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一念転釈

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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御開山は、本願成就文の一念を、

宗師(善導)の「専念」(散善義)といへるは、すなはちこれ一行なり。「専心」(同)といへるは、すなはちこれ一心なり。(信巻 P.252)(一念転釈漢文)

一心とされ、本願成就の信の一念である「一心」の転釈をおこなわれる。その転釈の意義を以下に(聖典セミナー『教行信証』[信の巻] p.355)から窺ってみる。

殊(こと)に「この心すなはちこれ大菩提心なり」とされ、「如来の浄土建立の正因と、衆生の往生の正因とが、まったく同じ大慈悲心のはたらきである」と梯實圓和上が示されるのは「信心が仏因であることを顕す」のであった。「信心正因」とは「信心仏因」であった。それは、ご信心とは回向される仏心であるからであった。
一念転釈漢文
ノート:一念転釈

一念転釈

聖典セミナー『教行信証』信巻 梯實圓 著


(1)専心とは、専一の心という意味で一心のことであり、無二心、すなわち無疑心であることを示されたものです。


(2)深心とは、『観無量寿経』に説かれた三心の第二心ですが、他力の三心は深心に帰一し、本願の信楽と同じ無疑の一心であることを示されたものです。


(3)深信とは、「散善義」の深心釈に「深心といふはすなはちこれ深く信ずる心なり」(『註釈版聖典』七祖篇四五七頁)といわれたように、深心は、機と法の真実を疑いなく聞き受けて深く信じている心であることを顕しています。


(4)堅固深信とは、「散善義」に「この心深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず」(『註釈版聖典』七祖篇四六四頁)といわれているように、何ものにも破壊されることのない堅固な信心であることをいいます。


(5)決定心とは、二種深信を表すときに、機法ともに「決定して深く信ず」といわれているように、深心の相を決定心として表されていたからです。


(6)無上上心とは、『般舟讃』に「われらが無上の信心を発起せしめたまふ」(『註釈版聖典』七祖篇七一五頁)といわれたものや、「玄義分」に「おのおの無上心を発せ」(『註釈版聖典』七祖篇二九七頁)といわれたものによって、造語されたもので、信心を「無上にして殊勝(上心)なる心」という意味で無上上心といわれたものです。


(7)真心とは、無上上心であるような信心は、如来より回向された真実心であるということを表したもので、言葉は「序分義」(『註釈版聖典』七祖篇三七四頁)や、『往生礼讃』の後述(『註釈版聖典』七祖篇七〇七頁)に「真心徹到」といわれているものによられたものでしょう。


(8)相続心とは、真実の信心は、余念(自力のはからい)がまじわらないから、生涯、間断することなく相続するというので、信心の異名とされています。次の淳心とともに、『往生論註』下(『註釈版聖典』七祖篇一〇三頁)の讃嘆門釈に不如実修行を表す三不信のなかに不相続心として表されていました。相続心といわれたのは、『安楽集』上(『註釈版聖典』七祖篇二三二頁)です。


(9)淳心とは、自力の虚飾のまじわらない淳朴な心ということであり、浅薄な自力の心に対して、淳厚な他力の信心を表す名称です。『往生論註』では、不如実の心として、信心不淳といわれていますが、『安楽集』では、如実の信心を表す言葉として淳心といわれています。


(10)憶念とは、一般には、心にとどめて忘れないことですが、『一念多念文意』には、「念は如来の御ちかひをふたこごろなく信ずるをいふなり」(『註釈版聖典』六九二頁)といわれており、『唯信紗文意』には、「憶念とは、信をえたるひとは疑いなきゆゑに本願をつねにおもひいづるころのたえぬをいふなり」(『註釈版聖典』七〇五頁)といわれています。すなわち憶念とは、本願を疑いなく受け容れ、思い浮かべている信心のこととみなされています。


(11)真実の一心とは、「化身土文類」に、『阿弥陀経』の一心を釈して、「一の言は無二に名づくるの言(みこと)なり。心の言は真実に名づくるなり」(『註釈版聖典』三九八頁)といわれていました。すなわち『阿弥陀経』に顕の義で説かれた一心は自力の信心ですが、隠彰の意味で読み取れば、他力真実の一心であると顕されたわけです。親鸞聖人は、信心が一心であるということを『浄土論』によって論述されています。しかし『阿弥陀経』を隠彰の義で拝読すれば、信心を一心と説かれている一面のあることを示されたものです。


(12)大慶喜心とは、『無量寿経』の「東方偈」には、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば」(『註釈版聖典』四七頁)と説かれており、その意によって「正信偈」には「獲信見敬大慶喜」(『註釈版聖典』二〇四頁)といわれています。その「大慶」について『尊号真像銘文』には、「大慶は、おほきにうべきことをえてのちによろこぶといふなり」(『註釈版聖典』六七三頁)といわれています。すなわち、聞くべきことを聞き受け、疑いなく信じていることを大いに喜ぶ心が信心でもあることを示された言葉です。そのような慶喜心は、人間の心から出てくるものではなく、如来から与えられた信心に自ずから具わっている喜びだったのです。


(13)真実信心とは、『往生礼讃』に深心を釈して、「すなはちこれ真実の信心なり」(『註釈版聖典』七祖篇六五四頁)といわれたものがそれです。その真実とは、如来の悲智円満の真実心をいい、そのような仏心が衆生に回向された信心であるから、真実信心といわれるというのが親鸞聖人の領解です。


(14)金剛心の金剛について、『六要妙』第一に、「金剛というは、他力の信楽堅固にして動ぜざること瞼えを金剛に仮る、これ不壊の義なり」(『真聖全』二、二一〇頁)といわれています。すなわち本願力回向の信楽は、仏智であるような心ですから、堅固であって、何ものにも破壊されることがない、不破、不変、不動の徳を持っていることを金剛に喩えたといわれるのです。もともと金剛とは金剛石、ダイヤモンドですが、武器でいえば武神であるインドラの持っている金剛杵です。金剛石は最高の硬度をもっている堅固な宝石であり、ほかの何ものにも破壊されることがなく、反対にどんなものでも切ることができる鋭利なはたらきを持っています。金剛杵も鋭利な武器で、どんなに堅固な鎧でも刺し貫くはたらきを持っているといわれています。信心も、自力発起の信ならば、かならず「異学、異見、別解、別行の人等」によって動乱、破壊せられることがあります。しかし、仏智を体としている信楽は堅固であって、何ものにも破壊されないから金剛に瞼えられたわけです。[1]


(15)願作仏心とは、仏になろうと願う心で、自利の成就を期する心です。


(16)度衆生心とは、衆生を済度しようと願う心ですから、利他の成就を期する心です。願作仏心と度衆生心は、自利と利他の成就を誓願する菩提心の両面を表したものです。


(17)衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心とは、度衆生心を説明されたものです。衆生を済度するということは、妄念煩悩を断ち切って解脱せしめ、安らかな涅槃の領域に到達させていくことです。 その涅槃の境界こそ、阿弥陀仏が大智大悲をこめて成就された安楽浄土です。五濁無仏の世界で、煩悩にまつわられている苦悩の衆生を救う道は、安楽浄土に往生せしめていくほかに道はありません。それゆえ衆生を済度するとは安楽浄土に生まれしめることであるといわねばなりません。曇鸞大師が、「かの仏国はすなはちこれ畢竟成仏の道路、無上の方便なり」(『註釈版聖典』七祖篇一四五頁)といわれたゆえんです。


(18)大菩提心とは、願作仏心度衆生心、摂取衆生生安楽浄土心という三種の心が、要するに自利利他の完成を願う大菩提心の内容であるということです。とくに度衆生心を具体化した心は、衆生を安楽浄土に往生せしめようと願う心であるといわれているところに、浄土の大菩提心の特色が示されています。
 これらは『往生論註』の善巧摂化章によった釈です。そこには、『無量寿経』の三輩段の無上菩提心を釈して、「この無上菩提心とは、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり」(『註釈版聖典』七祖篇一四四頁)といわれていました。


(19)大慈悲心とは、一切衆生の苦悩を取り除いて(悲)、真実の安楽を与えよう(慈)と願う心です。それは自他一如をさとる智慧の必然としておこる心であって、大菩提心の根源となる心です。曇鸞大師は、「大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに」(『註釈版聖典』七祖篇六一頁)と仰せられています。阿弥陀仏は、大慈悲心を具体化して衆生救済の本願をおこされましたが、この本願こそ阿弥陀仏の大菩提心の表現だったのです。阿弥陀仏の本願、すなわち大菩提心は、「衆生を決定して摂取する」という信楽の言葉(南無阿弥陀仏)として、私たち一人ひとりに届き、その本願招喚の勅命をはからいなく受け容れる私の信楽(信心)となって、私のうえに実現していきます。ですから、信心は大菩提心であり、大悲心でもあるのです。すでに述べたように、親鸞聖人が信楽釈で「この心(信楽)はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる」(『註釈版聖典』二三五頁)と仰せられたとおりです。

 こうして最後に、「この心すなはちこれ無量光明慧によりて生ずるがゆゑに」(『註釈版聖典』二五二頁)といわれた「この心」とは、遠くは転釈のはじめの一念から、近くは大慈悲心まで、すべてを承けた言葉であって、要するに大慈悲心であり、大菩提心であるような信心は、凡夫の心から出てくるものではなくて、阿弥陀仏の「無量光明慧」によって生じてきた心であって、その本体は不可思議の仏智であるような信心であると結論づけられるのです。なお「無量光明慧」という言葉は、龍樹菩薩の「易行品」(『註釈版聖典』七祖篇一五頁)から採られたものです。

信心が仏因であることを顕す

こうして信心を転釈された後、その信心が仏道の正因であることを論証されるのが、

願海平等なるがゆゑに発心等し、発心等しきがゆゑに等し、道等しきがゆゑに大慈悲等し、大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに。(『註釈版聖典』二五二頁)

といわれた文章です。

この文章は、『浄土論』の「正道大慈悲、出世善根生」という性功徳の文を註釈された『往生論註』上の、

「正道の大慈悲、出世の善根生」とは、平等大道なり。平等のを名づけて正道と為(な)す所以は、平等は是諸法の体相なり。
諸法平等なるを以ての故に発心等し。発心等しきが故に道等し。道等しきが故に大慈悲等し。大慈悲は是仏道の正因なるが故に「正道大慈悲」と言へり。{中略}
大悲は即ち出世の善なり。安楽浄土は此の大悲より生ぜるが故なり。故に此の大悲を謂ひて浄土のと為す。故に「出世善根生」と曰へり。 (『註釈版聖典』七祖篇六一~六二頁)

という文を転用されたものです。親鸞聖人は、この『往生論註』の文章を「真仏土文類」にそのまま引用して、浄土の体性を明らかにされています。しかしいまは、この文章を転用して信心が成仏の正因であることを顕されるわけです。しかし、それには深いわけがあったと考えられます。

 いま両方の文章を比べてみますと、『往生論註』では「諸法平等なるをもつてのゆゑに発心等し」といわれたものを、「信文類」では「願海平等なるがゆゑに発心等し」と変えられています。『往生論註』は、浄土が、平等なる一如法性の顕現した性起の世界であり、聖種性[2]の菩薩であった法蔵菩薩の、法性にかなった誓願によって修起された正縁起の世界であることを表すために、浄土の性徳を論じられた釈文です。しかし「信文類」は、一切衆生を分け隔てなく救おうとする平等大悲の本願海より仏道の正因たる信心[3]が与えられるという、如来回向の信徳を顕すための釈文に変えられているわけです。

 ですから『往生論註』の「発心等し」は、一如にかなった、法蔵菩薩の願心(菩提心)の平等性を指していますが、「信文類」の「発心等し」は、善悪・賢愚の隔てなく救いたまう本願を疑いなく信受している信心の平等性を指していました。信心を発心といわれたのは、信心がおこることは、願作仏心度衆生心[4]菩提心がおこっていることであると知らせるためです。次の「道等し」のとは、菩提の訳語で智慧のことですから、「道等し」とは、自利の智慧の平等性をいい、「大慈悲等し」とは、利他の大慈悲の平等性を表しています。『往生論註』では、法蔵菩薩の大智と大悲のことでしたが、「信文類」では願生行者の信心の持つ智徳と悲徳を指していたというべきです。

 「大慈悲はこれ仏道の正因なるがゆゑに」(『註釈版聖典』二五二頁)という結びの言葉は、『往生論註』では、法蔵菩薩が阿弥陀仏となられた成仏の正因であり、浄土建立の正因であることを表しています。大智の必然の展開である無縁平等の大慈悲心を正因として、真仏・真土が成就していることを示すことが目的だったからです。しかし「信文類」では、私たちの往生成仏の正因が、仏の大慈悲心であるような、本願力回向の信心であることを顕そうとされています。すでにいくたびも指摘したように、信楽釈に「(如来の信楽であり、同時に衆生の信楽であるような)この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず(衆生の)報土(往生)の正定の因となる」(『註釈版聖典』二三五頁)といわれていたものを裏付ける釈だったといえましょう。

 こうして、性徳(真如)の諸法平等と修徳(阿弥陀仏)の願海平等、法蔵菩薩の発願と願生者の信心(発心)、菩薩道の本体である悲智と信心の体徳である悲智というように、それぞれ対応させることによって、法蔵菩薩も信心の行者も、ともに無縁平等の大慈悲心を正因として仏道を成就していくという道理を明らかにされていったのです。このように阿弥陀如来の成仏の因果と、衆生の往生の因果との対応関係が成立するのは、生仏一如の性徳にかなっておこされた生仏一如[5]の誓願によって回向成就された信心であるからです。いいかえれば、如来の浄土建立の正因と、衆生の往生の正因とが、まったく同じ大慈悲心のはたらきであるということを表しているのが本願力回向の法義だったのです。


 先に少し触れたように、明恵上人高弁は、無漏の境界である浄土は、無漏智によってのみ感得できるが、その智慧を成就する因は大菩提心であるといい、成仏はもちろん往生の正因も菩提心でなければならないといわれていました。そして『大日経』(住心品)の「菩提心を因とし、大悲を根本とし、方便を究竟とする」(『大正蔵』一八、一頁(*))のが仏道であると、因、根、究竟の三義を挙げて、法然聖人の菩提心廃捨をきびしく論難されたのでした[6]。この明恵上人の論難に的確に応答されたのが、いまの信心の転釈の結論であったといえましょう。方便法身である阿弥陀仏の本願力は、無縁平等の大悲心を根源とした度衆生心の現れですが、その本願力の必然として私たちに回向成就されている信心は、往生成仏の志願を満たす願作仏心(無漏の智慧)であり、また大悲還相の活動の根源となる度衆生心でもあります。このように信心は、無漏の大菩提心ですから、確実に往生成仏の正因となるといわれたのです。こうして親鸞聖人の信心正因説は、菩提心正因という意味を持っていたといえますが、これによって本願力回向を軸として成立していく浄土教独自の成仏道の体系が完成していったといえましょう。

 次いで「信文類」には、『往生論註』下「善巧摂化章」の「かの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発すなり」(『註釈版聖典』七祖篇一四四頁)の文を引用して、往生成仏には菩提心を要とすべきことを証明されています。また『観無量寿経』像観の「是心作仏」と「是心是仏」についての『往生論註』上、観察門釈(『註釈版聖典』七祖篇八二頁)の釈文と、「定善義」像観釈を引用して、信心は仏心であり仏智であって、生仏不二の心であることを証明されています。



  1. 「信巻」p245で「定善義」を引かれ「金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり」ともいわれている。
  2. 聖種性とは菩薩の階位でいえば、十信、十住、十行、十廻向、十地の八地以上または十地という高位の菩薩。『無量寿経』では、法蔵菩薩を「高才勇哲 与世超異(高才勇哲にして、世と超異す)」とある。
  3. 阿弥陀仏の菩提心(度衆生心)が衆生の信心として回向されるから、衆生の信心は菩提心としての《徳》を持ち仏道の正因となるのである。いわゆる浄土真宗の「信心正因」とは、阿弥陀如来の利他(他力)である《菩提心》であり、本願力によって開顕される《仏性》であり、それは阿弥陀仏の回向する《仏心》であるから、よく往生成仏の正因となるのである。このご法義の先人が「ご信心」と讃嘆した所以である。
  4. 度衆生心を裡(うち)にもっているような願作仏心(仏にならんと願う心)の意。
  5. 生仏一如とは『無量寿経』の第十八願の「若不生者 不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)」の意のこと。自己の中に他なる己を見、他なる己の中に自己を見る慈悲の至極を顕す、生(衆生)仏(仏陀)の生仏不二をいう。
  6. 法然聖人は『三部経大意』などで、「菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり」とし、諸宗によって菩提心の違いがあり、浄土宗では浄土に生まれることを願うことが菩提心であるとされておられた。これを御開山は、横超の菩提心である願作仏心といわれたのである。