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御開山は『一念多念証文』で、 | 御開山は『一念多念証文』で、 | ||
:「称」は御なをとなふるとなり、また{{DotUL|称ははかりといふこころなり}}、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声{{ULR|きく}}ひと、疑ふこころ一念もなければ、[[実報土]]へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。 ([[一多#P--694|一多 P.694]]) | :「称」は御なをとなふるとなり、また{{DotUL|称ははかりといふこころなり}}、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声{{ULR|きく}}ひと、疑ふこころ一念もなければ、[[実報土]]へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。 ([[一多#P--694|一多 P.694]]) | ||
と、称に「となふる」「はかり」という二義をあげられていた。 | と、称に「となふる」「はかり」という二義をあげられていた。 | ||
それは「行巻」で『論註』の「讃歎門釈」を引かれて、 | それは「行巻」で『論註』の「讃歎門釈」を引かれて、 | ||
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といい、[[EXC:割り註|割註]]で称を秤(はかり) の意味とされていた。── 秤は 称(稱)の俗字といわれる──<br /> | といい、[[EXC:割り註|割註]]で称を秤(はかり) の意味とされていた。── 秤は 称(稱)の俗字といわれる──<br /> | ||
「称」を「はかり」と読まれたのは「[[無碍光如来]]」の<kana>名(みな)</kana>を称えることは、名号の徳のとおりに、[[衆生]]の疑いの闇を破り(破闇) 往生成仏の[[志願]](満願) を満足せしめる用(はたらき)があるということを示そうとされたのであろう。仏徳を真に知るならば、その仏の徳を「ほめる」ことは如実の[[讃嘆]]をすることになる。だが、煩悩に覆われた衆生には、[[真如法性]]から顕現する「[[無碍光如来]]」の徳を如実(真実の如く) に[[讃嘆]]することは不可能である。<br /> | 「称」を「はかり」と読まれたのは「[[無碍光如来]]」の<kana>名(みな)</kana>を称えることは、名号の徳のとおりに、[[衆生]]の疑いの闇を破り(破闇) 往生成仏の[[志願]](満願) を満足せしめる用(はたらき)があるということを示そうとされたのであろう。仏徳を真に知るならば、その仏の徳を「ほめる」ことは如実の[[讃嘆]]をすることになる。だが、煩悩に覆われた衆生には、[[真如法性]]から顕現する「[[無碍光如来]]」の徳を如実(真実の如く) に[[讃嘆]]することは不可能である。<br /> |
2024年11月13日 (水) 16:19時点における最新版
しょう
称揚の意で、(名号)をほめたたえること。(大経 P.18,行巻 P.141,三経 P.625,二種 P.721)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
称には、となえるの他に、たたえる・かなう・はかる・ほめる・あげる等の意味がある。第十七願の「不悉咨嗟 称我名者 (ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは)」のたたえる、ほめるの称揚の「称」である。 →称
御開山は『一念多念証文』で、
- 「称」は御なをとなふるとなり、また称ははかりといふこころなり、はかりといふはもののほどを定むることなり。名号を称すること、十声・一声きくひと、疑ふこころ一念もなければ、実報土へ生ると申すこころなり。また『阿弥陀経』の「七日もしは一日、名号をとなふべし」となり。 (一多 P.694)
と、称に「となふる」「はかり」という二義をあげられていた。 それは「行巻」で『論註』の「讃歎門釈」を引かれて、
- なにをもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、〈いかんが讃嘆する、いはく、かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、斤両[1]を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉と。(行巻 P.156)(論註 P.53)
といい、割註で称を秤(はかり) の意味とされていた。── 秤は 称(稱)の俗字といわれる──
「称」を「はかり」と読まれたのは「無碍光如来」の
しかし、阿弥陀仏の〔み名〕を称えることは、秤(はかり)にかけられたものが正確にはかられるように、如実に阿弥陀仏の徳を讃嘆することになるということをあらわそうとされて、「称」を「はかり」と読まれたのであろう。
『尊号真像銘文』では「称仏六字 即嘆仏即懺悔」の句を、
- 「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。(尊号 P.655)
と釈しておられた。普通ならば讃嘆を「南無阿弥陀仏の六字をとなふるなり」とか「仏をほめたてまつるなり」、また「懺悔するなり」と訓ずるべきである。それを、あえて「なるとなり」と〔ほめたことになる〕と訓じられたところに、我ら凡夫が口に〔なんまんだぶ〕と称えることが「如実修行相応 (実の如く行を修めて相応する)」 ことになる意をあらわそうとされたのであろう。
行から信を開いて「信心正因」を論じる「信巻」では信楽を決釈して、
とされ、また至心・信楽・欲生の三信を結釈し、
- まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主建めに「我一心」とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」とのたまへり。 (信巻 P.245)
とされ、本願成就文の一念を釈された「三心一心総結」として、
- ゆゑに知んぬ、一心これを如実修行相応と名づく。すなはちこれ正教なり、これ正義なり、これ正行なり、これ正解なり、これ正業なり、これ正智なり。
- 三心すなはち一心なり、一心すなはち金剛真心の義、答へをはんぬ、知るべしと。(信巻 P.253)
と、浄土真宗の一心の信は、なんまんだぶを称え聞く「如実修行相応」(をしへのごとく信ずるこころなり:高僧和讃の左訓(高僧 P.587)) の信心であった。なんまんだぶを称えることは、阿弥陀仏の仏徳を過不足なく如実に讃嘆することであり、「破闇満願」という往生浄土の「業因」であった。
それはまた、『尊号真像銘文』で法然聖人の教道を感佩し、
- 『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。 (尊号 P.664)
と、浄土真宗は「安養浄土の往生の正因は念仏を本とす」る念仏成仏の法義であった。近代教学や現代教学の影響によって自覚という信心に幻惑されて〔なんまんだぶ〕と称えて往生浄土を期するという教説を理解できない僧俗が居る。それは、法然聖人・親鸞聖人よりこのかた、愚直に〔なんまんだぶ〕を称え往生を期(ご)してきた御開山の門徒を愚弄することでもであった。
近代人によく読まれてきた『歎異抄』に、
とあるように「ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべし」が、御開山が示された「往生浄土の真宗」であった。意思である意業(信)から身業と口業の二つの業が生じるのであり、身業・口業は思已業といわれる。近代人は自覚という信心に捉われて、ともすれば〔なんまんだぶ〕と称える行業を呪文として捉えがちである。しかして「我が名を称えよ」という「本願招喚の勅命」に随順して〔なんまんだぶ〕を称えている称は意業のない巷間いわれる「空念仏」とは全く違うものであった。(意業の無いテープレコーダーなら空(から)念仏といえるであろう 笑)
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ- ↑ 斤両(きんりょう)。「斤」も「両」も目方の単位で、重さ。目方。斤量。