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「この義はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや(此義甚不可也。念者是心所 声者是色 心色既異何為一体乎)」と心所(心のはたらき)と声(色法)を混乱する愚論であると論難していた。「念」とは心のはたらき(心法)であるのに対し、「声」は物(色法)に属するのであり、これを同じと見なすことは甚だしい間違いであるといふのである。</ref>。<br />
 
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:→[[讃嘆]]
 
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:→[[破闇満願]]
 
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2024年10月26日 (土) 08:31時点における最新版

さんだんもん

 五念門の一。(行巻 P.156)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

『浄土論』の阿弥陀仏を念ずる五念門偈頌

世尊我一心(せそん-がいっしん) 帰命尽十方(きみょう-じんじっぽう)
無礙光如来(むげこうにょらい) 願生安楽国(がんしょう-あんらくこく) (*)
世尊、われ一心に尽十方無礙光如来帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。(浄土論 P.29)

の「帰命」を礼拝門、「尽十方無礙光如来」を讃嘆門、「願生安楽国」を作願門といふ。 御開山は、この五念門(五つの念仏の法門) の「讃嘆門」が第十八願の「わが国に生ぜんと(おも)ひて、乃至十念せん(欲生我国 乃至十念)」の「乃至十念」を天親菩薩が顕わされた偈であるとみられた。

いかんが讃歎する。口業をもつて讃歎したてまつる。かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。(浄土論 P.33)

この『浄土論』の「口業をもつて讃歎したてまつる」の文を釈した曇鸞大師の『論註』「讃嘆門」には、

「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。 (論註 P.103)

と、口業をもって「かの如来の(みな)を称す」ることは安楽国へ往生する「如実修行相応」の「をしへのごとく信ずるこころなり」のであるとされていた。
この『浄土論』『浄土論註』の指示によって善導大師・法然聖人の力説された称名正定業説を、天親菩薩の『浄土論』の「口業をもつて讃歎したてまつる」讃嘆門の文によって往生浄土のであることを完全に裏付けられたのである[1]。「如実修行相応(実の如く修行して相応せん)」の行である。それはまた法然聖人の念声是一釈に寄せられた論難に対する応答でもあった[2]
そして、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。このはすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。(行巻 P.141)

と、されて「第十七願」の「ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ(不悉咨嗟 称我名者 不取正覚)」に、第十八願の「乃至十念」が称名である根拠をみておられた。「第十七願」は、十方世界の無量の諸仏にわが名を称揚されようという願であるのだが、この諸仏の「不悉咨嗟 称我名者」は衆生に〔なんまんだぶ〕を称える「」と「」と「」を告げしめる願であるとみられたのであった。それが第十七願を「往相回向の願」「選択称名の願」と標挙された意であり、阿弥陀仏の「第十八願」の乃至十念称名第十七願の諸仏の教位によってあらわされている大行であるとされたのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

讃嘆
破闇満願
念声是一

  1. 称名(名を称える)といふ行為を、「正定業」とみれば仏より衆生への行ぜしめられる行であり、讃嘆行とすれば衆生より仏へのベクトルとみることもできるであろう。
  2. 明恵高弁は『摧邪輪莊嚴記』で、法然聖人の「念声是一釈」に対して、 「この義はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや(此義甚不可也。念者是心所 声者是色 心色既異何為一体乎)」と心所(心のはたらき)と声(色法)を混乱する愚論であると論難していた。「念」とは心のはたらき(心法)であるのに対し、「声」は物(色法)に属するのであり、これを同じと見なすことは甚だしい間違いであるといふのである。