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真要鈔

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

本書は、建武5年書写本の奥書によれば、『浄土文類集』(著者不明)なる書をもとにして述作されている。同書には安心上の問題点が種々あり、存覚上人は、この書の疑義のある点を修正し、浄土真宗の正統な立場より論を展開し、一宗の要義を詳論されている。

 本書は本末2巻に分れている。本巻の冒頭の総論にあたる部分において、まず一向専修の念仏を決定往生の肝心といい、その旨趣を善導大師・法然上人・親鸞聖人の伝統の上に論じられている。以下巻末にいたるまで14問答を展開して、親鸞聖人の浄土真宗の一流は、平生業成、不来迎を肝要とする旨を主として説示されている。まず第1問答においては平生業成、不来迎の宗義について明らかにし、第2問答において、その理由として第十八願・成就文について論じられている。末巻に至って、まず第3問答においては現生不退について論証し、第4問答では、『観経』下下品の一生造悪の者が臨終に善知識にあい、往生をとげるのは、平生業成の義と矛盾しないことの釈明がなされている。第5・6問答においては第十八願の十念と成就文の一念について釈し、平生業成と一念往生について詳論されている。第7・8・9問答において臨終来迎は念仏の利益か諸行の利益かについて論じ、第10問答は念仏と諸行の利益の相違について明らかにしている。第11・12・13問答においては、胎生と化生・報土と化土について分別し、最後の第14問答においては、善知識について論及されている。

浄土真要鈔

浄土真要鈔 本

【1】 それ一向専修の念仏は、決定往生の肝心なり。これすなはち『大経』(上)のなかに弥陀如来の四十八願を説くなかに、第十八の願に念仏の信心をすすめて諸行を説かず、「乃至十念の行者かならず往生を得べし」と説けるゆゑなり。しかのみならず、おなじき『経』(下)の三輩往生の文に、みな通じて「一向専念無量寿仏」と説きて、「一向にもつぱら無量寿仏を念ぜよ」といへり。「一向」といふはひとつにむかふといふ、ただ念仏の一行にむかへとなり。「専念」といふはもつぱら念ぜよといふ、ひとへに弥陀一仏を念じたてまつるほかに二つをならぶることなかれとなり。

これによりて、唐土(中国)の高祖善導和尚は、正行と雑行とをたてて、雑行をすてて正行に帰すべきことわりをあかし、正業と助業とをわかちて、助業をさしおきて正業をもつぱらにすべき義を判ぜり。ここにわが朝の善知識黒谷の源空聖人、かたじけなく 如来のつかひとして末代片州の衆生を教化したまふ。そののぶるところ釈尊の誠説にまかせ、そのひろむるところもつぱら高祖(善導)の解釈をまもる。かの聖人(源空)のつくりたまへる『選択集』(一二八五)にいはく、「速欲離生死 二種勝法中 且閣聖道門 選入浄土門 欲入浄土門 正雑二行中 且抛諸雑行 選応帰正行 欲修於正行 正助二業中 猶傍於助業 選応専正定 正定之業者 即是称仏名 称名必得生 依仏本願故」といへり。この文のこころは、「すみやかに生死をはなれんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛てて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業をかたはらにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業といふはすなはちこれ仏名を称するなり。名を称すればかならず生るることを得。仏の本願によるがゆゑに」となり。すでに南無阿弥陀仏をもつて正定の業と名づく。「正定の業」といふは、まさしく定まるたねといふこころなり。これすなはち往生のまさしく定まるたねは念仏の一行なりとなり。自余の一切の 行は往生のために定まれるたねにあらずときこえたり。しかれば、決定往生のこころざしあらんひとは、念仏の一行をもつぱらにして、専修専念・一向一心なるべきこと、祖師の解釈はなはだあきらかなるものをや。

しかるにこのごろ浄土の一宗において、面々に義をたて行を論ずる家々、みなかの黒谷(源空)の流にあらずといふことなし。しかれども、解行みなおなじからず。おのおの真仮をあらそひ、たがひに邪正を論ず。まことに是非をわきまへがたしといへども、つらつらその正意をうかがふに、もろもろの雑行をゆるし諸行の往生を談ずる義、とほくは善導和尚の解釈にそむき、ちかくは源空聖人の本意にかなひがたきものをや。しかるにわが親鸞聖人の一義は、凡夫のまめやかに生死をはなるべきをしへ、衆生のすみやかに往生をとぐべきすすめなり。そのゆゑは、ひとへにもろもろの雑行を抛てて、もつぱら一向専修の一行をつとむるゆゑなり。これすなはち余の一切の行はみなとりどりにめでたけれども、弥陀の本願にあらず、釈尊付属の教にあらず、諸仏証誠の法にあらず。念仏の一行はこれ弥陀選択の本願なり、釈尊付属の行なり、諸仏証誠の法なればなり。釈迦・弥陀および十方の諸仏の御こころにしたがひて 念仏を信ぜんひと、かならず往生の大益を得べしといふこと、疑あるべからず。かくのごとく一向に行じ、一心に修すること、わが流のごとくなるはなし。さればこの流に帰して修行せんひと、ことごとく決定往生の行者なるべし。しかるにわれらさいはひにその流をくみて、もつぱらかのをしへをまもる。宿因のもよほすところ、よろこぶべし、たふとむべし。まことに恒沙の身命をすてても、かの恩徳を報ずべきものなり。

釈尊・善導この法を説きあらはしたまふとも、源空・親鸞出世したまはずは、われらいかでか浄土をねがはん。たとひまた源空・親鸞世に出でたまふとも、次第相承の善知識ましまさずは、真実の信心をつたへがたし。善導和尚の『般舟讃』(七四四)にいはく、「若非本師知識勧 弥陀浄土云何入」といへり。文のこころは、「もし本師知識のすすめにあらずは、弥陀の浄土にいかんしてか入らん」となり。知識のすすめなくしては、浄土に生るべからずとみえたり。また法照禅師の『五会法事讃』にいはく、「曠劫以来流浪久 随縁六道受輪廻 不遇往生善知識 誰能相勧得回帰」といへり。この文のこころは、「曠劫よりこのかた流浪せしこと久し、六道生死にめぐりてさまざまの輪廻の苦しみを受けき。往生の 善知識に遇はずは、たれかよくあひすすめて弥陀の浄土に生るることを得ん」となり。しかれば、かつは仏恩を報ぜんがため、かつは師徳を謝せんがために、この法を十方にひろめて、一切衆生をして西方の一土にすすめ入れしむべきなり。『往生礼讃』(六七六)にいはく、「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」といへり。こころは、「みづからもこの法を信じ、ひとをしても信ぜしむること、難きがなかにうたたさらに難し。弥陀の大悲を伝へてあまねく衆生を化する、これまことに仏恩を報ずるつとめなり」といふなり。


【2】 問うていはく、諸流の異義まちまちなるなかに、往生の一道において、あるいは平生業成の義を談じ、あるいは臨終往生ののぞみをかけ、あるいは来迎の義を執し、あるいは不来迎のむねを成ず。いまわが流に談ずるところ、これらの義のなかにはいづれの義ぞや。

 答へていはく、親鸞聖人の一流においては、平生業成の義にして臨終往生ののぞみを本とせず、不来迎の談にして来迎の義を執せず。ただし平生業成といふは、平生に仏法にあふ機にとりてのことなり。もし臨終に法にあはば、その機は臨終に往生すべし。平生をいはず、臨終をいはず、ただ信心を うるとき往生すなはち定まるとなり。これを即得往生といふ。これによりて、わが聖人(親鸞)のあつめたまへる『教行証の文類』の第二(行巻)、「正信偈」の文にいはく、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃 凡聖逆謗斉回入 如衆水入海一味」といへり。この文のこころは、「よく一念歓喜の信心を発せば、煩悩を断ぜざる具縛の凡夫ながらすなはち涅槃の分を得。凡夫も聖人も五逆も謗法もひとしく生る。たとへばもろもろの水の海に入りぬれば、ひとつ潮の味はひとなるがごとく、善悪さらにへだてなし」といふこころなり。ただ一念の信心定まるとき、貪・瞋・痴の煩悩を断ぜずといへども、に三界六道輪廻の果報をとづる義あり。

しかりといへども、いまだ凡身をすてず、なほ具縛の穢体なるほどは、摂取の光明のわが身を照らしたまふをもしらず、化仏・菩薩のまなこのまへにましますをもみたてまつらず。しかるに一期のいのちすでに尽きて、息たえ、まなことづるとき、かねて証得しつる往生のことわりここにあらはれて、仏・菩薩の相好をも拝し、浄土の荘厳をもみるなり。これさらに臨終のときはじめて得る往生にはあらず。

されば至心信楽の信心をえながら、なほ往生をほかにおきて、臨終のときはじめて得ん とはおもふべからず。したがひて信心開発のとき、摂取の光益のなかにありて往生を証得しつるうへには、いのちをはるとき、ただそのさとりのあらはるるばかりなり。ことあたらしくはじめて聖衆の来迎にあづからんことを期すべからずとなり。さればおなじき次下の解釈(正信偈)にいはく、「摂取心光常照護 已能雖破無明闇 貪愛瞋憎之雲霧 常覆真実信心天 譬如日光覆雲霧 雲霧之下明無闇」といへり。この文のこころは、「阿弥陀如来の摂取の心光はつねに行者を照らし護りて、すでによく無明の闇を破すといへども、貪欲・瞋恚等の悪業、雲・霧のごとくして真実信心の天を覆へり。たとへば日の光の雲・霧に覆はれたれども、そのしたはあきらかにしてくらきことなきがごとし」となり。されば信心をうるとき摂取の益にあづかる。摂取の益にあづかるがゆゑに正定聚に住す。

しかれば、三毒の煩悩はしばしばおこれども、まことの信心はかれにもさへられず。顛倒の妄念はつねにたえざれども、さらに未来の悪報をばまねかず。かるがゆゑに、もしは平生、もしは臨終、ただ信心のおこるとき往生は定まるぞとなり。これを「正定聚に住す」ともいひ、「不退の位に入る」ともなづくるなり。このゆゑに聖人(親鸞)またのたまは く、「来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終まつことと来迎たのむことは、諸行往生のひとにいふべし。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚に住す。正定聚に住するがゆゑにかならず滅度に至る。滅度に至るがゆゑに大涅槃を証するなり。かるがゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし」(御消息・一意)といへり。これらの釈にまかせば、真実信心のひと、一向専念のともがら、臨終をまつべからず、来迎を期すべからずといふこと、そのむねあきらかなるものなり。


【3】 問うていはく、聖人(親鸞)の料簡はまことにたくみなり。仰いで信ずべし。ただし経文にかへりて理をうかがふとき、いづれの文によりてか、来迎を期せず臨終をまつまじき義をこころうべきや。たしかなる文義をききて、いよいよ堅固の信心をとらんとおもふ。

 答へていはく、凡夫、智あさし。いまだ経釈のおもむきをわきまへず。聖教万差なれば、方便の説あり、真実の説あり。機に対すれば、いづれもその益あり。一偏に義をとりがたし。ただ祖師(親鸞)のをしへをききて、わが信心をたくはふるばかりなり。しかるに世のなかにひろまれる諸流、みな臨終 をいのり来迎を期す。これを期せざるは、ひとりわが家なり。

しかるあひだ、これをきくものはほとほと耳をおどろかし、これをそねむものははなはだあざけりをなす。しかれば、たやすくこの義を談ずべからず。他人謗法の罪をまねかざらんがためなり。それ親鸞聖人は、深智博覧にして内典・外典にわたり、慧解高遠にして聖道・浄土をかねたり。ことに浄土門に入りたまひしのちは、もつぱら一宗のふかきみなもとをきはめ、あくまで明師(源空)のねんごろなるをしへをうけたまへり。あるいはそのゆるされをかうぶりて製作をあひ伝へ、あるいはかのあはれみにあづかりて真影をうつしたまはらしむ。としをわたり日をわたりて、そのをしへをうくるひと千万なりといへども、したしきといひ、うときといひ、製作をたまはり真影をうつすひとはその数おほからず。したがひて、この門流のひろまれること自宗・他宗にならびなく、その利益のさかりなること田舎・辺鄙におよべり。化導のとほくあまねきは、智慧のひろきがいたすところなり。しかれば、相承の義さだめて仏意にそむくべからず。流をくむやから、ただ仰いで信をとるべし。無智の末学なまじひに経釈について義を論ぜば、そのあやまりをのがれがたきか。よくよくつつしむべ し。ただし、一分なりとも信受するところの義、一味同行のなかにおいてこれをはばかるべきにあらず。

いまこころみに料簡するに、まづ浄土の一門をたつることは三部妙典の説に出でたり。そのなかに弥陀如来、因位の本願を説きて凡夫の往生を決すること、『大経』の説これなり。その説といふは四十八願なり。

四十八願のなかに、念仏往生の一益を説くことは第十八の願にあり。しかるに第十八の願のなかに、臨終・平生の沙汰なし、聖衆来現の儀をあかさず。かるがゆゑに、十八の願に帰して念仏を修し往生をねがふとき、臨終をまたず来迎を期すべからずとなり。すなはち第十八の願にいはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」(大経・上)といへり。この願のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは、正覚を取らじ」となり。この願文のなかに、まつたく臨終と説かず平生といはず、ただ至心信楽の機において十念の往生をあかせり。しかれば、臨終に信楽せば臨終に往生治定すべし、平生に至心せば平生に往生決得すべし。さらに平生と臨終とによるべからず、ただ仏法にあふ時 節の分斉にあるべし。しかるにわれらはすでに平生に聞名欲往生の義あり。ここにしりぬ、臨終の機にあらず平生の機なりといふことを。かるがゆゑにふたたび臨終にこころをかくべからずとなり。

しかのみならず、おなじき第十八の願成就の文(大経・下)にいはく、「諸有衆生 聞其名号 信心歓喜 乃至一念 至心回向 願生彼国 即得往生 住不退転」といへり。この文のこころは、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜し、乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」となり。こころは、「一切の衆生、無礙光如来の名をきき得て、生死出離の強縁ひとへに念仏往生の一道にあるべしと、よろこびおもふこころの一念おこるとき往生は定まるなり。これすなはち弥陀如来、因位のむかし、至心に回向したまへりしゆゑなり」となり。この一念について隠顕の義あり。には、十念に対するとき一念といふは称名の一念なり。には、真因を決了する安心の一念なり。これすなはち相好・光明等の功徳を観想する念にあらず、ただかの如来の名号をきき得て、機教の分限をおもひ定むる位をさすなり。されば親鸞聖人はこの一念を釈すとして、「一念といふは信心を獲得する時節の極促を顕す (信巻・意)と判じたまへり。しかればすなはち、いまいふところの往生といふは、あながちに命終のときにあらず。無始以来、輪転六道の妄業、一念南無阿弥陀仏と帰命する仏智無生の名願力にほろぼされて、涅槃畢竟の真因はじめてきざすところをさすなり。すなはちこれを「即得往生住不退転」と説きあらはさるるなり。「即得」といふは、すなはちうとなり。すなはちうといふは、ときをへだてず日をへだてず念をへだてざる義なり。されば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとなり。うるといふは定まるこころなり。この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。

しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」(散善義 四六九)といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」(同 四六八)といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。このゆゑに『経』(大経・上)には、「令諸衆生功徳成就」といへり。こころは、「弥陀如来、因位のむかし、もろもろの衆生をして功徳成就せしめたまふ」となり。それ阿弥陀如来は三世の諸仏に念ぜられたまふ覚体なれば、久遠実成の古仏なれども、十劫以来の成道をとなへたまひしは果後の方便なり。これすなはち「衆生往生すべくはわれも正覚を取らん」と誓ひて、衆生の往生を決定せんがためなり。しかるに衆生の往生定まりしかば、仏の正覚も成りたまひき。その正覚いまだ成りたまはざりしいにしへ、法蔵比丘として難行苦行・積功累徳したまひしとき、未来の衆生の浄土に往生すべきたねをばことごとく成就したまひき。そのことわりをききて、一念解了の心おこれば、仏心と凡心とまつたくひとつになるなり。この位に無礙光如来の光明、かの帰命の信心を摂取し て捨てたまはざるなり。これを『観無量寿経』には、「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」と説き、『阿弥陀経』には、「皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提」と説けるなり。「摂取不捨」といふは、弥陀如来の光明のなかに念仏の衆生を摂め取りて捨てたまはずとなり。これすなはちかならず浄土に生ずべきことわりなり。「不退転を得」といふは、ながく三界六道にかへらずして、かならず無上菩提を得べき位に定まるなり。

浄土真要鈔 本

浄土真要鈔 末

【4】 問うていはく、念仏の行者、一念の信心定まるとき、あるいは「正定聚に住す」といひ、あるいは「不退転を得」といふこと、はなはだおもひがたし。そのゆゑは、正定聚といふは、かならず無上の仏果にいたるべき位に定まるなり。不退転といふは、ながく生死にかへらざる義をあらはすことばなり。そのことばことなりといへども、そのこころおなじかるべし。これみな浄土に生れて得る位なり。しかれば、「即得往生住不退転」(大経・下)といへるも、浄土にして得べき益なりとみえたり。いかでか穢土にしてたやすくこの位に住すといふべきや。

 答へていはく、土につき機につきて退・不退を論ぜんときは、まことに穢土の凡夫、不退にかなふといふことあるべからず。浄土は不退なり、穢土は有退なり。菩薩の位において不退を論ず、凡夫はみな退位なり。しかるに薄地底下の凡夫 なれども、弥陀の名号をたもちて金剛の信心をおこせば、よこさまに三界流転の報をはなるるゆゑに、その義、不退を得るにあたれるなり。これすなはち菩薩の位において論ずるところの位行念の三不退等にはあらず。いまいふところの不退といふは、これ心不退なり。されば善導和尚の『往生礼讃』(七〇一)には、「蒙光触者心不退」と釈せり。こころは、「弥陀如来の摂取の光益にあづかりぬれば、心不退を得」となり。まさしくかの『阿弥陀経』の文には、「欲生阿弥陀仏国者 是諸人等 皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提」といへり。「願をおこして阿弥陀仏の国に生れんとおもへば、このもろもろのひとらみな不退転を得」といへる、現生において願生の信心をおこせば、すなはち不退にかなふといふこと、その文はなはだあきらかなり。またおなじき『経』の次上の文に、念仏の行者の得るところの益を説くとして、「是諸善男子 善女人 皆為一切諸仏 共所護念 皆得不退転 於阿耨多羅三藐三菩提」といへり。文のこころは、「このもろもろの善男子・善女人、みな一切諸仏のためにともに護念せられて、みな不退転を阿耨多羅三藐三菩提に得」となり。しかれば、阿弥陀仏の国に生れんとおもふまことなる信心のおこるとき、弥陀 如来は遍照の光明をもつてこれを摂め取り、諸仏はこころをひとつにしてこの信心を護念したまふがゆゑに、一切の悪業煩悩にさへられず、この心すなはち不退にしてかならず往生を得るなり。これを「即得往生住不退転」(大経・下)と説くなり。「すなはち往生を得」といへるは、やがて往生をといふなり。ただし、「即得往生住不退転」といへるは、浄土に往生して不退を得べき義を遮せんとにはあらず。まさしく往生ののち三不退をも得、処不退にもかなはんことはしかなり。処々の経釈、そのこころなきにあらず、与奪のこころあるべきなり。しかりといへども、いま「即得往生住不退転」といへる本意には、証得往生現生不退の密益を説きあらはすなり。これをもつてわが流の極致とするなり。かるがゆゑに聖人(親鸞)、『教行証の文類』のなかに、処々にこの義をのべたまへり。かの『文類』の第二(行巻)にいはく、「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)といへり。こころは、「弥陀仏の本願を憶念すれば、自然にすなはちのとき必定に入る。ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべし」となり。「すなはちのとき」といふは、信心をうるときをさすなり。「必 定に入る」といふは、正定聚に住し不退にかなふといふこころなり。この凡夫の身ながら、かかるめでたき益を得ることは、しかしながら弥陀如来の大悲願力のゆゑなれば、「つねにその名号をとなへてかの恩徳を報ずべし」とすすめたまへり。またいはく、「十方群生海、この行信に帰命するものを摂取して捨てず。かるがゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつる。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は〈即時入必定〉といひ、曇鸞大師は〈入正定之聚〉といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべし」(行巻)といへり。「龍樹大士は即時入必定といふ」といふは、『十住毘婆沙論』(易行品 一六)に「人能念是仏 無量力功徳 即時入必定 是故我常念」といへる文これなり。この文のこころは、「ひとよくこの仏の無量力功徳を念ずれば、すなはちのとき必定に入る。このゆゑにわれつねに念ず」となり。「この仏」といへるは阿弥陀仏なり。「われ」といへるは龍樹菩薩なり。さきに出すところの「憶念弥陀仏本願力」の釈も、これ龍樹の論判によりてのべたまへるなり。「曇鸞大師は入正定之聚といへり」といふは、『註論』(論註 四七)の上巻に「但以信仏因縁 願生浄土 乗仏願力 便得往生 彼清浄土 仏力住持  即入大乗正定之聚」といへる文これなり。文のこころは、「ただ仏を信ずる因縁をもつて浄土に生れんと願へば、仏の願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生することを得。仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入る」となり。これも文の顕説は、浄土に生れてのち正定聚に住する義を説くに似たりといへども、そこには願生の信を生ずるとき不退にかなふことをあらはすなり。なにをもつてかしるとならば、この『註論』(論註)の釈は、かの『十住毘婆沙論』のこころをもつて釈するがゆゑに、本論のこころ現身の益なりとみゆるうへは、いまの釈もかれにたがふべからず。聖人(親鸞)ふかくこのこころを得たまひて、信心をうるとき正定の位に住する義を引き釈したまへり。「すなはち」といへるは、ときをうつさず、念をへだてざる義なり。またおなじき第三(信巻)に、領解の心中をのべたまふとして、「愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証にちかづくことを快しまず」といへり。これすなはち定聚の数に入ることをば現生の益なりと得て、これをよろこばずと、わがこころをはぢしめ、真証のさとりをば生後の果なりと得て、これにちかづくことをたのしまずと、かな しみたまふなり。「定聚」といへるはすなはち不退の位、また必定の義なり。「真証のさとり」といへるはこれ滅度なり。また常楽ともいふ、法性ともいふなり。またおなじき第四(証巻)に、第十一の願によりて真実の証をあらはすに、「煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萌、往相回向の心行を獲れば、すなはちのときに大乗正定聚の数に入る。正定聚に住するがゆゑに、かならず滅度に至る。かならず滅度に至るはすなはちこれ常楽なり。常楽はすなはちこれ畢竟寂滅なり。寂滅はすなはちこれ無上涅槃なり。無上涅槃はすなはちこれ無為法身なり。無為法身はすなはちこれ実相なり。実相はすなはちこれ法性なり。法性はすなはちこれ真如なり。真如はすなはちこれ一如なり」といへる、すなはちこのこころなり。聖人(親鸞)の解了、常途の所談におなじからず。甚深の教義、よくこれをおもふべし。


【5】 問うていはく、『観経』の下輩の機をいふに、みな臨終の一念・十念によりて往生を得とみえたり。まつたく平生往生の義を説かず、いかん。

 答へていはく、『観経』の下輩は、みなこれ一生造悪の機なるがゆゑに、生れてよりこのかた仏法の名字をきかず、ただ悪業を造ることをのみしれり。 しかるに臨終のときはじめて善知識にあひて一念・十念の往生をとぐといへり。これすなはち罪ふかく悪おもき機、行業いたりてすくなけれども、願力の不思議によりて刹那に往生をとぐ。これあながちに臨終を賞せんとにはあらず、法の不思議をあらはすなり。もしそれ平生に仏法にあはば、平生の念仏、そのちからむなしからずして往生をとぐべきなり。


【6】 問うていはく、十八の願について、因位の願には「十念」と願じ、願成就の文には「一念」と説けり。二文の相違いかんがこころうべきや。

 答へていはく、因位の願のなかに「十念」といへるは、まづ三福等の諸善に対して十念の往生を説けり。これ易行をあらはすことばなり。しかるに成就の文に「一念」といへるは、易行のなかになほ易行をえらびとるこころなり。そのゆゑは『観経義』の第二(序分義 三八一)に、十三定善のほかに三福の諸善を説くことを釈すとして、「若依定行 即摂生不尽 是以如来方便 顕開三福 以応散動根機」といへり。文のこころは、「もし定行によれば、すなはち生を摂するに尽きず。ここをもつて如来、方便して三福を顕開して散動の根機に応ず」となり。いふこころは、「『観経』のなかに定善ばかりを説か ば、定機ばかりを摂すべきゆゑに、散機の往生をすすめんがために散善を説く」となり。これになずらへてこころうるに、散機のなかに二種の品あり。ひとつには善人、ふたつには悪人なり。その善人は三福を行ずべし。悪人はこれを行ずべからざるがゆゑに、それがために十念の往生を説くとこころえられたり。しかるにこの悪人のなかにまた長命・短命の二類あるべし。長命のためには十念をあたふ。至極短命の機のためには一念の利生を成就すとなり。これ他力のなかの他力、易行のなかの易行をあらはすなり。一念の信心定まるとき往生を証得せんこと、これその証なり。


【7】 問うていはく、因願には「十念」と説き、成就の文には「一念」と説くといへども、処々の解釈おほく十念をもつて本とす。いはゆる『法事讃』(下 五七五)には「上尽一形至十念」といひ、『礼讃』(七一一)には「称我名号下至十声」といへる釈等これなり。したがひて、世の常の念仏の行者をみるに、みな十念をもつて行要とせり。しかるに一念をもつてなほ「易行のなかの易行なり」といふことおぼつかなし、いかん。

 答へていはく、処々の解釈、「十念」と釈すること、あるいは因願のなかに 「十念」と説きたれば、その文によるとこころえぬれば相違なし。世の常の行者のもちゐるところ、またこの義なるべし。「一念」といへるもまた経釈の明文なり。いはゆる経には『大経』(下)の成就の文、おなじき下輩の文、おなじき流通の文等これなり。成就の文はさきに出すがごとし。下輩の文といふは、「乃至一念念於彼仏」といへる文これなり。流通の文といふは、「其有得聞 彼仏名号 歓喜踊躍 乃至一念 当知此人 為得大利 即是具足 無上功徳」といへる文これなり。この文のこころは、「それかの仏の名号をきくことを得て、歓喜踊躍して乃至一念することあらん。まさに知るべし、このひとは大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」となり。釈には、『礼讃』のなかに、あるいは「弥陀本弘誓願 及称名号 下至十声一声等 定得往生 乃至一念 無有疑心」(六五四)といひ、あるいは「歓喜至一念皆当得生彼」(六七五)といへる釈等これなり。おほよそ「乃至」のことばをおけるゆゑに、十念といへるも十念にかぎるべからず、一念といへるも一念にとどまるべからず。一念のつもれるは十念、十念のつもれるは一形、一形をつづむれば十念、十念をつづむれば一念なれば、ただこれ修行の長短なり。かならず しも十念にかぎるべからず。しかれば、『選択集』(一二一四)に諸師と善導和尚と、第十八の願において名をたてたることのかはりたる様を釈するとき、このこころあきらかなり。そのことばにいはく、「諸師の別して十念往生の願といへるは、そのこころすなはちあまねからず。しかるゆゑは、上一形を捨て下一念を捨つるがゆゑなり。善導の総じて念仏往生の願といへるは、そのこころすなはちあまねし。しかるゆゑは、上一形を取り下一念を取るがゆゑなり」となり。しかのみならず、『教行証文類』の第二(行巻)に『安楽集』(上 二二五)を引きていはく、「十念相続といふは、これ聖者のひとつの数の名ならくのみ。すなはちよく念を積み、思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめてすなはち罷みぬ。またいたはしくこれを頭数を記さじ」といへり。「十念」といへるは、臨終に仏法にあへる機についていへることばなり。されば経文のあらはなるについて、ひとおほくこれをもちゐる。これすなはち臨終をさきとするゆゑとみえたり。平生に法をききて畢命を期とせんひと、あながちに十念をこととすべからず。さればとて十念を非するにはあらず。ただおほくもすくなくも、ちからの堪へんにしたがひて行ずべし。かならずしも数を定むべきに あらずとなり。いはんや聖人(親鸞)の釈義のごとくは、一念といへるについて、行の一念と信の一念とをわけられたり。いはゆる行の一念をば真実行のなかにあらはして、「行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す」(行巻)といひ、信の一念をば真実信のなかにあらはして、「信楽に一念あり。一念といふはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰す」(信巻)といへり。上にいふところの十念・一念は、みな行について論ずるところなり。信心についていはんときは、ただ一念開発の信心をはじめとして、一念の疑心をまじへず、念々相続してかの願力の道に乗ずるがゆゑに、名号をもつてまつたくわが行体と定むべからざれば、十念とも一念ともいふべからず、ただ他力の不思議を仰ぎ、法爾往生の道理にまかすべきなり。


【8】 問うていはく、来迎は念仏の益なるべきこと、経釈ともに歴然なり。したがひて、諸流みなこの義を存せり。しかるに来迎をもつて諸行の益とせんこと、すこぶる浄土宗の本意にあらざるをや。

 答へていはく、あにさきにいはずや、この義はこれわが一流の所談なりとは。他流の義をもつて当流の義を難ずべからず。それ経釈の文においては自 他ともに依用す。ただ料簡のまちまちなるなり。まづ来迎を説くことは、第十九の願にあり。かの願文をあきらめてこころうべし。その願にいはく、「設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚」(大経・上)といへり。この願のこころは、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、心を至し願を発してわが国に生れんと欲はん。寿終るときに臨みて、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」となり。「修諸功徳」といふは諸行なり。「現其人前」といふは来迎なり。諸行の修因にこたへて来迎にあづかるべしといふこと、その義あきらかなり。されば得生は十八の願の益、来迎は十九の願の益なり。この両願のこころを得なば、経文にも解釈にも来迎をあかせるは、みな十九の願の益なりとこころうべきなり。ただし念仏の益に来迎あるべきやうにみえたる文証、ひとすぢにこれなきにはあらず。しかれども、聖教において、方便の説あり真実の説あり、一往の義あり再往の義あり。念仏において来迎あるべしとみえたるは、みな浅機を引せんがための一往方便の説なり。深理をあらはすときの再往真実 の義にあらずとこころうべし。当流の料簡かくのごとし。善導和尚の解釈にいはく、「道里雖遥去時一念即到」(序分義 三八〇)といへり。こころは、「浄土と穢土と、そのさかひはるかなるに似たりといへども、まさしく去るときは、一念にすなはち到る」といふこころなり。往生の時分一念なれば、そのあひだにはさらに来迎の儀式もあるべからず。まどひをひるがへしてさとりをひらかんこと、ただたなごころをかへすへだてなるべし。かくのごときの義、もろもろの有智のひと、そのこころを得つべし。


【9】 問うていはく、経文について、十八・十九の両願をもつて得生と来迎とにわかちあつる義、一流の所談ほぼきこえをはりぬ。ただし解釈についてなほ不審あり。諸師の釈はしばらくこれをさしおく。まづ善導一師の釈において処々に来迎を釈せられたり。これみな念仏の益なりとみえたり。いかがこころうべきや。

 答へていはく、和尚(善導)の解釈に来迎を釈することはしかなり。ただし一往は念仏の益に似たれども、これみな方便なり。実には諸行の益なるべし。そのゆゑは、さきにのぶるがごとく念仏往生のみちを説くことは第十八の願 なり。しかるに和尚(善導)、処々に十八の願を引き釈せらるるに、まつたく来迎の義を釈せられず。十九の願に説くところの来迎、もし十八の願の念仏の益なるべきならば、もつとも十八の願を引くところに来迎を釈せらるべし。しかるにその文なし。あきらかにしりぬ、来迎は念仏の益にあらずといふことを。よくよくこれをおもふべし。


【10】 問うていはく、第十八の願を引き釈せらるる処々の解釈といふは、いづれぞや。

 答へていはく、まづ『観経義』の「玄義分」に二処あり。いはゆる序題門・二乗門の釈これなり。まづ序題門の釈には(三〇一)、「言弘願者 如大経説 一切善悪 凡夫得生者 莫不皆乗 阿弥陀仏 大願業力 為増上縁也」といへり。こころは、「弘願といふは『大経』に説くがごとし。一切善悪の凡夫、生るることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふことなし」となり。これ十八の願のこころなり。つぎに二乗門の釈には(三二六)、「若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」といへり。また『往生礼讃』(七一一)には、 若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」といひ、『観念法門』(六三〇)には、「若我成仏 十方衆生 願生我国 称我名字 下至十声 乗我願力 若不生者 不取正覚」といへり。これらの文、そのことばすこしき加減ありといへども、そのこころおほきにおなじ。文のこころは、「もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること、下十声に至らん、わが願力に乗じて、もし生れずは、正覚を取らじ」となり。あるいは「称我名号」といひ、あるいは「乗我願力」といへる、これらのことばは本経(大経)になけれども、義としてあるべきがゆゑに、和尚(善導)この句をくはへられたり。しかれば、来迎の益も、もしまことに念仏の益にしてこの願のなかにあるべきならば、もつともこれらの引文のなかにこれをのせらるべし。しかるにその文なきがゆゑに、来迎は念仏の益にあらずとしらるるなり。処々の解釈においては、来迎を釈すといふとも、十八の願の益と釈せられずは、その義相違あるべからず。


【11】 問うていはく、念仏の行者は十八の願に帰して往生を得、諸行の行人は十九の願をたのみて来迎にあづかるといひて、各別にこころうることしか るべからず。そのゆゑは、念仏の行者の往生を得るといふは、往生よりさきには来迎にあづかるべし。諸行の行人の来迎にあづかるといふは、来迎ののちには往生を得べし。なんぞ各別にこころうべきや。

 答へていはく、親鸞聖人の御意をうかがふに、念仏の行者の往生を得るといふは、化仏の来迎にあづからず。もしあづかるといふは、報仏の来迎なり。これ摂取不捨の益なり。諸行の行人の来迎にあづかるといふは、真実の往生をとげず。もしとぐるといふも、これ胎生辺地の往生なり。念仏と諸行とひとつにあらざれば、往生と来迎とまたおなじかるべからず。しかれば、他力真実の行人は、第十八の願の信心をえて、第十一の必至滅度の願の果を得るなり。これを念仏往生といふ。これ真実報土の往生なり。この往生は一念帰命のとき、さだまりてかならず滅度に至るべき位を得るなり。このゆゑに聖人(親鸞)の『浄土文類聚鈔』にいはく、「必至無上浄信暁 三有生死之雲晴 清浄無礙光耀朗 一如法界真身顕」といへり。この文のこころは、「かならず無上浄信の暁に至れば、三有生死の雲晴る。清浄無礙の光耀朗らかにして、一如法界の真身顕る」となり。「三有生死の雲晴る」といふは、三界流 転の業用よこさまにたえぬとなり。「一如法界の真身顕る」といふは、寂滅無為の一理ひそかに証すとなり。しかれども煩悩におほはれ業縛にさへられて、いまだその理をあらはさず。しかるにこの一身をすつるとき、このことわりのあらはるるところをさして、和尚(善導)は、「この穢身を捨ててかの法性の常楽を証す」(玄義分 三〇一)と釈したまへるなり。されば往生といへるも、生即無生のゆゑに、実には不生不滅の義なり。これすなはち弥陀如来清浄本願の無生の生なるがゆゑに、法性清浄畢竟無生なり。さればとて、この無生の道理をここにして、あながちにさとらんとはげめとにはあらず。無智の凡夫は法性無生のことわりをしらずといへども、ただ仏の名号をたもち往生をねがひて浄土に生れぬれば、かの土はこれ無生のさかひなるがゆゑに、見生のまどひ、自然に滅して無生のさとりにかなふなり。この義くはしくは曇鸞和尚の『註論』(論註)にみえたり。しかれば、ひとたび安養にいたりぬれば、ながく生滅去来等のまどひをはなる。そのまどひをひるがへしてさとりをひらかん一念のきざみには、実には来迎もあるべからずとなり。来迎あるべしといへるは方便の説なり。このゆゑに高祖善導和尚の解釈にも、「弥陀如 来は娑婆に来りたまふ」とみえたるところもあり、また「浄土をうごきたまはず」とみえたる釈もあり。しかれども当流のこころにては、「来る」といへるはみな方便なりとこころうべし。『法事讃』(下 五六〇)にいはく、「一坐無移亦不動 徹窮後際放身光 霊儀相好真金色 巍々独坐度衆生」といへり。 文のこころは、「ひとたび坐して移ることなく、また動きたまはず。後際を徹窮して身光を放つ。霊儀の相好真金色なり。巍々として独り坐して衆生を度したまふ」となり。この文のごとくならば、ひとたび正覚を成りたまひしよりこのかた、まことの報身は動きたまふことなし。ただ浄土に坐してひかりを十方に放ちて摂取の益をおこしたまふとみえたり。おほよそしりぞいて他宗のこころをうかがふにも、まことに来ると執するならば、大乗甚深の義にはかなひがたきをや。されば真言の祖師善無畏三蔵の解釈にも、「弥陀の真身の相を釈す」として、「理智不二 名弥陀身 不従他方 来迎引接」といへり。こころは「法身の理性と報身の智品と、このふたつきはまりてひとつなるところを弥陀仏と名づく。他方より来迎引接せず」となり。真実報身の体は来迎の義なしとみえたり。自力不真実の行人は、第十九の願に誓ひましますところ の「修諸功徳 乃至 現其人前」(大経・上)の文をたのみて、のぞみを極楽にかく。しかれどももとより諸善は本願にあらず、浄土の生因にあらざるがゆゑに、報土の往生をとげず。もしとぐるも、これ胎生辺地の往生なり。この機のためには臨終を期し来迎をたのむべしとみえたり。これみな方便なり。されば願文の「仮令」の句は、現其人前一定の益にあらざることを説きあらはすことばなり。この機は聖衆の来迎にあづからず。臨終正念ならずしては辺地胎生の往生もなほ不定なるべし。しかれば、本願にあらざる不定の辺地の往生を執せんよりは、仏の本願に順じて臨終を期せず来迎をたのまずとも、一念の信心定まれば平生に決定往生の業を成就する念仏往生の願に帰して、如来の他力をたのみ、かならず真実報土の往生をとぐべきなり。


【12】 問うていはく、諸行の往生をもつて辺地の往生といふこと、いづれの文証によりてこころうべきぞや。

 答へていはく、『大経』(下)のなかに胎生・化生の二種の往生を説くとき、「あきらかに仏智を信ずるものは化生し、仏智を疑惑して善本を修習するものは胎生する」義を説けり。しかれば、「あきらかに仏智を信ずるもの」と いふは第十八の願の機、これ至心信楽の行者なり。その「化生」といふはすなはち報土の往生なり。つぎに「仏智を疑惑して善本を修習するもの」といふは、第十九の願の機、修諸功徳の行人なり。その「胎生」といへるはすなはち辺地なり。この文によりてこころうるに、諸行の往生は胎生なるべしとみえたり。されば十八の願に帰して念仏を行じ仏智を信ずるものは、得生の益にあづかりて報土に化生し、十九の願をたのみて諸行を修するひとは、来迎の益を得て化土に胎生すべし。「化土」といふはすなはち辺地なり。


【13】 問うていはく、いかなるをか「胎生」といひ、いかなるをか「化生」となづくるや。

 答へていはく、おなじき『経』(大経・下)に、まづ胎生の相を説くとしては、「生彼宮殿 寿五百歳 常不見仏 不聞経法 不見菩薩 声聞聖衆 是故於彼国土 謂之胎生」といへり。文のこころは、「かの極楽の宮殿に生れて寿五百歳のあひだ、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞聖衆を見ず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ」となり。これ疑惑のものの生ずるところなり。つぎに化生の相を説くとしては、「於七宝華中 自 然化生 跏趺而坐 須臾之頃 身相光明 智慧功徳 如諸菩薩 具足成就」といへり。文のこころは、「七宝の華のなかにおいて自然に化生し、跏趺してしかも坐す。須臾のあひだに身相・光明・智慧・功徳、もろもろの菩薩のごとくにして具足し成就す」となり。これ仏智を信ずるものの生ずるところなり。


【14】 問うていはく、なにによりてかいまいふところの胎生をもつてすなはち辺地とこころうべきや。

 答へていはく、「胎生」といひ「辺地」といへる、そのことばことなれども別にあらず。『略論』(略論安楽浄土義)のなかに、いま引くところの『大経』の文を出して、これを結するに「謂之辺地亦曰胎生」といへり。「かくのごとく宮殿のなかに処するをもつて、これを辺地ともいひ、または胎生ともなづく」となり。またおなじき釈のなかに「辺言其難胎言其闇」といへり。こころは、「辺はその難をいひ、胎はその闇をいふ」となり。これすなはち報土のうちにあらずして、そのかたはらなる義をもつては辺地といふ。これその難をあらはすことばなり。また仏をみたてまつらず法をきかざる義については胎生といふ。これそのくらきことをいへる名なりといふなり。されば辺地に生るる ものは、五百歳のあひだ、仏をもみたてまつらず、法をもきかず、諸仏にも歴事供養せず。報土に生るるものは、一念須臾のあひだにもろもろの功徳をそなへて如来の相好をみたてまつり、甚深の法門をきき、一切の諸仏に歴事供養して、こころのごとく自在を得るなり。諸行と念仏と、その因おなじからざれば、胎生と化生と勝劣はるかにことなるべし。しかればすなはち、その行因をいへば、諸行は難行なり、念仏は易行なり。はやく難行をすてて易行に帰すべし。その益を論ずれば、来迎は方便なり、得生は真実なり。もつとも方便にとどまらずして真実をもとむべし。いかにいはんや来迎は不定の益なり、「仮令不与大衆囲繞」(大経・上)と説くがゆゑに。得生は決定の益なり、「若不生者不取正覚」(同・上)といふがゆゑに。その果処をいへば、胎生は化土の往生なり、化生は報土の往生なり。もつぱら化土の往生を期せずして、直に報土の無生を得べきものなり。されば真実報土の往生をとげんとおもはば、ひとへに弥陀如来の不思議の仏智を信じて、もろもろの雑行をさしおきて、専修専念・一向一心なるべし。第十八の願には諸行をまじへず、ひとへに念仏往生の一道を説けるゆゑなり。


【15】 問うていはく、一流の義きこえをはりぬ。それにつきて、信心をおこし往生を得んことは、善知識のをしへによるべしといふこと、上にきこえき。しからば善知識といへる体をばいかがこころうべきや。

 答へていはく、総じていふときは、真の善知識といふは諸仏・菩薩なり。別していふときは、われらに法をあたへたまへるひとなり。いはゆる『涅槃経』(徳王品)にいはく、「諸仏菩薩名知識 善男子譬如船師 善度人故 名大船師 諸仏菩薩 亦復如是 度諸衆生 生死大海 以是義故 名善知識」といへり。この文のこころは、「もろもろの仏・菩薩を善知識と名づく。善男子、たとへば船師のよく人を度すがごとし。かるがゆゑに大船師と名づく。もろもろの仏・菩薩もまたまたかくのごとし。もろもろの衆生をして生死の大海を度す。この義をもつてのゆゑに善知識と名づく」となり。されば真実の善知識は仏・菩薩なるべしとみえたり。しからば仏・菩薩のほかには善知識はあるまじきかとおぼゆるに、それにはかぎるべからず。すなはち『大経』の下巻に、仏法のあひがたきことを説くとして、「如来興世 難値難見 諸仏経道 難得難聞 菩薩勝法 諸波羅蜜 得聞亦難 遇善知識 聞法能行 此亦為難」と いへり。この文のこころは、「如来の興世、値ひがたく、見たてまつりがたし。諸仏の経道得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くことを得ることまた難し。善知識に遇ひて、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす」となり。されば「如来にも値ひたてまつりがたし」といひ、「菩薩の勝法も聞きがたし」といひて、「そのほかに善知識に遇ひ法を聞くことも難し」といへるは、仏・菩薩のほかにも衆生のために法をきかしめんひとをば、善知識といふべしときこえたり。またまさしくみづから法を説きてきかするひとならねども、法をきかする縁となるひとをも善知識となづく。いはゆる「妙荘厳王の雲雷音王仏にあひたてまつり、邪見をひるがへし仏道をなり、二子夫人の引導によりしをば、かの三人をさして善知識と説けり」(法華経・意)。また法華三昧の行人の五縁具足のなかに得善知識といへるも、行者のために依怙となるひとをさすとみえたり。されば善知識は諸仏・菩薩なり。諸仏・菩薩の総体は阿弥陀如来なり。その智慧をつたへ、その法をうけて、直にもあたへ、またしられんひとにみちびきて法をきかしめんは、みな善知識なるべし。しかれば、仏法をききて生死をはなるべきみなもとは、ただ善知識なり。このゆゑ に『教行証文類』の第六(化身土巻)に諸経の文を引きて善知識の徳をあげられたり。いはゆる『涅槃経』(迦葉品)には、「一切梵行の因は善知識なり。一切梵行の因無量なりといへども、善知識を説けば、すなはちすでに摂在しぬ」といひ、『華厳経』(入法界品)には、「なんぢ善知識を念ぜよ。われを生ずること父母のごとし、われをやしなふこと乳母のごとし、菩提分を増長す」といへり。このゆゑに、ひとたびそのひとにしたがひて仏法を行ぜんひとは、ながくそのひとをまもりてかのをしへを信ずべきなり。

浄土真要鈔 広末

[   永享十年戊午八月十五日これを書写したてまつりをはりぬ。]                              [右筆蓮如]

[  大谷本願寺上人(親鸞)の御流の聖教なり。]

                      [本願寺住持存如](花押)

註記

[〔註記〕元亨四歳甲子正月六日これを書きしるして釈了源に授与しをはりぬ。そもそも、このふみをしるすおこりは、日ごろ『浄土文類集』といふ書あり。これ当流の先達の書きのべられたるものなり。平生業成の義・不来迎のおもむき、ほぼかの書にみえたり。
しかるにそのことば、くはしからざるあひだ、初心のともがら、こころをえがたきによりて、なほ要文を添へ、かさねて料簡をくはへて、しるしあたふべきよし、了源所望のあひだ、浅才の身、しきりに固辞をいたすといへども、連々懇望のむね、黙しがたきによりて、いささか領解するおもむきをしるしをはりぬ。かの書を地体として、文言をくはふるものなり。またその名をあらたむるゆゑは、聖人(親鸞)の御作のなかに『浄土文類聚鈔』といへるふみあり。その題目、あひ紛ひぬべし。これさだめて作者の題する名にあらじ。他人のちにこれを案ずる歟のあひだ、わたくしに、いまこれを『浄土真要鈔』と名づくるものなり。おほよそいまのぶるところの義趣は、当流の一義なり。しかれども常途の義勢にあらざるがゆゑに、一流のなかにおいてなほこのおもむきを存ぜざるひとあり。いはんや他人これに同ずべからざれば、左右なく一義をのぶる条、荒涼に似たり。
かたがた、その憚りありといへども、願主(了源)の命のさりがたきによりて、これをしるすものなり。文字にうとからん(一本にくらからんに作る)人のこころえやすからんことをさきとすべきよし、本主(了源)ののぞみなるゆゑに、重々ことばをやはらげて、一々に訓釈をもちゐるあひだ、ただ領解しやすからんをむねとして、さらに文体のいやしきをかへりみず。みんひといよいよあざけりをなすべし。かれにつけ、これにつけ、ゆめゆめ外見あるべからず。あなかしこ、あなかしこ。]

                              [釈存覚]

 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)