじめて、乃至かの土の菩薩・声聞等のそなへたまへるところの事理の観行、定慧の功力、内証の実智、外用の功徳、すべて万徳无漏の所証の法門、みなことごとく三字の中におさまれり。すべて極楽世界にいづれの法門かもれたるところあらむ。しかるを、この三字の名号おば、諸宗おのおの我宗に釈しいれたり。真言には阿字本不生の義、八万四千の法門、阿字より出生せり。一切の法は阿字をはなれたることなし。かるがゆへに功徳甚深の名号なりといへり。天台には空・仮・中の三諦、性・縁・了の三 法義、法・報・応の三身如来なり。所有の功徳莫大なりといふ。かくのごとく諸宗おのおのわが存ずるところの法につきて、阿弥陀の三字を釈せり。いまこの宗のこゝろは、真言の阿字本不生の義おも、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道のむねも、法相の五重唯識のこゝろも、すべて一切の万法ひろくこれにおさむとならふ。極楽世界にもれたる法門なきがゆへなり。たゞしいたく弥陀の願のこゝろは、かくのごとくさとれとにはあらず。たゞふかく信心をいたしてとなふるものをむかへむと也。耆婆・扁鵲が万病をいやす薬は、万草諸薬をもて合薬せりといへども、その薬草なむぷん和合せりとしらねども、これを服するに万病 ことごとくいゆるがごとし。たゞしうらむらくは、この薬を信ぜずして、我病はきわめておもし、いかゞこの薬にていゆることあらむとうたがひて服せずは、耆婆が医術も、扁鵲が秘方も、むなしくてその益あるべからざることを。弥陀の名号もかくのごとし。わが煩悩悪業のやまう、きわめておもし、いかゞこの名号をとなへてむまるゝことあらむとうたがひてこれを信ぜずは、弥陀の誓願、釈尊の所說も、むなしくて験あるべからざるものか。たゞあふいで信ずべし、良薬をもて服せずして死することなかれ。崑崙の山にゆきて玉をとらずしてかへり、栴檀の林に入て枝をおらずしていでなむ、後悔いかゞせむ、みづからよく思量すべし。
そもそも我等曠劫よりこのかた、仏の出世にもあひけむ、菩薩の化導にも あひけむ。過去の諸仏も、現在の如来も、みなこれ宿世の父母なり、多生の朋友なり。これにいかにしてか菩提を証したまへるぞ、われらはなにゝよりて生死にとゞまれるぞ、はづべし、はづべし。しかるに本師釈迦如来、大罪の山にいり、邪見の林にかくれて、三業放逸に六情またからざらむ衆生を、わがくにゝとりおきて教化度脱せしめむとちかひたまひたりしかば、そもそもいかにしてかゝる諸仏のこしらへかねたまへる衆生おば度脱せしめむとはちかひたまへるぞとたづぬれば、阿弥陀如来の因位の時、無浄念王とまふしゝよに、菩提心をおこして生死を過度せしめむとちかひたまひしに、釈迦如来は 宝海梵士とまふしき。無浄念王、菩提心をおこし、摂取衆生の願をたてゝ、われ仏になれらむとき、十方三世の諸仏もこしらへかねたまひたらむ悪業深重の衆生なりとも、我名をとなへばみなことごとくむかへむとちかひたまひしを、宝海梵士きゝおはりて、われかならず穢悪の国土にして正覚をとなへて、悪業深重、輪転無際の衆生等にこのことをしめさむ。衆生これをきゝてとなへば、生死を解脱せむことはなはだやすかるべしとおぼしめして、この願をおこしたまへり。曠劫よりこのかた、諸仏よにいでゝ、縁にしたがひ、機をはかりて、おのおの群萌を化したまふこと、かず塵沙にすぎたり。あるいは大乗をとき小乗をとき、或は実教をひろめ権教をひろむ。機縁純熟すればみなことごとくその益をう。こゝに釈尊、 八相成道を五濁世にとなへて、放逸邪見の衆生の出離、その期なきことをあはれみて、これより西方に極楽世界あり、仏まします、阿弥陀となづけたてまつる。かの仏「乃至十念、若不生者、不取正覚」(大経*巻上)とちかひて、すでに仏になりたまへり。すみやかにこれを念ぜよ。出離生死の道おほしといゑども、悪業煩悩の衆生の、とく生死を解脱すべきこと、これにすぎたることなしとおしへたまひて、ゆめゆめこれをうたがふことなかれ。六方恒沙の諸仏も、みなおなじく証誠したまへるなりと、ねむごろにおしへたまひて、われもひさしく穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、われをそしり我をそむきて、かへりて悪趣におちなむ。 われよにいづることは、本意たゞこのことを衆生にきかしめむがためなりとて、阿難尊者にむかひて、汝よくこのことをとおきよに流通せよと、ねむごろにやくそくしおきて、抜提河のほとり、沙羅林のもとにて、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北面西にして涅槃にいりたまひにき。そのときに、日月ひかりをうしなゐ、草木色を変じ、竜神八部、禽獣・鳥類にいたるまで、天にあふぎてなき、地にふしてさけぶ。阿難・目連等の諸大弟子、悲淚のなみだをおさへて相議していはく、われら釈尊の恩になれたてまつりて八十年の春秋をおくり、化縁こゝにつきて、黄金のはだえ、たちまちにかくれたまひぬ。あるいは我等釈尊にとひたてまつるに、こたえたまふこともありき、あるいは釈尊みづからつげたまふこともありき。 済度利生の方便、いまはたれにむかひてかとひたてまつるべき。すべからく如来の御ことばをしるしおきて、未来にもつたへ、御かたみにもせむといひて、多羅葉をひろいてことごとくこれをしるしおきて、三蔵達これを訳して振旦にわたし、本朝につたへ、諸宗につかさどるところの一代聖教これなり。しかるを阿弥陀如来、善導和尚となのりて、唐土にいでゝのたまはく、
「如来出現於五濁  随宜方便化群萌
或說多聞而得度  或說少解証三明
或教福慧双除障  或教禅念坐思量
種種法門皆解脱  無過念仏往西方
上尽一形至十念  三念五念仏来迎

直為弥陀弘誓重  致使凡夫念即生」(法事讚*巻下)
釈尊出世の本懐、たゞこのことにありといふべし。「自信教人信、難中転更難、大悲伝普化、真成報仏恩」(礼讚)といへり。釈迦の恩を報ずる、これたれがためぞや、ひとへに我等がためにあらずや。このたびむなしくてすぎなば、出離いづれのときをか期せむとする。すみやかに信心をおこして生死を過度すべし。
次に廻向発願心は人ことに具しやすきことなり。国土の快楽をきゝて、たれかねがはざらむや。そも、かのくにゝ九品の差別あり、われらいづれの品おか期すべき。善導和尚の御こゝろに、「極楽の弥陀は報仏・報土なり。未断惑の凡夫はすべてむまるべからずといへども、弥陀の別願の不思議にて、罪悪生死の凡夫の、一念・十念してむ まる」(玄義*分意)と釈したまへり。しかるを上古よりこのかた、おほくは下品といふともたむぬべしなむどいひて、上品をねがはず。これは悪業のおもきにおそれて心を上品にかけざるなり。もしそれ悪業によらば、すべて往生すべからず。願力によりてむまれば、なむぞ上品にすゝまむことをのぞみがたしとせむや。すべて弥陀の浄土をまうけたまふことは、願力の成就するゆへなり。しからば、また念仏の衆生のまさしくむまるべき国土なり。「乃至十念、若不生者、不取正覚」(大経*巻上)とたてたまへり。この願によりて感得したまへるところの国土なるがゆへなり。いま又『観経』の九品の業をいはゞ、下品は五逆・十悪の罪人、命終 の時にのぞみて、はじめて善知識のすゝめによりて、或十声、あるいは一声称して、むまるゝことをえたり。われら罪業おもしといゑども、五逆をつくらず。行業おろかなりといゑども、一声・十声にすぎたり。臨終よりさきに弥陀の誓願をきゝえて、随分に信心をいたす。しかれば、下品まではくだるべからず。中品は小乗の持戒の行者、孝養、仁・義・礼・智・信等の行人なり。これ中々むまれがたし。小乗の行人にあらず、たもちたる戒もなし、われらが分にあらず。上品は大乗の凡夫、菩提心等の行者なり。菩提心は諸宗おのおのふかくこゝろえたりといへども、浄土宗のこゝろは、浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり。念仏はこれ大乗の行なり、無上の功徳也。しかれば、上品の往生、てをひくべからず。又本 願に「乃至十念」(大経*巻上)とたてたまひて、臨終現前の願に「大衆囲遶してその人のまへに現ぜむ」(大経*巻上)とたてたまへり。下品は化仏の三尊、あるいは金蓮華等来迎すといへり。しかるを大衆と囲遶して現ぜむとたてたまへり。大願の意趣、上品の来迎をまうけたまへり。なむぞあながちにすまはむや。又善導和尚、「三万已上は上品の業」(観念法*門意)とのたまへり。数返によりて上品にむまるべし。又三心につきて九品あり。信心によりても上品に生ずべきか。上品をねがふこと、わがみのためにあらず。かのくにゝむまれおはりて、とく衆生を化せむがためなり。これ仏の御心にかなはざらむや。

阿弥陀経

次に『阿弥陀経』は、まづ極楽の依正二報の功徳を とく。衆生の願楽の心をすゝめむがためなり。のちに往生の行をあかす。「少善根をもてはかのくにゝむまるゝことをうべからず。阿弥陀仏の名号執持して、一日七日すれば往生す」(小経意)とあかせり。衆生のこれを信ぜざらむことをおそれて、六方におのおの恒沙の諸仏ましまして、大千に舌相をのべて証誠したまへり。善導釈してのたまはく、「この証によりてむまるゝことをえずは、六方の如来ののべたまへるみした、ひとたびくちよりいでゝ、かへりいらずして、自然にやぶれたゞれしめむ」(観念*法門)とのたまへり。しかるを、これをうたがふものは、たゞ弥陀の本願をうたがふのみにあらず、釈尊の所說をうたがふなり。釈尊の所說をうたがふは、六方恒沙の諸仏の所說をうたがふなり。これ大千にのべたまへる舌相 をやぶりたゞらかすなり。もしまたこれを信ずれば、たゞ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、釈迦の所說を信ずるなり。釈迦の所說を信ずるは、六方恒沙の諸仏の所說を信ずるなり。一切諸仏を信ずれば、一切菩薩を信ずるになり。この信ひろくして広大の信心也。
南无阿弥陀仏

正嘉二歳戊午八月十八日書写之


  1. もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ。◇善導大師は「玄義分」p.326で、阿弥陀仏の浄土は報土である理由として、以下の文を挙げ「一一願言 若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」(一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉)、四十八願の全てに第十八願の意があるとされた。
  2. 第十八願には十念とあるが成就文では一念とある意の考察。法然聖人はこの一念を行の一念(一声)とみられたが、御開山は信の一念であるとされた。『大経』の異訳である『無量寿如来会』に「他方の仏国の所有衆生、無量寿如来の名号を聞きて、乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽し、所有の善根を廻向して、無量寿国に生ぜんと願ずる者は、願に随いてみな生じて、不退転、乃至、無上正等菩提を得ん。五無間・誹毀正法、及び謗聖者を除く。」と、一念の浄信の語があったからである。
  3. その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。『無量寿経』下巻「往覲偈」p.46の文。御開山は「行文類」p.142と「信文類」p.250でこの文を引文されておられる。いわゆる「破地獄の文」である。 なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
  4. 乃至一念。『大経』p.81の一念の念仏大利の文。御開山は「教文類」p.135で、「この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。」とされている。この「真実の利」とは、この流通分の「無上功徳」である、一念のなんまんだぶであるとされておられる。行の一念
  5. なんぢ、よくこの語を持て。◇『観経』で定善・散善を説くのだが経を末代に流通するにいたって、釈尊が阿弥陀仏の本意に望めて「なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」p.117と、無量寿仏名(なんまんだぶ)を称えることを教示されたことをいう。
  6. 光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。◇御開山は阿弥陀如来の名義(名の由来)を「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(弥陀経讃)p.571と、念仏(なんまんだぶ)を称える者を、ひとたび摂取して永く捨てぬから阿弥陀仏というのであるとされる。そして阿弥陀仏に摂取されているから、当来滅度(往生成仏)は決定しているので、現生正定聚(現生〔この世において〕、浄土に往生し仏になることに決定した者)であるとされた。