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口伝鈔

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2020年8月25日 (火) 09:22時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版

  • [梯實圓和上著『聖典セミナー 口伝鈔』(本願寺出版社)より一部を抜粋。本願寺第三代目の覚如上人が著された全21カ条の法語を1条ずつ丁寧に現代語に訳し、詳しく解説した注釈書である。伝統教学の「信因称報説」の礎を築いた覚如教学を知る目途になる書でもあるので購入して読むことをお奨めする。なお脚注や文の強調、リンク等は林遊が付した。

光明・名号の因縁

[現代語訳]

一、光明と名号は、往生の因であり縁であるということについて。

 阿弥陀仏の本願力は、十方の世界に生存しているすべてのものを救おうと働いています。しかしその本願を疑いなく受け入れるものと、受け入れないものとがあります。どうしてそのような違いが生じたのかということについて、『大無量寿経』には、過去に宿善の厚いものは、この世でこのみ教えに逢えば疑いなく信じて喜ぶが、宿善のないものはたとえこの教えに逢えたとしても、本願を信じ念仏することが出来ないから、遇わないのと同じであるという意味のことが説かれています。「過去の因を知ろうと思えば、現在の結果を見よ」といい習わしているように、今生で本願を信じられるか信じられないかという有様によって、宿善があったか無かったかが明らかにわかります。

 宿善に育てられて、法を受け入れることが出来るようになっている証拠に、善き師に出逢って、本願の信ずべきことを知らされたとき、一おもいの疑いも生じません。そのように疑い心が生じないということは、阿弥陀仏の光明の縁に遇ってお育てを受けて来たからです。もし光明の縁の働きがなかったならば、報土に生れるまことの因であるような徳をもった名号を得ることは出来ません。

それというのも、阿弥陀仏の智慧の働きである光明は、真実に背き、愛憎の煩悩に沈んでいる十方の衆生を明るく朗らかに照らしつづけています。そして、まるで太陽の光が厚い氷を溶かすように疑い心を溶かして、本願の名号を受け入れさせ、涅槃の浄土に生れるまことの因である信心が初めて私の上に開け発ったとき、真実の報土に生れることに決定した正定聚の位に就きます。

 すなわちこの位のことを、『観経』には,「阿弥陀仏の光明は、あまねく十方の世界を照らして衆生を念仏するものに育て上げ、本願を信じ念仏するようになったものを、その光明の中に摂め取って護りつづけ決して捨てたまうことはない」とお説きになっています。また善導大師の『往生礼讃』には、「阿弥陀仏は光明と名号をもって、十方の一切の衆生を救い取ろうと働きつづけ、ひとすじに本願を信じて浄土を願うように働きかけられている」といわれています。

 こういうわけですから、往生の信心が定まることは、私どもの智慧の力ではありません。阿弥陀仏の光明のお働きを縁として宿善を育てられ、本願の名号をわが往生の因と信知する信心が起り、報土往生の正因が得られると知るべきであると親鸞聖人は仰せられました。これを信心も他力より起るというのです。

【講讃】

光明と名号

光明と名号をもって阿弥陀仏の救済を語るのは、遠くは曇鸞大師の『往生論註』にはじまり、ここにも引用されているように、善導大師の『往生礼讃』や法然上人の『三部経大意』* 等に示されてきたところです。それを承けて親鸞聖人も、「行文類」に光号因縁の釈を初め、随所に光明と名号をもって救いの直接・間接の因縁が明かされています。

「光明は智慧の相なり*」 といわれるように、光明は阿弥陀仏の智慧の働きを表していました。自己中心的な想念によって、もののあるがままの在り様(真如)を完全に見失ってしまっている私どもは、自己の真相も知らず、生と死のまことの意味もわからず、妄念によって描き出した愛欲と憎悪にまみれた世界が、あたかも実在するかのように思いこんで迷いつづけております。このように、生と死を真反対の実体として捉え、自己と他者とを裁然とわけへだてし、自分に役に立つものと、邪魔になるものと、どうでもいいものとを分け、愛と憎しみと冷淡とに揺れ動いている私どもの心のはたらきを虚妄分別と呼んでいます。

 仏陀とは、そのような虚妄分別を破り、真如、すなわちもののあるがままの在りようをさとったかたをいい、そのような真如に目覚めた智慧を無分別智といいます。そこでは自他の区別を超えて万物が一つに溶け合い、分別による限定を超えているからです。しかし分別を超えた領域は言葉を超えていますから通常の言葉で表現することはできません。しかし真実に目覚めた者は、必ず大悲を起こして、真実に背いて妄念煩悩を起こして苦しんでいるものを呼び覚まし救おうと働きます。

ですから仏陀は、言葉を超えたさとりの領域を言葉で表し、形を超えた世界を形で表し、行動で示して、迷える人々を導く後得智と呼ばれる智慧をおこして絶妙の教説を説き示していかれます。それは妄念煩悩から出てくる私ども凡夫の言葉と違って、清らかなさとりの世界から、仏陀の智慧と慈悲の結晶としてながれでてきた言葉でした。それを如来の光明というのです。

 いいかえれば、光明とは、如来の智慧が大悲にうながされて教えの言葉となって人々を照らし導き、人々を真実の世界に向かうように育てはぐくむ有様を表現しているのです。それを曇鸞大師は「仏の光明はこれ智慧の相なり*」といわれたのです。そこでお聖教には、あるいは光明をもって、仏陀が未熟なものを育て導いていかれるはたらき(調育)を表したり、あるいは真実を疑い迷う心の闇を破って、真実の道理を信知させるはたらき(破闇)を表現したり、あるいは念仏の衆生を大悲智慧の光の内に摂め取り(摂取)、護りつづける(護念)利益を表したりされているのです。

 調育とは、巧みな調教師が暴れ馬を調教して見事な競走馬に育てるように、真実に背いているものを真実に随順するものに育てていかれることです。仏を勝れた調教師にたとえて調御丈夫と呼ぶのはその故です。このように機根を調えて「聞法の器」に育てることを調育とも調機ともいい、『口伝鈔』では仏の調育の働きを光明で表し、それを宿善の本体とされています。それをまた調熟ともいいます。それは太陽の光が未熟な果実を熟させるように、仏の光明には、未熟なものを育て導いて、本願のみ教えを疑いなく受け入れることの出来るものに育てあげていく働きがあるからです。

 こうして光明は、如来のさとりの智慧の領域を表したり、智慧が人々を導く救済活動を表したりされていますから、その意味では慈悲・方便の働きを表していました。こうした光明の徳を如来のみ名として示されているのが、南無阿弥陀仏、帰命盡十方無礙光如来、南無不可思議光如来という六字と十字と九字の名号でした。つまり光明は名号のいわれであり、名号には光明で表される如来の智慧と慈悲の徳のすべてが言葉として告げられていました。それゆえ光明と名号は本来不二の関係にあるというので、”光明は無声の名号であり、名号は有声の光明である”といわれてきました。

宿善の当相は自力の善

 ところで宿善の宿とは前世ということで、宿善とは「過去の世でなした善」という意味でした。
そこで宿福(過去世でなした福徳の行為)とも、宿習(過去世でなした善き習慣性)とも、また宿因・宿縁(過去世でなした善き因縁)ともいわれています。例えば『大経』下の東方偈[往覲偈)に、

もし人、善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、いまし正法を聞くことを獲。
むかし世尊を見たてまつりしものは、すなはちよくこの事を信じ、
謙敬にして聞きて奉行し、踊躍して大きに歓喜す。
憍慢と弊と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世に諸仏を見たてまつりしものは、楽んでかくのごときの教を聴かん。( 註釈版聖典』四六頁)

といわれています。すなわち宿世(過去世)において多くの仏陀に逢い、教えにしたがって戒律を保ち、さまざまな善を修行してきたものだけが、この経(『大経』)を聞いてよく本願を信じ、念仏することが出来るといわれていることを宿善というのです。

 また善導大師は、『観経疏』「定善義」に、『平等覚経』のこころによるとして、「浄土の教説を聞いても信ずることのできない人は、三悪道からやっと人間界に出て来たばかりで、まだ罪障が尽きていないからである。それにひきかえ、この法を聞いて、身の毛が逆立ちするほどの感動を覚え、信受し実践する人は、過去世においてすでに浄土の教えに逢い、念仏した経験をもつ人である」(『註釈版聖典七祖篇』四一一頁]、取意) といい、「この人は過去にすでにかつてこの法を修摺して、いまかさねて聞くことを得てすなはち歓喜を生じ、正念に修行してかならず生ずることを得」(同頁)といわれています。

 そのことを『口伝鈔』では、「欲知過去因」の文の通りであるといわれているのです。それは、『法苑珠林』に「経にいはく」として「過去の因を知らんと欲すれば、まさに現在の果を観るべし。未来の果を知らんと欲すれば、まさに現在の因を観るべし」といわれた四句の偈文の初句です。もっとも、この言葉は経典の中に確かな典拠はないようです。ともあれ、ここでは現に浄土の教えに逢い、本願を信ずることが出来るか否かによって、過去に法に遇う宿善があったか無かったかを知ることが出来るというのです。

 このように見ていきますと、経釈に説かれている宿善とは、過去世における善行が信心を獲得するための善き因縁になるということであって、往生の因になるということではなかったことがわかります。往生の因は本願の名号を信受する信心だからです。その宿善といわれているものは、『大経』に説かれているように、多くの仏に出逢い、菩提心を発して、戒律を守りさまざまな修行を行ったことを指していました。親鸞聖人も、『唯信鈔文意』に、

 おほよそ過去久遠に三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり。他力の三信心をえたらんひとは、ゆめゆめ余の善根をそしり、余の仏聖をいやしうすることなかれとなり (『註釈版聖典』七一三頁)

といわれていました。これは、信心の行者は阿弥陀仏以外の仏・菩薩を軽蔑したり、自力の善を謗ってはならないと誠めるために、『安楽集』に引用された『涅槃経』の意によって示された教説でした。私どもは、過去世において、ガンジス河の砂の数を三倍したほどの無数の仏陀たちに逢い、自力の菩提心を発し、無数の善根を実践してきた経験をもっている。それゆえ、いまこの経に遇い、本願他力の救いをはからいなく受け入れることの出来る身になったのであると説かれています。だから、念仏者は自分を育ててくれた仏・菩薩や、自力の菩提心を初めとする諸行を謗るようなことがあってはならないといわれているのです。これによれば聖人も宿善を認めておられたことがわかります。しかもその宿世の善とは、聖道門・浄土門に限らず仏教で説かれている、一切の善なる行為を意味していたといえましょう。勿論それは自力の善にちがいありません。要するに、遇去世から現世の信心獲得の直前に至るまでになした、信心を得るための善き因縁となる一切の善行を宿善と呼ばれていたと見るべきでありましょう。

光明(他力)をもって宿善の本体とする

ところで親鸞聖人は、『教行証文類』の「総序」に、

 ああ、弘誓の強縁、多生にも値ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ (*)

といい、自力では決して得ることのできない本願の行信に、遇い難くして遇い得たのは、遠い過去世からの阿弥陀如来のお育てのお陰であったと喜ばれていました。また「化身土文類」の三願転入の述懐をあらわされたところにも、「果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり」(『註釈版聖典』四一二頁])といわれています。それは、自力のとらわれの強い私を、第十九願の自力諸行往生の法門から第二十願の自力念仏の法門へと引き入れ、最終的には完全に自力を捨てさせて第十八願の他力回向の法門へと転入させてくださった果遂の誓願(第二十願)の働きを讃仰された言葉です。すなわち親鸞聖人にとって、宿善の本体は、四十八願でいえば、邪偽に惑う十方の衆生を第十八願の真実に導こうとしてしばらく仮りに設けられた聖道門も含めた第十九願、第二十願の調機誘引の働きですが、全体としては、第十八願力に帰します。
また阿弥陀仏の果徳でいえば、十方の世界を照らして一切の衆生を調育されている遍照の光明の働きであったというべきでありましょう。

 第十九願に誓われている自力の諸行は、菩提心を発し戒律を保ち、自利と利他の行を積んで自己の身心を浄化していく聖道門と同じ厳しい自力修行でした。また第二十願には、心を阿弥陀仏に集中して絶え間なく称名を続けて功徳を積む自力念仏の道が説かれていました。しかし、こうした自力の法門を勧められているのは、阿弥陀仏が私どもに、自身の罪業の深さを思い知らせて、邪見憍慢の心を砕き、自力を捨てて本願他力をたのませるための調育の手段だったと領解されたのが親鸞聖人でした。

 自力を捨てさせるためには、自分が自力の修行に耐えられないものであるということを思い知らせなくてはなりません。そのためには、厳しい自力の修行をさせてみることが一番ですから、第十九願と、それを広げて説かれた『観経』にはさまざまな自力の修行が説かれているというのです。実際に教えの通りに修行を始めてみると、煩悩は余りにも強く、修行能力は余りにも弱すぎて、自分の力無さを思い知らされ、本願他力にまかせる以外にさとりに至る道のない身であったことに気づきます。こうして自力の行を以て自力を捨てさせるための教育が為されてきたのでした。それが宿善の内容だったのです。宿善は、行っている当人は自分の力で修行し向上していると思っていますが、まことは阿弥陀如来の大悲智慧の調育の働きが私を育て、自分の愚悪さを思い知らせてくれていたのです。それに気づくことが他力を信知することだったのです。そのことを先哲は、”宿善の当相は自力であるが、その体は他力である”といわれています。

宿善ありがたし

先に述べたように、親鸞聖人は、『唯信鈔文意』に、「三恒河沙の諸仏の世に出でたまひしみもとにして、自力の菩提心をおこしき。恒沙の善根を修せしによりて、いま願力にまうあふことを得たり」といわれていました。しかし聖人は、同じ文章を『正像末和讃』では全く違った意味で讃 詠されています。

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり (『註釈版聖典』六〇三頁)

といわれたものがそれです。経によれば、私は過去において無数の諸仏にお逢いし、教えにしたがって大菩提心を発して修行をしてきた筈ですが、自力ではどうしてもさとりを開くことが出来ない愚者でした。その証拠に、ただ今もこのとおり煩悩具足の凡夫として流転を繰り返すしかない身であるといわれているのです。ここには、宿善によって自身の罪障を思い知らされ、自力無功と信知する機の深信が育てられてきたことが告自されています。しかしそこにはまた、

久遠劫よりこの世まで
あはれみましますしるしには
仏智不思議につけしめて
善悪・浄穢もなかりけり (「同』六一六頁)

という深い喜びもありました。こうして宿善とは、一方では自力の行によって自力無功と信知させると同時に、阿弥陀仏に背いていたものを少しずつ阿弥陀仏になじませ、善悪・浄穢をへだてずに万人を平等に救いたまう絶大な本願力を疑いなく受け容れる法の深信を成就するように育てていく調育でもあったことがわかります。いいかえれば、機法二種の深信であらわされるような信心を私どもの上に実現してくださるのが、宿善のお育てであったのです。

 このような宿善を光明の調育の働きとして示されたのが『口伝鈔』だったのです。覚如上人も一往は、宿善を自力の善とみなされていますが、先に述べたように、阿弥陀仏の光明の働きによって、本願を疑う無明が破られ、浄土に往生する真因である本願の名号を疑いなく信受するように なったといわれていましたから、阿弥陀仏の光明のもつ調育の働きが宿善の本体であるとみなされていたといわねばなりません。それが「往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり」という結文のこころだったのです。

『蓮如上人御一代記聞書』のなかに、

蓮如上人仰せられ侯ふ。宿善めでたしといふはわろし、御一流には宿善ありがたしと申すがよく候ふよし仰せられ候ふ。 (『註釈版聖典』一三〇七頁)

といわれたものは、浄土真宗の宿善の特徴を見事にいい表されています。「宿善めでたし」というのは、自分が善根を積んだからこそ、こうして法に逢うことが出来たと、宿善を自分の功績として誇っているから自力の宿善観になります。しかし「宿善ありがたし」というのは、自力の修行をしたことも含めて、すべては阿弥陀如来のお育てのたまものであったと味わう表現ですから、浄土真宗の宿善観として最もふさわしいといわれたものです。

 ともあれ宿善とは、自分がいま思いがけなく尊いみ教えに逢い、救われた慶びと感動を、遠い過去に遡って表現している言葉であって、宿善を積み重ねることによって教えに逢おうとするような次元の教説では決してなかったのです。

宿善と他力の信心

『口伝鈔』第二章は、「しかれば往生の信心の定まることはわれらが智分にあらず、光明の縁にもよほし育てられて名号信知の報土の因をうと、しるべしとなり。これを他力といふなり。」という言葉で結ばれています。往生の正因である信心が定まることは、私の智慧の領分での出来事ではありません。報土往生の因として成就されている本願の名号を「私の助かる因」であると疑いなく受け容れる信心が起こったのは、すべて阿弥陀仏の光明の縁に育てられた宿善の賜物として恵まれたことです。このように名号だけではなく、それを信受する信心も本願力によって与えられることを他力というといわれるのです。

 ところで覚如上人が、このように光明のはたらきとして宿善を語り、その宿善のはたらきによって往生の業因である名号を疑いなく領受する聞法の器として育てられ、信心を得しめられると、他力に依る獲信の因縁を強調されたのには、それなりの理由がありました。それは、浄土異流の中でも特に鎮西浄土宗を姶めとする自力を肯定する人々からの厳しい論難でした。

 たとえば鎮西派の派祖、聖光房弁長(弁阿)上人の『浄土宗名目問答』巻中には、全く自力をまじえずに阿弥陀仏の本願他力のみによって往生成仏が成就すると主張する「全分他力説」を批判して、

 このこと極めたる僻事なり。そのゆえは、他力とは、全く他力を憑みて一分も自力なしということ、道理としてしかるべからず。自力の善根なしといえども他力によって往生を得るといはば一切の凡夫の輩、いまに穢土に留まるべからず。みなことごとく浄土に往生すべし。 (『浄土宗全書』一○・四一○頁・原漢文)[1]

といわれています。もつともこれは直接真宗に対する論難というよりも、真宗も含めて、西山派や一念義系の諸派の「自力を捨てて他力に帰する」という主張全体に対するものでした。もし自力の善根が全くないにもかかわらず、ただ他力のみによって往生するというのならば、阿弥陀仏が正覚を成就して本願他力を完成された十劫正覚の一念に、十方の衆生はみな往生してしまって、穢土に留まっているものなど一人もいないはずではないか。しかし現実には迷っているものが無数に存在するのだから、全分他力説は明らかに事実に背いた誤った見解であるというのです。そもそも第十八願には、往生を願う願生の信心を起こして念仏するものを往生させると誓われていて、何もしないものを救うとはいわれていません。信心を起こし念仏するという往生の因は自分で確立しなければ、どれほど強力な本願力の助縁があっても縁だけでは結果は出てきません。信じることと念仏をすることとは私が為さねばならない往生のための必須条件、すなわち因であって、人一人が貢任を持って確立すべき自力の行いです。もっとも煩悩具足の凡夫である私にできる自力は微弱なものです。しかし本願念仏の功徳はどの行よりも勝れていますし、それに強力な増上縁としての本願力が加わるから、報土に往生することができるのです。それを他力の救いというといわれていました。

 このような、弁長上人の教えを承けて、鎮西教学を大成された弟子の然阿良忠上人は、『決疑鈔』巻一(『浄土宗全書』七・二〇九頁)[2]に、次のようにいわれます。自力の因と、他力の縁とが和合して修行が成就し、往生、あるいは成仏の果を得るという「因縁果の道理」は、聖道門であれ浄土門であれ共通している仏法の法理である。ただ聖道門は、自力の要素が強く、他力の要素が弱いから自力の法門といい、浄土門は、自力の要素が弱く、他力の要素が強いから他力の法門と呼ぶことはあるが、自力ばかり、他力ばかりの教えは存在しないといわれています。

 こうした「自力と他力が相俟って救いが成立する」と考える鎮西派を始めとする多くの浄土門の学僧たちから、他力の信心、念仏を説く真宗の教えは仏法の道理に背く誤った教えであると厳しく批判されていました。もし往生の因である信心も念仏も如来から与えられたもので、因も縁も総べて他力であるというのならば、結局は弁阿上人が批判されたように、すでに皆救われているはずで、事実と相違することになる。それに信心は如来から与えられたものであるというのならば、一切の衆生に同時に与えられるはずであるから、みな同時に獲ていなければならないであろう。人によって信心を獲る時に前後の差があるというのは矛盾である。もしまた如来は同時に平等に回向されるが、受け取る衆生の宿善に厚薄の違いがあるから、獲信の時に遅速の差が出るというのならば、その宿善が熟するのは自力によるのか、それとも他力によるのか。もし宿善までも如来の他力によって熟せしめられるというならば、道理からいっても全分他力と同じ失に陥り、事実と異なるという過ちを犯すことになる。しかし、もし自力によって宿善が成就するというのならば、自力によって宿善を積み重ねることによって他力の信が起こるという矛盾が生ずる。要するに往生の因である信心も念仏も自力で起こすものであって、他力の信心、他力の念仏というようなものは存在しないということになるという疑難が絶えず突きつけられていました。

 それに対し、覚如上人は親鸞聖人が仰せられたように、第十八願の信心も念仏も如来の本願力によって回向された他力の法であると強調し、特に獲信の時に遅速のある道理を、阿弥陀仏の光明摂化を本体とした宿善論を導入することによって論証したのがこの第二章です。

 すなわち自己を憑む心が強くて、阿弥陀仏の本願他力の救いを受け容れず、迷妄の自心に惑わされて我執の巣窟に閉じこもっている凡夫は、空しく生死を流転し続けるばかりで、いつまでもたっても生死を解脱することはできません。こうした私どもを自力の巣窟から喚び覚まして、如来の大悲智慧の世界に引き入れるために阿弥陀仏は、機根に応じて権化方便の摂化を垂れて、徐々に教えを受け容れることのできる聞法者を育てられていることを宿善といわれたのです。

 それは未熟な機根に従い、順縁、逆縁さまざまな機縁に応じて、ある時は世間の善(世福)を、ある時は小乗の善(戒福)を、ある時は大乗の善(行福)をあたえ、さらには念仏に馴染ませるように、さまざまな法門を以て摂化されたことが諸経に説かれています。その内容は聖道門要門(第十九願・諸行往生)、真門(第二十願・自力念仏往生)に属する自力の諸善万行でした。しかし、その根源をいえば、阿弥陀仏が真如にかなって万行を円備された名号の徳の一分を調機誘引の自力の方便法として機根の程度に応じてあてがわれたものです。それゆえ本体は円融至徳の嘉号(名号)の一行ですが、宿善として未熟の機にあてがわれている当分(当相)は、千差万別の階層性をもってあてがわれています。したがって機根(理解能力)が熟していくのにも千差万別の遅速があるわけです。宿善が純熟(完全に成育する)し、聞法の器が成就する時節に千差万別の遅速が生じるのはその故です。

 しかし宿善の本体は、第十八願成就の名号の体徳であり、未熟の機のために宿善を設定して誘引される仏心の本体は大悲の智慧の光明そのものです。そして自力の善根を暫く与えて、未熟の機を他力の教えが受け容れられる純熟の機に成らせていかれる有様は、後に詳述するように『観経』で自力の機に「権仮の行法をもって、機の真実を顕す」(第一五章・本書二六五頁参照)という筆格と同じことでした。すなわち、自力に執着しているものに自力の行を実践させることによって、自身が自力に堪えられない愚者であることを信知させて、自力を捨てさせ、真実に導くという教導がなされていくのです。したがって、宿善が純熟して開ける信心は、自身は自力ではさとりをひらく手がかりさえもない愚悪の凡夫であると信知し、自力を離れて本願力にまかせきる二種深信で表されるような他力の信心でした。

 いいかえれば、阿弥陀仏が未熟の機のために設定された宿善とは、それによって賢善な人になって信心を起こさせるための行善ではなく、自身が自力に堪えられない極悪最下の愚者であることを気付かせて自力を捨てさせるための行善の勧めだったのです。そして自身の愚悪を知ることは、反対に阿弥陀仏の本願の真実を思い知らされることであり、その尊さを慕うように導いていくはたらきを持っているのが宿善のはたらきだったのです。こうして宿善の成就とは二種深信の機となることを意味していました。それは全く本願力の御はからいとして恵まれたことがわかりましょう。こうした宿善の構造を、先哲は「当相自力、体他力」と言い表してきたのです。

 ところで阿弥陀仏が未熟の機を育て導いていかれる宿善の本体を覚如上人は、阿弥陀仏の光明摂化のはたらきとして見ていかれますが、その根拠はすでに述べたように『往生礼讃』前序に示された「光明名号、摂化十方」の文でした。そこには諸仏に超え勝れた阿弥陀仏の摂化の特徴として「阿弥陀仏は光明と名号をもって、十方の一切の衆生を救い取ろうと働きつづけ、ひとすじに本願を信じて浄土を願うように働きかけられている。それによって衆生は、ただ疑いなく本願の名号を信受して阿弥陀仏を念じ、浄土を願うものにならしめられる」といわれていました。もともと本願成就の光明は、機に応じて、調育、破闇、摂取のはたらきをなされていますが、いま信前未熟の機に対しては宿善調育のはたらきを施されるというので、光明を宿善の本体とされたわけです。

善と悪の二つの行いについて

[現代語訳]

 親鸞聖人はこのように仰せられました。

 「私は往生のために、善を欲しいとも、また悪を恐ろしいとも全く思わない。善を欲しいと思わないのは、阿弥陀仏の本願を疑いなく受け容れる信心に勝る善はないからである。悪を恐れないのは、阿弥陀仏の本願の救いを妨げるような悪は存在しないからである。

 ところが世間の人はみな、善徳を具えていなければ、たとえ念仏をしていても往生はできまいとか、また、たとえ念仏しても、悪業が深く重ければ往生はできまいと思っている。しかしこのような考えは、どちらも大きな間違いである。

 もし思いのままに悪行をとどめ、思いのままに善徳を具えて生死の迷いを離れ、浄土に往生することができるのならば、あえて阿弥陀仏の本願を信じなくても何の不足もないはずである。しかし思いのままに悪をとどめ、善を行ずることができないから、悪行を恐れながらも悪をなし、善徳はあって欲しいと期待しながらも、得ることができないのが愚かな凡夫なのである。このようなあさましい貪欲瞋恚愚痴三毒煩悩を具えている悪人で、自分の力で生死の迷いを超え離れる道の断えているものを救い取るために、五劫ものあいだ思惟を重ねて建てられた本願であるから、必ずお救いいただけると疑いをまじえずに仏智のおんはからいを受け容れるに越したことはない。ところが善人が念仏していると、必ず往生するであろうと思い、悪人が念仏していると、往生できるかどうか疑わしく思う。そのために凡夫救済の本願のご計画を見失い、自分が悟りの手がかりさえもない悪人であることを知らないで終ってしまう。

そもそも凡夫をわけへだてなく救おうと思し召す平等の大慈悲に促されて建てられた特別の本願を因として、それに報いて完成された果徳としての阿弥陀仏は、本願の通りに一切の衆生をわけへだてなく救いたまう報身仏であり、浄土は本願を信ずるものを迎え取る本願成就の報土である。それゆえ自力を捨てて本願に身をゆだねるものは、人間や、天人(神々)などの凡夫であれ、声聞や縁覚といわれる小乗の聖者や、大乗の聖者である菩薩であれ、善悪・賢愚のへだてなく平等にさとりの領域である報土に往生せしめられる。

このように五乗(人・天・声聞・縁覚・菩薩)を平等に最高のさとりの領域に生れさせるような本願は、あらゆる仏陀たちが未だかつて発されたことのない超え勝れた不可思議の誓願である。その本願によって成就さ札た報土へは、大乗経典を読み、「一切は空である」という真理を理解できるような賢善な人であったとしても、生れつきの能力によつて獲得した善のカだけで生れることは決してできないのである。また悪行は、もともとすべての仏陀が嫌い捨てられたものであるから、悪を重ねたことを因として浄土を望むことは勿論ありえない。

 それゆえ生れつきの能力でなした善も悪も、報土に往生するための役にも立たず、邪魔にもな らないことはいうまでもない。だからこの善人・悪人の上に与えられている阿弥陀仏の智慧の現れである本願の名号をたよりとしなかったならば、どうして凡夫に浄土に生れるに足る徳があろうか。 だからこそ(善も欲しくない)悪も恐ろしくないといったのである」と仰せられました。

 こういうわけですから光明寺の善導大師は、「弘願というは、『大経』の説のごとし。一切の 善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁とせざるはなし」といわれました。 この文章の意味は、「弘願(一切の衆生をへだてなく包む広大な本願)というのは、『大無量寿経』に説かれているとおりである。善人であれ、悪人であれ、一切の凡夫が浄土に生れることができるのは、みな阿弥陀仏の大願業力(広大な本願の救済力)に身をまかせて、それを勝れた因縁(増上縁)としてたのみにしないものは無い」というのです。

 したがって、過去世において善を積み重ねたものは、この世においても善を好み悪を恐れるが、過去世で重い悪を造ってきたものは、この世でも悪を造ることを好み、善とは縁遠い生き方をするものです。ただ私どもは、この世で行う善悪の二つは、過去世で行った善悪の因の催すままにまかせてあげつらわず、往生という偉大な利益を得るのは、ひとえに本願他力によると如来にまかせるべきです。決して自分の心の善し悪しにとらわれて往生ができるかできないかの判定をしてはならない、というのです。

 こういうことから、あるとき聖人が、「そなたたち、念仏するよりもっとたやすく往生のできる道がある。それを伝授してあげよう」といい、「人を千人殺したならばわけなく往生ができる。みなこの教えに従ったらどうだ」と仰せられました。そのときある一人の弟子がいうには、「私の場合は、千人などおもいもよりません、一人たりとも殺害できるような心地は致しません」と申しました。

 聖人は重ねて仰せられました。「そなたは日頃から私の教えに背いたことがないから、いま私が教えたことについてもきっと疑いをさしはさんではいないだろうと思う。ところが、一人も殺害できるような心地がしないというのは、この世で人を殺すような種(因)を過去世で造っていなかったからである。もし過去世において人を殺すような種を蒔いていたならば、たとえ殺生の罪を犯してはならない、もし犯せば往生を遂げることができないそと誠めたとしても、過去の種(因)にもよおされて必ず殺人の罪を作るであろう。この世で行う善行も悪行も二つとも、宿因(過去世の因種)のうながしによる結果として現れたものである。こういうわけであるから、浄土に往生するということに関しては、本願力の働きだけに依ることであって、自分の造った善も助けにはならないし、悪も障りにはならないということは、これになぞらえて理解しなさい」と。

【講讃】

『口伝鈔』と『歎異抄』

 覚如上人がご往生されて十カ月ばかり後に、上人の次男、従覚上人が父を慕って著された『慕帰絵』という絵巻物があります。その第三巻(『真聖全三・七八○頁)に、覚如上人は十九歳のとき、常陸国(茨城県)から上洛してきた河和田の唯円房に遇い、真宗の教義、特に善悪二業についての親鸞聖人の考え方を聞きただし、味わいを深めたといわれています。正応元年(一二八八)の冬といいますから、恐らく聖人の御正忌(十一月二十八日)のことだったと思います。つまり覚如上人は、『歎異抄』の著者から、善悪二業について教えを受けておられたことになります。

 唯円房は翌年二月六日、大和国(奈良県)下市の立興寺で往生を遂げたという伝説がありますから、京都から下市付近に住んでいた門徒を訪ねて、そこで往生を遂げたのでしょう。したがって、大谷の御廟所を訪ねたときにはすでに『歎異抄』は著していたはずですし、覚如上人はそのとき『歎異抄』を譲られた可能性は高いといえましょう。実際、『口伝鈔』には至る所に『歎異抄』の影響と見られる法語が記されており、この第四章も『歎異抄』第一条の、

弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします。しかれば本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆゑに。悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なきゆゑにと云々 (『註釈版聖典』八三一頁)

という法語と、同じく第十三条の親鸞聖人と唯円房との対話をもとにして構成された法語であると いえましょう。

 私どもは、自分の知性と意志と行動によって、自己や社会をより善いものにするために力の限りつくさねばなりません。しかし海面上に出ている氷山が全体の二、三割でしかなく、大部分は海面下に隠れているように、自分に解っている自分はほんの一部分であって、その奥には自分の意識も知性の光も届かない深く隠れた部分があるのも事実です。実際、人生は思いがけないことの連続であって、まるで濁流に押し流されるように生きています。何が出てくるか知れないし、また何が出てきても不思議ではないといわざるをえない、不気味な深淵を自分の奥に抱えています。それを『歎異抄』では、「業縁」とか「宿業」と呼び『口伝鈔』では「宿因」といわれていました。

 しかしまたそこには、不気味な自己の全体を見捨てたまうことなく、あたたかく包みとる阿弥陀如来の大悲の本願のましますことが同時に告げられていました。それは善悪・賢愚を超えて、一切の衆生をわけへだてなく包摂する不可思議な慈悲の活動でした。人間の意識の表面をかするような浅薄な救いではなく、底なしの煩悩を抱えたものを、そっくりそのまま包んで安住の場を与えるような、広大無辺な活動でした。すでに救いが私どもの善も悪も完全に超えた不可思議の働きであるとすれば、そこには私どものはからいを差しはさむ余地は全くありません。救いを呼びかけたまう如来の本願のみ言葉を「まこと」と受け容れる信心の開けるときに救いは成立します。それゆえ親鸞聖人は「ただ信心を要とす」といわれたのでした。

宿業について

 ところで、『歎異抄』と『口伝鈔』を比較しますと、同じ事をいわれているのですが、緊迫感が全く違います。また表現にも少なからぬ違いのあることが気になります。まず親鸞聖人と唯円房の問答ですが、『歎異抄』第十三条では、聖人が唯円房に、「唯円房はわがいふことをば信ずるか」(『同』八四二頁)といわれたので、「さん候ふ」と答えますと、「さらば、いはんことたがふまじきか」と、たたみかけるようにいわれています。そして唯円房がつつしんで承諾したとき聖人は、「たとへば、ひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべし」と仰せられました。そこで唯円房が、「仰せにては侯へども、一人もこの身の器量にては、ころしつべしともおぼえず侯ふ」と返事をしますと、「さては、いかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞ」と鋭く彼に迫っていかれました。これだけの前提があって初めてこの間答は、人間は自分の思いのままに振る舞えるような単純な存在ではなく、自分で自分をどうすることもできないような底知れぬ深みを持っていることを思い知らすことができたのです。

 そこで「これにてしるべし。なにごともこころにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども、一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこころのよくてころさぬにはあらず。また害せじとおもふとも、百人・千人をころすこともあるべし」といわれた言葉が重い響きを持ってくるのです。
このように見てくると、これは明らかに聖人と唯円房との一対一の対話の流れの中の一節で、先行する対話は省かれていますが、決して不特定多数の人に語られたものではないことがわかります。ところが『口伝鈔』は、幾人かの門弟にいわれたことになっているために、この法語の持つ緊迫感が失われています。

 ここでいわれた「業縁」という言葉は、人間の意識もとどかず、知性も意志も努力も及ばない、自己自身の存在の深層領域を表現されたものです。それをまた、「さるぺき業縁」とも「宿業」ともいわれています。「さるべき業縁」とは、自分をそのような状態にあらしめている知られざる因縁ということであり、「宿業」とは、今の自分には知りようもない不気味な力の促しに自分が押し流されていることの辛さと、しかもそれを我が事として引き受けなければならないことの不条理をいい表した言葉でした。『口伝鈔』ではそれを「宿因」といわれていますが、いずれにせよこのような言葉で表されている状況は、決して人間には理解できない自身の深層領域であって、それはただ仏のみがしろしめす煩悩具足の凡夫の深部であるというべきでしょう。親鸞聖人はそのことを『歎異抄』では、

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ (『同』八五三頁)

ともいわれていました。阿弥陀仏(法蔵菩薩)が、五劫ものあいだ思惟を重ねなけ札ば救いの道を見出すことができなかったほど、「それほどの業」を持っている身であることを「宿業」といい、「さるべき業縁」といわれたのです。それは善導大師が機の深信の内容として表現された、自身には成仏の手がかりさえもないという状況を表す言葉だったのです。それゆえ『歎異抄』は、続いて 「善導の「自身はこれ現に罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた、つねにしづみ、つねに流転して、出離の縁あることなき身としれ」(散善義)といふ金言に、すこしもたがはせおはしまさず」(『同』八五三頁)といい、磯の深信に合されていたのです。

 このような「さるべき業縁」とか、「宿業」という言葉が表す領域は、通常の論理で説明しようとするとかえって誤解を招くおそれがあります。たとえば『口伝鈔』に過去の世の善悪業の因(宿因)の報いとして、今生(いまの世)の善悪業が生起するといわれたものがそれです。

『ロ伝鈔』の宿因について

『口伝鈔』には、「されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。(中略)善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり (『同』八七八頁) といわれていますが、ここにはいくつかの間題があります。まず宿善ということですが、第二章に述べられた宿善とは言葉は同じですが内容は違っています。第二章では、信心を得る善き因縁としての宿善で、その本体は阿弥陀仏の光明のもつ調育の働きでした。しかしここでいわれる宿善は、宿悪に対する言葉で、今生で善をなし得る素質に生れるか悪をなすような素質をもって生れるかの違いを、前世の善悪業によって説明しようとしたものでした。前者は信心獲得の機に育て上げる如来の働きを表そうとする宿善であり、後者は凡夫が行う善悪の行為についての説明ですから、両者は別物といわねばなりません。

 つぎに「善悪のふたつ、宿因のはからひとして現果を感ずるところなり」といわれていることが問題です。今生において行う善悪の行為(業)が、すべて過去世の善悪の行為の結果として必然的に現れて来たものならば、過去世の善悪の行為もまたその前世の行為の結果になり、どこまで遡っていっても、行為の主体を捉えることができなくなります。行為とは、自らの自由な意思によって決断して為す行いのことであって、それゆえにその行為の責任は行為者がもつことになります。 そのような自己が行為の主体なのです。ところが私が行う善行も悪行も、自分の自由な意思によって決断したことではなくて、過去世に行った善・悪の行為の結果であるとすれば、その行為のまことの主体は現在の私ではなくなり、過去へ過去へとさかのぼり、私は私の行為に対して全く責任を負う必要がなくなります。

 さらにまた悪を行うものは限りなく悪を行いつづけ、善を行うものは限りなく善を行いつづけることになり、悪を転換して善をなすということがなくなり、世俗の倫理も仏道修行も成立しなくなってしまいます。したがってこの論理は仏教がもっとも嫌う決定論・運命論に陥ってしまいます。

 一般に仏教ではそのような過ちを犯さないために、善もしくは悪の行為は因であって決して果ではなく、それに報いて成立する果は、もしくはであって善でも悪でもない「無記」であるといっています。無記とは善とも悪とも記せられない中性的な性質の行いのことです。このように善・悪は、楽もしくは苦なる果報を招く因の名であって、果報の名称ではありません。果報は必ず苦・楽という無記の性質をもっていますから、苦なる状況の中でも善を行うことができるし、楽の中で悪を行うこともできるわけです。こうして苦の現状を転じて楽の果報を招来するためには善を行えという教えが成立し得るのです。

覚如上人は、若年のころから倶舎や唯識といった仏教の基礎理論を学び、廃悪修善の修行の基礎となる業報論を知り尽しておられました。それにもかかわらず、このような論理を展開されたのは、恐らく、本願のみ教えによって、自分では決して処理しきれない自身の罪障を信知し、自力の修行では手のつけようもない自己の内奥を表現するために、あえてこのような論理を用いられたのではないでしょうか。『口伝鈔』の業報論は、機の深信の内容を説明するためのものであって、通常の倫理観や、修行理論を述べたものではなかったと見るべきでしょう

なお、輪廻転生論に立った善悪業報の理論そのものも検討しなければならない多くの課題をもっていることに注意しておかねばなりません。

開出三身章のこころ

[現代語訳]

一、浄土真宗で報身如来であるといっている阿弥陀如来は、聖道門の諸宗で語っているような法身・報身・応身の三身が、そこから開き出されるような意義をもった如来であるということについて。

 阿弥陀如来を報身の如来であると論定することは、自宗・他宗を問わず古来から言い古された議論です。ですから、天台の荊渓大師湛然も「諸々の教えのなかで、最も多くほめたたえられているのは阿弥陀仏である」とも述べられていますし、檀那院覚運和尚は、「阿弥陀仏が久遠実成の仏(真実の意味では久遠の昔にすでに成仏された仏)であるということは、諸経に説かれていることと永く異なっている」と釈顕されています。

 それだけではありません。わが日本の先哲のことは暫くさしおくとして、浄土宗の祖師(中国唐朝の善導大師)の『法事讃』には次のようにお釈しになっています。「上は最初の仏である海徳如来から、下は今日の釈迦如来に至るまで、次々と出現されたすべての仏陀は、みな弘誓に乗じて、慈悲(利他)と智慧(自利)の二利行をならべ行って仏になられた」と説かれています。 これによって、海徳仏から私どもの本師であらせられる釈尊に至るまで、次々とこの世に出現してこられた諸仏は、みな阿弥陀仏の弘誓に乗託(まかせる)して自利と利他の徳を完成して仏になられたということはまことに明らかです。覚運和尚は、「釈尊も、その本地をいえば、久遠の昔に正覚を成就された阿弥陀仏である」と顕されていますから、それと今の善導大師のご解釈とをあわせてみますと、最初の仏である海徳仏以来のすべての仏陀たちも、みな久遠の昔に正覚を成就された阿弥陀弘の化身であることは、道理からいっても文証からいっても必ずそうであるといわねばなりません。「この疏を写そうとする人は、一字一句といえども勝手に加えたり、減らしたりしてはならない。経典を写すときとおなじような心がけで写しなさい」と述べておられる光明寺善導大師の今の『法事讃』の釈文は、ひとえに仏陀の経典に準ずるような意味をもっていますから、浄土の教えの正依経(正しき依り所である浄土三部経)と同じに見なすべきです。

 また傍依の経典(聖道門の教えを説く傍らに方便として浄土の教え説き明かした経典)の中にも、そのことを証明する文が多く説かれています。『楞伽経』には、「十方の諸国の衆生や菩薩の中に現れたまう法身・報身・化身及び変化身は、みな無量寿仏の極楽界中より出現された」と説かれています。また『般舟三昧経』には「過去・現在・未来の三世の諸仏は、阿弥陀仏を念ずる三昧によって正覚を成就された」とも説かれています。これによって一切の諸仏が、自利利他の願行を完成して成仏されることも、また仏陀となったうえで、機縁に応じて、報・応・化とさまざまに分身し、巧みな手段を設けて衆生を教化していかれることも、すべて阿弥陀如来を主(本師・本仏)とされていることはまことに明らかなことです。

 これによって、久遠実成の阿弥陀仏を報身如来の本体と決定し、法身・報身・応身の三身を具足して十方世界に出現されている諸仏は、総てこの久遠実成の報身如来が、さまざまな機縁に応じて示現された垂迹の仏身・すなわち阿弥陀仏の化身であるということを知るべきです。 こういうわけですから、報身という名称は久遠実成の阿弥陀仏にこそ付けるべき名目であって、生滅を越えた常住不変の法身というのも、久遠実成の報身仏の実智(無分別智)を指しているのですから、その実体をいえば久遠実成の報身如来の外にありません。総じていえば、諸経に通じて説かれている法身・報身・応身の三身は、久遠実成の阿弥陀仏が、浅薄な理解能力しか持たないものに応じて暫く仮に開き顕されたはたらきであります。

 ですから、浄土の教えを、聖道門の自力の難行に堪えられない下劣なものを救うために、如来の出世の本意ではないけれども、修行しやすい行であるという点を取り柄として、この浄土教の念仏三昧をさまざまな人に与えて勧められていると、人々はみな考えているようですが、それは大きな誤りです。

 大勢至菩薩の化身であらせられる源空聖人より、親鸞聖人・如信上人と代々相伝してきた正しい法義はそのようなものではありません。 この世に初めて現れた海徳仏より、今日の釈尊に至るまでのすべての仏陀たちのご説法のなかでも、その出世の本意とするところは、久遠実成の阿弥陀仏の救済を説くことにあったのです。すなわち、久遠実成の阿弥仏の領域を知らせるために、そこから法蔵菩薩が出現し、本願を成就して、一切の衆生を救済する阿弥陀仏という正覚者となられたという浄土の教法が説き起されたことを根元として、そのいわれを衆生に説いて救済することを、一切の諸仏は決まった教化の道筋と定められているのです。しかしそのような浄土の教法を聞き受けるところまで、機(衆生)の理解能力が育っていなかったために、暫く仮に釈尊のご在世中にいた、自力成仏を求める未熟の機を導くための権化方便の教として、華厳時、阿含時、方等時、般若時、法華・涅槃時という自力聖道の五時の教えをお説きになったと知るべきです。それは例えば、月見の宴で、月が出るのを待っている間の「手なぐさみ」程度の教説であったというべきです。

 いわゆる「浄土三部経」が説かれた時(とその法義)についていうと、まず最初に説かれた『大無量寿経』は、第十八願に誓われている他力真実の法を説き表されたものですが、それを聞いておられる聴衆は、還相の菩薩であって、仏が仮に菩薩の姿を現して聴聞されているのですから、説法の対機は権機(権化の人)です。

 次に説かれた『観無量寿経』は、救済の目当てとなっている機の真実のありさまを顕し示したものです。これをすなわち実機といいます。仏が救済の目当てとされている者のまことの姿だからです。従来は、いわゆる五つの障りがあって仏になることは出来ないといわれていた女性の韋提希夫人を救済の目当てとすることによって、釈尊在世のころより遠くへだたった末法の世にあって苦しみ悩んでいる女性や、悪業を積んで皆から見放されているようなものも、阿弥陀仏の本願はわけへだてなく平等に救うということを知らせるための経なのです。

 最後に説かれた『阿弥陀経』は、先に説かれた法の真実を顕す『大経』と、機の真実を顕す『観経』という二経の法義をあわせて説かれています。すなわち「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」(『註釈版聖典』一二四頁)といって、『観経』に説かれたような、自力の定善や散善という権仮方便の行法は、少善根にすぎないから報土には往生できないと誠め、五濁悪世の凡夫のために、『大経』に説かれた本願の名号を、あるいは一日、あるいは七日、数の多少を問わず称えるばかりで、報土に往生できるという大きな利益を得させる、無上の功徳を具えた真実の法を勧められています。さらに『阿弥陀経』は、このように本願の名号(真実の法)によって五濁悪世の凡夫(実機)が救われると説かれた釈尊の教えが真実であることを、無量の諸仏が、讃嘆し証明されるという諸仏の証誠を説き顕されています。 このように機法を合説して諸仏が証誠されるところに『阿弥陀経』の特徴があります。これによって光明寺の善導大師は、「世尊、法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ」(『註釈版聖典七祖篇』五七六頁)とお釈しになったのです。すなわち法座に敷いた筵を巻き上げて法座が終了するように、釈尊はご一代にわたるご説法の終りには、『阿弥陀経』を説いて、ご一代の教えの肝要は、阿弥陀仏の本願の名号を説くことにあったことを知らせ、名号を付属して、広く遠く後の世までも伝えようとされたことは、この経文の上に明らかに見ることができます。

 釈尊を始め一切の諸仏が、この浄土三部経の法義を、末法濁世の罪深き凡夫に説き聞かせて救うことをご本意とされており、聖道門の自力の諸教は、浄土三部経を説くための序分としての意味しか持っていないことは、善導大師の『観経疏』「序分義」の化前序の釈など、諸処に明らかに示されています。こういうわけですから、諸仏は浄土の法門を説くことをこの世に出現されたご本意とし、これこそ衆生が生死を解脱する本源であると見なされていたことは明らかです。

 それだけではなく聖道門の諸宗で、釈尊がこの世に出現された根本意趣を示された経として認めている『法華経』と、今の浄土の経典とは、同時に説かれたものですから、同じ醍醐味といわれる最高の教えなのです。『法華経』は釈尊の最晩年の八カ年中に説かれたものといわれていますが、その同じ時期に王舎城の中で皇太子の阿闍世が、父の頻婆娑羅王を牢獄に閉じこめて殺害し、母の韋提希夫人を牢獄に監禁するという五逆の罪を起す事件が発生しました。このとき釈尊は韋提希夫人を救うため、出家の聖者に説法されていた霊鷲山での法座を中止し、霊鷲山から姿を消して王宮に降臨され、世俗の凡夫に本願他力の教えを説かれたからです。

 これらはみな、海徳如来から今日の釈迦如来に至るまでのすべての仏陀たちの出世の本意が、阿弥陀仏のみ教え一つを説くことを根本とされていることの大筋を示したものです。



一念と多念

原文 →「一念と多念

[現代語訳]

一、往生は一念で十分であると知った上で、一生涯にわたって多念の称名を励むべきであるということ。

 このことについて、たしかに多念も一念も、共に本願の文言です。いわゆる、善導大師が「上は一形(一生涯)を尽し、下は一念に至るまで」などと釈されたものがそれです。しかしこの場合、「下は一念に至るまで」といわれたのは、本願を聞いて疑いなく受け容れ(た時であり、同時に)、往生が決定した時をさしています。それに対して、「上は一形(一生涯)を尽し」といわれたのは、信の一念即時に往生を得ることが定まった上の、仏恩報謝の行いを意味しています。このように理解すべきことは、経文の上にも、善導大師の釈文の上にも明らかに示されていることであるのに、一念も多念もどちらも浄土に往生する正因であるように誤った解釈をする者がいるが、それは経釈のご文の真意に大変異なっていると言わねばならないでしょう。ですから、幾たびも先達から承り伝えてきたとおりに、「信心が初めて起った時(一念)、即時に往生を得ることに決定する」と他力の信心を心得定め、その時に「いのち」の終らない人は、「いのち」の続く限り称名念仏をすべきです。このように心得ることが「上は一形を尽して称名せよ」と言われた善導大師の釈文にかなつた理解なのです。

 しかるに世間の人は、一生涯称える多念の念仏も往生の正因であって、浄土真宗の本意であると常識的に考え、一念というのは、多念の称名ができない者のために、本意ではないが事のついでに説き与えられたもののように心得ているようです。これはすでに阿弥陀仏の本願に相違し、釈尊の教説にも背いています。そのわけは如来の大悲は、極めて短命な者を障りなく救うことを根本とされているからです。もし多念の念仏を往生の因とするというような本願をお立てになったならば、一瞬の後に死が迫っているような迅速な無常にさらされている者は、どうして本願のお救いに遇うことができましょうか。そういうわけですから、浄土真宗の肝要は、本願を信ずる一念(時)に往生が定まるという宗義を根源としております。

 そのわけは、第十八願成就の文には、「その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。かの国に生れん願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」(『註釈版聖典四一頁)と 説かれており、同じく『大経』の流通分には、「それかの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」(『同』八一頁)といって、一念往生の法義を弥勒菩薩に付属されているからです。それだけではなく、善導大師の『往生礼讃』には、この経文のこころを釈して「その時聞きて一念せんに、みなまさにかしこに生ずることを得べし」(『註釈版聖典七祖篇』六七六頁)などといわれています。これらの文はみな、次の瞬間の「いのち」が保証できない無常の「いのち」をもちまえとしている者の救いを本意としているから、信の一念をもって往生が決定する時剋と定め、その後「いのち」が延びるならば、本願力の自ずからなる御はたらきによって、多念の称名が相続していくという道理を明らかにされた証文です。それゆえ、平生に信心が起った一念の時に往生は決定し、多念の称名は、その上の仏恩報謝の営みであるということは、文証といい、道理といい、まことに明らかです。

 もし多念を往生の因とするような本願をお立てになったとしますと、往生が決まるという多念の極まりはどの時と定めたらいいのでしょうか。もし「いのち」が終る最後の時とするならば、凡夫にとって死の縁はまちまちであって、火に焼かれて死ぬかも知れませんし、水に流されて死ぬかも知れません。あるいはまた刀剣に突かれ切られて死ぬこともあり、眠っている間に死んでしまうかも知れません。これらはみな過去の業因縁の催しであって、逃れるすべはありません。ところがもしこのような業縁に催されて、死んでいく者が、今が多念の終りの時であるぞと思い、かねてから期待してきた通りに、たじろぐことなく、改めて心を静め、「南無阿弥陀仏」と十遍称えて、如来の来迎引接に預かることは極めてむつかしく、行者としては、たといかねてから思いめぐらせていたことであったとしても、阿弥陀仏の第十九願のはたらきから言って、必ず来迎されるかどうかは大変不確かなことです。

 ですから第十九願の文にも「現其人前者(その人の前に現れる)」の上に「仮令不与」などの言葉が置かれています。「仮令」とは「たとい」と訓読すべき言葉です。「たとい」とは「あらまし」ということで、「大体のところ」「おおよそ」という曖昧さを表しています。阿弥陀仏が、往生の行としては選び捨てられた非本願の諸行を修行して浄土に往生したいと願う行者を、阿弥陀仏の大慈大悲は見放したまわずに、行者が、その諸行の中の一つとして行じていた自力念仏を評価し、それを根拠として、もし来迎に値するならばその人の前に現れてやろうといわれているのです。必ず来迎するとは決まっていませんから「仮令」の二字を置かれたのです。 「もしもそういうこと(来迎に値すること)がありうるならば」という意味を表しているのです。

 まず多念の行者は来迎が不定であるという結果を招いた過失の大部分は、自力企てによって第十八願に背き、仏智に違反していることです。自力の企てというのは、凡夫が我を立ててはからうことで、それを過ちとして嫌うのです。次にもう一つは、先に言った多くの悪因縁が輪廻をくりかえす内に知らず知らず身に具わってしまっていることです。けれども他力の仏智(本願力)のはたらきは、(善導大師が)「諸邪業繋無能礙者(諸邪業繋もよく礙ふるものなし)」(『註釈版聖典七祖篇』四三七頁)といわれているように、どんな邪悪な罪業であっても妨げるものはありません。その本願力にまかさずに、往生をわがはからいで決めていこうとすれば、はからいは凡夫の迷心ですから、遠い過去から身に具えているさまざまな悪業の因縁が、自力の往生を妨げないはずがありません。

 だから、多念の功を積んで、臨終には正念に住して、来迎をたのむ自力往生の企てには、このようなどうしようもない多くの困難があります。

 ですから『白氏文集』の言葉にも、「千里は足の下より起り、高山は微塵にはじまる」といわれています。一念は多念のはじまりであり、多念は一念の積み重ねです。共に相離れないものですが、その顕すところの法義に違いがあります。一念をおもてとし多念を裏とする場合と、一念を裏として多念を表とする場合とによって、表す法義が異なります。それを世間の人々は混同して誤解しているのではないでしょうか。いま言わんとするこころは、「その本体は仏智であり、無上の功徳である信心が初めて発った時、即座に凡夫の往生が定まると一念の信心を往生の正因と定め、一生涯にわたって本願力に心をかけて名号を称えつづけることを仏恩報謝の営みとする」と伝えるものです。

[講讃]

(一)一念多念の争い

一念義と多念義

 今回は『口伝紗』の第二十一条の本文を読み進める前提として、「一念多念の論争」の概略を述べたいと思います。

 法然聖人の在世中から滅後にかけて争われた法然門下最大の教学論争に、一念多念の争いがありました。『古今著聞集』巻二(『日本古典文学大系』八四 一〇二頁)に、「後鳥羽院、聖覚法印に一念多念の義を尋ね給ふ事」として、

後鳥羽院、聖覚法印参上したりけるに、近来専修の輩、一念多念とて、たてわけてあらそふなるは、いづれか正とすべき、と御尋ありければ、行をば多念にとり、信をば一念にとるべきなりとそ申侍ける

と記載されているように、上皇が関心をもたれるほど話題になっていたことがわかります。なおこの法印の言葉は、法然聖人が、一念多念の執着を離れさせるために禅勝房に示されたお言葉と同意であって、原文には「信をば一念にむまるととりて、行をば一形はげむべし」(『和語灯録』四、『真聖全』四・六三三頁)といわれています。如来が大悲をこめて選択された本願の念仏は、私の往生を決定する徳をもった正定業ですから、わずか一声の念仏であっても必ず往生できると信じて、「いのち」の尽きるまで念仏を称え続けなさいと言われた言葉です。

 法然聖人の滅後も、その門下の心ある人々は、本願の救いを忘れて、一念か多念かと、称えた念仏の数の多少を問題にして争っていることの愚かさを嘆き、隆寛律師(一一四八ー一二二七)は『一念多念分別事』(『註釈版聖典』一三七一頁)を著し、聖覚法印(一一六七ー一二三五)も『唯信紗』の中で(『同』一三五四頁)、一念多念の偏執を誠められています。親鸞聖人も「御消息」の中で一念多念の争いといった不毛の論争をしてはならないとしばしば誠められましたが(『同』七七五頁など)、特に『一念多念文意』を著して一念多念のまことの意味を詳しく教示されています。

 それにしても一念多念の争いがはげしかったことにくらべて、一念義と多念義の実態は必ずしも明確ではありません。その詳細は、拙著『一念多念文意講讃』で記しましたが、両者の特徴だけを簡単に紹介しておきます。

 まず称名(行)の一念には決定往生の徳があるといい、もしくは本願の念仏を往生の業と疑いなく信受した時(信の一念)に往生が決定するというのは正しい領解です。しかし一念で往生が定まるのだからそれ以上念仏を称える必要はないと言ったり、称名を相続している人を自力の行者と呼んで嘲笑するような説を一念義の異義と呼びます。ただし実際には、一念を重んじて多念を軽視することはあっても、称名を否定するようなものは特別の邪義を除いては存在しなかったようです。ただ一念義系の人は安心門に立って、廃立を強調し、聖道を捨てて浄土に帰し、諸行を捨てて念仏の一行に帰し、多念を捨てて一念を往生の因と信じよと主張しましたから、必然的に過激化し、在来の宗教的権威と厳しく対立するようになりました。すなわち神祇信仰を廃し、戒律をはじめとする聖道門の修行体系を雑行として捨てるべきことを強調し、鎮護国家の祈祷を否定しましたから、当時の社会習慣を無視し、社会の秩序を乱す不逞の輩として激しく非難され、しばしば弾圧を受けるに至ったのでした。その主張は過激ではありましたが、誤っていたわけではありません。
もっとも、一念義の中には、一念で往生が定まるのであるから、どのような罪悪も往生の障りにならないというので、「悪はおもふさまにふるまふべし」(『親鸞聖人御消息』、『註釈版聖典』八〇〇頁)と言って人倫を乱す造悪無擬の邪義を説く者もいたことは事実です。

 多念義とは、起行門を重視し、念仏を数多く称える多念の称名を実践することによって、往生を確実ならしめようとする教説でした。確かに称名は本願において選択された正定の業因ですから、阿弥陀仏の本願を信ずるものは、如来の仰せの通りに生涯称名を相続しなければならないというのは、称名正定業説の正しい理解です。しかし、臨終まで退転することなく称え続け、臨終には心を静めて正念に住し、阿弥陀仏の来迎を感得することができた時に初めて往生の業因が成就するという臨終業成説と結合したとき、多念義という異義が生れてくるのです。このような多念義の行者は、戒律を守り、善行を勧め、聖道門の修行形態と類似した厳粛主義の生活様式を守り一日に何万遍も称える日課念仏を行い、また日時を決めて行う別時念仏を勧め、臨終には特別の臨終行儀を行うなど、従来の浄土教の伝統に沿っていましたから、それほどの異和感もなく旧仏教側にも抵抗なく受け容れられたのでした。しかし必然的に聖道門化していきました。

一念多念の多様性

 古来、一念義、多念義といわれている人でも、必ずしも異義でない者もいました。たとえば幸西大徳(一一六三ー一二四七) の説は一念義には違いありませんが、一念とは仏智と相応する信智冥合の当体に名づけたもので、その信心が念々相続する姿が起行としての称名であるといっていますから多念の称名を決して否定していません。だから幸西は称名を否定した一念義であるというのは間違いです。隆寛律師は多念義の祖のように言われていますが、『一念多念分別事』(『註釈版聖典』一三七一頁)や、律師の法語といわれる『後世物語聞書』(『同』一三五九頁) などを見る限り、一念多念のとらわれをはなれた非一非多の他力念仏を勧めています。また一念とか多念という名目(教義概念)の内容も実にさまざまであって決して一様ではありません。多念という言葉が念仏を数多く称えることであるというのは一致していますが、それの教義的な意味づけは人によって違っています。特に一念について、法然聖人の場合は、『大経』に説かれている三カ所(成就、下輩、付属)の「乃至一念」を総べて行の一念(一声の称名)のこととみなし、信とは称名を正定業として選択された本願を疑いなく信受することで、行の一念に対して、特別の意義を顕す信の一念というような解釈はされていませんでした。

 しかし親鸞聖人は、『大経』の三処の一念の中、下輩の一念は真実を表す場合と方便の法義を表す場合とがありますので省略し、真実の法義を表す本願成就文の一念と付属の一念とについて詳細な註釈を施されたのでした。そして第十八願成就文(『同』四一頁) の一念は信の一念を顕しており、付属の一念は行の一念を顕されているとみなされたのです。『教行証文類』では、信の一念について、「一念とはこれ信楽開発の時剋の極促を顕す」といわれているように、本願の名号を信ずる心が発った「最初の時」を表すという時剋の一念釈(『同』二五○頁)を施されていました。それを「行文類」六字釈に示された「即得往生」の「即」の字釈とを合わせますと、信心が起こった最初の時は、また正定聚不退転の位に就き定まる信益同時の時でもあることを顕していました。言い替えれば受法と得益が同時に成立する時を定めるのが「信の一念」の時剋釈でした。

 さらにまたその信が「二心のない信」であるという法義を顕すために「一念」といわれたという信相の一念釈(『同』二五一頁)を施されていました。これによって、本願を疑いなく受け容れる無疑の信心が起った時、即座に仏因が円満して往生が決定するという法義を顕していかれたのでした。
信心が発ったときに往生成仏が決定するということを親鸞聖人は、「現生正定聚」といい、覚如上人は「平生業成」といわれたことはしばしば述べたとおりです。

 また『大経』の付属の「乃至一念」(『同』八一頁)は、法然聖人がいわれたように行の一念を表しているとし、一念とは称名の一声を指していました。その一声には「すなはちこれ無上の功徳を具足するなり」と経に説かれているように、無上の功徳を具えているという、行の徳の絶対性を表す遍数(へんじゅ)の釈が行われていました。それによって聖人は、本願の念仏は「一乗真実の利益」を一切の衆生に恵み与える一乗無上の法であるという法の徳を顕していかれたのでした。さらにまた行の「一念」には「専一に称念する」という意味を含んでいるから、行の一念には「一行」という意味が具わっており、「一行」を専修することを一念といわれたとする行相の釈が施されています。これは明らかに信の一念に信相釈を施されたのと対望した解釈でした。要するに念仏一行を専修せよと誓われた選択本願の念仏は、無上の功徳を具した、一乗無上の行法であるから、決定往生の正定業であるということを付属の「乃至一念」という教説のなかに読み取られたのが「行文類」の「行一念釈」(『註釈版聖典』一八七頁)だったのです。そしてこのような選択本願の行信は一心を以て一行を専修するという信相、行相として表されるといわれたのでした。

ところが、行の一念、もしくは信の一念で往生が定まると偏執する「行一念義」と「信一念義」とがありました。そして行の一念で往生が決定するのだから多念の称名ば不用であるとか、信の一念に往生が定まるから、多念の称名をはげむものは自力疑心の行者であるといって、称名を否定する者がでてきたわけです。そればかりか、もはや往生は定まっているのだから、好き勝手に生きればいいのだといい、煩悩具足の凡夫を救うと仰せられる本願を、自分の悪行の隠れ蓑に使い、我欲にまかせて反社会的な言動をする者まで出現して世間の顰蹙を買ったことは周知の通りです。

 なお一念は往生の因が決定する時を表し、その一念が一生涯相続する多念の称名は、本体をいえば無上の功徳を持った正定業であるが、称えている者の思いからいえば、往生を決定してくださって有り難うございますとお礼を申している仏恩報謝の営みであると報恩の念仏を主張する人がいました。そのことはすでに古本『漢語灯録』十(『法然全』五五四頁)「基親信を取りて本願を信ずるの様」と標した書状の中には、称名報恩説を唱えたのは幸西であると「注記」されています。もっとも『西方指南抄』* 所収本にはその註記はありません。また現存する幸西大徳の書物で確認することはできません。なお親鸞聖人が書写された『西方指南抄』下本(『真聖全』四・二一○頁)に収録されている「三機分別」(『同』一六三頁)には称名は報恩の行として励むようにと説かれています。なお親鸞聖人もこれから申し上げる「正信偈」の龍樹章の文や、『親鸞聖人御消息』の中では称名が報恩になるといわれていました。そのほかに、一念以後の称名は、念仏の行者が仏恩報謝のために、十方の衆生に回向する利他行であると主張する人もあったことが、教忍房宛の「御消息」(『註釈版聖典』八〇五頁)に見えています。なお一念多念についての詳細は、拙著『一念多念文意講讃』をご参照ください。

親鸞聖人の『一念多念文意』

 親鸞聖人は晩年に『一念多念文意』を著されましたが、そこには、まず「一念をひがごととおもふまじき事」(『註釈版聖典』六七七頁)といって、本願を信じる一念に往生が決定するという一念の教説のまことであることを証明し、特に信一念の救いを強調されていました。しかし次いで、「多念をひがごととおもふまじき事」(『同』六八六頁) といって多念の教説のまことであることを明らかにされています。そして、一念(信心)も多念(称名)も第十八願の内容であるから、一念に執着して多念をおろそかにしたり、多念にとらわれて一念をおろそかにしてはならないと誠め、最後に結んで、

 これにて、一念多念のあらそひあるまじきことは、おしはからせたまふべし。浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし、これにてしらせたまふべし  (『同』六九四頁)

といわれています。

 ここに「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まつたく一念往生・多念往生と申すことなし」といわれたのは、法然聖人のこころを正確に承けた言葉でした。『選択集』本願章(『註釈版聖典七祖篇』一二一四頁)には第十八願に「乃至十念(すなわち十念に至るまで)」と誓われているのは、一念・十念といった数の多少を間わない他力の念仏であることを知らせるためであるから、この願を「念仏往生の願」と名づけたといわれていました。すなわち第十八願を他の諸師のように「十念往生の願」といえば、本願の念仏は十声に限定してしまうことになり、一念では往生ができず、また十声以上は称えなくてもよいことになります。それでは「乃至十念」と、数を限定せずに誓われた本願のこころが覆い隠されてしまいます。そこで法然聖人は、本願の念仏は「乃至」という数を根定しない言葉を付けることによって、短命の者はたった一声でも必ず往生できる無上の功徳を持っているし、長命の者は生涯称え続けるように、一念多念を超えた他力の念仏を選択されたのであるといい、そのことを知らせるためにあえて「念仏往生の願」と名づけたといわれていました。

 こうして法然聖人が言われた「念仏往生」とは、一念多念といった、称えた数を問題にせず機の方に目をつけず、ただ大悲の本願力にまかせて「いのち」の限り念仏を申して浄土を期する念仏だったのです。ですから一念にとらわれて多念を否定したり、多念にとらわれて一念を否定したりするような争いなど起り得ないのが「念仏往生」の法義だったわけです。それを親鸞聖人はさらに意味を広げて、一念の信も、多念の称名も、本願力回向の南無阿弥陀仏が私の心に届き口に現れ出ている姿なのですから、ただ仰せのままに、本願を信じて念仏し、「一念か多念かと二者択一を迫るような不毛の論争をやめよ」と誠められたのが、「浄土真宗のならひには、念仏往生と申すなり、まったく一念往生・多念往生と申すことなし」という言葉でした。

 如来より賜った本願力回向の信であり行であることを忘れるから、一念か多念かという自分の上の出来事にとらわれて是非の争いが起るわけです。その意味で一念義も多念義も共に自分の手元ばかりを見て、如来の本願力を見失っている人といわねばなりません。

(二)信因称報説の確立

覚如上人の信因称報説

 善導大師は、本願に「乃至十念 (すなわち十念に至るまで)」と誓われていたのを、「上尽一形、下至十念 (上は一形〈一生涯〉を尽し、下は十念に至るまで)」と言い換えられていました。それは、本願に「乃至十念」と誓われている称名は、十声 (十念) に限定されたものではなく、わずか十声、あるいは一声 (一念) であっても無上の功徳をもった決定往生の行であり、確実に往生ができる業因であることを表すためでした。

 もともと「乃至十念」の乃至は一多の数量を定めないという「一多不定」を表す言葉でしたが、数量を限定しないということには、本願の念仏には二つの方向性が示されていることを表しています。すなわち従少向多 (少より多に向かう) の方向を表していると見れば、「いのち」のつづく限り念仏を相続するようにと「念仏の相続」を勧める仰せになります。しかし反対に従多向少 (多より少に向かう) の方向を表しているとみれば、念仏はわずか十声でも、わずか一声でも無上の徳をもっていて、決定往生の業因となるという「往生の業因(正定業)」を的示する意味を表していました。すなわち善導大師が、「上尽一形 (上は一形を尽くすまで)」といわれた場合は念仏の多念相続を強調する法義を表しており、「下至一念 (下は一念に至るまで)」といわれた場合は、一声の念仏で往生は可能であるという「業因」を的示する法義を表していました。

 ところで覚如上人は、親鸞聖人の「信文類」の釈によって、善導大師の「下至一念」を「信の一念」と見なし、本願を疑いなく聞き受ける信心が初めて () 起った時 () のことであり、そのときに往生は決定するという、平生業成の時剋を表す釈文であるとみなされたのでした。そして「上尽一形」というのは生涯相続する仏恩報謝の称名を示されているといわれるのでした。

 したがって最初に挙げた「一念にてたりぬとしりて、多念をはげむべし」という文は、称名の一念 (一声) と多念 (多声) についていったのでもなく、まして一念 (信) も多念 (行) もともに往生の正因であるといわれたものでもない、信の一念は往生の正因を表し、多念の称名は報恩の営みであるという領解を示されたものであると心得なければならないといわれるのです。もともと第十八願には、「至心信楽 欲生我国 (至心信楽してわが国に生ぜんと欲ひて)」(『註釈版聖典』一八頁) と往生の信心が誓われ、続いて「乃至十念 (すなわち十念に至るまで)」と称名行が誓われているように、生涯にわたって相続する称名は、信心に催されて現れ出てくる行でした。そのように「乃至十念」が信心から流れ出たとすれば、「乃至十念」の淵源をいえば信心に帰します。それゆえ覚如上人は、善導大師が「下至一念」といわれた「下至」の極限は、一声の称名もそこから現れてくる信の一念、すなわち選択本願を疑いなく受け容れた最初の時 (受法の初際) を指していると見るべきであると領解されたわけです。その信は念仏往生の本願を疑いなく聞き受け容れた心ですから、「念仏申さんとおもひたつこころ」でもありました。『歎異抄』第一条に、「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのおこるとき、すなはち摂取不捨の利益にあづけしめたまふなり」(『註釈版聖典』八三一頁)といわれている「念仏申さんとおもひたつこころ」だったのです。

念仏はこの信心に催されて口に現れ出てくるのですから、「下至」の極限の一念は、一声の念仏が出る前の信の一念であると見られたのです。

 こうして覚如上人は、まず第一に、第十八願の信心と称名が、私どもの上に生起する場合には時間的に前後して起ると見られていたことがわかります。すなわち、まず本願の名号を疑いなく信受する信心が起った時に、摂取不捨の利益にあずかり、往生成仏すべき身に定まります。それゆえ信心の起った時を正因決定の時としなければなりません。往生成仏することに決定しているのですから、その一念の信は、臨終まで初後一貫して相続します。また「念仏申さんとおもひたつこころ」でもありますから信者は信心に催されて称名をするようになります。しかしすでに往生の正因は決定した後ですから、称名して往生の因を積もうという思いはなく、信心を与えて往生を決定してくださった仏徳を讃仰し、仏恩を感謝する報恩の営みと領解すべきです。信心も称名もともに本願に誓われている事柄ですから、如来より与えられた本願力回向の信と行ですが、領受した機 (人) の側で言えば正因と報恩との違いがあるのです。このように臨終を待たず、信心が起った時、即座に往生の業因が決定し、成就することを臨終業成に対して平生業成といわれたのです。

 第二には、従来は称名に一念 (一声) と多念 (多声) を分別していました。しかし覚如上人は、一念とは本願の「乃至 (下至) 十念」が、究極まで捉(ちぢ)まった信の一念を指すと確定し、称名はすべて信心が口業に現れて相続しているすがたとされました。そうなると称名は最初の一声であっても、信心が起った後の第二念と見なし、称名は一声であれ多声であれすべて多念相続の相とされました。

『口伝抄』には、信の一念の証文として第十八願成就文と並んで、『大経』流通分の弥勒付属の文が挙げられるのはそのゆえです(『註釈版聖典』九一一頁)。しかし付属の文の「乃至一念」は、法然聖人だけではなく、親鸞聖人もまた行の一念 (一声の称名) として法の徳を顕すとみなされていました。にもかかわらず信の一念の証文とされたのは、付属の文に「かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん」(『註釈版聖典』八一頁) といわれたのを、成就文の「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん」(『同』四一頁)といわれた文と同じく機受を顕すと見られたからですが、その根底には、「乃至一念」といえば、多念の促まった信の、一念を表しているとみなすべきであるという覚如上人の信念があったからです[3]。こうして私どもが本願を領受するすがた (機受の相) は、信前行後の次第で現れ、信は一念、行は多念相続、信心は正因、称名は報恩と領解すべきであるという宗義を明確にされたのでした。[4]

信因称報説の理論的根拠

 覚如上人は信心正因称名報恩説の理論的根拠として二つの理由を挙げられています。一つは、一切の衆生を平等に救うために立てられた大悲の本願は、至極短命の者を漏らさず救うことを本意とされているからです。『口伝鈔』に、

そのゆゑは如来の大悲、短命の根機を本としたまへり。もし多念をもつて本願とせば、いのち一刹那につづまる無常迅速の機いかでか本願に乗ずべきや。されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす (『同』九一〇頁)

といわれたものがそれです。「そのわけは如来の大悲は、極めて短命な者を障りなく救うことを根本とされているからです。もし多念の念仏を往生の因とするというような本願をお立てになったならば、一瞬の後に死が迫っているような迅速な無常にさらされている者は、どうして本願のお救いに遇うことができましょうか。そういうわけですから、浄土真宗の肝要は、本願を信ずる一念(最初の時)に往生が定まるという宗義を根源としております」というのです。たとえば臨終に阿弥陀仏の功徳を「聞き終って、即座に罪を滅して往生した」(『同』一一五頁) といわれる『観無量寿経』の下品中生の機(人)のような、至極短命の者は、本願を聞いて信受しただけで、一声の称名をするいとまもなく死を迎えます。もし一声でも称えなければ往生できないというのならば、このような者は救われないことになります。それでは、どのような状況に置かれている者であっても救い取ろうと願われた如来の大悲は満たされないことになります。したがって、すべての者を漏らさずに救うことを本意として成就された阿弥陀仏大悲本願信心の起る一念に救いが成就する法義でなければならないというのです。

 第二は、もし多念の念仏を往生の因とする多念義が本願であるならば、必然的に臨終業成説になります。しかし臨終まで念仏を絶やすことなく称え続け、心を静めて正念に住し仏の来迎を感得するということは、現実には極めて困難な道です。「凡夫に死の縁まちまちなり。火に焼けても死し、水にながれても死し、乃至、刀剣にあたりても死し、ねぶりのうちにも死せん。これみな先業の所感、さらにのがるべからず」(『註釈版聖典』九一一頁) といわれているように、死の縁は無量であって、どのような死に方をするかを自分で選ぶことはできないからです。それを必ず臨終正念に住し、心静かに来迎の仏を感得しなければ往生できないとすれば、大多数の人は往生の望みを絶たねばなりません。またたとえ臨終に十念念仏をしたとしても、それが自力のはからいによって称えている私の行いとしての念仏である限り、自分の身に具わったさまざまな邪悪な業縁が往生を妨げますので、如来の来迎を感得できるかどうか極めて不定です。ですから、第十九願に自力の行者の臨終来迎を誓われる場合には、

寿終る時に臨んで、たとひ大衆と囲続してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ (『同』一八頁)

といい、その実現が不確かであることを表す「たとい (仮令)」という言葉が加えられているといわれるのです。こうして阿弥陀仏は臨終来迎を期する多念往生を否定して、聞信の一念に往生が決定する平生業成の救いを誓われたというのです。

親鸞聖人の信心正因説

親鸞聖人が如来回向の信心を往生成仏の因とされたことは、『教行証文類』や『三帖和讃』を始め、至る所に表されており、聖人の教えの中核でした。聖人が信心を正因とされた理由の一つは、如来より回向された信心には、如来の智慧と慈悲の徳が円満していて、よく往生成仏の正因となるからです。その徳をまた願作仏心 (智慧の徳)、度衆生心 (慈悲の徳)という大菩提心として示されることもありました(『同』二五二頁)。

 信心の徳は、『教行証文類』「信文類」の三心釈の、特に法義釈(『同』二三一頁)で詳しく展開されていました。すなわち第十八願に至心、信楽、欲生と誓われている本願の三心は、もともと智慧と慈悲が円かに満ちた如来の心が私どもに与えられたものであるから、その領受の相である信楽 (一心) には、如来の智慧と慈悲の徳が具わっていて「かならず報土の正定の因となる」(『同』二三五頁)と言われていました。すなわち至心の本体は如来の清浄真実な智慧心であり、欲生の本体は如来の大悲回向の心であって、その智慧と慈悲をもって、一切の衆生を必ず救い取ると決定して少しの疑いもない如来の決定摂取心が信楽の本体であると見られていました。その如来の「必ず救い取る」という信楽が言葉となって私どもに聞えているのが、本願の名号ですから、名号は「本願招喚の勅命」(『同』一七〇頁)であるともいわれるのでした。

 私どもが本願の名号を聞くということは、この如来の「必ず救い取る」という本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞いていることであり、その心相は仰せを受け容れて「必ずお救いにあずかる」と信受していることを言うのですから、如来の勅命、すなわち如来の信楽が、私の信楽(信心)になっていることがわかります。それを如来よりたまわった信心というのです。こうして信心 (信楽 )が与えられたということは如来の智慧と慈悲が与えられていることを意味していました。すでに信心の本体は仏心であり、よく煩悩具足の凡夫を成仏させる徳を持っていますから信心を往生成仏の正因というのです。[5]

  信心が往生成仏の正因であるということのもう一つの理由は.すでに述べたように如来回向の (本願の名号) が、衆生に受け容れられ私の往生の正因となってくださる時は、疑いをまじえずに名号を聞き受ける信心が起った時であって、称名した時ではないからです。そのことを明らかに説き示されているのが、「大経』の第十八願成就文でした。そこには、

あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向したまへり。
かの国に生れんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん (『註釈版聖典』四一頁)

と説かれていました。この文章を親鸞聖人は、「衆生は、如来が至心に回向してくださった、本願の名号を疑いなく聞き受けた時 (信の一念) に、即時に往生すべき身に定まり、不退転の位に安住する」と説かれた文であると領解されたのでした。

 そしてその一念を釈して「一念とはこれ信楽開発の時剋(じこく)の極促を顕し、広大難思の慶心を彰すなり」(『同』二五〇頁) といわれていました。「一念とは本願を疑いなく聞き受ける信楽 (信心) が、私どもの心に開け起る時間の最初の時を顕しており、その時に起っている信心は、思議を超えた広大な仏徳を頂戴して慶ぶ心である」というのです。これを信一念の時剋釈と呼んでいます。ここでは「一念」とは「時剋の極促」をいうといわれていますから、一念の「一」とは最初ということであり、「念」は時間のことと見られたのでした。要するに信の一念とは、本願を疑いなく聞き受ける信心が私の心に初めて () 開けた時 () を言うのです。しかもその時(即時)に、「往生を得、不退転に住せん」といわれる利益を得るのですが、親鸞聖人は、それは現生で不退転に住する利益であり、現生において仏になることに決定している正定聚に入ることであるといわれていました。すなわち「行文類」の六字釈には、第十八願成就文の「即得往生」の「即」を釈して、「即の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促を光閨するなり」(*) といわれていました。これによって聖人が、信一念をまた往生成仏の正因決定のとみなされていたことがわかります。成就文の信の一念は、名号を聞いて信心が開け起こる聞信同時の時であると同時に、往生が決定する信益同時の時でもあるという極めて豊饒な一念であったことがわかります。

覚如上人が信心正因称名報恩とを前後一組の法義として強調される時には、特にこの成就文の、信一念の時剋釈を論拠の中心に置かれていました。それゆえここには第十八願成就文によって、

されば真宗の肝要、一念往生をもつて淵源とす。そのゆゑは願成就の文には、「聞其名号 信心歓喜、乃至一念、願生彼国、即得往生、住不退転」と説き、 (『同』九一一頁)

等といって第十八願成就文を挙げられており、その他、『最要鈔』(『真聖全』三・五〇頁)、『本願章〔鈔?〕』(『同』五〇〔四?〕頁)等に、第十八願文よりもむしろその成就文を主として引用し、信心正因説を証明されていました。

 こうして本願の名号が私の上に与えられた最初は信心が開けた時であり、そのときに往生の正因が決定します。その名号が称名となって現れるのは正因決定後ですから、それは正因として称えるのではなくて仏徳を讃嘆し報恩謝徳の営みとして相続されていくと決定されたのでした。このように第十八願をその成就文を中心に、本願の名号というを疑いなく聞き受けている機 (衆生) の側から領解することによって信心正因称名報恩(信因称報)説を確立していかれたのが覚如上人だったのです。

親鸞聖人の称名報恩説

阿弥陀仏の本願力に身をゆだねお救いにあずかった者には、如来に護られている安心感 (安堵心) とともに、私どもをお救いくださる広大な仏徳を讃嘆し、ご恩を喜び感謝する心が恵まれますから、『教行証文類』「信文類」には、信心の利益として「知恩報徳の益」(『註釈版聖典』二五一頁)が挙げられていました。その信心からわき起ってくる称名に、報恩感謝の思いがあることは当然です。それゆえ「正信偈」には、

弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即の時必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり (『同』二○五頁)

と讃嘆されたのです。この「正信偈」の文こそ、明確に信心正因称名報恩の宗義が示されていましたから、覚如上人は、『口伝妙』だけではなく、『最要鈔』(『真聖全』三・五一頁)、『本願章(鈔?)』(『同』三・五六頁)等に引用して信因称報説を裏付けられていました。さらに親鸞聖人の「鏡の御影」を覚如上人が修復された時、この「正信偈」の四句を銘文として選定し、直筆を以て書かれています(*)。これは、この四句の偈が、聖人のご本意を表しているということを顕すと同時に、その教義を領解する時の基本的な枠組みとしなければならないことを知らせるためであったと考えられます。

 そのほか親鸞聖人は、『浄土和讃』「讃阿弥陀仏偈讃」には、「信心すでにえんひとは つねに仏恩報ずべし」(『註釈版聖典』五六五頁)といわれていましたし、『親鸞聖人御消息』にも、

わが身の往生一定とおぼしめさんひとは、仏の御恩をおぼしめさんに、御報恩のために御念仏こころにいれて申して、世のなか安穏なれ、仏法ひろまれとおぼしめすべしとそ、おぼえ候ふ (『註釈版聖典』七八四頁)

といわれていました。また『口伝妙』第十六条(『同』九〇二頁)には、覚信房の臨終の故事を引いて明らかにされたように、親鸞聖人の直弟子たちもそのような領解をもっていました。そのほか『歎異抄』第十四条(『同』八四五頁)や第十六条(『同』八四八頁)にも同じ意味のことが述べられていました。

 しかし親鸞聖人や直弟子の間では、念仏往生 (念仏成仏) の領解も当然のこととして行われていました。『親鸞聖人御消息』に、

 弥陀の本願と申すは、名号をとなへんものをば極楽へ迎へんと誓はせたまひたるを、ふかく信じてとなふるがめでたきことにて候ふなり (『同』七八五頁)

といわれているものはその典型でした。いわば聖人や直弟子の著作には、たとえば『歎異抄』第二条のように、「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり」(『同』八三二頁)という念仏往生の教説と、

第十四条に、「一念発起するとき金剛の信心をたまはりぬれば、すでに定聚の位にをさめしめたまひて、(中略) 一生のあひだ申すところの念仏は、みなことごとく如来大悲の恩を報じ、徳を謝すとおもふべきなり」(『同』八四五頁)といわれるような信心正因、称名報恩の教説が並存していました。それを信心正因、称名報恩説こそ親鸞聖人の法義の特色であるとして、それに統一しようとされたのが覚如上人だったのです。『改邪紗』に、信因称報説を挙げ、

それ本願の三信心といふは、至心・信楽・欲生これなり。まさしく願成就したまふには、「聞其名号信心歓喜 乃至一念」(大経・下)と等説けり。この文について凡夫往生の得否は乃至一念発起の時分なり。このとき願力をもつて往生決得すといふは、すなはち摂取不捨のときなり。(中略)しかれば祖師聖人(親鸞)御相承弘通の一流の肝要これにあり。ここをしらざるをもつて他門とし、これをしれるをもつて御門弟のしるしとす。そのほかかならずしも外相において一向専修行者のしるしをあらはすべきゆゑなし。 (『註釈版聖典』九三五頁)

といい、信心正因称名報恩の宗義を知るか知らないかによって、当流と他門とが分かれるといわれていました。この信因称報説を中心に「聖人一流の御勧化のおもむき」を全国に伝道していかれるのが、やがて本願寺に出現される蓮如上人だったのです。

念仏往生説と信心正因・称名報恩説

信心正因と、念仏往生 (念仏成仏) とは決して矛盾する法義ではありません。本願力回向の行信として、行は南無阿弥陀仏というの徳を顕しており、信はそれを疑いなく受け容れる衆生 (機) の受けごころを示していますから、行信相俟って、浄土真宗の法義の根幹を成していました。

 もともと念仏往生とは、極悪最下の衆生 (機) に、極善最上の法を与えて救おうとする阿弥陀仏の大悲本願の必然として恵まれた本願力回向の法を顕す法門でした。すなわち如来はその智慧と慈悲の功徳のすべてを名号に込めて往生成仏の業因になるように選択し、回向されたのでした。

それゆえ「本願の名号は正定の業なり」(『註釈版聖典』二〇三頁)といわれたのです。その本願の名号を疑いなく信受して、はからいなく称えているのが第十八願の称名ですから、そなわっている徳をいえば正定業にちがいありません。それを称名正定業とも、念仏往生ともいわれるのでした。このように念仏往生とは如来より回向されている本願の名号という法のもつ無上の徳を顕す法門であって、往生が決定する時を指定する法門ではありませんでした。親鸞聖人が「行文類」に、行一念の遍数釈(『同』一八七頁)を施し、称名は一声に無量の功徳を具足している最勝の行であり至極の易行であるから、万人を平等に救う一乗無上の行法であると、法の徳の絶対性を顕揚されたのはそのゆえでした。

 それに引き替え、「信文類」では信一念の時剋釈を施し、往生の定まる時刻を指定されていました。信心は、名号という法を疑いなく聞き受ける衆生 (機) の領受の心相を顕すのを主としていたからです。一切の衆生の往生を決定せしめる業因は、智慧慈悲が円かに満ちた名号ですが、一人一人の往生が定まるのは、その名号を一人一人が疑いなく信受した時です。その機の往生の決定する時 (正因決定の時) を示すのが信の一念でした。このように念仏往生は、行法の徳の超絶性を顕す法門であり、信心正因は、法を受け容れている機の上で往生が定まる時がいつであるかを顕す法門だったのです。もし名号を受け容れて称えている人 (機受) の側から言えば、念仏は正因決定後の営みであって、お救いくださった仏徳を讃嘆し、仏恩を報謝するほかにはありません。そのように信と行とを機の上で前後して起るものとして語る場合に信心正因、称名報恩といわれるのです。



  1. 此事極僻也 其故 云他力者全馮他力一分無自力事 道理不可然 云雖無自力善根依他力得往生者 一切凡夫之輩于今不可留穢土皆悉可往生淨土
  2. 自力他力者自三學力名爲自力 (自力・他力とは、自らの三學の力を名づけて自力となす。) 佛本願力名爲他力也 (仏の本願力を名づけて他力となすなり。) 問 聖道修行亦請佛加 淨土欣求 行自三業 (問う、聖道の修行もまた佛加を請う。浄土の欣求も自らの三業を行ず。) 而偏名意如何 (これをひとえに名ずく意はいかん。) 答 聖道行人 先行三學 爲成此行而請加力 故屬自力 (答う。聖道の行人は、まず三學を行ず。この行を成ぜんが為に加力を請う。ゆえに自力に属す。) 淨土行人 先信佛力 爲順佛願而行念佛 故屬他力也 (淨土の行人は、まず佛力を信じ佛願に順ぜんが為に念仏を行ず。ゆえに他力に属すなり。) 自強他弱 他強自弱 思之可知 (自は強く他は弱しと、他は強し自は弱きと、これを思いて知るべし。)
  3. この覚如上人の信念が、後世に蓮如上人の「信心正因・称名報恩」を強調した教化を通して本願寺派の宗義の大綱をあらわす語となった。覚如上人は、当時居住していた所に近い鎮西派の知恩院の多念の称名に対抗するために「」を強調されたのであろう。また、蓮如上人は当時隆盛であった時宗の、ひたすら南無阿弥陀仏を唱える人々に単称無信の称名ではなく信心を強調された。そして、称名は信を裡に含んだ称名であるとして、信心を獲たうえでのその上の称名は御恩報謝である教示されたのであった。
  4. 覚如上人は、自らの領解によって「信因称恩説」を強調された。そして、『正信念仏偈』の「龍樹讃」にある「憶念弥陀仏本願」という信心に親しい文と「応報大悲弘誓恩」という念仏報恩を示す語を用いることによって「信心正因 称名報恩」の義意を顕そうとされた。その為に「鏡のご影」の讃銘を書き換えられたのであろう。→「鏡のご影」
  5. 仏心であるような信心は、わたくしの上にあるけれども私のものでは無いのである。これを『歎異抄』の著者は「如来よりたまはりたる信心なり」といわれていた。この仏心であるような信心を私有化することを越前の門徒は「大きな信心十六ぺん、ちょこちょこ安心数知れず」と揶揄していたものである。『一念多念証文』では「きくといふは、本顧をききて疑ふこころなきを聞といふなり。またきくといふは、信心をあらはす御のりなり」と「疑ふこころなき」の、無いことを信心をあらわす意味とされておられた。浄土真宗の「信」とは、疑わない心(不疑心)があるのではなく、わたしの意業の無いことを「信」というのであった。わたしの上にあるのは「本願招喚の勅命」があるだけなのであった。これを先人は「勅命のほかに領解なし」と言われたのである。なんまんだぶ