「文殊の法はつねにしかなり」の版間の差分
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この引文は、読み替えによって阿弥陀如来より[[回向]]される唯一法の念仏(なんまんだぶ)は、「[[文殊の法はつねにしかなり]]」と訓じて[[文殊菩薩]]の象徴である[[智慧]]の一法であるとされた。仏教は一切無礙人(一切の諸仏)が正覚を得る智慧の法であるからである。<br /> | この引文は、読み替えによって阿弥陀如来より[[回向]]される唯一法の念仏(なんまんだぶ)は、「[[文殊の法はつねにしかなり]]」と訓じて[[文殊菩薩]]の象徴である[[智慧]]の一法であるとされた。仏教は一切無礙人(一切の諸仏)が正覚を得る智慧の法であるからである。<br /> |
2018年8月22日 (水) 08:21時点における版
御開山は「行巻」の「誓願一仏乗」を示す「一乗海釈」で、以下の『華厳経』(六十華厳)の偈文の一文を引文され
- 文殊法常爾。法王唯一法。
- 一切無礙人 一道出生死。
- 一切諸仏身 唯是一法身。
- 一心一智慧。力・無畏亦然。{已上}
- 「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。
- 一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。
- 一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。
- 一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。{以上} (行巻p.196)
「隠/顕」
「文殊の法は本来不変である。法の王とはただ一つの法のことである。すべての仏がたは、この一道によって迷いを出られた。だからすべての仏がたの法身は、ただ一つの法身である。一つの心であり、一つの智慧である。力も徳も同様である」
この引文は、読み替えによって阿弥陀如来より回向される唯一法の念仏(なんまんだぶ)は、「文殊の法はつねにしかなり」と訓じて文殊菩薩の象徴である智慧の一法であるとされた。仏教は一切無礙人(一切の諸仏)が正覚を得る智慧の法であるからである。
『正像末和讃』では、
とされ「智慧の念仏」の左訓に「弥陀のちかひをもつて仏になるゆゑに、智慧の念仏とまうすなり」とされておられた。この智慧の念仏は、あらゆる煩悩に障碍されることのない一切無礙人の成仏法(仏陀と成り仏陀のさとりを得る法)である。無礙にはすべてのものが融和し融けあう円融無礙と、すべての障礙を自在にやぶる自在無礙の二義があり、この無礙を念仏一道より生死を出る誓願一仏乗と見られたのである。
唯円は『歎異抄』で、
念仏者は無碍の一道なり。そのいはれいかんとならば、信心の行者には天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし。罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなりと[云々]。 (歎異抄 P.836)
と、「無碍の一道」を、「天神・地祇も敬伏し、魔界・外道も障碍することなし」と、御開山の「現世利益和讃」(*)の意に依って「無碍の一道」を解釈している。そして「罪悪も業報を感ずることあたはず、諸善もおよぶことなきゆゑなり」と、「誓願一仏乗」である念仏の無碍の超勝性を「念仏者は無碍の一道なり」と表現されている。
また、御開山の無碍の解釈は『尊号真像銘文』で、
「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。 「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。 この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。(尊号 P.651)
とされておられるように、「帰命尽十方無碍光如来 (南無阿弥陀仏)」の名号を聞き、その本願の勅命(帰命)に信順して選択本願の〔なんまんだぶ〕と称える者は、どのような煩悩悪業の境遇にあっても阿弥陀仏は摂取して捨てない光(智慧)の如来であるとされた。阿弥陀仏の光明を無碍光(十二光の一)という所以である。これが阿弥陀如来の無碍の仏智の顕現でもある。
本願力回向の念仏は生死を超える「誓願一仏乗」の法であり、智慧の念仏であった。阿弥陀仏が念仏成仏の法として選択されたなんまんだぶを称えることは阿弥陀仏の智慧を信知することであり、それが信心の智慧であった。
これは「行巻」で引文される曇鸞大師の『論註』で、阿耨多羅三藐三菩提の「菩提」を「道」と釈されて、
- 「道」とは無礙道なり。『経』(華厳経・意)にのたまはく、「十方の無礙人、一道より生死を出づ」と。「一道」とは一無礙道なり。「無礙」とは、いはく、生死すなはちこれ涅槃と知るなり。かくのごとき等の入不二の法門は、無礙の相なり。 (論註p.155、(行巻p.192で引文))
の「無礙(無碍)」の語を、一道とは、無碍光如来の名を称すること(なんまんだぶ)が一無礙道であるとし、念仏によって凡夫の成仏が可能である「誓願一仏乗」であることを『華厳経』によって助顕される意であった。
なお『論註』では「十方の無礙人」となっているが所釈の『華厳経』では「一切の無碍人」となっている。碍は礙の俗字であり、無礙人と無碍人は同語である、注釈版はこの俗字の「碍」による、為念。
御開山は「誓願一仏乗」を証明するため『涅槃経』の一道を示す四文(行巻 P.195)と『華厳経』の偈文を引文され、
『華厳経』(明難品・晋訳)にのたまはく、「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。{以上} (行巻p.196)
と読まれた。当面の読み方では、文殊菩薩の「一切の諸仏は唯一乗によってのみ生死を出づると説かれているのだが、何ゆえに一切の仏刹には個々の違いがあるのか」、という問いに対して、賢首菩薩が「文殊よ、法は常爾にして、法王は唯一法なり」という答えの偈である。御開山は、これを「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり」と、読み替えられ、本願の念仏は智慧を象徴する「文殊の法」であり、全ての諸仏(一切の無碍人)は、この法の王である誓願一仏乗の念仏の一道によって生死の迷いを出られたとみられたのである。
この「行巻」の引文は、以下の『華厳経』明難品(晋訳)の賢首菩薩の偈文に依る。
御開山は、この偈文の一部である四句を引文することによって、法の王である一法一道の〔なんまんだぶ〕の名号法(誓願一仏乗)によってのみ衆生は済度されることの意をあらわそうとされたのである。(大正蔵 9-429 , 国訳)
爾時文殊師利。問賢首菩薩言。佛子。一切諸佛。唯以一乘得出生死。云何今見一切佛刹。事事不同。
- その時に文殊師利、賢首菩薩に問て言はく、仏子よ、一切の諸仏は、唯この一乗を以てのみ生死を出づることを得たまふに、いかんぞ今、一切の仏刹を見るに、事事同じからざるや。
所謂世界衆生。説法教化。壽命光明。神力衆會。佛法法住。如是等事皆悉不同。無有不具一切佛法。而能成就無上菩提。
- いわゆる、世界、衆生、説法、教化、寿命、光明。神力、衆会、仏法、法住、かくの如き等の事みなことごとく同じからず。一切の仏法を具(そな)へずして、しかもよく無上菩提を成就すること有ること無けん。
爾時賢首菩薩。以偈答曰
- その時に賢首菩薩、偈をもって答えて曰く、
- 文殊法常爾 法王唯一法
- 文殊よ、法は常爾にして、法王は唯一法なり、
- 一切無礙人 一道出生死
- 一切の無礙の人は、一道より生死を出でたまふ。
- 一切諸佛身 唯是一法身
- 一切の諸仏の身は、唯これ一の法身にして、
- 一心一智慧 力無畏亦然
- 一の心、一の智慧、力無畏もまたしかなり。
- 隨衆生本行 求無上菩提
- 衆生の本行の、無上菩提を求むるに随いて、
- 佛刹及衆會 説法悉不同
- 仏刹および衆会も、説法もことごとく同じからず
- 一切諸佛刹 平等普嚴淨
- 一切諸佛の刹は、平等にあまねく厳浄するも、
- 衆生業行異 所見各不同
- 衆生の行業不同なれば、所見おのおの同じからず。
- 諸佛及佛法 衆生莫能見
- 諸仏および仏法は、衆生よく見るなし。
- 佛刹法身衆 説法亦如是
- 佛刹、法身、衆、説法、もまたかくのごとし
- 本行廣清淨 具足一切願
- 本業広く清浄にして、一切の願を具足する。
- 彼人見眞實 明達知見者
- 彼の人は真実を見る。明達知見の者(ひと)なり。
- 隨順衆生欲 諸業及果報
- 衆生の欲と、諸業および果報とに随順して、
- 各令見眞實 佛力自在故
- おのおの真実を見せしむ、仏力自在なるが故に。
- 佛刹無異相 如來無憎愛
- 仏刹に異相無く、如來に憎愛無し、
- 隨彼衆生行 自得如是見
- 彼の衆生の行に随いて、自らかくのごとく見ることを得。
- 非是一切佛 安住導師咎
- これ一切の仏、安住せる導師の咎に非ず、
- 無量諸世界 示現見不同
- 無量なるもろもろの世界に、示現することを見ること同じからざればなり。
- 一切諸世界 所應受化者
- 一切ものもろの世界の、まさに化を受くべき所の者は、
- 常見人中雄 諸佛法如是
- 常に人中の雄を見たてまつる、諸仏の法かくのごとし。
- 爾時諸菩薩。謂文殊師利言。
- その時に諸の菩薩、文殊師利に謂ひて言く、
- 佛子。我等所解各各已説。仁者辯才深入。次應敷演。
- 佛子よ、我等の解る所は各各已に説けり。仁者は辯才深く入る、次に應に敷演すべし。
初めの四句は、法の王である一法一道の〔なんまんだぶ〕の誓願一仏乗」(名号法)によって衆生を済度することを、次の四句では、三世諸仏は一法を念じて平等の証果を得るという意である。よって、御開山は、ただこれ誓願一仏乗なり、とされたのであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ