操作

他力

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

たりき

 利他力のこと。阿弥陀如来「他」である衆生救済するはたらきをいう。

阿弥陀仏本願力。阿弥陀仏が〔他である〕衆生(しゅじょう)済度するはたらき。→自力(じりき)、補註12(他力・本願力回向)。(御消息 P.746)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

たりき 他力

 自力に対する語。阿弥陀仏本願のはたらきをいう。他力の語を用いて浄土教の特色をあらわしたのは曇鸞で、『論註』には、自力の難をあげて

「ただこれ自力にして他力の持(たも)つなし」(行巻引文・註 155)、

衆生が自利利他を成就できる理由を示して 「他力を増上縁となす」等とある。
その他力の内容は覈求其本釈で示されるが、そこでは浄土に往生することも、往生後におこすはたらきもすべて阿弥陀仏の本願力によるものとされ、さらにその本願力を第十八・十一・二十二願文によって説明している (三願的証)。
これによって曇鸞における他力とは、阿弥陀仏因位本願のとおりに完成された力であり、それは衆生往生の因果を成就させる阿弥陀仏のすぐれた力用(りきゆう)の意であったことがわかる。親鸞は、曇鸞の他力義をさらに他力回向義へと展開し、衆生の往生成仏の因果はすべて阿弥陀仏より回施された法であるとして、阿弥陀仏から衆生への他力回向 (本願力回向) を述べている。「行巻」には他力の語を規定して

「他力といふは如来の本願力なり」(註 190)

とある。また、『御消息』第19通には

「義と申すことは、自力のひとのはからひを申すなり。他力には、しかれば、義なきを義とすと候ふなり」(註 777)

等とあり、他力の救いにおいては、凡夫がはからい (義) なく本願力にまかせることを本義とすると示されている。→義なきを義とす二種回向補註12七祖-補註9。(浄土真宗辞典)

補註12(他力・本願力回向)
七祖-補註9(他力)

「行巻」の行信利益で、

 しかれば真実行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。(行巻 P.186)

と阿弥陀仏は摂取不捨の義であるから他を利益する意を他力とされている。その意を、

 他力といふは如来の本願力なり。(行巻 P.190)

と明確に定義されている。他力とは阿弥陀如来の衆生済度の利他(りた)の本願力である。

阿弥陀仏が主体であり衆生は客体である事。この場合、他力の他とは衆生を指すのであり、(衆生)を「済度」する阿弥陀仏の本願力のはたらきをという。
つまり、他力の他とは我々の事であり決して自己を中心として阿弥陀仏を他として分節する言葉ではないのである。 将談仏力 まさに仏力を談じているのである。

正しい他力本願の意味

Tariki.jpg

言葉は長い間使われているうちに意味の拡散が起こり、本来の意味とはかけ離れた意味で使用されることがあります。浄土真宗阿弥陀如来の救済力をあらわす他力本願という用語もこのような言葉の一つです。

本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から済度される衆生を他とした言葉です。

である阿弥陀如来の救済力が、如来からみてである衆生を「済度」し続ける本願力を他力と表現したのです。阿弥陀如来を中心とした秩序のある世界観を表わす言葉だったわけです。

他力の他は私たち衆生なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。

親鸞聖人の教え・問答集
親鸞聖人の他力観
他利利他の深義