正定聚
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
しょうじょうじゅ
浄土(真実報土)に往生することが正しく定まり、必ずさとりを開いて仏になることが決定している人々のあつまり、ともがらをいう。第十八願の信心の行者のこと。
また、浄土に往生して仏のさとりを開いた者が示現する相(広門示現相)を指すばあいもある。→補註6 (大経 P.17, 証巻 P.308, 三経 P.626, 尊号 P.650, 二種 P.722, 歎異抄 P.845,改邪鈔 P.918, 御文章 P.1089)
【左訓】「往生すべき身とさだまるなり」(一多 P.679)
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社
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正定聚 (しょうじょう-じゅ)
必ずさとりを開いて仏になることが正(まさ)しく定まっているともがら(聚)のこと。一般には菩薩五十二位の修道階位のうちの初地もしくは八地をいう。あるいは一生補処の位とすることもある。
『大経』第十一願文には、
- 定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ。(大経 P.17)
第十一願成就文には、
- かの国に生るるものは、みなことごとく正定の聚に住す。(大経 P.41)
と説かれている。曇鸞は龍樹の『十住毘婆沙論』で説かれた阿毘跋致(不退転)を正定聚と理解し、それを五果門の中の近門・大会衆門に当たるとした。
『論註」には、
- 仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。(行巻 P.155で引文)
とある。
親鸞は、「行巻」に、
- いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」といへり。(行巻 P.186)
等といい、正定聚は他力信心の行者が平生の信の一念に与えられる利益であるとし、これを現生正定聚という。なお親鸞は『論註』妙声功徳釈の文を、
- もし人ただかの国土の清浄安楽なるを聞きて、剋念して生ぜんと願ぜんものと、また往生を得るものとは、すなはち正定聚に入る。(証巻 P.309)
と読み替え、剋念往生する者(此彼土)と浄土に往生した者(彼土)との2種の正定聚があるとし、彼土での正定聚をも示している。彼土での正定聚は、浄土に往生しての仏のさとりを開いた者が示現する相(広門示現相)とされる。(浄土真宗辞典)
正定聚とは、必ずさとりを開いて仏になることが正(まさ)しく定まっているともがら(聚)のこと。一般には菩薩五十二位の修道階位の「十信」「十住」「十行」「十回向」「十地」のうちの十地の初地である歓喜地を正定聚という。
以下の画像は、聖道門の菩薩の階位である『菩薩瓔珞本業経』の五十二位説を示す。
正定聚とは、聖道門仏教では上図のように菩薩の修道の階位を表していた。この正定聚、邪定聚、不定聚の三定聚説を示す語を、御開山は、真仮分判の名目として転用して用いられた。つまり「第十八願」の行信に心が定まっている「弘願」の「機」を正定聚、「第十九願」の「要門」の法義である諸行往生の自力の行信に定まっている機を邪定聚とされた。そして「第二十願」の自力念仏の「真門」を行じている機を、正定聚へ転入するか邪定聚へ退転するか定まっていないから不定聚とよばれた。称えている法(なんまんだぶ)は真なのだが行じている機が仮(自力)であるから不定になるのである。→「願海真仮論」
この正定聚の意を、『一念多念証文』で、
と、浄土真宗に於ける正定聚のことを不退転とも、等正覚とも、阿毘跋致とも、阿惟越致とも、必定ともいうと正定聚の異名を挙げておられた。→便同弥勒
御開山は浄土門において初めて不退転である現生正定聚を開示された。八宗の祖といわれる龍樹菩薩は『十住毘婆沙論』「易行品」で、難易二道を明かし不退転地に至る道として難易二道を分判され不退の位も此土において語られていた。
曇鸞大師は瑜伽行派の世親菩薩の『浄土論』を龍樹菩薩の中観の思想(四論)の立場で解釈されたのであるが、曇鸞大師は往生浄土の浄土教の綱格によって彼土不退を強調された。
御開山は、その伝統の上で浄土教の根源を考察し「念仏衆生摂取不捨」の経言に拠り浄土教の現生正定聚説を洞察されて、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』「易行品」に、
とある文を「行巻」で引文され、この不退転地(阿惟越致地=正定聚)に至るには「恭敬の心を執持すること」(信)と、名号を称すること(行)であるとされた。また、同じく「易行品」に、
- この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆゑにつねに憶念すべしと。(*)
と、ある「必定」の文を重視された。六字釈では、
と、この文の前に引文された『礼讃』の、
- 「衆生称念 必得往生(衆生称念すればかならず往生を得)」 (行巻 P.167)
や、善導大師の六字釈、
- 「以斯義故 必得往生(この義をもつてのゆゑにかならず往生を得)」 (行巻 P.169)
の「必得往生」の語を
- 「必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり」
と、必得往生の語は不退の位に至ることを彰す語だとされておられる。そして「『経』には「即得」といへり」と、『大経』の本願成就文の「即得往生」の「即得」の語の意味は、必ず浄土に往生することの「必定」であり、不退転を示す語だとみられた。
願うべき浄土を欣うことさえ知らない我々に、阿弥陀如来が「至心回向」しての「願生彼国」であるとされ、本願成就文の「即得往生」の「即得」は「住不退転」の正定聚に入る利益を顕す語であるとみられたのであろう。これを信益同時といい、現生十種の益の結論である「正定聚に入る益なり」(*)の現生の利益というのである。『一念多念証文』で、
と、正定聚の左訓に「往生すべき身と定まるなり」とされた所以である。ここでは本願成就文の「即得往生」の語を、正定聚の位につくことであり、これを経文では「「往生を得」とはのたまへる」と言われているとされたのであった。
御開山は、「真巻」で、
- しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。(*)
と、真の仏性の開覚は、浄土へ往生してといわれるのだが、大谷派の近代教学の学徒や本願寺派の往くべき浄土を持たない輩は、「即得往生」の即得の語に幻惑され、また覚如上人の出所が怪しい『口伝鈔』の「体失・不体失の往生の事」(*)の「不体失の往生」の語に拘泥して、現世往生説を唱えた。その影響で『岩波仏教辞典』の執筆者の一人である大谷派の学者は「親鸞」と「教行信証」の項目に親鸞が「現世での往生を説き、この世で往生成仏と説いた」と記して世情を騒がせたのだが門徒としては大迷惑であった。近代の「智愚の毒」におかされた、往生浄土を持たない学者の輩は困ったものである。
また行信の利益を示す釈で、
- いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。(*)
と、「即時入必定」は「入正定聚之数」であるとし、必定と正定聚は同義語とされておられる。
御開山は『無量寿経』に説かれる阿弥陀仏の本願(第十八願)は、至心・信楽・欲生の三信一心の「信」と乃至十念の「行」という「信行」になっているから、龍樹菩薩は、われを念じ(阿弥陀仏の第十八願を念じること)が《信》であり、名を称する(なんまんだぶと称える)ことの《行》の、行信あいまって現在に於いて正しく仏陀の悟りを得る必定の位に定まっているということを説かれたのだ、というのが現生正定聚説の基本的な論理であったのであろう。
御開山は現生正定聚説を種々に論じておられるが、「化巻」では、『観経』の便往生と即往生を考察されて、
と、金剛の真心と摂取不捨を論じておられる。『弥陀経讃』では、
- 十方微塵世界の
- 念仏の衆生をみそなはし
- 摂取してすてざれば
- 阿弥陀となづけたてまつる (*)
と、阿弥陀仏という名義(名号の実義、名前の意味)は、念仏の衆生を摂取して捨てないから阿弥陀仏というのだとされておられる。そして「摂取」の左訓に「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」とされておられる。
『観経』真身観の「念仏衆生摂取不捨」の文によって、なんまんだぶをとなえる衆生と、その行が正しく往生の決定する行業である、と受け容れた信について考察された結果であろう。摂取不捨であるから正定聚であるとみられたのである。御開山の論理展開は非常に難解なのだが、一応日本語で書かれた御消息(お手紙)を引用しておく。
- 来迎は諸行往生にあり、自力の行者なるがゆゑに。臨終といふことは、諸行往生のひとにいふべし、いまだ真実の信心をえざるがゆゑなり。また十悪・五逆の罪人のはじめて善知識にあうて、すすめらるるときにいふことなり。真実信心の行人は、摂取不捨のゆゑに正定聚の位に住す。このゆゑに臨終まつことなし、来迎たのむことなし。信心の定まるとき往生また定まるなり。来迎の儀則をまたず。 (*)
このように、御開山の現生正定聚説は、法然聖人が『選択本願念仏集』で、
と、示して下さった現在の世において受ける利益である、なんまんだぶの行と、その行を疑いなく受け容れ信知した行者を阿弥陀仏が摂取不捨するから、現益の現生正定聚とされたのであろう。
一般的な三定聚説