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信の一念

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年1月24日 (水) 12:54時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

しん-の-いちねん

 → 補註7 (真要鈔 P.981)

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

信心の開け(おこ)った最初の時のこと、またその信心のすがたを示す語。親鸞は、『大経』第十八願成就文に「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん」(大経 P.41)と説かれている「乃至一念」を信の一念を示す文と位置付けた。この一念に2種の解釈がある。
① 時剋の一念。阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心の開け発った最初の時をいう。「信巻」に本願成就文の一念について、「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(信巻 P.250) とある。この極促について2種の解釈がある。一つは「延(のびる)」に対する「促(ちぢまる)」の意で、「ちぢまりきった極限」という意味である。『文類聚鈔』には「往生の心行を獲得する時節の延促について乃至一念といふなり」(浄文 P.480)とある。
もう一つは、「機有奢促者といふは、機に奢促(しゃ-そく)あり、奢はおそきこころなるものあり、促は疾きこころなるものあり」(尊号 P.668) とある。

② 信相の一念。阿弥陀仏の救済を二心(疑心)なく信じることをいう。「信巻」には「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ」(信巻 P.251)とある。(浄土真宗辞典)

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補  註

阿弥陀仏
往生・真実証・浄土
機・衆生
具縛の凡愚・屠沽の下類
業・宿業
正定聚
信の一念・聞
真実教
旃陀羅
大行・真実行
大信・真実信
他力・本願力回向
同朋・同行
女人・根欠・五障三従
方便・隠顕
菩薩
本願
→七祖 補註へ

7 信の一念・聞

 親鸞聖人は『大経』(下 41)の第十八願成就文に、「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至(ないし)一念せん。(中略)すなはち往生を得、不退転に住せん」と説かれた「乃至一念」を信の一念とみなし、「信巻(しんかん)」(末 250) には、「それ真実の信楽(しんぎょう)を案ずるに、信楽に一念あり。一念とはこれ信楽開発(かいほつ)時剋(じこく)極促(ごくそく)を顕し、広大(こうだい)難思(なんじ)慶心(きょうしん)を彰すなり」と釈し、また『一多証文』には、「一念といふは信心をうるときのきはまりをあらはすことばなり」(678) と釈されている。つまり、阿弥陀仏の本願を聞いて疑いなく信受する信心が開け(おこ)った最初の時を信の一念時剋の一念)というのである。そのとき同時に衆生は、かならず往生することのできる身に定まるという利益を与えられる。そのことを、「すなはち往生することを得て、不退転に住せん」といわれたのであって、このことを信益(しんやく)同時という。
このように、信の一念に衆生は必ず往生することができる身に定まるということによって、信心一つで往生が定まるという唯信正因の法義が確立する。そしてまた、救いはまったく如来の御はからいによって成就するのであって、衆生のはからいはまったくかかわらないという絶対他力のいわれがあきらかになる。

 信の一念について、また「信巻」(末 251) には、「一念といふは、信心二心なきがゆゑに一念といふ」とある。これを前の時剋の一念に対して信相の一念という。信相とは、信心のすがたという意味であり、阿弥陀仏の救済をふたごころなく疑いなく信ずることをまた一念というのである。

 なお「信巻」(末 251) には、『大経』(下)の「聞其名号 (その名号を聞きて)」の「聞」を釈して、「聞といふは、衆生、仏願の生起(しょうき)本末(ほんまつ)を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり」といい、名号のいわれを(まさ)しく聞き開いたことが信心であるといわれている。これを「聞即信(もんそくしん)」といい、これによって他力回向(えこう)の信心は名号すなわち如来の招喚(しょうかん)勅命(ちょくめい)を聞いて成就するものであることがあきらかになる。


出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

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