「垂名示形」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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:[[真如]]はすなはちこれ[[一如]]なり。しかれば弥陀如来は'''[[如]]より来生して'''、[[報応化|報・応・化]]、種々の身を示し現じたまふなり。([[証巻#P--307|証巻 P.307]]) | :[[真如]]はすなはちこれ[[一如]]なり。しかれば弥陀如来は'''[[如]]より来生して'''、[[報応化|報・応・化]]、種々の身を示し現じたまふなり。([[証巻#P--307|証巻 P.307]]) |
2019年12月14日 (土) 08:06時点における版
すいみょう-じぎょう 漢音では、すいめい-じけい
垂名示形(名を
と示される。この阿弥陀仏のさとりの本性である真如は、自他、善悪、愛憎、生死、因果といった二元的な分別の領域を超えている。言葉によってモノ/コトを概念化して理解し把握する我ら衆生には理解が不可能な領域である。生死相対の世界に生きている我らには、阿弥陀仏のさとりの界(真仏真土)と直接の交渉をひらくことは不可能である。そこで、そのさとりの界(浄土)とわれらとの交接を媒介するために「御なをしめして、衆生にしらしめたまふ」(一多 P.691) のである。これを垂名といふ。こうして阿弥陀仏の成就した名号(なんまんだぶ)は一面娑婆につながり、他方浄土につながるのである。その真如一実の界(さかい)から、弥陀如来は如より来生(弥陀如来 従如来生)して口に称えられる仏陀として示現することを如来(垂名示形)といふのである。
阿弥陀如来の真如法性のさとりの世界は窺う術(すべ)もないのだが、その一如の世界の主人公である如来と衆生との交流を成立せしめるのが、なんまんだぶという口業(語業)であった。仏の名を称えるということは、仏がわたしの上に顕現しているのであって、これを「念仏衆生摂取不捨」というのである。→名体不二
『一念多念証文』には、
- この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。
- これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。 (一多 P.690-P.691)
とあり、真如から来生した法蔵菩薩が「無碍のちかひ」を建立して阿弥陀仏となられた「仏願の生起本末」の因果相を説かれている。この「一如宝海よりかたちをあらはして」が示形であり「御なをしめして」南無阿弥陀仏を成就され名号(名のり)としての活動相を垂名と真宗の先達は示されたのであった。
御開山はこの垂名としての名号を元照律師の釈を引かれて、
と、可聞可称の〔なんまんだぶ〕として真如法性から垂名示形しての名号による衆生済度の法を示されたのであった。「弥陀如来は如より来生して」の全徳施名(すべての徳を名に施す)のなんまんだぶであった。 →名体不二
その意を、梯實圓和上は『一念多念文意講讃』で、
- 無相中に相を示現し、無名中に名号を垂れて、衆生を呼び覚ましていくことを方便というといわれているのである。これを垂名示形といいならわしている。まさに「正直を方といふ、外己を便といふ」といわれた方便の釈そのままの姿であった。その相が南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、南無不可思議光仏だったのである。それはまさに一如が名号となって私どもの前に「如来」する相であった。 →親鸞聖人の仏身論
といわれていた。
なお同趣旨の文が『唯信鈔文意』極楽無為涅槃界釈(唯文 P.710)にもある。法性法身と方便法身について垂名示形を論ずる場合である。
- 法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。この一如よりかたちをあらはして、方便法身と申す御すがたをしめして、法蔵比丘となのりたまひて、不可思議の大誓願をおこしてあらはれたまふ御かたちをば、世親菩薩(天親)は「尽十方無碍光如来」となづけたてまつりたまへり。この如来を報身と申す、誓願の業因に報ひたまへるゆゑに報身如来と申すなり。報と申すはたねにむくひたるなり。この報身より応・化等の無量無数の身をあらはして、微塵世界に無碍の智慧光を放たしめたまふゆゑに尽十方無碍光仏と申すひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明の闇をはらひ、悪業にさへられず。このゆゑに無碍光と申すなり。無碍はさはりなしと申す。しかれば阿弥陀仏は光明なり、光明は智慧のかたちなりと知るべし。)(唯文 P.709)
とある、法性法身が方便法身となり示現し、認識しうる形としての方便法身を論ずる場合である。真実(真如)は真実であるかぎり煩悩に覆われた凡夫とは没交渉である。真実は真実だけでは真実ではない、真実は真実ならざるものを通して真実をあらわすから真実といえるのであった。
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