高僧和讃
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
高僧和讃
高僧和讃
高僧和讃 愚禿親鸞作
龍樹讃
龍樹菩薩 釈文に付けて
十首
(1)
本師龍樹菩薩は
『智度』『十住毘婆沙』等
つくりておほく西をほめ
すすめて念仏せしめたり
(2)
南天竺に比丘あらん
龍樹菩薩となづくべし
有無の邪見を破すべしと
世尊はかねてときたまふ
(3)
本師龍樹菩薩は
大乗無上の法をとき
歓喜地を証してぞ
ひとへに念仏すすめける
(4)
龍樹大士世にいでて
難行易行のみちをしへ
流転輪廻のわれらをば
弘誓のふねにのせたまふ
(5)
本師龍樹菩薩の
をしへをつたへきかんひと
本願こころにかけしめて
つねに弥陀を称すべし
(6)
不退のくらゐすみやかに
えんとおもはんひとはみな
恭敬の心に執持して
弥陀の名号称すべし
(7)
生死の苦海ほとりなし
ひさしくしづめるわれらをば
弥陀弘誓のふねのみぞ
のせてかならずわたしける
(8)
『智度論』にのたまはく
如来は無上法皇なり
菩薩は法臣としたまひて
尊重すべきは世尊なり
(9)
一切菩薩ののたまはく
われら因地にありしとき
無量劫をへめぐりて
万善諸行を修せしかど
(10)
恩愛はなはだたちがたく
生死はなはだつきがたし
念仏三昧行じてぞ
罪障を滅し度脱せし
以上龍樹菩薩
天親讃
天親菩薩 釈文に付けて
十首
(11)
釈迦の教法おほけれど
天親菩薩はねんごろに
煩悩成就のわれらには
弥陀の弘誓をすすめしむ
(12)
安養浄土の荘厳は
唯仏与仏の知見なり
究竟せること虚空にして
広大にして辺際なし
(13)
本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし
(14)
如来浄華の聖衆は
正覚のはなより化生して
衆生の願楽ことごとく
すみやかにとく満足す
(15)
天人不動の聖衆は
弘誓の智海より生ず
心業の功徳清浄にて
虚空のごとく差別なし
(16)
天親論主は一心に
無碍光に帰命す
本願力に乗ずれば
報土にいたるとのべたまふ
(17)
尽十方の無碍光仏
一心に帰命するをこそ
天親論主のみことには
願作仏心とのべたまへ
(18)
願作仏の心はこれ
度衆生のこころなり
度衆生の心はこれ
利他真実の信心なり
(19)
信心すなはち一心なり
一心すなはち金剛心
金剛心は菩提心
この心すなはち他力なり
(20)
願土にいたればすみやかに
無上涅槃を証してぞ
すなはち大悲をおこすなり
これを回向となづけたり
以上天親菩薩
曇鸞讃
曇鸞和尚 釈文に付けて
三十四首
(21)
本師曇鸞和尚は
菩提流支のをしへにて
仙経ながくやきすてて
浄土にふかく帰せしめき
(22)
四論の講説さしおきて
本願他力をときたまひ
具縛の凡衆をみちびきて
涅槃のかどにぞいらしめし
(23)
世俗の君子幸臨し
勅して浄土のゆゑをとふ
十方仏国浄土なり
なにによりてか西にある
(24)
鸞師こたへてのたまはく
わが身は智慧あさくして
いまだ地位にいらざれば
念力ひとしくおよばれず
(25)
一切道俗もろともに
帰すべきところぞさらになき
安楽勧帰のこころざし
鸞師ひとりさだめたり
(26)
魏の主勅して并州の
大巌寺にぞおはしける
やうやくをはりにのぞみては
汾州にうつりたまひにき
(27)
魏の天子はたふとみて
神鸞とこそ号せしか
おはせしところのその名をば
鸞公巌とぞなづけたる
(28)
浄業さかりにすすめつつ
玄中寺にぞおはしける
魏の興和四年に
遥山寺にこそうつりしか
(29)
六十有七ときいたり
浄土の往生とげたまふ
そのとき霊瑞不思議にて
一切道俗帰敬しき
(30)
君子ひとへにおもくして
勅宣くだしてたちまちに
汾州汾西秦陵の
勝地に霊廟たてたまふ
(31)
天親菩薩のみことをも
鸞師ときのべたまはずは
他力広大威徳の
心行いかでかさとらまし
(32)
本願円頓一乗は
逆悪摂すと信知して
煩悩・菩提体無二と
すみやかにとくさとらしむ
(33)
いつつの不思議をとくなかに
仏法不思議にしくぞなき
仏法不思議といふことは
弥陀の弘誓になづけたり
(34)
弥陀の回向成就して
往相・還相ふたつなり
これらの回向によりてこそ
心行ともにえしむなれ
(35)
往相の回向ととくことは
弥陀の方便ときいたり
悲願の信行えしむれば
生死すなはち涅槃なり
(36)
還相の回向ととくことは
利他教化の果をえしめ
すなはち諸有に回入して
普賢の徳を修するなり
(37)
論主の一心ととけるをば
曇鸞大師のみことには
煩悩成就のわれらが
他力の信とのべたまふ
(38)
尽十方の無碍光は
無明のやみをてらしつつ
一念歓喜するひとを
かならず滅度にいたらしむ
(39)
無碍光の利益より
威徳広大の信をえて
かならず煩悩のこほりとけ
すなはち菩提のみづとなる
(40)
罪障功徳の体となる
こほりとみづのごとくにて
こほりおほきにみづおほし
さはりおほきに徳おほし
(41)
名号不思議の海水は
逆謗の屍骸もとどまらず
衆悪の万川帰しぬれば
功徳のうしほに一味なり
(42)
尽十方無碍光の
大悲大願の海水に
煩悩の衆流帰しぬれば
智慧のうしほに一味なり
(43)
安楽仏国に生ずるは
畢竟成仏の道路にて
無上の方便なりければ
諸仏浄土をすすめけり
(44)
諸仏三業荘厳して
畢竟平等なることは
衆生虚誑の身口意を
治せんがためとのべたまふ
(45)
安楽仏国にいたるには
無上宝珠の名号と
真実信心ひとつにて
無別道故とときたまふ
(46)
如来清浄本願の
無生の生なりければ
本則三三の品なれど
一二もかはることぞなき
(47)
無碍光如来の名号と
かの光明智相とは
無明長夜の闇を破し
衆生の志願をみてたまふ
(48)
不如実修行といへること
鸞師釈してのたまはく
一者信心あつからず
若存若亡するゆゑに
(49)
二者信心一ならず
決定なきゆゑなれば
三者信心相続せず
余念間故とのべたまふ
(50)
三信展転相成す
行者こころをとどむべし
信心あつからざるゆゑに
決定の信なかりけり
(51)
決定の信なきゆゑに
念相続せざるなり
念相続せざるゆゑ
決定の信をえざるなり
(52)
決定の信をえざるゆゑ
信心不淳とのべたまふ
如実修行相応は
信心ひとつにさだめたり
(53)
万行諸善の小路より
本願一実の大道に
帰入しぬれば涅槃の
さとりはすなはちひらくなり
(54)
本師曇鸞大師をば
梁の天子蕭王は
おはせしかたにつねにむき
鸞菩薩とぞ礼しける
以上曇鸞和尚
道綽讃
道綽禅師 釈文に付けて
七首
(55)
本師道綽禅師は
聖道万行さしおきて
唯有浄土一門を
通入すべきみちととく
(56)
本師道綽大師は
涅槃の広業さしおきて
本願他力をたのみつつ
五濁の群生すすめしむ
(57)
末法五濁の衆生は
聖道の修行せしむとも
ひとりも証をえじとこそ
教主世尊はときたまへ
(58)
鸞師のをしへをうけつたへ
綽和尚はもろともに
在此起心立行は
此是自力とさだめたり
(59)
濁世の起悪造罪は
暴風駛雨にことならず
諸仏これらをあはれみて
すすめて浄土に帰せしめり
(60)
一形悪をつくれども
専精にこころをかけしめて
つねに念仏せしむれば
諸障自然にのぞこりぬ
(61)
縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかひたり
以上道綽大師
善導讃
善導大師 釈文に付けて
二十六首
(62)
大心海より化してこそ
善導和尚とおはしけれ
末代濁世のためにとて
十方諸仏に証をこふ
(63)
世々に善導いでたまひ
法照・少康としめしつつ
功徳蔵をひらきてぞ
諸仏の本意とげたまふ
(64)
弥陀の名願によらざれば
百千万劫すぐれども
いつつのさはりはなれねば
女身をいかでか転ずべき
(65)
釈迦は要門ひらきつつ
定散諸機をこしらへて
正雑二行方便し
ひとへに専修をすすめしむ
(66)
助正ならべて修するをば
すなはち雑修となづけたり
一心をえざるひとなれば
仏恩報ずるこころなし
(67)
仏号むねと修すれども
現世をいのる行者をば
これも雑修となづけてぞ
千中無一ときらはるる
(68)
こころはひとつにあらねども
雑行・雑修これにたり
浄土の行にあらぬをば
ひとへに雑行となづけたり
(69)
善導大師証をこひ
定散二心をひるがへし
貪瞋二河の譬喩をとき
弘願の信心守護せしむ
(70)
経道滅尽ときいたり
如来出世の本意なる
弘願真宗にあひぬれば
凡夫念じてさとるなり
(71)
仏法力の不思議には
諸邪業繋さはらねば
弥陀の本弘誓願を
増上縁となづけたり
(72)
願力成就の報土には
自力の心行いたらねば
大小聖人みなながら
如来の弘誓に乗ずなり
(73)
煩悩具足と信知して
本願力に乗ずれば
すなはち穢身すてはてて
法性常楽証せしむ
(74)
釈迦・弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまひけり
(75)
真心徹到するひとは
金剛心なりければ
三品の懺悔するひとと
ひとしと宗師はのたまへり
(76)
五濁悪世のわれらこそ
金剛の信心ばかりにて
ながく生死をすてはてて
自然の浄土にいたるなれ
(77)
金剛堅固の信心の
さだまるときをまちえてぞ
弥陀の心光摂護して
ながく生死をへだてける
(78)
真実信心えざるをば
一心かけぬとをしへたり
一心かけたるひとはみな
三信具せずとおもふべし
(79)
利他の信楽うるひとは
願に相応するゆゑに
教と仏語にしたがへば
外の雑縁さらになし
(80)
真宗念仏ききえつつ
一念無疑なるをこそ
希有最勝人とほめ
正念をうとはさだめたれ
(81)
本願相応せざるゆゑ
雑縁きたりみだるなり
信心乱失するをこそ
正念うすとはのべたまへ
(82)
信は願より生ずれば
念仏成仏自然なり
自然はすなはち報土なり
証大涅槃うたがはず
(83)
五濁増のときいたり
疑謗のともがらおほくして
道俗ともにあひきらひ
修するをみてはあだをなす
(84)
本願毀滅のともがらは
生盲闡提となづけたり
大地微塵劫をへて
ながく三塗にしづむなり
(85)
西路を指授せしかども
自障障他せしほどに
曠劫以来もいたづらに
むなしくこそはすぎにけれ
(86)
弘誓のちからをかぶらずは
いづれのときにか娑婆をいでん
仏恩ふかくおもひつつ
つねに弥陀を念ずべし
(87)
娑婆永劫の苦をすてて
浄土無為を期すること
本師釈迦のちからなり
長時に慈恩を報ずべし
以上善導大師
源信讃
源信大師 釈文に付けて
十首
(88)
源信和尚ののたまはく
われこれ 故仏とあらはれて
化縁すでにつきぬれば
本土にかへるとしめしけり
(89)
本師源信ねんごろに
一代仏教のそのなかに
念仏一門ひらきてぞ
濁世末代をしへける
(90)
霊山聴衆とおはしける
源信僧都のをしへには
報化二土ををしへてぞ
専雑の得失さだめたる
(91)
本師源信和尚は
懐感禅師の釈により
『処胎経』をひらきてぞ
懈慢界をばあらはせる
(92)
専修のひとをほむるには
千無一失とをしへたり
雑修のひとをきらふには
万不一生とのべたまふ
(93)
報の浄土の往生は
おほからずとぞあらはせる
化土にうまるる衆生をば
すくなからずとをしへたり
(94)
男女貴賤ことごとく
弥陀の名号称するに
行住座臥もえらばれず
時処諸縁もさはりなし
(95)
煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり
(96)
弥陀の報土をねがふひと
外儀のすがたはことなりと
本願名号信受して
寤寐にわするることなかれ
(97)
極悪深重の衆生は
他の方便さらになし
ひとへに弥陀を称してぞ
浄土にうまるとのべたまふ
以上源信大師
源空讃
源空聖人 釈文に付けて
二十首
(98)
本師源空世にいでて
弘願の一乗ひろめつつ
日本一州ことごとく
浄土の機縁あらはれぬ
(99)
智慧光のちからより
本師源空あらはれて
浄土真宗をひらきつつ
選択本願のべたまふ
(100)
善導・源信すすむとも
本師源空ひろめずは
片州濁世のともがらは
いかでか真宗をさとらまし
(101)
曠劫多生のあひだにも
出離の強縁しらざりき
本師源空いまさずは
このたびむなしくすぎなまし
(102)
源空三五のよはひにて
無常のことわりさとりつつ
厭離の素懐をあらはして
菩提のみちにぞいらしめし
(103)
源空智行の至徳には
[聖道諸宗の師主も
みなもろともに帰せしめて
一心金剛の戒師とす
(104)
源空存在せしときに
金色の光明はなたしむ
禅定博陸まのあたり
拝見せしめたまひけり
(105)
本師源空の本地をば
世俗のひとびとあひつたへ
綽和尚と称せしめ
あるいは善導としめしけり
(106)
源空勢至と示現し
あるいは弥陀と顕現す
上皇・群臣尊敬し
京夷庶民欽仰す
(107)
承久の太上法皇は
本師源空を帰敬しき
釈門儒林みなともに
ひとしく真宗に悟入せり
(108)
諸仏方便ときいたり
源空ひじりとしめしつつ
無上の信心をしへてぞ
涅槃のかどをばひらきける
(109)
真の知識にあふことは
かたきがなかになほかたし
流転輪廻のきはなきは
疑情のさはりにしくぞなき
(110)
源空光明はなたしめ
門徒につねにみせしめき
賢哲・愚夫もえらばれず
豪貴・鄙賤もへだてなし
(111)
命終その期ちかづきて
本師源空のたまはく
[往生みたびに…[|往生みたびに]]なりぬるに
このたびことにとげやすし
(112)
源空みづからのたまはく
霊山会上にありしとき
声聞僧にまじはりて
頭陀を行じて化度せしむ
(113)
粟散片州に誕生して
念仏宗をひろめしむ
衆生化度のためにとて
この土にたびたびきたらしむ
(114)
阿弥陀如来化してこそ
本師源空としめしけれ
化縁すでにつきぬれば
浄土にかへりたまひにき
(115)
本師源空のをはりには
光明紫雲のごとくなり
音楽哀婉雅亮にて
異香みぎりに映芳す
(116)
道俗男女預参し
卿上雲客群集す
頭北面西右脇にて
如来涅槃の儀をまもる
(117)
本師源空命終時
建暦第二壬申歳
初春下旬第五日
浄土に還帰せしめけり
以上源空聖人
高僧和讃
以上七高僧和讃 一百十七首
結讃
(118)
五濁悪世の衆生の
選択本願信ずれば
不可称不可説不可思議の
功徳は行者の身にみてり
天竺 {龍樹菩薩 天親菩薩}
震旦 {曇鸞和尚 道綽禅師 善導禅師}
和朝 {源信和尚 源空聖人}
[以上七人]
聖徳太子 {敏達天皇元年 正月一日誕生したまふ。}
仏滅後一千五百二十一年に当れ
り。
(119)
南無阿弥陀仏をとけるには
衆善海水のごとくなり
かの清浄の善身にえたり
ひとしく衆生に回向せん