「十住毘婆沙論 (七祖)」の版間の差分
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
細 |
細 |
||
296行目: | 296行目: | ||
<span id="no38"></span> | <span id="no38"></span> | ||
【38】<br> | 【38】<br> | ||
− | 『浄土論』[[浄土論 (七祖)#P | + | 『浄土論』[[浄土論 (七祖)#P--29|(二九)]]にいはく、 |
「世尊、われ一心に、尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ[[修多羅]]の真実功徳相によりて、[[願偈総持を説きて]]、仏教と相応せり」と。{文 } | 「世尊、われ一心に、尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ[[修多羅]]の真実功徳相によりて、[[願偈総持を説きて]]、仏教と相応せり」と。{文 } |
2012年12月23日 (日) 00:47時点における版
上下2巻に分れているところから、『二巻鈔』とも称される。上巻は、仏教全体のなかでの浄土真実の教えの意義を、親鸞聖人独自の教相判釈によって示し、下巻は、とくに善導大師の『観経疏』の「三心釈」について、その内容が整理されている。
本書の成立は、古写本の奥書によって、いちおう聖人晩年の撰述と考えられるが、その内容から、法然上人のもとでの研鑽期における覚書を後に整理されたものとする説もあり、確定しがたい。聖人自身の解釈や説明は少なく、ほとんど項目だけが列挙されているようにみえるが、構想そのものには、聖人の独自の発揮がある。
上巻の教判は「二双四重」と呼ばれ、仏教を大乗・小乗、頓教・漸教、難行・易行、聖道・浄土、権教・実教等と分類した従来の説をうけながら、あらたに竪超・横超、竪出・横出という二双四重の対立概念で仏教を区分し、本願他力の教えこそ、「横超の一乗真実の教」である旨を示される。また、上巻の前半では教法が、後半ではその教法を受ける機が分類されている。
下巻では、善導大師の「三心釈」を引いて、三心の真仮と、行業の真仮分別等が詳細に示されている。また「二河の譬喩」をめぐって、詳細な解釈が施されている。
愚禿鈔 (上)
愚禿鈔 上
【1】
賢者の信を聞きて、 愚禿が心を顕す。
賢者の信は、 内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、 内は愚にして外は賢なり。
【2】
聖道・浄土の教について、二教あり。
- 一には大乗の教、 二には小乗の教なり。
【3】
大乗教について、二教あり。
【4】
頓教について、また二教・二超あり。
【5】
漸教について、また二教・二出あり。
- 二教とは、
- 二出とは、
- 一には竪出 聖道、歴劫修行の証なり。
- 二には横出 浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
【6】
小乗教について、二教あり。
【7】
ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。
【8】
『大経』に、選択に三種あり。
【9】
『観経』に、選択に二種あり。
- 1釈迦如来
- 選択功徳 選択摂取
- 選択讃嘆 選択護念
- 選択阿難付属
- 2韋提夫人
- 選択浄土 選択浄土の機
【10】
『小経』に、勧信に二、証成に二、護念に二、讃嘆に二、難易に二あり。
- 勧信に二とは、
- 証成に二とは、
- 一には功徳証成、 二には往生証成なり。
- 護念に二とは、
- 一には執持護念、 釈迦の護念なり。
- 二には発願護念、 諸仏の護念なり。
- 讃嘆に二とは、
- 一には釈迦讃嘆に二あり。 二には諸仏讃嘆に二あり。
- 難易に二とは、
- 一には難は疑情なり。 二には易は信心なり。
- 執持に三あり。已今当なり。 発願に三あり。已今当なり。
【11】
『法事讃』に三往生あり。
- 一には、難思議往生は、[『大経』の宗なり。]
- 二には、双樹林下往生は、[『観経』の宗なり。]
- 三には、難思往生は、[『弥陀経』の宗なり。]
【12】
『大経』(意)にのたまはく、「本願を証成したまふに、三身まします」
と。
- 法身の証成 [『経』(大経・上)にのたまはく、
- 「空中にして讃じてのたまはく、〈決定してかならず無上正覚を成じたまふべし〉」と。文]
- 報身の証成 [十方如来なり。]
- 化身の証成 [世饒王仏なり。]
【13】
仏土について二種あり。
- 一には仏、 二には土なり。
【14】
仏について四種あり。
- 一には法身、 二には報身、
- 三には応身、 四には化身なり。
【15】
法身について二種あり。
- 一には法性法身、 二には方便法身なり。
【16】
報身について三種あり。
- 一には弥陀、 二には釈迦、
- 三には十方なり。
【17】
応・化について三種あり。
- 一には弥陀、 二には釈迦、
- 三には十方なり。
【18】
土について四種あり。
- 一には法身の土、 二には報身の土、
- 三には応身の土、 四には化身の土なり。
【19】
報土について三種あり。
- 一には弥陀、 二には釈迦、
- 三には十方なり。
【20】
弥陀の化土について二種あり。
- 一には疑城胎宮、 二には懈慢辺地なり。
【21】
本願一乗は、頓極・頓速・円融・円満の教なれば、絶対不二の教、一実真如の道なりと、知るべし。専がなかの専なり、頓がなかの頓なり、真のなかの真なり、円のなかの円なり。一乗一実は大誓願海なり。第一希有の行なり。
【22】
金剛の真心は、無礙の信海なりと、知るべし。
【23】
『疏』(玄義分 二九八)にいはく、「われ菩薩蔵頓教と一乗海とによる」と。
【24】
『讃』(般舟讃 七一八)にいはく、「『瓔珞経』のなかには漸教を説く。万劫、功を修して不退を証す。『観経』・『弥陀経』等の説は、すなはちこれ頓教菩提蔵となり」と。{文 }
【25】
円頓とは、[円は円融・円満に名づく。頓は頓極・頓速に名づく。]
【26】
二教対
【27】
真実浄信心は、[内因なり。] 摂取不捨は、[外縁なり。]
【28】
本願を信受するは、前念命終なり。[「すなはち正定聚の数に入る」(論註・上意)と。文]
即得往生は、後念即生なり。[「即の時必定に入る」(易行品 一六)と。文
- また「必定の菩薩と名づくるなり」(地相品・意)と。文]
【29】
他力金剛心なりと、知るべし。
すなはち弥勒菩薩に同じ。自力金剛心なりと、知るべし。『大経』(下)には「次如弥勒」とのたまへり。文
【30】
二機対
【31】
また二種の機について、また二種の性あり。
- 二機とは、
- 一には善機、 二には悪機なり。
- 二性とは、
- 一には善性、 二には悪性なり。
【32】
また善機について二種あり。また傍正あり。
【33】
また傍正ありとは、
- 一には菩薩、[大小]] 二には縁覚、
- 三には声聞・辟支等、[浄土の傍機なり。]
- 四には天、 五には人等なり。[浄土の正機なり。]
【34】
また善性について五種あり。
- 一には善性、 二には正性、
- 三には実性、 四には是性、
- 五には真性なり。
【35】
また悪機について七種あり。
【36】
また悪性について五種あり。
- 一には悪性、 二には邪性、
- 三には虚性、 四には非性、
- 五には偽性なり。
【37】
光明寺の和尚(善導)のいはく(玄義分 二九七)、「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。弥陀界に観入して、帰依し合掌し礼したてまつれ。相応一念の後、果、涅槃を得んひ
と」といへり。{文 }
【38】
『浄土論』(二九)にいはく、
「世尊、われ一心に、尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。われ修多羅の真実功徳相によりて、願偈総持を説きて、仏教と相応せり」と。{文 }
【39】
『仏説無量寿経』(下)にのたまはく、[康僧鎧三蔵訳]
「〈わが滅度の後をもつて、また疑惑を生ずることを得ることなかれ。当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲哀愍をもつて、特に此の経を留めて止住すること百歳せん。それ衆生ありて、この経に値ふもの、意の所願に随ひてみな得度すべし〉と。仏、弥勒に語りたまはく、〈如来の興世、値ひがたく見たてまつりがたし。諸仏の経道、得がたく聞きがたし。菩薩の勝法、諸波羅蜜、聞くを得ることまた難し。善知識に遇ひ、法を聞き、よく行ずること、これまた難しとす。もしこの経を聞きて信楽し受持すること、難のなかの難、この難に過ぎたるはなけん。このゆゑにわが法かくのごとくなしき、かくのごとく説き、かくのごとく教ふ。まさに信順して法のごとく修行すべし〉」と。{文 }
【40】
『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志三蔵訳]
「如来の勝智、遍虚空の所説の義言は、ただ仏のみの悟なり。このゆゑに博く諸智土を聞きて、わが教、如実の言を信ずべし」と。{文 }
【41】
『無量清浄平等覚経』(二)にのたまはく、[帛延三蔵訳]
「速疾に超えてすなはち、安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無 数の仏に供養したてまつれ」と。{文 }
【42】
『諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(下)にのたまはく、[支謙三蔵訳]
「われ般泥洹して去きて後、経道留止せんこと千歳せん。千歳の後、経道断絶せん。われみな慈哀して、ことにこの経法を留めて止住せんこと百歳せん。百歳のうちに竟らん。いまし休止し断絶せん。心の所願にありてみな道を得べし」と。{略出}
【43】
元照律師『阿弥陀経の義疏』にいはく、[大智律師なり]
「〈勢至章〉にいはく、〈十方の如来、衆生を憐念したまふこと、母の子を憶ふがごとし〉と。『大論』(大智度論)にいはく、〈たとへば魚母のもし子を念はざれば、子すなはち壊爛する等のごとし〉と。阿耨多羅、ここには無上と翻ず、三藐は正等といふ、三菩提は正覚といふ。すなはち仏果の号なり。
薄地の凡夫、業惑に纏縛せられて五道に流転せること百千万劫なり。たちまちに浄土を聞きて、志願して生を求む。一日名を称すればすなはちかの国に超ゆ。
諸仏護念してただちに菩提に趣かしむ。謂ふべし、万劫にも逢ひがたし。千生に一たび誓に遇へり。今日より未来を終尽すとも、在処にして讃揚し、多方にして勧誘せん。所感の身土・所化の機縁、阿弥陀と等しくして異あることなけん。この心極まりなし、ただ仏、証知したまへ。このゆゑに下に三たび信を勧む。わが語を信ずるものは、教を信ずといふなり。わが十方諸仏を信ぜざるがごとしと、あに虚妄なるをや」と。{略出}
建長七年乙卯八月二十七日これを書く。
[愚禿親鸞八十三歳]
愚禿鈔 下
愚禿鈔 下
【44】
賢者の信を聞きて、 愚禿が心を顕す。
賢者の信は、 内は賢にして外は愚なり。
愚禿が心は、 内は愚にして外は賢なり。
【45】
唐朝の光明寺の和尚(善導)の『観経義』(散善義)にいはく、「まづ上品上生の位のなかについて、{乃至} 一には〈仏告阿難〉より以下は、すなはちならべて二の意を標す。一には告命を明かす。
二にはその位を弁定することを明かす。これすなはち大乗の上善を修学する凡夫人なり。
三には〈若有衆生〉より下〈即便往生〉に至るまでこのかたは、まさしく総じて有生の類を挙ぐることを明かす。すなはちそれに四あり。一には能信の人を明かす。二には往生を求願することを明かす。三には発心の多少を明かす。四には得生の益を明かす。四には〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定してもつて正因となすことを明かす。すなはち二あり。
一には世尊、機に随ひて益を顕すこと、意密にして知りがたし。仏みづから問ひてみづから徴したまふにあらざれば、解を得るに由なきことを明かす。二には如来、還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。
『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。一切衆生、身口意業に修するところの解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐ければなり。貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善となす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。もしかくのごとき安心・起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時、急に走め急になすこと、頭燃を灸ふがごとくするは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひし時、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のなかになしたまひしによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なりと。
また真実に二種あり。一には自利真実、二には利他真実なり」と。{文 }
【46】
利他真実について、また二種あり。
- 一には、「おほよそ施したまふところ趣求をなすは、またみな真実なり」と。
- 二には、「不善の三業は、かならず真実心のなかに捨てたまひしを須ゐよ。
- またもし善の三業を起さば、かならず真実心のなかになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく」と。{文}
【47】
「自利真実といふは、また二種あり。一には、真実心のなかに自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に〈一切菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくせん〉と想へとなり。二には、真実心のなかに自他凡聖等の善を勤修すべしと。真実心のなかの口業に、かの阿弥陀仏および依正二報を讃嘆すべし。また真実心のなかの口業に、三界六道等の自他の依正二報、苦悪の事を毀厭し、また一切衆生三業所為の善を讃嘆すべし。もし善業にあらずは、敬ひてこれを遠ざかれ、また随喜せざれとなり。また真実心
のなかの身業に、合掌し礼敬して、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養したてまつれ。また真実心のなかの身業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨すべし。また真実心のなかの意業に、かの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目の前に現ぜるがごとくすべし。また真実心のなかの意業に、この生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨すべし」となり。{文 }
【48】
「一には至誠心」といふは、至とは真なり、誠とは実なり。すなはち真実なり。真実に二種あり。
歴劫修行なり
- 二には利他真実なり。
- 易行道 浄土門
- 横超 [如来の誓願他力なり。] 横出 他力のなかの自力なり。定散諸行なり。
【49】
自利真実について、また二種あり。
- 一には厭離真実なり。
- 聖道門 難行道
- 竪出 自力
- 竪出とは難行道の教なり、厭離をもつて本とす、自力の心なるがゆゑなり。
- 二には欣求真実なり。
- 浄土門 易行道
- 横出 他力
- 横出とは易行道の教なり、欣求をもつて本とす、なにをもつてのゆゑに、願力によりて生死を厭捨せしむるがゆゑなりと。
【50】
また横出の真実について、また三種あり。
- 一には口業に欣求真実、
- 口業に厭離真実なり。
- 二には身業に欣求真実、
- 身業に厭離真実なり。
- 三には意業に欣求真実、
- 意業に厭離真実なり。
【51】
宗師(善導)の釈文を案ずるに、「一者真実心中」以下より、「自他凡聖等善」に至るまでは、厭離を先とし欣求を後とす。すなはちこれ難行道、自力竪出の義なり。「真実心中口業」以下より、「自他依正二報」に至るまでは、すなはちこれ易行道、他力横出の義なり。
【52】
「二には深心。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。一には、決定して〈自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし〉と深信す。二には、決定して〈かの阿弥陀仏、四十八願をもつて衆生を摂受したまふ、疑なく慮りなく、彼の願力に乗ずれば、さだめて往生を得〉と深信せよ」となり。{文}
いまこの深信は他力至極の金剛心、一乗無上の真実信海なり。
【53】
文の意を案ずるに、深信について七深信あり、六決定あり。
【54】
第五の「唯信仏語」について、三遣・三随順・三是名あり。
- 三遣とは、
- 一には、「仏の捨て遣めたまふをば、すなはち捨つ」と。
- 二には、「仏の行ぜ遣めたまふをば、すなはち行ず」と。
- 三には、「仏の去ら遣めたまふ処をば、すなはち去る」となり。
- 三随順とは、
- 一には、「是を仏教に随順すと名づく」と。
- 二には、「仏意に随順す」と。
- 三には、「是を仏願に随順すと名づく」となり。
- 三是名とは、
- 一には、「是を真仏弟子と名づく」となり。
- 上の是名とこれと合して三是名なり。
【55】
第六に「この『経』(観経)によりて深信する」について、六即・三印・三無・六正・二了あり。
- 六即とは、
- 三印とは、
- 一には即印可、 二には不印、
- 三には仏印可なり。[三印は上の六即の文のなかにあり。]
- 三無とは、
- 一には無記、 二には無利、
- 三には無益なり。[三無は六即の文のなかにあり。]
- 六正とは、
- 一には正教、 二には正義、
- 三には正行、 四には正解、
- 五には正業、 六には正智なり。
- 二了とは、
- 一には、「もし仏の所説は、即ちこれ了教なり」と。
- 二には、「菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり」と、
- 知るべし。
【56】
第七の「また深心の深信」については、決定して自心を建立するに、二別・三異・一問答あり。
【57】
一問答のなかに、四別・四信あり。
【58】
上上の信心について、五実・二異あり。
- 五実とは、
- 一には真実決了の義なり、 二には実知、
- 三には実解、 四には実見、
- 五には実証なり。
- 二異とは、
- 一には異見、 二には異解なり。
【59】
報化二仏の疑難について、『弥陀経』を引いて信を勧むるに、二専・四
同・二所化・六悪・二同・三所あり。
- 二専とは、
- 一には専念、 二には専修なり。五種なり。
- 四同とは、
- 一には同讃、 二には同勧、
- 三には同証、 四には同体なり。
- 二所化とは、
- 一には、「一仏の所化はすなはちこれ一切仏の化なり」と、
- 二には、「一切仏の所化はすなはちこれ一仏の化なり」となり。
- 六悪とは、
- 一には悪時、 二には悪世界、
- 三には悪衆生、 四には悪見、
- 五には悪煩悩、 六には悪邪無信盛時なり。
- 二同とは、
- 一には十方仏等同心なり、 二には同時におのおの舌相を出す。
- 三所とは、
- 一には所説、 二には所讃、
- 三には所証なり。
【60】
「一仏の所説は、すなはち一切仏同じくその事を証成したまふなり。これを人に就いて信を立つと名づくるなり」と、知るべし。
【61】
「次に行に就いて信を立つとは、しかるに行に二種あり。
- 一には正行、 二には雑行なり」と。
【62】
正行について、五正行・六一心・六専修あり。
- 五正行とは、
- 一には一心に専読誦、 二には一心に専観察、
- 三には一心に専礼仏、 四には一心に専称仏名、
- 五には一心に専讃嘆供養なり。
- またこの正のなかについて、また二種あり。
- 一には、「一心に弥陀の名号を専念する、これを正定の業と名づく」と。
- 二には、「もし礼誦等によるはすなはち名づけて助業となす」となり。
- 六一心とは、次いでのごとく一心なり。
- 六専修とは、次いでのごとく専修なり。
【63】
また正雑二行について、また二行あり。
【64】
また正雑について、また二種あり。
- 一には念仏、 二には観仏なり。
【65】
また念仏について、また二種あり。
- 一には弥陀念仏、 二には諸仏念仏なり。
- 法身 報身 応身 化身
【66】
また弥陀念仏について、二種あり。
【67】
また諸仏念仏について、二種あり。
- 一には雑行定心念仏、
- 二には雑行散心念仏なり。
- 諸仏定散の念仏は、これ雑中の専行なりと、知るべし。
【68】
また観仏について、また二種あり。
【69】
また正の観仏について、また二種あり。
【70】
また真仮について、十三の観想あり。
- 日想 水想 地想 宝樹想
- 宝池 宝楼 華座 像想
- 真観 観音 勢至 普観
- 雑観
【71】
また正の散行について、四種あり。
- 読誦 礼拝 讃嘆 供養
【72】
上よりこのかた定散六種兼行するがゆゑに雑修といふ、これを助業と
名づく、名づけて方便仮門となす、また浄土の要門と名づくるなりと、知るべし。
【73】
また雑の観仏について、二種あり。また真仮あり。
【74】
また雑の散行について、三福あり。
- 一には、孝養父母・奉事師長・慈心不殺・修十善業なり。
- 二には、受持三帰・具足衆戒・不犯威儀なり。
- 三には、発菩提心・深信因果・読誦大乗・勧進行者なり。
【75】
上よりこのかた一切の定散の諸善ことごとく雑行と名づく、六種の正に対して六種の雑あるべし。雑行の言は人・天・菩薩等の解行雑するがゆゑに雑といふなり。もとよりこのかた浄土の業因にあらず、これを発願の行と名づく、また回心の行と名づく、ゆゑに浄土の雑行と名づく、これを浄土の方便仮門と名づく、また浄土の要門と名づくるなり。おほよそ聖道・浄土、正雑、定散、みなこれ回心の行なりと、知るべし。
【76】
「三には回向発願心」とは、回向発願心といふは、二種あり。
【77】
回向発願して生るるものについて、信心あり。
- 信心とは、
- 「得生の想をなす、この心深信すること、なほ金剛のごとし」となり。
【78】
この深信について、一譬喩・二異・二別・一問答・二回向あり。
【79】
一問答について、七悪・六譬・二門・四有縁・二所求・二所愛・二欲学・二必あり。
- 七悪とは、
- 六譬とは、
- 二門とは、
- 四有縁とは、
- 二所求とは、上の文のごとし。
- 二所愛とは、上の文のごとし。
- 二欲学とは、
- 二必とは、[上の文のごとし。]
【80】
この深信のなかについて、二回向といふは、
【81】
二河のなかについて、
- 「一つの譬喩を説きて信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」と。
- 「この道、東の岸より西の岸に至るまで、また長さ百歩なり」となり。{文}
- 「百歩」とは、
- 人寿百歳に譬ふるなり。
- 「群賊・悪獣」とは、
- 「群賊」とは、別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心なり。
- 「悪獣」とは、六根・六識・六塵・五陰・四大なり。
- 「つねに悪友に随ふ」といふは、
- 「悪友」とは、善友に対す、雑毒虚仮の人なり。
- 「〈無人空迥の沢〉といふは、悪友なり。真の善知識に値はざるなり」となり。
- 「真」の言は仮に対し偽に対す。
- 「善知識」とは、悪知識に対するなり。[1]
- 真の善知識、 正の善知識、
- 実の善知識、 是の善知識、
- 善の善知識、 善性人なり。
- 悪の知識とは、 仮の善知識、
- 偽の善知識、 邪の善知識、
- 虚の善知識、 非の善知識、
- 悪の善知識、 悪性人なり。
- 「白道四五寸」といふは、
- 「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。
- 「あるいは行くこと一分二分す」といふは、年歳時節に喩ふるなり。
- 「悪見人等」といふは、驕慢・懈怠・邪見・疑心の人なり。
【82】
「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」といふは、
「西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく」といふは、阿弥陀如来の誓願なり。
「汝」の言は行者なり、これすなはち必定の菩薩と名づく。龍樹大士『十住毘婆沙論』(易行品 一六)にいはく、「即時入必定」となり。曇鸞菩薩の『論』(論註・上意)には、「入正定聚之数」といへり。善導和尚は、「希有人なり、最勝人なり、妙好人なり、好人なり、上上人なり、真仏弟子なり」(散善義・意 五〇〇)といへり。「一心」の言は、真実の信心なり。「正念」の言は、選択摂取の本願なり、また第一希有の行なり、金剛不壊の心なり。
「直」の言は、回に対し迂に対するなり。また「直」の言は、方便仮門を捨てて如来大願の他力に帰するなり、諸仏出世の直説を顕さしめんと欲してなり。
「来」の言は、去に対し往に対するなり。また報土に還来せしめんと欲してなり。
「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり。「能」の言は、不堪に対するなり、疑心の人なり。「護」の言は、阿弥陀仏果成の正意を顕すなり、また摂取不捨を形すの貌なり、すなはちこれ現生護念なり。「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。「慶楽」とは、「慶」の言は印可の言なり、獲得の言なり、「楽」の言は悦喜の言なり、歓喜踊躍なり。
【83】
「仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙る」といふは、順なり。「また弥陀の悲心招喚したまふによる」といふは、信なり。「いま二尊の意に信順して、水火二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗ず」といへり。
【84】
至誠心について、難易対 彼此対 去来対 毒薬対 内外対
- 難易対
- 難とは三業修善不真実の心なり、
- 易とは如来願力回向の心なり。
- 彼此対
- 彼とは浄邦なり、 此とは穢国なり。
- 去来対
- 去とは釈迦仏なり、 来とは弥陀仏なり。
- 毒薬対
- 毒とは善悪雑心なり、 薬とは純一専心なり。
- 内外対
【85】
おほよそ心について、二種の三心あり。
【86】
また二種の往生あり。
【87】
ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。
- 建長七歳乙卯八月二十七日これを書く。
愚禿親鸞八十三歳