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南無阿弥陀仏

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年10月2日 (火) 18:53時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

なもあみだぶつ

 かぎりない寿命と光明の徳を有する阿弥陀仏帰依(きえ)信順するという言葉。南無とは衆生帰命を意味するが、それさえ阿弥陀仏が成就(じょうじゅ)回向されることをあらわして南無阿弥陀仏の六字全体を仏の名号とする。→名号 (みょうごう)。

出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社
『浄土真宗聖典(注釈版)七祖篇』本願寺出版社

区切り線以下の文章は各投稿者の意見であり本願寺派の見解ではありません。

 阿弥陀仏は、みずからの名を称える者を浄土に往生せしめると本願(第十八願)に「乃至十念」(大経 P.18) と誓い、私の積むべき往生行の功徳のすべてを私に代って完成し、これを名(南無阿弥陀仏)に収めて衆生に回向されている。
この南無阿弥陀仏〔=なんまんだぶ〕は、生死を超えた真実一如の領域から届いて、私の頑迷を破り、真実の何たるかを知らせる阿弥陀仏そのものであり(名体不二)、また救いを告げる阿弥陀仏の名のりであった。その(みな)を称え、名にこめられた阿弥陀仏の本願を聞くとき、生きることは阿弥陀仏の教えに包まれ、育てられ続けることであり、この世の「いのち」の終わるときは、浄土へ生まれてさとりを実現することであると「信知」せしめられていく。こうして死ぬまで愛憎の煩悩(ぼんのう)は燃え続けるのだが、浄土を一定期するものは生死を超える道に迷うことはなくなる。名を称えれば、その名によって無明の闇を破られ、往生成仏の志願を満たされていくといわれるのである。 (wikidarmaと聖典セミナーから意を引く)

御開山は、この意を「行文類」で、

 しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願満てたまふ称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。 (行巻 P.146)
現代語:
こういうわけであるから、阿弥陀仏の名を称えるならば、その名号の徳用としてよく人びとのすべての無明を破り、よく人びとのすべての願いを満たしてくださいます。称名はすなわち、もっとも勝れた、真実にして微妙(みみょう)な徳をもった正定の行業です。正定業は、すなわち称名念仏です。念仏は、すなわち南無阿弥陀仏です。南無阿弥陀仏が、すなわち正念です。このように知るべきです。

と、いわれておられる。この称名により疑無明の闇を破り往生成仏の志願を満足する意の詳細については→「称名破満の釈義」を参照。

善導大師は、南無阿弥陀仏の意味を『観経疏』玄義分で次のように解釈されておられる。これを六字釈という。

善導大師の六字釈

原漢文(御開山の六字釈はこの漢文の句ごとに解釈される)

言南無者 即是帰命。亦是発願回向義。 言阿弥陀仏者 即是其行。以斯義故 必得往生。
南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。 (玄義分 P.325)
現代語:
南無というのは、すなわち帰命ということである。またこれは、発願廻向の意味でもある。阿弥陀仏というのは、すなわち衆生が浄土に往生する行である。南無阿弥陀仏の六字の名号にはこのようないわれがあるから、必ず往生することができるのである。

善導大師は、南無阿弥陀仏には、南無というと、阿弥陀仏が我が名を称えよという往生する具足(ぐそく)しているから、必ず往生を得るとされた。これを願行(がんぎょう)具足(ぐそく)の六字釈という。この六字釈をされた直接の意は、当時の摂論学徒の「別時意説」を論破する為であった。御開山は、この善導大師の願行(がんぎょう)具足(ぐそく)の六字釈を承けて、独自の六字釈を展開された。

御開山の六字釈
 しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[(えつ)(こえ)なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の(こえ)なり。悦税(えつさい)二つの(こえ)(つぐる)なり、(のぶる)なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]
ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
 発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。
必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
 『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の(かおばせ)(すがたかたち)なり。 (行巻 P.170)

現代語:

 そこで南無という言葉は、翻訳すれば帰命(きみょう)といいます。「帰」という言葉には、至るという意味があります。また帰説(きえつ)と熟語した場合、説は「(えつ)」と同じ意味になって、悦服のことで、「よろこんで心からしたがう」という意味になります。また帰説(きさい)と熟語した場合、説は「(さい)」と同じ意味になって、舎息のことで「やどる、安らかにいこう(憩)」という意味になります。
(せつ)の字には、(えつ)(さい)の二つの読み方がありますが、(せつ)と読めば「告げる、述べる」という意味で、人がその思いを言葉として述べることをいいます。「(みょう)」という言葉は、業(はたらき)、招引(まねきひく)、使(せしめる)、教(おしえる)、道(目的地に通ずる道。また「言う」の意)、信(まこと)、計(はからい)、召(めす)という意味を表しています。
こういうわけですから「帰命」とは、衆生を招き喚び続けておられる阿弥陀仏の本願の仰せです。
「発願回向」とは、阿弥陀仏が、衆生の願いに先立って、久遠のむかしに衆生を救済しようという大悲の願いを発し、衆生に往生の行を施し与えてくださる仏心をいいます。
「即是其行」とは、如来が発願し回向されたその行が、選択本願において選び定められたものであることを表しています。
「必得往生」とは、この世で不退転の位に至ることを顕しています。
『無量寿経』には「即得往生」と説かれ、その心を釈して『十住毘婆沙論』には、「即時人必定」といわれています。
「即」の字は、阿弥陀仏の本願力を疑いなく聞くことによって、真実報土に往生するまことの因が決定する時の極まりを明らかに示された言葉です。「必」の字は、「明らかに定まる」ということであり、本願力によって自ずから然らしめたまうという道理を表しており、迷いの境界と分かれて、さとりを極めるべき正定聚の位につけしめられたことを表しており、金剛のように堅固な信心を得ているすがたを表しています。

御開山は、帰命についてかなり複雑な字訓釈をされるのだが、これは南無=帰命という言葉に「本願招喚の勅命」という阿弥陀仏の呼び声の意を洞察されたからであろう。それはまた「阿弥陀仏だけが名号なのではなく、南無までも名号であり、衆生の帰命と発願廻向を法としてすでに成就されていることをあらわしている」という意でもあった。その意味に於いては善導大師の願行具足の六字釈と異なるのであった。 なお、このような六字全体を名号でああるといふ発想は法然門下の先輩である幸西成覚房と同じような捉え方であった。 →幸西大徳の六字釈
この淵源は、法然聖人の示された、

ただ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへば、こゑについて决定往生のおもひをなすべし。その决定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。 かく心えつればやすき也。往生は不定におもへばやがて不定なり、一定とおもへばやがて一定する事なり。 →(『和語灯録』-「往生大要鈔」)

「隠/顕」

心の善悪をもかへり見づ、つみの軽重をも沙汰せず、ただ口に南無阿弥陀仏と申せば、仏のちかひによりて、かならず往生するぞと、决定の心ををこすべき也。その決定の心によりて、往生の業はさだまる也。 往生は不定におもへば不定也。一定とおもへば一定する事也。 →(『和語灯録』-「浄土宗略抄」)


わか心のわろけれは往生はかなはじなとこそは、申あひて候めれ。そのうたかひの、やがて往生せぬ心にて候けるものを、たた心のよきわろきをも返りみず、罪のかろきをもきをも沙汰せず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなへて、声につきて決定往生のおもひをなすへし。その決定の心によりて、即往生の業はさだまる也。かく心うればうたがひなし。往生は不定とおもへは、やかて不定也、一定とおもへは、一定する事にて候也。 →(『拾遺語灯録』-「御消息」)


しかればたれだれも、煩悩のうすくこきおもかへりみす、罪障のかろきおもきおもさたせず、ただくちにて南無阿弥陀仏ととなえば、こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし、決定心を、すなわち深心となづく。その信心を具しぬれば、決定して往生するなり。詮ずるところは、ただとにもかくにも、念仏して往生すといふ事をうたがはぬを、深心とはなつけて候なり。 →(『西方指南抄』「上野大胡太郎実秀への御返事」)

という「こゑにつきて決定往生のおもひをなすべし」であった。この声について決定往生のおもひをなすとは、なんまんだぶと称えればなんまんだぶと聞える声が、往生は、我にまかせよという「本願招喚の勅命」であったからである。それはまた如是我聞(かくのごとくわれ聞きたまえり)という「経の始めに<如是>と称することは、信を彰して能入とす」(信巻 P.241) の「」であった。『歎異抄』に、

「親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(歎異抄 P.832)

とあるとおりである。
御開山は、元照律師の『阿弥陀經義疏]』(*)を引いて

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。(行巻 P.180)

と、「わが弥陀は名をもつて物を接」すとされておられるのも、生死を超えた真実一如の領域((さかい))から届いている声となって衆生を済度しつつある南無阿弥陀仏〔なんまんだぶ〕という可聞可称の名号による摂化をあらわさんがためであった。

本願招喚の勅命
名体不二
垂名示形
名号度生
安心論題/十念誓意
安心論題/六字釈義
安心論題/正定業義
如来