「他力」の版間の差分
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− | + | また偏(ひとえ)に善導に依るとされた[[法然聖人]]にも『[[選択本願念仏集]]』に『[[論註]]』の引用から一語だけ「他力」とあるだけである。(もっとも法然聖人は和語での[[対機説法]]では他力の語をよく使用される。俗語としての他力の表現が民衆に判りやすいと思われたのであろう)<br /> | |
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+ | : しかれば[[真実]]の[[行信]]を獲れば、心に[[歓喜]]多きがゆゑに、これを[[歓喜地]]と名づく。これを[[初果]]に喩ふることは、[[初果]]の聖者、なほ睡眠し[[懶堕]]なれども[[二十九有]]に至らず。いかにいはんや十方群生海、{{ULR|この'''[[行信]]'''に[[帰命]]すれば[[摂取]]して捨てたまはず。ゆゑに[[阿弥陀仏]]と名づけたてまつると。これを[[他力]]といふ。}}([[行巻#no71|行巻 P.186]]) | ||
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阿弥陀仏が'''主体'''であり衆生は'''客体'''である事。この場合、他力の他とは衆生を指すのであり、'''他'''(衆生)を「[[済度]]」する阿弥陀仏の本願力のはたらきを'''力'''という。<br/> | 阿弥陀仏が'''主体'''であり衆生は'''客体'''である事。この場合、他力の他とは衆生を指すのであり、'''他'''(衆生)を「[[済度]]」する阿弥陀仏の本願力のはたらきを'''力'''という。<br/> | ||
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==正しい他力本願の意味== | ==正しい他力本願の意味== | ||
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本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から[[済度]]される衆生を他とした言葉です。 | 本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から[[済度]]される衆生を他とした言葉です。 | ||
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他力の他は私たち衆生なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。 | 他力の他は私たち衆生なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。 | ||
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2024年10月23日 (水) 09:11時点における最新版
たりき
利他力のこと。阿弥陀如来が「他」である衆生を救済するはたらきをいう。
阿弥陀仏の本願力。阿弥陀仏が〔他である〕
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
他力(利他力=本願力)とは仏教語であり浄土真宗に於ける宗教言語である。その意味では世俗の言葉と成立基盤が違うのである。道綽禅師は曇鸞大師の『論註』の他力の語を受けて盛んに他力を鼓舞した。
しかし、その弟子の善導大師は「五部九巻」といふ著作をあらわされたのだが、その中に一語も「他力」といふ語は無い。世俗化された他力の語に自らの宗教的内面世界をあらわす言葉としてふさわしくないと思われたのであろう。
また偏(ひとえ)に善導に依るとされた法然聖人にも『選択本願念仏集』に『論註』の引用から一語だけ「他力」とあるだけである。(もっとも法然聖人は和語での対機説法では他力の語をよく使用される。俗語としての他力の表現が民衆に判りやすいと思われたのであろう)
御開山は、その「他力」の語を『論註』の「他利利他の深義」の釈によって、他力とは善悪・賢愚のへだてなく念仏成仏の教法を信受した衆生を阿弥陀如来のさとりの浄土へ往生させる力用である本願力であるとみられたのであった。
- →力用
たりき 他力
自力に対する語。阿弥陀仏の本願のはたらきをいう。他力の語を用いて浄土教の特色をあらわしたのは曇鸞で、『論註』には、自力の難をあげて
- 「ただこれ自力にして他力の持(たも)つなし」(行巻引文・註 155)、
衆生が自利利他を成就できる理由を示して 「他力を増上縁となす」等とある。
その他力の内容は覈求其本釈で示されるが、そこでは浄土に往生することも、往生後におこすはたらきもすべて阿弥陀仏の本願力によるものとされ、さらにその本願力を第十八・十一・二十二願文によって説明している (三願的証)。
これによって曇鸞における他力とは、阿弥陀仏の因位の本願のとおりに完成された力であり、それは衆生往生の因果を成就させる阿弥陀仏のすぐれた力用(りきゆう)の意であったことがわかる。親鸞は、曇鸞の他力義をさらに他力回向義へと展開し、衆生の往生成仏の因果はすべて阿弥陀仏より回施された法であるとして、阿弥陀仏から衆生への他力回向 (本願力回向) を述べている。「行巻」には他力の語を規定して
- 「他力といふは如来の本願力なり」(註 190)
とある。また、『御消息』第19通には
- 「義と申すことは、自力のひとのはからひを申すなり。他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり」(註 777)
等とあり、他力の救いにおいては、凡夫がはからい (義) なく本願力にまかせることを本義とすると示されている。→義なきを義とす、二種回向、補註12、七祖-補註9。(浄土真宗辞典)
「行巻」の行信利益で、
と阿弥陀仏は摂取不捨の義であるから他を利益する意を他力とされている。その意を、
- 他力といふは如来の本願力なり。(行巻 P.190)
と明確に定義されている。他力とは阿弥陀如来の衆生済度の
阿弥陀仏が主体であり衆生は客体である事。この場合、他力の他とは衆生を指すのであり、他(衆生)を「済度」する阿弥陀仏の本願力のはたらきを力という。
つまり、他力の他とは我々の事であり決して自己を中心として阿弥陀仏を他として分節する言葉ではないのである。
将談仏力 まさに仏力を談じているのである。
正しい他力本願の意味
言葉は長い間使われているうちに意味の拡散が起こり、本来の意味とはかけ離れた意味で使用されることがあります。浄土真宗で阿弥陀如来の救済力をあらわす他力本願という用語もこのような言葉の一つです。
本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から済度される衆生を他とした言葉です。
自である阿弥陀如来の救済力が、如来からみて他である衆生を「済度」し続ける本願力を他力と表現したのです。阿弥陀如来を中心とした秩序のある世界観を表わす言葉だったわけです。
他力の他は私たち衆生なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。
- →易行道
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- →親鸞聖人の他力観
- →他利利他の深義