聖典による学び
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
平成2年2月得度習礼での梯實圓和上の講義。(=出拠)
知人の坊さんから貰ったテープ起こしの文章を読んで、目から鱗が落ちるように新しい浄土真宗の世界が開けた。感動したのでテープ起こしの文章を梯和上にお送りして、これをネットに掲載してもよろしいか、とお伺いした。和上はご自分で元の文章をワープロで校正されて林遊に返信下さりネット公開を許可して下さった講義録である。たぶん、これが梯實圓和上の最初のネットデビューであろうと思ふ。なお適宜改行を付した。
聖典による学び
『浄土真宗聖典』についてお話をするわけですが、特に本日は、「
先ずこの「聖典」という言葉でございますけれども、「
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、
という言葉で結ばれておりますが、そこに「西蕃・月支の聖典」(ショウデン) という言葉が出ております。「西蕃・月支」というのは、要するにインドというくらいの意味で、インドから伝えられた「聖典」ということです。
また「聖教」という言葉は『歎異抄』に出て参ります。その第十二条に、
他力真実のむねをあかせるもろもろの正教(聖教)は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。
という言葉が出ており、そこに「正教」といわれているのは「聖教」のことです。また「後序」には
故聖人(親鸞)の御こころにあひかなひて御もちゐ候ふ御聖教どもを、よくよく御覧候ふべし。おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。
といい、聖教の読み方が注意されています。このことについては後にまた申し上げることがあるかと思います。
その『歎異抄』の一番最後の所に、「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり。無宿善の機においては、左右なく、これを許すべからざるものなり」という蓮如上人の識語があります。現在残っている『歎異抄』の古写本では、蓮如上人の写本が一番古いのですが、蓮如上人は、晩年になって、ご自身の写された『歎異抄』に上記の一文をつけ加えられたのです。
「右この聖教は、当流大事の聖教となすなり」といわれた言葉によって、真宗では『歎異抄』を「聖教」として
そこで「
元々この「聖教」・「聖典」というように「聖」という字が付いていますが、この「聖」という言葉は、重大な意味を持った言葉なのです。単なる形容詞ではございません。
「聖」というのは曇鸞大師は「聖」というのは「
そうゆう証りの智慧を獲得した方を聖者といいます。こういう聖者といわれるのは、根本無分別智、或は般若といわれるような智慧を持っている人です。プラジュニャ・パーラミィタという、プラジュニャという言葉です。「般若(プラジュニャ)」というのは、私達が普通考えていく概念的思惟というものと全く質の違ったものの捉え方です、そういう能力を「般若」という言葉で顕わしております。そういう「般若」とか、「無分別智」といわれるような、智慧の眼を開いた方を聖者というのです。
普通、私達がものを考えるときには、物ごとを分けて考えます。私、あなた、彼というふうに、また生と死、愛と憎しみ、敵と味方、善と悪、過去と未来と現在というように、他の者と区別して物事を捉え、認識して行くわけです。いわゆる概念的思惟というものです。
ある事柄を表す言葉、すなわち概念というものをもって私達は考えております。ところで概念というものは、例えば遠いと近いという場合、ずーっと続いている事柄をどこかで勝手に分けてあそこは近い、あそこは遠いというように区分けするわけです。
つまり「言葉」でもってものごとを文節し、判断を行い、そして理解していく訳です。いわゆる概念的思惟といわれるものです。こういうふうに「言葉」でものを文節して、そして知る事を分別と仏教では顕わし[2] こういう「
釈尊が、「生・死」を超え、「愛憎」を超えていくために、六年にわたる深い思索と厳しい修行を繰り返して、そして三十五歳の時におさとりを開かれたといわれていますが、それはこの生と死を同じように肯定できる精神の領域を開かれたことでした。
生に執着して死を拒絶するというのでもない、死に執われて生を拒絶するというのでも無い。
愛と憎しみを超えて、一人一人のすばらしい「いのち」の輝きを見る目を開かれたのでした。これがさとりの智慧というものでしょうね。
生きることも素晴らしいが、死ぬることだって素晴らしいのだ、決して生を拒絶して死を願望する事も無い。また生に執われて死を拒絶する事も無い。生と死をそのまま肯定して、しかも意味有らしめていくような精神の領域を開く、それをさとりというのです。
それは生と死を分け隔てする分別を超えて、そして生と死を一望のもとに見通せるような、そうゆう領域を開いたわけですから、その智慧を無分別智と呼ぶ訳です。
これが対人関係の場合は愛と憎しみを超えるということになりましょう。私達は誰かを愛し、また誰かを憎みながら生きています。それは愛と憎しみという分別の産物です。
つまり分別というのは私の存在についていえば生と死、対人関係についていえば愛と憎しみ。倫理的な価値観についていえば善と悪、論理な判断でいえば肯定と否定、そして存在一般についていえば「有」と「無」ということになりましょう。取りあえず対人関係では「愛」と「憎しみ」という事ですね。皆さんにもやはり有るでしょう。
好きな人ばかりが居る訳ではない、大体好きな人か十人おれば、嫌いな奴も大体それくらいはいるものです。バランスを取っている訳です。「あいつさえいなければいうことないのに」と思う人が一人や二人はいるものです。
しかしその人がいなくなってヤレヤレと思ったら、ちゃんと替わりが出てくる、もっと程度の悪い奴が替わりに出てくるというようなものです。娑婆というのはそういうように出来ています。それでバランスを取っているのでしょうね。
良いばかりの状態があるわけもないし、悪いばかりの状態が続くわけでもありません。大体バランスが取れているようです。
ところで、このような「愛」と「憎しみ」というのは何故生まれてくるのかというと、自分の都合を中心にしてものを考えていくからでしょう。当然の事ですが「愛する者」というのは自分に都合の良い人です。その人が存在している事が私にとってプラスになる、その場合、その人は「好きな人」・「愛する人」という事でしょうね。いつまでも元気で生きていて下さいというのは大体そういう人に対して云うことです。
反対は何かといえば自分に都合の悪い奴、あいつが生きているというのは胸糞が悪いという人が居りますね。早く死んでくれたら良いという、こういう人が何人かいるわけです。これは自分にとって都合の悪いものです。そうすると「愛」と「憎しみ」が生まれてくるその根源には自分にとって都合が善いか、都合が悪いか、という事でしょう。
そうするとその根底にあるのは自分の都合を中心にしてものを考え、判断することで、それを仏教では「無明・愚痴」と名付けているのです。
こうして私どもは、順境に対して貪欲・愛を起こし、逆境に対して憎しみ、つまり瞋恚を起こす。その根源に自分の都合を絶対のものと考える愚かさがある。それを愚癡と呼ぶ。それを貪欲・瞋恚・愚癡の三毒と呼ぶわけです。
このような「愛」と「憎しみ」、その根底にある自己中心的な発想、それを突き破っていく。そしてこの「愛」と「憎しみ」を超えていく、これが仏道というものです。そこで悟りとは何かといえば、それは
- 平等心をうるときを
- 一子地となづけたり
- 一子地は仏性なり
- 安養にいたりてさとるべし
という言葉があります。『諸経和讃』です。これは『涅槃経』というお経にある言葉です。平等心とは怨親平等の心ということです。自分にとって都合の悪い奴も、自分にとって都合の善い者も全く同じ重さで見ていけるような心境ですね。
私を大切にしてくれる者も、私を抹殺しようとする者に対しても同じ重さで、それを見る事が出来るような心境、これを平等心というのですね。いわゆる「怨」とは怨憎、「親」は親愛、その怨憎と親愛を平等に見ていく、そんな境地、それを悟りというのであって、その悟りの実現に向かっているのが浄土(安養界)に往生するということであるといわれるのです。
ここでもやはり愛と憎しみという、真反対の立場にある事柄を突き抜け、それを超えていく、そしてその二つを超えて両者を平等に見ていくような心、それが悟りであるというのです。しかしこれはもはや分別の中からは出てきません。もっと根源的に、「有」と「無」とを超えて初めて実現することがらなのです。
ところで、私どもがものを考える時に必ず従わねばならない基本的な法則がありますね。思考の法則があるでしょう。ギリシャ以来、私達がものを考える時には、必ずその思考が守らねばならない法則があります。自明の法則があります。それは、AはAである(A=A)という、いわゆる自同律ですね。
AはAである、従ってAはAでないものではない、Aは非Aではないという矛盾律が成立します。そしてAと非Aとの間に中間は存在しないという排中律と合わせますと三つの法則になりますが、中心は自同律と矛盾律でしょうね。それは私は私であるという事と、私は私でないという事と、これは矛盾します。ですから、AはAであるということ、これは守らねばならない約束事です。
とにかくAはAである。Aは非Aでないというと、これはものを考えるときには必ず守らねばならない法則です。このAと非Aを「有る」と「無い」といってもいいですね。「有」と「無」これは決して両立しない事柄です。ところで悟りの境地は、一切の束縛から解放された境地であるというので「解脱」の境地ともいいますが、「和讃」にはその境地を
- 解脱の光輪きはもなし
- 光触かぶるものはみな
- 有無をはなるとのべたまふ
- 平等覚に帰命せよ
というような言葉で讃嘆されています。それは「有無」をはなれた境地であるというのです。
「有」というのは「有る」であり、「無」というのは「無い」であって、判断でいえば、「・・・・である」という肯定と「・・・・でない」という否定ですね。これの両者を超えている、これが解脱とか、悟りというものだ、こう言われているわけです。
だからどうゆう事かといいますとそこではAはAであるという形でものを考えないということです。しかしそれではものが考えられないじゃないかといわれるでしょうが、実は本当に具体的な存在は「AはAである」という考え方では捉えられないということを顕しているわけです。
「AはAである」ということは、具体的には「私は私である」という事でしょうね。これは言葉でいいますと「私」は「私」であるといったら同語反復のようです。ところが少し違う、我々が具体的に「私は私である」といった時には、「私」は「私」以外の者ではないと強調しようとしているわけです。
だからどうしたのだといったら、「私」は人とは違った「私しか生きられない私の人生を生きるのだ」といいたいわけでしょう。ここで「私は私である」といった時には、「私は私でないものではない」ということを通して、だから、「私は私である」といった時には、この初めの「私」(主語)と後の「私」(述語)とでは自覚内容が違っております。
そうすると「私」は「私」であるといった時には、ただ同語反復しているのではないのです。だから「私」は誰の生き方でもない「私」の生き方をするのだ、という自覚と自立を顕わしています。
そうしますと初めの「私」は自覚以前の「私」、それを「私である」といった時の後の「私」は自覚し自立している「私」ですから明らかに「私」の内容が違っています。そうすると初めの私(A)と後の私(A)とは違いますよ、つまり「私でないもの」(非A)を媒介とする以前の私(A)と、私でない(非A)というものを否定的に媒介して成立した後のAとではAの内容が違うということになりましょう。
違うとすれば、Aは非Aであるということになりましょう。これが現実にあるものの姿なのです。つまり現実に有るのは、AはAであるというだけでは表せない内容を持っているということになります。そうするとAはAであって、非Aではないと云う論理は崩れていくということになりますね。すこしややこしくなってきました。
お釈迦さまがおさとりになった境地というものは、AはAであって、決して非Aではないという論理では表せない領域であったのです。その意味では不思議といわねばなりませんが、実はそれが、もっとも具体的な、もののあるがままの姿を見極めておられたのだといわれています。
そこでその境地を真如(本当にあるがままのありよう)とも実相(まことのすがた)ともいわれているのです。
しかしそのような領域は、人間の分別的な思考では捉えることが出来ませんから、無分別智の領域であるともいい、二元的、対立的な言葉では言い表すことも考えることもできませんから一如ともいい、不可思議、不可説ともいいならわしてきたのです。
お釈迦さまのお経というのは、そのようなおさとりの境地に立って、その境地に私たちを導くために説き表されたものですから、言葉を超えた世界を告げる言葉であるといわねばなりません。私がお聖教の言葉は、私どもが日常使っている言葉とは質が違うともうしましたのはその故です。
お釈迦さまがおなくなりになって数百年たった西暦二・三世紀頃に南インドに龍樹菩薩が出現されて、私ども人間がその知性によって概念的に把握している世界というものは、実は分別が作り上げた虚構の世界だといい、私どもは自分が概念によって作り上げた虚構の世界を、言葉によって作り上げた虚構の世界をまるで実在であるかの如く考えて実体視し、とらわれて身動きが出来ないような状態になっている。それを迷いという。
この妄念を突き破るために如来は言葉を設けて呼びかけておられるといい、「諸仏は、二諦によって法を説く」と云われています。
二諦というのは、真諦と世俗諦のことです。真諦とは、一切の分別を超え言葉を超え離れた悟りの境地そのものをいい、その真諦を分別的な言葉で言い表して人々と接点を持ち、救うていくために教えを説くことを世俗諦というのです。つまり言葉をもって言葉を超えた世界に導くのが経典であるというのです。
お経を読んでいると面白い言葉が沢山出てきます。たとえば『金剛般若経』などには、「仏は仏でないから仏である、衆生は衆生でないから衆生である」というような言葉が幾らでも出てきます。AはAで無いからAであるというのですから、もう「AはAである」というような形式論理学ではどうしようもない表現が用いられているわけです。
鈴木大拙という方は、これを「般若即非の論理」といわれていますが、まさに、人間の概念的に物事を理解していこうとしていることに対する、破壊的な表現であるといわねばなりません。しかし先にも申しましたように、概念的にきちっと分別すれば、ただしく物事が捉えられるかといえば、どうもそうではないところがでてきます。
「種が芽になる」とこういいます、この言葉は当たり前の真理を言い表していると誰でも承認することです。種を因とする、そして芽を果とします。因が果になる。これは自明の事のように私達は考えています、果たして具体的な存在というのはそんなものなのでしょうか。
例えばここに一個の大豆があるとします。この大豆は種であるといえましょうか。もし芽が出なければ種ではないのですよ。煎り豆も、煮豆も大豆ですが、種では無い。
それは発芽能力が無くなっているからです。これははっきりしますね。つまり発芽能力を持っているから種なのです。発芽能力を持っている事はどうすれば分かりますか、それは発芽しなければ分かりません。種が種であり続けたら種ではないのです。種は種で無くなって、芽にならなければ種ではない。つまり種が芽になるといいますが、芽にならなければ種ではないわけです。つまり種が種でなくなったとき種であることが分かるわけです。そしてその時にはもう芽になっているのですから、種はなくなっています。
つまり具体的にあるのは大豆であるか、それか大豆の芽であるかのどちらかです。二つは一緒にはありません。そんな事をいっても芽に豆の殻が付いているじゃないかという人がいるかも知れませんが、あれは殻です。あるのは大豆であるか、それとも若芽であるかです。
その大豆である状態を種と名付け、若芽である状態を芽と名付けて、これを因と果の関係に置いたのは、これは実際に現実には存在していないものを思い浮かべて、そして意識の中で並べただけなのです。現実には存在しません。こうして因が因で有り続けたら因ではないのです。因は因で無くなるから因なのです。それを「仏は仏でないから仏だ、衆生は衆生でないから衆生だ」というような言い方をするのです。
また因と果が同じものだったら因とも果ともいえません。だけど違ったものであったら因果は成立しません。何の因か、何の果かわかりませんから。石ころは木の因にはなりません、石ころを幾ら植えて置いても芽は出ません。因と果が違ったものだったら因でも果でもない。従って因と果というのは同じものであってもいけないし、違ったものであってもいけない。ところが同じでもない、しかし異なったものでもないというようなものはかんがえられません。
考えられないけれども、因果と云うことが成立する以上、因と果は同じものであってもいけないし、異なったものであってもいけないという事実があるわけです。もののあるがままのありようは分別的な知性によっては把握できないということになります。こういうことを如来さまはおっしゃっているのだと云われたのが龍樹菩薩の『中観論』という書物なのです。
私がこんなややこしいことを申しましたのは、「お聖教」というのは聖者の聖智から出てきた、聖智とは根本的には無分別智で、生と死を超え、愛と憎しみを超え、存在と非存在とを超えて、すべてを平等一如と受け取ることの出来るような智慧であるといいましたから、それを少し説明させていただいたわけです。
そして、そういう無分別一如の視野を開いたところから、今度は逆にそれを人々に伝えるために言葉を用いられるわけですが、そのような無分別の分別を世俗諦と龍樹菩薩はいわれたわけです。それをまた無分別智の後から成立する智慧ですから
つまり聖典は
ところで、言葉を超えた領域をあらわすのに言葉がつかわれるわけですが、言葉を使う以上言葉の法則に従わねばなりません。しかしただ言葉の法則に従ってばかりいたら言葉の世界、分別の世界になってしまいます。それでは言葉を超えた世界を表現する事は出来なくなります。そこに大変な難しさがあるわけです。そういう困難を克服していく智慧が
だからその言葉は言葉の約束を守りながら、突如、言葉を超えていくような尋常でない表現が使われるわけです。つまり言葉を超えさせるような言葉が用いられるのです。生と死を、愛と憎しみを超えさようとして、私どもの想像もできない世界を説き開いて見せて下さいます。そういう言葉を、共感を持って聞き開いていきますと、生と死の
「お聖教」は、言葉を超えた聖智の世界から言葉となって我々に届いてきた、ということを無著菩薩は『摂大乗論』に「
私など読んでもよく分かりませんが、その『摂大乗論』の中に「
この言葉を弟の世親菩薩が註釈をされまして『摂大乗論釈』という、これまた名著をお書きになっています。この『摂大乗論釈』の中に、これが「お聖教」なのだ、という事をおっしゃっています。「最清浄法海等流」「最も清らかな真理の領域から流れ出てきた言葉、それが「お聖教」である」という風におっしゃっているのですね。「清らか」というのは煩悩の手垢が付いていないということです。
先程申しましたが私が考えた時には何時でも私を中心にして考えるから、そこで私にとって都合が良いとか、都合が悪いとか色分けをします。それはいけないことだと分かっていてもなかなかやめられるものではありません。というのはそういうように自分を中心にしてものを考えるということから離れられないのが人間の性分だからです。
早い話が「私は今ここであなたがたにお話をしている」といっても誰もおかしいとは思われないと思います。日本語として正しいでしょう。しかし良く考えてみると「私」といい、「あなたがた」といいますが、実はこれは私から言った言葉で、「あなたがた」などというものは存在しませんよ。実は一人一人私という個性豊かな方ばかりがいらっしゃるのです。しかし「あなたがた」と十把ひとからげで呼べば、一人一人の歴史も個性も何もかも捨象してしまって「あなたがた」という言葉の中へ
一人一人がかけがえのない自らの「いのち」を生きていらっしゃるというようなことはすっかり捨象してしまっているわけで、いわば影のような存在にしてしまっています。その上ここに居ない人達は、彼等という言葉でくくってしまいます。そこで私、あなたがた、彼等、つまり我と汝と彼というふうに分節をしてしまいます。これはしかし実に便利な言葉ですね。その言葉の便利さに曳かれて、私どもは、一人一人のかけがえのない「いのち」を見失っているのではないでしょうか。
そしてまた私は「ここ」といいましたが、「ここ」とは私のいる所を意味しています。私の居ない所は「そこ」「かしこ」です。それも今いるところが「ここ」で、先程までいたところはもう「そこ」です。だから「ここ」というのは、いま私のいる所です。つまり私を中心にして空間を分節している、座標軸の原点に私がいるわけです。それも可動的原点、いつも動いている原点です。
そして私のいる時を今といい、私が既にいなくなった時を過去と名付け、未だいない状態を未来と名付けている。過去とか未来とかが存在するのではない、絶えず今・今・今・・・・と持続している私がいるわけです。過去の私なんて存在しないし、未来の私なんて存在しないですね。それは今の私の記憶と期待の状態なのでしょう。
私は今日は大坂から本願寺へ、今日は本願寺で宗会議員の追弔会がありまして、それに列席しまして、そしてここへ来たのです。
ですから一分程遅れました。とにかくあちらへ行ったりこちらへ行ったりしていましたけれども、私はありっきりは今ここにいます。半分を本願寺に置いてきた訳では無いのです。全部ここに来ている、これでありっきり。
つまりこの瞬間の私、これでありっきりの私なのです。あなたがたも全部ありっきりここにいらっしゃる、それ以外には存在しない。しかも一瞬一瞬全く新しい私が存在しているのですよ。
既製品の私なんてありはしない、誰も生きたことのない「いのち」が一瞬一瞬生きられている訳です。まさに真っさらです、そういう状況なのですね。其の中で私達は自分を中心とした時間軸とか空間軸を作り出して、自分を中心とした世界を描き出しているわけです。自己中心の想念と言葉によって虚構しているのです。
そういうものを突き抜けた領域を「最も清らかな法界」というわけです。それは人間の煩悩の手垢が全く付かない、ものの在るが侭のあり様が顕現している世界ですから、最も清らかな真理の領域というわけです。そこから流れ出てきた言葉を「聖教」と言うのだと天親菩薩がおっしゃっている訳ですね。そうゆう言葉が私どもの心にしみ通ることを「
その意味で「聖教」というものは根源的に仏陀の言葉ということになります。しかしそういう仏陀の言葉に呼び覚まされて、悟りの領域を確認し、私どもに伝えてくださった多くの先達がいらっしゃいます。それらを一括して「聖教」とは、経・論・釈をいうということが出来ます。経とは、仏陀釈尊のお説きになったものをいい、論とはお釈迦様と同じインドに出現された聖者達が、お経の心を解り易くときしめされたものをいい、釈とは、中国や日本の祖師方が、経論の心を解釈された書物のことです。
実際仏教の歴史を見てみますと、お釈迦様だけでは無くて、インドでも、中国でも、日本でも素晴らしい方々が次々と現れてきて、そのお釈迦様の教えの真実を立証して下さっています。仏教徒は、教主釈尊を尊んで、仏陀は釈尊だけであるとしていますが、インドでも、中国でも、日本でも、仏陀(真実に目覚めた方)といえるような方々がたくさんいらっしゃったといってもいいでしょうね。
インドにでられた龍樹菩薩や天親菩薩、中国にでられた曇鸞大師、道綽禅師、善導大師など、日本にでられた源信僧都や法然聖人などは、まさにそれぞれの民族の中に出現された仏陀であったといっても言い過ぎではないというのが親鸞聖人の受け取り方でした。そして私どもからいえば、親鸞聖人ご自身が、日本民族が生んだ特異な仏陀であったと讃仰せずにおれないのです。『高僧和讃』に善導大師の徳を讃えて
- 大心海より化してこそ
- 善導和尚とおはしけれ
- 末代濁世のためにとて
- 十方諸仏に証をこふ
と讃嘆されていますが、「大心海」というのは阿弥陀仏の永遠な智慧と大悲の世界をさしていますから、聖人は、善導大師は浄土から顕現してきた阿弥陀仏の化身であると見ていらっしゃったことがわかります。また法然聖人の徳を讃えて
- 智慧光のちからより
- 本師源空あらはれて
- 浄土真宗をひらきつつ
- 選択本願のべたまふ
といわれた時には、阿弥陀如来の智慧の光が法然聖人となって私を導いて下さるというのですね。あるいは「源空勢至と示現し、あるいは弥陀と顕現す」とまでいわれております。そうすると実はあの方々は最清浄法海から等流してきた人達であり、その言葉もまた最清浄法海から等流してきた言葉である、と見られておったと言えるでしょうね。
こうゆう人達の言葉に遇えたという事を親鸞聖人は喜んでいらっしゃるのです。『教行証文類』の「総序」に、
ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしい哉、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇(あ)ひ難くして今遇(あ)ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり。
といわれています。
ちなみに、ここで親鸞聖人は「慶ばしい哉」とおっしゃる時に「慶」という字を書いていらっしいます。普通の日本語では「よろこぶ」ですが、それを親鸞聖人は、「歓喜」と書いて「よろこぶ」といわれる場合と、「慶喜」と書いて「よろこぶ」といわれるときとがあり、その「よろこび」の内容を区別されていることに注意しておかねばなりません。『一念多念証文』や『唯信鈔文意』などで、しばしばおっしゃっていることです。
すなわち「歓喜」も「慶喜」もともに、身も心も深いよろこびに満ちているじょうたいをあらわすわけですが、そのよろこびを歓喜といった時には「うべきことをえてんずと、かねてさきよりよろこぶこころなり」(『註釈版聖典』六七八頁)と定義されている、未だ実現していないけれども素晴らしい事柄が実現することに決まった、それを先取りしてよろこぶ、その時には歓喜というのだ。だからこれは未来形のよろこびです。
それに対して慶喜というのは「うべきことをえてのちによろこぶこころなり」(『同右』六八五頁)或は「信心をえてのちによろこぶなり」(『同右』七一二頁)といわれています。既に実現している事柄をよろこぶ場合に使うといわれているのです。これは現在形です。或は現在完了形です。『教行証文類』で親鸞聖人は自分自身のよろこびを述べられる時は必ず「慶」の字を使っておられるということを注意しておくべきだと思います。
「慶ばしいかな」というのは「うべきことをえてのちによろこぶことば」であって、既に私の上に実現している救いをよろこんでおられるわけです。それが「遇ひ難くして今遇ふことを得たり、聞き難くして已に聞くことを得たり」ということです。お釈迦様のお言葉、祖師方の御教え、この仏祖の御言葉に遇えた事が私にとって最高のよろこびであるというわけです。これはやはり「聖典・聖教」という深い「いのち」の言葉に触れた人だけが持つ感動なのです。これが救いなのです。死せるものを甦らせるような「いのち」の言葉に触れて感応道交しているすがたが信心であり念仏なのです。
「お聖教」というのはそういう性格のものであるとして、では親鸞聖人はどういうものを「お聖教」と指定されたのか、そして我々はどうゆうものを「お聖教」として味わうべきなのか、さらに「お聖教」に対してはどういう態度を取るべきかということをお話をしたいと思います。
先程から「お聖教」とは、私どもの日常的な言葉を超え、概念的思惟を超えた悟りの領域を言葉でもって表現したものであり、それによって人生の帰趣に迷っている人々に、生きることの意味と、方向を明らかにしていく呼び覚ましの言葉であるといいました。その根本はお釈迦さまの御説法です。
釈尊は、お悟りを開かれてからしばらくの間は、菩提樹の下や、尼連禅河のほとりを散策したり、あるいは瞑想にふけったりしながら、自身が到達した悟りの心境を点検されたといわれています。その時、自分がこうして困難な修行の後にようやく到達した爽やかな悟りの境地を、世俗の欲望の中に埋没しているような人達に説いても、おそらく理解してしてもらえないだろうとおもい、教えを説くのを躊躇されたという有名な話があります。
仏伝では、その時に梵天(印度の神様)が、釈尊に「お願いだから教えを説いて欲しい」と勧請したので、釈尊はその願いを受け容れて教えを説こうと決心されたといわれています。そして一番最初に教えを説かれた相手が、長い間苦行を共にした五人の修行者達であったといわれています。その場所はベナレスの郊外、サールナートであったから、そこがいわゆる初転法輪の地となったといわれています。それによってコーンダニャをはじめ五人の比丘達が次々と証りを開いていったという有名な話があります。
悟りを開くということも大変なことですが、その境地に人々を導いていくための教えを説くということは、さらに難しいことであったと思います。その後、随分沢山の経典が説かれてくる訳です、そういった仏陀が説かれたみ教え(経)と、修行者が守らねばならない生活規範(戒律)を、釈尊がおなくなりになったあと、弟子達がまとめたものが『経蔵』と『律蔵』です。さらにそれらの解説書が出来ると、それを『論蔵』と呼び、あわせて経・律・論の三蔵というようになりました。これらが仏教で「お聖教」、あるいは「聖典」といわれるものの一番基礎になっているものです。
釈尊の説かれた教説は、いわゆる仏説といわれるお経ですが、その経の心を、私達に解り易いように近付け、広く解説して下さったものを「論・釈」といい習わしています。その中でインドに出られた聖者達が説かれたものを「論」と呼び、中国や日本の祖師方がお説きあそばした解釈書を「釈」と呼ぶということはすでに述べたところです。つまり「お聖教」とは、経・論・釈を指すわけです。
ところで「経」という中にも随分たくさんの種類がありまして、八万四千と呼ばれるほどですが、その中で『無量寿経(『大経』)』二巻と『観無量寿経(『観経』)』一巻と『阿弥陀経(『小経』)』一巻を浄土真宗の法義の拠り所とされています。この三部の経典を浄土三部経と名付けたのは法然聖人でした。浄土に往生して悟りを完成せしめられるという、阿弥陀仏の救いが説かれた三部作の経典ということです。ところが親鸞聖人は三部経の中では特に『大経』が浄土真宗の法義の根本となっている阿弥陀仏の本願と名号のいわれが明確に説かれており、釈尊の本意が開示されているから、真実の経であるといわれました。つまり浄土真宗とは『大経』の宗教であるということを明確にされたのでした。
そして『観経』と『小経』には表面に説かれている顕説の法義と、隠れたかたちで説かれている隠彰の法義とがあり、顕説は方便の法義が説かれているから方便経である、しかしその隠れた部分に『大経』と同じ真実の法義が説かれているといい、その意味で『観経』も『小経』も浄土真宗の依り所とするといわれています。こうして「それ真実の教を顕さば、すなはち大無量寿経これなり」とこういって浄土真宗とは『大無量寿経』の宗教であると確定していかれたのが親鸞聖人の特徴です。ともあれこの『大経』を中心とした浄土三部経、これがいわゆる「経」といわれるもので浄土真宗の依り所とする「お聖教」の根本になる訳です。
次の「論」はインドの聖者の説かれた聖教ですが、その中で浄土真宗の「聖教」として親鸞聖人が第一に指定されたのは、龍樹菩薩のお書きになった『十住毘婆沙論』、特にその中の「易行品」です。この龍樹菩薩(ナーガルジュナ)という方は、西暦一五〇年頃から二五〇年頃に南インドに出られた方といわれています。第二の釈尊とも、八宗の祖師とも崇められた方で、いろんな「お聖教」を書かれています、先に申しました『中論』というのはこの方の主著でございます。大乗仏教の基礎理論を確立されたものです。これから後の大乗仏教はすべてこの『中論』を出発点としているといわれています。
その龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』の第九の「易行品」というのが浄土真宗の「お聖教」として親鸞聖人によって選定され大切にされる訳です。それは仏道を難行道と易行道とに大別し、浄土教は、易行道であると規定されていたからです。これによって、浄土教理解の基本的な枠組みが定められたのです。
その次に出られたのが天親菩薩(バスバンズ)です。世親菩薩とも訳されています。親鸞聖人ははじめは旧訳(玄奘以前の翻訳語)の天親という名称を用いておられましたが、晩年には新訳(玄奘以後の訳語)の世親という名称を用いておられます。天親菩薩は、西暦四百年から四百八十年頃、西北インドに生まれ、中インドで活躍された方です。随分沢山の「お聖教」を書かれ、千部の論師といわれた方です。特に兄の無著菩薩とともに瑜伽行派の教学の大成者でございます。『唯識三十頌』或は『唯識二十論』を始めとする随分沢山の「お聖教」をお書きになった方ですが、特にご自身の信仰を述べられたと見られる『浄土論』が、浄土真宗の所依の『論』となっております。『無量寿経優婆提舎願生偈』というのが正確な名前なのです。
それから中国や日本に出られた多くの浄土教家の中から親鸞聖人は、中国では曇鸞大師と道綽禅師と善導大師の三人を選び取り、日本では源信僧都と源空聖人を祖師として選ばれました。
曇鸞大師は中国の北部、西暦四七六年に山西省の雁門に生まれ、石壁の玄中寺を中心に活躍し、五四二年におなくなりになっておられます。大師は『往生論註』といわれる、『浄土論』についての極めて独創的な註釈を書かれました。『論註』二巻と呼んでいます。それから『讃阿弥陀仏偈』一巻という、阿弥陀仏とその浄土を讃嘆する讃仏の詩を書かれています。この曇鸞大師がお書きになった『論註』と『讃阿弥陀仏偈』が、浄土真宗の所依の「釈」として親鸞聖人は大切になさった訳です。殊に『論註』二巻は、龍樹菩薩がいわれた難行道とは自力の道であり、易行道とは阿弥陀仏の本願他力の道であるといい、阿弥陀仏の本願力、すなわち他力による凡夫の救済を説くところに阿弥陀仏の浄土教の特質があると教えられた聖教でした。
なお親鸞聖人の『讃阿弥陀仏偈和讃』四十八首は、この『讃阿弥陀仏偈』を和訳し、今様の形式で讃歌とされたものです。聖典の現代語訳の典型でしょうね。なお、曇鸞大師には『略論安楽浄土義』という書物があります。しかしこれが果たして曇鸞大師のものかであるのかどうかという議論があります。わたしは曇鸞大師のものと見て良かろうと思っているのですが、しかし「お聖教」としては未だ少し問題がありますので、『論註』と『讃阿弥陀仏偈』だけを挙げることになっています。ただ『略論』は次に述べる『安楽集』に影響を及ぼしています、『安楽集』には『略論』から引用した文章があるからです。
道綽禅師は、五六二年から六四五年にかけて出られる方で、もとは涅槃宗の学者でしたが、曇鸞大師の影響を受けて浄土教に帰依し、その遺跡である玄中寺に住して、『観経』の講釈を幾たびも行い、それをまとめて『安楽集』二巻を著されました。そして、教えは、時代と人の素質にかなったものでなければ実効はないとして、末法の時代に生きる凡夫の救われる道を追求されました。そして仏教を自力聖道門と、他力淨土門に分け、聖道門は今や悟りの道としての実効はない、ただ淨土門だけ悟りに至る開かれた門であるといわれたのでした。
その道綽禅師の弟子が善導大師です。西暦六一三年から六八一年にかけて出られた方で。隋から唐にかけて活躍され、中国浄土教を大成された方でした。その善導大師が著された聖教は五部九巻が現存しています。ちょうどこのころ、玄奘三蔵がインドへ渡って十七年間大旅行をし、莫大な経論を持って帰ってきて国家事業として大翻訳をやった時代です。その玄奘をめぐって慈恩大師窺基をはじめ天下の秀才が雲霞の如く集まって、大翻訳事業をなさったわけです。
ところが玄奘も慈恩も阿弥陀仏の浄土教に対して、否定的な態度をとり、『観経』に説かれた念仏往生説は、別時意という方便説であって、凡夫が称名をしたくらいで阿弥陀仏の報土に往生することなど決してできないという念仏別時意説を唱えていました。
それを論破して、そして浄土教の真実性を証明して見せられたのが善導大師の『観経疏』四巻でした。確かに凡夫の罪業を問題にしたならば、往生することは出来ない。しかし阿弥陀仏は、煩悩具足の凡夫を救うために、称名するものを必ず報土に往生させるという本願を建てられているから、本願を信じて念仏するものは、本願力に乗じて、必ず往生することが出来ると主張されたのでした、これを称名正定業説といい、凡夫入報説と呼んでいます。
親鸞聖人が、「正信偈」で「善導独明仏正意(善導独り仏の正意に明らかなり)」といわれたのはその功績を讃嘆されたものです。この『観経疏』四巻を始め、『法事讃』二巻、『観念法門』一巻、『往生礼讃』一巻、『般舟讃』一巻を著し、教学と儀礼とを大成されたのです。
善導大師から三百年近く遅れて日本に源信僧都が出られました。西暦九四二年から一〇一七年にかけて出られた方です。比叡山の横川におられましたので横川の僧都とも呼ばれています。ちょうど日本では王朝文化の花が開いたときです。その王朝文化の精神的なリーダーとなったのが源信僧都でした。『往生要集』三巻をお書きになったのは四十三歳のときでした。九八五年です。この『往生要集』がやがて日本人の精神史に非常に深い影響を及ぼす訳ですが、浄土教史の上でも画期的な聖教でした。源信僧都はこのほかにも天台宗関係の沢山の書物を書かれていますが、浄土真宗の依り所とするものとしては、この『往生要集』三巻だけです。
その源信僧都から百年程遅れまして法然房源空聖人がでられます。一一三三年から一二一二年、平安時代の末期から鎌倉時代の初めにかけてです。民族の変貌期です。それはまた価値観の転換期であったとも言えましょう。そうしたなかで法然聖人がでられまして、価値観の転換をなさるわけですが、それが実は浄土宗の独立という形で実現されるわけです。そのことについて今日は詳しいお話をする時間がありませんのでただそれだけをもうしておきます。この法然聖人が独立された浄土宗を親鸞聖人は浄土真宗と名づけられるわけですが、その本体は選択本願であり、その顕現態としての称名念仏でした。先程も申しましたように親鸞聖人はそのことを『高僧和讃』に、
- 智慧光のちからより
- 本師源空あらはれて
- 浄土真宗をひらきつつ
- 選択本願のべたまふ
とおおせられたのでした。
法然聖人の主著は『選択本願念仏集』という名前ですが、これほど内容を一言で言い表した書物の題名は外にありません。選択とは取捨のことで、一切の自力の諸行を選び捨てて、他力の念仏一行を、万人の往生行として選び取り、お願いだから私の名を称えて、浄土へ生まれてくれよと願われているのが阿弥陀仏であると仰せられたのです。それは従来は、難行ではあるが価値の高い勝れた行であるとみなされていた自力の行を、難行であってしかも念仏に比べたら劣行に過ぎないといい、反対に易行ではあるが劣行であるとみなされていた念仏を、易行であるばかりか、どの行よりも勝れた最勝の行であると位置づけて行かれたのでした。
南無阿弥陀仏という名号には阿弥陀仏の徳のすべてが
このような法然聖人の教えは、善人であり、賢者であり、勝れた修行者でなければ仏の心にかなわないから、浄土に往生することもかなわないと考えていた当時の仏教学者の常識を破るものでした。それゆえ、学者ほど激しく聖人の浄土教学を非難しました。だから法然聖人は余程自分の心を知ってくれる高弟でなければ『選択本願念佛集』の伝授はされなかったのでした。
それを親鸞聖人は、まだ入門して僅か四年程しか経たない三十三歳の時に法然聖人から伝授を受けるのです。これは大変なことです。法然聖人という方は余程人を見る眼があった方なのでしょうね。天才のみが天才を知るのでしょうね。それでまだ入門して間の無い若い親鸞聖人に『選択集』を伝授されるわけですが、そればかりか法然聖人の肖像画を写すことを許しておられるます。肖像画というのは禅宗などでは頂相(チンゾウ)といいまして、それを頂くということは、いわば法の後継者として認められたことなのです。正に破格のことです。親鸞聖人が法然聖人を生涯慕い続けるのは、ひとつは自分を知ってくれたのは、この方一人だということもあったとおもいます。
『教行証文類』は、法然聖人が『選択集』を伝授して下さった、その恩顧に応えて、その師匠のご恩に報いる為に、その教えの真実性を証明されたものであるという一面を持っていました。『教行証文類』の後序に『選択集』の伝授を受け、真影の図画を許されたことを感動をこめて語り、
年を渉り日を渉りて、その教誨を蒙るの人、千万なりといへども、親といひ疎といひ、この見写を獲るの徒、はなはだもつて難し。しかるにすでに製作を書写し、真影を図画せり。これ専念正業の徳なり、これ決定往生の
慶ばしいかな、心を弘誓の仏地に樹て、念を難思の法海に流す。深く如来の矜哀を知りて、まことに師教の恩厚を仰ぐ。慶喜いよいよ至り、至孝いよいよ重し。
と非常に感動を込めた文章で綴ってあります。
親鸞聖人の『教行証文類』は、『選択集』の真意である浄土真宗を浄土三部経をはじめ、龍樹菩薩以来の高僧方の聖教を拠り所にしながら開顕していかれた聖教だったのです。そこには念仏往生の教えの真実のすがたを顕すのに、教・行・信・証という形で展開し、しかもそれが如来の本願力回向の法であるして体系化し完成されたわけです。これが親鸞聖人の二回向四法[3]という教義体系でした。
私達はこの親鸞聖人の教えによって浄土真宗という阿弥陀仏の救いにあわせていただくわけです。いいかえれば、親鸞聖人が、三経・七祖の経・論・釈によって大成された浄土真宗の教義体系を仰いでいくわけですから、真宗の聖教というのは、浄土三部経と七祖の聖教であるとともに、それらが真宗の聖教であると確定してくださった親鸞聖人の御著作、『顕浄土真実教行証文類』を始めとする多くの御著作を「お聖教」として仰いでいく訳です。私にとりましては親鸞聖人ご自身が、日本民族の生んだ偉大な仏陀であると、私は思っています。
親鸞聖人のお書きになったものを拝見していますと、私達にはとても窺い知れないような深淵な世界をシカッと見届けていらっしゃる。そういうことを感じさせます。「悲嘆述懐和讃」に、
- 浄土真宗に帰すれども
- 真実の心はありがたし
- 虚仮不実のわが身にて
- 清浄の心もさらになし
と仰せられています。これは八十六歳頃のお言葉ですが、ああゆう言葉でもって自らを語っていく親鸞聖人、死ぬるまで手の付けようの無い愚かな者だと言い続けて行かれ方でした。
- 是非しらず邪正も
- わかぬこのみなり
- 小慈小悲もなけれども
- 名利に人師をこのむなり
ともいわれます。何が是であり、何が非であるか全く知りもしないくせに、師匠と言われて良い気になっている。情けない奴だと自分自身を語る人でした。しかしまた、
自然といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて迎へんと、はからはせたまひたるによりて、行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。
ちかひのやうは、無上仏にならしめんと誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときには、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり。この道理をこころえつるのちには、この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり。つねに自然を沙汰せば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるになるべし。これは仏智の不思議にてあるなるべし。
といわれたような、自然法爾のご法語などを拝見していますと、とてつも無い深い世界を、そして広々とした世界を見届けていらっしゃるという事が分かります。こういう親鸞聖人のお書きになったものを全て「お聖教」と我々は頂いている訳です。そして私達が生と死を超えていく道を見定める光と仰いでいく、これが「お聖教」というものです。
更に親鸞聖人が「ここには素晴らしい真実が説いてありますよ」と私達に紹介して下さった幾つかの書があります。それは三部経以外の経典や、七高僧ではないけれども、聖人が『教行証文類』に引用されている経・論・釈は、少なくともその引用文は真宗の聖教とみなすべきでしょう。さらに法然門下の先輩であった隆寛律師の書かれた『一念多念分別事』や『自力他力事』、律師のものと推定される『後世物語聞書』、あるいは聖覚法印の『唯信鈔』といった書物がそれです。もっとも寛律師の著作といっても全部ではありません。聖人のお眼鏡にかなったものだけです。
そして更に親鸞聖人の教えを伝えていかれる覚如上人、親鸞聖人から申しますと曾孫にあたる方です。この覚如上人のお書きになられた『口伝鈔』・『改邪鈔』・『執持鈔』、或は親鸞聖人の伝記として書かれた『御伝鈔』、こういった覚如上人の著作、それから覚如上人の長男で存覚上人という方がいらっしゃる、この人の書かれた『浄土真要鈔』だとか『持名鈔』それに『六要鈔』といった書物はやはり「聖教」に準ずるものとして頂いていきます。更に蓮如上人が書かれた『御文章』、こういったものはやはり「お聖教」に準ずるものとして依用していく訳です。それから蓮如上人が、これは真宗の「お聖教」として見て宜しいと、お墨付きなさった『歎異抄』、これもその意味で真宗の「聖教」に準ずると見ていきます。おそらく親鸞聖人の直弟であった唯円房の著作であろうと思いますが、誰が書いたにしても蓮如上人が「当流大事の聖教なり」といわれていますから聖教とみなすべきです。
それから『安心決定鈔』がございます。これについて蓮如上人が、
『安心決定鈔』のこと、四十余年があひだ御覧候へども、御覧じあかぬと仰せられ候ふ。また、金(こがね)をほりいだすやうなる聖教なりと仰せられ候ふ。
とか、「当流の義は『安心決定鈔』の義、いよいよ肝要なりと仰せられ候ふ」といわれたので、浄土真宗の聖教と見るべきであるというのが本願寺派の学匠達の説です。それに対して「金を掘り出すようなものというのは、金でない部分もあるということだからお聖教とみなすことはできない」というのが大谷派の学匠達の多数意見です。『安心決定鈔』の筆者は解りませんが、西山派の書物でしょう。しかし蓮如上人が用いられたような用い方をすれば真宗の聖教に準ずるということが出来ると思います。なおこの書の初めに「浄土真宗の行者は、まづ本願のおこりを存知すべきなり」と書かれていますが、浄土真宗という宗名は、西山系の人もよく用いていますから、この言葉があるからといって直ぐに親鸞聖人系の書物であるとは言えないわけです。
真宗で「お聖教」と云われるものはどうゆうものを指しているかということを簡単ですが述べました。「お聖教」といわれた以上、生死を超える道を明らかにされたものとして私達は全幅の信頼をおき、「お聖教」に自らの生死をゆだねて行くわけですから、それこそ「いのち」よりも尊いわけです。それだけ大事なものなのですから、「お聖教」の文言があやふやであってはいけません。その意味で聖教としては正確な原典を用い、異本との校異を厳密に行っておかなければなりません。そういう意味で、聖典学が非常に大切になってくるわけです。そしてまた「お聖教」の文言を正確に理解していくための学力も身につけていく必要があります。恣意的な読み方ほど聖教を冒涜する行為はないといえましょう。
ではその「お聖教」をどのように拝読し、領解すべきかということに触れなければなりませんが、少し休憩します。
休憩
「お聖教」を拝読するということについて、善導大師が『観経』の「読誦大乗」
(大乗経典を読誦する)という言葉を解釈して、経典読誦の意味を次のようにおっしゃっています。
「讀誦大乘」といふは、これ經教はこれを喩ふるに鏡の如し、しばしば讀み、しばしば尋ぬれば、智慧を開發す。もし智慧の眼開けぬれば、すなはち能く苦を厭ひて涅槃等を欣樂することを明す。
お経の教えというものは鏡のようなものである。幾たびも拝読し、幾たびもその心を味わうことによって智慧が開け発(お)こって来る。真実の何たるかを知り、自身の愚かさが照らし出されてくれば、煩悩業苦の娑婆を厭い離れ、涅槃の浄土を楽しみ願うようになって来るというのです。今の鏡というのは硝子の鏡で、後ろに水銀などを張りまして非常に良く見えるようになっていますから、この譬えの意味が分かりにくいかも知れません。
昔の鏡は青銅、或は白銅の銅鏡です、ですから鏡は絶えず磨き続けていないと錆が出て鏡は曇って写らなくなります。だから鏡は絶えず磨き続けるわけです。お経を常に拝読するということは、ちょうど鏡を磨くようなものであるというのです。鏡を磨けば、像が明らかに写るように、お経を拝読すれば、自身の現実と、進むべき方向を明らかに知る智慧が開けて来るというのです。「お聖教」を拝読するということによって、自己を知り、如来を知るという智慧が開発されるわけです。反対に鏡が曇れば、自身が見えなくなり、如来・浄土が隠れてしまうわけです。鏡を磨き続け、奇麗に磨き上げられると、そうすると像が少しの歪みもなく明らかに写るわけですね。
こうしてお聖教を拝読することによって、まず第一に自分自身が何物であるかというをしらせていただくわけです。鏡に写してもらって初めて自分の顔をハッキリと知る事が出来るようなものです。これが「お聖教」を拝読するということの意味でしょうね。
道元禅師も「仏道をならうというは、自己をならうなり。自己をならうというは、自己をわするるなり、自己をわするるというは、万法に証せらるるなり」とおっしゃっています。
道元禅師の『正法眼蔵』も必読の書ですね。何といっても道元禅師は日本民族の生んだ最高の宗教者の一人でございますから、道元禅師の住んでいらっしゃる世界をかいま見せて頂くということも大事ですよ。
私達はどんなにしても一つの人生しか生きることが出来ませんが、書物を読む事によって幾つかの人生をかいま見ることが出来るからです。そういう意味ではいろんなものを読んでおくべきです。いろいろな経典は勿論、『バイブル』から『コーラン』にいたるまで、やはり読んでおくべきですよ。千年も二千年も、何億の人々を魅了し続けてきた書物というのは凄いものがあります。もっとも真宗の「お聖教」をしっかり読まなければなりませんが、しかし逆にそういったものを読んでいると真宗の「お聖教」のもつ深みというものが解って来るということもあります。
さてその「お聖教」を読むことによって、真実なるものとしての如来・浄土を知らされるといいました。それが智慧を獲得するということでしょう。だから「お聖教」というのは私達に智慧を与えてくれるものだと言われています。そう言えば阿弥陀仏というのは無量光仏(アミターバ)と言いますが、「光明は智慧の相なり」といわれるように如来の真実の智慧の働きを顕していました。ことに親鸞聖人は、阿弥陀仏を帰命尽十方無碍光如来とか南無不可思議光仏というように、光で表した名号を中心にして、如来の徳を顕されています。たとえば『尊号真像銘文』には、
「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり、また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。
といわれています。
「帰命盡十方无碍光如来」という十字名号のいわれを解釈されたものですが、『一念多念文意』や、『唯信鈔文意』の場合もほとんど同じような解釈が施されています。まず「帰命」とは、如来の仰せにしたがう信心をあらわしており、「尽十方無碍光如来」とはその仰せを表しています。その中「尽十方」というのは、「十方世界をつくしてことごとくみちたまへる」如来であるということを表しているというのです。阿弥陀如来さまというのは天地を包んで満ち満ちているのだといわれるのです。阿弥陀さまは何処にいらっしゃるのですかというと、いらっしゃらない所はない、だから阿弥陀仏というのだとこういう言い方ですね。
お経には、西方にお浄土があって、そこに阿弥陀さまはいらっしゃると説かれていますが、天地一杯に満ち満ちていらっしゃると聖人はおっしゃいます。勿論聖人も西方という方角を指されることはあります。『浄土文類聚鈔』の「念仏正信偈」の一番最初に「西方不可思議尊」とおっしゃっています。しかしその場合でも「西方」といった次には「不可思議尊」という言葉で如来さまを呼ばれています。これは「西方」という言葉に深い意味を味わいつつも、単に方所を限定するようなはからいを入れさせないように、限定を超える「不可思議尊」という言葉で呼ばれたものでしょう。そうゆう面白い表現を聖人はもちいられるのです。
言葉というのは、その言葉が顕わす領域、これが問題なのです。阿弥陀仏という言葉には阿弥陀仏そのものが顕されているのです。その徳を一言で「無碍」と言い表されています。衆生の煩悩悪業にさへられることなく、何事にも妨げられることのない、自在の救済力を表した言葉です。それも、ただ障りがないというだけではなく、どんな障りも、すべて徳に転じていくはたらきが無碍の徳なのです。つぎに「無碍光と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり」といわれています。
普通は「无碍光如来」は、「無碍光」と「如来」というふうに文節をするのですが、親鸞聖人はそうしないで「無碍・光如来」という文節の仕方をする。良く注意をして読んでいると、親鸞聖人のお聖教は実に面白いです。実に不思議な読み方がされていて、私どもが全く気のつかなかった世界を開いて見せてくださるからです。気を付けなければならないことは、不必要な既成観念をもちこまないことです。親鸞聖人はこういっておられるけれども、本当はこうなのだというような、そんな要らない事を言わないで、お書きになっているとおりに読めば、その言葉が独自の世界を開いてくださるのです。言葉となって私達に届く。如来は言葉となって私に届いているという事です。
「光如来」というのは阿弥陀仏のことであるが、この如来は智慧のかたちであるということを表しているというのです。如来とは、虚妄分別を離れ、無明の闇を破って、真如をさとり、真如に成りきっているから、如来とは光であり、智慧そのものであるということです。しかしすでに述べたように、無分別智は、必ず後得智となって言葉をもって人々を教化していきますから、如来の智慧というのは、具体的には何なのかと云えば、それは教えの言葉であるといわねばなりません。
私にとっての如来とは、言葉となって自らのさとりの領域を私の前に開く方なのです、ですから如来とは、光であり、智慧であり、私を呼び覚ます言葉なのです。その如来であるような言葉が、一句につづめれば南無阿弥陀仏であり、帰命尽十方無碍光如来であり、広げれば『大無量寿経』上下二巻となって広がるということです。如来の智慧は教えの言葉となって私達を呼び覚まし続けている、それを「光如来」という。だからこの言葉の通りをスッと受け入れますと、その言葉が開く世界に自分が転入していく訳ですね。その真実のお言葉が“第十八願の教え”なのです。
「設ひ私が仏になりえたとしても、十方の世界に生きとし生きる全てのものが、本当に疑い無く、私の国に生まれる事が出来ると思ってたとえ僅か十遍でも、私の名を称えるものを浄土に生まれさせる事が出来ないならば、私は仏になりません」と誓われたのです。その言葉をその通りに頂けば良いのです。本願とは如来の願いです。「お願いだから、本当に疑い無く私の国に生まれることが出来ると思ってくれよ」とおっしゃっているのです。
信心とはこの如来の願いの言葉を仰せのままに受け入れることです。「そうですか、それではそのように思い取らせていただきます」と受け入れ、如来のみ言葉のままに自身の生と死の意味と方向を思い定めていくものを仏弟子というのでしょう。
「そなたは私のいう事を聞いてくれたのだな、そうしたらお前は私の仲間だよ」と云って下さるので、私達はそれで仏弟子になるのです。仏弟子になるというのは何も頭を剃るだけが仏弟子ではないのです。如来さまのいわれることを受け入れ、如来さまのいうことを聞くもののことです。
こうして、言葉となって如来は私の前に現れている、その意味で南無阿弥陀仏という言葉が、帰命盡十方无碍光如来という名号が如来さまなのです。正に如より来る言葉なのです。親鸞聖人は「如より来生して、報・応・化種々の身を示現したまふ」とおっしゃっています。こうして、智慧のかたちとしてのみ言葉を通して私達は、その教えが開く如来の世界を真実と聞き受ける心が開かれますが、それを信心とも、この言葉が開く世界に心の眼を開いてゆく、これを智慧と呼ぶのです。
そこで、このような智慧の言葉を聞く時に一番大事なこころがけは、自分の既成観念や概念的思考をもって理解しようとしない事です。自分が本来持っている理解力で「盡十方无碍光如来」の領域を理解しようとしたら絶対に分からないように出来ているのです。
分別を超えた領域を分別しようとしても出来ないことは当然です。分けて知ることの出来ない領域を、分けて知ったとすれば、それは理解したのじゃなくて誤解しているだけです。ですから『大経』でも『阿弥陀経』でもそうですが、凡夫の理解力のとどかないさとりの領域を説き表しているのだから、この教を、凡夫の地力で読んでも決して分かりませんよ、といわれます。
『大経』の一番最後のところに、聖道門の教えはまだ理解することが出来ようが、「若し斯の経を聞きて信楽受持することは、難の中の難、此れに過ぎたる難は無けん」といわれています。
『大経』の法義を聞いて、それをよく理解し、信楽し、受持することは、難の中の難、これ以上の困難はないといわれているのです。絶対にお前には分からない真実を説いたのだよといわれています。
『阿弥陀経』もそうです、「
解って信じるのではなくて、私には納得できないけれども、如来さまの仰せが真実であるとはからいなくみ言葉を受け入れるのです。するとその言葉が、全く新しい領域を開いてくださるのです。
人間の心、人間の言葉でもって了解できる所には、如来も浄土もないということです。それを突破した所に如来があり、浄土があるわけで、それはただ如来の言葉によってのみ開かれるものだからです。月は月の光が知らせてくれるように、太陽は太陽の光がその存在を告げてくれるようなものです。
人間が自らの知性でもって、何か未知のものを理解しようとする場合には、その何か訳の分からないものを既成の知識の体系の中に包摂しようとします。もし白墨(はくぼく)という物を知らない人が、これを見つけて、「これは何ですか」(黒板のチョークを指して)と尋ねたとき私どもならば、「それは白墨ですと概念で答えます。
そして「白墨とは何だ」といわれると、「それは石灰を主材料にして固めたもので、こうして黒板に字を書くためのものです」と説明する。すると尋ねた人は今まで持っていた知識によってそのことを理解し、「そうですか、それでよくわかりました、食べるものでは無かったのですね」というので、この人には新しく白墨という知識が出来上がり、一件落着するわけです。そういう風に既成の知識に新しい事象についての知識を上積みにするという形で知識は増えていくわけです。
ところで、目の前に起こった事象について、従来の知識が全く役に立たない場合は、了解不可能になります。主語をたとえ部分的にでも包摂する述語を持ち合わせていなかったならば、主語について述語することが出来ませんから、理解不可能ということになります。ところが如来の境界について理解する、述語として包摂していく既成の知識は我々には無いのです。
お経にはそれを「唯仏与仏」の知見といわれています。ただ仏と仏とだけが知り得る事柄であって、さとりの智慧を持たないものには決して了解できないといわれているのです。
先程いいましたように分別して知ることしかできない私どもには、生と死を超え、愛と憎しみを超え、一切の分別を超えている世界を理解する能力を持ち合わせないに決まっています。
虚妄分別を以て一如の世界を理解することはできない、無分別の世界は理解できないから無分別というのです。そういう世界から流れ出てきた経典の言葉を、通常の事柄を理解するような姿勢で捉えようとしても「分かりません」という絶望的な言葉しか出てきません。いいかえれば経典は「私が書物を読む」という態度で理解しようとしても、それは不可能なのです。そうすると、自分の既成の概念を以て経典を理解しようとすることを一度やめなければなりません。それを「はからいを離れる」というのです。
では「はからいを離れて読む」とはどうすれば良いのかということになります。それは経典を読むのではなくて、経典に読まれることです。普通は、私が書物を読むという時には、私が読む主体となって、そこへ与えられさまざまな情報を既得の知識に照らし合いながら取捨選択し、理解しては採り入れ、自分の知識を増やしていくわけです。
もっともその情報の中には既成の知識によって包摂し切れない事柄もありますが、よく調べ、勉強することによって、少しづつ理解を深め、知識を蓄積して行くわけです。ですから読むというのは、あくまでも私が主体となって読むのであって、読まれてはならないのです。読まれるということは、その書物の著者に支配されることであり、他人に情報操作をされていることになるからです。
その意味で新聞や雑誌を読むときには、読者に情報選択能力が要請されるわけです。つまり人にごまかされないように賢くなければならないわけです。今日のように情報が氾濫している時代は、特に一人一人の情報選択能力が問われてきます。
ところがお聖教を読む場合は、それと全く違った態度が要求されるわけです。私が主体となり、「お聖教」を客体として、「お聖教」を私の既成の知識によって包摂し理解しようとすると、必ず訳の分からない事柄に出あって行き詰まるわけです。
お経は、私どもの知識が必ず行き詰まるように説かれているといってもいいでしょう。例えば『大無量寿経』を見て御覧なさい、お釈迦様は耆闍崛山(霊鷲山)で一万二千人の比丘達に向かって説かれたといわれています。これは常識からいったら全く無茶ということになりましょう。
霊鷲山に登られた人ならばご存じでしょうが、一万二千人どころか二百人も入ったら一杯になってこぼれ落ちる位の狭い所にどうして一万二千人も入れるのか、第一に一万二千人もの人がどのようにして食べていくのか、いくら一日一食しか食べないとしても王舎城は経済的に破綻します。それにマイクロホンの無い時代に、一万二千人の人にどのようにして話をするのですか、話なんて出来ません。
それから無数の菩薩が集まってきたといわれていますが、その菩薩達は「此の賢劫の中の一切の菩薩」だといわれています。過去の荘厳劫、未来の星宿劫に対して現在の劫を賢劫というわけですが、全体としては八十劫で、その中有情の住める時期は住劫で、二十劫もあるといいますから、想像もつかない長い時間です。
その中に出現した一切の菩薩が集まっておられたというのです。もちろんそれは、私どもにはわかりようのないことです。過去の菩薩もいらっしゃるし、未来の菩薩もいらっしゃるわけでしょう。しかし過去とは過ぎ去って今はいないから過去なのです。今居れば過去では無い、現在です。未来というのは未だ無いから未来なのです。未来の菩薩が集まる訳が無いでしょう。
この賢劫の中で出現するすべての菩薩が集まっておられると云うのは、何を言おうとしているのでしょうか。その時にこのような訳の分からないことをいうお経はナンセンスだといってしまうか、それとも私にはよく分からないが、大変大事な事柄を告げようとしていらっしゃるのだと受け取るかが問題になってくるのです。
つまりこの経典は、時間とか空間の制約を超えた領域を私どもに告げようとされているのだと受け取るならば、私どもはこの経典の言葉を通して、永遠なものにふれ、無限な世界にふれていくことができるわけです。例えば未来の菩薩とは私であるという事に気づいたひとは、自分が今『大無量寿経』の法座の中に在るということがわかります。そうなれば今『大無量寿経』は私に説かれているということになります。
つまり『大無量寿経』というのは遠い昔の、歴史のある一点で、ある地方の一角で説かれたものではなくて、永劫に説き続けられている経典なのだということがわかってきます。そういう事が分からないと経典を読んだ意味がないわけです。そういうことが分かるためにはお経を読む眼というものを養って貰わなければいけない訳です。
そこでまず経を読むというのは私が主体になって読むのではない、むしろ逆に「お聖教」が主体となって私が何者であるかを知らせていただくというような読み方がされなければなりません。
その意味で、私は「聖教」に読まれ、「聖教」に包まれていくのです。いいかえれば「お聖教」の言葉の中に自己自身を見いだしていくということです。善導大師の『法事讃』の下巻に「釈迦如来、身子(舎利弗)に告げたまふは、すなはちこれあまねく苦の衆生に告げたまふなり」という言葉があります。ご存じのようにあの短い『阿弥陀経』のなかに三十数回にわたってお釈迦さまは舎利弗よ、舎利弗よと名を呼びかけながらみ教えをお説きになっています。
その舎利弗というのは、確かに仏弟子のお名前に違いないが、それは決して舎利弗だけにお説きになっているのではなくて、実はこの娑婆世界にあって煩悩を起こし、さまざまな苦悩にまつらわれながら生きているすべての衆生にお説きになっているわけで、いわば舎利弗は私どもの代表者としてその名を呼ばれているのだというのです。
そうしますと『阿弥陀経』を拝読するときは、今拝読している人が、あの舎利弗というののところに自分の名を入れて拝読すべきであるということになります。私ならば、あそこに「実圓」という名を入れて読むべきでしょう。そうなると私が読んでいるのではなくて、私は聞いているのです。『阿弥陀経』のご法座に私がいるということがわかれば、わが前に如来は立ちたもうということが感じられます。
その時にはもう私が経を読んでいくのではなく、如来さまに包まれ如来さまに呼びかけられているわけで、私は己を空しくして聞いているということになります。その時には如来が主体で私はその客体です。善導大師は阿弥陀仏の本願を、「汝一心に正念にして直に来れ、我能く汝を護らん」という招喚の勅命として味わわれています。
そこでは如来さまが「我」です。私達は私ではなくて「汝」なのです。「我能く汝を護らん」という本願の世界では如来が主体であり、私は如来の客体なのです。こうして如来が主人公、私は「汝」なのです。ここで信が成立する訳なのです。
経典を読む場合には、何よりも信心がなければならないといわれるのはそのゆえです。龍樹菩薩の『大智度論』に「仏法の大海は、信をもって能入とし、智をもって能度とす」といわれたことは有名です。
「信をもって能入とす」というのは、己を空しくして、経典のみ言葉をはからいなく聞き受けるということです。そこでは経典が主人公であって、私はひたすら経典の仰せのままに従い、教えを受け入れるばかりです。ところがそのことによって経典が伝えようとする世界に次第に導かれ、教えが私を改革し、さとりの智慧に則って物事を考え、行動するようになってきますと、今度は、経典の言葉の底に潜んでいる深い意味を領解する智慧が恵まれてきます。
つまり経典によって育てられた智慧によって、経典の深義を読みとるようになるわけです。例えば善導大師が『観経』の深義を読みとって『観経』に対する古今の学者の誤解をただし、正しい『観経』理解のための枠組みを確定するという古今楷定をされたのがそれです。また親鸞聖人が、第十八願成就文を読み変え、『浄土論』や『観経疏』の文言を読み変えられたようなことが行われるようになるわけです。それは経典が育てた智慧によって経典の深義が開示されるわけで、まさに経典を読み切っているといえましょう。
こうして、今度は「お聖教」を読み切るというようなことが行われるわけです。それは如来から賜わった智慧、信心の智慧のはたらきなのです。信心とは如来さまの仰せを真実と受け容れる心ですが、法を素直に聞ける耳が開けたことによって、法が私のなかで主体化するわけです。教えが私の身につくといってもよいでしょう。その信心の智慧が「聖教」を読み切る、こんな世界が出てくるわけです。もっともこのようなことは誰でも出来るわけではありません。
いわゆる祖師と崇められるような方であって初めて出来ることではありますが、この「お聖教」は、このように読んだ方がより深く「お聖教」の真意が明かになるのだという、「お聖教」が「お聖教」を読む如く読みきっていくというようなことがおこなわれます。親鸞聖人の『教行証文類』に典型的に展開されている世界がまさにそれなのです。さらにいえば、そのような深遠な智慧をもって独自の発揮をされた方を祖師と呼び、その方方の書物をお釈迦様のお経と並べてお聖教というといっても善いかも知れません。
仏教、特に浄土真宗において聖教とは何か、浄土真宗の聖教にはどのようなものがあるか、お聖教の拝読にはどのような心得が必要かということを申し上げたわけですが、本日は此れ迄にさせて頂きます。