仏説 観無量寿経

出典: 浄土真宗聖典プロジェクト『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

 『無量寿仏観経』ともいい、略して『観経』とも称される。この経は釈尊在世当時、王舎城におこった事件を契機として説かれたもので、はじめに次のような事情が示される。悪友の提婆達多にそそのかされた阿闍世という王子が、父頻婆娑羅王を幽閉し、その王のために食物を運んだ王妃の韋提希夫人をも宮殿の奥に閉じこめた。夫人は遠く耆闍崛山におられる釈尊を心に念じ、仏弟子を遣わして説法してくださるよう求め、これに応じて釈尊みずから王宮の夫人の前に姿を現された。そこで夫人は、この濁悪の世を厭い、苦悩なき世界を求め、特に阿弥陀仏の極楽浄土を選んで、そこに往生するための観法を説かれるように請うた。

 こうして、まず精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する13の観法が説かれる。この観法の中心は第九の真身観(阿弥陀仏の相好を観ずること)である。

 さらに、釈尊はみずから精神を統一しないままで修する善について、上品上生から下品下生までの九品に分けて説かれる。まず、上品には大乗の善が説かれ、中品には小乗の善や世間の善が説かれる。そして下品にはこれらの善を修することができない悪人のために念仏の教えが説かれるのである。

 ところが、このようなさまざまな観法や善を説き終ったあとで、最後に阿難に対して無量寿仏の名号を心にとどめよと説かれている。そこで親鸞聖人は、釈尊の本意がこれまで説かれてきた観法や諸善にはなく、他力念仏の一行を勧めることにあると見られた。

目 次

仏説観無量寿経

 仏説観無量寿経

                      宋元嘉畺良耶舎

序分

証信序

【1】  かくのごとくわれ聞きたてまつりき。

発起序

化前序

ひととき、仏、王舎城の耆闍崛山のうちにましまして、大比丘の衆千二百五十人と倶なりき。菩薩三万二千ありき。文殊師利法王子上首とせり。

禁父縁

【2】  そのとき、王舎大城にひとりの太子あり、阿闍世と名づく。調達(提婆達多)悪友の教に随順して、父の王頻婆娑羅を収執し、幽閉して七重の室内に置き、もろもろの群臣を制して、ひとりも往くことを得ざらしむ。国の大夫人あり、韋提希と名づく。大王を恭敬し、澡浴清浄にして、酥蜜をもつてに和してもつてその身に塗り、もろもろの瓔珞のなかに蒲桃の漿を盛れて、ひそかにもつて王にたてまつる。そのときに大王、麨を食し漿を飲んで、水を求めて口を漱ぐ。口を漱ぎをはりて合掌恭敬し、耆闍崛山に向かひ、はるかに世尊を礼してこの言をなさく、「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けたまへ」と。

ときに目犍連、鷹・隼の飛ぶがごとくして、疾く王の所に至る。日々にかくのごとくして、王に八戒を授く。世尊また、尊者富楼那を遣はして王のために法を説かしむ。かくのごときの時のあひだに三七日を経たり。王、麨蜜を食し法を聞くことを得るがゆゑに顔色和悦なり。

禁母縁

【3】  ときに阿闍世、守門のものに問はく、「父の王、いまになほ存在せりや」と。ときに守門の人まうさく、「大王、国の大夫人、身に麨蜜を塗り、瓔珞に漿を盛れて、もつて王にたてまつる。沙門目連および富楼那、空より来りて王のために法を説く。禁制すべからず」と。

ときに阿闍世、この語を聞きをはりて、その母を怒りていはく、「わが母はこれ賊なり。賊と伴なればなり。沙門は悪人なり。幻惑の呪術をもつて、この悪王をして多日死せざらしむ」と。すなはち利剣を執りて、その母を害せんと欲す。ときにひとりの臣あり。名を月光といふ。聡明にして多智なり。

および耆婆と王のために礼をなしてまうさく、「大王、臣聞く、『毘陀論経』に説かく、〈劫初よりこのかたもろもろの悪王ありて、国位を貪るがゆゑにその父を殺害せること一万八千なり〉と。いまだかつて無道に母を害することあるを聞かず。王いまこの殺逆の事をなさば、刹利種を汚さん。臣聞くに忍びず。これ栴陀羅なり。よろしくここに住すべからず」と。ときにふたりの大臣、この語を説きをはりて、手をもつて剣を按へて却行して退く。ときに阿闍世、驚怖し惶懼して耆婆に告げていはく、「なんぢ、わがためにせざるや」と。耆婆、大王にまうさく、「つつしんで母を害することなかれ」と。王、この語を聞きて懺悔して救けんことを求む。すなはち剣を捨てて止まりて母を害せず。内官に勅語し深宮に閉置して、また出さしめず。

厭苦縁

【4】  ときに韋提希、幽閉せられをはりて愁憂憔悴す。はるかに耆闍崛山に向かひて、仏のために礼をなしてこの言をなさく、「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」と。この語をなしをはりて悲泣雨涙して、はるかに仏に向かひて礼したてまつる。いまだ頭を挙げざるあひだに、そのとき世尊、耆闍崛山にましまして、韋提希の心の所念を知ろしめして、すなはち大目犍連および阿難に勅して、空より来らしめ、仏、耆闍崛山より没して王宮に出でたまふ。

ときに韋提希、礼しをはりて頭を挙げ、世尊釈迦牟尼仏を見たてまつる。身は紫金色にして百宝の蓮華に坐したまへり。目連は左に侍り、阿難は右にあり。釈・梵・護世の諸天、虚空のなかにありてあまねく天華を雨らしてもつて供養したてまつる。ときに韋提希、仏世尊を見たてまつりて、みづから瓔珞を絶ち、身を挙げて地に投げ、号泣して仏に向かひてまうさく、「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。

欣浄縁

【5】  やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」と。

そのとき世尊、眉間の光を放ちたまふ。その光金色なり。あまねく十方無量の世界を照らし、還りて仏の頂に住まりて化して金の台となる。〔その形は〕須弥山のごとし。十方諸仏の浄妙の国土、みななかにおいて現ず。あるいは国土あり、七宝合成せり。また国土あり、もつぱらこれ蓮華なり。また国土あり、自在天宮のごとし。また国土あり、玻瓈鏡のごとし。十方の国土、みななかにおいて現ず。かくのごときらの無量の諸仏の国土あり。厳顕にして観つべし。韋提希をして見せしめたまふ。

ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、このもろもろの仏土、また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんことを楽ふ。やや、願はくは世尊、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」と。

散善顕行縁

【6】  そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。

【7】  そのとき世尊、韋提希に告げたまはく、「なんぢ、いま知れりやいなや。 阿弥陀仏、ここを去ること遠からず。なんぢ、まさに繋念して、あきらかにかの国の浄業成じたまへるひとを観ずべし。われいまなんぢがために広くもろもろの譬へを説き、また未来世の一切凡夫の、浄業を修せんと欲はんものをして西方極楽国土に生ずることを得しめん。

 かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。

定善示観縁

【8】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。如来、いま未来世の一切衆生の、煩悩の賊のために害せらるるもののために、清浄の業を説かん。善いかな韋提希、快くこの事を問へり。阿難、なんぢまさに受持して、広く多衆のために仏語を宣説すべし。如来、いま韋提希および未来世の一切衆生を教へて西方極楽世界を観ぜしむ。仏力をもつてのゆゑに、まさにかの清浄の国土を見ること、明鏡を執りてみづから面像を見るがごとくなるを得べし。かの国土の極妙の楽事を見て、心歓喜するがゆゑに、時に応じてすなはち無生法忍を得ん」と。

仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢはこれ凡夫なり。心想羸劣にして、いまだ天眼を得ざれば、遠く観ることあたはず。諸仏如来に異の方便ましまして、なんぢをして見ることを得しむ」と。ときに韋提希、仏にまうしてまうさく、「世尊、わがごときは、いま仏力をもつてのゆゑにかの国土を見る。もし仏滅後のもろもろの衆生等、濁悪不善にして五苦に逼められん。いかんしてか、まさに阿弥陀仏の極楽世界を見たてまつるべき」と。

正宗分

定善

日想観

【9】  仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢおよび衆生、まさに心をもつぱらにし念を一処に繋けて、西方を想ふべし。いかんが想をなす。おほよそ想をなすといふは、一切衆生、生盲にあらざるよりは、有目の徒、みな日没を見よ。まさに想念を起し正坐し西向して、あきらかに日を観じて、心をして堅住ならしめて専想して移らざれば、日の没せんと欲して、状、鼓を懸けたるがごとくなるを見るべし。すでに日を見ること已らば、閉目・開目に、みな明了ならしめよ。これを日想とし、名づけて初めの観といふ。

水観

【10】  次に水想をなせ。水の澄清なるを見て、また明了にして分散の意なからしめよ。すでに水を見をはりなば、まさに氷想を起すべし。氷の映徹せるを見て瑠璃の想をなせ。この想成じをはりて、瑠璃地の内外に映徹せるを見ん。

下に金剛七宝の金の幢ありて瑠璃地を擎ぐ。その幢、八方にして八楞を具足せり。一々の方面は百宝の所成なり。一々の宝珠に千の光明あり。一々の光明、八万四千色なり。瑠璃地に映ずること億千の日のごとし。つぶさに見るべからず。瑠璃地の上に黄金のをもつて雑廁間錯し、七宝をもつて界ひて分斉分明なり。一々の宝のうちに五百色の光あり。その光、華のごとし。また星・月に似たり。虚空に懸処して光明の台と成る。楼閣千万にして百宝合成す。

台の両辺において、おのおの百億の華幢、無量の楽器あり、もつて荘厳とす。八種の清風、光明より出でてこの楽器を鼓つに、苦・空・無常・無我の音を演説す。これを水想とし、第二の観と名づく。

地観

【11】  この想成ずるとき、一々にこれを観じて、きはめて了々ならしめよ。

閉目・開目に散失せしめざれ。ただ睡時を除きて、つねにこの事を憶へ。かくのごとく想ふものを名づけて、ほぼ極楽国地を見るとす。もし三昧を得ば、かの国地を見ること了々分明なり。つぶさに説くべからず。これを地想とし、第三の観と名づく」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、仏語を持ちて、未来世の一切大衆の、苦を脱れんと欲はんもののために、この観地の法を説け。もしこの地を観ずるものは、八十億劫の生死の罪を除き、身を捨てて他世にかならず浄国に生ぜん。心に疑なきことを得よ。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

宝樹観

【12】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「地想成じをはりなば、次に宝樹を観ぜよ。宝樹を観ずとは、一々にこれを観じて七重の行樹の想をなせ。一一の樹の高さ八千由旬なり。そのもろもろの宝樹、七宝の華葉具足せざることなし。一々の華葉、異なれる宝色をなす。瑠璃色のなかより金色の光を出し、玻瓈色のなかより紅色の光を出し、碼碯色のなかより硨磲の光を出し、硨磲色のなかより緑真珠の光を出す。珊瑚・琥珀、一切の衆宝をもつて映飾とす。妙真珠網は、樹上に弥覆せり。一々の樹上に七重の網あり。一々の網のあひだに五百億の妙華の宮殿あり。梵王宮のごとし。諸天の童子、自然になかにあり。

一々の童子、五百億の釈迦毘楞伽摩尼宝をもつて瓔珞とす。その摩尼の光、百由旬を照らす。なほ、百億の日月を和合せるがごとし。つぶさに名づくべからず。衆宝間錯して、色のなかに上れたるものなり。このもろもろの宝樹、行々あひ当り、葉々あひ次し。もろもろの葉のあひだにおいて、もろもろの妙華を生ず。華の上に自然に七宝の果あり。一々の樹葉、縦広正等にして二十五由旬なり。その葉、千色にして百種の画あり。天の瓔珞のごとし。もろもろの妙華あり。閻浮檀金色をなし、旋火輪のごとく葉のあひだに婉転す。もろもろの果を涌生すること、帝釈の瓶のごとし。大光明あり、化して幢幡・無量の宝蓋と成る。この宝蓋のなかに三千大千世界の一切の仏事を映現す。十方の仏国もまたなかにおいて現ず。この樹を見をはりて、またまさに次第に一々にこれを観ずべし。樹茎・枝葉・華果を観見して、みな分明ならしめよ。これを樹想とし、第四の観と名づく。

宝池観

【13】  次に、まさに水を想ふべし。水を想ふとは、極楽国土に八つの池水あり。一々の池水は七宝の所成なり。その宝柔軟なり。如意珠王より生じ、分れて十四支となる。一々の支、七宝の色をなす。黄金を渠とし、渠の下にみな雑色の金剛をもつて、もつて底の沙とす。一々の水のなかに六十億の七宝の蓮華あり。一々の蓮華、団円正等にして十二由旬なり。その摩尼水、華のあひだに流れ注ぎ、樹を尋りて上下す。その声微妙にして、苦・空・無常・無我・諸波羅蜜を演説す。また諸仏の相好を讃歎するものあり。如意珠王より金色微妙の光明を涌出す。その光、化して百宝色の鳥となる。〔その声〕和鳴哀雅にして、つねに仏を念じ、法を念じ、僧を念ずることを讃ふ。これを八功徳水想とし、第五の観と名づく。

宝楼観

【14】  衆宝国土の一々の界上に五百億の宝楼閣あり。その楼閣のうちに、無量の諸天ありて天の伎楽をなす。また楽器ありて虚空に懸処し、天の宝幢のごとく、鼓たざるにおのづから鳴る。この衆音のなかに、みな仏を念じ、法を念じ、比丘僧を念ずることを説く。

この想成じをはるを名づけて、ほぼ極楽世界の宝樹・宝地・宝池を見るとす。これを総観想とし、第六の観と名づく。もしこれを見るものは、無量億劫の極重の悪業を除き、命終ののちにかならずかの国に生ず。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

華座観

【15】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「あきらかに聴け、あきらかに聴け、よくこれを思念せよ。仏、まさになんぢがために苦悩を除く法を分別し解説すべし。なんぢら憶持して、広く大衆のために分別し解説すべし」と。

この語を説きたまふとき、無量寿仏、空中に住立したまふ。観世音・大勢至、この二大士は左右に侍立せり。光明は熾盛にしてつぶさに見るべからず。百千の閻浮檀金色も比とすることを得ず。

韋提得忍

ときに韋提希、無量寿仏を見たてまつりをはりて、接足作礼して仏にまうしてまうさく、「世尊、われいま仏力によるがゆゑに、無量寿仏および二菩薩を観たてまつることを得たり。未来の衆生まさにいかんしてか、無量寿仏および二菩薩を観たてまつるべき」と。

仏、韋提希に告げたまはく、「かの仏を観たてまつらんと欲はんものは、まさに想念を起すべし。七宝の地上において蓮華の想をなせ。その蓮華の一々の葉をして百宝の色〔ありとの想〕をなさしめよ。〔その葉に〕八万四千の脈あり、なほ天の画のごとし。脈に八万四千の光あり、了々分明に、みな見ることを得しめよ。華葉の小さきは、縦広二百五十由旬なり。かくのごときの蓮華に八万四千の葉あり。一々の葉のあひだにおのおの百億の摩尼珠王ありて、もつて映飾とす。一々の摩尼、千の光明を放つ。その光〔天〕蓋のごとく七宝合成せり。あまねく地上を覆へり。釈迦毘楞伽宝をもつてその台とす。この蓮華の台は、八万の金剛・甄叔迦宝梵摩尼宝・妙真珠網をもつて交飾とす。その台の上において自然にして四柱の宝幢あり。一々の宝幢は百千万億の須弥山のごとし。幢上の宝幔は、夜摩天宮のごとし。また五百億の微妙の宝珠ありて、もつて映飾とす。 一々の宝珠に八万四千の光あり。一々の光、八万四千の異種の金色をなす。一々の金色、その宝土に遍し、処々に変化して、おのおの異相をなす。あるいは金剛の台となり、あるいは真珠網となり、あるいは雑華雲となる。十方面において、意に随ひて変現して仏事を施作す。これを華座の想とす、第七の観と名づく」と。

仏、阿難に告げたまはく、「かくのごときの妙華は、これもと法蔵比丘の願力の所成なり。もしかの仏を念ぜんと欲はんものは、まさにまづこの華座の想をなすべし。この想をなさんとき、雑観することを得ざれ。みな一々にこれを観ずべし。一々の葉・一々の珠・一々の光・一々の台・一々の幢、みな分明ならしめて、鏡のなかにおいて、みづから面像を見るがごとくせよ。この想成ずるものは、五万劫の生死の罪を滅除し、必定してまさに極楽世界に生ずべし。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

像観

【16】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この事を見をはらば、次にまさに仏を想ふべし。ゆゑはいかん。諸仏如来はこれ法界身なり。一切衆生の心想のうちに入りたまふ。このゆゑになんぢら心に仏を想ふとき、この心すなはちこれ〔仏の〕三十二相・八十随形好なれば、この心作仏す、この心これ仏なり。諸仏正遍知海は心想より生ず。このゆゑにまさに一心に繋念して、あきらかにかの仏、多陀阿伽度阿羅訶三藐三仏陀を観ずべし。かの仏を想はんものは、まづまさに像を想ふべし。閉目・開目に一つの宝像の閻浮檀金色のごとくにして、かの華上に坐せるを見よ。像の坐せるを見をはらば、心眼開くることを得て、了々分明に極楽国の七宝荘厳の宝地・宝池・宝樹行列し、諸天の宝幔その上に弥覆し、衆宝の羅網、虚空のなかに満てるを見ん。かくのごときの事を見ること、きはめて明了にして、掌中を観るがごとくならしめよ。この事を見をはらば、またまさにさらに一つの大蓮華をなして仏の左辺におくべし。前の蓮華のごとくして等しくして異あることなし。また一つの大蓮華をなして仏の右辺におけ。一つの観世音菩薩の像、左の華座に坐すと想へ。また金光放つこと、前の〔仏の〕ごとくして異なし。一つの大勢至菩薩の像、右の華座に坐すと想へ。この想成ずるとき、仏・菩薩の像はみな光明を放つ。その光金色にしてもろもろの宝樹を照らす。一々の樹下にまた三つの蓮華あり。もろもろの蓮華の上におのおの一仏・二菩薩の像ましまして、かの国に遍満す。この想成ずるとき、行者まさに水流・光明およびもろもろの宝樹・鳧・雁鴛鴦のみな妙法を説くを聞くべし。出定入定につねに妙法を聞く。行者の〔入定中に〕聞きしところのもの、出定のとき憶持して捨てず、修多羅と合せしめよ

もし合せざるをば、名づけて妄想とす。もし合することあるをば、名づけて粗想に極楽世界を見るとす。これを像想とし、第八の観と名づく。この観をなすものは、無量億劫の生死の罪を除き、現身のなかにおいて念仏三昧を得ん」と。

真身観(念仏衆生摂取不捨)

【17】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「この想成じをはらば、次にまさにさらに無量寿仏の身相と光明とを観ずべし。阿難まさに知るべし、無量寿仏の身は百千万億の夜摩天の閻浮檀金色のごとし。仏身の高さ六十万億那由他恒河沙由旬なり。眉間の白毫は、右に旋りて婉転して、〔大きさ〕五つの須弥山のごとし。仏眼は四大海水のごとし。青白分明なり。身のもろもろの毛孔より光明を演出す。〔大きさ〕須弥山のごとし。かの仏の円光は、〔広さ〕百億の三千大千世界のごとし。円光のなかにおいて、百万億那由他恒河沙の化仏まします。一々の化仏にまた衆多無数の化菩薩ありて、もつて侍者たり。無量寿仏に八万四千の相まします。一々の相におのおの八万四千の随形好あり。一々の好にまた八万四千の光明あり。一々の光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず

その光明と相好と、および化仏とは、つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して、心眼をして見たてまつらしむべし。この事を見るものは、すなはち十方の一切の諸仏を見たてまつる。諸仏を見たてまつるをもつてのゆゑに念仏三昧と名づく。

この観をなすをば、一切の仏身を観ずと名づく。仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり。無縁の慈をもつてもろもろの衆生を摂す。この観をなすものは、身を捨てて他世に諸仏の前に生じて無生忍を得ん。このゆゑに智者まさに心を繋けて、あきらかに無量寿仏を観ずべし。

 無量寿仏を観ぜんものは、〔仏の〕一つの相好より入れ。ただ眉間の白毫を観じて、きはめて明了ならしめよ。眉間の白毫を見たてまつれば、八万四千の相好、自然にまさに現ずべし。無量寿仏を見たてまつれば、すなはち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見たてまつることを得るがゆゑに、諸仏は現前に授記す。これをあまねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば、名づけて邪観とす」と。

観音観

【18】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「無量寿仏を見たてまつること、了々分明なること已りて、次にまたまさに観世音菩薩を観ずべし。この菩薩、身の長八十万億那由他由旬なり。身は紫金色なり。頂に肉髻あり。項に円光あり。おのおの百千由旬なり。その円光のなかに五百の化仏ましまして、釈迦牟尼仏のごとし。一々の化仏に五百の化菩薩と無量の諸天ありて、もつて侍者たり。挙身の光のなかに五道の衆生の一切の色相、みななかにおいて現ず。頂上に毘楞伽摩尼宝あり、もつて天冠とす。その天冠のなかに、ひとりの立化仏まします。高さ二十五由旬なり。観世音菩薩の面は、閻浮檀金色のごとし。眉間の毫相に七宝の色を備へ、八万四千種の光明を流出す。一々の光明に無量無数百千の化仏まします。一々の化仏は、無数の化菩薩をもつて侍者とす。変現自在にして十方世界に満てり。たとへば紅蓮華色のごとし。八十億の光明ありて、もつて瓔珞とす。その瓔珞のなかにあまねく一切のもろもろの荘厳の事を現ず。手掌に五百億の雑蓮華色をなす。手の十指の端、一々の指の端に八万四千の画あり。なほ印文のごとし。一々の画に八万四千色あり。

一々の色に八万四千の光あり。その光柔軟にしてあまねく一切を照らし、この宝手をもつて衆生を接引したまふ。足を挙ぐるとき、足の下に千輻輪の相あり、自然に化して五百億の光明の台と成る。足を下ろすとき、金剛摩尼の華あり、一切に布散して弥満せずといふことなし。その余の身相・衆好、具足せること仏のごとくして異なし。ただ頂上の肉髻および無見頂の相、世尊に及ばず。これを観世音菩薩の真実色身を観ずる想とし、第十の観と名づく」と。

仏、阿難に告げたまはく、「もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まさにこの観をなすべし。この観をなすものはもろもろの禍に遇はず、業障を浄除し、無数劫の生死の罪を除く。かくのごときの菩薩は、ただその名を聞くだに無量の福を獲。いかにいはんやあきらかに観ぜんをや。もし観世音菩薩を観ぜんと欲することあらんものは、まづ頂上の肉髻を観じ、次に天冠を観ぜよ。その余の衆相、また次第にこれを観じて、また明了なること、掌のうちを観るがごとくならしめよ。この観をなすをば、名づけて正観とす。もし他観するをば名づけて邪観とす。

勢至観

【19】  次にまた大勢至菩薩を観ずべし。この菩薩の身量の大小は、また観世音のごとし。円光のは、おのおの百二十五由旬なり。二百五十由旬を照らす。

挙身の光明は十方国を照らし、紫金色をなす。有縁の衆生は、みなことごとく見ることを得。ただこの菩薩の一毛孔の光を見れば、すなはち十方無量の諸仏の浄妙の光明を見る。このゆゑにこの菩薩を号けて無辺光と名づく。智慧の光をもつてあまねく一切を照らして、三塗を離れしむるに無上力を得たり。このゆゑにこの菩薩を号けて大勢至と名づく。この菩薩の天冠に五百の宝華あり。一々の宝華に五百の宝台あり。一々の台のうちに十方諸仏の浄妙の国土の広長の相、みななかにおいて現ず。頂上の肉髻は鉢頭摩華のごとし。肉髻の上において一つの宝瓶あり。もろもろの光明を盛れて、あまねく仏事を現ず。余のもろもろの身相は、観世音のごとく、等しくして異あることなし。この菩薩行きたまふとき、十方世界は一切震動す。地の動く処に当りて五百億の宝華あり。一々の宝華の荘厳、高く顕れて極楽世界のごとし。この菩薩、坐したまふとき、七宝の国土一時に動揺し、下方の金光仏の刹より乃至上方の光明王仏のまで〔及び〕、その中間において無量塵数の分身の無量寿仏、分身の観世音・大勢至、みなことごとく極楽国土に雲集す。空中に側塞して蓮華座に坐し、妙法を演説して苦の衆生を度す。この観をなすをば名づけて正観とし、もし他観するをば、名づけて邪観とす。大勢至菩薩を見る。これを大勢至の色身を観ずる想とし、第十一の観と名づく。この菩薩を観ずるものは、無数劫阿僧祇の生死の罪を除く。この観をなすものは胞胎に処せず、つねに諸仏の浄妙の国土に遊ぶ。この観成じをはるをば、名づけて具足して観世音・大勢至を観ずとす。

普観

【20】  この事を見るとき、まさに自心を起して西方極楽世界に生じて、蓮華のなかにして結跏趺坐し、蓮華の合する想をなし、蓮華の開く想をなすべし。蓮華の開くとき、五百色の光あり。来りて身を照らし、〔心の〕眼目開くと想へ。

仏・菩薩の虚空のなかに満てるを見ると想へ。水・鳥・樹林、および諸仏の所出の音声、みな妙法を演ぶ〔と想へ〕。十二部経と合して、出定のとき〔想を〕憶持して失はざれ。この事を見をはるを無量寿仏の極楽世界を見ると名づく。これを普観想とし、第十二の観と名づく。無量寿仏の化身無数にして、観世音・大勢至とともに、つねにこの行人の所に来至す」と。

雑観

【21】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「もし心を至して西方に生ぜんと欲せんものは、まづまさに一つの丈六の像、池水の上にましますを観ずべし。先の所説のごとき、無量寿仏の身量は無辺にして、これ凡夫の心力の及ぶところにあらず。しかるを、かの如来の宿願力のゆゑに憶想することあらば、かならず成就することを得。ただ仏像を想ふに無量の福を得。いかにいはんや仏の具足せる身相を観ぜんをや。阿弥陀仏は神通如意にして、十方の国において変現自在なり。あるいは大身を現じて虚空のなかに満ち、あるいは小身を現じて丈六、八尺なり。所現の形は、みな真金色なり。円光の化仏および宝蓮華は、上の所説のごとし。観世音菩薩および大勢至、一切処において身同じ。衆生ただ首相を観て、これ観世音なりと知り、これ大勢至なりと知る。この二菩薩、阿弥陀仏を助けてあまねく一切を化す。これを雑想観とし、第十三の観と名づく」と。

散善

上品

【22】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「上品上生といふは、もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。この功徳を具すること、一日乃至七日してすなはち往生を得。かの国に生ずるとき、この人、精進勇猛なるがゆゑに、阿弥陀如来は、観世音・大勢至・無数の化仏・百千の比丘・声聞の大衆・無数の諸天・七宝の宮殿とともに〔現前す〕。観世音菩薩は金剛の台を執りて、大勢至菩薩とともに行者の前に至る。阿弥陀仏は、大光明を放ちて行者の身を照らし、もろもろの菩薩とともに手を授けて迎接したまふ。観世音・大勢至は、無数の菩薩とともに行者を讃歎して、その心を勧進す。行者見をはりて歓喜踊躍し、みづからその身を見れば、金剛の台に乗ぜり。仏の後に随従して、弾指のあひだのごとくにかの国に往生す。かの国に生じをはりて、仏の色身の衆相具足せるを見、もろもろの菩薩の色相具足せるを見る。光明の宝林、妙法を演説す。聞きをはりてすなはち無生法忍を悟る。須臾のあひだを経て諸仏に歴事し、十方界に遍じて、諸仏の前において次第に授記せらる。本国に還り到りて無量百千の陀羅尼門を得。これを上品上生のものと名づく。


【23】  上品中生といふは、かならずしも方等経典を受持し読誦せざれども、よく義趣を解り、第一義において心驚動せず。深く因果を信じて大乗を謗らず。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。この行を行ずるもの、命終らんとするとき、阿弥陀仏は観世音・大勢至・無量の大衆と〔ともに〕、眷属に囲繞せられて、紫金の台を持たしめて、行者の前に至る。讃めていはく、〈法子、なんぢ大乗を行じ第一義を解る。このゆゑに、われいま来りてなんぢを迎接す〉と。千の化仏とともに一時に手を授く。行者みづから見れば紫金の台に坐せり。合掌・叉手して諸仏を讃歎す。一念のあひだのごとくに、すなはちかの国の七宝の池のなかに生ず。この紫金の台は大宝華のごとし。宿を経てすなはち開く。行者の身は紫磨金色になれり。足の下にまた七宝の蓮華あり。仏および菩薩、倶時に光明を放ちて行者の身を照らしたまふに、目すなはち開けてあきらかなり。前の宿習によりて、あまねく〔浄土の〕もろもろの声を聞くに、もつぱら甚深の第一義諦を説く。すなはち金台より下りて、仏を礼し合掌して世尊を讃歎す。七日を経て、時に応じてすなはち阿耨多羅三藐三菩提において不退転を得。時に応じてすなはちよく飛行して、あまねく十方に至り諸仏に歴事す。諸仏の所にしてもろもろの三昧を修す。一小劫を経て無生忍を得、現前に授記せらる。これを上品中生のものと名づく。


【24】  上品下生といふは、また因果を信じ大乗を謗らず。ただ無上道心を発す。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。行者命終らんとするときに、阿弥陀仏および観世音・大勢至は、もろもろの眷属とともに金の蓮華を持たしめて、五百の化仏を化作してこの人を来迎す。五百の化仏は、一時に手を授けて讃めてのたまはく、〈法子、なんぢいま清浄にして無上道心を発せり。われ来りてなんぢを迎ふ〉と。この事を見るとき、すなはちみづから身を見れば金の蓮華に坐す。坐しをはれば華合す。世尊の後に随ひて、すなはち七宝の池のなかに往生することを得。一日一夜にして蓮華すなはち開き、七日のうちにすなはち仏を見たてまつることを得。仏身を見たてまつるといへども、もろもろの相好において心明了ならず。三七日ののちにおいて、すなはち了々に見たてまつる。もろもろの音声を聞くにみな妙法を演ぶ。十方に遊歴して諸仏を供養す。諸仏の前にして甚深の法を聞く。三小劫を経て百法明門を得、歓喜地に住す。これを上品下生のものと名づく。これを上輩生想と名づけ、第十四の観と名づく」と。

中品

【25】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「中品上生といふは、もし衆生ありて五戒を受持し、八戒斎を持ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、もろもろの過患なからん。この善根をもつて回向して西方極楽世界に生ぜんと願求す。命終るときに臨みて、阿弥陀仏は、もろもろの比丘・眷属のために囲繞せられて、金色の光を放ちて、その人の所に至る。苦・空・無常・無我を演説し、出家の衆苦を離るることを得ることを讃歎す。行者、見をはりて心大きに歓喜す。みづから己身を見れば蓮華の台に坐せり。長跪合掌して仏のために礼をなす。いまだ頭を挙げざるあひだに、すなはち極楽世界に往生することを得て、蓮華すなはち開く。華の敷くるときに当りて、もろもろの音声を聞くに四諦を讃歎す。時に応じてすなはち阿羅漢道を得。三明・六通ありて八解脱を具す。これを中品上生のものと名づく。


【26】  中品中生といふは、もし衆生ありて、もしは一日一夜に八戒斎を受持し、もしは一日一夜に沙弥戒を持ち、もしは一日一夜に具足戒を持ちて、威儀欠くることなし。この功徳をもつて回向して極楽国に生ぜんと願求す。戒香の熏修せる、かくのごときの行者は、命終らんとするとき、阿弥陀仏のもろもろの眷属とともに金色の光を放ち、七宝の蓮華を持たしめて、行者の前に至りたまふを見る。行者みづから聞けば、空中に声ありて讃めていはく、〈善男子、なんぢがごときは善人なり。三世の諸仏の教に随順するがゆゑに、われ来りてなんぢを迎ふ〉と。行者みづから見れば、蓮華の上に坐せり。蓮華すなはち合し、西方極楽世界に生じて宝池のなかにあり。七日を経て蓮華すなはち敷く。華すでに敷けをはりて目を開き、合掌して世尊を讃歎したてまつり、法を聞きて歓喜し、須陀洹を得、半劫を経をはりて阿羅漢と成る。これを中品中生のものと名づく。


【27】  中品下生といふは、もし善男子・善女人ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜん。この人命終らんとするとき、善知識の、それがために広く阿弥陀仏の国土の楽事を説き、また法蔵比丘の四十八願を説くに遇はん。この事を聞きをはりて、すなはち命終る。たとへば壮士の臂を屈伸するあひだのごとくに、すなはち西方極楽世界に生ず。生じて七日を経て、観世音および大勢至に遇ひて法を聞きて歓喜し、一小劫を経て阿羅漢と成る。これを中品下生のものと名づく。これを中輩生想と名づけ、第十五の観と名づく」と。

下品

【28】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品上生といふは、あるいは衆生ありてもろもろの悪業を作らん。方等経典を誹謗せずといへども、かくのごときの愚人、多く衆悪を造りて慚愧あることなけん。命終らんとするとき、善知識、ために大乗十二部経の首題名字を讃ずるに遇はん。かくのごときの諸経の名を聞くをもつてのゆゑに、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教へて、合掌・叉手して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除く。そのときかの仏、すなはち化仏・化観世音・化大勢至を遣はして行者の前に至らしめ、〔化仏等の〕讃めていはく、〈善男子、なんぢ仏名を称するがゆゑにもろもろの罪消滅す。われ来りてなんぢを迎ふ〉と。この語をなしをはりて、行者すなはち化仏の光明の、その室に遍満せるを見たてまつる。見をはりて歓喜してすなはち命終る。宝蓮華に乗じ、化仏の後に随ひて宝池のなかに生ず。七七日を経て蓮華すなはち敷く。華の敷くるときに当りて、大悲の観世音菩薩および大勢至、大光明を放ちてその人の前に住して、ために甚深の十二部経を説く。聞きをはりて信解して、無上道心を発す。十小劫を経て百法明門を具し、初地に入ることを得。これを下品上生のものと名づく。 仏名・法名を聞き、および僧名を聞くことを得。三宝の名を聞きて、すなはち往生を得」と。

【29】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品中生といふは、あるいは衆生ありて、五戒・八戒および具足戒を毀犯せん。かくのごときの愚人は、僧祇物を偸み、現前僧物を盗み、不浄説法して、慚愧あることなく、もろもろの悪業をもつてみづから荘厳す。かくのごときの罪人は悪業をもつてのゆゑに地獄に堕すべし。命終らんとするとき、地獄の衆火、一時にともに至る。善知識の、大慈悲をもつて、ために阿弥陀仏の十力威徳を説き、広くかの仏の光明神力を説き、また戒・定・慧・解脱・解脱知見を讃ずるに遇はん。この人、聞きをはりて八十億劫の生死の罪を除く。地獄の猛火、化して清涼の風となり、もろもろの天華を吹く。華の上にみな化仏・菩薩ましまして、この人を迎接す。一念のあひだのごとくに、すなはち往生を得。七宝の池のなかの蓮華のうちにして六劫を経て蓮華すなはち敷けん。華の敷くるときに当りて観世音・大勢至、梵音声をもつてかの人を安慰し、ために大乗甚深の経典を説きたまふ。 この法を聞きをはりて、時に応じてすなはち無上道心を発す。これを下品中生のものと名づく」と。

下品下生

【30】  仏、阿難および韋提希に告げたまはく、「下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。 この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。


命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。蓮華のなかにして十二大劫を満てて、蓮華まさに開く。観世音・大勢至、大悲の音声をもつて、それがために広く諸法実相・罪を除滅するの法を説く。聞きをはりて歓喜し、時に応じてすなはち菩提の心を発さん。これを下品下生のものと名づく。これを下輩生想と名づけ、第十六の観と名づく」と。

得益分

【31】  この語を説きたまふとき、韋提希、五百の侍女とともに仏の所説を聞く。時に応じてすなはち極楽世界の広長の相を見たてまつる。仏身および二菩薩を見たてまつることを得て、心に歓喜を生じて未曾有なりと歎ず。廓然として大悟して無生忍を得たり。五百の侍女、阿耨多羅三藐三菩提心を発して、かの国に生ぜんと願ず。世尊、ことごとく、「みなまさに往生すべし。かの国に生じをはりて、諸仏現前三昧を得ん」と記したまへり。無量の諸天、無上道心を発せり。

流通分

【32】  そのとき阿難、すなはち座より起ち、前みて仏にまうしてまうさく、「世尊、まさにいかんがこの経を名づくべき。この法の要をば、まさにいかんが受持すべき」と。
仏、阿難に告げたまはく、「この経をば〈極楽国土・無量寿仏・観世音菩薩・大勢至菩薩を観ず〉と名づく。また〈業障を浄除し諸仏の前に生ず〉と名づく。なんぢまさに受持すべし。忘失せしむることなかれ。この三昧を行ずるものは、現身に無量寿仏および二大士を見ることを得。もし善男子・善女人、ただ仏名・二菩薩名を聞くだに、無量劫の生死の罪を除く。いかにいはんや憶念せんをや。
もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。

汝好持是語

仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。

耆闍分

【33】  そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説くに、無量の諸天および竜・夜叉、仏の所説を聞きて、みな大きに歓喜し、仏を礼して退きぬ。

仏説観無量寿経

 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)