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「念声是一」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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と、下至十声(下十声に至るまで)と釈された。これは『観経』下品下生の、
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:如是 至心令声不絶 '''具足十念 称南無阿弥陀仏'''。称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪。
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::かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。{{DotUL|仏名を称するがゆゑに}}、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。([[仏説_観無量寿経#P--116|観経 下品下生P.116]])
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とある「具足十念 称南無阿弥陀仏」の文を『大経』の「[[乃至十念]]」と会合されたからであった。それは[[定善]]・[[散善]]を説く『観経』を釈尊が後世に流通する一段に、
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:なんぢ、よくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。([[観経#P--117|観経 P.117]])
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:まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 ([[観経疏 散善義 (七祖)#P--500|散善義 P.500]])
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と、仏の本願を説く『大経』の乃至十念を『観経』の付属の教説に見られたのである。
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2019年2月8日 (金) 15:48時点における版

ねんしょう-ぜいち

 第十八願の「乃至十念」を善導大師は「下至十声」と称されたから、「念」と「声」とは同一であるということ。『選択集』に示される解釈。(一代記 P.1232)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

善導大師は第十八願の「乃至十念」の文を、

もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ。(若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不者正覚)(往生礼讃 P.711)

と、下至十声(下十声に至るまで)と釈された。これは『観経』下品下生の、

如是 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏。称仏名故 於念念中 除八十億劫生死之罪。
かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。(観経 下品下生P.116)

とある「具足十念 称南無阿弥陀仏」の文を『大経』の「乃至十念」と会合されたからであった。それは定善散善を説く『観経』を釈尊が後世に流通する一段に、

なんぢ、よくこの語を持(たも)て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり。(観経 P.117)

とある「この語を持て」の称名を指示する語によって、善導大師は、

まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通せしめたまふことを明かす。上来定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。 (散善義 P.500)

と、仏の本願を説く『大経』の乃至十念を『観経』の付属の教説に見られたのである。

法然聖人は『選択本願念仏集』で、

問ひていはく、『経』(大経)には「十念」といふ、〔善導の〕釈には「十声」といふ。念・声の義いかん。
答へていはく、念・声は是一なり。なにをもつてか知ることを得る。『観経』の下品下生にのたまはく、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く」と。
いまこの文によるに、声はこれ念なり、念はすなはちこれ声なり。その意明らけし。{中略} ゆゑに知りぬ、念はすなはちこれ唱なりと。(選択本集P.1212)

と、『大経』の乃至十念と『観経』の「声をして絶えざらしめて、十念を具足」を会合して、念と声は同じ(念声是一)であるとされた。『大経』の第十八願の「欲生我国 乃至十念[1]」には直接には乃至十念を「称名」と指示する文がなかったから『観経』下品下生の「至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏[2]」と会合されたからである。ただ四十八願に重ねて誓う「重誓偈」には、

われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。(大経 P.24)

と、「名声」とあり、異訳の『平等覚経』には、

仏言はく。若(なんじ)起ちて更に袈裟を被て西に向ひて拝し、日の没する処に当りて無量清浄仏の為に礼を作し、頭面を以て地に著け、南無無量清浄平等覚と言へと。(平等覚経)

とあり、同じく異訳の『大阿弥陀経』にも、

仏の言く、若(なん)じ起ちて更た袈裟を被て西に向て拝し、まさに日の所没の処に当りて、阿弥陀仏の爲に礼を作し、頭脳を以て地に著け、南無阿弥陀三耶三仏檀と言え。(大阿弥陀経)

と、阿難が名号を口に称えて、阿弥陀仏の浄土を目の当たりに拝見したという記述はある。しかし所依の『無量寿経』(大経)には、第十八願の乃至十念称名とする直接の記述は無い。法然聖人は善導大師の『観経疏』の「一心専念弥陀名号」の語によって回心されたことは有名であり、浄土に往生することの意義を示された。→法然聖人の回心
いわゆる偏依善導(へんね-ぜんどう)(ひとえに善導に依る)という法然聖人は善導大師の『観経疏』『観念法門』『往生礼讃』等の釈によって「念声是一」を主張されたのであった。

この意を御開山は『唯信鈔文意』で、『往生礼讃』を引き、

十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願第十八願)には、「若我成仏(にゃくが-じょうぶつ) 十方衆生(じっぽう-しゅじょう) 称我名号(しょうが-みょうごう) 下至十声(げし-じっしょう) 若不生者(にゃくふ-しょうじゃ) 不取正覚(ふしゅ-しょうがく)」(礼讃 七一一)と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。(唯文 P.717)

と「称我名号 下至十声」の文を引かれ「念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なし」と念声是一の意を示しておられた。信心を強調された蓮如さんは、念声是一を問われ、

おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり とこころうれば、口も心もひとつなり。 (一代記 P.1232)

と答えられ、心と口の表裏一体化とされておられた。
しかし、御開山第十八願の「乃至十念」を『観経』ではなく、『大経』の第十七願から顕された。『観経』の説相には真仮があるからである。 また、明恵高弁は『摧邪輪莊嚴記』で、法然聖人の「念声是一釈」に対して、

此義甚不可也。念者是心所 声者是色 心色既異何為一体乎。
この義はなはだ不可なり。念はこれ心所、声はこれ色、心色すでに異なり、何ぞ一体と為すや。(*)

と論難していた。これに対して、第十八願の乃至十念の十念を第十七願の諸仏の教位において称名であるとされたのであった。→

その称名の顕現相を『浄土論』の、

かの如来の名を称するに、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲するがゆゑなり。(浄土論 P.33)

の文を釈した『論註』「讃嘆門」の、

「かの如来の名を称す」とは、いはく、無礙光如来の名を称するなり。「かの如来の光明智相のごとく」とは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明は十方世界を照らしたまふに障礙あることなし。 よく十方衆生の無明黒闇を除くこと、日・月・珠光のただ空穴のなかの闇をのみ破するがごときにはあらず。 「かの名義のごとく、如実に修行して相応せんと欲す」とは、かの無礙光如来名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。 (論註 P.103)

の「如実修行相応」である「無礙光如来の名をするなり」に拠られていた。そして、

大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。(行巻 P.141)

と、されて「第十七願の「ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ(不悉咨嗟 称我名者 不取正覚)」に称名の根拠をみておられた。第十七願」は、十方世界の無量の諸仏にわが名を称揚されようという願であるのだが、この諸仏の「咨嗟称」は衆生に〔なんまんだぶ〕を称える教と法と行を告げしめる願であるとみられたのであった。それを「選択称名の願」とされ、阿弥陀仏の第十八願の乃至十念が第十七願の諸仏の教位によってあらわされているとされたのであった。

称名
乃至十念
大行
いま…かくのごとし
誓願一仏乗

参照WEB版浄土宗大辞典の「念声是一」の項目


  1. 欲生我国 乃至十念(わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん)
  2. 至心令声不絶 具足十念 称南無阿弥陀仏(心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)