三部経大意
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
三部経大意
無量寿経
『双巻経』・『観无量寿経』・『阿弥陀経』、これを浄土の三部経といふなり。『双巻経』には、まづ阿弥陀仏の四十八願をとき、つぎに願の成就をあかせり。その四十八願といふは、法蔵比丘、世自在王仏のみまへにして、菩提心をおこして、浄仏国土・成就衆生の願をたてたまへり。 おほよそ、その四十八願は、あるいは無三悪趣ともたて、不更悪道ともとき、或は悉皆金色ともいひ、無有好醜ともちかふ。みなこれ、かの国の荘厳、往生ののちの果報なり。
この中に、衆生の彼国にむまるべき行をたてたまへる願を、第十八の願とするなり。「設我得仏、十方衆生、至心信楽、欲生我国、乃至十念、若不生者、不取正覚、唯除五逆誹諺正法」「隠/顕」たとい我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ。ただ、五逆と、正法を誹謗するものを除く。{巻上}[1]と云々。
おほよそ四十八願の中に、この願ことにすぐれたりとす。そのゆえは、かの国むまるゝ衆生なくは、悉皆金色の願も、無有好醜の願も、なにゝよりて成就せむ。往生する衆生のあるにつけてこそ、身のいろも金色に、好醜あることもなく、五通おもえ、三十二相おも具すべけれ。
これによりて、善導釈してのたまはく、「法蔵比丘、四十八願をたてたまひて、一一の願にみな、若我得仏、十方衆生、称我名号、下至十声、若不生者、不取正覚」「隠/顕」一々の願にみな、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称し、下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉) [2]{玄義分意}(*)と云々。
おほよそ、諸仏の願といふは、上求菩提・下化衆生のこゝろなり。ある大乗経にいはく、「菩薩の願に二種あり。 一には上求菩提、二には下化衆生なり。その上求菩提の本意は、衆生を済度しやすからむがためなり」と云々。しかれば、たゞ本意下化衆生のこゝろにあり。
いま弥陀如来の浄土を荘厳したまひしも、衆生を引摂しやすからむがためなり。すべからく、いづれの仏も成仏ののちは内証外用の功徳、済度利生の誓願、いづれもふかくして勝劣あることなけれども、行菩薩道の時の善巧方便のちかひ、みなこれまちまちなり。
弥陀如来は因位のとき、もはら我名をとなえむ衆生をむかへむとちかひたまひて、兆載永劫の修行を衆生に廻向したまふ。濁世の我等が依怙、生死の出離これにあらずは、なにおか期せむ。これによりて、かの仏は、「われよにこえたる願をたつ」[3]となのりたまへり。[4]
三世の諸仏もいまだかくのごときの願おばおこしたまはず、十方の薩埵もいまだかゝるちかひはましまさず。「この願もし剋果すべくは大千感動すべし。虚空の諸天まさに珍妙の華をふらすべし」{巻上}(*)とちかひしかば、大地六種に振動し、天よりはなふりて、なむぢまさに正覚をなるべしとつげき。
法蔵比丘、いまだ仏になりたまはずとも、この願うたがふべからず、いかにいはむや成仏ののち十劫になりたまへり、信ぜずはあるべからず。「彼仏今現在成仏、当知、本誓重願不虚、衆生称念、必得往生」「隠/顕」かの仏、今現にましまして成仏したまえり。まさに知るべし。本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得。{礼讃}[5]と釈したまへる、是なり。
「諸有衆生、開其名号、信心歓喜、乃至一念、至心廻向、願生彼国、即得往生、住不退転、唯除五逆誹諺正法」「隠/顕」もろもろの衆生あって、その名号を聞き、信心歓喜し、乃至一念、至心に廻向して、かの国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得て、不退転に住す。ただ五逆と、正法を誹誇するものを除く。 *御開山の訓ではなく当面読みで読んだ [6]{巻下}といへり。これは第十八の願成就の文なり。願には「乃至十念」[7]ととくといへども、まさしくは願の成就することは、一念にありとあかせり。
次に三輩往生の文あり(*)。これは第十九の臨終現前の願成就の文なり。発菩提心等の業をもて、三輩をわかつといへども、往生の業は通じて、みな「一向専念无量寿仏」といへり。これすなわち、この仏の本願なるがゆへなり。
「
漢朝に玄通律師というものあり、小乗戒をたもつものなり。
遠行して野に宿したりけるに隣坊に人ありて此文を誦しき。玄通これをきゝて、一両遍誦してのちに、おもいいづることもなくしてわすれにき。
そのゝち玄通律師戒をやぶりて、そのつみによりて閻魔の庁にいたる。そのときに閻魔法王ののたまわく、なむぢ仏法流布のところにむまれたりき。所学の法あらば、すみやかにとくべしと高座においのぼせられしきときに、玄通高座にのぼりておもひまわすに、すべてこころにおぼゆることなし。
むかし野宿にてきゝし文ありき。これを誦してむとおもひいでゝ、「其仏本願力」と云ふ文を誦したりしかば、閻魔王たまのかぶり[9]をかたぶけて、こはこれ西方極楽の弥陀如来の功徳をとく文なりといひて礼拝したまふと云々。願力不思議なること、この文にみえたり。
「仏語弥勒、其有得聞、彼仏名号、歓喜踊躍、乃至一念、当知、此人為得大利、則是具足無上功徳」「隠/顕」仏、弥勤に語げたまわく、それかの仏の名号を聞くこと得ることあって、歓喜踊躍して乃至一念せんに、まさに知るべし、この人は大利を得たりとす。則ちこれ無上の功徳を具足する。 [10]{巻下}といへり。弥勒菩薩にこの経を付属したまふには、乃至一念するをもちて大利无上の功徳とのたまへり。経の大意、この文にあきらかなるものか。
観無量寿経
次に『観経』には定善・散善をとくといへども、念仏をもちて阿難尊者に付属したまふ。「汝好持是語」「隠/顕」なんぢ、よくこの語を持(たも)て。[11]といへる、これなり。第九の真身観に「光明遍照十方世界、念仏衆生、摂取不捨」「隠/顕」光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。[12]といふ文あり、済度衆生の願は平等にしてあることなれども、縁なき衆生は利益をかぶる事あたはず。
このゆへに弥陀善逝 平等の慈悲にもよおされて、十方世界にあまねく光明をてらして、転(うたた)、一切衆生にことごとく縁をむすばしめむがために、光明無量の願をたてたまへり、第十二の願これなり。
つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。
その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願[13]をたてたまへり、第十七の願これなり。
このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。
「我至成仏道、名声超十方、究竟靡所聞、誓不成正覚」「隠/顕」われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。 [14]{大経巻上}とちかひたまひし、このゆへなり。しかればすなわち、光明の縁と名号の因と和合せば、摂取不捨の益をかぶらむことうたがふべからず。
そのゆへに『往生礼讃』の序にいはく、「諸仏の所証は平等にして、これひとつなれども、もし願行をもてきたしおさむれば、因縁なきにあらず。しかも弥陀世尊もと深重の誓願をおこして、光明・名号をもて十方を摂取したまふ」[15]といへり。
又このぐわんひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり、第十三の願これなり。しかれば、光明無量の願、横に一切衆生を廣く摂取せむがためなり、寿命無量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せむがためなり。かくのごとく因縁和合すれば、摂取不捨の光明つねにてらしてすてたまはず。この光明にまた化仏・菩薩ましまして、この人を摂護して百重・千重囲繞したまふに、信心いよいよ増長し、衆苦ことごとく消減す。
臨終の時には、仏みづからきたりてむかへたまふに、もろもろの邪業繋よくさうるものなし。これは衆生いのちおはる時にのぞみて、百苦きたりせめて身心やすきことなく、悪縁ほかにひき、妄念うちにもよをして、境界・自体・当生の三種の愛心きおいおこりて、第六天の魔王も、この時にあたりて威勢をおこしてさまたげをなす。かくのごときの種種のさはりをのぞかむがために、しかも臨終の時にはみづから菩薩聖衆と囲繞して、その人のまへに現ぜむといふ願をたてたまへり。第十九の願これなり。[16] これによりて臨終のときにいたりぬれば、仏来迎したまふ。行者これをみて、こころに歓喜をなして禅定にいるがごとくして、たちまちに観音の蓮台にのりて、安養の宝刹にいたるなり。これらの益あるがゆへに、「念仏衆生摂取不捨」といへり。
そもそもこの『経』に、「具三心者必生彼国」[17]ととけり。 一には至誠心、二には深心、三には廻向発願心なり。三心まちまちにわかれたりといゑども、要をとりて詮をえらびてこれをいへば、深心ひとつにおさまれり。[18]
善導和尚釈してのたまはく、「至といふは真なり、誠といふは実なり、一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべきことをあかさむとす。ほかには賢善精進の相を現じ、うちには虚仮をいだくことをえざれ」{散善義}といへる、その「解行」といふは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願によりて十声・一声決定してむまると、真実にさとりて行ずる、これなり。
ほかには本願を信ずる相を現じて、うちには疑心をいだく、これは不真実のさとりなり。
{▼以下▲まで『和語灯録』所収の三部経釈では削除されている。ノート参照}
ほかには精進の相を現じて、うちには懈怠なる、これは不真実の行なり、虚仮の行なり。
「貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性やめがたし、事 蛇蝎におなじ。三業をおこすといゑども、なづけて雑毒の善とす、また虚仮の行となづく、真実の業となづけず。もしかくのごとく安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時に急走急作して、頭燃をはらふがごとくするものは、おほく雑毒の善となづく。この雑毒の善をめぐらして、かの仏の浄土にむまれむともとめむものは、これかならず不可なり。なにをもてのゆへに。彼阿弥陀仏の、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も三業に修するところ、みなこれ真実心の中になす。おほよそ施為・趣求するところ、またみな真実なるによる。又真実に二種あり、一には自利の真実、二には利他の真実なり。真実に、自他の諸悪及穢国等を制捨して、一切菩薩とおなじく、諸悪をすて諸善を修し、真実の中になすべし」{散善義}といへり。このほかおほくの釈あり、すこぶるわれらが分にこえたり[19]。
ただし、この至誠心はひろく定善・散善・弘願の三門にわたりて釈せり。[20]これにつきて摠別の義あるべし。摠といふは自力をもて定散等を修して往生をねがふ至誠心なり。別といふは他力に乗じて往生をねがふ至誠心なり。
そのゆへは『疏』の『玄義分』の序題の下にいはく、「定はすなわちおもひをとどめてこころをこらし、散はすなわち悪をとどめて善を修す。
この二善をめぐらして往生をもとむるなり。弘願といふは、大経にとくがごとし。一切善悪の凡夫むまるることをうるは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせずといふことなし」といへり。自力をめぐらして他力に乗ずること、あきらかなるものか。
しかればはじめに、「一切衆生の身口意業に修するところの解行、かならず真実心の中になすべし。外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、うちに虚仮をいだければなり」[21]。その解行といふは、罪悪生死の凡夫、弥陀の本願に乗じて十声・一声決定してむまるべしと、真実心に信ずべしとなり。外には本願を信ずる相を現じて、内には疑心を懐、これは不真実の心なり。
次に、「貪・瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性やめがたし、事蛇蠍におなじ。三業をおこすといへども、なづけて雑毒の善とす、また虚仮の行となづく、真実の善となづけず」といふなり。自他の諸悪をすて三界・六道毀厭して、みな専(もっぱら)真実なるべし。かるがゆへに至誠心となづくといふ。これらはこれ摠の義なり。
ゆへはいかむとなれば、深心の下に、「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁あることなしと信ずべし」といへり。もしかの釈のごとく、一切の菩薩とおなじく諸悪をすて行住座臥に真実をもちゐるは悪人にあらず、煩悩をはなれたるものなるべし。
かの分段生死をはなれ、初果を証したる聖者、なほ貪・瞋・痴等の三毒をおこす。いかにいはむや、一分の悪おも断ぜざらむ罪悪生死の凡夫、いかにしてかこの真実心を具すべきや[22]。 このゆへに自力にて諸行を修して至誠心を具せむとするものは、もはらかたし。千が中に一人もなしといへる、これなり。
すべてこの三心、念仏および諸行にわたりて釈せり。文の前後によりてこころえわかつべし。例せば、四修の中の無間修を釈していはく、「相続して恭敬・礼拝・称名・讃嘆・憶念・観察・廻向発願して、心心相続して余業をもてきたしへだてず、かるがゆへに無間修となづく。
又 貪・瞋・煩悩をもてきたしへだてず、随て犯せば随懺して、念をへだて時をへだて月をへだてず、つねに清浄ならしむ、又無間修となづく」(*){礼讃}といへり。
これも念仏と余行とわかち釈せり。はじめの釈は貪・瞋等おばいはず、余行をもてきたしへだてざる無間修なり。後の釈は行の正雑おばいはず、貪・瞋等の煩悩をもてきたしへだてざる無間修なり。
しかのみならず、『往生礼讃』の二行の得失を判じて、「上のごとく念念相続していのちおわるを期とするものは、十はすなわち十ながらむまる。なにをもてのゆへに、仏の本願と相応するがゆへに、慚愧懺悔の心あることあるがゆへに」(*)といへり。この中に、「貪・瞋・諸見の煩悩きたり間断するがゆへに」といへるは、ひとり雑行の失をいだせり。爰(ここに) しりぬ、余行においては貪・瞋等の煩悩をおこさずして行ずべしといふことを。
これに順じてこれをおもふに、貪・瞋等をきらふ至誠心は余行にありとみえたり、いかにいはむや廻向発願の釈は、水火の二河にたとひをひきて、「愛欲・瞋恚つねにやき、つねにうるほして止事なけれども、深信の白道たゆることなければむまるることをう」といへり。
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次に、「深心は深信の心なり。決定してふかく自身はこれ罪悪生死の凡夫なり、曠劫より已来(このかた) つねに流転して出離の縁あることなしと信じ、決定してふかくかの阿弥陀仏の四十八願をもて衆生を摂受したまふに、うたがひなくうらおもゐなく、かの願力に乗じて、さだめて往生することをうと信ずべし」{散善義}といへり。
はじめに、まづ、「罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた出離の縁あることなしと信ぜよ」といへる、これすなわち断善の闡提のごときのものなり。かかる衆生の一念・十念すれば、无始より已来 生死輪廻をいでて、極楽世界の不退の国土に生ずといふによりて、信心はおこるべきなり。仏の別願の不思議は、ただ心のはかるところにあらず、ただ仏と仏とのみよくしりたまへり。阿弥陀仏の名号をとなふるによりて、五逆・十悪ことごとくむまるといふ別願の不思議力のまします、たれかこれをうたがふべきや。
善導の『疏』{散善義}にいはく、「或人、なむだち衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身口意業に、一切の凡聖の身のうえにおきて、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等のつみをつくりて、いまだ除尽することあたはず、しかもこれらの罪は三界悪に繋属す、いかむぞ一生修福の念仏をもちて、すなわち无漏无生のくににいりて、ながく不退の位を証悟する事をえむやといはば、こたえていふべし。 諸仏の教行は、かず塵沙にこえ、禀識の機縁心にしたがひてひとつにあらず、世間の人のまなこにみつべし、信じつべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有をふうみ、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。かくのごときの事は、ことごとく待対の法となづく。すなわち目にみつべし、千差万別なり、いかにいはむや仏法不思議のちからをや、あに種種の益なからむや」といへり。
極楽世界に水鳥・樹林、徴妙の法をさえづるも不思議なれども、これおば仏の願力なればと信じて、なむぞただ第十八の乃至十念といふ願をのみうたがふべきや。すべて仏説と信ぜば、これも仏説なり。華厳の三無差別、般若の尽浄虚融、法華の実相皆如、涅槃の悉有仏性、たれか信ぜざらむ。これも仏説なり、かれも仏説なり、いづれおか信じ、いづれおか信ぜざらむや。
これ三字の名号はすくなしといへども、如来所有の内証外用の功徳、万徳恒沙の甚深の法門を、この名号の中におさめたる、たれかこれをはかるべき。『疏』の「玄義分」に、この名号を釈していはく、「阿弥陀仏といふは、これ天竺の正音、ここには翻じて无量寿覚といふ。無量寿といふは、これ法なり。覚といふは、これ人なり。人法ならびにあらはすゆへに阿弥陀仏といふ。人法といふは所観の境也。これにつきて依報あり、正報あり」といへり。
しかれば弥陀如来、観音・勢至・普賢・文殊・地蔵・龍樹よりはじめて、乃至かの土の菩薩・声聞等のそなへたまへるところの事理の観行、定慧の功力・内証の実智、外用の功徳、すべて万徳无漏の所証の法門みなことごとく三字の中におさまれり。すべて極楽世界にいづれの法門かもれたるところあらむ。しかるをこの三字の名号おば、諸宗おのおの我宗に釈しいれたり。
真言には阿字本不生の義、八万四千の法門阿字より出生せり。一切の法は阿字をはなれたることなし。かるがゆへに功徳甚深の名号なりといへり。
天台には空・仮・中の三諦、性・縁・了の三法義、法・報・応の三身如来なり、所有の功徳莫大なりといふ。
かくのごとく諸宗おのおのわが存ずるところの法につきて、阿弥陀の三字を釈せり。
いまこの宗のこころは、真言の阿字本不生の義おも、天台の三諦一理の法も、三論の八不中道のむねも、法相の五重唯識のこころも、すべて一切の万法ひろくこれにおさむとならふ。極楽世界にもれたる法門なきがゆへなり。 ただし、いたく弥陀の願のこころはかくのごとくさとれとにはあらず、ただふかく信心をいたしてとなふるものをむかへむと也。
耆婆・扁鵲が万病をいやす薬は、万草諸薬をもて合薬せりといへども、その薬草なんぶん和合せりとしらねども、これを服するに万病ことごとくいゆるがごとし。ただしうらむらくは、この薬を信ぜずして、我病はきわめておもし、いかがこの薬にていゆることあらむとうたがひて服せずは、耆婆が医術も、扁鵲が秘方も、むなしくてその益あるべからざることを。弥陀の名号もかくのごとし。
わが煩悩悪業のやまう、きわめておもし、いかがこの名号をとなへてむまるることあらむとうたがひてこれを信ぜずは、弥陀の誓願、釈尊の所説も、むなしくて験あるべからざるものか。ただあふいで信ずべし。良薬をもて服せずして死することなかれ。崑崙のやまにゆきて玉をとらずしてかへり、栴檀の林に入て枝をおらずしていでなむ後悔いかがせむ、みづからよく思量すべし。
そもそも我等曠劫よりこのかた、仏の出世にもあひけむ、菩薩の化導にもあひけむ、過去の諸仏も現在の如来も、みなこれ宿世の父母なり、多生の朋友なり。これにいかにしてか菩提を証したまへるぞ、われらはなにによりて生死にとどまれるぞ、はづべしはづべし。
しかるに本師釈迦如来、大罪の山にいり、邪見の林にかくれて、三業放逸に六情またからざらむ衆生を、わがくににとりおきて教化度脱せしめむとちかひたまひたりしかば、そもそもいかにしてかかる諸仏のこしらへかねたまへる衆生おば度脱せしめむとはちかひたまへるぞとたづぬれば、阿弥陀如来の因位の時、無諍念王とまふししよに、菩提心をおこして生死を過度せしめむとちかひたまひしに、釈迦如来は宝海梵士とまふしき。 無浄念王菩提心をおこし摂取衆生の願をたてて、われ仏になれらむとき、十方三世の諸仏もこしらへかねたまひたらむ悪業深重の衆生なりとも、我名をとなへばみなことごとくむかへむとちかひたまひしを、宝海梵士ききおはりて、われかならず穢悪の国土にして正覚をとなへて、悪業深重、輪廻無際の衆生等にこのことをしめさむ。 衆生これをききてとなへば、生死を解脱せむこと、はなはだやすかるべしとおぼしめして、この願をおこしたまへり。[23]
曠劫よりこのかた、諸仏よにいでて、縁にしたがひ、機をはかりて、おのおの群萌を化したまふこと、かず塵沙にすぎたり。あるいは大乗をとき小乗をとき、或は実教をひろめ権教をひろむ。機縁純熟すればみなことごとくその益をう。
ここに釈尊、八相成道を五濁世にとなへて、放逸邪見の衆生の出離、その期なきことをあはれみて、これより西方に極楽世界あり、仏まします、阿弥陀となづけたてまつる。かの仏、「乃至十念若不生者不取正覚」「隠/顕」すなわち十念に至までせん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。 [24]とちかひて、すでに仏になりたまへり。すみやかにこれを念ぜよ、出離生死の道おほしといゑども、悪業煩悩の衆生の、とく[25]生死を解脱すべきこと、これにすぎたることなし、とおしへたまひて、ゆめゆめこれをうたがふことなかれ、六方恒沙の諸仏もみなおなじく証誠したまへるなり、と、ねむごろにおしへたまひて、
われもひさしく穢土にあらば、邪見・放逸の衆生、われをそしり我をそむきて、かへりて悪趣におちなむ、われよにいづることは、本意ただこのことを衆生にきかしめむがためなりとて、阿難尊者にむかひて、汝よくこのことをとおきよに流通せよ、と、ねむごろにやくそくしおきて、抜提河のほとり、沙羅林のもとにて、八十の春の天、二月十五の夜半に、頭北西面にして涅槃にいりたまひにき。
そのときに日月ひかりをうしなゐ、草木色を変じ、竜神八部、禽獣・鳥類にいたるまで、天にあふぎてなき、地にふしてさけぶ。阿難・目連等の諸大弟子、悲涙のなみだをおさへて相議していはく、
われら釈尊の恩になれたてまつりて八十年の春秋をおくり、化縁ここにつきて、黄金のはだえたちまちにかくれたまひぬ。あるいは我等釈尊にとひたてまつるに、こたえたまふこともありき。あるいは釈尊みづからつげたまふこともありき。済度利生の方便、いまはたれにむかひてかとひたてまつるべき、すべからく如来の御ことばをしるしおきて、未来にもつたへ、御かたみにもせむ、といひて、多羅葉をひろいてことごとくこれをしるしおきて、三蔵達これを訳して振旦にわたし、本朝につたへ、諸宗につかさどるところの一大聖教これなり。
しかるを阿弥陀如来、善導和尚となのりて、唐土にいでてのたまはく、
- 如来出現於五濁 如来五濁に出現して
- 随宜方便化群萌 随宜方便して群萌を化す
- 或説多聞而得度 或いは多聞にして得度すと説き
- 或説少解証三明 或いは少解をもって三明を証すと説く
- 或教福慧双除障 或いは福慧双に障りを除くと教え
- 或教禅念坐思量 或いは禅念し坐して思量せよと教う
- 種種法門皆解脱 種種の法門皆解脱すれども
- 無過念仏往西方 念仏して西方に往くに過ぎたるはなし
- 上尽一形至十念 上一形を尽し十念に至り
- 三念五念仏来迎 三念五念まで仏来迎したまう
- 直為弥陀弘誓重 直に弥陀の弘誓重きがために
- 致使凡夫念即生 凡夫をして念ずれば即ち生ぜしむることを致す (*)
と。
釈尊出世の本懐、ただこのことにありといふべし。
- 自信教人信 自ら信じ、人をして信ぜしむ
- 難中転更難 難が中に転たさらに難し
- 大悲伝普化 大悲を伝えて普く化すれば
- 真成報仏恩 真成に仏恩を報ずるなり (*)
といへり。釈尊の恩を報ずる、これたれがためぞや、ひとへに我等がためにあらずや。このたびむなしくてすぎなば、出離いづれのときをか期せむとする。すみやかに信心をおこして生死を過度すべし。
次に廻向発願心は人ごとに具しやすきことなり。国土の快楽をききてたれかねがはざらむや。そもかのくにに九品の差別あり、われらいづれの品おか期すべき。善導和尚の御こころに、「極楽の弥陀は報仏報土なり、未断惑の凡夫はすべてむまるべからずといへども、弥陀の別願の不思議にて、罪悪生死の凡夫の一念・十念してむまる」(凡夫入報){玄義分意}と釈したまへり。
しかるを上古よりこのかた、おほくは下品といふとも たむぬべし[26]なむどいひて、上品をねがはず、これは悪業のおもきにおそれて、心を上品にかけざるなり。もしそれ悪業によらば、すべて往生すべからず、願力によりてむまれば、なむぞ上品にすすまむことをのぞみがたしとせむや。すべて弥陀の浄土をまうけたまふことは、願力の成就するゆへなり。
しからばまた念仏の衆生のまさしくむまるべき国土なり。「乃至十念若不生者不取正覚」「隠/顕」すなわち十念に至までせん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。、とたてたまへり。 この願によりて感得したまへるところの国土なるがゆへなり。
いま又観経の九品の業をいはば、下品は五逆・十悪の罪人、命終の時にのぞみて、はじめて善知識のすすめによりて、或十声、あるいは一声称して、むまるることをえたり。われら罪業おもしといゑども、五逆をつくらず。 行業おろかなりといゑども、一声・十声にすぎたり。臨終よりさきに弥陀の誓願をききえて、随分に信心をいたす。しかれば下品まではくだるべからず。中品は小乗の持戒の行者、孝養・仁・義・礼・智・信等の行人なり。これ中々むまれがたし。小乗の行人にあらず、たもちたる戎もなし、われらが分にあらず。
上品は大乗の凡夫、菩提心等の行者なり。菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり[27]。念仏はこれ大乗の行なり。無上の功徳也。しかれば上品の往生、てをひくべからず。又本願に「乃至十念」とたてたまひて、臨終現前の願に「大衆囲繞して、その人のまへに現ぜむ」とたてたまへり。
中品は化仏の三尊、あるいは金蓮華等来迎すといへり。しかるを大衆と囲繞して現ぜむとたてたまへり。大願の意趣上品の来迎をまうけたまへり、なむぞあながちにすまはむや。 又善導和尚、「三万已上は上品の業」{観念法門}とのたまへり。数返によりて上品にむまるべし。又三心につきて九品あり、信心によりても上品に生ずべきか。上品をねがふこと、わがみのためにあらず、かのくににむまれおはりて、とく衆生を化せむがためなり。これ仏の御心にかなはざらむや。
阿弥陀経
次に阿弥陀経は、まづ極楽の依正二報の功徳をとく。衆生の願楽の心をすすめむがためなり。のちに往生の行をあかす。「少善根をもては、かのくににむまるることをうべからず、阿弥陀仏の名号執持して、一日七日すれば往生す」とあかせり。衆生のこれを信ぜざらむことをおそれて、六方におのおの恒沙の諸仏ましまして、大千に舌相をのべて証誠したまへり。
善導釈してのたまはく、「この証によりてむまるることをえずは、六方の如来ののべたまへるみした、ひとたびくちよりいでてかへりいらずして、自然にやぶれただれしめむ」(*)とのたまへり。
しかるを、これをうたがふものは、ただ弥陀の本願をうたがふのみにあらず、釈尊の所説をうたがふなり。釈尊の所説をうたがふは、六方恒沙の諸仏の所説をうたがふなり。これ大千にのべたまへる舌相をやぶりただらかすなり。もしまたこれを信ずれば、ただ弥陀の本願を信ずるのみにあらず、釈迦の所説を信ずるなり、釈迦の所説を信ずるは、六方恒沙の諸仏の所説を信ずるなり。一切諸仏を信ずれば、一切菩薩を信ずるになり。この信ひろくして広大の信心也。
南无阿弥陀仏
正嘉二歳戌午八月十八日書写之
参照:三心料簡および御法語
- 末註:
- ↑ たとい我仏を得たらんに、十方の衆生、至心に信楽して、我国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ。ただ、五逆と、正法を誹謗するものを除く。◇『大経』p.18 。
- ↑ もし我仏を得たらんに、十方の衆生、我が名号を称すること、下十声に至るまで、もし生ぜずは正覚を取らじ。◇善導大師は「玄義分」p.326で、阿弥陀仏の浄土は報土である理由として、以下の文を挙げ「一一願言 若我得仏 十方衆生 称我名号 願生我国 下至十念 若不生者 不取正覚」(一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉)、四十八願の全てに第十八願の意があるとされた。
- ↑ 「われよにこえたる願をたつ」。重誓偈の「我建超世願 必至無上道 (われ超世の願を建つ、かならず無上道に至らん)」の文。
- ↑ 法然聖人の主著は『選択本願念仏集』であり、法然教学のキーワードでもある。選択本願念仏とは、因位の阿弥陀仏の兆載永劫の修行は、その本願に易行の念仏(なんまんだぶ)を選択(摂取)し、衆生に回施するためであったとする。
- ↑ かの仏、今現にましまして成仏したまえり。まさに知るべし。本誓の重願虚しからず、衆生称念すれば、必ず往生を得。◇『礼讃』p.711。親鸞聖人は『教行証』の後序で、法然聖人から「真筆をもつて「南無阿弥陀仏」と「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現在成仏 当知本誓重願不虚 衆生称念必得往生」の真文とを書かしめたまふ。」と感佩しておられる。なお、原文の「彼仏今現在〔世〕成仏」の世の字を省かれている。
- ↑ もろもろの衆生あって、その名号を聞き、信心歓喜し、乃至一念、至心に廻向して、かの国に生ぜんと願ずれば、即ち往生を得て、不退転に住す。ただ五逆と、正法を誹誇するものを除く。◇第十八願成就文p.41。御開山の訓ではなく当面読みで読んだ
- ↑ すなわち十念に至るまで。◇第十八願には十念とあるが成就文では一念とある意の考察。法然聖人はこの一念を行の一念(一声)とみられたが、御開山は信の一念であるとされた。『大経』の異訳である『無量寿如来会』に「他方の仏国の所有衆生、無量寿如来の名号を聞きて、乃至、能く一念の浄信を発して歓喜愛楽し、所有の善根を廻向して、無量寿国に生ぜんと願ずる者は、願に随いてみな生じて、不退転、乃至、無上正等菩提を得ん。五無間・誹毀正法、及び謗聖者を除く。」と、一念の浄信の語があったからである。
- ↑ その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に致る。『無量寿経』下巻「往覲偈」p.46の文。御開山は「行文類」p.142と「信文類」p.250でこの文を引文されておられる。いわゆる「破地獄の文」である。 なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
- ↑ 閻魔王がかぶっている珠のついたかぶりもの。
- ↑ 仏、弥勤に語げたまわく、それかの仏の名号を聞くこと得ることあって、歓喜踊躍して乃至一念せんに、まさに知るべし、この人は大利を得たりとす。則ちこれ无上の功徳を具足する。◇『大経』p.81の一念の念仏大利の文。御開山は「教文類」p.135で、「この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教を光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。」とされている「真実の利」とは、この流通分の「無上功徳」である、一念のなんまんだぶであるとされておられる。
- ↑ なんぢ、よくこの語を持て。◇『観経』で定善・散善を説くのだが経を末代に流通するにいたって、釈尊が阿弥陀仏の本意に望めて「汝好持是語 持是語者 即是持無量寿仏名(なんぢよくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり)」p.117と、無量寿仏名(なんまんだぶ)を称えることを教示されたことをいう。
- ↑ 光明は、あまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず。◇御開山は阿弥陀如来の名義(名の由来)を「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(弥陀経讃)p.571と、念仏(なんまんだぶ)を称える者を、ひとたび摂取して永く捨てぬから阿弥陀仏というのであるとされる。そして阿弥陀仏に摂取されているから、当来滅度(往生成仏)は決定しているので、現生正定聚(現生〔この世において〕、浄土に往生し仏になることに決定した者)であるとされた。
- ↑ 御開山はこの「諸仏称揚の願」の名を行文類の願名列挙の最初に挙げておられる。
- ↑ われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。◇『大経』p.24の重誓偈の文。
- ↑ 「行巻」「両重因縁釈」p.187の原型であろう。
- ↑ 法然聖人は「玄義分」の「一々の願にのたまはく、〈もしわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を称してわが国に生ぜんと願ぜんに、下十念に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉」の文から、四十八願を総摂するのが第十八願だとみておられた。そして第十九願、第二十願は第十八願に随伴する願だとみられていた。この意から第十九願の来迎は第十八願の利益をあらわす願だと見られていた。
- ↑ 三心を具するものは、かならずかの国に生ず。◇『観経』p.108の文。浄土門では、この必生の必という語を重要視された。
- ↑ 法然聖人は至誠心、深心、回向発願心の三心は深心におさまるとみておられた。『西方指南抄』「十七条御法語」にも「又云、導和尚、深心を釈せむがために、余の二心を釈したまふ也。経の文の三心をみるに、一切行なし、深心の釈にいたりて、はじめて念仏行をあかすところ也。」とある。
- ↑ 疏文の当面では、法蔵菩薩と同じような三業を修しなければならないとされているので、我等が分に超えたりと言われている。なお、『和語灯録』所収の「三部経釈」には、この至誠心釈での定・散・弘願の三門、総・別、自力・他力の部分が欠落していることに注意。梯實圓和上は『法然教学の研究』p.283で「けだし良忠の弟子で、忠実な鎮西義の伝承者でもあった了恵は、「三部経釈」を収録するにあたって良忠の義に従ってこの部分を削除したと推察することもできよう」といわれている。
- ↑ ここで、法然聖人は、定善と散善それに弘願という三種の法門があらわされていると見ておられたことが判る。また、『西方指南抄』所収の「十七条御法語」でも「予(よが)ごときは、さきの要門にたえず、よてひとへに弘願を憑也と云り。」といわれている。 なお、鎮西派の良忠上人は『淨土宗要集』で「第四、問何名要門弘願耶 答、要門者定散二善 即往生之行因也。故文云 迴斯二行。弘願者 彌陀本願即往生之勝縁也。故文云 爲增上縁。是則因縁和合 得往生果也(第四。問う、何ぞ要門・弘願と名づくや。答う、要門は定散二善、即ち往生の行因也。故に文に斯の二行を迴してと云う、弘願は彌陀の本願、即ち往生の勝縁也。故に文に増上縁と為すと云。是れ則ち因縁和合して往生の果を得る也。)」と、されて、要門と弘願は、因と縁の関係にあり、要門(因)と弘願(縁)が相依って往生の(果)を得るとされている。これは増上縁を、仏果を引く優れた縁と解釈し、定・散の二行を回向して阿弥陀仏の大願業力に乗ずるのだとされるのである。
- ↑ ◇不得外現賢善精進之相、内懐虚仮。『選択集』では、不得を内懐虚仮までかけて、「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。」とされている。ここでは親鸞聖人と同じく、不得を外現賢善精進之相にかけ「外に賢善精進の相を現ずることをえざれ、うちに虚仮をいだければなり」とされ、内懐虚仮であるから賢善精進の相を現じるなと言われている。何故なら真実に内懐虚仮でないものは次下にあるように「悪人にあらず、煩悩をはなれたるものなるべし」であるからである。疏文のままでは、法然聖人が「すこぶるわれらが分にこえたり。」と仰った通りであろう。
- ↑ ◇あの智慧第一といわれた法然聖人が、『散善義』のこの部分を読まれて、「於善導二反見之思往生難」(善導において二へんこれを見るに往生難しと思えり。)(『醍醐本一期物語)と、いわれた由縁である。三反目に、乱想の凡夫は、称名の行に依って、往生すべしとの道理を得られたのである。醍醐本法然上人伝記#no3
- ↑ 『悲華経』に説かれる釈尊の五百の大願の教説。宝海梵士(志)は釈尊の因位の名で、無浄念王は阿弥陀仏の因位の名。
- ↑ すなわち十念に至までせん、もし生ぜずは、正覚を取らじ。◇「若不生者不取正覚」は、第十八願にだけある衆生と阿弥陀仏との生仏一如の願文である。このことから四十八願中で第十八願が根本の願であることが解る。
- ↑ とく。◇疾(と)く。はやく。すぐに。
- ↑ たむぬべし→足ぬべし。◇下品往生で足りているとして上品の往生を願わないということ。
- ↑ 法然聖人の『選択本願念仏集』を非難攻撃した明恵の非難の主題は菩提心撥去であった。しかし、ここでは「菩提心は諸宗おのおのふかくこころえたりといへども、浄土宗のこころは浄土にむまれむと願ずるを菩提心といへり。」とし、諸宗によって菩提心の違いがあり、浄土宗では浄土に生まれることを願うことが菩提心であるとされておられる。この意を「しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。 」信文類p.246、菩提心に横・竪ありとし、願作仏心として展開されたのが御開山であった。