「本願力の回向」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
(同じ利用者による、間の1版が非表示) | |||
5行目: | 5行目: | ||
{{Copyright}} | {{Copyright}} | ||
---- | ---- | ||
− | 法然聖人の教学のキーワードは「[[選択本願]]念仏」であり、その[[選択本願]] | + | 法然聖人の教学のキーワードは「[[選択本願]]念仏」であり、その[[選択本願]]を『浄土論』『浄土論註』の本願力回向の義に拠って「[[本願力回向]]」であるというのが親鸞聖人の「[[本願力回向]]」(=利他力)という[[浄土真宗]]の教義概念である。 |
− | + | 曇鸞大師は『論註』において不虚作住持功徳を解釈する中で、 [[本願力]]の意義を明らかにしている。 <br /> | |
{{Tinc|トーク:不虚作住持功徳}} | {{Tinc|トーク:不虚作住持功徳}} |
2024年7月25日 (木) 08:50時点における最新版
ほんがんりきのえこう
→補註12(他力・本願力回向) (浄文 P.478, 二種 P.721)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。
法然聖人の教学のキーワードは「選択本願念仏」であり、その選択本願を『浄土論』『浄土論註』の本願力回向の義に拠って「本願力回向」であるというのが親鸞聖人の「本願力回向」(=利他力)という浄土真宗の教義概念である。
曇鸞大師は『論註』において不虚作住持功徳を解釈する中で、 本願力の意義を明らかにしている。
◆ 参照読み込み (transclusion) トーク:不虚作住持功徳
ふこさ-じゅうじ-くどく 不虚作住持功徳
二十九種荘厳の中、仏荘厳の第八。すべてのものを仏道から退転させることのない阿弥陀仏の真実なるはたらきのこと。曇鸞大師は『論註』において、
- 「不虚作住持功徳成就とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり」 (行巻引文・註 198)、
- 「いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然ならず、力虚設ならず。力願あひ符(かな)うて、畢竟じて差(たが)はず。ゆゑに成就といふ」(行巻引文・註 198)
などと述べて、阿弥陀仏の本願力は、願いとその願いにもとづくはたらきとが一致したところに成就されていることを明かしている。(浄土真宗辞典)
「成就」とは「願もつて力を成ず、力もつて願に
- なんとなれば
荘厳 不虚作 住持 功徳成就 とは、偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。 (浄土論 P.37)
の「不虚作住持功徳成就」を釈して、
{中略 虚作の二例を引く}
とあり、行巻 P.197、真巻 P.361でこの文を引文されておられた。
それは『浄土論』の、
- 「
観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海 - (仏の本願力を観ずるに、遇(もうお)ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ)」
という阿弥陀如来の本願力成就を示す文であった。
御開山は本願力に出遇(あ)って、空過(むなしく過ぎる)の人生が仏果を得る功徳の人生に転換されたことを慶ばれて、
(13)
- 本願力にあひぬれば
- むなしくすぐるひとぞなき
- 功徳の宝海みちみちて
- 煩悩の濁水へだてなし (高僧 P.580)
と和讃されておられた。
御開山は「教巻」で、
と、浄土真宗という宗義であらわし、『浄土文類聚鈔』では、
と、本願力回向という法義で二種回向を示しておられた。浄土真宗とは本願力回向の宗旨であった。 御開山は、菩提心釈で竪超・竪出、横超・横出の「二双四重」を用いられ、
と、願力回向の信楽を願作仏心とされ、横の大菩提心とされておられた。
「証巻」を総決して、
と、還相は利他の正意であるとされ、他利利他の深義を感佩されておられる。
◆ 参照読み込み (transclusion) 補註12
補 註 |
---|
阿弥陀仏 |
往生・真実証・浄土 |
機・衆生 |
具縛の凡愚・屠沽の下類 |
業・宿業 |
正定聚 |
信の一念・聞 |
真実教 |
旃陀羅 |
大行・真実行 |
大信・真実信 |
他力・本願力回向 |
同朋・同行 |
女人・根欠・五障三従 |
方便・隠顕 |
菩薩 |
本願 |
→七祖 補註へ |
12 他力・本願力回向
他力とは、阿弥陀仏の本願力回向のはたらきをいう。本願力とは、
回向とは「回転して趣向すること」であるが、これに自身の
いま本願力回向とは、本願に誓われたように、阿弥陀仏が自身の成就された仏徳のすべてを南無阿弥陀仏におさめて衆生に与えたもう利他回向のことである。『
親鸞聖人は「
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。