称名報恩
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
しょうみょう-ほうおん
『大経』第十八願には、信心と称名念仏とが誓われているが、信心こそが往生成仏の正因であるから、称名念仏は行者の心持ちからいえば阿弥陀仏に摂取された感謝の思いの中で名号が声となってあらわれ出たものであるということ。 『正信偈』に、
- ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。(行巻 P.205)
『化身土文類』には、
- ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要を摭うて、恒常に不可思議の徳海を称念す。(化巻 P.413)
等とある。また、称名正因などの異安心に対して、安心論題に「称名報恩」が設けられている。 →信心正因(浄土真宗辞典)
「称名報恩説」は「信心正因説」と相反するものと領解された時には、称名は「行者の心持ち」にすぎないのであるから、法の顕現である称名は二次的に受け取られることもある。→垂名示形、名体不二
『尊号真像銘文』の法然聖人の讃に、
『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏 往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。(尊号 P.665)
「往生の正因は念仏を本とす」とし「正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり」とされておられた。これを「念仏往生」といふ。
『柴門玄話』
三信釈に「至心則是至徳尊号為其体(至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とす)」(p.231)と云がごとし。かれ初(はじめの)心を釈して後の二心を彰す。三心則一なれば至心の体尊号なるときは信楽欲生もその体別なく、たヽ一尊号なり。
いはふる至心為体信楽為体(至心の体となし信楽の体となす)はこのこヽろなり。その尊号とは大行なり。大行露現の名願力をもて信心の体を顕わす。
第二巻(行文類)に「念仏則是 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏即是正念(念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なり)」(p.146)とあるはこのこヽろなり。思てみつべし。
それ信心といふは心中に快く名号を受けられたるなり。名号の外はすべて雑行雑修自力。その雑行雑修自力の心を捨離して「以斯義故必得往生(この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」(p169 で引文の善導大師の六字約の文)とある名号の信知せられたるを快く受けたりとす。
されば信心といふは たヽこれ名号を内心に獲得したるなり。
中興(蓮如)上人ちかく宝章(御文章)にのたまはく
- 信心といふはいかやうなることぞといへば、ただ南無阿弥陀仏なり。この南無阿弥陀仏の六つの字のこころをくはしくしりたるが、すなはち他力信心のすがたなり。(3-2)
又云く
- 南無阿弥陀仏といふは、すなはちこれ念仏行者の安心の体なり (4-6)
又云
- 当流の信心決定すといふ体は、すなはち南無阿弥陀仏の六字のすがたとこころうべきなり。(4-8)
又云
- 一流安心の体といふ事。南無阿弥陀仏の六字のすがたなりとしるべし。(4-4)
又云
- 当流の安心の一義といふは、ただ南無阿弥陀仏の六字のこころなり (5-9)
とも又
- 他力の信心をうるといふも、これしかしながら南無阿弥陀仏の六字のこころなり。(5-10)
又
- されば安心といふも、信心といふも、この名号の六字のこころをよくよくこころうるものを、他力の大信心をえたるひととはなづけたり。(5-13)
又
- されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。(5-22)
御開山は『尊号真像銘文』で、智栄の善導大師の徳をほめる讃を引かれ、
智栄讃善導別徳云(智栄善導の別徳を
- 「
善導阿弥陀仏化身 称仏六字 即嘆仏即懺悔 即発願回向 一切善根荘厳浄土 」
御開山はこの文を釈して、
- 「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
- 「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。(尊号 P.655)
とされておられた。注釈版の脚注では、この「…になる」を、
- 本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。以下、懺悔等について「…になる」というのも同様の意。(*)
とあるのだが、如実讃嘆ということから「なるとなり」とされた意を梯實圓和上の指南から少しく窺ふ。
天親菩薩の『浄土論』では五念門の讃嘆行を、
とある。御開山はこの「如実修行相応(如実に修行して相応せん)」の意を洞察されて、本願に選択された名号を称えることは、「不可称不可説不可思議」の阿弥陀如来の徳を過不足なく讃嘆したことになるのであり、無始已来の仏智を疑惑した罪業を懺悔したことになると領解されたのであろう。如実讃嘆とは阿弥陀仏の徳を知るゆえに如実といわれるのだが、真実に仏徳を知ることが出来なくても、凡夫の口に称えられる〔なんまんだぶ〕は如実讃嘆(実のごとく讃嘆)したことになり如実懺悔(実のごとく懴悔)したことになるとされたのであった。
深川倫雄和上は、
『一念多念証文』では、
とされておられた。称えて聞く〔なんまんだぶ〕は、まるで天秤ばかり(秤は称の俗字)にかけられたように仏徳に等しい「如実修行相応」の讃嘆行になるのであった。真実行である「大行」である所以である。
信因称報説を覚如上人がとなえられたのは、当時優勢であった多念の称名を強調する鎮西浄土宗に対抗する為に信の一念を強調されたのであった。そして称名に自力の称功を否定する論理が「称名報恩説」であった。行、または信の一念に往生は定まるという一念義系の者が称名を否定する為の論理が「称名報恩」であった。この意図を正確に把握しないと御開山が示された信心正因を誤解するのである。信心正因説は「菩提心正因説」でもあるのだが、これを正確に理解しないと「行信不離」というご法義を誤解することになる。覚如上人の示されたように信心正因は御開山のお示しであるが、何を信ずるかといえば、その体は、「願作仏心」の、なんまんだぶの名号法である。→名体不二
御開山は、関東の門弟の、一念義系の者が、念仏往生と信ずる者は自力だから本当のお浄土へ生まれる事はできない、「本願を信ずる人は一念なり、しかれば五万返無益也、本願を信ぜざるなりと申す」(西方指南抄) という一念義の者に論難された関東の門弟の問いに対して、
『御消息』で、
- 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり。信心ありとも、名号をとなへざらんは詮なく候ふ。また一向名号をとなふとも、信心あさくは往生しがたく候ふ。されば、念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。(消息 P.785)
といわれておられた。
法然聖人は、
- 又云、一念・十念にて往生すといへばとて、念仏を疎相に申せば、信が行をさまたぐる也。念念不捨といへばとて、一念・十念を不定におもへば、行が信をさまたぐる也。かるがゆへに信をは一念にむまるととりて、行をは一形にはげむべし。
- 又云、一念を不定におもふものは、念念の念仏ごとに不信の念仏になる也。そのゆへは、阿弥陀仏は、一念に一度の往生をあてをき給へる願なれば、念念ごとに往生の業となる也。(『和語灯録』禅勝房にしめす御詞)
といわれていた。
その意味において「信心正因 称名報恩」の術語を誤解することは「信が行をさまたぐる」のであり、御開山の正確な意では「称名業因」「称名讃嘆」というべきであろう。ともあれ、「信心正因 称名報恩」の語に拘泥して、ありもしない称名抜きの信心を門徒に説かざるをえない真宗の坊さんは可哀想ではある。
という訳で、信因称報説を強調する為とはいえ、これはアカンやろと思ふこともある。→鏡御影の讃
本願の名号は正定の業(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である)である。これを受け容れたことを信心正因というのであった。信心の対象は、なんまんだぶという耳に聞こえる阿弥陀仏の招喚なのであった。→信心正因
- 御開山のご影は珠数を持ち南無阿弥陀仏を称えている姿である。
鏡のご影 | 熊皮のご影 | 安城のご影 |
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