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「観経疏 定善義 (七祖)」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 
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定善義   観経正宗分定善義 巻第三
 
定善義   観経正宗分定善義 巻第三
  
                 沙門善導集記
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==正宗分==
 
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六賊つねに随ひて、[[三悪]]の火坑臨々として入りなんと欲す。
 
六賊つねに随ひて、[[三悪]]の火坑臨々として入りなんと欲す。
 
もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、[[業繋の牢]]なにによりてか勉るることを得ん。
 
もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、[[業繋の牢]]なにによりてか勉るることを得ん。
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この義のためのゆゑに、'''立ちながら撮りてすなはち行く'''。
 
端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。<br>
 
端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。<br>
 
四には観音・勢至もつて侍者となし、余衆なきことを表することを明かす。
 
四には観音・勢至もつて侍者となし、余衆なきことを表することを明かす。
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ただ万事ともに捨てて、なほ失意・[[聾盲痴人|聾盲・痴人]]のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。<br>
 
ただ万事ともに捨てて、なほ失意・[[聾盲痴人|聾盲・痴人]]のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。<br>
 
もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。
 
もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。
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たとひ千年の寿を尽せども、[[法眼]]いまだかつて開けず。
 
たとひ千年の寿を尽せども、[[法眼]]いまだかつて開けず。
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もし心に定を得る時は、あるいは先づ明相現ずることあり、あるいは先づ宝地等の種々に分明なる不思議のものを見るべし。
 
もし心に定を得る時は、あるいは先づ明相現ずることあり、あるいは先づ宝地等の種々に分明なる不思議のものを見るべし。
  
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またいまこの[[観門]]は等しくただ[[方を指し相を立て]]て、心を住めて境を取らしむ。
 
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総じて[[無相離念]]を明かさず。
 
総じて[[無相離念]]を明かさず。
<span id="P--433"></span>如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、[[術通]]なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。
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如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、[[術通]]なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。
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【11】 四に「是故応当」より下「三仏陀」に至るこのかたは、まさしく前のごとき所益、専注すればかならず成ず、[[展転して]]あひ教へ、勧めて[[かの仏]]を観ぜしむることを明かす。<br>
 
【11】 四に「是故応当」より下「三仏陀」に至るこのかたは、まさしく前のごとき所益、専注すればかならず成ず、[[展転して]]あひ教へ、勧めて[[かの仏]]を観ぜしむることを明かす。<br>
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十一に「令与修多羅合」より下「見極楽世界」に至るこのかたは、観の邪正の相を弁ず。<br>
 
十一に「令与修多羅合」より下「見極楽世界」に至るこのかたは、観の邪正の相を弁ず。<br>
 
十二に「是為」より下は総じて結す。<br>
 
十二に「是為」より下は総じて結す。<br>
<u>十三に「作是観者」より下「得念仏三昧」に至るこのかたは、まさしく[[剋念]]して観を修すれば、現に利益を蒙ることを明かす。</u>
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これすなはち[[群生]]障重くして、真仏の観階ひがたし。
 
これすなはち[[群生]]障重くして、真仏の観階ひがたし。
 
ここをもつて大聖(釈尊)哀れみを垂れて、しばらく心を形像に注めしめたまふ。
 
ここをもつて大聖(釈尊)哀れみを垂れて、しばらく心を形像に注めしめたまふ。
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===真身観===
 
===真身観===
 
 
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【12】 九に[[真身観]]のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。
 
【12】 九に[[真身観]]のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。
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<u>自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく[[比校]]にあらず。</u>
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このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の[[功能]]を讃めたり。
 
このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の[[功能]]を讃めたり。
<u>『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。
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{{DotUL|『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。
 
また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。
 
また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。
また十方恒沙の諸仏の[[証誠]]虚しからずと。
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また十方恒沙の諸仏の[[証誠]]虚しからずと}}。
またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。
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====唯標専念名号====
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{{DotUL|またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。
 
この例一にあらず。
 
この例一にあらず。
広く念仏三昧を顕しをはりぬ。</u>
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広く念仏三昧を顕しをはりぬ}}。
 
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2023年5月11日 (木) 11:47時点における最新版

定善義   観経正宗分定善義 巻第三

沙門善導集記

正宗分

定善義

【1】 これより以下は、次に正宗を弁ず。 すなはちその十六あり。 また一々の観のなかにつきて、文に対して料簡す。 労はしくあらかじめ顕さず。
いま正宗を定め立すること、諸師と同じからず。 いまただちにもつて法につきて定めば、日観の初めの句より下下品下生に至るこのかたは、これその正宗なり。 日観より以上は多義の不同ありといへども、この文勢を看るに、ただこれ由序なり、知るべし。

日観

【2】 初めの日観のなかにつきて、先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。すなはちその五あり。
一に「仏告韋提」より下「想於西方」に至るこのかたは、まさしく総じて告げ、総じて勧むることを明かす。 これは韋提前に弥陀仏国を請じ、また正受の行を請ずるに、如来(釈尊)時に当りてすなはち許してために説きたまふことを明かす。 ただ機縁いまだ備はらざれば、行を顕すこといまだあまねからざるをもつて、さらに三福の因を開きて、もつて未聞の益をなし、また如来かさねて告げて流通を勧発したまふ。 この法聞きがたければ、広く開悟せしむ。 「仏告韋提汝及衆生」といふは、これ告勧を明かす。 もし等しく塵労を出でて仏国に生ずることを求めんと欲せば、よろしくすべからく意を励ますべし。 「応当専心」といふ以下は、これ衆生散動して識、猿猴よりも劇しく、心六塵に遍してしばらくも息むに由なきことを明かす。

ただおもんみれば境縁一にあらず、目に触れてを起し想を乱す。 心を三昧に安んずること、なんぞ得べけん。 縁を捨て静に託するにあらざるよりは、相続して心を注めんや。 ただちに西方を指すは、余の九域を簡ぶ。 ここをもつて身を一にし、心を一にし、回向を一にし、処を一にし、境界を一にし、相続を一にし、帰依を一にし、正念を一にす。 これを想成就して正受を得と名づく。 此世・後生、心に随ひて解脱す。

二に「云何作想」より下「皆見日没」に至るこのかたは、まさしく所観の事をすることを明かす。 これもろもろの衆生等久しく生死に流れて、安心を解らず。 西方を指すといへども、いかんが作意するといふことを知らず。 ゆゑに如来ために反問を生じ疑執を遣除せしめ、もつて正念の方を示したまふことを明かす。
「凡作想」といふは、これ総じて前の意を牒して、後の入観の方便を顕すことを明かす。 「一切衆生」といふは、総じて得生の類を挙ぐ。
「自非生盲」といふ以下は、これ機の堪と不堪とを簡ぶことを明かす。 「生盲」といふは、母胎のなかより出でて、眼すなはち物を見ざるものを名づけて生盲といふ。 この人には教へて日観をなさしむることを得ず。 日輪の光相を識らざるによるがゆゑなり。 生盲を除きて以外、縁に遇ひて患ふるものには教へて日観をなさしむるに、ことごとく成就することを得。 いまだ眼を患へざる時、その日輪の光明等の相を識るによりて、いま目を患ふといへども、ただよく日輪等の相を取らしめて、正念に堅持して時節を限らざれば、かならず成就することを得。

 問ひていはく、韋提上の請には極楽の境を見んと願ず。 如来の許説したまふに及至りて、すなはち先づ教へて心を住めて日を観ぜしむるは、なんの意かあるや。

答へていはく、これに三の意あり。
一には衆生をして境を識り心を住めしめんと欲して、を指すことあることあり。 冬夏の両時を取らず、ただ春秋の二際を取る。 その日正東より出でて直西に没す。 弥陀仏国は日没の処に当りて、直西十万億のを超過す。 すなはちこれなり。

二には衆生をして自の業障に軽重あることを識知せしめんと欲す。 いかんが知ることを得る。 教へて心を住めて日を観ぜしむるによる。 はじめて心を住めんと欲する時、教へて跏趺正坐せしむ。 右の脚、左のの上に着けてほかと斉しくし、左の足、右のの上に安きてほかと斉しくし、左の手、右の手の上に安きて、身をして正直ならしめ、口を合して歯はあひ近づくことなかれ。 舌は上のを柱へよ。 咽喉および鼻中の気道をして宣通せしめんがためのゆゑなり。 また身の四大の内外ともに空にして、すべて一物もなしと観ぜしめよ。 身の地大の皮・肉・筋・骨等、心に想へ。 西方に散向して、西方の際を尽すに、乃至一塵の相を見ずと。 また想へ。 身の水大の血・汗・津・涙等、心に想へ。 北方に散向して、北方の際を尽すに、乃至一塵の相を見ずと。 また想へ。 身の風大東方に散向して、東方の際を尽すに、乃至一塵の相を見ずと。 また想へ。 身の火大南方に散向して、南方の際を尽すに、乃至一塵の相を見ずと。 また想へ。 身の空大すなはち十方の虚空と一合して、乃至一塵不空の相を見ずと。 また想へ。 身の五大みな空にして、ただ識大のみありて湛然凝住す、なほ円鏡のごとく、内外明照にして朗然として清浄なりと。

この想をなす時、乱想除こることを得て、心やうやく凝定す。 しかして後、徐々として心を転じて、あきらかに日を観ず。 その利根のものは一坐にしてすなはち明相現前するを見る。 境の現ずる時に当りて、あるいは銭の大きさのごとく、あるいは鏡面の大きさのごとし。 この明の上においてすなはちみづから業障軽重の相を見る。 一には黒障、なほ黒雲の日を障ふるがごとし。 二には黄障、また黄雲の日を障ふるがごとし。 三には白障、白雲の日を障ふるがごとし。 この日なほ雲の障ふるがごとくなるがゆゑに、朗然として顕照することを得ず。 衆生の業障もまたかくのごとし。 浄心の境を障蔽して、心をして明照ならしむることあたはず。

行者もしこの相を見ば、すなはちすべからく道場を厳飾し、仏像を安置し、清浄洗浴し、浄衣を着し、また名香を焼きて諸仏・一切賢聖に表白し、仏の形像に向かひて、現在一生に無始よりこのかた、すなはち身口意業に造るところの十悪・五逆・四重・謗法・闡提等の罪を懺悔すべし。 きはめてすべからく悲涕して涙を雨らし、深く慚愧を生じて、うち心髄に徹り、骨を切りてみづから責むべし。 懺悔しをはりて、還りて前の坐法のごとく安心して境を取れ。 境もし現ずる時は、前のごとき三障ことごとく除こりて、所観の浄境朗然として明浄なり。 これを頓に障を滅すと名づく。 あるいは一懺してすなはち尽すものを利根の人と名づく。 あるいは一懺してただ黒障を除き、あるいは一懺して黄・白等の障を除くことを得。 あるいは一懺してただ白障を除く。 これを漸除と名づけ、頓滅と名づけず。 すでにみづから業相のかくのごとくなるを識らば、ただすべからく勤心に懺悔すべし。 日夜三時・六時等にただ憶してすなはち懺することを得るものは、もつともこれ上根上行の人なり。 たとへば湯火の身を焼くに、また覚すればすなはち却るがごとし。 あにいたづらに時を待ち、処を待ち、縁を待ち、人を待ちてまさにはじめて除くべけんや。

三には衆生をして弥陀の依正二報種々の荘厳・光明等の相の内外照曜して、この日に超過せること百千万倍なることを識知せしめんと欲す。 行者等、もしかの境の光相を識らずは、すなはちこの日輪の光明の相を看て、もしは行住坐臥に礼念し憶想して、つねにこの解をなせ。 久しからざるあひだにすなはち定心を得て、かの浄土の事、快楽の荘厳を見ん。 この義のためのゆゑに、世尊先づ教へて日想観をなさしめたまふ。

 三に「当起想念」より下「状如懸鼓」に至るこのかたは、まさしく教へて観察せしむ。 これ身の威儀を正し、面を西方に向かへて、境を守りて心を住め、堅執して移らざれば、所期みな応ずることを明かす。

四に「既見日已」より下「明了」に至るこのかたは、観成の相を弁ず。 これ心を標して日を見るに、想を制し縁を除きて念々に移らざれば、浄相了然として現ずることを明かす。 また行者はじめて定中にありて、この日を見る時すなはち三昧定楽を得て、身心内外融液して不可思議なり。 これを見る時に当りて、よくすべからく心を摂して、定をして上心の貪取を得ざらしむべし。 もし貪心を起せば、心水すなはち動ず。 心動ずるをもつてのゆゑに浄境すなはち失す。 あるいは動、あるいは闇、あるいは黒、あるいは青・黄・赤・白等の色にして安定することを得ず。 この事を見る時すなはちみづから念言せよ。 「これらの境相揺動して安からざることは、わが貪心の動念によりて、浄境をして動滅せしむることを致す」と。 すなはちみづから安心正念にして、還りてもとより起せば、動相すなはち除こりて、静心還りて現ず。 すでにこの過を知らば、さらに増上の貪心を起すことを得ざれ。 以下の諸観の邪正得失、もつぱらこれに同じ。 日を観じて日を見るは、心境相応す。 名づけて正観となす。 日を観ずるに日を見ずしてすなはち余の雑境等を見るは、心境相応せず。 ゆゑに邪と名づく。 これすなはち娑婆の闇宅には、事に触れてもつて比方すべきことなし。 ただ朗日の輝を舒ぶるのみありて、想を寄せて遠く極楽を標す。
五に「是為」より以下は総じて結す。
上来五句の不同ありといへども、広く日観を明かしをはりぬ。

水観

【3】 二に水観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその六あり。
一に「次作水想」より下「内外映徹」に至るこのかたは、総じて地の体を標す。

 問ひていはく、前に教へて日を観ぜしむるは、業相等を知らしめんがためなり。 ゆゑに日を観ぜしむ。 いまこの観のなかに、また教へて水を観ぜしむるは、なんの所以かある。

答へていはく、日輪つねに照らし、もつて極楽の長暉を表す。 またかの地、平らかならずして、この穢国高下に類することを恐る。 ただおもんみれば娑婆の闇宅には、ただ日のみよくあきらかなり。 この界には丘坑ありていまだ高下なき処あらず。 よく平らかなるものを取らんと欲するに、水に過ぎたるはなし。 この可平の相を示して、かの瑠璃の地に況す。

 また問ひていはく、この界の水は湿ひてかつ軟らかなり。 いぶかし、かの地またこの水に同ずるや。

答へていはく、この界の平水、もつてかの地の等しくして高下なきに対す。 また水を転じて氷となすは、かの瑠璃の地の内外映徹せるに対す。 これ弥陀曠劫に等しく行じて、なく、正習ともに亡じて、よく地輪の映徹せるを感ずることを明かす。

 また問ひていはく、すでに教へて水を想ひてもつて心を住めしめ、水を転じてもつて氷となし、氷を転じてもつて瑠璃地となすといはば、いかんが作法して境をして現ぜしむる。

答へていはく、住身の威儀のごときは、もつぱら前の日観のなかの法に同じ。 また水を観じてもつて定心を取らんと欲せば、還りてすべからく相似の境に対して観ずべし。 すなはち定を得べきこと易し。 行者等静処において一椀に水を取りて、床の前の地の上に着きてよくこれに満たし盛り、自身は床の上にありて坐し、自の眉間に当て、一の白き物の豆ばかりの大きさのごとくなるを着けて、頭を低れ面を水の上に臨めて、一心にこの白き処を照らし看て、さらに異縁することなかれ。 また水初め地にありて波浪住まらざるとき、面を臨めてこれを観ずるに、面像を見ず。 観をなすこと休まざれば、漸々に面現ず。 初めの時面相住まらずして、たちまちに長く、たちまちに短く、たちまちに寛く、たちまちに狭く、たちまちに見え、見えず。 この相現ずる時、さらにすべからく極細に用心すべし。 久しからざるあひだに水波微細にして、動ずるに似て動ぜず、面相やうやくあきらかに現ずることを得。 面上の眼・耳・鼻・口等を見るといへども、またいまだ取るを須ゐず、また妨ぐるを須ゐず。 ただ身心をほしいままにして、ありと知りて取ることなかれ。 ただ白き処を取りて了々にこれを観じて、正念に守護して、失意異縁せしむることなかれ。 これを見る時に当りて、心やうやく住まることを得て、水性湛然なり。 また行者等自心のなかの水の波浪住まらざることを識知せんと欲せば、ただこの水の動不動の相を観じて、すなはち自心の境の現不現・明闇の相を知れ。

また水の静かなる時を待ち、一の米ばかりなるを取りて、水上に当てて手に信せてこれを水のなかに投ぐれば、その水波すなはち動じて椀のうちに遍す。 自の面上に臨めてこれを観るに、その白きものすなはち動ず。 さらに豆ばかりなるを着けてこれを水に投ぐるに、波さらに大にして、面上の白きもの、あるいは見え、見えず。 乃至棗等、これを水に投ぐるに、その波うたた大にして、面上の白きものおよび自身の頭面、総じてみな隠没して現ぜず。 水の動ずるによるがゆゑなり。

「椀」といふはすなはち身器に喩ふ。 「水」といふはすなはち自の心水に喩ふ。 「波浪」といふはすなはち乱想の煩悩に喩ふ。 「漸々に波浪息む」といふは、すなはちこれ衆縁を制捨して、心を一境に住むるなり。 「水静かにして境現ず」といふは、すなはちこれ能縁の心乱るることなければ、所縁の境動ぜず、内外恬怕にして所求の相顕然なり。 また細想および粗想あれば、心水すなはち動ず。 心水すでに動ずれば、静境すなはち失す。 また細塵および粗塵、これを寂静の水のなかに投ぐるに、その水の波浪すなはち動ず。 また行者等ただこの水の動不動の相を看て、すなはち自心の住不住を識れ。 また境現の失不失・邪正等、もつぱら前の日観に同じ。

 また天親の讃(浄土論)にいはく、

「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。
究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」と。

これすなはち総じてかの国の地の分量を明かす。
二に「下有金剛七宝」より下「不可具見」に至るこのかたは、まさしく地下の荘厳を明かす。 すなはちその七あり。 一にはの体等しくこれ無漏の金剛なることを明かす。 二には地を擎げてあひ顕映せる荘厳を明かす。 三には方楞具足して円相にあらざることを表すことを明かす。 四には百宝合成して、量塵沙に出でたることを明かす。 五には宝千光を出して、光無辺の際にあまねきことを明かす。 六には光に異色多くして色他方を照らし、機に随ひて変現し、時として益せざることなきことを明かす。 七には衆光彩を散じて日輪を映絶し、新往のものこれを覩てにはかに周悉しがたきことを明かす。

『讃』にいはく(礼讃)、

「地下の荘厳七宝の幢、無量無辺無数億なり。
八方八面百宝をもつて成ず。かれを見れば無生自然に悟る。
無生の宝国永く常たり。一々の宝無数の光を流す。
行者心を傾けてつねに目に対して、を騰げ踊躍して西方に入れ」と。

また讃にいはく

「西方は寂静無為の楽なり。畢竟逍遥して有無を離れたり。
大悲、心に薫じて法界に遊ぶ。身を分ちてを利すること等しくして殊なることなし。
あるいは神通を現じて法を説き、あるいは相好を現じて無余に入る。
変現の荘厳意に随ひて出づ。群生見るもの罪みな除こる」と。

また讃にいはく

帰去来魔郷には停まるべからず。
曠劫よりこのかた流転して、六道ことごとくみな経たり。
到る処に余の楽なし、ただ愁歎の声を聞く。
この生平を畢へて後、かの涅槃の城に入らん」と。

三に「瑠璃地上」より下「分斉分明」に至るこのかたは、まさしく地上の荘厳顕標殊勝なることを明かす。 これ依持円浄を明かす。 七宝の池林等はこれ能依、瑠璃の宝地はこれ所依なり。 地はこれ能持、池・台・樹等はこれ所持なり。 これ弥陀の因行周備せるによりて、感報をして円明ならしむることを致す。 明浄の義はすなはち無漏を体となす。 讃にいはく、

「宝地の荘厳比量なし。処々の光明十方を照らす。
宝閣・華台みな遍満す。雑色玲瓏として量るべきこと難し。
宝雲・宝蓋、空に臨みて覆ひ、聖衆飛通してたがひに往来す。
宝幢・幡蓋、風に随ひて転じ、宝楽輝を含みて念に応じて回る。

惑疑を帯して生ずるもの、華いまだ発けず。合掌籠々たることに処するに喩ふ。
うちに法楽を受けて微苦なし。障尽きて須臾に華おのづから開く。
耳目精明にして身金色なり。菩薩徐々として宝衣を授く。
光体に触るるに三忍を成ずることを得。
すなはち仏を見たてまつらんと欲して金台より下る。
法侶迎へ将て大会に入る。
尊顔を瞻仰して善哉と讃ず」と。

「金縄」といふ以下は、まさしく黄金を道となし、状金縄に似たることを明かす。 あるいは雑宝をもつて地となし、瑠璃を道となせり。 あるいは瑠璃をもつて地となし、白玉を道となせり。 あるいは紫金・白銀をもつて地となし、百宝を道となせり。 あるいは不可説の宝をもつて地となし、また不可説の宝をもつて道となせり。 あるいは千万宝をもつて地となし、二・三宝を道となせり。 かくのごとくうたたあひ間雑し、うたたともに合成し、うたたあひ照曜し、うたたあひ顕発して、光々色々おのおの不同にして、雑乱することなし。 行者等ただ金道のみありて、余宝を道となすことなしといふことなかれ。

四に「一一宝中有五百色光」より下「楽器以為荘厳」に至るこのかたは、まさしく空裏の荘厳を明かす。

すなはちその六あり。 一には宝多光を出すことを明かす。 二には喩へをもつてその相を顕すことを明かす。 三には光変じて台となることを明かす。 四には光変じて楼閣となることを明かす。 五には光変じて華幢となることを明かす。 六には光変じて宝楽の音となることを明かす。 また地上の雑宝、一々におのおの五百色の光を出す。 一々の色光上空中に湧きて一の光台となる。 一々の台のなかに宝楼千万なり。 おのおの一・二・三・四、乃至不可説の宝をもつて、もつて荘厳合成をなすことを明かす。
「如華又如星月」といふは、仏慈悲をもつて人の識らざることを畏れたまふがゆゑに、喩へを借りてもつてこれを顕す。
「於台両辺各有百億華幢」といふは、宝地衆多にして光明無量なり。 一々の光等しく化して光台となりて、空中に遍満す。 行者等行住坐臥につねにこの想をなせ。

五に「八種清風」より下「無我之音」に至るこのかたは、まさしく光、楽音と変じ、転じて説法の相を成ずといふことを明かす。 すなはちその三あり。 一には八風光より出づることを明かす。 二には風光すなはち出でて、すなはち楽を鼓ち音を発すことを明かす。 三には四倒四真、恒沙等の法を顕説することを明かす。
讃(浄土論・意)にいはく、

「安楽国は清浄にして、つねに無垢の輪を転ず
一念および一時に、もろもろの群生を利益す。
仏のもろもろの功徳を讃ずるに、分別の心あることなし。
よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」と。

六に「是為」より下は総じて結す。 上来六句の不同ありといへども、広く水観を明かしをはりぬ。

地観

【4】 三に地想観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその六あり。

一に「此想成時」よりは、まさしく前を結し後を生ずることを明かす。
二に「一一観之」より下「不可具説」に至るこのかたは、まさしく観成の相を弁ずることを明かす。 すなはちその六あり。 一には心に一境を標して、総雑してこれを観ずることを得ざれといふことを明かす。
二にはすでに一境をもつぱらにすれば、境すなはち現前す。 すでに現前することを得れば、かならず明了ならしむることを明かす。 三には境すでに心に現ずれば、目を閉ぢ目を開くに守りて失することなからしむることを明かす。 四には身の四威儀に昼夜つねに念じて、ただ睡時を除きて憶持して捨てざることを明かす。 五には心を凝らすこと絶えざれば、すなはち浄土の相を見ることを明かす。 これを想心中の見と名づく、なほ覚想あるがゆゑなり。 六には想心やうやく微にして覚念たちまちに除こり、正受相応して三昧を証し、真にかの境の微妙の事を見る、なにによりてかつぶさに説かんやといふことを明かす。 これすなはち地広くして無辺なり。 宝幢一にあらず。 衆珍彩を曜かして、転変いよいよ多し。 ここをもつて〔仏は〕物を勧めて心を傾け、つねに目に対するがごとくならしむ。

三に「是為」より下は総じて結す。
四に「仏告阿難」より下「説是観地法」に至るこのかたは、まさしく流通を勧発して、縁に随ひて広く説かしむることを明かす。

すなはちその四あり。 一には告命を明かす。 二には仏語を勧持して、広く未来の大衆のために前の観地の益を説かしむることを明かす。 三には機の受くるに堪へ信ずるに堪へたるを簡び、この娑婆生死の身の八苦・五苦・三悪道の苦等を捨つることを得んと欲して、聞きてすなはち信行するものには、身命を惜しまず、急にためにこれを説けといふことを明かす。 もし一人も苦を捨てて生死を出づることを得れば、これを真に仏恩を報ずと名づく。 なにをもつてのゆゑに。 諸仏世に出でて種々の方便をもつて衆生を勧化したまふは、ただ悪を制し福を修して、人天の楽を受けしめんと欲するにはあらざればなり。

人天の楽はなほ電光のごとし。 須臾にすなはち捨てて、還りて三悪に入りて長時に苦を受く。 この因縁のために、ただ勧めてすなはち浄土に生ずることを求めて無上菩提に向かはしめたまふ。 このゆゑにいまの時の有縁、あひ勧めて誓ひて浄土に生ぜしむるは、すなはち諸仏の本願の意に称ふ。 もし信行を楽はざるものは、『清浄覚経』(平等覚経・四意)にのたまふがごとし。
「もし人ありて浄土の法門を説くを聞きて、聞けども聞かざるがごとく、見れども見ざるがごとくなるは、まさに知るべし、これらははじめて三悪道より来りて、罪障いまだ尽きず。 これがために信向することなきのみ。
仏のたまはく、〈われ説かく、この人はいまだ解脱を得べからず〉」と。
この『経』(同・四意)にまたのたまはく、「もし人浄土の法門を説くを聞き、聞きてすなはち悲喜交はり流れ、身の毛為竪つものは、まさに知るべし、この人は過去にすでにかつてこの法を修習して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得」と。

四にはまさしく教へて宝地を観じてもつて心を住めしむることを明かす。
五に「若観是地者」より下「心得無疑」に至るこのかたは、まさしく観の利益を顕すことを明かす。 すなはちその四あり。 一には法を指すことを明かす。 ただ宝地を観じて余境を論ぜず。 二には無漏の宝地を観ずるによりて、よく有漏多劫の罪を除くことを明かす。 三には捨身以後かならず浄土に生ずることを明かす。 四には因を修すること正念にして、疑を雑ふることを得ざれといふことを明かす。 往生を得といへども、華に含まれていまだ出でず。 あるいは辺界に生じ、あるいは宮胎に堕す。 あるいは大悲菩薩(観音)の開華三昧に入りたまふによりて疑障すなはち除こり、宮華開発し身相顕然なり。 法侶携へ将て仏会に遊ばしむ。

これすなはち心を注めて宝地を見るに、すなはち宿障を滅す。 願行の業すでに円かにして、命尽きて往かざることを疑ふことなし。 いますでにこの勝益を覩る、さらに勧めて邪正を弁知せしむ。
六に「作是観」より以下は、まさしく観の邪正を弁ずることを明かす。 邪正の義は前の日観のなかにすでに説けり。
上来六句の不同ありといへども、広く地観を明かしをはりぬ。

宝樹観

【5】 四に宝樹観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十あり。
一に「仏告阿難」より下「次観宝樹」に至るこのかたは、まさしく告命して総じて観の名を挙げて、前を結して後を生ずることを明かす。
二に「観宝樹」といふは、かさねて観の名をす。
「一一観之」といふ以下は、後の観の相を生じてまさしく儀則を教ふ。 これ弥陀の浄国広闊にして無辺なることを明かす。 宝樹・宝林、あに七行をもつて量となさんや。 いま「七重」といふは、あるいは一樹あり、黄金を根となし、紫金を茎となし、白銀を枝となし、碼碯を条となし、珊瑚を葉となし、白玉を華となし、真珠を菓となす。 かくのごとき七重たがひに根・茎、乃至華・菓等をなせば、七々四十九重なり。 あるいは一宝を一樹となすもの、あるいは二・三・四、乃至百千万億不可説の宝を一樹となすものあり。 この義、『弥陀経義』のなかにすでに広く論じをはりぬ。 ゆゑに七重と名づく。
「行」といふは、かの国の林樹多しといへども、行々整直にして雑乱なし。
「想」といふは、いまだ真観を閑ひて自在に心に随はざれば、かならず仮想によりてもつて心を住めて、まさによく益を証す。
三に「一一」より下「由旬」に至るこのかたは、まさしく樹の体と量とを明かす。 これもろもろの宝林樹、みな弥陀無漏の心中より流出することを明かす。 仏心これ無漏なるによるがゆゑに、その樹またこれ無漏なり。
讃(浄土論)にいはく、

正道の大慈悲、出世の善根より生ず。
浄光明の満足せること、鏡と日月輪とのごとし」と。

「量」といふは、一々の樹の高さ三十二万里なり。 また老死のものなく、また小生のものなく、また初生漸長のものなし。 起することすなはち同時にたちまちに起りて、量数等斉なり。 なんの意ぞしかるとならば、かの界は位これ無漏無生の界なり。あに生死漸長の義あらんや。

四に「其諸宝樹」より下「以為映飾」に至るこのかたは、まさしく雑樹・雑厳・雑飾の異相を明かす。 すなはちその四あり。 一には林樹の華葉間雑して不同なることを明かす。 二には一々の根・茎・枝・条・菓等みな衆宝を具せることを明かす。 三には一々の華葉うたたたがひに不同にして、瑠璃の色のなかより金色の光を出す。 かくのごとくうたたあひ間雑することを明かす。 四にはさらに一切の雑宝をもつてこれを厳飾せることを明かす。
また讃(浄土論)にいはく、

「もろもろの珍宝の性を備へて、妙荘厳を具足せり。
無垢の光炎熾りにして、明浄にして世間を曜かす」と。

また讃にいはく

「弥陀の浄国、宝樹多し。
四面に条を垂れて、天衣挂り繞れり。
宝雲蓋を含み化鳥声を連ね、
旋転して空に臨み、法音を奏してに入る。
他方の聖衆、響きを聴きてもつて心を開き、
本国の能人、形を見て悟を取る」と。

五に「妙真珠網」より下「色中上者」に至るこのかたは、まさしく樹上の空裏の荘厳の相を明かす。 すなはちその七あり。 一には珠網空に臨みて樹を覆へることを明かす。 二には網に多重あることを明かす。 三には宮殿の多少を明かす。 四には一々の宮内にもろもろの童子多きことを明かす。 五には童子の身に珠の瓔珞を服せることを明かす。 六には瓔珞の光照の遠近を明かす。 七には光上色に超えたることを明かす。

六に「此諸宝林」より下「有七宝菓」に至るこのかたは、その林樹多しといへども雑乱なく、華実開くる時うちより出でざることを明かす。 これすなはち法蔵の因深くして、自然にしてあらしむることを致す。

七に「一一樹葉」より下「婉転葉間」に至るこのかたは、まさしく華葉の色相の不同なることを明かす。 すなはちその五あり。 一には葉量の大小等しくして差別なきことを明かす。 二には葉より光色を出す多少を明かす。 三には疑ひて識らざることを恐れて、喩へを借りてもつて顕すに、天の瓔珞のごとしといふことを明かす。 四には葉に妙華ありて、色天金に比し、相火輪に喩ふることを明かす。 五にはたがひにあひ顕照して、葉のあひだに婉転することを明かす。

八に「湧生諸菓」より下「亦於中現」に至るこのかたは、まさしく菓に不思議の徳用の相あることを明かす。 すなはちその五あり。 一には宝菓の生ずる時、自然に湧出することを明かす。 二には喩へを借りてもつて菓の相を標することを明かす。 三には菓に神光ありて、化して幡蓋となることを明かす。 四には宝蓋円明にして、うちに三千の界を現ずるに、依正の二厳種々の相現ずることを明かす。 五には十方の浄土あまねく蓋のなかに現じて、かの国の人天覩見せざるはなきことを明かす。 またこの樹の量いよいよ高く、縦広いよいよ闊く、華菓衆多にして、神変一にあらず。 一の樹すでにしかり。 かの国に遍満せるあらゆる諸樹の菓衆多にして、ことごとくみなかくのごとし、知るべし。 一切の行者、行住坐臥につねにこの想をなせ。

九に「見此樹已」より下「分明」に至るこのかたは、観成の相を弁ず。 すなはちその三あり。 一には観成の相を結することを明かす。 二には次第にこれを観じて、雑乱することを得ざれといふことを明かす。 三には一々に心を起して境に住めて、先づ樹根を観じ、次に茎・枝、乃至華・菓を想ひ、次にとを想ひ、次に童子と瓔珞とを想ひ、次に葉の量・華菓の光色を想ひ、次に幡蓋に広く仏事を現ずることを想ひ、すでによく一々に次第にこれを観ずるものは、明了ならざるはなきことを明かす。 十に「是為」より下は総じて結す。 これすなはち宝樹暉を連ぬ、網簾の空に殿あり。 華千色を分ち、菓他方を現ず。 上来十句の不同ありといへども、広く宝樹観を明かしをはりぬ。

宝池観

【6】 五に宝池観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその七あり。
一に「次当想水」より以下は、総じて観の名を挙ぐ。 すなはちこれ前をして後を生ず。 これ宝樹なりといへども、もし池水なくは、またいまだ好と名づけざることを明かす。 一には世界を空しくせざらしめんがため、二には依報を荘厳せんがためなり。 この義のためのゆゑに、この池渠観あり。
二に「極楽国土」より下「如意珠王生」に至るこのかたは、まさしく池数を明かし、ならびに出処を弁ず。 すなはちその五あり。 一には所帰の国を標指することを明かす。 二には池に八数の名あることを明かす。 三には一々の池岸七宝をもつて合成せることを明かす。 まさしく宝光映徹し通照するによりて、八徳の水雑宝の色に一同なり。 ゆゑに宝水と名づく。 四にはこのもろもろの衆宝体性柔軟なることを明かす。 五には八池の水みな如意宝のなかより出でて、すなはち如意水と名づくることを明かす。 この水にすなはち八種の徳あり。 一には清浄潤沢、すなはちこれ色入の摂なり。 二には臭からず、すなはちこれ香入の摂なり。 三には軽し。 四には冷し。 五には軟らかなり、すなはちこれ触入の摂なり。 六には美し、これ味入の摂なり。 七には飲む時調適す。 八には飲みをはりて患ひなし、これ法入の摂なり。 この八徳の義はすでに『弥陀義』のなかにありて広く説きをはりぬ。

また讃にいはく

「極楽荘厳安養国には、八徳の宝池流れて遍満せり。
四岸暉を含みて七宝を間へ、水色分明にして宝光に映ず。
体性柔軟にして堅触なし。
菩薩おもむろに行きて宝香を散ず。
宝香・宝雲、宝蓋となり、宝蓋空に臨みて宝幢を覆ふ。
宝幢の厳儀、宝殿を囲めり。宝殿の宝鈴、珠網に垂る。
宝網宝楽千重に転じ、機に随ひて宝宮楼を讃歎す。
一々の宮楼に仏会あり。恒沙の聖衆坐して思量す。
願はくはこの有縁つねに憶念して、捨命して同じくかの法堂に生ぜん」と。

三に「分為十四支」より下「以為底沙」に至るこのかたは、まさしく池分れてを異にし、旋還して乱るることなきことを明かす。 すなはちその三あり。 一には数の多少を明かす。 二には一々の渠岸黄金の色をなすことを明かす。 三には渠下の底沙雑宝の色をなすことを明かす。

「金剛」といふはすなはちこれ無漏の体なり。

四に「一一水中」より下「尋樹上下」に至るこのかたは、まさしく水に不思議のあることを明かす。 すなはちその五あり。 一には別して渠の名を指して、かの荘厳の相を顕すことを明かす。 二には渠内の宝華の多少を明かす。 三には華量の大小を明かす。 四には摩尼の宝水、華のあひだに流注することを明かす。 五には宝水渠より出でてもろもろの宝樹を尋ねて、上下するに礙なし。 ゆゑに如意水と名づくることを明かす。

五に「其声微妙」より下「諸仏相好者」に至るこのかたは、まさしく水に不可思議の徳あることを明かす。 すなはちその二あり。 一には宝水華のあひだに流注して、微波あひ触るるにすなはち妙声を出し、声のなかにみな妙法を説くことを明かす。 二には宝水岸に上りて、樹の枝・条・華・葉・菓等を尋ねて、あるいは上り、あるいは下り、中間にあひ触るるにみな妙声を出し、声のなかにみな妙法を説く。 あるいは衆生の苦事を説きて菩薩の大悲を覚動して、勧めて他を引かしめ、あるいは人天等の法を説き、あるいは二乗等の法を説き、あるいは地前・地上等の法を説き、あるいは仏地三身等の法を説くことを明かす。

六に「如意珠王」より下「念仏法僧」に至るこのかたは、まさしく摩尼多く神徳あることを明かす。

すなはちその四あり。 一には珠王のうちより金光を出すことを明かす。 二には光化して百宝の鳥となることを明かす。 三には鳥声哀雅にして天の楽も、もつて比方することなきことを明かす。 四には宝鳥音を連ねて同声に念仏法僧を讃歎することを明かす。 しかるに「仏」はこれ衆生無上の大師なり。 邪を除きて正に向かはしむ。 「法」はこれ衆生無上の良薬なり。 よく煩悩の毒病を断じて法身清浄ならしむ。 「僧」はこれ衆生無上の福田なり。 ただ心を傾けて四事疲労を憚らざれば、五乗の依果自然に念に応じて所須しかも至る。 その宝珠、前には八味の水を生じ、後には種々の金光を出す。 ただ闇を破し昏を除くのみにあらず、到る処によく仏事を施す。

七に「是為」より下は総じて結す。 上来七句の不同ありといへども、広く宝池観を明かしをはりぬ。

宝楼観

【7】 六に宝楼観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十一あり。

初めに「衆宝国土」といふは、すなはちこれ総じて観の名を挙げて、前をして後を生ず。 これ浄土に宝流灌注することありといへども、もし宝楼・宮閣なくは、またいまだとなさざることを明かす。 これがために依報の荘厳種々に円備す。
二に「一一界上」といふは、まさしく宝楼の住処を明かす。 地界かの国に遍すれば、楼また無窮なり。
三に「有五百億」といふは、まさしくその数を顕す。 一界の上すでにしかり。 かの国に遍満してまたみなかくのごとし、知るべし。
四に「其楼閣中」より下「作天伎楽」に至るこのかたは、まさしく閣内の荘厳を明かす。
五に「又有楽器」より下「不鼓自鳴」に至るこのかたは、まさしく楼外の荘厳を明かす。 宝楽空に飛びて、声法響を流す。 昼夜六時に天の宝幢のごとく、思なくして自事を成ず。
六に「此衆音中」より下「念比丘僧」に至るこのかたは、まさしく楽に識なしといへども、すなはち説法のあることを明かす。
七に「此想成已」より下「宝池」に至るこのかたは、まさしく観成の相を顕すことを明かす。 これ心をもつぱらにして境に住め、宝楼を見んと悕ひて、剋念して移らざれば、上よりの荘厳総じて現ずることを明かす。
八に「是為」より下は総じて結す。
九に「若見此者」よりは、前の観の相をして後の利益を生ず。
十に「除無量」より下「生彼国」に至るこのかたは、まさしく法によりて観察すれば、障を除くこと多劫なり。 身器清浄にして仏の本心に応ひ、捨身して他世にかならず往くこと疑なきことを明かす。
十一に「作是観者」より下「邪観」に至るこのかたは、観の邪正の相を弁ず。
上来十一句の不同ありといへども、広く宝楼観を明かしをはりぬ。

華座観

【8】 七に華座観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十九あり。 一に「仏告阿難」より下「除苦悩法」に至るこのかたは、まさしく勅聴許説したまふことを明かす。 すなはちその三あり。
一には二人告命することを明かす。 二には勅して聴かしめ、これをしてあきらかに受け、正念に修行せしむることを明かす。 三には仏ために華座の観法を説きたまふ。 ただよく心を住めて縁念すれば、罪苦除こることを得ることを明かす。

二に「汝等憶持」より下「解説」に至るこのかたは、まさしく流通を勧発したまふことを明かす。 これ観法は深要にして、すみやかに常没を救ふ。 衆生、妄愛の迷心をもつて六道に漂流す。 なんぢこの観を持ちて処々に観修し、あまねく知聞することを得しめ、同じく解脱に昇らしめよといふことを明かす。

三に「説是語時」より下「不得為比」に至るこのかたは、まさしく娑婆の化主(釈尊)はのためのゆゑに想を西方に住めしめ、安楽の慈尊(阿弥陀仏)はを知るがゆゑにすなはち東域(娑婆)に影臨したまふことを明かす。 これすなはち二尊の許応異なることなし。 ただ隠顕殊なることあるは、まさしく器朴の類万差なるによりてたがひに郢・匠たらしむることを致す。
「説是語時」といふはまさしく明かす、この意のなかにつきてすなはちその七あり。
一には二人に告勧する時を明かす。
二には弥陀声に応じてすなはち現じ、往生を得ることを証したまふことを明かす。
三には弥陀空にましまして立したまふは、ただ心を回らし正念にしてわが国に生ぜんと願ずれば、立ちどころにすなはち生ずることを得ることを明かす。

 問ひていはく、仏徳尊高なり、輒然として軽挙すべからず。 すでによく本願を捨てずして来応せる大悲者なれば、なんがゆゑぞ端坐してに赴かざるや。

答へていはく、これ如来(阿弥陀仏)別に密意ましますことを明かす。 ただおもんみれば娑婆は苦界なり。 雑悪同じく居して、八苦あひ焼く。 ややもすれば違返を成じ、詐り親しみて笑みを含む。 六賊つねに随ひて、三悪の火坑臨々として入りなんと欲す。 もし足を挙げてもつて迷ひを救はずは、業繋の牢なにによりてか勉るることを得ん。 この義のためのゆゑに、立ちながら撮りてすなはち行く。 端坐してもつて機に赴くに及ばざるなり。
四には観音・勢至もつて侍者となし、余衆なきことを表することを明かす。 五には三尊身心円浄にして、光明いよいよ盛りなることを明かす。 六には仏身の光明朗らかにして十方を照らす。 垢障の凡夫、なんぞよくつぶさに覩んといふことを明かす。 七には仏身無漏なれば、光もまた同じくしかなり。 あに有漏の天金をもつてこれに比方せんといふことを明かす。

四に「時韋提希見無量」より下「作礼」に至るこのかたは、まさしく韋提は実にこれ垢凡の女質なり、いふべきに足らず。 ただおもんみれば聖力冥に加して、かの仏現じたまふ時、稽首することを蒙ることを得ることを明かす。 これすなはち序には浄国に臨みて、喜歎してもつてみづから勝ふることなし。 いまはすなはちまさしく弥陀を覩たてまつりて、さらにますます心開けてを悟る。

五に「白仏言」より下「及二菩薩」に至るこのかたは、まさしく夫人仏恩を領荷し、のために疑を陳べて後の問を生ずることを明かす。 これ夫人の意は、仏(釈尊)いま現にましませば、尊の加念を蒙りて弥陀を覩たてまつることを得るも、仏滅後の衆生はいかにしてか見たてまつるべきといふことを明かす。

六に「未来衆生」より下「及二菩薩」に至るこのかたは、それ夫人物のために請を置けて、おのれに同じく見しむることを明かす。

【9】 七に「仏告韋提」より下「当起想念」に至るこのかたは、まさしく総告許説の言を明かす。

 問ひていはく、夫人の請を置くるは、おのれに通じて生のためにす。 如来の酬答したまふに及至りては、ただ韋提を指して生に通ぜざるや。

答へていはく、仏身化に臨みて法を説き、もつて機に逗ず。 請ぜざるすら、なほみづからあまねく弘めたまふ。 なんぞ別して指して等しく備へざることを論ぜん。 ただ文略をもつてのゆゑになし。 兼ねてこれがためにする心かならずあり。

 八に「七宝地上」より下「華想」に至るこのかたは、まさしく観の方便を教ふることを明かす。

 問ひていはく、衆生盲闇にして、想を逐ひて労を増す。 目に対して冥きこと夜遊するがごとし。 遠く浄境を標するに、なにによりてか悉すべき。

答へていはく、もし衆生の惑障動念に望まば、いたづらにみづから疲労せん。 仰ぎて聖力のはるかに加するを憑めば、所観、みな見しむることを致す。 いかんが作法して心を住めて見ることを得しむるや。 作法せんと欲せば、もろもろの行者等先づ仏像の前において心を至して懺悔して、所造の罪を発露し、きはめて慚愧を生じ、悲泣して涙を流せ。 悔過することすでに竟りて、また心口に釈迦仏・十方恒沙等の仏を請じ、またかの弥陀の本願を念じていへ。 「弟子某甲等生盲にして罪重く、障隔処深し。 願はくは仏の慈悲をもつて摂受護念し、指授し開悟せしめて、所観の境、願はくは成就することを得しめたまへ。 いまたちまちに身命を捨て、仰ぎて弥陀に属す。 見と不見と、みなこれ仏恩の力なり」と。 この語をいひをはりて、さらにまた心を至して懺悔しをはりて、すなはち静処に向かひて、面を西方に向かへて正坐跏趺すること、もつぱら前の法に同じ。 すでに心を住めをはりなば徐々に心を転じ、かの宝地の雑色分明なるを想へ。 はじめて想はんには多境を乱想することを得ざれ、すなはち定を得がたし。 ただ方寸・一尺等を観ぜよ。 あるいは一日・二日・三日、あるいは四・五・六・七日、あるいは一月・一年・二・三年等、日夜を問ふことなく、行住坐臥身口意業つねに定と合せよ。 ただ万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。
もしかくのごとくならざれば、三業縁に随ひて転じ、定想波を逐ひて飛ぶ。

たとひ千年の寿を尽せども、法眼いまだかつて開けず。

もし心に定を得る時は、あるいは先づ明相現ずることあり、あるいは先づ宝地等の種々に分明なる不思議のものを見るべし。

二種の見あり。 一には想見。 なほ知覚あるがゆゑに、浄境を見るといへどもいまだ多く明了ならず。 二にはもし内外の覚滅してすなはち正受三昧に入れば、見るところの浄境すなはち想見の比校をなすことを得るにあらず。

 九に「令其蓮華」より下「八万四千光」に至るこのかたは、まさしく宝華に種々の荘厳あることを明かす。 すなはちその三あり。 一には一々の華葉衆宝の色を備へたることを明かす。 二には一々の葉に衆多の宝脈あることを明かす。 三には一々の脈に衆多の光色あることを明かす。 これ行者をして心を住めて一一にこれを想はしめて、ことごとく心眼をして見ることを得しむ。 すでに華葉を見をはりなば、次に葉のあひだの衆宝を想ひ、次に宝より多光を出すに、光宝蓋となることを想ひ、次に華台・台上の衆宝および珠網等を想ひ、次に台上の四柱の宝幢を想ひ、次に幢上の宝幔を想ひ、次に幔上の宝珠光明雑色にして虚空に遍満して、おのおの異相を現ずることを想へ。 かくのごとく次第に一々に心を住めて捨てざれば、久しからざるあひだにすなはち定心を得。 すでに定心を得れば、かのもろもろの荘厳一切顕現す、知るべし。

十に「了了」より下は観成の相を弁ず。

十一に「華葉小者」より下「遍覆地上」に至るこのかたは、まさしく葉々に種々の荘厳あることを明かす。 すなはちその六あり。 一には華葉の大小を明かす。 二には華葉の多少を明かす。 三には葉間の珠映の多少を明かす。 四には珠に千光あることを明かす。 五には一々の珠の光変じて宝蓋となることを明かす。 六には宝蓋上虚空を照らし、下宝地を覆ふことを明かす。

十二に「釈迦毘楞伽」より下「以為交飾」に至るこのかたは、まさしく台上の荘厳の相を明かす。

十三に「於其台上」より下「妙宝珠以為映飾」に至るこのかたは、まさしく幢上の荘厳の相を明かす。 すなはちその四あり。 一には台上におのづから四幢あることを明かす。 二には幢の体量の大小を明かす。 三には幢上におのづから宝幔ありて、状天宮に似たることを明かす。 四には幢上におのづから衆多の宝珠ありて、輝光映飾することを明かす。

十四に「一一宝珠」より下「施作仏事」に至るこのかたは、まさしく珠光に不思議の徳用の相あることを明かす。 すなはちその五あり。 一には一々の珠に多光あることを明かす。 二には一々の光おのおの異色をなすことを明かす。 三には一々の光色宝土に遍することを明かす。 四には光の至るところの処、おのおの異種の荘厳をなすことを明かす。 五にはあるいは金台・珠網・華雲・宝楽となりて十方に遍満することを明かす。

十五に「是為」より下は総じて観の名を結す。

十六に「仏告阿難」より下「比丘願力所成」に至るこのかたは、まさしく華座得成の所由を明かす。

十七に「若欲念彼仏者」より下「自見面像」に至るこのかたは、まさしくかさねて観の儀を顕すことを明かす。 前のごとく次第に心を住めて雑乱することを得ざれ。
十八に「此想成者」より下「生極楽世界」に至るこのかたは、まさしく観成の相を結することを明かす。 すなはち二の益あり。 一には除罪の益を明かす。 二には得生の益を明かす。
十九に「作是観者」より下「名為邪観」に至るこのかたは、まさしく観の邪正の相を弁ずることを明かす。 これすなはち華は宝地により、葉は奇珍を間へ、台は四幢を瑩き、光は仏事を施す。 上来十九句の不同ありといへども、広く華座観を明かしをはりぬ。

像観

【10】 八に像観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十三あり。
一に「仏告阿難」より下「次当想仏」に至るこのかたは、まさしく前を結し、後を生ずることを明かす。 「所以者何」といふは、これその問なり。 仏を想ふべき所以はいかんとなり。
二に「諸仏如来」より下「心想中」に至るこのかたは、まさしく諸仏の大慈、〔衆生の〕心に応じてすなはち現じたまふことを明かす。 この勝益あるがゆゑに、なんぢを勧めてこれを想はしむ。

 問ひていはく、韋提の上の請にはただ弥陀を指す。 いぶかし、如来(釈尊)いま総じて諸仏を挙げたまふ、なんの意かあるや。 答へていはく、諸仏は三身同じく証し、悲智の果円かなること等斉にして二なく、端身一坐にして影現すること無方なり。 意、有縁に赴く時、法界に臨むことを顕さんと欲す。

 「法界」といふは三義あり。 一には心遍するがゆゑに法界を解す。 二には身遍するがゆゑに法界を解す。 三には障礙なきがゆゑに法界を解す。 まさしくは心到るによるがゆゑに、身また随ひて到る。 身は心に随ふがゆゑに「是法界身」といふ。 「法界」といふはこれ所化の境、すなはち衆生界なり。 「身」といふはこれ能化の身、すなはち諸仏の身なり。 「入衆生心想中」といふは、すなはち衆生念を起して諸仏を見たてまつらんと願ずるによりて、仏すなはち無礙智をもつて知り、すなはちよくかの想心のうちに入りて現じたまふ。 ただもろもろの行者、もしは想念のうち、もしは夢定のうちに仏を見たてまつるは、すなはちこの義を成ずるなり。

三に「是故汝等」より下「従心想生」に至るこのかたは、まさしく利益を結勧することを明かす。 これ心を標して仏を想ふことを明かす。 ただ仏解をなして頂より足に至るまで心に想ひて捨てず、一々にこれを観じてしばらくも休息することなかれ。 あるいは頂相を想ひ、あるいは眉間の白毫乃至足下千輪の相を想へ。 この想をなす時、仏像端厳にして相好具足し、了然として現じたまふ。 すなはち心一々の相を縁ずるによるがゆゑに、すなはち一々の相現ず。 心もし縁ぜずは衆相見るべからず。 ただ自心に想作すれば、すなはち心に応じて現ず。 ゆゑに「是心即是三十二相」といふ。

「八十随形好」といふは、仏相すでに現ずれば、衆好みな随ふ。 これまさしく如来もろもろの想者を教へて具足して観ぜしめたまふことを明かす。 「是心作仏」といふは、自の信心によりて相を縁ずるは作のごとし。 「是心是仏」といふは、心よく仏を想へば、想によりて仏身現ず。 すなはちこの心仏なり。 この心を離れてほかにさらに異仏なければなり。 「諸仏正遍知」といふは、これ諸仏は円満無障礙智を得て、作意と不作意とつねによくあまねく法界の心を知りたまへり。 ただよく想をなせば、すなはちなんぢが心想に従ひて現じたまふこと、生ずるがごとしといふことを明かす。

あるいは行者ありて、この一門の義をもつて唯識法身の観となし、あるいは自性清浄仏性の観となすは、その意はなはだ錯れり。 絶えて少分もあひ似たることなし。 すでに像を想へといひて三十二相を仮立せるは、真如法界の身ならば、あに相ありて縁ずべく、身ありて取るべけんや。 しかも法身は無色にして眼対を絶す。 さらに類として方ぶべきなし。ゆゑに虚空を取りてもつて法身の体に喩ふ。

指方立相

またいまこの観門は等しくただ方を指し相を立てて、心を住めて境を取らしむ。 総じて無相離念を明かさず。

如来(釈尊)はるかに末代罪濁の凡夫の相を立てて心を住むるすらなほ得ることあたはず、いかにいはんや相を離れて事を求むるは、術通なき人の空に居して舎を立つるがごとしと知りたまへり。

【11】 四に「是故応当」より下「三仏陀」に至るこのかたは、まさしく前のごとき所益、専注すればかならず成ず、展転してあひ教へ、勧めてかの仏を観ぜしむることを明かす。
五に「想彼仏」よりは前をして後を生ず。 「先当想像」といふは所観の境を定む。
六に「閉目開目」より下「如観掌中」に至るこのかたは、まさしく観成の相を弁ずることを明かす。 すなはちその四あり。

一には身の四威儀、眼の開合に一の金像を見ること、目の前に現ずるがごとくに、つねにこの想をなせといふことを明かす。 二にはすでによく像を観ずれば、像すなはちすべからく坐処あるべし。 すなはち前の華座を想ひ、像上にましまして坐したまふと想へといふことを明かす。 三には像の坐せるを想見しをはりて、心眼すなはち開くることを明かす。 四には心眼すでに開けて、すなはち金像およびかの極楽のもろもろの荘厳の事を見るに、地上・虚空了然として礙なきことを明かす。

また像を観ずる住心の法はもつぱら前の説のごとし。 頂より一一にこれを想へ。 面の眉・毫相・眼・鼻・口・耳・咽・項・肩・臂・手・指を。 また心を抽きて上に向かひて胸・腹・臍・陰・脛・膝・・足・十指・千輪等を想へ。 一々にこれを想ひて、上より下に向かふを順観と名づけ、下の千輪より上に向かふを逆観と名づく。 かくのごとく逆順に心を住むれば、久しからずしてかならず成ずることを得。 また仏身および華座・宝地等もかならずすべからく上下通観すべし。 しかも十三観のなかに、この宝地・宝華・金像等の観もつとも要なり。 もし人を教へんと欲せば、すなはちこの法を教へよ。 ただこの一法成じぬれば、余の観すなはち自然にあきらかなり。
七に「見此」より以下は、上の像身観を結成して、後の二菩薩観を生ず。
八に「復当更作一大蓮華」より下「坐右華座」に至るこのかたは、まさしく上の三身観を成じて後の多身観を生ずることを明かす。

この二菩薩(観音・勢至)を観ぜんと欲するものは、もつぱら仏を観ずる法のごとくすべし。
九に「此想成時」より下「遍満彼国」に至るこのかたは、まさしく上の多身観を結成して、後の説法の相を生ずることを明かす。 これもろもろの行者等、行住坐臥につねにかの国の一切の宝樹、一切の宝楼、華、池等を縁ずることを明かす。 もしは礼念し、もしは観想して、つねにこの解をなせ。
十に「此想成時」より下「憶持不捨」に至るこのかたは、まさしく定によりて極楽の荘厳を見ることを得、また一切の荘厳みなよく妙法を説くを聞くことを明かす。 すでにこれを見聞しをはりて、つねに持ちて失することなきを定心を守ると名づく。
十一に「令与修多羅合」より下「見極楽世界」に至るこのかたは、観の邪正の相を弁ず。
十二に「是為」より下は総じて結す。
十三に「作是観者」より下「得念仏三昧」に至るこのかたは、まさしく剋念して観を修すれば、現に利益を蒙ることを明かす。 これすなはち群生障重くして、真仏の観階ひがたし。 ここをもつて大聖(釈尊)哀れみを垂れて、しばらく心を形像に注めしめたまふ。 上来十三句の不同ありといへども、広く像観を明かしをはりぬ。

真身観

【12】 九に真身観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十二あり。

一に「仏告阿難」より下「身相光明」に至るこのかたは、まさしく告命して前の像観を結成して、後の真身の観を生ずることを明かす。
二に「阿難当知」より下「金色」に至るこのかたは、まさしく真仏の身相天金の色に踰えたることを顕すことを明かす。
三に「仏身高六十」より下「由旬」に至るこのかたは、まさしく身量の大小を明かす。
四に「眉間」より下「菩薩為侍者」に至るこのかたは、まさしく総じて身相を観ずることを明かす。 すなはちその六あり。 一には毫相の大小を明かす。 二には眼相の大小を明かす。 三には毛孔光の大小を明かす。 四には円光の大小を明かす。 五には化仏の多少を明かす。 六には侍者の多少を明かす。

五に「無量寿仏」より下「摂取不捨」に至るこのかたは、まさしく身の別相を観ずるに、光有縁を益することを明かす。 すなはちその五あり。 一には相の多少を明かす。 二には好の多少を明かす。 三には光の多少を明かす。 四には光照の遠近を明かす。 五には光の及ぶところの処、ひとへに摂益を蒙ることを明かす。

 問ひていはく、つぶさに衆行を修して、ただよく回向すればみな往生を得。 なにをもつてか仏光あまねく照らすにただ念仏のもののみを摂する、なんの意かあるや。

答へていはく、これに三義あり。
一には親縁を明かす。 衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。 身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。 心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。 衆生仏を憶念すれば、仏もまた衆生を憶念したまふ。 彼此の三業あひ捨離せず。 ゆゑに親縁と名づく。
二には近縁を明かす。 衆生仏を見たてまつらんと願ずれば、仏すなはち念に応じて現じて目の前にまします。 ゆゑに近縁と名づく。
三には増上縁を明かす。 衆生称念すれば、すなはち多劫の罪を除く。 命終らんと欲する時、仏、聖衆とみづから来りて迎接したまふ。 諸邪業繋もよく礙ふるものなし。 ゆゑに増上縁と名づく。

自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず

このゆゑに諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃めたり。 『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。 また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。 また十方恒沙の諸仏の証誠虚しからずと

唯標専念名号

またこの『経』(観経)の定散の文のなかに、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。 この例一にあらず。 広く念仏三昧を顕しをはりぬ

【13】 六に「其光相好」より以下は、少を結して多を顕す。 たやすく観ぜんと欲するものは、周悉することをなしがたし。
七に「但当憶想」より以下は、まさしく荘厳微妙にして凡境に出過せることを明かす。 いまだ目の前に証せずといへども、ただまさに憶想して心眼をして見たてまつらしむべし。
八に「見此事者」より下「摂諸衆生」に至るこのかたは、まさしく功呈れて失せず、観の益成ずることを得ることを明かす。

すなはちその五あり。 一には観によりて十方の諸仏を見たてまつることを得ることを明かす。 二には諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに、念仏三昧を結成することを明かす。 三にはただ一仏を観じてすなはち一切の仏身を観ずることを明かす。 四には仏身を見たてまつるによるがゆゑに、すなはち仏心を見たてまつることを明かす。 五には仏心は慈悲を体となし、この平等の大慈をもつてあまねく一切を摂したまふことを明かす。

九に「作此観者」より下「得無生忍」に至るこのかたは、まさしく捨身して他世にかしこに生ずる益を得ることを明かす。

十に「是故智者」より下「現前授記」に至るこのかたは、かさねて修観の利益を結勧することを明かす。 すなはちその五あり。 一には能修観の人を簡び出すことを明かす。 二には心をもつぱらにしてあきらかに無量寿仏を観ずることを明かす。 三には相好衆多なり。 総雑して観ずることを得ず。 ただ白毫の一相を観ずることを明かす。 ただ白毫を見たてまつることを得れば、一切の衆相自然に現ず。 四にはすでに弥陀を見たてまつれば、すなはち十方の仏を見たてまつることを明かす。 五にはすでに諸仏を見たてまつれば、すなはち定中において授記を蒙ることを得ることを明かす。
十一に「是為遍観」より以下は総じて結す。
十二に「作此観」より以下は、まさしく観の邪正の相を弁ずることを明かす。 これすなはち真形量遠くして毫五山のごとし震響機に随ひ、光有識を沾す。 〔釈尊は〕含霊をして帰命し、注想して遺りなく、仏(阿弥陀仏)の本弘に乗じて斉しくかの国に臨ましめんと欲す。 上来十二句の不同ありといへども、広く真身観を明かしをはりぬ。

観音観

【14】 十に観音観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十五あり。
一に「仏告阿難」より下「菩薩」に至るこのかたは、まさしく前の真身観を結成して、後の菩薩観を生ずることを明かす。
二に「此菩薩身長」より下「皆於中現」に至るこのかたは、まさしく総じて身相を標することを明かす。 すなはちその六あり。 一には身量の大小を明かす。 二には身色、仏と同じからざることを明かす。 三には肉髻、仏の螺髻と同じからざることを明かす。 四には円光の大小を明かす。 五には化仏の侍者の多少を明かす。 六には身光にあまねく五道の衆生を現ずることを明かす。

三に「頂上毘楞伽」より下「二十五由旬」に至るこのかたは、まさしく天冠のうちの化仏の殊異を明かす。

四に「観音」より以下は、まさしく面色と身色と同じからざることを明かす。

五に「眉間」より下「蓮華色」に至るこのかたは、まさしく毫光転変して十方に遍満し、化侍いよいよ多くしてさらに紅蓮の色に比することを明かす。

すなはちその五あり。 一には毫相七宝の色をなすことを明かす。 二には毫光の多少を明かす。 三には光に化仏まします多少を明かす。 四には侍者の多少を明かす。 五には化侍変現して十方に遍満することを明かす。

六に「有八十億光明」より下「荘厳事」に至るこのかたは、まさしく身に服せる光瓔、衆宝の作にあらざることを明かす。

七に「手掌作五百億」より下「接引衆生」に至るこのかたは、まさしく手に慈悲の用あることを明かす。 すなはちその六あり。 一には手掌雑蓮の色をなすことを明かす。 二には一々の指の端に八万の印文あることを明かす。 三には一々の文に八万余の色あることを明かす。 四には一々の色に八万余の光あることを明かす。 五には光体柔軟にして等しく一切を照らすことを明かす。 六にはこの宝光の手をもつて有縁を接引したまふことを明かす。

八に「挙足時」より下「莫不弥満」に至るこのかたは、まさしく足に徳用の相あることを明かす。

九に「其余身相」より以下は指して仏〔の相〕に同ず。

十に「唯頂上」より下「不及世尊」に至るこのかたは、まさしく師徒位別にして、果願いまだ円かならず。 二相をして虧けたることあらしむることを致して、不足の地に居することを表することを明かす。

十一に「是為」より下は総じて結す。

十二に「仏告阿難」より下「当作是観」に至るこのかたは、まさしくかさねて前の文を結し、その後の益を生ずることを明かす。

十三に「作是観者」より下「何況諦観」に至るこのかたは、まさしく観の利益を勧むることを明かす。

十四に「若有欲観観音」より下「如観掌中」に至るこのかたは、まさしくかさねて観の儀を顕してを勧め、心を傾けて両益に沾さしむることを明かす。

十五に「作是観」より以下は、まさしく観の邪正の相を弁ずることを明かす。 これすなはち観音願重くして十方に影現し、宝手輝を停めて機に随ひて引接したまふ。
上来十五句の不同ありといへども、広く観音観を明かしをはりぬ。

勢至観

【15】 十一に勢至観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十三あり。 一に「次観大勢至」より以下は、総じて観の名を挙ぐ。
二に「此菩薩身量大小」より以下は、次に観の相を弁ず。

すなはちその五あり。 一には身量観音に等類することを明かす。 二には身色観音に等類することを明かす。 三には面相観音に等類することを明かす。 四には身光・相好観音に等類することを明かす。 五には毫相光を舒べて転変すること観音に等類することを明かす。

三に「円光面各百二十五由旬」より以下は、まさしく円光等観音に同じからざる相を明かす。 すなはちその四あり。 一には円光の大小を明かす。 二には光照の遠近を明かす。 三には化仏の多少を明かす。 四には化仏の侍者の多少を明かす。

四に「挙身光明」より下「名大勢至」に至るこのかたは、まさしく身光遠く備へて有縁を照益し、等しく他方に及び、みな紫金の色をなすことを明かす。 すなはちその八あり。 一には身光の総別の不同を明かす。 二には光照の遠近を明かす。 三には光の触るるところの処、みな紫金の色をなすことを明かす。 四にはただ勢至と宿業縁あるもののみすなはちこの光を覩触することを得ることを明かす。 五にはただ一毛孔の光を見れば、すなはちよく多く諸仏の浄妙の身光を見ることを明かす。 これすなはち少を挙げてもつて多益を顕して、これを行ずるものをして悕心渇仰して、入観してもつてこれを証せしめんと欲す。 六には光によりてもつて名を立つることを明かす。 七には光の体・用を明かす。 すなはち無漏を体となすがゆゑに智慧光と名づく。 またよく十方三悪の苦を除息するを無上力と名づく。 すなはち用となす。 八には大勢至と名づくることは、これすなはち徳によりて名を立つることを明かす。

五に「此菩薩天冠」より下「皆於中現」に至るこのかたは、まさしく天冠の荘厳の相、観音と同じからざることを明かす。 すなはちその四あり。 一には冠上の宝華の多少を明かす。 二には一々の華上の宝台の多少を明かす。 三には一々の台のなかに十方諸仏の浄土を映現することを明かす。 四には他方の土現ずれども、彼此すべて増減なきことを明かす。

六に「頂上肉髻」より下「普現仏事」に至るこのかたは、まさしく肉髻の宝瓶の相を明かす。

七に「余諸身相」より以下は指して観音に同ず。

八に「此菩薩行時」より下「如極楽世界」に至るこのかたは、まさしく行じたまふに観音と同じからざる相を明かす。 すなはちその四あり。 一には行の不同の相を明かす。 二には震動の遠近の相を明かす。 三には震動するところの処、華現ずること多きことを明かす。 四には所現の華高くしてかつ顕れ、多くのもろもろの瑩飾もつて極楽の荘厳に類することを明かす。

九に「此菩薩坐時」より下「度苦衆生」に至るこのかたは、まさしく坐したまふに観音に同じからざる相を明かす。

すなはちその七あり。 一には坐する相を明かす。 二には先づ本国を動ずる相を明かす。 三には次に他方を動ずる遠近の相を明かす。 四には下上の仏刹を動揺する多少の相を明かす。 五には弥陀・観音等の分身の雲集する相を明かす。 六には空に臨みて側塞してみな宝華に坐したまふことを明かす。 七には分身の説法おのおの所宜に応ずることを明かす。

 問ひていはく、『弥陀経』にのたまはく、「かの国の衆生衆苦あることなし。 ただもろもろの楽を受く。 ゆゑに極楽と名づく」と。 なんがゆゑぞ、この『経』(観経)に分身、法を説きてすなはち苦を度すとのたまへるはなんの意かあるや。

答へていはく、いま苦楽といふは二種あり。 一には三界のなかの苦楽、二には浄土のなかの苦楽なり。 三界の苦楽といふは、苦はすなはち三塗・八苦等、楽はすなはち人天の五欲・放逸・繋縛等の楽なり。 これ楽といふといへども、しかもこれ大苦なり。 かならずつひに一念真実の楽あることなし。 浄土の苦楽といふは、苦はすなはち地前地上に望めて苦となし、地上を地前に望めて楽となす。 下智証上智証に望めて苦となし、上智証を下智証に望めて楽となす。 この例一を挙ぐるに知るべし。 いま「度苦衆生」といふは、ただ下位を進めて上位に昇らしめ、下証を転じて上証を得しめんがためなり。 本の所求に称ふをすなはち名づけて楽となす。 ゆゑに度苦といふ。 もししからずは、浄土のなかの一切の聖人はみな無漏をもつてとなし、大悲をとなす。 畢竟常住にして分段の生滅を離れたり。 さらになんの義につきてか名づけて苦となさんや。

 十に「作此観者」より下「十一観」に至るこのかたは、まさしく観の邪正を弁じ、総じて分斉を結することを明かす。

十一に「観此菩薩者」より以下は、まさしく修観の利益、罪を除くこと多劫なることを明かす。

十二に「作此観者」より下「浄妙国土」に至るこのかたは、まさしく総じて前の文を結し、かさねて後の益を生ずることを明かす。

十三に「此観成」より以下は、まさしく総じて二身をして観成の相を弁ずることを明かす。 これすなはち勢至、威高くして、坐したまふに他国を揺がし、よく分身をして雲集して、法を演べてを利せしむ。 永く胞胎を絶ちてつねに法界に遊ばしむ。 上来十三句の不同ありといへども、広く勢至観を解しをはりぬ。

普観

【16】 十二に普観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその六あり。
一に「見此事時」より以下は、まさしく前をして後を生ずることを明かす。
二に「当起自心」より下「皆演妙法」に至るこのかたは、まさしく心を凝らし観に入りて、すなはちつねに自往生の想をなすことを明かす。 すなはちその九あり。 一には自生の想を明かす。 二には西に向かふ想を明かす。 三には華に坐する想を明かす。 四には華の合する想を明かす。 五には華の開くる想を明かす。 六には宝光来りて身を照らす想を明かす。 七にはすでに光照を蒙りて、眼開くる想をなすことを明かす。 八には眼目すでに開けて、仏・菩薩を見たてまつる想をなすことを明かす。 九には法を聞く想を明かす。

三に「与十二部経合」より下「不失」に至るこのかたは、まさしく定散に遺るることなく、心を守りてつねに憶することを明かす。 一にはすなはち観心明浄なり。 二にはすなはち諸悪生ぜず。 内に法楽と相応し、外にすなはち三邪の障なきによりてなり。

四に「見此事」より以下は観成の益を明かす。

五に「是為」より下は総じて結す。

六に「無量寿」より下「常来至此行人之所」に至るこのかたは、まさしくかさねて能観の人を挙げて、すなはち弥陀等の三身護念の益を蒙ることを明かす。 これすなはち群生念を注めて西方の依正二厳を見んと願ずれば、了々につねに眼に見るがごとし。 上来六句の不同ありといへども、広く普観を解しをはりぬ。

雑想観

【17】 十三に雑想観のなかにつきて、また先づ挙げ、次に弁じ、後に結す。 すなはちその十一あり。
一に「仏告阿難」より以下は、まさしく告命結勧して後を生ずることを明かす。
二に「先当観於一丈六」より以下は、まさしくを観じてもつてを表し、水を想ひてもつて地を表することを明かす。 これはこれ如来もろもろの衆生を教へて境を易へ、心を転じて観に入らしめたまふ。 あるいは池水の華の上にましまし、あるいは宝宮・宝閣のうちにましまし、あるいは宝林・宝樹の下にましまし、あるいは宝台・宝殿のなかにましまし、あるいは虚空・宝雲・華蓋のうちにまします。 かくのごとき等の処に一々に心を住めてこれを想ひて、みな化仏の想をなさしむ。 機・境あひ称ひて成ずることを得やすからしめんがためのゆゑなり。

三に「如先所説」より下「非心力所及」に至るこのかたは、まさしく境大に心小にしてにはかに成就しがたし。 聖意悲傷して、勧めて小を観ぜしむることを致すことを明かす。 四に「然彼如来」より下「必得成就」に至るこのかたは、まさしく凡心狭小にして、聖量いよいよ寛く、想を注むるに由なし。 成就しがたきことを恐れたまふことを明かす。 これすなはち小をもつてのゆゑに成じがたきにあらず、大によるがゆゑに現ぜざるにあらず。 ただこれ弥陀の願重くして、想者をしてみな成ぜしむることを致す。

五に「但想仏像」より下「具足身相」に至るこのかたは、まさしく比校してを顕すことを明かす。 像を想ふすらなほおのづから福を得ること無量なり、いかにいはんや真仏を観ずるものの益を得る功さらにはなはだし。

六に「阿弥陀」より下「丈六八尺」に至るこのかたは、まさしくよく所観の仏像を観ずるに、身に大小ありといへども、あきらかにみなこれ真なることを明かす。 すなはちその三あり。

一には弥陀の身通無礙にして、意に随ひて遍周することを明かす。

「如意」といふは二種あり。 一には衆生の意のごとし。 かの心念に随ひてみな応じてこれを度す。 二には弥陀の意のごとし。

五眼円かに照らし、六通自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく、身心等しく赴き、三輪をもつて開悟せしめて、おのおの益すること同じからず。

二にはあるいは大身を現じ、あるいは小身を現ずることを明かす。 三には身量に大小ありといへども、みな真金の色をなすことを明かす。 これすなはちその邪正を定む。

七に「所現之形」より以下は、まさしく身は大小殊なることありといへども、光相すなはち真と異なることなきことを明かす。

八に「観世音菩薩」より以下は、まさしく指して前の観に同ずることを明かす。 仏大なれば侍者また大なり。 仏小なれば侍者また小なり。

九に「衆生但観首相」より以下は、まさしく勧めて二別なることを観ぜしむることを明かす。 いかんが二別なる。 観音の頭首の上には一の立ちたまへる化仏ましまし、勢至の頭首の上には一の宝瓶あり。

十に「此二菩薩」より以下は、まさしく弥陀・観音・勢至等宿願の縁重く、誓同じくして、悪を捨てて等しく菩提に至るまで、影響のごとくあひ随ひて遊方化益することを明かす。

十一に「是為」より下は総じて結す。 上来十一句の不同ありといへども、広く雑想観を解しをはりぬ。

 上日観より下雑想観に至るこのかたは、総じて世尊前の韋提の第四の請に、「教我思惟正受」といへる両句に答へたまふことを明かす。

総讃

【18】 総じて讃じていはく、

初めに日観を教へて昏闇を除かしめ、水を想ひて氷となして内心を浄む。
地下の金幢あひ映発し、地上の荘厳億万重なり。

宝雲・宝蓋空に臨みて転じ、人天の音楽たがひにあひ尋げり。
宝樹瓔を垂れて菓に間雑し、池徳水を流して華のなかに注ぐ。
宝楼・宝閣みなあひ接し、光々あひ照らして等しくして蔭なし。
三華独りはるかに衆座に超え、四幢を承けて網珠羅なれり。
稟識の心迷ひてなほいまだ暁らず、心を住め像を観ずるに、静かにかしこに坐したまふ。
一念心開けて真仏を見たてまつる。身光・相好うたたいよいよ多し。
苦を救ひたまふ観音、法界を縁じ、時として変じて娑婆に入らざるはなし。
勢至の威光よく震動し、縁に随ひて照摂して弥陀に会せしむ。
帰去来、極楽は身を安んずるに実にこれなり。
正念に西に帰して華含むと想へ。仏の荘厳を見たてまつるに説法の声あり。
また衆生ありて心にを帯して、真の上境を縁ずるに成じがたきことを恐れて、如来漸観を開かしむることを致す。
華池の丈六等の金形、変現の霊儀大小ありといへども、の時宜に応じて有情を度す。

あまねく同生の知識等を勧む。専心に念仏して西に向かひて傾け。

【19】 また前の請のなかにつきて、初め日観より下華座観に至るこのかたは総じて依報を明かし、二に像観より下雑想観に至るこのかたは総じて正報を明かす。
上来依正二報の不同ありといへども、広く定善一門の義を明かしをはりぬ。