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大行名体

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2019年12月28日 (土) 14:12時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

「行文類」には「大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり」とあり、この「大行」の体について真宗では種々に論じられている。代表的には「空華派」の法体名号説と「石泉派」の衆生の称名説がある。古くは宗派の壁に遮られて御開山が法然聖人から享けられた、口に称えられる可聞可称の南無阿弥陀仏(なんまんだぶ) の教法を「信因称報説」で把握しようとした。この為に、衆生済度の法である称名(なんまんだぶ)を信心の有無の上で解釈しようとして煩瑣になった面もある。名号は信の有無に関わりなく浄土往生の「法」であり往生の大船であり、この大悲の願船に乗るか乗らないかの決断が「信」である。その意味では「空華派」も「石泉派」も「行」を信の上で論ずるあまりに少しく観念的になっているかもである。
法然聖人は一願建立の立場だとされるが『三部経大意』では『観経』の「念仏衆生摂取不捨」の義を『観経』に先行する『大経』の願に配当され、

 このゆへに弥陀善逝 平等の慈悲にもよおされて、十方世界にあまねく光明をてらして、転(うたた)、一切衆生にことごとく縁をむすばしむがために、光明無量の願をたてたまへり、第十二願の願これなり。 つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八願の願これなり。 その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。 このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。しかれば光明の縁あまねく十方世界をてらしてもらすことなく、名号の因は十方諸仏称讃したまひてきこへずといふことなし。{中略}  又このぐわんひさしくして衆生を済度せむがために寿命無量の願をたてたまへり、第十三の願これなり。しかれば光明無量の願、横に一切衆生を廣く摂取せむがためなり、寿命無量の願は、竪に十方世界をひさしく利益せむがためなり。かくのごとく因縁和合すれば、摂取不捨の光明つねにてらしてすてたまはず。→三部経大意

と、第十八願を開いて第十二願第十三願第十七願によってあらわされ、第十七願を「諸仏称揚の願」として「その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり」とされていた。御開山は「行巻」でこの「諸仏称揚の願」を願名の一として用いられておられた。
改行や脚注、リンクの指示等は林遊が付した。

   大 行 名 体[1]

    平成十一年度専精舎論題
http://www.jokenji.com/daigyomyotai.txt

大 行 名 体

(一)題意

 大行名体の題意

 宗祖は「行文類」の冒頭に往相回向大行を指定して、「大行者、則称無碍光如来名…」(大行とは、すなわち無碍光如来の名を称するなり)と釈されています。しかし「行文類」の釈相を見るに、その大行の物体については、衆生の称名(能行)とも、名号(所行)ともうかがえる釈相となっていて、いずれとも決しかねるといわねばなりません。→能所
 そこで古来、衆生の称名をもって「行文類」所明の大行の体とする説と、法体の名号[2]をもって体とする学説が、祖意の真意の解明せんと競ってきました。そこで「大行」の名義を明らかにし、如来回向の大行の物体を確定し、もって『教行証文類』(真宗教学)の綱格を定めんとするのがこの論題の題意であります[3]

(二)出拠

 大行名体の出拠

『行文類』(『真宗聖教全書』二/五

諸仏称名之願 浄土真実之行
選択本願之行


謹按往相回向、有大行有大信。大行者、則称無碍光如来名。斯行即是摂諸善法、具諸徳本、極速円満、真如一実功徳宝海、故名大行。然斯行者、出於大悲願。
つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願より出でたり。(*)

『浄土文類聚鈔』(『真宗聖教全書』二/四四三)

言行者、則利他円満大行也。即是出於諸仏咨嗟之願、復名諸仏称名之願、亦可名往相正業之願。然本願力回向、有二種相、一者往相、二者還相。就往相有大行亦有浄信、大行者、則称無碍光如来名。斯行遍摂一切行、極速円満、故名大行。
行といふは、すなはち利他円満の大行なり。すなはちこれ、諸仏咨嗟の願より出でたり。また諸仏称名の願と名づけ、また往相正業の願と名づくべし。しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。大行といふは、すなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はあまねく一切の行を摂し、極速円満す。ゆゑに大行と名づく。(*)

『三経往生文類』(『真宗聖教全書』二/五五一)

この如来の往相回向につきて、真実の行業あり。すなわち諸仏称名の悲願にあらわれたり。称名の悲願は『大無量寿経』にのたまはく「たとひわれ仏を得んに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟しわが名を称せずは、正覚を取らじ」と。文 (*)

 これらが大行名体の出拠であります。

 その他、大行論についての参考類文
『末灯鈔』十一通(『真宗聖教全書』二/六七二)

四月七日の御文、五月二十六日たしかにたしかにみ候ひぬ。さては、仰せられたること、信の一念行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。そのゆゑは、行と申すは、本願の名号をひとこゑとなへて往生すと申すことをききて、ひとこゑをもとなへ、もしは十念をもせんは行なり。この御ちかひをききて、疑ふこころのすこしもなきを信の一念と申せば、信と行とふたつときけども、行をひとこゑするとききて疑はねば、行をはなれたる信はなしとききて候ふ。また、信はなれたる行なしとおぼしめすべし。これみな弥陀の御ちかひと申すことをこころうべし。行と信とは御ちかひを申すなり。あなかしこ、あなかしこ。(*)

『教行信証大意』(『真宗聖教全書』三/五九)

第二に真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。これすなはち南無阿弥陀仏なり。第十七の諸仏咨嗟の願にあらはれたり。名号はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。衆行の根本、万善の総体なり。これを行ずれば西方の往生を得、これを信ずれば無上の極証をうるものなり。 (*)

『往生論註』下巻讃嘆門(『真宗聖教全書』一/三一四)

称彼如来名、如彼如来光明智相、如彼名義、欲如実修行相応故
「称彼如来名」者、謂称無碍光如来名也。「如彼如来光明智相」者、仏光明是智慧相也。…「如彼名義欲如実修行相応」者、彼無碍光如来名号、能破衆生一切無明、能満衆生一 切志願。然有称名憶念而、無明由存而、不満所願者、何者、由不如実修行、與名義不相 応故也。云何意不如実修行與名義不相応、謂不知如来是実相身、是為物身。又有三種不 相応。一者信心不淳、若存若亡故。二者信心不一、無決定故。三者信心不相続、余念間故…
彼の如来の名を称するに、彼の如来の光明智相のごとく、彼の名義のごとく、如実に修行して相応せむと欲するが故なり。
彼の如来の名を称すとは、謂はく、無礙光如来の名を称するなり。彼の如来の光明智相のごとくとは、仏の光明は是智慧の相なり。…彼の名義のごとく、如実に修行して相応せむと欲すとは、彼の無礙光如来の名号は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまふ。然るに名を称し憶念すれども、無明由在りて所願を満てざる者有り。何となれば、如実に修行せず、名義と相応せざるに由るが故なり。云何が如実に修行せず、名義と相応せざると為すとならば、謂はく、如来は是実相身なり、是為物身なりと知らざればなり。又三種の不相応有り。一には信心淳からず、存ずるがごとく亡ずるがごとき故なり。二には信心一ならず、決定無きが故なり。三には信心相続せず、余念間つるが故なり… (*)

(三)大行の名義

(名目・名称の義理・意義-いわれ-を明らかにする)

①「行」の名義

「行」とは
 象形文字…「道」をあらわす象形文字。
 会意文字…「歩く」を意味する字。

「行」─辞書によると─
みち(行路)。
ゆく、すすむ(歩行)(行進)。
おこなう、なす(行為)(実行)
たび、みちのり(旅行)(行程)
めぐる、ならぶ(巡行)(行列)

 〔仏教における「行」の種類〕 ➡
「行」 仏教の漢訳にはおよそ次の三種があります。
①「行住座臥」の「行」gamana(ガマナ)
②「諸行無常」の「行」saṃskāra(サンスカーラ)
③「諸善万行」の「行」caryā(チャリャー)

行住座臥」の「行」とは、出家者の四威儀中の一で「歩行」(あゆむ)を意味しています。
「諸行無常」の「行」とは、saṃskāra (形成する・形成されたもの)の訳語で、一切の現象世界(有為法)をあらわしたことばです。十二因縁の「行」、五蘊の「行蘊」のことであり、いまの「大行」というときの意ではありません。
「諸善万行」の「行」はcaryā の訳語で、煩悩を消滅せしめて、悟りに至らしめる行い・行為を意味することばです。

〔「行」の釈名・「造作・進趣」の義〕

 仏教では「行」を古来「造作」「進趣」の義をもって釈します。
 天台の『法界次第初門』には「造作の心よく果に趣(おもむ)くを名づけて行と為す」といわれています。

 この「造作(ぞうさ)」とは、元来は「つくりなす」という意味ですが、それを「動作」と同義語として「ものごとを行う」「行為」の意味として用いています。

 また『法華玄義』巻三下には「それ行は進趣(しんしゅ)に名づくる」と、いわれています。
 「進趣」とは、「目的に向かって、進み趣(おもむ)く」という意味で、「行」(おこない)が因となって果に進んでゆくことをあらわします。
 このように「造作・進趣」とは、一つの行いが為され、それによって目的地に向かって進みゆくことをあらわしています。『法華玄義』には、そのことを「智目行足をもって、清涼池に到る」と、譬喩的にあらわされています。

〔「行」の釈名・「行業」の義〕

「行」の釈名についての別義
 「行」とは、行業の意であります。すなわち「行」とは「」(karma:カルマ)のことであります。宗祖は『三経往生文類』に「如来の往相回向につきて、真実の行業あり」と述べられ、「行文類」には「最勝真妙の正業」とも、『浄土文類聚鈔』には「往相正業」とも述べられています。
 さらに『唯信鈔文意』には「十方世界普流行」の「行」の字を釈して、「すすめ行ぜしめたまふなり」と釈し、その「行」のご左訓に「オコナフトマフスナリ」と記されています。これによって宗祖は「行」を行業の意とみておられたことがわかります。

 とは、「身口意の三業」「善業・悪業」と用いられ、「業」の意味には「業因」「業作」の義があります。「業作」とは「おこない」「行為」「はたらき」のことであります。「業因」とは、その「おこない」「はたらき」が果を引き起こすはたらきを持つことをあらわしています。
 ただし、「業」は業作であっても、無記業のように果を牽かないものもあります。無記業は「業作」(おこない)はありましても「業因」(果をひく力)の意味はありません。今は「業作」が「業因」の義をもつような「おこない」のことをいいます。これを「造作」(業作)、「進趣」(業因)に配当することもできなくはありません。

 天台等で用いた「造作」「進趣」の義を「行」の釈名として用いない理由は、
 まず、宗祖の上に「造作・進趣」の釈例を見ることがありません
 それに「造作」とは「つくりなす」との意味で、元来はsaṃskāra(形成・形成されたもの)の訳語であり、「造作・遷流」の意味とされます。したがって本来「行為」「おこない」を意味することばではありません。その「造作」を「動作」と合して、「おこない」の意味と転じたものであります。
 また「進趣」ということばも、元来は「歩く・すすむ」の意をあらわしたもので、「行」(おこない)の当義ではありません。したがって、大行の「」は行業の義を当義とすべきであります[4]

②「大」の名義

 「大」とは「小」に対する語であります。また「大」とは「美称」「讃辞」(称美・ほめ言葉)でもあります。すなわち「大」は「小劣」(劣っている)に対して、「偉大」勝れているということをあらわす語であります。

 そのように「大」を勝れた意味として、「小」(劣)に対して用いられたところがありますか。

 「大」(勝)を「小」(劣)に対して用いられた例は、宗祖は「化身土文類」に自力方便の行をあらわす語として、『大経』下巻の「諸小行菩薩、及少功徳者」「隠/顕」 もろもろの小行の菩薩、および少功徳を修習するもの。 の文を引用しておられます。これによれば「大」とは他力真実の行を讃えたことばであり、「小行」とは自力方便の「行」の劣ったことをあらわす語として用いられたことが知られます。

 「大」には、どのようないわれがありますか。

 古来、「大」「多」「勝」の三義があるといわれています。 ➡大多勝
その三義とは、
「大」とは「広大」の義、周遍(あまねくゆきわたる)の義。包含の義といわれ、「多」とは数量が多いことをあらわします。「勝」とは勝れているということで、最勝をあらわします。
 また「大」を「性」(ものの本性)に、「多」を「量」(数量)に、「勝」を「用」(はたらき)に配当する釈もあります。

 「行文類」にはそのような「大」の意をどのようにあらわされていますか。

「斯行即是、摂諸善法、具諸徳本、極速円満、真如一実功徳宝海、故名大行」「隠/顕」〔この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。〕 とあらわされています。

 「摂諸善法、具諸徳本」 「隠/顕」〔もろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。〕とは、「大」が「多」「量」の意をあらわしています。
 すなわち「大行」といわれる「行」は、往生成仏に要する「諸の善法」(「善法」とは、人々をして安楽な果報である仏果を招来せしめる無漏清浄の善なる方法・善行)と、「諸の徳本」(この上ない功徳を実現せしめるはたらき)の全てを摂め、具えて、欠けるところがないことをあらわしています。
 『浄土文類聚鈔』には「行文類」の「諸善法・諸徳本」の語を「遍摂一切行」(あまねく一切の行を摂し) と述べておられます。これによって、この「行」には、衆生をして往生成仏せしめる全ての善根を円具されていることが知られます。

徳本」についての別義

 「化身土文類」(『真宗聖教全書』二/一五八)

善本とは如来の嘉名なり。この嘉名は万善円備せり、一切善法の本なり。ゆゑに善本といふなり。徳本とは如来の徳号なり。この徳号は一声称念するに、至徳成満し衆禍みな転ず、十方三世の徳号の本なり。ゆゑに徳本といふなり。(*)

 「極速円満」とは、「勝」「用」(他の行に超え勝れたはたらきを具える)をあらわしています。
 どれほど勝れているかといえば、「極速」(至極速疾)に、上の一切の善法・徳本を円かに満足せしめると共に、速疾に往生成仏の極果を満足せしめるというはたらきを持っているのであります。

 「極速」とは、下に行の一念を釈して、一声の称名に無上大利の功徳を具足すといい、それを選択易行の至極といわれています。
 また「化身土文類」の先の文にも「一声称念するに、至徳成満し、衆禍みな転ず」(*) といわれているように、この「行」は一声のところに、至極の功徳を成就円満せしめるはたらきをもっているから「極速」といわれたのであります。

「行文類」六字釈には、

言必得往生者 彰獲至不退位也 経言即得 釈云必定 即言由聞願力 光闡報土真因決定時剋之極促也 必言 審也 然也 分極也 金剛心成就之皃也
必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。『経』には「即得」といへり、釈には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促光闡するなり。「必」の言は審なり、然なり、分極なり、金剛心成就の貌なり。(*)

 と、現生聞名のたちどころに因徳円満せしめるはたらきがあるといい、

爾者乗大悲願船 浮光明広海 至徳風静衆禍波転 即破無明闇 速到無量光明土 証大般涅槃 遵普賢之徳也
しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に至りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。(*)

 と、「大行」の徳を結嘆されて、「すみやかに無量光明土に至りて大般涅槃を証す」と、速疾のはたらきをあらわしておられます。

真知 弥勒大士窮等覚金剛心故 龍華三会之暁 當極無上覚位 念仏衆生窮横超金剛心故 臨終一念之夕 超 証大般涅槃 故曰便同也
加之 獲金剛心者 則與韋提等即可獲得喜悟信之忍 是則往相回向之真心徹到故 籍不可思議之本誓故也。
まことに知んぬ、弥勒大士は等覚の金剛心を窮むるがゆゑに、竜華三会の暁、まさに無上覚位を極むべし。念仏の衆生は横超の金剛心を窮むるがゆゑに、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す。ゆゑに便同といふなり。しかのみならず金剛心を獲るものは、すなはち韋堤と等しく、すなはち喜・悟・信の忍を獲得すべし。これすなはち]]往相回向]]の真心徹到するがゆゑに、不可思議の本誓によるがゆゑなり。(*)

 と、聖道弥勒菩薩の五十六億七千万年の修行の時に比べて、「臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証す」と、念仏行者の速疾の成仏をあげて、大行の極速をあらわしておられます。

 「真如一実功徳宝海」「隠/顕」真如一実の功徳宝海なりとは、「大」「性」をあらわしています。「性」とはこの行をあらしめている本性、本質という意味で、この「行」は「真如一実」といわれる「真如」「一如」「実相」、すなわち如来所成の無分別智・自他一如の「智慧」を体として、その智慧が万人を平等に安穏ならしめんとされる「慈悲」によって成就された如来の果徳を本質として成立している「行」であることをあらわしています。

 さらに「功徳宝海」の語は、『尊号真像銘文』に、

「能令速満足功徳大宝海」 「隠/顕」 よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。といふは、「能」はよしといふ、「令」はせしむといふ、「速」はすみやかに疾しといふ、よく本願力を信楽する人はすみやかに疾く功徳の大宝海を信ずる人のその身に満足せしむるなり。如来の功徳のきはなくひろくおほきにへだてなきことを、大海の水のへだてなくみちみてるがごとしとたとへたてまつるなり。(*)

 と、本願名号の功徳の無量なることを譬えて、「大宝海」と釈されています。

 また『一念多念文意』(『真宗聖教全書』二/六一七)には、

「大宝海」はよろづの善根功徳満ちきはまるを海にたとへたまふ。この功徳をよく信ずるひとのこころのうちに、すみやかに疾く満ちたりぬとしらしめんとなり。しかれば、金剛心のひとは、しらずもとめざるに、功徳の大宝その身にみちみつがゆゑに大宝海とたとへたるなり。 (*)

 と、釈されるように、
 如来が成就された名号には、善根功徳の全てが具わり、欠けることなく円満していることを「海」に譬えると釈されると共に、その「功徳」が海が様々な川の水を受け入れて、その全てを海水に転ずるごとく、この「行」は如来所成の果徳を体としていながら、それを領し行ずる者の徳と転ずる性質を持つものであることをあらわしておられる。

 要するに「大行」とは、どのようなことですか。

 「大行」とは、たった一声のところに、万人をして煩悩を寂滅せしめ、安らかな無上涅槃をさとらしめるような功徳を満足せしめ、速やかに無上仏果をさとらしめるような偉大な行い、勝れた行いという意味であります。

(四)義相

①「諸仏称名之願 浄土真実之行 選択本願之行」標挙の意。

 「諸仏称名之願」と名づけられた第十七願によって、浄土門における真実の行業、選択本願の行といわれた内容があきらかになるといわれるのです。

 諸仏称名之願とは

「設我得仏、十方世界無量諸仏、不悉咨嗟称我名者、不取正覚」
(宗祖は「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名を称せずは、正覚を取らじ」)と訓じておられます[5]。元来は十方諸仏に本願成就の名号の讃嘆を誓われた願であります。

 宗祖はこの第十七願を「真実教」をあらわされたものと見られています。[6]
 『御消息』に「諸仏称名の願と申し、諸仏咨嗟の願と申し候ふなるは、十方衆生をすすめんためときこえたり。また十方衆生の疑心をとどめん料ときこえて候ふ」と述べられているのは、の意味としておられることがわかります。

 ところが宗祖は、第十七願について、
「諸仏称揚之願」「諸仏咨嗟之願」「諸仏称名の願」「往相回向之願」「選択称名之願」「往相正業之願」(『浄土文類聚鈔』)と、名付けられています。このなか「諸仏称揚之願」「諸仏咨嗟之願」の名は能讃を主としています。また「往相回向之願」「選択称名之願」「往相正業之願」は、所讃の側を主として名づけられています。

 標挙の「諸仏称名之願」は能讃の側を「称」とあらわし、所讃の側を「我名」とあらわして、「称名」の語において能所讃の両方があらわされていて、第十七願の全相が示されています。

  咨嗟称…………称……教(能讃)
  我名(名号)…名……行(所讃)

 このように第十七願は、「咨嗟称」の能讃の側を主とすれば「真実教」を誓った願となり、「教文類」の意となります。また所讃の側を主とすれば、救いの法たる「我名」を行法として誓った願となり、「行文類」の標挙となります。

 「浄土真実の行」とは、どのようなことですか。

 「浄土」とは「聖道門」に対して「浄土門」をあらわす語であります。「真実」は「権仮方便」に対することばであります。すなわち聖道自力の権仮方便の行に対したことばであり、さらに「方便」は「聖道門」のみならず「浄土門中の自力方便の行」(要門真門)に対することばでもあります。

 「正信偈」偈前の文に

おほよそ誓願について真実行信あり、また方便の行信あり。その真実のの願は、諸仏称名の願なり。その真実のの願は、至心信楽の願なり。これすなはち選択本願行信なり。((*)

と、「真実」「方便」を対せしめておられます。

 また、同様のことは、『浄土和讃』(『真宗聖教全書』二/四九四)に、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)
聖道権仮の方便に
衆生ひさしくとどまりて
諸有に流転の身とぞなる
悲願の一乗帰命せよ (浄土 P.569)

 と、釈されていることによっても知られます。このように「行文類」所明の「行」とは、聖道自力の権仮方便行と異なり、浄土門内の自力行とも異なった、他力真実の「行」であることをあらわそうとしておられるのです。

 また、自力の「行」は凡夫が造作してゆく従因至果の「行」であるから、いまだ「有漏の雑善」であり、煩悩を寂滅せしめていない「不実の行」「虚仮の行」といわねばならない「行」であります。それに対して浄土門の「行」は、如来所成の無漏の徳を体として回向された「真実の行」であることをあらわしています。

 そのことは『論註』に「真実功徳」を釈するについて「真実功徳」と「不実功徳」とを対比されていることから知られます。(*)

 「選択本願之行」とは、いかなるいわれをあらわしていますか。

 「選択本願」とは『教行証文類』では、第十八願のこととして用いられています。その第十八願は阿弥陀仏が万人を平等に往生せしめんとして、一切の自力の行を選び捨て、往生浄土の「行」として称名念仏の一行を選び取られたことをあらわしています。すなわち第十八願乃至十念とは、仏が万人を救うために選び取られた真実究竟のであることをあらわしています。

 第十七願は、このような「浄土真実の行」「選択本願の行」といわれるような真実究竟・一乗無上の「行」であるから、十方諸仏が称讃され、勧めたもうのであることが知らされます。

 標挙の文はどのような義をあらわそうとしておられるのですか。

能行説の義

 標挙の文によって、「行文類」所明の称名が「大行」といわれる旨が明らかになります。
 まず、「諸仏称名之願」と標願されたのは、所聞処[7]をあげられたものであります。細註の「浄土真実の行」とは、聖道方便の行、浄土門内の方便の行に対した語であります。殊に不如実の自力真門の称名にえらぶものであります。

 「選択本願の行」は「選択本願」とは第十八願の別目で、第十八願の「行」は乃至十念 の称名であります
 この「浄土真実の行」「選択本願の行」といわれた称名を、第十七願を標してあらわされたのは、その称名が、所聞の名義にかなって称えている称名であることをあらわすためであります。このように名号の徳に契った称名であるからこそ、大行といわれる旨を明らかにするために第十七願で標挙されたのであります。

所行説の義

 「諸仏称名之願」とは諸仏の讃嘆称名をあらわしています。その能讃の「称」は「真実教」の意にあたります。それにえらんで所讃の「我名」をもって「行文類」の標挙とされたのは、この所讃の「我名」は、下の「信文類」の機受の能聞・能信(信心)に対すれば、所聞・所信の法体となります。この所聞・所信の法たる「我名」をもって「真実行」を建てることをあらわすために第十七願を標されたといわねばなりません。

 しかれば「行文類」所明は、あくまで第十七願の「我名」にあるといわねばなりません。

 しかし、細註の「浄土真実の行」とは、聖道および浄土方便の行に対して、他力真実の行をあらわし、特に真門自力念仏に対してあらわされているとすれば、称名をあらわしているといわねばなりません。また「選択本願」とは、第十八願の別目であり、第十八願所誓の行とは「乃至十念」の称名(能行)であります。

 しかれば上の標願は法体をあらわし、細註[8]は衆生の能行をあらわすと、別々のもののごとくに見え、いずれを所顕とするか確定することができません。
 この標挙によって、能所不二の法体名号の特色をあらわすのであります。すなわち諸仏所讃の法体の名号とは、固然として諸仏の上にとどまるものではなく、諸仏の説法を通して十方衆生の上に届いて「信心」「念仏」となって往因を満足させているものであることをあらわすためであります。すなわち衆生の信行は共に法体名号の現にはたらくすがたに他なりません。

 したがって、標願の「諸仏称名之願」をもって法体所行の行体をあらわし、細註の「浄土真実の行」「選択本願の行」の語をもって、その法体よく能所不二を成して衆生を摂したもうことをあらわすためにこのような標挙をされたのであります。→(*)

②出体釈の典拠について
 出体釈の拠り所

出体釈は『論註』下巻の起観生信章の讃嘆門の釈に依られています。

彼の如来の名を称するに、彼の如来の光明智相のごとく、彼の名義のごとく、如実に修行して相応せむと欲するが故なり。
彼の如来の名を称すとは、謂はく、無礙光如来の名を称するなり。彼の如来の光明智相のごとくとは、仏の光明は是智恵の相なり。…彼の名義のごとく、如実に修行して相応せむと欲すとは、彼の無礙光如来の名号は、能く衆生の一切の無明を破し、能く衆生の一切の志願を満てたまふ。然るに名を称し憶念すれども、無明由在りて所願を満てざる者有り。何となれば、如実に修行せず、名義と相応せざるに由るが故なり。云何が如実に修行せず、名義と相応せざると為すとならば、謂はく、如来は是実相身なり、是為物身なりと知らざればなり。又三種の不相応有り。一には信心淳からず、存ずるがごとく亡ずるがごとき故なり。二には信心一ならず、決定無きが故なり。三には信心相続せず、余念間つるが故なり… (*)
 『論註』の釈意

 『論註』に『論』の五念門行の讃嘆門の「彼の如来の名を称する」を釈されるについて、まず法体にあたる光明に破闇の徳のあることを示し、ついで名号に破闇満願の徳用のあることをあらわされています。それにつづいて「しかるに称名憶念すれども所願を満てざる者」のあることをあらわしておられます。そして、その理由を「不如実」「名義不相応」の故であるとあらわされています。これに対すれば、名義に契った如実の称名は名号の徳のままに破闇満願せしめられることをあらわしています。

 このように『論註』は、おなじ称名でも、如実の称名は法体の名号に相応し、名号の徳によって「破満」の益を得、不如実の称名は、称名していても「破満」の益を受けることができないことをあらわしています。そこでいま「大行」といわれる称名は、自力不如実の称名(第二十願の真門自力の称名)に簡(えら)んで、如実の称名であることを讃嘆門の釈を用いてあかそうとされたためであります。

 しかし、『観経』の下々品には極悪の凡夫を往生せしめる「行」として、「具足十念称南無阿弥陀仏」(十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ)と説かれています。それを『経』に依らずに『論註』に依られた理由は何故ですか。

 『観経』の語を用いられなかったのは、『観経』には隠顕の両義があり、如実・不如実の別が明らかになりません。すなわち如実・不如実が明らかになりません。そこで名義に相応した如実讃嘆の「行」を明らかにした『論註』の讃嘆門の釈に依られたものであります。
 また「南無阿弥陀仏」の六字名号を用いられなかったのは、六字の名義をつまびらかにするものとして「尽十方無碍光如来」の仏名を用いて、徳義を明示するためであると思われる。[9]

『論註』の文を用いて「大行」を指定された所顕はなにですか。

(能行説)

 所称の「名号」に破闇満願徳用があることはいうまでもありません。その名号の実義に契って称える称名には、名号の徳用がそのままはたらく故、如実の称名を「大行」といい得ることをあらわすために『論註』の文を用いられたのです。

 どうして、「称」のところで「大行」という名を立てようとされるのですか。

 名号が衆生にとどいて、称えたところで「行」を語らずに、あくまでも名号の上で「行」を語るとするならば、いまだ衆生に届いていない「名号」であっても「行」ということになってしまいます。そこで名号が衆生に届いて称名となったところで「行」という名を立てねばならないのです。そのために『論註』の文をもって「大行」を指定され、『経』の引用が終わったところには称名破満の釈をおいて、その意を明らかにされたのであります。[10]

(所行説)

 破満の徳用名号にあります。すなわち衆生をして往生浄土せしめるはたらきは名号にあります。それは衆生をして往生浄土せしめるはたらきは、衆生の称えるという行為によって成ずるものではないということです。したがって「行」という名はどこまでも「名号」より立つといわねばなりません。[11]

 それでは「称名」をもって出来されている文のこころには違うのではありませんか。

 「称名」をもって出来されてあるのは、法体名号は固然としたものでなく、つねに衆生の上にとどいて称名となって活動しているものであることを明らかにするために「称名」をもって出体されたのであります。
 このように衆生をして往生せしめる「行」とは、衆生の称(行為)より立つものでなく、法体の名号から立つものであることをあらわし、さらにその名号はつねに衆生の上にはたらいていることをあらわすために『論註』の文を用いられたのであります。

③大行の物体
(一)石泉師の義(能行説)

 「大行」の物体はなにを指しますか。

 大行の物体を「能所不二の称名」であります。
 その「能所不二の称名」とは、称えても称えても能称の功を見ずに、名号願力のはたらきを仰いでいるような、他力如実の称名のことを「能所不二の称名」(能行)といわれたのであります。

 「行文類」の「大行」が能所不二の称名であると、どうしていえるのですか。

 「行文類」の始めに往相回向の大行の物体を的示して「大行とはすなわち無碍光如来の名を称するなり」といわれたことで明らかであります。

 この文がどうして「能所不二の称名」を顕わしているといえるのですか。

 すでに「謹んで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり」と標されています。すなわちこの「行」は如来回向の行であり、自力回向の行ではありません。このように「行文類」の「称名」は名号願力が称名となって、衆生の上に実現していることをあらわしています。
 このように願力名号が実現しているような称名であることを知らせんとして、宗祖は「称無碍光如来名」と『論』と『論註』の如実讃嘆を明かすことばを用いて、名号願力の謂れに契った他力の称名をもって大行と名づけられたのであります。

 しかし、次の文には「斯の行はすなわち是れ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく」と述べられていて、明らかに名号の徳をあげられています。この名号の徳を承けて「故名大行」といわれているのですから、大行の大行たる所以は名号の徳にあると見られたものとしなければなりません。すなわち大行と名づけられ得るものは名号であって、称名ではありません。

 この文は、所称の名号の徳をもって、称名が大行といわれる所以を明かされた文であります。
 すなわち機の功を見ず。如来より与えられた名号をいただいて称えている称名ですから、所称の名号の徳がそのままに顕れている称名であります。故にこのような如実の称名が大行というとあらわされたものであります。

 「行文類」の「行」が「称名」であるというのならば、機受をあらわす第十八願によって建立されるべきであります。しかるに「行文類」は「諸仏称名之願」と第十七願をもって標挙されています。このように第十七願によって建立された「行」とは、称名ではなく名号でなくてはならないのではありませんか。

 第十七願は諸仏の讃嘆を誓った願であり、その当分は「教文類」の意に当たります。しかし「真実教」は単に能詮のみに限らず、能詮・能讃のところには必ず所詮・所讃の法があらわされています。その「真実教」所詮の法とは、「教文類」の宗体釈に「ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなわち仏の名号をもつて経の体とするなり」とあらわされた、因願果力・願力名号のことであります。
 諸仏はこの願力名号を能被の法として讃嘆され、十方衆生はその讃嘆によって願力を領受して、その願力名号を体として、衆生の上に行信の二法とならしめられるのであります。したがって行信の二法は衆生の上から立つものといわねばなりません。

 行信の二法は体願力として、衆生の上から立つというならば、行信二法の相違はどのようにして立つのですか。

 行信の二法は、名号の所在によって立ちます。すなわち「行」は名号が衆生に領されて、口に現れてあることをといい、願力名号が心に領されてあることを「信」と名づけたのであります。このように行信の二法は願力の所在によって立つものであります。
 それをあらわしているのが第十八願の「三心十念」であります。

〔当分・跨節について〕

 それならば、なおさら第十八願によって建立されるべきではありませんか。しかるに「行文類」は第十七願によって建立されています。祖釈に違するといわねばなりません。

 そうではなく、宗祖が第十七願において「行文類」を建立されたのは、所聞処において能行を顕わすことによって、この「行」が諸仏讃嘆の名号に契った、名号全顕の如実の称名であることを知らしめるために、第十八願の称名を第十七願に跨節[12]されたのです。

 そのことをもう少し詳しく述べてください。

 先にも述べたように、第十七願は諸仏の讃嘆を誓ったもので、その当分は真実にあたります。「教文類」の宗体釈には所詮の法を願力名号であると示されています。すなわち『大経』とは名号願力による救いを説いた経典であることをあらわされています。
 この教所詮の名号願力が衆生に領せられて信心「」となり、称名「」となるのであります。したがって行信は衆生の側から立つといわねばなりません。その「行」を第十七願であらわしたのは、他力の称名「行」は第十七願によって讃嘆・回向された名号がそのままあらわれているような、他力如実の行であって称名が即名号であような如実の称名を大行ということをあらわすために、第十八願の「乃至十念」を第十七願の名号の所(所聞処)に跨節(かせつ) してあらわされたのであります。
 要するに「行文類」に第十七願を標されたのは、称名「行」の如実なることをあらわすためであります

 そのように「行」が如実であるか否かは「信」によるというならば、「信」をもってこそ往因を的示すべきであります。それを「称名」をもって因を語られるのはどうしてですか。

 『本典』の総題は『顕浄土真実教行証文類』と「教行証」の三法門であらわされています。このときは「行中摂信(ぎょうちゅう-せっしん)」(信を行に摂め、行の他に信をたてない)して、「行」をもって因を語ります。これは外聖道の諸行に対して、法然聖人より伝灯された念仏往生の法義の実義を示す行々相対の法門[13]であります。

 そのように「行文類」が行々相対の立場であらわされていることがどうしてわかるのですか。

 「行文類」には『経』の引文が終わった後に、称名破満の釈がおかれて「称名は則ち是れ最勝真妙の正業なり」(*) と釈されています。更に七高僧等の引文が終わった後には「明らかに知んぬ、是れ凡聖自力の行に非ず。故に不回向の行と名づくる也。大小の聖人・重軽の悪人、皆同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし」(*)(33)と結ばれています。このように「行文類」は念仏をもって成仏の因を語る法門となっています。

 同様のことは『浄土和讃』の「大経讃」にも「

念仏成仏これ真宗、
万行諸善これ仮門、
権実真仮をわかずして、
自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)

」「

聖道権仮の方便に 
衆生ひさしくとどまりて 
諸有に流転の身とぞなる 
悲願の一乗帰命せよ (浄土 P.569)

」といわれたところにあらわされています。

 これは正像末の三時に興廃のある聖道の三法に対して、三時通入の浄土の三法の真実なることをあらわすためであり、また対内的には自力の諸行に対して、他力の称名が往生成仏の業因であることを示しすめであります。
 このときは聖道の「行」、浄土門不如実の「行」に対して、如実の称名念仏の「行」をもって対せしめて廃立を語るのであります。

〔法相の表裡〕

 三法門のときは「行」をもって因をあらわしているが、「信」はどうなっているのですか。

 それは上にいうように「行中摂信」して、「行」に「信」をおさめて行のほかに信をみません。
 およそ宗祖が往生の因として、行信二法をあらわされるについては、「行信次第」の場合と、「信行次第」の場合の二種のあらわしかたであります。

 「行信次第」して「因」をあらわされるとはどういうことですか。

 先にもいうように『教行証文類』の総題は「顕浄土真実教行証文類」と三法をもってあらわされています。このとき「因」は「行」をもってあらわされています。しかしこの「行」は「信」をはなしたものでなく、「行中摂信」して、信心を具した「行」をもって「往因」をあらわされているのであります。このような「因」のあらわし方を「行信次第」の法相といいます。

 「信行次第」して「因」を語られるとはどういうことですか。

 『教行証文類』の内容が、教・行・信・証と四法次第してあらわされているように、三法門の「行」より「信」を別開して、「行」を如実・不如実たらしめるのは「信」の具不によることをあかし、信心為要の法義をあらわすときは信行次第して「因」をかたります。

 「因」を行信次第であらわされるとは、どのような意によるのですか。

 それは法相(ほっそう)表裡(ひょうり)に約して往生成仏の因をあらわすためであります。
 その「法相の表裡」とは、行信の二法は「法」(名号)のあり場所について、表裡の関係があるいうことです。
 すなわち、諸仏所讃の名号願力を、衆生が領受している姿が信心であり称名でありますが、その信心と称名、すなわち「行」と「信」の在り方をいえば、信は内心にひそむ(かくれて)あり方であり、名号の法が行者の表に顕れているのは称名であります。すなわち「行」は法が表にあらわれてあり、「信」は裡に潜んである関係をを法相の表裡というのであります。[14]

 この法相の表裡と「行信次第」とはどういう関係にあるのですか。

 「行信次第」ということは「行中摂信」の法門であります。そのことを法相の表裡という枠組みであらわされるのであります。すなわち、行は称名と表にあらわれ、信心は裡(うち)にひそんでいるということを、表の行を先とし、裡(うち)の信心を後といわれたのであります。

 このときの「次第」とは、どういうことですか。

 ここに「次第」といわれたものは、時間的前後のことではありません。「行中摂信」の信心具足の称名を表裡の関係であらわしたことを、表の「行」を先とし、裡(うち)の「信」を後として、称名の如実なる内容を前後関係の「次第」の語をもってあらわされたものであります。
 ですから「信」が先に生起して、「信」より後続の「行」が相続するという、時間的前後関係をあらわしたものではありません。法相の表裡に約して「行信次第」を語るときの「次第」は、時間的前後ではなく法義の関係をを顕わすために「次第」の語を用いたものです。

 「行信次第」の「次第」が時間的前後ではなく法義を顕わすためのものといわれたが、このときは何故時間を語らないのですか。

 時間をあらわす場合は信でいいます。「行」は法をあらわします。所修の行法をあらわすときは時間を語りません。
 法相の表裡を語るときは、法をいただく時間をあらわすのでなく、いただいた法をあらわすものであります。すなわち何をいただいているのかということをあらわす法門であります。そのいただいた法が南無阿弥陀仏であり、その南無阿弥陀仏の超勝性をあらわすための法門であります。そのことを因体の超異を顕わすといいます。

 「称名」が法をあらわすとはどういうことですか。

 いただいた南無阿弥陀仏の名号が、そのまま口にあらわれているのが称名でありますから、その「称名」の上にいただいた法があらわれています。そこで「称名」をもっていただいた法をあらわすということができるのであります。

 因体の超異をあらわすとはどういうことですか。

 因体の超異をあらわすとは、聖道門自力の「行」に対して、浄土門の特色をあらわし、浄土門の「行」の超勝性をあらわします。すなわち正像末の三時に興廃のある聖道の行に対して、三時に興廃のない本願他力の念仏行を以て、所謂行々廃立の法相を取って、浄土門の行の特色を明らかにします。

 その浄土門の「行」の特色をあらわすとは。
 浄土門の「行」とは、本願力回向の「行」であります。その体は名号であります。名号願力が衆生の口にあらわれているのが称名の行ですから、称名は名号が全顕しているものであります。その名号とは阿弥陀仏の本願力そのものなのです。その名号の用きによって衆生は往生せしめられます。
 この名号の用きによって衆生が往生せしめられるということを、はっきりとあらわしているのが称名であります。よって称名をもって因体である名号の徳をあらわし、浄土門の「行」の超勝性を明らかにされたのであります。

〔稟受の前後〕

 聖教には「行信次第」ではなく『正信偈』の龍樹章のように、「信行次第」を取って「因」を顕わされている場合がありますが、これはどういう法義をあらわすのですか。

 それは「信行次第」して、禀受(りんじゅ)[15]の前後に約して「因」(行信)を語る場合のことであります。

 「信行次第」して禀受の前後に約すとはどういう事ですか。

 この義は、宗祖が『教行証文類』に「信文類」を別開された意図に基づいて述べられる往因論であります。いわゆる四法門の法相です。このときは「因」を信行次第して語ります。この立場を稟受の前後といいます。

 稟受の前後とは、諸仏所讃の願力を衆生が領受するについて、時間的前後が立つということです。第十八願に示されるように、先ず名号を受けるのは「心」(三心・信心)に領受し、その「信」より後続の「行」(十念・念仏)が相続されるという次第となります。

 このとき往生の「因」が満足するのは、「信行」のうち信一念、すなわち受法の初際であります。それより先に他力の法は衆生の上にありません。もしあるとするならば不如実の自力法であります。
 このように名号を領受した信の一念に往因満足すれば、後続の称名は往因とすべきものではなく、全く報恩行といわざるを得ません。ここに信心正因・称名報恩と信前行後の法義が確立します[16]。したがって稟受の前後に約して「信行次第」で「因」を語ることによって「因満の分斉を(さだ)む」ことができるといわれています。

 因満の分斉を(さだ)むとは、どういうことですか。

 これは「信行次第」して「因」を語るとき、往生の因が満足する時は、初起の信一念か、後続の称名をまってかを分別して、「信心の定まるとき、往生また定まるなり」(*) といわれたように、往生決定のを確定するための法門です。

 このときの「次第」とは、
 法体の名号願力を領受するについて、名号の法が機の上に実現する時間的前後を意味しています。すなわち名号を聞信する信の一念が受法の初際であって、それ以前に如実の法は機上には存在しません。この名号領受の一念に往因円満するから、それを信心正因といいます。名号が衆生の口業にあらわれるは第二念以後のことであります。すなわち正因決定後の報恩行としてであります。ここに所謂信心正因称名報恩の法相が立ちます。

 称名が報恩行であるとは、どういうことですか。

 稟受の前後に約せば、信前行後と行が相続します。この信後の行である称名には二種の意味があります。一には称名の体徳よりいえば、名号全顕の称名であり、称名即名号であります。すなわち正定業といわれます。二には能称者の意許(称える者の心持ち)からいえば報恩行であります。[17]

 それでは称名に二つあるのですか。

 「信行次第」に約して「因」を語るときは、信心が正因、すなわち信心定まる時に往生が定まる。その上の称名は因ではなくて、助けて下さってありがとうございますとご恩をよろこぶ称名であります。そこで行者の意許からいえば報恩行といわれるのであります。行者の意許からは報恩行といわれることは、私の方からは往生の因としては何もつけ足す必要を認めないということです。そのことは如来の願力名号一つでたすけていただくことをあらわしています。

 ですから報恩行といえるような称名は、その体徳からいえば正定業であるといわねばなりません。だから報恩行だということが正定業であることをあらわしていますし、正定業であるということが報恩行といいうることをあらわしています。このように両者は互顕して、報恩行と正定業は別物ではないことをあらわしています。
 すなわち、一つの念仏を体徳からいえば正定業、称える行者の意許からいえば報恩行になるであります。

 石泉師は『教行証文類』をいずれの立場を主としてみられるのですか。

 石泉師は『教行証文類』は法相の表裡、稟受の前後、いずれの法義をもあらわしていますが、「行文類」は法相の表裡に約して、衆生往生の「因」を語るものと見られます。すなわち称名正定業の法義を語るのが『教行証文類』「行文類」であるとされます。

〔鮮妙和上の義〕

 大行の物体は何を指しますか。

 能所不二の法体をもって大行の物体とします。

 能所不二の法体名号が大行であるとは、どういうことですか。

 第十八願の機に届いて信心となり、称名となって衆生を往生せしめつつある、現在対機門の名号をさして能所不二の法体の名号といいます。

 現在対機門の名号ということは、
 これは法体成就門に対することばで、今家の名号のあつかいに四法円具した位で語る法体成就門の名号と、その名号が第十七願の諸仏讃嘆を通して、衆生にとどき信となり、称名となって働いているような現在対機門の名号とがあります。今は「行文類」にあかされる名号は現在対機門で語るというのであります。したがって信となり称名となるべき名号でなく、信となり称名となっている名号であります。

 能所不二の法体とはどういうことですか。

 一般には「能行」とは「行ずる」と読み、衆生の行ずる「称名」をあらわすことばであります。それに対して「所行」とは「行ぜられる」とよみ、衆生によって行ぜられる「名号」を指す用語であります。この用法では「行」とは衆生のおこないである能称の造作「能行」から立つことになります。そこで鮮妙師は「所行」を「仏所修の行」の意とよんで、「仏の行ずるところ」の意味とし、仏の能行(如来行)の意味として用いられます。
 「所行」を仏所修の行というように用いた例がありますか。
 「六要抄」に「仏の所行のほかに衆生の行なし、如来の回向成就の義なり」(2/252)といわれています。このように仏の造作たる所行のはたらきによって、衆生の能信も能行も成ぜられるというのであります。すなわち衆生の信心、称名の全体が如来行(所行)の顕現であるような「所行」を能所不二の所行というのであります。

 信心も称名ともに法体名号の活動相であるというならば、「信心」のところで名号をあらわせばよいのに「称名」であらわされたのは何故ですか。

 信心も称名も共に法体名号の活動相でありますが、いま特に称名をもって出体されたのは、「信心」は機の無作をあらわします。それに対して称名という造作のところで、名号の造作をあらわすためであります。すなわち称名しているままが、如来行たる名号のはたらくすがたであるということをあらわすためであります。
 鮮妙師は、称名とは本質的に衆生の造作ではなくて、如来の造作であり、如来が衆生にあって働きたまう姿であるとみておられます。これを称相即名相とか、衆生の造作即如来の造作(作即作)といわれています。このように本願の念仏は直ちに如来行であるからこそ、称名もまた大行といわれうるのであります。


〔大行の物体を能所不二の法体名号であるとする理由〕

 『行文類』所顕の大行が能所不二の法体名号であるとは、どうしていえるのですか。

 それについて、二つの理由(理証)と、一つの文(文証)があります。
 その文証とは。
『教行信証大意』(『真宗聖教全書』三/五九)に、

第二に真実の行といふは、さきの教にあかすところの浄土の行なり。これすなはち南無阿弥陀仏なり。第十七の諸仏咨嗟の願にあらはれたり。名号はもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。衆行の根本、万善の総体なり。これを行ずれば西方の往生を得、これを信ずれば無上の極証をうるものなり[18](*)

 の文がそれであります。
 第十七願、諸仏称名の願は「浄土の行」たる「南無阿弥陀仏」を所讃の法として誓われている旨を述べ、その名号をうけて「これを行ずれば西方の往生を得」「これを信ずれば無上の極証をうるものなり」と述べ、所行、所信とされています。この所行、所信とされるものは法体の名号でなければなりません。

第十七願建立の故に〕

 二つの理由(理証)とは。
 一つには第十七願建立の行なるが故に、二つには行信次第の行なるが故であります。

 第十七願建立の行なるが故にとはどういうことですか。

 『行文類』始めに「諸仏称名之願、浄土真実之行、選択本願之行」と標挙し、本文に到って「しかるにこの行は大悲の願より出でたり。即ち是れ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく」といい、この大行が第十七願より回向されたものであることを示されています。ところで第十七願の願事を見ると十方諸仏をして我名、すなわち名号を咨嗟し称せしめると誓われています。このように「咨嗟称我名」と誓われたなか、「行文類」は所讃の法体である「我名」を押さえて大行といわれたと見なければなりません。

 そのことをくわしくいってください。

 「咨嗟称我名」と誓われたことについて、「咨嗟称」とは諸仏が名号の義を讃めたたえ、広く説き明かすことであります。いわゆる諸仏の能讃をあらわします。教・行・信・証でいうと「真実教」の立場であります。言い換えれば第十七願の「我名」を全うじた「咨嗟称」の側によって『教文類』が建立されたのであります。
 したがって第十七願に於て「行」を立てるとすれば、諸仏によって讃嘆されている「我名」、すなわち所讃の名号としなければなりません。すなわち「諸仏称名之願」に於ける「浄土真実之行、選択本願之行」とは。このような諸仏所讃の名号を指していたといわねばなりません。

 諸仏所讃の名号とは、第十八願の機によって信ぜられ、行ぜられるべきもの(法)であって、そのような所行所信の法体を直ちに衆生往生の行法とすることは出来ないではありませんか。

 第十七願の諸仏所讃の名号は、第十八願の機から見れば可聞(信)可称の分斉にあることはいうまでもありません。しかし、その名号は諸仏讃嘆を通して既に衆生の上に届いて信心となり、称名となって、衆生を往生せしめつつある「法」でありますから、衆生往生の行体となっているということができます。
 宗祖が第十七願に於て行を建立されるときは、法体の名号を直ちに大行とされたとしなければならないのであります。

〔行信次第の行なるが故に〕

 第二の理由の「行信次第」の行の故に、法体の名号を「行」というとは、どのようなことですか。

 宗祖の行信のあらわし方には、「行信次第」としてあらわされる場合と、「信行次第」してあらわされる場合との二途があります。

 「信行次第」してあらわすとは。

 「信行次第」してあらわすとは、第十八願に「至心信楽欲生我国乃至十念」と三心十念の次第をもって誓われた場合であります。これは名号を聞信する信の一念に往因満足し、その信心より流出する後続の称名は報恩の行業であると、信因称報の法義をあらわす場合です。このときの「行」は乃至十念の称名であります。

 これに対して「行信次第」であらわされたときは、行が信より先行している。このときの「行」は衆生の称名とすることはできません。

 「行信次第」のときの「行」を称名とすることができないのは何故ですか。

 他力の称名とは必ず信心を具していなければなりません。信心のない称名は疑心自力の称名であります。
 したがって他力の称名を信心との時間的前後関係であらわす場合は、第十八願に説かれたように、信行次第してあらわさねばなりません。
 然るに今、『教行証文類』は行信の次第で顕わされています。このように行が信に先行してあらわされているのは、この「行」が「信」によって如実ならしめられるというような衆生の称名のことでなく、逆に衆生の「信」を成立させる法を指しているとし いわなければなりません。信を成立させるような法とは、既に願成就文に「聞其名号、信心歓喜」と説かれた、諸仏讃嘆の名号以外にはありません。故に「行信次第」をもって明かされた「行」は、第十七願位の法体の名号であるとしなければならないのであります。

 善導大師は就行立信釈に、本願の行たる称名をもって所信、所就の「行」として「信」を立てると釈されています。法然聖人もこの筆格を受け継いで「衆生称念必得往生」と信ずるといわれています。したがって「信」を成立させる「行」(所信の行)を称名と見ても差し支えないではありませんか。

 善導・法然の上では、称名の「行」について信を立てるという称名立信の説き方がなされています。それが念仏往生の法門の特色であります。しかし、このような善導・法然の法門は、第十八願、一願建立の法門であって、五願開示して行信をあらわされる宗祖の『教行証文類』の法相とは、法門の立て方が異なりますから同様視することはできません。

 しからば、一願建立の法門と五願開示の法門とで所信の法が異なるのですか。

 両者は全く違う訳ではありませんが、一願建立の場合は「称名」に就て「信」を立てるというように、機位において能所信を語ります。それに対して五願開示の場合は、所信を法の位に帰して、称名即名号であるような名号に就て「信」を立てると法と機の分斉を明らかにしてゆかれたところに宗祖の五願開示の釈功があります[19]

 一願建立五願開示についてもう少し詳しく述べて下さい。

 善導・法然は、四十八願を第十八願の一願に摂めて、この十八願をもって念仏往生の法門を建立せられたことを、一願建立といいます。このときは「信」を称名「行」におさめ(行中摂信)て、外、聖道の諸行に対して行々廃立して、念仏往生という浄土の法門を建立せんとされたのであります。

 しかし、その「行」(称名)は本願他力を信じ、願力名号のはたらきを仰いで称える能称無功・全是法体の他力の称名であります。このように称名即名号であるような称名で往生の業を語られてのが善導・法然の念仏往生の法義であることを、宗祖は五願開示して、より明瞭にされたのであります。

 五願開示されることによって、どのように明らかになるのですか。

 他力の念仏は能称の功を見ることなく、ひとえに本願の名号の独りばたらきで往生を得しめられるという名号願力を仰いでいるに他なりません。そのことを「法」からいえば名号の独りばたらきで往生と、法体名号の独用をあらわし、それを「機受」からいえば無疑信順の信心の他にありません。

 このように善導・法然のあらわされた念仏は、法体の名号に帰し、無疑の信心に帰するものであります。そのことをはっきりとさせるために、宗祖はその念仏の「法の側」を第十七願の法位であらわし、大行とは第十七願の名号の活動相であるとあらわし、その機の側の「信心」を機位の願である第十八願で顕わして、名号を聞信している信心が機受の極要であることを明らかにされたのであります

 このように一念仏を行信に分け。機法、能所信の関係をもってその真意を明瞭にされたのが『教行証文類』における五願開示の法門であります。故に一願建立の時は、「行」は「乃至十念」の称名で語りますが、五願開示した場合は称名即名号と第十七願の法体名号の位で「行」を立てるのであります。

〔出体釈の文について〕

 『行文類』の大行出体釈には「大行とは則ち無碍光如来の名を称するなり」と、大行とは称名であると指定されています。それであるのに何故大行は法体名号であるといわねばならないのですか。

 称名をもって大行を出体されたのは、第十七願の法体名号は機を離れて法の位に固然として存在しているようなものではなく、つねに第十八願の機に届いて「信」となり。如実の称名となって活動しているような、能所不二・行信不二の名号であることをあらわすために、敢えて「称無碍光如来名」と称名をもって大行の出体をなされたのであります。

 しかし「称無碍光如来名」と、明らかに「大行」とは称名であるといわれているから、法体の名号が機に届いて、称名となった所において「大行」という名が立つと見るのが、出体釈の正しい見方ではありませんか。

 この出体釈の上に、名号直ちに「大行」であるとされる意があらわされています。
 それは、出体釈につづいて「斯の行は即ち是れ諸の善法を摂し、諸の徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。故に大行と名づく」といわれて、「大行」と名づけられる所以は、万徳円満した真如一実の功徳宝海であるような、名号の徳の故であるからだといわれています。
 これは衆生が称えているという造作を全く問題にせず、所称の法体名号の徳から「大行」という名を立てたことをあらわしています。

 それならば「大行者則〇無碍光如来名」と「称」の字を用いずに出体しなければなりません。なのに「称無碍光如来名」といわれてある以上は、称名をもって「大行」とされる祖意であるとしなければならないでしょう。

 先にいうように、「大行」という名の立つところはどこまでも名号であります。しかし、その「大行」たる法体名号が如実の行者の口にあらわれて名号の徳のままに全顕しているのが称名であります。そのような称名また「大行」といわれるのであります。言い換えれば称名が大行であり得るのは、称えた行者の功によるのでなく、「大行」であるような名号が行者の上に躍動している相であるからであります。このような能所不二の大行であることをあらわすために「大行者則称無碍光如来名」と称名で出体されたのであります。

 「大行」である名号が全顕している故に、如実の称名も「大行」といわれるならば、「信心」も名号全顕の法であるから「大行」といってもいいのですか。

 信心も名号全顕であることはいうまでもありません。しかし、「信」とは疑い無く法を領受するという機受の心相を顕わす言葉であります。したがって「行」という行動的な造作をあらわす名目ではありません。「行」の行動性をあらわすのは称名であります。言い換えれば称名とは名号の活動相が、その活動相のままあらわれているものであります。だから称名即名号であり、称名という衆生の造作はそのまま名号の造作であります。だから名号が「大行」であるように、称名もまた「大行」ということができます。

〔如来の名号を直ちに行とするについて〕

 名号を直ちに行といわれましたが、名号は元来仏の果号であって、それを直ちに衆生往生の因行と見ることは出来ないでのでありませんか。

 名号は阿弥陀仏の果号には違いありませんが、その果号が直ちに衆生往生の因行となるように成就されています。それは阿弥陀仏の名号が別願不共の徳によって名号が即行であるように成就されているのです。

 阿弥陀仏の別願不共の徳によって名号が即行であるように成就されているとはどうしていえるのですか。

 「重誓偈」に「われ無量劫に於て、大施主となりて、普く諸の貧苦を済はずば、誓ひて正覚を成らじ。われ仏道を成ずるに至りて、名声十方に超えて、究竟して聞こゆるところなくば、誓ひて正覚を成らじ。…衆のために法蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。つねに大衆のなかにして、法を説きて師子吼せん」(*)(1/14)と誓われたように、阿弥陀仏は因位のとき、功徳の宝を全く持たない貧窮の我等を救うために、功徳の宝を名号に仕上げて、それを聞かしめることによって衆生に与え、「諸の衆生をして功徳成就せしめ」(*) たもうのが阿弥陀仏であると説かれています。

 このように往生成仏の因徳(願行の徳)を持たない衆生の為に、その因徳即ち衆生往生の大願・大行の徳となるように成就されたのが本願成就の名号であります。ですから名号は如来からいえば果号であるままが、衆生に向かえば大願・大行としての「因」の徳用を持つものであります。ですから名号即行といえるのであります。

 それでは名号は如来からいえば果号でありますが、衆生に向かえば往生の因となるといわれるのですか。

 例えば去年の春に種を蒔き、秋に収穫したお米は。去年の収穫として見れば果でありますが、その米を今年の春に苗代に蒔いて、今年の収穫に望めば昨年の果が、そのまま今年の因になるようなものです。
 如来の因が全うじて一句の名号と成就し、衆生往生の因として与えられているのでありますから、仏の果号がそのまま衆生往生の因行としての徳用となすのであります。これによって名号直ちに行ということができます。

〔名号の行相について〕

 名号に大願・大行の徳を具し、それが即衆生往生の因としてはたらくことは分かりました。しかしそれでは名号の具徳から「行」という名が立つことになります。もしそうならば、その「行」は法蔵菩薩の行を意味しているのであって、衆生の「行」をあらわしたものとはいえないのではありませんか。

 宗祖が『行文類』で明かされたのは、六字釈に「発願回向といふは、如来已に発願して衆生の行を回施したまふの心なり」と釈されてありますように、「衆生の行」を明かそうとされているのであります。もし法蔵菩薩の「行」であるならば六波羅蜜がその行体でなくてはなりません。宗祖が明かされる「行」は「称無碍光如来名」といわれてありますから、少なくともその行相は称名であります。そうすると「行」という言葉は、やはり衆生の称名の上で語らねばならないのではありませんか。

 名号即行というのは、名号所具の六度万行の広門の徳から立ったものではなくて、六度万行が一句の名号と成就した略門の名号の上でいうのであります。

 名号即行というのは、名号所具の願行の徳から立てたのではなくて、名号直ちに行とするというのならば、名号に「行」といわれるような相があるのですか。

 名号は万行を全うじた一行であって、その名号の行相を如来の上でいえば、如来の説法すなわち口業のはたらきであります。それを衆生の上でいえば、如来の説法のままであるような称名、言い換えれば衆生が称えているままが、如来招喚の勅命が響き渡っているような称名を、名号大行の行相とするのであります。

 名号が如来の口業であるとはどういうことですか。

 『論註』下巻に「阿弥陀如来の至徳の名号、説法の音声を聞けば」(*)(1/330) といい、また上巻に妙声功徳を釈して「名能く開悟するを妙と曰ふ。妙とは好なり、名を以て能く物を悟らす故に妙と称す」(*)(1/293) といわれたように、名号は阿弥陀仏の説法、即ち口業のはたらきをあらわしています。すなわち如来の口業が人々を悟らしめてゆくはたらきをなしている。これが名号が行といわれる相であります。

 その名号が衆生の行として衆生の上で語られる時の行相をもう少し詳らかにして下さい。

 宗祖が『行文類』の六字釈において、所称の名号について「本願招喚之勅命也」と釈されました。これは「帰命」の字に寄せて、名号の能回向の相を顕わされたものであります。すなわち衆生の称名は称即名と常に名号法体に帰り、名号の徳を仰いでいるものであります。そこに仰がれている名号は如来招喚の勅命としての意味を持っているということを顕わそうとされているのであります。言い換えれば衆生が称えているままが、称えているはたらきを忘れて聞こえてくださる名号、すなわち本願招喚の勅命を仰いでいるような称名が弘願如実の称名であり。これを能所不二の大行といわれたのであります。


  1. 大行の名義と物体を考察する。
  2. 法体の名号。大行といわれるものは、如来の名号であり、衆生の称名でもいわれるものであり、その名号と称名とは不離不二のものであるが、大行といわれるものは、その原点に立てば、如来の立場である法体名号が主体となるものであるとする説。
  3. 御開山は「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり(大行者 則称無礙光如来名)」とされておられるのだから大行とは称名であることは当然である。学者は、称名と名号という語に拘泥して御開山の念仏思想を種々に解釈するから煩瑣な学問になるのであろう。また法体名号を説く派は「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり」の「称無礙光如来名」を名号であるとし「信巻」三心結釈の「真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり」の名号は称名であるとするのだが少しく偏頗な考察であろう。深川倫雄和上は、御開山の名号という語の表現は、口に称えられ聞えて下さる名号です、私に称えられる前の名号というものは無いのです、と仰っていた。阿弥陀仏の回施したもう名号は、そのまま衆生に於いては称名であると了解すれば煩瑣な大行論に迷うことはないと思ふ。なんまんだぶ
  4. 少しく回りくどい説明だが、真宗では、衆生にはさとりに至る能力を全く認めないから、行をさとりにおもむかせるものという意に解する。口に称えられる〔なんまんだぶ〕は、阿弥陀如来の本願力の回向によって仏果を得る報いを引きおこす行業である。→正定業
  5. 咨嗟称我名者。当面では「我が名を咨嗟称する」か「我が名を咨嗟し称する」と読む。この場合の「称」は讃嘆称揚の意。 御開山は「咨嗟してわが名を称せずは」と読まれているので咨嗟讃嘆と、我が名を称することに分けておられた。『唯信鈔文意』では第十七の願を「『阿弥陀経』の証誠護念のありさまにてあきらかなり。証誠護念の御こころは『大経』にもあらはれたり。また称名の本願は選択の正因たること、この悲願にあらはれたり。」と称名の本願とされておられた。
  6. 法然聖人は『三部経大意』で「名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八願の願これなり。 その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。 このゆへに釈迦如来のこの土にしてときたまふがごとく、十方におのおの恒河沙の仏ましまして、おなじくこれをしめしたまへるなり。」とされておられた。この意味で第十八願の「乃至十念」を往生の因であると諸仏が教え聞かしめ給うので第十七願は「教」である。
  7. 第十八願の「乃至十念」を第十七願の処で所聞としてあらわすこと。
  8. 「浄土真実の行」「選択本願の行」の意。
  9. 『尊号真像銘文』に、
    「尽十方無碍光如来」と申すはすなはち阿弥陀如来なり、この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ、十方世界を尽してことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
    「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。
    この如来は智慧のかたちなり、十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。
    と阿弥陀仏の名義の徳義をあらわしている。
  10. 『論註』では、「かの無礙光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」(論註 P.103) と名号で破闇満願を語っているが、御開山は「しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり」(行巻 P.146) と称名で破闇満願を論じておられる。
  11. 所行説では徹底して衆生の側の「三業」を否定するので衆生の側の造作を全く認めない。これを誤解すると宗教的無力説に陥る可能性がある。また相続行としての称名行を軽視することにもなる。
  12. 跨節(かせつ、こせつ)。節を跨ぐということで節を越えて、第十八願の乃至十念を行巻で第十七願によってあらわすこと。当分・跨節と組み合わせて使われる教学用語。
  13. 行々相対。聖道門の諸行に対して念仏一行をもって相対したこと。→一願建立
  14. 『蓮如上人御一代記聞書』には、「一 念声是一といふことしらずと申し候ふとき、仰せに、おもひ内にあればいろ外にあらはるるとあり。されば信をえたる体はすなはち南無阿弥陀仏なり とこころうれば、口も心もひとつなり。」とある。
  15. 禀受。りんじゅ。ほんじゅ、ひんじゅとも読む。さずかり受けること。上から受けることの意。
  16. 以下、報恩云々の記述については、信後の称名を理解する為に本願寺派の通規である「信因称報説」の宗義に合わせて会通している。「信因称報説」の枠内でしか法義を論ずるしかなかった昔の和上方は苦労したものだと思ふ。しかし、御開山は「「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。」ともいわれておられるので「信心正因」と「称名業(正)因」の論理によって理解すべきだと思ふ。信心一発後の称名は如来讃嘆の相続行である。
  17. 信因称報説では、常に能称者の意許としての報恩行を説くのだが、この淵源は信の一念を重視する信一念義から派生した論理である。
  18. 御開山は「大行とはすなはち無碍光如来の名をするなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。」と称名で示しておられる。
  19. 法然聖人と御開山の所信が異なるのではないということに注意。