「正像末和讃」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
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2008年2月28日 (木) 23:30時点における版
正像末和讃
夢告讃
(1)
弥陀の本願信ずべし
本願信ずるひとはみな
摂取不捨の利益にて
無上覚をばさとるなり
正像末浄土和讃
愚禿善信集
三時讃
(2)
釈迦如来かくれましまして
二千余年になりたまふ
正像の二時はをはりにき
如来の遺弟悲泣せよ
(3)
末法五濁の有情の
行・証かなはぬときなれば
釈迦の遺法ことごとく
竜宮にいりたまひにき
(4)
正像末の三時には
弥陀の本願ひろまれり
像季末法のこの世には
諸善竜宮にいりたまふ
(5)
『大集経』にときたまふ
この世は第五の五百年
闘諍堅固なるゆゑに
白法隠滞したまへり
(6)
数万歳の有情も
果報やうやくおとろへて
二万歳にいたりては
五濁悪世の名をえたり
(7)
劫濁のときうつるには
有情やうやく身小なり
五濁悪邪まさるゆゑ
毒蛇・悪竜のごとくなり
(8)
無明煩悩しげくして
塵数のごとく遍満す
愛憎違順することは
高峰岳山にことならず
(9)
有情の邪見熾盛にて
叢林棘刺のごとくなり
念仏の信者を疑謗して
破壊瞋毒さかりなり
(10)
命濁中夭刹那にて
依正二報滅亡し
背正帰邪まさるゆゑ
横にあだをぞおこしける
(11)
末法第五の五百年
この世の一切有情の
如来の悲願を信ぜずは
出離その期はなかるべし
(12)
九十五種世をけがす
唯仏一道きよくます
菩提に出到してのみぞ
火宅の利益は自然なる
(13)
五濁の時機いたりては
道俗ともにあらそひて
念仏信ずるひとをみて
疑謗破滅さかりなり
(14)
菩提をうまじきひとはみな
専修念仏にあだをなす
頓教毀滅のしるしには
生死の大海きはもなし
(15)
正法の時機とおもへども
底下の凡愚となれる身は
清浄真実のこころなし
発菩提心いかがせん
(16)
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
(18)
像末五濁の世となりて
釈迦の遺教かくれしむ
弥陀の悲願ひろまりて
念仏往生さかりなり
(19)
超世無上に摂取し
選択五劫思惟して
光明・寿命の誓願を
大悲の本としたまへり
(20)
浄土の大菩提心は
願作仏心をすすめしむ
すなはち願作仏心を
度衆生心となづけたり
(21)
度衆生心といふことは
弥陀智願の回向なり
回向の信楽うるひとは
大般涅槃をさとるなり
(22)
如来の回向に帰入して
願作仏心をうるひとは
自力の回向をすてはてて
利益有情はきはもなし
(23)
弥陀の智願海水に
他力の信水いりぬれば
真実報土のならひにて
煩悩菩提一味なり
(24)
如来二種の回向を
ふかく信ずるひとはみな
等正覚にいたるゆゑ
憶念の心はたえぬなり
(25)
弥陀智願の回向の
信楽まことにうるひとは
摂取不捨の利益ゆゑ
等正覚にいたるなり
(26)
五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし
(27)
念仏往生の願により
等正覚にいたるひと
すなはち弥勒におなじくて
大般涅槃をさとるべし
(28)
真実信心うるゆゑに
すなはち定聚にいりぬれば
補処の弥勒におなじくて
無上覚をさとるなり
(29)
像法のときの智人も
自力の諸教をさしおきて
時機相応の法なれば
念仏門にぞいりたまふ
(30)
弥陀の尊号となへつつ
信楽まことにうるひとは
憶念の心つねにして
仏恩報ずるおもひあり
(31)
五濁悪世の有情の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
(32)
無碍光仏のみことには
未来の有情利せんとて
大勢至菩薩に
智慧の念仏さづけしむ
(33)
濁世の有情をあはれみて
勢至念仏すすめしむ
信心のひとを摂取して
浄土に帰入せしめけり
(34)
釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
願作仏心はえしめたる
信心の智慧にいりてこそ
仏恩報ずる身とはなれ
(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし
(36)
無明長夜の灯炬なり
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり
罪障おもしとなげかざれ
(37)
願力無窮にましませば
罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば
散乱放逸もすてられず
(38)
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
(39)
真実信心の称名は
弥陀回向の法なれば
不回向となづけてぞ
自力の称念きらはるる
(40)
弥陀智願の広海に
凡夫善悪の心水も
帰入しぬればすなはちに
大悲心とぞ転ずなる
(41)
造悪このむわが弟子の
邪見放逸さかりにて
末世にわが法破すべしと
『蓮華面経』にときたまふ
(42)
念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ
(43)
真実報土の正因を
二尊のみことにたまはりて
正定聚に住すれば
かならず滅度をさとるなり
(44)
十方無量の諸仏の
証誠護念のみことにて
自力の大菩提心の
かなはぬほどはしりぬべし
(45)
真実信心うることは
末法濁世にまれなりと
恒沙の諸仏の証誠に
えがたきほどをあらはせり
(46)
往相・還相の回向に
まうあはぬ身となりにせば
流転輪廻もきはもなし
苦海の沈淪いかがせん
(47)
仏智不思議を信ずれば
正定聚にこそ住しけれ
化生のひとは智慧すぐれ
無上覚をぞさとりける
(48)
不思議の仏智を信ずるを
報土の因としたまへり
信心の正因うることは
かたきがなかになほかたし
(49)
無始流転の苦をすてて
無上涅槃を期すること
如来二種の回向の
恩徳まことに謝しがたし
(50)
報土の信者はおほからず
化土の行者はかずおほし
自力の菩提かなはねば
久遠劫より流転せり
(51)
南無阿弥陀仏の回向の
恩徳広大不思議にて
往相回向の利益には
還相回向に回入せり
(52)
往相回向の大慈より
還相回向の大悲をう
如来の回向なかりせば
浄土の菩提はいかがせん
(53)
弥陀・観音・大勢至
大願のふねに乗じてぞ
生死のうみにうかみつつ
有情をよばうてのせたまふ
(54)
弥陀大悲の誓願を
ふかく信ぜんひとはみな
ねてもさめてもへだてなく
南無阿弥陀仏をとなふべし
(55)
聖道門のひとはみな
自力の心をむねとして
他力不思議にいりぬれば
義なきを義とすと信知せり
(56)
釈迦の教法ましませど
修すべき有情のなきゆゑに
さとりうるもの末法に
一人もあらじとときたまふ
(57)
三朝浄土の大師等
哀愍摂受したまひて
真実信心すすめしめ
定聚のくらゐにいれしめよ
(58)
他力の信心うるひとを
うやまひおほきによろこべば
すなはちわが親友ぞと
教主世尊はほめたまふ
(59)
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし
以上正像末法和讃
五十八首
誡疑讃
(60)
不了仏智のしるしには
如来の諸智を疑惑して
罪福信じ善本を
たのめば辺地にとまるなり
(61)
仏智の不思議をうたがひて
自力の称念このむゆゑ
辺地懈慢にとどまりて
仏恩報ずるこころなし
(62)
罪福信ずる行者は
仏智の不思議をうたがひて
疑城胎宮にとどまれば
三宝にはなれたてまつる
(63)
仏智疑惑のつみにより
懈慢辺地にとまるなり
疑惑のつみのふかきゆゑ
年歳劫数をふるととく
(64)
転輪皇の王子の
皇につみをうるゆゑに
金鎖をもちてつなぎつつ
牢獄にいるがごとくなり
(65)
自力称名のひとはみな
如来の本願信ぜねば
うたがふつみのふかきゆゑ
七宝の獄にぞいましむる
(66)
信心のひとにおとらじと
疑心自力の行者も
如来大悲の恩をしり
称名念仏はげむべし
(67)
自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける
(68)
仏智不思議をうたがひて
善本・徳本たのむひと
辺地懈慢にうまるれば
大慈大悲はえざりけり
(69)
本願疑惑の行者には
含花未出のひともあり
或生辺地ときらひつつ
或堕宮胎とすてらるる
(70)
如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなほもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり
(71)
仏智を疑惑するゆゑに
胎生のものは智慧もなし
胎宮にかならずうまるるを
牢獄にいるとたとへたり
(72)
七宝の宮殿にうまれては
五百歳のとしをへて
三宝を見聞せざるゆゑ
有情利益はさらになし
(73)
辺地七宝の宮殿に
五百歳までいでずして
みづから過咎をなさしめて
もろもろの厄をうくるなり
(74)
罪福ふかく信じつつ
善本修習するひとは
疑心の善人なるゆゑに
方便化土にとまるなり
(75)
弥陀の本願信ぜねば
疑惑を帯してうまれつつ
はなはすなはちひらけねば
胎に処するにたとへたり
(76)
ときに慈氏菩薩の
世尊にまうしたまひけり
何因何縁いかなれば
胎生・化生となづけたる
(77)
如来慈氏にのたまはく
疑惑の心をもちながら
善本修するをたのみにて
胎生辺地にとどまれり
(78)
仏智疑惑のつみゆゑに
五百歳まで牢獄に
かたくいましめおはします
これを胎生とときたまふ
(79)
仏智不思議をうたがひて
罪福信ずる有情は
宮殿にかならずうまるれば
胎生のものとときたまふ
(80)
自力の心をむねとして
不思議の仏智をたのまねば
胎宮にうまれて五百歳
三宝の慈悲にはなれたり
(81)
仏智の不思議を疑惑して
罪福信じ善本を
修して浄土をねがふをば
胎生といふとときたまふ
(82)
仏智うたがふつみふかし
この心おもひしるならば
くゆるこころをむねとして
仏智の不思議をたのむべし
>以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。
愚禿善信作
聖徳奉讃
皇太子聖徳奉讃
(83)
仏智不思議の誓願を
聖徳皇のめぐみにて
正定聚に帰入して
補処の弥勒のごとくなり
(84)
救世観音大菩薩
聖徳皇と示現して
多々のごとくすてずして
阿摩のごとくにそひたまふ
(85)
無始よりこのかたこの世まで
聖徳皇のあはれみに
多々のごとくにそひたまひ
阿摩のごとくにおはします
(86)
聖徳皇のあはれみて
仏智不思議の誓願に
すすめいれしめたまひてぞ
住正定聚の身となれる
(87)
他力の信をえんひとは
仏恩報ぜんためにとて
如来二種の回向を
十方にひとしくひろむべし
(88)
大慈救世聖徳皇
父のごとくにおはします
大悲救世観世音
母のごとくにおはします
(89)
久遠劫よりこの世まで
あはれみましますしるしには
仏智不思議につけしめて
善悪・浄穢もなかりけり
(90)
和国の教主聖徳皇
広大恩徳謝しがたし
一心に帰命したてまつり
奉讃不退ならしめよ
(91)
上宮皇子方便し
和国の有情をあはれみて
如来の悲願を弘宣せり
慶喜奉讃せしむべし
(92)
多生曠劫この世まで
あはれみかぶれるこの身なり
一心帰命たえずして
奉讃ひまなくこのむべし
(93)
聖徳皇のおあはれみに
護持養育たえずして
如来二種の回向に
すすめいれしめおはします
以上聖徳奉讃
十一首
悲歎述懐
愚禿悲歎述懐
(94)
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
(95)
外儀のすがたはひとごとに
賢善精進現ぜしむ
貪瞋邪偽おほきゆゑ
奸詐ももはし身にみてり
(96)
悪性さらにやめがたし
こころは蛇蝎のごとくなり
修善も雑毒なるゆゑに
虚仮の行とぞなづけたる
(97)
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ
(98)
小慈小悲もなき身にて
有情利益はおもふまじ
如来の願船いまさずは
苦海をいかでかわたるべき
(99)
蛇蝎奸詐のこころにて
自力修善はかなふまじ
如来の回向をたのまでは
無慚無愧にてはてぞせん
(100)
五濁増のしるしには
この世の道俗ことごとく
外儀は仏教のすがたにて
内心外道を帰敬せり
(101)
かなしきかなや道俗の
良時・吉日えらばしめ
天神・地祇をあがめつつ
卜占祭祀つとめとす
(102)
僧ぞ法師のその御名は
たふときこととききしかど
提婆五邪の法ににて
いやしきものになづけたり
(103)
外道・梵士・尼乾志に
こころはかはらぬものとして
如来の法衣をつねにきて
一切鬼神をあがむめり
(104)
かなしきかなやこのごろの
和国の道俗みなともに
仏教の威儀をもととして
天地の鬼神を尊敬す
(105)
五濁邪悪のしるしには
僧ぞ法師といふ御名を
奴婢・僕使になづけてぞ
いやしきものとさだめたる
(106)
無戒名字の比丘なれど
末法濁世の世となりて
舎利弗・目連にひとしくて
供養恭敬をすすめしむ
(107)
罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
(108)
末法悪世のかなしみは
南都北嶺の仏法者の
輿かく僧達力者法師
高位をもてなす名としたり
(109)
仏法あなづるしるしには
比丘・比丘尼を奴婢として
法師・僧徒のたふとさも
僕従ものの名としたり
>以上十六首、これは愚禿がかなしみなげきにして述懐としたり。
この世の本寺本山のいみじき僧とまうすも法師とまうすもうきことなり。
釈親鸞これを書く。
善光寺讃
(110)
善光寺の如来の
われらをあはれみましまして
なにはのうらにきたります
御名をもしらぬ守屋にて
(111)
そのときほとほりけとまうしける
疫癘あるいはこのゆゑと
守屋がたぐひはみなともに
ほとほりけとぞまうしける
(112)
やすくすすめんためにとて
ほとけと守屋がまうすゆゑ
ときの外道みなともに
如来をほとけとさだめたり
(113)
この世の仏法のひとはみな
守屋がことばをもととして
ほとけとまうすをたのみにて
僧ぞ法師はいやしめり
(114)
弓削の守屋の大連
邪見きはまりなきゆゑに
よろづのものをすすめんと
やすくほとけとまうしけり
親鸞八十八歳御筆
自然法爾章
「獲」の字は、因位のときうるを獲といふ。
「得」の字は、果位のときにいたりてうることを得といふなり。
「名」の字は、因位のときのなを名といふ。
「号」の字は、果位のときのなを号といふ。
「自然」といふは、「自」は、おのづからといふ、行者のはからひにあらず。しからしむといふことばなり。
「然」といふは、しからしむといふことば、行者のはからひにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに。
「法爾」といふは、如来の御ちかひなるがゆゑに、しからしむるを法爾といふ。この法爾は、御ちかひなりけるゆゑに、すべて行者のはからひなきをもちて、このゆゑに他力には義なきを義とすとしるべきなり。「自然」といふは、もとよりしからしむるといふことばなり。
弥陀仏の御ちかひの、もとより行者のはからひにあらずして、南無阿弥陀仏とたのませたまひて、むかへんとはからはせたまひたるによりて、行者のよからんともあしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ。ちかひのやうは、「無上仏にならしめん」と誓ひたまへるなり。無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。
この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。
これは仏智の不思議にてあるなり。
正像末和讃
(115)
よしあしの文字をもしらぬひとはみな
まことのこころなりけるを
善悪の字しりがほは
おほそらごとのかたちなり
(116)
是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり
以上