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愚禿鈔 (下)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年3月18日 (日) 03:43時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (愚禿鈔 下)

愚禿鈔 下

   愚禿鈔 下


【44】
賢者の信を聞きて、  愚禿が心を顕す。
賢者の信は、       内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、       内は愚にして外は賢なり。

【45】
 唐朝の光明寺の和尚(善導)の『観経義』(散善義)にいはく、「まづ上品上生の位のなかについて、{乃至} 一には〈仏告阿難〉より以下は、すなはちならべて二の意を標す。一には告命を明かす。

二にはその位を弁定することを明かす。これすなはち大乗の上善を修学する凡夫人なり。

三には〈若有衆生〉より下〈即便往生〉に至るまでこのかたは、まさしく総じて有生の類を挙ぐることを明かす。すなはちそれに四あり。一には能信の人を明かす。二には往生を求願することを明かす。三には発心の多少を明かす。四には得生の益を明かす。四には〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定してもつて正因となすことを明かす。すなはち二あり。

一には世尊、機に随ひて益を顕すこと、意密にして知りがたし。仏みづから問ひてみづから徴したまふにあらざれば、解を得るに由なきことを明かす。二には如来、還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。

 『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。

 また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり」と。{文 }

【46】
 利他真実について、また二種あり。

一には、「おほよそ施したまふところ趣求をなすは、またみな真実なり」と。
二には、「不善の三業は、かならず真実心のなかに捨てたまひしを須ゐよ。
 またもし善の三業を起さば、かならず真実心のなかになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく」と。{文}

【47】
 「自利真実といふは、また二種あり。一には、真実心のなかに自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に〈一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくせん〉と想へとなり。二には、真実心のなかに自他凡聖等の善を勤修すべしと。真実心のなかの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆すべし。また真実心のなかの口業に、三界六道等の自他の依正二報、苦悪の事を毀厭し、また一切衆生三業所為の善を讃嘆すべし。もし善業にあらずは、敬ひてこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心 のなかの身業に、合掌し礼敬して、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養したてまつれ。また真実心のなかの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨すべし。また真実心のなかの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ぜるがごとくすべし。また真実心のなかの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨すべし」となり。{文 }

【48】
 「一には至誠心」といふは、至とは真なり、誠とは実なり。すなはち真実なり。真実に二種あり。

一には自利真実なり。
難行道        聖道門
竪超 即身是仏即身成仏、自力なり。 竪出 自力のなかの漸教、

                        歴劫修行なり

二には利他真実なり。
易行道        浄土門
横超 [如来の誓願他力なり。] 横出 他力のなかの自力なり。定散諸行なり。

【49】
 自利真実について、また二種あり。

一には厭離真実なり。
聖道門        難行道
竪出         自力
竪出とは難行道の教なり、厭離をもつて本とす、自力の心なるがゆゑなり。
二には欣求真実なり。
浄土門        易行道
横出         他力
横出とは易行道の教なり、欣求をもつて本とす、なにをもつてのゆゑに、願力によりて生死を厭捨せしむるがゆゑなりと。

【50】
 また横出の真実について、また三種あり。

一には口業に欣求真実、
  口業に厭離真実なり。
二には身業に欣求真実、
  身業に厭離真実なり。
三には意業に欣求真実、
  意業に厭離真実なり。

【51】
 宗師(善導)の釈文を案ずるに、「一者真実心中」以下より、「自他凡聖等善」に至るまでは、厭離を先とし欣求を後とす。すなはちこれ難行道、自力竪出の義なり。「真実心中口業」以下より、「自他依正二報」に至るまでは、すなはちこれ易行道、他力横出の義なり。

【52】
 「二には深心。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には、決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。二には、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよ」となり。{文}

 いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。

【53】
 文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。

七深信とは、
第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。
第二の深信は、「決定して乗彼願力を深信する」と、すなはちこれ利他の信海なり。
第三には、「決定して『観経』を深信す」と。
第四には、「決定して『弥陀経』を深信す」と。
第五には、「唯仏語を信じ決定して行による」と。
第六には、「この『経』(観経)によりて深信す」と。
第七には、「また深心の深信は決定して自を建立せよ」となり。
六決定とは、以上次いでのごとし、知るべし。

【54】
 第五の「唯信仏語」について、三遣・三随順・三是名あり。

三遣とは、
一には、「仏の捨て遣めたまふをば、すなはち捨つ」と。
二には、「仏の行ぜ遣めたまふをば、すなはち行ず」と。
三には、「仏の去ら遣めたまふ処をば、すなはち去る」となり。
三随順とは、
一には、「是を仏教に随順すと名づく」と。
二には、「仏意に随順す」と。
三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり。
三是名とは、
一には、「是を真仏弟子と名づく」となり。
上の是名とこれと合して三是名なり。

【55】
 第六に「この『経』(観経)によりて深信する」について、六即・三印・三無・六正・二了あり。

六即とは、
一には、「もし仏意に称へば、即ち印可して〈如是如是〉とのたまふ」と。
二には、「もし仏意に可はざれば、即ち〈なんぢらが説くところ、この義不如是〉とのたまふ」と。
三には、「印せざるは、即ち無記・無利・無益の語に同じ」と。
四には、「仏の印可したまふは、即ち仏の正教に随順するなり」と。
五には、「もし仏の所有の言説は、即ちこれ正教なり」と。
六には、「もし仏の所説は、即ちこれ了教なり」となり。
三印とは、
一には即印可、       二には不印、
三には仏印可なり。[三印は上の六即の文のなかにあり。]
三無とは、
一には無記、        二には無利、
三には無益なり。[三無は六即の文のなかにあり。]
六正とは、
一には正教、        二には正義、
三には正行、        四には正解、
五には正業、        六には正智なり。
二了とは、
一には、「もし仏の所説は、即ちこれ了教なり」と。
二には、「菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり」と、
  知るべし。

【56】
 第七の「また深心の深信」については、決定して自心を建立するに、二別・三異・一問答あり。

二別とは、
一には別解、        二には別行なり。
三異とは、
一には異学、        二には異見、
三には異執なり。

【57】
 一問答のなかに、四別・四信あり。

四別とは、
一には処別、        二には時別、
三には対機別、       四には利益別なり。
四信とは、
一には往生の信心、凡夫の疑難なり。
二には清浄の信心、地前の菩薩羅漢辟支仏等の疑難なり。
三には上上の信心なり、初地以上十地このかたの疑難なり。
四には畢竟じて一念疑退の心を起さざるなり。報仏・化仏の疑難なり。

【58】
 上上の信心について、五実・二異あり。

五実とは、
一には真実決了の義なり、  二には実知、
三には実解、        四には実見、
五には実証なり。
二異とは、
一には異見、        二には異解なり。

【59】
 報化二仏の疑難について、『弥陀経』を引いて信を勧むるに、二専・四 同・二所化・六悪・二同・三所あり。

二専とは、
一には専念、        二には専修なり。五種なり。
四同とは、
一には同讃、        二には同勧、
三には同証、        四には同体なり。
所化とは、
一には、「一仏の所化はすなはちこれ一切仏の化なり」と、
二には、「一切仏の所化はすなはちこれ一仏の化なり」となり。
六悪とは、
一には悪時、        二には悪世界、
三には悪衆生、       四には悪見、
五には悪煩悩、       六には悪邪無信盛時なり。
二同とは、
一には十方仏等同心なり、  二には同時におのおの舌相を出す
三所とは、
一には所説、        二には所讃、
三には所証なり。

【60】
 「一仏の所説は、すなはち一切仏同じくその事を証成したまふなり。これを人に就いて信を立つと名づくるなり」と、知るべし。

【61】
 「次に行に就いて信を立つとは、しかるに行に二種あり。

一には正行、        二には雑行なり」と。

【62】
 正行について、五正行・六一心・六専修あり。

五正行とは、
一には一心に専読誦、    二には一心に専観察、
三には一心に専礼仏、    四には一心に専称仏名、
五には一心に専讃嘆供養なり。
またこの正のなかについて、また二種あり。
一には、「一心に弥陀の名号を専念する、これを正定の業と名づく」と。
二には、「もし礼誦等によるはすなはち名づけて助業となす」となり。
六一心とは、次いでのごとく一心なり。
六専修とは、次いでのごとく専修なり。

【63】
 また正雑二行について、また二行あり。

一には定行、        二には散行なり。

【64】
 また正雑について、また二種あり。

一には念仏、        二には観仏なり。

【65】
 また念仏について、また二種あり。

一には弥陀念仏、      二には諸仏念仏なり。
法身   報身   応身   化身

【66】
 また弥陀念仏について、二種あり。

一には正行定心念仏
二には正行散心念仏なり。
 弥陀定散の念仏、これを浄土の真門といふ、また一向専修と名づくるなりと、知るべし。

【67】
 また諸仏念仏について、二種あり。

一には雑行定心念仏、
二には雑行散心念仏なり。
 諸仏定散の念仏は、これ雑中の専行なりと、知るべし。

【68】
 また観仏について、また二種あり。

一には正の観仏、      二には雑の観仏なり。

【69】
 また正の観仏について、また二種あり。

一には真観、        二には仮観なり。

【70】
 また真仮について、十三の観想あり。

日想   水想   地想   宝樹想
宝池   宝楼   華座   像想
真観   観音   勢至   普観
雑観

【71】
 また正の散行について、四種あり。

読誦   礼拝   讃嘆   供養

【72】
 上よりこのかた定散六種兼行するがゆゑに雑修といふ、これを助業 名づく、名づけて方便仮門となす、また浄土の要門と名づくるなりと、知るべし。

【73】
 また雑の観仏について、二種あり。また真仮あり。

一には無相離念、      二には立相住心なり。

【74】
 また雑の散行について、三福あり。

一には、孝養父母・奉事師長・慈心不殺・修十善業なり。
二には、受持三帰・具足衆戒・不犯威儀なり。
三には、発菩提心・深信因果・読誦大乗・勧進行者なり。

【75】
 上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。

【76】
 「三には回向発願心」とは、回向発願心といふは、二種あり。

(自利)には、「過去・今生の自他所作の善根をもつて、みな真実の深信心のなかに回向してかの国に生れんと願ずるなり」と。
二には、「回向発願して生るるものは、かならず決定して真実心のなかに回向せしめたまへる願を須ゐて得生の想をなすなり」となり。

【77】
 回向発願して生るるものについて、信心あり。

信心とは、
「得生の想をなす、この心深信すること、なほ金剛のごとし」となり。

【78】
 この深信について、一譬喩・二異・二別・一問答・二回向あり。

一譬喩とは、
「この心深信すること、なほ金剛のごとし」となり。
二異とは、
一には異見、        二には異学なり。
二別とは、
一には別解、        二には別行なり。

【79】
 一問答について、七悪・六譬・二門・四有縁・二所求・二所愛・二欲学・二必あり。

七悪とは、
一には十悪、        二には五逆、
三には四重、        四には破戒、
五には破見、        六には謗法、
七には闡提なり。
六譬とは、
一には、明よく闇を破す。  二には、空よく有を含む。
三には、地よく載養す。   四には、水よく生潤す。
五には、火よく成壊す。   六には、二河 水の河・火の河。
二門とは、
には、「随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩門を出づるなり」と。
には、「随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧門に入るなり」となり。
四有縁とは、
一には、「なんぢなにをもつて、いましまさに有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する」と。
二には、「しかるにわが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず」と。
三には、「なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわが所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、必ず疾く解脱を得るなり」と。
四には、「もし行を学ばんと欲はば、必ず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに多く益を得」となり。{文 }
二所求とは、上の文のごとし。
二所愛とは、上の文のごとし。
二欲学とは、
一には、「行者まさに知るべし、もし解を学ばんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで一切礙なくみな学ぶことを得んとなり」と。
二には、「もし行を学ばんと欲はば、必ず有縁の法によれ」となり。 {乃至}
二必とは、[上の文のごとし。]

【80】
 この深信のなかについて、二回向といふは、

(自利)には、「つねにこの想をなせ、つねにこの解をなす。ゆゑに回向発願心と名づく」と。
には、「また回向といふは、かの国に生れをはりて還りて大悲を起して生死に回入して衆生を教化するを、また回向と名づくるなり」となり。

【81】
 二河のなかについて、

「一つの譬喩を説きて信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」と。
「この道、東の岸より西の岸に至るまで、また長さ百歩なり」となり。{文}
「百歩」とは、
人寿百歳に譬ふるなり。
「群賊・悪獣」とは、
「群賊」とは、別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心なり。
「悪獣」とは、六根・六識・六塵・五陰・四大なり。
「つねに悪友に随ふ」といふは、
「悪友」とは、善友に対す、雑毒虚仮の人なり。
「〈無人空迥の沢〉といふは、悪友なり。真の善知識に値はざるなり」となり。
「真」の言は仮に対し偽に対す。
「善知識」とは、悪知識に対するなり。[1]
真の善知識、     正の善知識、
実の善知識、     是の善知識、
善の善知識、     善性人なり。
悪の知識とは、    仮の善知識、
偽の善知識、     邪の善知識、
虚の善知識、     非の善知識、
悪の善知識、     悪性人なり。
「白道四五寸」といふは、
「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。
能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。
「あるいは行くこと一分二分す」といふは、年歳時節に喩ふるなり。
「悪見人等」といふは、驕慢・懈怠・邪見・疑心の人なり。

【82】
 「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、

「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。

「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』(論註・上意)には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」(散善義・意 五〇〇)といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。

「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。

「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。

「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。「慶楽」とは、「慶」の言は印可の言なり、獲得の言なり、「楽」の言は悦喜の言なり、歓喜踊躍なり。

【83】
 「仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、なり。「また弥陀の悲心招喚したまふによる」といふは、なり。「いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。

【84】
 至誠心について、難易対 彼此対 去来対 毒薬対 内外対

難易対
難とは三業修善不真実の心なり、
易とは如来願力回向の心なり。
彼此対
彼とは浄邦なり、      此とは穢国なり。
去来対
去とは釈迦仏なり、     来とは弥陀仏なり。
毒薬対
毒とは善悪雑心なり、    薬とは純一専心なり。
内外対
内は外道、外は仏教。    内は聖道、外は浄土。
内は疑情、外は信心。    内は悪性、外は善性。
内は邪、外は正。      内は虚、外は実。
内は非、外は是。      内は偽、外は真。
内は雑、外は専。      内は愚、外は賢。
内は仮、外は真。      内は退、外は進
内は疎、外は親。      内は遠、外は近
内は迂、外は直。      内は違、外は随
内は逆、外は順。      内は軽、外は重。
内は浅、外は深。      内は苦、外は楽。
内は毒、外は薬。
内は怯弱、外は強剛。    内は懈怠、外は勇猛。
内は間断、外は無間。    内は自力、外は他力。

【85】
 おほよそ心について、二種の三心あり。

一には自利の三心、     二には利他の三信なり。

【86】
 また二種の往生あり。

一には即往生、       二には便往生なり。

【87】
 ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。

 本にいはく

建長七歳乙卯八月二十七日これを書く。

                     愚禿親鸞八十三歳


  1. 以下は『観念法門』(p.634)からの引文。善性人の善・正・実・是・真と、悪性人の偽・邪・非・虚・悪をあげておられるのだが、仮を挿入されて仮の善知識とする。仮なる法を説く者を、悪の知識とされたのであろう。