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「選択本願念仏集 (七祖)」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(多善根章)
(利益章)
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:まさに知るべし、三万以上はこれ上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひて[[品位]]を分別することこれ明らけし。
 
:まさに知るべし、三万以上はこれ上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひて[[品位]]を分別することこれ明らけし。
 
:いまこの「一念」といふは、これ上の念仏の願成就(第十八願成就文)のなかにいふところの一念と下輩のなかに明かすところの一念とを指す。願成就の文のなかに一念といふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへども、また功徳の大利を説かず。
 
:いまこの「一念」といふは、これ上の念仏の願成就(第十八願成就文)のなかにいふところの一念と下輩のなかに明かすところの一念とを指す。願成就の文のなかに一念といふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへども、また功徳の大利を説かず。
 
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====無上功徳====
 
:この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。この「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸<span id="P--1224"></span>行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。
 
:この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。この「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸<span id="P--1224"></span>行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。
 
:また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつて千無上となす。
 
:また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつて千無上となす。
 
:かくのごとく[[展転して]]少より多に至る。念仏恒沙なれば、無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。
 
:かくのごとく[[展転して]]少より多に至る。念仏恒沙なれば、無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。
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==末法と特留念仏==
 
==末法と特留念仏==
 
===特留章===
 
===特留章===

2018年2月8日 (木) 17:37時点における版

 本書は、選択本願(せんじゃくほんがん)に立脚して称名一行の専修を主張し、浄土宗の独立を宣言された浄土宗の立教開宗の書である。冒頭に「選択本願念仏集」と題号をあげ、次いで「南無阿弥陀仏往生之業念仏為先(本)」と念仏往生の宗義を標示し、以下16章に分けて、称名念仏こそが、選択の行業である旨を述べられている。
 各章ともに、理路整然とした論旨によって標章の文、引文、私釈の順で構成されている。標章の文は、その章で明らかにしようとする主題を簡潔に示し、引文では、標章の文を証明する経典や解釈の文を引き、さらに私釈では、「私にいはく」として、法然上人自身の解義が明示されている。なかでも第1の二門章、第2の二行章、第3の本願章の3章には、本書の要義が説かれている。すなわち、二門章では、道綽禅師によって一代仏教を聖道門と浄土門に分け、聖道門を廃し、浄土一宗の独立を宣言し、そのよりどころを三経一論(浄土三部経と『浄土論』)と定め、それが、曇鸞大師・道綽禅師・善導大師などの師資相承によることを示される。二行章では、善導大師の『観経疏』(就行立信釈)などをうけて、五正行のなか、称名念仏こそ、仏願にかなった往生の正定業である旨を明かし、かくて雑行は捨てるべきである旨を示され、本願章では、第十八願において、法蔵菩薩は一切の余行を選捨して、念仏一行を選取されたといい、その理由は称名念仏こそが、最も勝れ、また最も修めやすい勝易具足の行法だからであると説かれるのである。この3章の意をまとめたものが本書の結論ともいうべき「三選の文」(結勧の文)であり、それが初めの題号および標宗の文とも呼応しているのである。

目 次

 

選択本願念仏集

標宗


南無阿弥陀仏[往生の業には、念仏をとなす。]






浄土宗の独立

二門章

【1】  道綽禅師、聖道・浄土の二門を立てて、聖道を捨ててまさしく浄土に帰 する文。

引文 安楽集

 『安楽集』の上にいはく、「問ひていはく、一切衆生はみな仏性あり。遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。なにによりてか、いまに至るまでなほみづから生死に輪廻して火宅を出でざるや。  答へていはく、大乗の聖教によらば、まことに二種の勝法を得てもつて生死を排はざるによる。

ここをもつて火宅を出でず。何者をか二となす。

一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。それ聖道の一種は、今の時証しがたし。一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるによる。

二には理は深く解は微なるによる。このゆゑに『大集月蔵経』にのたまはく、〈わが末法の時のうちの億々の衆生、行を起し道を修せんに、いまだ一人として得るものあらじ〉と。

当今は末法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり。

このゆゑに『大経』にのたまはく、〈もし衆生ありてたとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ〉と。

また一切衆生はすべてみづから量らず。もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、乃至、那含・羅漢五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分あらず。

たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるを持得するものは、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴き風き雨に異ならん。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。

たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏せば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生することを得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや」と。

私釈

 わたくしにいはく、ひそかにはかりみれば、それ立教の多少、宗に随ひて不同なり。
立教不同
しばらく有相宗(法相宗)のごときは、三時教を立てて〔釈尊の〕一代の聖教を判ず。いはゆる有・空・中これなり。
無相宗(三論宗)のごときは、二蔵教を立ててもつて一代の聖教を判ず。いはゆる菩薩蔵・声聞蔵これなり。
華厳宗のごときは、五教を立てて一切の仏教を摂す。いはゆる小乗教・始教終教・頓教・円教これなり。
法華宗(天台宗)のごときは、四教五味を立ててもつて一切仏教を摂す。「四教」といふは、いはゆる蔵・通・別・円これなり。「五味」といふは、いはゆる乳・酪・生・熟・醍醐これなり。
真言宗のごときは、二教を立てて一切を摂す。いはゆる顕教・密教これなり。
いまこの浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。
問立宗名
 問ひていはく、それ宗の名を立つることは、本、華厳・天台等の八宗・九宗にあり。いまだ浄土の家においてその宗の名を立つることを聞かず。しかるをいま浄土宗と号する、なんの証拠かあるや。
答へていはく、浄土宗の名、その証一にあらず。元暁の『遊心安楽道』にいはく、「浄土宗の意、本凡夫のためなり、兼ねては聖人のためなり」と。
また慈恩(窺基)の『西方要決』にいはく、「この一宗による」と。
また迦才の『浄土論』にいはく、「この一宗ひそかに要路たり」と。その証かくのごとし。疑端に足らず
就浄土宗明二門
 ただし諸宗の立教は、まさしくいまの意にあらず。しばらく浄土宗につきて略して二門を明かさば、一には聖道門、二には浄土門なり。
初めの聖道門とは、これにつきて二あり。一は大乗、二は小乗なり。
大乗のなかにつきて顕密権実等の不同ありといへども、いまこの『集』(安楽集)の意、ただ顕大および権大を存ず。ゆゑに歴劫迂回の行に当れり。
これに准じてこれを思ふに、密大および実大を存ずべし。しかればすなはち、いま真言・仏心(禅宗)・天台・華厳・三論・法相・地論・摂論、これら八家の意まさしくこれにあり、知るべし。
次に小乗とは、すべてこれ小乗の経・律・論のなかに明かすところの声聞・縁覚、断惑証理入聖得果の道なり。
上に准じてこれを思へば、また倶舎・成実・諸部の律宗を摂すべきのみ。
おほよそこの聖道門の大意は、大乗および小乗を論ぜず。この娑婆世界のなかにおいて、四乗の道を修し四乗の果を得。四乗とは三乗のほかに仏乗を加ふ。
次に往生浄土門とは、これにつきて二あり。一には正しく往生浄土を明かす教、二には傍らに往生浄土を明かす教なり。
初めに正しく往生浄土を明かす教といふは、いはく三経一論これなり。「三経」とは、一には『無量寿経』、二には『観無量寿経』、三には『阿弥陀経』なり。
「一論」とは、天親の『往生論』(浄土論)これなり。あるいはこの三経を指して浄土の三部経と号す。
 問ひていはく、三部経の名またその例ありや。
答へていはく、三部経の名その例一にあらず。一には法華の三部、いはく『無量義経』・『法華経』・『普賢観経』これなり。二には大日の三部、いはく『大日経』・『金剛頂経』・『蘇悉地経』これなり。三には鎮護国家の三部、いはく『法華経』・『仁王経』・『金光明経』これなり。四には弥勒の三部、いはく『上生経』・『下生経』・『成仏経』これなり。いまはただこれ弥陀の三部なり。
ゆゑに浄土の三部経と名づく。弥陀の三部はこれ浄土の正依経なり。
 次に傍らに往生浄土を明かす教といふは、『華厳』・『法華』・『随求』・『尊勝』等のもろもろの往生浄土を明かす諸経これなり。また『起信論』・『宝性論』・『十住毘婆沙論』・『摂大乗論』等のもろもろの往生浄土を明かす諸論これなり。
集中立二門意在捨聖入浄此二由
 おほよそこの『集』(安楽集)のなかに聖道・浄土の二門を立つる意は、聖道を捨てて浄土門に入らしめんがためなり。これにつきて二の由あり。
由大聖遥遠
一には大聖(釈尊)を去れること遥遠なるに由る。
由理深解微
二には理深く解微なるに由る。
この宗のなかに二門を立つることは、独り道綽のみにあらず。曇鸞・天台(智顗)・迦才・慈恩(窺基)等の諸師みなこの意あり。
しばらく曇鸞法師の『往生論の註』(上)にいはく、「つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品)を案ずるにいはく、〈菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。
一には難行道、二には易行道なり〉と。〈難行道〉とは、いはく五濁の世に無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多くの途あり。ほぼ五三をいひてもつて義意を示さん。
一には外道の相善菩薩の法を乱る。二には声聞の自利、大慈悲を障ふ。三には無顧の悪人、他の勝徳を破す。四には顛倒の善の果、よく梵行を壊る。五にはただこれ自力のみにして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。
たとへば陸路より歩行するはすなはち苦しきがごとし。
〈易行道〉とは、いはくただ仏を信ずる因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏の願力に乗りてすなはちかの清浄の土に往生することを得。
仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路より船に乗りてすなはち楽なるがごとし」と。[以上]
このなかの難行道は、すなはちこれ聖道門なり。易行道は、すなはちこれ浄土門なり。難行・易行、聖道・浄土、その言異なりといへども、その意これ同じ。天台(智顗)・迦才これに同じ、知るべし。
また『西方要決』にいはく、「仰ぎておもんみれば、釈迦、運を啓けて弘く有縁を益す。教、随方に闡けてならびに法潤に霑ふ。親しく聖化に逢ひて、道、三乗を悟りき。福薄く、因疎かなるものを勧めて浄土に帰せしめたまふ。この業をなすものはもつぱら弥陀を念じ、一切善根、回らしてかの国に生ず。弥陀の本願誓ひて娑婆を度したまふ。上現生の一形を尽し、下臨終の十念に至るまで、ともによく決定してみな往生を得」と。[以上]
また同じき後序にいはく、「それおもんみれば、生れて像季に居して、聖(釈尊)を去ることこれはるかに、道、三乗に預かりて契悟するに方なし。人天の両位は躁動して安からず。智博く情弘きものは、よく久しく処するに堪へたり。もし識痴かに行浅きものは、おそらくは幽途に溺れん。かならずすべからく跡を娑婆に遠くして心を浄域に栖ましむべし」と。{以上}
このなかの三乗はすなはちこれ聖道門の意なり。浄土はすなはちこれ浄土門の意なり。三乗・浄土、聖道・浄土、その名異なりといへども、その意また同じ。浄土宗の学者、先づすべからくこの旨を知るべし。たとひ先より聖道門を学する人といへども、もし浄土門にその志あらば、すべからく聖道を棄てて浄土に帰すべし。
例するに、かの曇鸞法師は四論の講説を捨てて一向に浄土に帰し、道綽禅師は涅槃の広業を閣きてひとへに西方の行を弘めしがごとし。上
古の賢哲なほもつてかくのごとし。末代の愚魯むしろこれに遵はざらんや。
 問ひていはく、聖道家の諸宗おのおの師資相承あり。いはく天台宗のごときは、慧文・南岳(慧思)・天台(智顗)・章安・智威・慧威・玄朗・湛然、次第相承せり。
真言宗のごときは、大日如来・金剛薩埵・龍樹・龍智・金智・不空、次第相承せり。自余の諸宗またおのおの相承の血脈あり。しかるにいまいふところの浄土宗に師資相承の血脈の譜ありや。
答へていはく、聖道家の血脈のごとく浄土宗にまた血脈あり。ただし浄土一宗において諸家また不同なり。いはゆる廬山の慧遠法師、慈愍三蔵、道綽・善導等これなり。いましばらく道綽・善導の一家によりて、師資相承の血脈を論ぜば、これにまた両説あり。
一には菩提流支三蔵・慧寵法師・道場法師・曇鸞法師・大海禅師・法上法師。[以上、『安楽集』に出でたり。]
二には菩提流支三蔵・曇鸞法師・道綽禅師・善導禅師・懐感法師・小康法師。[以上、唐・宋両伝に出でたり。]

専修念仏の確立

二行章

就行立信釈(行について信を立つ)

【2】善導和尚、正雑二行を立てて、雑行を捨てて正行に帰する文。

 『観経疏』の第四(散善義)にいはく、「行につきて信を立つといふは、しかも行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。正行といふは、もつぱら往生の経によりて行を行ずるもの、これを正行と名づく。いづれのものかこれや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念し、もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す。これを名づけて正となす。またこの正のなかにつきて、また二種あり。

一心専念弥陀名号

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく。もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」と。

雑行と正行
 わたくしにいはく、この文につきて二の意あり。一には往生の行相を明かす。二には二行の得失を判ず。
初めに往生の行相を明かすといふは、善導和尚の意によらば、往生の行多しといへども大きに分ちて二となす。一には正行、二には雑行なり。
初めの正行とは、これにつきて開合の二の義あり。初めの開を五種となし、後の合を二種となす。初めの開を五種となすといふは、一には読誦正行、二には観察正行、三には礼拝正行、四には称名正行、五には讃歎供養正行なり。
五正行
第一の読誦正行は、もつぱら『観経』等を読誦するなり。すなはち文(散善義)に、「一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦す」といふこれなり。
第二に観察正行は、もつぱらかの国の依正二報を観察するなり。すなはち文(同)に、「一心にもつぱら思想を注めてかの国の二報荘厳を観察し憶念す」といふこれなり。
第三に礼拝正行は、もつぱら弥陀を礼するなり。すなはち文(同)に、「もし礼せばすなはち一心にもつぱらかの仏を礼す」といふこれなり。
第四に称名正行は、もつぱら弥陀の名号を称するなり。すなはち文(同)に、「もし口称せばすなはち一心にもつぱらかの仏を称す」といふこれなり。
第五に讃歎供養正行は、もつぱら弥陀を讃歎供養するなり。すなはち文(同)に、「もし讃歎供養せばすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす」といふこれなり。もし讃歎と供養とを開して二となさば、六種正行と名づくべし。いま合の義によるがゆゑに五種といふ。
次に合を二種となすといふは、一には正業、二には助業なり。初めの正業は、上の五種のなかの第四の称名をもつて正定の業となす。すなはち文(散善義)に、
「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥時節の久近を問はず念々に捨てざるもの、これを正定の業と名づく。かの仏の願に順ずるがゆゑに」といふこれなり。
次に助業は、第四の口称を除きてのほかの読誦等の四種をもつてしかも助業となす。すなはち文(同)に、「もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす」といふこれなり。
 問ひていはく、なんがゆゑぞ五種のなかに独り称名念仏をもつて正定の業となすや。
答へていはく、かの仏の願に順ずるがゆゑに。意はいはく、称名念仏はこれかの仏の本願の行なり。ゆゑにこれを修すれば、かの仏の願に乗じてかならず往生を得。その仏の本願の義、に至りて知るべし。
五雑行
 次に雑行は、すなはち文(同)に、「この正助二行を除きてのほかの自余の諸善をことごとく雑行と名づく」といふこれなり。意はいはく、雑行無量なり、つぶさに述ぶるに遑あらず。ただしばらく五種の正行に翻対してもつて五種の雑行を明かすべし。一には読誦雑行、二には観察雑行、三には礼拝雑行、四には称名雑行、五には讃歎供養雑行なり。
第一に読誦雑行といふは、上の『観経』等の往生浄土の経を除きてのほかの大小乗顕密の諸経において受持し読誦するをことごとく読誦雑行と名づく。
第二に観察雑行といふは、上の極楽の依正を除きてのほかの大小、顕密、事理の観行をみなことごとく観察雑行と名づく。
第三に礼拝雑行といふは、上の弥陀を礼拝するを除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において礼拝恭敬するをことごとく礼拝雑行と名づく。
第四に称名雑行といふは、上の弥陀の名号を称するを除きてのほかの自余の一切の仏・菩薩等およびもろもろの世天等の名号を称するをことごとく称名雑行と名づく。
第五に讃歎供養雑行といふは、上の弥陀仏を除きてのほかの一切の諸余の仏・菩薩等およびもろもろの世天等において讃歎供養するをことごとく讃歎供養雑行と名づく。
このほかまた布施・持戒等の無量の行あり。みな雑行の言に摂尽すべし
二行得失
 次に二行の得失を判ぜば、「もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。もし後の雑行を行ずるは、すなはち心つねに間断す。回向して生ずることを得べしといへども、衆く疎雑の行と名づく」(散善義)と、すなはちその文なり。この文の意を案ずるに、正雑二行につきて五番の相対あり。一には親疎対、二には近遠対、三には有間無間対、四には回向不回向対、五には純雑対なり。
親疎対

第一に親疎対といふは、先づ「親」といふは、正助二行を修するものは阿弥陀仏においてはなはだもつて親昵となす。ゆゑに『疏』(定善義)の上の文にいはく、「衆生行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞しめす。身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはち心にこれを見たまふ。

心つねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏を憶念すれば、仏衆生を憶念したまふ。彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく」と。
次に「疎」といふは雑行なり。衆生仏を称せざれば、仏すなはちこれを聞きたまはず。身に仏を礼せざれば、仏すなはちこれを見たまはず。
心に仏を念ぜざれば、仏すなはちこれを知りたまはず。衆生仏を憶念せざれば、仏衆生を憶念したまはず。彼此の三業つねに捨離す。ゆゑに疎行と名づく。
近遠対

第二に近遠対といふは、先づ「近」といふは、正助二行を修するものは阿弥陀仏においてはなはだもつて隣く近しとなす。ゆゑに『疏』(定善義)の上の文にいはく、「衆生仏を見んと願ずれば、仏すなはち念に応じて目の前に現在したまふ。ゆゑに近縁と名づく」と。

次に「遠」といふは雑行なり。衆生仏を見んと願ぜざれば、仏すなはち念に応ぜず、目の前に現じたまはず。ゆゑに遠と名づく。ただし親近の義これ一に似たりといへども、善導の意分ちて二となす。その旨『疏』(同)の文に見えたり。ゆゑにいま引き釈するところなり。
無間有間対

第三に無間有間対といふは、先づ「無間」といふは、正助の二行を修するものは弥陀仏において憶念間断せず。

ゆゑに「名づけて無間となす」といふこれなり。次に「有間」といふは、雑行を修するものは弥陀仏において憶念つねに間断す。ゆゑに「心つねに間断す」といふこれなり。
不回向回向対

第四に不回向回向対といふは、正助二行を修するものは、たとひ別に回向を用ゐざれども自然に往生の業となる

ゆゑに『疏』(玄義分)の上の文にいはく、「いまこの『観経』のなかの十声仏を称するは、すなはち十願十行ありて具足せり。いかんが具足する。〈南無〉といふはすなはちこれ帰命、またこれ発願回向の義なり。〈阿弥陀仏〉といふはすなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。{以上}
次に「回向」といふは、雑行を修するものは、かならず回向を用ゐる時に往生の因となる。もし回向を用ゐざる時には往生の因とならず。ゆゑに「回向して生ずることを得べしといへども」といふこれなり。
純雑対
第五に純雑対といふは、先づ「純」といふは、正助二行を修するものはもつぱらこれ極楽の行なり。次に「雑」といふは、これもつぱら極楽の行にあらず。人天および三乗に通ず、また十方浄土に通ず。ゆゑに雑といふ。
しかれば西方の行者すべからく雑行を捨てて正行を修すべし。
 問ひていはく、この純雑の義、経論のなかにおいてその証拠ありや。
答へていはく、大小乗の経・律・論のなかにおいて純雑二門を立つること、その例一にあらず。大乗はすなはち八蔵のなかにおいてしかも雑蔵を立つ。
まさに知るべし、七蔵はこれ純、一蔵はこれ雑なり。小乗はすなはち四含のなかにおいて雑含を立つ。まさに知るべし、三含はこれ純、一含はこれ雑なり。律にはすなはち二十の犍度を立ててもつて戒行を明かす。そのなかに前の十九はこれ純、後の一は雑犍度なり。論(八犍度論)にはすなはち八犍度を立てて諸法の性相を明かす。前の七犍度はこれ純、後の一はこれ雑犍度なり。賢聖集のなか、唐・宋両伝には十科の法を立てて高僧の行徳を明かす。そのなかに前の九はこれ純、後の一はこれ雑科なり。乃至、
『大乗義章』に五聚の法門あり。前の四聚はこれ純、後の一はこれ雑聚なり。また顕教のみにあらず。密教のなかに純雑の法あり。いはく山家の『仏法の血脈の譜』にいはく、一には胎蔵界の曼陀羅の血脈の譜一首、二には金剛界の曼陀羅の血脈の譜一首、三には雑曼陀羅の血脈の譜一首。前の二首はこれ純、後の一首はこれ雑なり。純雑の義多しといへども、いま略して小分を挙ぐるのみ。まさに知るべし、純雑の義、法に随ひて不定なり。
これによりていま善導和尚の意、しばらく浄土の行において純雑を論ずるなり。この純雑の義内典のみに局らず、外典のなかにその例はなはだ多し。繁きことを恐れて出さず。ただし往生の行において二行を分つこと、善導一師のみに限らず。もし道綽禅師の意によらば、往生の行多しといへども束ねて二となす。一にはいはく念仏往生、二にはいはく万行往生なり。もし懐感禅師の意によらば、往生の行多しといへども束ねて二となす。
一にはいはく念仏往生、二にはいはく諸行往生なり。[恵心(源信)これに同じ。]かくのごときの三師、おのおの二行を立てて往生の行を摂す。はなはだその旨を得。自余の諸師はしからず。行者これを思ふべし。

 『往生礼讃』にいはく、「もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なく正念を得るがゆゑに。仏の本願と相応するがゆゑに。

教に違せざるがゆゑに。仏語に随順するがゆゑに。もしを捨てて雑業を修せんと欲するものは、百の時に希に一二を得、千の時に希に五三を得。なにをもつてのゆゑに。雑縁乱動して正念を失ふによるがゆゑに。仏の本願と相応せざるがゆゑに。教と相違するがゆゑに。仏語に順ぜざるがゆゑに。係念相続せざるがゆゑに。憶想間断するがゆゑに。回願慇重真実ならざるがゆゑに。貪・瞋・諸見の煩悩来りて間断するがゆゑに。慚愧・悔過あることなきがゆゑに。また相続してかの仏の恩を報ぜんと念はざるがゆゑに。心に軽慢を生じて、業行をなすといへどもつねに名利と相応するがゆゑに。人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに。楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。

なにをもつてのゆゑに。余、このごろみづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同なり、専雑異あり。ただ意をもつぱらにしてなすものは、十はすなはち十生ず。雑を修して心を至さざるものは、千がなかに一もなし。この二行の得失、前にすでに弁ずるがごとし。仰ぎ願はくは一切の往生人等、よくみづからおのれが能を思量せよ。今身にかの国に生ぜんと願ぜば、行住坐臥にかならずすべからく心を励まし、おのれを剋して昼夜に廃することなかるべし。畢命を期となせ。まさしく一形にありて少苦に似如たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに無為の諸楽を受く。乃至成仏まで生死を経ず。あに快きにあらずや。知るべし」と。

 わたくしにいはく、この文を見るに、いよいよすべからく雑を捨てて専を修すべし。あに百即百生の専修正行を捨てて、堅く千中無一の雑修雑行を執せんや。行者よくこれを思量せよ。

大経による本願念仏の開顕

本願章

【3】弥陀如来、余行をもつて往生の本願となさず、ただ念仏をもつて往生の本願となしたまへる文。

 『無量寿経』の上にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、乃至十念せんに、もし生ぜずといはば、正覚を取らじ」(第十八願)と。

 『観念法門』に上の文を引きていはく、「もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名号を称すること下十声に至らんに、わが願力に乗りて、もし生ぜずは、正覚を取らじ」と。

 『往生礼讃』に同じき上の文を引きていはく、「〈もしわれ仏にならんに、十方の衆生、わが名号を称すること下十声に至るまで、もし生ぜずは、正覚を取らじ〉と。かの仏いま現ににましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生することを得」と。

総別二願

 わたくしにいはく、一切の諸仏おのおの総別二種の願あり。「総」といふは四弘誓願これなり。「別」といふは釈迦の五百の大願薬師の十二の上願等のごときこれなり。
いまこの四十八の願はこれ弥陀の別願なり。
 問ひていはく、弥陀如来、いづれの時、いづれの仏の所にしてかこの願を発したまへるや。
答へていはく、『寿経』(大経・上)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈乃往過去久遠無量不可思議無央数劫に、定光如来世に興出したまひて、無量の衆生を教化し度脱して、みな道を得しめて、すなはち滅度を取りたまへり。次に如来まします、名づけて光遠といふ。
[乃至]次を処世と名づく。かくのごとき諸仏[五十三仏なり。]みなことごとくすでに過ぎて、その時に次に仏まします、世自在王如来と名づく。
時に国王あり。仏の説法を聞きて心に悦予を懐きて、尋いで無上正真道の意を発し、国を棄て王を捐てて、行じて沙門となる。号けて法蔵といふ。高才勇哲にして世と超異せり。世自在王如来の所に詣でたまふ。{乃至}
ここに世自在王仏、すなはち〔法蔵比丘の〕ために広く二百一十億の諸仏の刹土の人天の善悪、国土の粗妙を説きて、その心願に応じてことごとくこれを現与したまふ。時にかの比丘、仏の所説の厳浄の国土を聞き、みなことごとく覩見して、超えて無上殊勝の願を発す。その心寂静にして、志所着なく、一切世間によく及ぶものなし。五劫を具足して荘厳仏国の清浄の行を思惟し摂取しき〉と。
阿難、仏にまうさく、〈かの仏の国土の寿量いくばくぞや〉と。
仏ののたまはく、〈その仏の寿命四十二劫なり。時に法蔵比丘二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取しき〉」と。{以上}
『大阿弥陀経』(上)にのたまはく、「その仏(世自在王仏)すなはち二百一十億の仏の国土中の諸天・人民の善悪、国土の好醜を選択す。〔法蔵比丘の、〕心中の所欲の願を選択せんがためなり。楼夷亘羅仏[ここには世自在王仏といふ。]
経を説きをはりて、曇摩迦[ここには法蔵といふ。]すなはちその心を一にして、すなはち天眼を得、徹視してことごとくみづから二百一十億の諸仏の国土のなかの諸天・人民の善悪、国土の好醜を見、すなはち心中の所願を選択して、すなはちこの二十四の願経を結得す」と。[『平等覚経』またこれに同じ。]

選択と摂取

 このなか、「選択」とはすなはちこれ取捨の義なり。いはく二百一十億の諸仏の浄土のなかにおいて、人天の悪を捨て人天の善を取り、国土の醜を捨て国土の好を取るなり。『大阿弥陀経』の選択の義かくのごとし。
『双巻経』(大経・上)の意また選択の義あり。いはく、「二百一十億の諸仏の妙土の清浄の行を摂取す」といふこれなり。選択と摂取とその言異なりといへども、その意これ同じ。
しかれば不清浄の行を捨てて、清浄の行を取る。上の天・人の善悪、国土の粗妙、その義またしかなり。これに准じて知るべし。それ四十八願に約して、一往おのおの選択摂取の義を論ぜば、第一に無三悪趣の願は、覩見するところの二百一十億の土のなかにおいて、あるいは三悪趣ある国土あり。あるいは三悪趣なき国土あり。
すなはちその三悪趣ある粗悪の国土を選捨して、その三悪趣なき善妙の国土を選取す。ゆゑに選択といふ。
第二に不更悪趣の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいはたとひ国のなかに三悪道なしといへども、その国の人天寿終りて後に、その国より去りてまた三悪趣に更る土あり。あるいは悪道に更らざる土あり。すなはちその悪道に更る粗悪の国土を選捨して、その悪道に更らざる善妙の国土を選取す。ゆゑに選択といふ。
第三に悉皆金色の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは一土のなかに黄・白二類の人天ある国土あり。あるいはもつぱら黄金色の国土あり。すなはち黄・白二類の粗悪の国土を選捨して、黄金一色の善妙の国土を選取す。ゆゑに選択といふ。
第四に無有好醜の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは人天の形色好醜不同の国土あり。あるいは形色一類にして好醜あることなき国土あり。すなはち好醜不同の粗悪の国土を選捨して、好醜あることなき善妙の国土を選取す。ゆゑに選択といふ。
乃至、第十八の念仏往生の願は、かの諸仏の土のなかにおいて、あるいは布施をもつて往生の行となす土あり。あるいは持戒をもつて往生の行となす土あり。あるいは忍辱をもつて往生の行となす土あり。あるいは精進をもつて往生の行となす土あり。あるいは禅定をもつて往生の行となす土あり。あるいは般若[第一義を信ずる等これなり。]をもつて往生の行となす土あり。あるいは菩提心をもつて往生の行となす土あり。あるいは六念をもつて往生の行となす土あり。あるいは持経をもつて往生の行となす土あり。あるいは持呪をもつて往生の行となす土あり。あるいは起立塔像飯食沙門および孝養父母奉事師長等の種々の行をもつておのおの往生の行となす国土等あり。あるいはもつぱらその国の仏の名を称して往生の行となす土あり。
かくのごとく一行をもつて一仏の土に配することは、これしばらく一往の義なり。再往これを論ぜば、その義不定なり。あるいは一仏の土のなかに、多行をもつて往生の行となす土あり。あるいは多仏の土のなかに、一行をもつて通じて往生の行となす土あり。かくのごとく往生の行、種々不同なり。
つぶさに述ぶべからず。すなはちいま前の布施・持戒、乃至孝養父母等の諸行を選捨して、専称仏号を選取す。ゆゑに選択といふ。しばらく五の願に約して略して選択を論ずること、その義かくのごとし。自余の諸願はこれに准じて知るべし。

勝劣義

 問ひていはく、あまねく諸願に約して粗悪を選捨し善妙を選取すること、その理しかるべし。なんがゆゑぞ、第十八の願に、一切の諸行を選捨して、ただひとへに念仏一行を選取して往生の本願となしたまふや。
答へていはく、聖意測りがたし。たやすく解することあたはず。しかりといへどもいま試みに二の義をもつてこれを解せば、一には勝劣の義、二には難易の義なり。
初めの勝劣とは、念仏はこれ勝、余行はこれ劣なり。所以はいかんとならば、名号はこれ万徳の帰するところなり。しかればすなはち弥陀一仏のあらゆる四智・三身・十力・四無畏等の一切の内証の功徳、相好・光明・説法・利生等の一切の外用の功徳、みなことごとく阿弥陀仏の名号のなかに摂在せり。ゆゑに名号の功徳もつとも勝となす。余行はしからず。

おのおの一隅を守る。ここをもつて劣となす。たとへば世間の屋舎の、その屋舎の名字のなかには棟・・柱等の一切の家具を摂せり。棟・梁等の一々の名字のなかには一切を摂することあたはざるがごとし。これをもつて知るべし。

難易義

しかればすなはち仏の名号の功徳、余の一切の功徳に勝れたり。ゆゑに劣を捨てて勝を取りてもつて本願となしたまへるか。次に難易の義とは、念仏は修しやすし、諸行は修しがたし。
このゆゑに『往生礼讃』にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、観をなさしめずしてただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるや。
答へていはく、すなはち衆生障重く、境は細く心は粗し識颺り神飛びて、観成就しがたきによるなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちにもつぱら名字を称せよと勧めたまふ。まさしく称名の易きによるがゆゑに、相続してすなはち生ず」と。[以上]
また『往生要集』(下)に、「問ひていはく、一切の善業おのおの利益あり、おのおの往生を得。なんがゆゑぞただ念仏一門を勧むるや。
答へていはく、いま念仏を勧むることは、これ余の種々の妙行をせんとにはあらず。ただこれ男女・貴賤、行住坐臥簡ばず時処諸縁を論ぜず、これを修するに難からず、乃至、臨終に往生を願求するに、その便宜を得たるは念仏にしかざればなり」と。[以上]
ゆゑに知りぬ、念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。:ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。
ゆゑに法照禅師の『五会法事讃』にいはく、
「かの仏の因中弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へに来らん
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞にして浄戒を持つを簡ばず、破戒にして罪根の深きをも簡ばず。
ただ心を回して多く念仏せば、よく瓦礫をして変じて金となさしめん」と。{以上}

誓願成就

 問ひていはく、一切の菩薩はその願を立つといへども、あるいは已成就あり、また未成就あり。いぶかし、法蔵菩薩の四十八願はすでに成就すとやなさん、はた未成就とやなさん。
答へていはく、法蔵の誓願、一々に成就す。いかんとならば、極楽界のなかにすでに三悪趣なし。まさに知るべし、これすなはち無三悪趣の願(第一願)を成就するなり。なにをもつてか知ることを得る。すなはち願成就の文(大経・上)に、「また地獄・餓鬼・畜生、諸難の趣なし」といふこれなり。またかの国の人天寿終りて後に、三悪趣に更ることなし。
まさに知るべし、これすなはち不更悪趣の願(第二願)を成就するなり。なにをもつてか知ることを得る。すなはち願成就の文(大経・下)に、「またかの菩薩、乃至成仏まで悪趣に更らず」といふこれなり。
また極楽の人天すでにもつて一人として三十二相を具せずといふことあることなし。まさに知るべし、これすなはち具三十二相の願(第二十一願)を成就するなり。
なにをもつてか知ることを得る。すなはち願成就の文(同・下)に、「かの国に生るるものは、みなことごとく三十二相を具足す」といふこれなり。
かくのごとく初め無三悪趣の願(第一願)より終り得三法忍の願(第四十八願)に至るまで、一々の誓願みなもつて成就す。
第十八の念仏往生の願、あに孤りもつて成就せざらんや。しかればすなはち念仏の人みなもつて往生す。なにをもつてか知ることを得る。
すなはち念仏往生の願成就の文(同・下)に、「もろもろの衆生ありて、その名号を聞きて信心歓喜して、乃至一念、心を至して回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得て不退転に住す」といふこれなり。
おほよそ四十八願荘厳の浄土は、華池・宝閣、願力にあらずといふことなし。なんぞそのなかにおいて独り念仏往生の願を疑惑すべきや。しかのみならず一一の願の終りに、「もししからずは、正覚を取らじ」といふ。しかも阿弥陀仏、仏になりたまひてよりこのかたいまに十劫、成仏の誓すでにもつて成就せり。
まさに知るべし、一々の願虚設すべからず。ゆゑに善導いはく(礼讃)、「かの仏いま現ににましまして仏になりたまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得」と。[以上]

念声是一

 問ひていはく、『経』(大経・上)には「十念」といふ、〔善導の〕には「十声」といふ。念・声の義いかん。
答へていはく、念・声は是一なり。なにをもつてか知ることを得る。『観経』の下品下生にのたまはく、「声をして絶えざらしめて、十念を具足して、〈南無阿弥陀仏〉と称せば、仏の名を称するがゆゑに、念々のうちにおいて八十億劫の生死の罪を除く」と。
いまこの文によるに、声はこれ念なり、念はすなはちこれ声なり。その意明らけし。しかのみならず『大集月蔵経』にのたまはく、「大念は大仏を見、小念は小仏を見る」と。感師(懐感)の『釈』(群疑論)にいはく、「大念といふは大声に仏を念じ、小念といふは小声に仏を念ずるなり」と。ゆゑに知りぬ、念はすなはちこれ唱なりと。

乃下合釈一

 問ひていはく、『経』(大経・上)には「乃至」といひ、〔善導の〕釈には「下至」といふ。その意いかん。
答へていはく、乃至と下至とその意これ一なり。『経』に「乃至」といふは、多より少に向かふ言なり。多といふは上一形を尽すなり。少といふは下十声・一声等に至るなり。釈に「下至」といふは、下とは上に対する言なり。下とは下十声・一声等に至るなり。上とは上一形を尽すなり。上下相対の文その例多しといへども、宿命通の願(第五願)にのたまはく(同・上)、「たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人天宿命を識らずして、下百千億那由他諸劫の事を知らざるに至るといはば、正覚を取らじ」と。
かくのごとく五神通および光明・寿命等の願のなかに、一々に「下至」の言を置く。これすなはち多より少に至り、下をもつて上に対する義なり。上の八種の願に例するに、いまこの願の「乃至」はすなはちこれ下至なり。このゆゑにいま善導の引釈するところの「下至」の言、その意相違せず。
念仏往生の願
ただし善導と諸師とその意不同なり。諸師の釈には別して十念往生の願(第十八願)といふ。善導独り総じて念仏往生の願といへり。
諸師の別して十念往生の願といふは、その意すなはちあまねからず。しかる所以は、上一形を捨て、下一念を捨つるゆゑなり。
善導の総じて念仏往生の願といふは、その意すなはちあまねし。しかる所以は、上一形を取り、下一念を取るゆゑなり。

三輩章

【4】三輩念仏往生の文。

 「仏、阿難に告げたまはく、〈十方世界の諸天・人民、それ心を至しかの国に生ぜんと願ずることあるに、おほよそ三輩あり。その上輩は、家を捨て欲を棄てしかも沙門となりて、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ふ。

これらの衆生は、寿終る時に臨みて、無量寿仏、もろもろの大衆とその人の前に現じて、すなはちかの仏に随ひてその国に往生して、すなはち七宝の華のなかにおいて自然に化生して不退転に住す。智慧勇猛、神通自在なり。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し、功徳を修行しかの国に生ぜんと願ずべし〉と。

 仏、阿難に語りたまはく、〈その中輩は、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生ぜんと願ずることあるに、行じて沙門となることあたはずといへども、大きに功徳を修し、まさに無上菩提の心を発して、一向にもつぱら無量寿仏を念じ、多少善を修し、斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、を懸け、灯を燃し、華を散じ、香を焼き、これをもつて回向してかの国に生ぜんと願ずべし。その人終りに臨みて、無量寿仏その身を化現して、光明・相好つぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とその人の前に現じたまふ。 すなはち化仏に随ひてその国に往生して、不退転に住す。功徳・智慧次いで上輩のもののごとし〉と。

 仏、阿難に告げたまはく、〈その下輩は、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生ぜんと欲することあるに、たとひもろもろの功徳をなすことあたはずとも、まさに無上菩提の心を発して、一向に意をもつぱらにして、乃至十念無量寿仏を念じて、その国に生ぜんと願ずべし。もし深法を聞き歓喜信楽して、疑惑を生ぜず、乃至一念かの仏を念じ、至誠心をもつてその国に生ぜんと願ず。この人終りに臨みて、夢にかの仏を見て、また往生することを得。 功徳・智慧次いで中輩のもののごとし〉」(大経・下)と。

 わたくしに問ひていはく、上輩の文のなかに、念仏のほかにまた捨家棄欲等の余行あり。中輩の文のなかに、また起立塔像等の余行あり。下輩の文のなかに、また菩提心等の余行あり。なんがゆゑぞただ念仏往生といふや。
答へていはく、善導和尚の『観念法門』にいはく、「またこの『経』(大経)の下巻の初めにのたまはく、〈仏(釈尊)、一切衆生の根性の不同を説きたまふに、上・中・下あり。
その根性に随ひて、仏、みなもつぱら無量寿仏の名を念ぜよと勧めたまふ。その人命終らんと欲する時、仏(阿弥陀仏)、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、ことごとく往生を得しめたまふ〉」と。この釈の意によるに、三輩ともに念仏往生といふ。
 問ひていはく、この釈いまだ前の難を遮せず。なんぞ余行を棄ててただ念仏といふや。
答へていはく、これに三の意あり。一には諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説く。
二には念仏を助成せんがためにしかも諸行を説く。
三には念仏・諸行の二門に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行を説く。

廃立

 一に、諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。

助正

 二に、念仏を助成せんがためにこの諸行を説くとは、これにまた二の意あり。一には同類の善根をもつて念仏を助成す。二には異類の善根をもつて念仏を助成す。
初めに同類の助成とは、善導和尚の『観経の疏』(散善義)のなかに、五種の助行を挙げて念仏一行を助成すこれなり。つぶさに上の正雑二行のなかに説くがごとし。
次に異類の助成とは、先づ上輩につきて正助を論ぜば、「一向にもつぱら無量寿仏を念ず」(大経・下)とはこれ正行なり、またこれ所助なり。「家を捨て欲を棄て沙門となりて、菩提心を発す」(同・下)等はこれ助行なり、またこれ能助なり。いはく往生の業には念仏を本となす。ゆゑに一向に念仏を修せんがために、「家を捨て欲を棄て沙門となりて、また菩提心を発す」(大経・下)等なり。
就中出家・発心等は、しばらく初出および初発を指す。念仏はこれ長時不退の行、むしろ念仏を妨礙すべけんや。中輩のなかに、また起立塔像懸繒・燃灯・散華・焼香等の諸行あり。これすなはち念仏の助成なり。その旨『往生要集』(中)に見えたり。いはく助念方法のなかの方処供具等これなり。下輩のなかに、また発心あり、また念仏あり。助正の義前に准じて知るべし。

傍正

 三に、念仏・諸行に約して、おのおの三品を立てんがためにしかも諸行を説くといふは、先づ念仏に約して三品を立つとは、いはくこの三輩のなかに、通じてみな「一向専念無量寿仏」(大経・下)といふ。
これすなはち念仏門に約してその三品を立つ。ゆゑに『往生要集』(下)の念仏証拠門にいはく、「『双巻経』(大経)の三輩の業、浅深ありといへども、しかも通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といふ」と。[感師(懐感)これに同じ。]
次に諸行門に約して三品を立つとは、いはくこの三輩のなかに通じてみな菩提心等の諸行あり。これすなはち諸行に約してその三品を立つ。ゆゑに『往生要集』(下)の諸行往生門にいはく、「『双巻経』(大経)の三輩またこれを出でず」と。{以上}
 おほよそかくのごときの三義不同ありといへども、ともにこれ一向念仏のための所以なり。初めの義はすなはちこれ廃立のために説く。いはく諸行は廃せんがために説く、念仏は立せんがために説く。
次の義はすなはちこれ助正のために説く。いはく念仏の正業を助けんがために諸行の助業を説く。後の義はすなはちこれ傍正のために説く。いはく念仏・諸行の二門を説くといへども、念仏をもつて正となし、諸行をもつて傍となす。ゆゑに三輩通じてみな念仏といふ。ただしこれらの三義は殿最知りがたし。請ふ、もろもろの学者、取捨心にあり。
いまもし善導によらば、初め(廃立)をもつて正となすのみ。

輩品開合

 問ひていはく、三輩の業みな念仏といふ。その義しかるべし。ただし『観経』の九品と『寿経』(大経)の三輩と、本これ開合の異なり。もししからば、なんぞ『寿経』の三輩のなかにはみな念仏といひ、『観経』の九品に至りて上・中の二品には念仏を説かず、下品に至りてはじめて念仏を説くや。
答へていはく、これに二の義あり。一には問端にいふがごとく、『双巻』(大経)の三輩と『観経』の九品とは開合の異ならば、これをもつて知るべし、九品のなかにみな念仏あるべし。いかんが知ることを得る。
三輩のなかにみな念仏あり。九品のなかなんぞ念仏なからんや。ゆゑに『往生要集』(下)にいはく、「問ふ。念仏の行、九品のなかにおいてこれいづれの品の摂ぞや。
答ふ。もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり。かくのごとくその勝劣に随ひて九品を分つべし。しかるに『経』(観経)に説くところの九品の行業はこれ一端を示す。理実に無量なり」と。{以上}
ゆゑに知りぬ、念仏また九品に通ずべしといふことを。二には『観経』の意、初め広く定散の行を説きて、あまねく衆機に逗ず。後には定散二善を廃して、念仏一行に帰す。いはゆる「汝好持是語」等の文これなり。その義につぶさに述ぶるがごとし。ゆゑに知りぬ、九品の行はただ念仏にありといふことを。

無上功徳の開顕

利益章

【5】念仏利益の文。

 『無量寿経』の下にのたまはく、「仏、弥勒に語りたまはく、〈それかの仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜踊躍し、乃至一念せん。まさに知るべし、この人は大利を得となす。すなはちこれ無上の功徳を具足す〉」と。

 善導の『礼讃』にいはく、

「それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一念を至すもの、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。
 わたくしに問ひていはく、上の三輩の文に准ずるに、念仏のほかに菩提心等の功徳を挙ぐ。なんぞかれらの功徳を歎めずして、ただ独り念仏の功徳を讃むるや。
答へていはく、聖意測りがたし。さだめて深き意あらんか。
しばらく善導の一意によりてしかもこれをいはば、原それ仏意はまさしくただちにただ念仏の行を説かんと欲すといへども、機に随ひて一往菩提心等の諸行を説きて、三輩の浅深不同を分別す。
しかるをいま諸行においてはすでに捨てて歎めたまはず。置きて論ずべからざるものなり。ただ念仏の一行につきてすでに選びて讃歎す。思ひて分別すべきものなり。
もし念仏に約して三輩を分別せば、これに二の意あり。
一には観念の浅深に随ひてこれを分別す。二には念仏の多少をもつてこれを分別す。
浅深は上に引くところのごとし。「もし説のごとく行ぜば、理上上に当れり」(往生要集・下)と、これなり。次に多少は、下輩の文のなかにすでに十念乃至一念の数あり。上・中の両輩はこれに准じて随ひて増すべし。
『観念法門』にいはく、「日別に念仏一万遍、またすべからく時によりて浄土の荘厳を礼讃すべし。はなはだ精進すべし。あるいは三万・六万・十万を得るものは、みなこれ上品上生の人なり」と。
まさに知るべし、三万以上はこれ上品上生の業、三万以去は上品以下の業なり。すでに念数の多少に随ひて品位を分別することこれ明らけし。
いまこの「一念」といふは、これ上の念仏の願成就(第十八願成就文)のなかにいふところの一念と下輩のなかに明かすところの一念とを指す。願成就の文のなかに一念といふといへども、いまだ功徳の大利を説かず。また下輩の文のなかに一念といふといへども、また功徳の大利を説かず。

無上功徳

この〔流通分の〕一念に至りて、説きて大利となし、歎めて無上となす。まさに知るべし、これ上の一念を指す。この「大利」とはこれ小利に対する言なり。しかればすなはち菩提心等の諸行をもつて小利となし、乃至一念をもつて大利となす。
また「無上の功徳」とはこれ有上に対する言なり。余行をもつて有上となし、念仏をもつて無上となす。すでに一念をもつて一無上となす。まさに知るべし、十念をもつて十無上となし、また百念をもつて百無上となし、また千念をもつて千無上となす。
かくのごとく展転して少より多に至る。念仏恒沙なれば、無上の功徳また恒沙なるべし。かくのごとく知るべし。しかればもろもろの往生を願求せん人、なんぞ無上大利の念仏を廃して、あながちに有上小利の余行を修せんや。

末法と特留念仏

特留章

【6】末法万年の後に余行ことごとく滅し、特に念仏を留めたまふ文。

 『無量寿経』の下巻にのたまはく、「当来の世に経道滅尽せんに、われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳ならしめん。それ衆生ありてこの経に値ふもの、意の所願に随ひてみな得度すべし」と。

 わたくしに問ひていはく、『経』(大経・下)にただ「特留此経止住百歳」といひて、まつたくいまだ「特留念仏止住百歳」といはず。しかるにいまなんぞ「特留念仏」といふや。
答へていはく、この経の詮ずるところまつたく念仏にあり。その旨前に見えたり。再び出すにあたはず。善導・懐感・恵心(源信)等の意またかくのごとし。しかればすなはちこの経の「止住」は、すなはち念仏の止住なり。
しかる所以は、この経に菩提心の言ありといへども、いまだ菩提心の行相を説かず。また持戒の言ありといへども、いまだ持戒の行相を説かず。しかるに菩提心の行相を説くことは広く『菩提心経』等にあり。かの経先に滅しなば、菩提心の行なにによりてかこれを修せん。
また持戒の行相を説くことは広く大小の戒律にあり。かの戒律先に滅しなば、持戒の行なにによりてかこれを修せん。自余の諸行これに准じて知るべし。
ゆゑに善導和尚の『往生礼讃』にこの文を釈していはく、
「万年に三宝滅しなば、この『経』(大経)住すること百年あらん。その時に聞きて一念せん、みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。
 またこの文を釈するに略して四の意あり。一には聖道・浄土二教の住滅の前後、二には十方・西方二教の住滅の前後、三には兜率・西方二教の住滅の前後、四には念仏・諸行二行の住滅の前後なり。一に聖道・浄土二教の住滅の前後といふは、いはく聖道門の諸経は先に滅す、ゆゑに「経道滅尽」といふ。
浄土門のこの経は特り留まる、ゆゑに「止住百歳」といふ。
まさに知るべし、聖道は機縁浅薄にして、浄土は機縁深厚なりといふことを。二に十方・西方二教の住滅の前後といふは、いはく十方浄土往生の諸教先に滅す、ゆゑに「経道滅尽」といふ。西方浄土往生はこの経特り留まる、ゆゑに「止住百歳」といふ。
まさに知るべし、十方浄土は機縁浅薄にして、西方浄土は機縁深厚なり。三に兜率・西方二教の住滅の前後といふは、いはく上生『上生』『心地』等の上生兜率の諸教は先に滅す、ゆゑに「経道滅尽」といふ。往生西方のこの経特り留まる、ゆゑに「止住百歳」といふ。まさに知るべし、兜率は近しといへども縁浅く、極楽は遠しといへども縁深し。
四に念仏・諸行二行の住滅の前後といふは、諸行往生の諸教は先に滅す、ゆゑに「経道滅尽」といふ。念仏往生はこの経特り留まる、ゆゑに「止住百歳」といふ。
まさに知るべし、諸行往生は機縁もつとも浅く、念仏往生は機縁はなはだ深し。しかのみならず、諸行往生は縁少なく、念仏往生は縁多し。また諸行往生は近く末法万年の時を局る。
念仏往生は遠く法滅百歳の代に霑ふ。
 問ひていはく、すでに「われ慈悲をもつて哀愍して、特にこの経を留めて止住すること百歳ならん」(大経・下)といふ。もししからば釈尊、慈悲をもつてしかも経教を留めたまはんに、いづれの経いづれの教か、しかも留まらざらんや。しかるをなんぞ余経を留めずして、ただこの経を留めたまふや。
答へていはく、たとひいづれの経を留むといへども、別して一経を指さば、またこの難を避らじ。ただ特にこの経を留むる、その深き意あるか。もし善導和尚の意によらば、この経のなかにすでに弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)を説けり。釈迦、慈悲をもつて念仏を留めんがために、殊にこの経を留めたまふ。余経のなかにはいまだ弥陀如来の念仏往生の本願を説かず。
ゆゑに釈尊、慈悲をもつてこれを留めたまはず。おほよそ四十八願みな本願なりといへども、殊に念仏をもつて往生のとなす。
ゆゑに善導釈していはく(法事讃・上)、
弘誓、門多くして四十八なれども、ひとへに念仏を標してもつとも親しとなす。
人よく仏(阿弥陀仏)を念ずれば、仏還りて念じたまふ。専心に仏を想へば、仏、人を知りたまふ」と。{以上}

王本願

 ゆゑに知りぬ、四十八願のなかに、すでに念仏往生の願(第十八願)をもつて本願中の王となすといふことを。ここをもつて釈迦の慈悲、特にこの経をもつて止住すること百歳するなり。例するに、かの『観無量寿経』のなかに、定散の行を付属せずして、ただ孤り念仏の行を付属したまふがごとし。これすなはちかの仏願に順ずるがゆゑに、念仏一行を付属す。
 問ひていはく、百歳のあひだ念仏を留むべきこと、その理しかるべし。
この念仏の行は、ただかの時機に被らしむとやなさん、はた正像末の機に通ずとやなさん。
答へていはく、広く正像末法に通ずべし。後を挙げて今を勧む。その義知るべし。

観経による廃立念仏

摂取章

【7】弥陀の光明余行のものを照らさず、ただ念仏の行者を摂取する文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「無量寿仏に八万四千のあり。一々の相に八万四千の随形好あり。一々の好に八万四千の光明あり。一々の光明あまねく十方世界の念仏の衆生を照らし、摂取して捨てたまはず」と。

 同経の『疏』(定善義)にいはく、「〈無量寿仏〉より下〈摂取不捨〉に至るまでよりこのかたは、まさしく身の別相を観ずるに、光有縁を益することを明かす。すなはちその五あり。一には相の多少を明かし、二にはの多少を明かし、三には光の多少を明かし、四には光の照らす遠近を明かし、五には光の及ぶところの処、ひとへに摂益を蒙ることを明かす。

 問ひていはく、つぶさに衆行を修してただよく回向すれば、みな往生を得。なにをもつてか仏の光あまねく照らすにただ念仏者を摂する、なんの意かあるや。

 答へていはく、これに三義あり。一には親縁を明かす。衆生、行を起して口につねに仏を称すれば、仏すなはちこれを聞きたまふ。身につねに仏を礼敬すれば、仏すなはちこれを見たまふ。心につねに仏を念ずれば、仏すなはちこれを知りたまふ。衆生仏を憶念すれば、仏また衆生を憶念したまふ。彼此の三業あひ捨離せず。ゆゑに親縁と名づく。二には近縁を明かす。衆生仏を見んと願ずれば、仏すなはち念に応じて現じて目の前にまします。ゆゑに近縁と名づく。三には増上縁を明かす。

衆生称念すれば、すなはち多劫の罪を除きて、命終らんと欲する時、仏、聖聚とみづから来りて迎接したまふ。もろもろの邪業繋よく礙ふるものなし。ゆゑに増上縁と名づく。

自余の衆行はこれ善と名づくといへども、もし念仏に比ぶれば、まつたく比校にあらず。このゆゑに、諸経のなかに処々に広く念仏の功能を讃む。『無量寿経』の四十八願のなかのごときは、ただもつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と明かす。

また『弥陀経』のなかのごときは、一日七日もつぱら弥陀の名号を念じて生ずることを得と。また十方恒沙の諸仏の虚しからずと証誠したまふ。またこの『経』(観経)の定散の文のなかには、ただもつぱら名号を念じて生ずることを得と標せり。この例一にあらず。広く念仏三昧を顕しをはりぬ」と。

 『観念法門』にいはく、「また前のごときの身相等の光一々あまねく十方世界を照らすに、ただもつぱら阿弥陀仏を念ずる衆生のみありて、かの仏の心光つねにこの人を照らして、摂護して捨てたまはず。すべて余の雑業の行者を照摂することをば論ぜず」と。

 わたくしに問ひていはく、仏の光明ただ念仏者を照らして、余行のものを照らさざるはなんの意かあるや。
答へていはく、解するに二の義あり。
一には親縁等の三の義、文のごとし。二には本願の義、いはく余行は本願にあらざるがゆゑに、これを照摂したまはず。念仏はこれ本願のゆゑに、これを照摂したまふ。ゆゑに善導和尚の『六時礼讃』にいはく、
「弥陀の身色は金山のごとし。相好の光明は十方を照らす。
ただ仏を念ずるのみありて光接を蒙る。まさに知るべし、本願もつと
も強しとなす」と。{以上}
 また引くところの文(定善義)のなかに、「自余衆善雖名是善若比念仏者全非比校也」といふは、意のいはく、これ浄土門の諸行に約して比論するところなり。念仏はこれすでに二百一十億のなかに選取するところの妙行なり。諸行はこれすでに二百一十億のなかに選捨するところの粗行なり。
ゆゑに「全非比校也」といふ。また念仏はこれ本願の行なり。諸行はこれ本願にあらず。ゆゑに「全非比校也」といふ。

信心の修相

三心章

【8】念仏の行者かならず三心を具足すべき文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生しなん。なんらをか三となす。一には至誠心、二には深心、三には回向発願心なり。三心を具すればかならずかの国に生ず」と。

至誠心

 同経の『疏』(散善義)にいはく、「『経』(観経)にのたまはく、〈一には至誠心〉と。〈至〉は真なり。〈誠〉は実なり。一切衆生の身口意業に修するところの解行かならず真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

貪瞋・邪偽・奸詐百端にして悪性侵しがたし。事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども名づけて雑毒の善となす。また虚仮の行と名づく。真実の業と名づけず。もしかくのごとき安心・起行をなせば、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になして、頭燃を救ふがごとくすとも、すべて雑毒の善と名づく。

この雑毒の行を回らして、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑぞ。まさしくかの阿弥陀仏の因中に菩薩の行を行じたまひし時に、乃至一念一刹那も、三業に修するところ、みなこれ真実心のうちになしたまひしによりてなり。おほよそ施為・趣求するところ、またみな真実なるべし。

また真実に二種あり。一には自利の真実、二には利他の真実なり。

自利の真実といふは、また二種あり。一には真実心のうちに、自他の諸悪および穢国等を制捨して、行住坐臥に一切の菩薩の諸悪を制捨するに同じく、われもまたかくのごとくならんと想ふなり。

二には真実心のうちに、自他の凡聖等の善を勤修して、真実心のうちに、口業をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を讃 歎し、また真実心のうちに、口業をもつて三界・六道等の自他の依正二報の苦悪の事を毀厭し、また一切衆生の三業所為の善を讃歎す。善業にあらざるをばつつしみてこれを遠ざかれ、また随喜せざれ。また真実心のうちに、身業をもつて合掌礼敬し、四事等をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を供養す。

また真実心のうちに、身業をもつてこの生死三界等の自他の依正二報を軽慢し厭捨し、また真実心のうちに、意業をもつてかの阿弥陀仏および依正二報を思想し観察し憶念して、目前に現ずるがごとくにし、また真実心のうちに、意業をもつてこの生死三界等の自他の依正二報を軽賤し厭捨し、不善の三業をばかならずすべからく真実心のうちに捨つべし。またもし善の三業を起さば、かならずすべからく真実心のうちになすべし。内外明闇を簡ばず、みなすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。

深心

 〈二には深心〉と。〈深心〉といふはすなはちこれ深信の心なり。また二種あり。

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

二には決定して深く、かの阿弥陀仏の、四十八願をもつて衆生を摂受したまふこと、疑なく慮りなくかの願力に乗りてさだめて往生を得と信ず。

また決定して深く、釈迦仏のこの『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふを信ず。 また決定して深く、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧したまふ、決定して生ずることを得と信ず。また深信とは、仰ぎ願はくは、一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定してより行じて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行じ、仏の去らしめたまふ処をばすなはち去る。 これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づけ、これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。また一切の行者ただよくこの『経』(観経)によりて深信して行ずるものは、かならず衆生を誤たじ。なにをもつてのゆゑに。

仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに。実語のゆゑに。仏を除きてよりこのかたは智行いまだ満たずして、その学地にありて、正習二障ありていまだ除かず、果願いまだ円かならざるによりて、これらの凡聖はたとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏の証を請じて定となすべし。もし仏の意に称へばすなはち印可して、〈如是如是〉とのたまふ。もし仏の意に可はざれば、すなはち〈なんぢらの所説、この義不如是〉とのたまふ。印したまはざるは、すなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。

もし仏のあらゆる言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多、もしは少、もろもろの菩薩・人・天等を問はず、その是非を定む。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づく、知るべし。このゆゑにいまの時、仰ぎて一切の有縁の往生人等に勧む。ただ深く仏語を信じて専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙をなし、惑ひを抱きてみづから迷ひて、往生の大益を 廃失すべからず。

また深心は〈深信なり〉とは、決定して自心を建立して、教に順じて修行して、永く疑錯を除きて、一切の別解・別行異学・異見異執のために、退失し傾動せられざるなり。問ひていはく、凡夫は智浅く、惑障処深し。もし解行不同の人に、多く経論を引きて来りてあひ妨難し、証して〈一切の罪障の凡夫往生を得ず〉といふに逢はんに、いかんがかの難を対治して、信心を成就して、決定して直に進みて、怯退を生ぜざらんや。

答へていはく、もし人ありて多く経論の証を引きて、〈生ぜず〉といはば、行者すなはち報へていへ、〈なんぢ、経論をもつて来り証して《生ぜず》といふといへども、わが意のごときは決定してなんぢが破を受けず。なにをもつてのゆゑに。しかもわれまた、これかのもろもろの経論を信ぜざるにはあらず。ことごとくみな仰信す。しかるに仏かの経を説きたまふ時は、処別に、時別に、対機別に、利益別なり。またかの経を説きたまふ時は、すなはち『観経』・『弥陀経』等を説きたまふ時にあらず。しかるに仏の説教は、機に備ひて時また不同なり。かれすなはち通じて人・天・菩薩の解行を説く。いま『観経』の定散二善を説くは、ただ韋提および仏の滅後の五濁・五苦等の一切凡夫のために、証して《生ずることを得》とのたまふ。

この因縁のために、われいま一心にこの仏教によりて決定して奉行す。たとひなんぢら百千万億ありて《生ぜず》といふとも、ただわが往生の信心を増長し成就せん〉と。また行者さらに向かひて説きていへ。 〈なんぢよく聴け。われいまなんぢがためにまた決定の信相を説かん。たとひ地前の菩薩・羅漢・辟支仏等、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、みな経論の証を引きて《生ぜず》といはば、われまたいまだ一念の疑心を起さじ。ただわが清浄の信心を増長し成就せん。なにをもつてのゆゑに。仏語は決定成就の了義にして、一切のために破壊せられざるによるがゆゑに〉と。

また行者よく聴け。たとひ初地以上十地以来、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、異口同音にみないはく、〈釈迦仏、弥陀を指讃し、三界・六道を毀呰して、衆生を勧励し、《専心に念仏し、および余善を修して、この一身を畢へて後に必定してかの国に生ず》といふは、これはかならず虚妄なり、依信すべからず〉と。われこれらの所説を聞くといへども、また一念の疑心を生ぜずして、ただわが決定して上上の信心を増長し成就せん。

なにをもつてのゆゑに。すなはち仏語は真実の決了の義なるによるがゆゑに。仏はこれ実知・ 実解・実見・実証にして、これ疑惑の心中の語にあらざるがゆゑに。また一切の菩薩の異見・異解のために破壊せられず。もし実にこれ菩薩ならば衆く仏教に違はじ。またこの事を置け。行者まさに知るべし。たとひ化仏・報仏、もしは一、もしは多、乃至、十方に遍満して、おのおの光を輝かし、舌を吐きて、あまねく十方に覆ひて、一々に説きてのたまはく、〈釈迦の所説にあひ讃め、一切の凡夫を勧発して、《専心に念仏し、および余善を修して、回願してかの浄土に生ずることを得》といふは、これはこれ虚妄なり、さだめてこの事なし〉と。

われこれらの諸仏の所説を聞くといへども、畢竟じて一念の疑退の心を起して、かの仏国に生ずることを得ずと畏れじ。なにをもつてのゆゑに。一仏は一切仏なり。あらゆる知見・解行・証悟・果位・大悲、等同にして少しき差別なし。このゆゑに一仏の制したまふところは、すなはち一切の仏同じく制したまふ。前仏の殺生・十悪等の罪を制断したまふがごとく、畢竟じて犯せず行ぜざるは、すなはち十善・十行と名づけ、六度の義に随順す。もし後仏ありて世に出でんに、あに前の十善を改めて十悪を行ぜしむべけんや。この道理をもつて推験するに、あきらかに知りぬ。諸仏の言行はあひ違失せず。たとひ釈迦一切の凡夫を指し勧めて、〈この一身を尽して専念専修して、命を捨てて以後にさだめてかの国に生ず〉といふは、すなはち十方の諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。

なにをもつてのゆゑに。同体の大悲のゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切の仏の化なり。一切の仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説きたまはく、釈迦極楽の種々の荘厳を讃歎し、また一切凡夫を勧めて、〈一日七日、一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。次下の文(同)にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦を讃めて、よく五濁悪時、悪世界、悪衆生、悪煩悩、悪邪、無信の盛りなる時において、弥陀の名号を指讃して、衆生を勧励して、《称念すればかならず往生を得》〉と。すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざることを恐畏して、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。〈なんぢら衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽して、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ること、かならず疑なし〉と。

このゆゑに一仏の所説は、すなはち一切の仏同じくその事を証誠したまふ。これをに就きて信を立つと名づく。次に行に就きて信を立つとは、しかるに行に二種あり。一には正行、二には雑行なり。[云々。前の二行のなかに引くところのご とし。繁きを恐れて載せず。見る人、意を得よ。]

回向発願心

 三には〈回向発願心〉と。〈回向発願心〉といふは、過去および今生の身口意業に修するところの世・出世の善根、および他の一切の凡聖の身口意業に修するところの世・出世の善根を随喜して、この自他の所修の善根をもつて、ことごとくみな真実の深信の心のうちに回向して、かの国に生ぜんと願ず。ゆゑに回向発願心と名づく。また回向発願とは、かならずすべからく決定の真実心のうちに回向して、得生の想を願作すべし。この心深く信ずることなほ金剛のごとく、一切の異見・異学別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉りて、正直に進みて、かの人の語を聞きて、すなはち進退ありて、心に怯弱を生じて、回顧して道に落ちて、すなはち往生の大益を失ふことを得ざれ。

 問ひていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、種々の疑難を説きて、〈往生を得ず〉といひ、あるいはいはん、〈なんぢら衆生、曠劫よりこのかたおよび今生の身口意業に、一切の凡聖の身の上においてつぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかもこれらの罪は三界の悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をもつて、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや〉と。

答へていはく、諸仏の教行、数塵沙に越えたり。稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。たとへば世間の人の眼に見つべく信じつべきがごときは、明はよく闇を破し、空はよく有を含す、地はよく載養す、水はよく生潤す、火はよく成壊するがごとし。かくのごとき等の事、ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし。千差万別なり。いかにいはんや仏法の不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一の門より出づといふは、すなはち一の煩悩の門より出づるなり。随ひて一の門より入るといふは、すなはち一の解脱智慧の門より入るなり。これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求む。なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁にあらざる要行をもつてわれを障惑する。しかもわが愛するところは、すなはちこれわ有縁の行なり。すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが愛するところは、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。またわが所求にあらず。

このゆゑに所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。行者まさに知るべし。もしを学せんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで、一切無礙にみな学することを得よ。もし行を学せんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに多く益を得。

二河白道

 また一切の往生人等にまうす。いまさらに行者のために一の譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。何の者かこれや。たとへば、人ありて西に向かひて百千の里を行かんと欲するに、忽然として中路に二の河あり。一はこれ火の河、南にあり。二はこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深さ底もなく、南北辺なし。まさしく水火の中間に一の白道あり。闊さ四五寸ばかりなるべし。この道東の岸より西の岸に至るまで、また長さ百歩、その水の波浪交過して道を湿す。その火の炎また来りて道を焼く。

水火あひ交はりてつねに休息することなし。この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣のみあり。この人の単独なるを見て、競ひ来りて殺さんと欲す。この人死を怖れて直に走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見る。すなはちみづから念言すらく、〈この河南北に辺畔を見ず。中間に一の白道を見る。きはめてこれ狭少なり。二の岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死すること疑はず。

まさしく到り回らんと欲すれば、群賊・悪獣漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんと欲すれば、悪獣・毒虫競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去らんと欲すれば、またおそらくはこの水火の二河に堕することを〉と。時に当りて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回るともまた死なん。住すともまた死なん。去るともまた死なん。一種として死を勉れじ。われむしろこの道を尋ねて前に向かひて去らん。すでにこの道あり。かならず度るべし〉と。

この念をなす時に、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く。〈なんぢ、ただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なからん。もし住せばすなはち死なん〉と。また西の岸の上に人ありて、喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念に直に来れ。われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕することを畏れざれ〉と。

この人すでにここに遣り、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねて直に進みて疑怯退心を生ぜず。あるいは行くこと一分二分するに、東の岸に群賊等喚ばひていはく、〈なんぢ回り来れ。この道嶮悪にして過ぐることを得じ。かならず死すること疑はず。われらすべて悪心をも つてあひ向かふことなし〉と。この人喚ばふ声を聞くといへども、また回顧せず。一心に直に進みて道を念じて行くに、須臾にすなはち西の岸に到りて、永く諸難を離れて、善友とあひ見て慶楽已むことなきがごとし。これはこれ喩へ なり。

合譬

 次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。〈西の岸〉といふは、すなはち極楽の宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈人なき空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふるなり。〈中間の白道四五寸なる〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄の願往生の心を生ずるに喩ふ。すなはち貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心はなるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。また〈水波つねに道を湿す〉といふは、すなはち愛心つねに起りて、よく善心を染汚するに喩ふ。また〈火炎つねに道を焼く〉といふは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人の道の上を行きて直に西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回して直に西方に向かふに喩ふ。

〈東の岸に人の声の勧め遣るを聞きて、道を尋ねて直に西に進む〉といふは、すなはち釈迦はすでに滅して、後の人見たてまつらざれども、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ。すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこ と一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見人等の、妄りに見解を説きてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失するに喩ふ。〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。

〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫に輪廻し、迷倒してみづから纏りて、解脱するに由なきに、仰ぎて釈迦の発遣して西方に指向したまふことを蒙り、また弥陀の悲心をもつて招喚したまふによりて、いま二尊(釈尊・阿弥陀仏)の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗りて、命を捨てをはりて後にかの国に生ずることを得て、仏とあひ見えて慶喜なんぞ極まらんと喩ふるなり。

 また一切の行者、行住坐臥三業に修するところ、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなしつねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また〈回向〉といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化するをまた回向と名づく。

 三心すでに具すれば、行として成ぜずといふことなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなからん。またこの三心はまた通じて定善の義に摂す、知るべし」と。

礼讃の三心

 『往生礼讃』にいはく、「問ひていはく、いま人を勧めて往生せしめんと欲はば、いまだ知らず、いかんが安心・起行して業をなしてか、さだめてかの国土に往生することを得んや。答へていはく、かならず浄国の土に往生せんと欲はば、『観経』の説のごときは、三心を具すればかならず往生を得。なんらをか三となす。一には至誠心、いはゆる身業をもつてかの仏を礼拝し、口業をもつてかの仏を讃歎称揚し、意業をもつてかの仏を専念観察す。おほよそ三業を起すに、かならずすべからく真実なるべし。ゆゑに至誠心と名づく。二には深心、すなはちこれ真実の信心をもつて、自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知し、いま弥陀の本弘誓願、名号 を称すること下十声・一声等に至るに及ぶまでさだめて往生を得と信知して、乃至一念も疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく。三には回向発願心、所作の一切の善根ことごとくみな往生に回願す。ゆゑに回向発願心と名づく。この三心を具すれば、かならず生ずることを得、もし一心少けぬれば、すなはち生ずることを得ず。『観経』につぶさに説くがごとし、知るべし」と。

 わたくしにいはく、引くところの三心はこれ行者の至要なり。所以はいかんぞ。『経』(観経)にはすなはち、「具三心者必生彼国」といふ。あきらかに知りぬ、三を具すればかならず生ずることを得べし。『釈』(礼讃)にはすなはち、「若少一心即不得生」といふ。
あきらかに知りぬ、一も少けぬればこれさらに不可なり。これによりて極楽に生れんと欲はん人は、まつたく三心を具足すべし。そのなかに「至誠心」とはこれ真実の心なり。
その相、かの文(散善義)のごとし。ただし「外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐く」といふは、外は内に対する辞なり。いはく外相と内心と不調の意なり。すなはちこれ外は智、内は愚なり。賢といふは愚に対する言なり。いはく外はこれ賢、内はすなはち愚なり。善は悪に対する辞なり。
いはく外はこれ善、内はすなはち悪なり。精進は懈怠に対する言なり。いはく外には精進の相を示し、内にはすなはち懈怠の心を懐く。もしそれ外を翻じて内に蓄へば、まことに出要に備ふべし。「内に虚仮を懐く」と等とは、内は外に対する辞なり。いはく内心と外相と不調の意なり。すなはちこれ内は虚、外は実なり。虚は実に対する言なり。いはく内は虚、外は実なるものなり。仮は真に対する辞なり。いはく内は仮、外は真なり。もしそれ内を翻じて外に播さば、また出要に足りぬべし。

信疑決判

次に「深心」とは、いはく深信の心なり。まさに知るべし、生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす。ゆゑにいま二種の信心を建立して、九品の往生を決定するものなり。
またこのなかに「一切の別解・別行・異学・異見」等といふは、これ聖道門の解・行・学・見を指す。その余はすなはちこれ浄土門の意なり。文にありて見るべし。あきらかに知りぬ、善導の意またこの二門を出でず。回向発願心の義、別の釈を俟つべからず。行者これを知るべし。
この三心は総じてこれをいへば、もろもろの行法に通ず。別してこれをいへば、往生の行にあり。いま通を挙げて別を摂す。
意すなはちあまねし。行者よく用心して、あへて忽諸せしむることなかれ。

四修章

【9】念仏の行者四修の法を行用すべき文。

 善導の『往生礼讃』にいはく、「また四修の法を勧行す。何者をか四となす。一には恭敬修。いはゆるかの仏および一切の聖衆等を恭敬礼拝す。ゆゑに恭敬修と名づく。畢命を期となして誓ひて中止せざる、すなはちこれ長時修なり。

二には無余修。いはゆるもつぱらかの仏の名を称して専念し専想し、もつぱらかの仏および一切の聖衆等を礼讃して、余業を雑へず。ゆゑに無余修と名づく。 畢命を期となして誓ひて中止せざる、すなはちこれ長時修なり。三には無間修。いはゆる相続して恭敬礼拝し、称名讃歎し、憶念観察し、回向発願し、心々に相続して余業をもつて来し間へず。ゆゑに無間修と名づく。また貪瞋煩悩をもつて来し間へず。犯せんに随ひ、随ひて懺せよ。念を隔て時を隔て日を隔てず。つねに清浄ならしめよ。また無間修と名づく。 畢命を期となして誓ひて中止せざる、すなはちこれ長時修なり」と。

 『西方要決』にいはく、「ただ四修を修してもつて正業となす。一には長時修。初発心よりすなはち菩提に至るまで、つねに浄因をなしてつひに退転なし。

二には恭敬修。これにまた五あり。一には有縁の聖人を敬ふ。いはく行住坐臥、西方を背かず、涕唾便痢、西方に向かはず。二には有縁の像教を敬ふ。いはく西方の弥陀の像変を造る。広く作ることあたはずは、ただ一仏二菩薩(阿弥陀仏・観音・勢至)を作ることまた得たり。教とは『弥陀経』等を五色の袋に盛れて、みづから読み他を教へよ。この経像を室のなかに安置して、六時に礼懺し、華香をもつて供養し、ことに尊重をなせ。三には有縁の善知識を敬ふ。

いはく浄土の教を宣ぶるものは、もしは千由旬・十由旬よりこのかた、ならびにすべからく敬重し親近し供養すべし。別学のものには総じて敬心を起せ。おのれと同ぜざるをば、ただ深く敬ふことを知れ。もし軽慢を生ぜば、罪を得ること窮まりなし。ゆゑにすべからくすべて敬ふべし。すなはち行障を除く。

四には同縁の伴を敬ふ。いはく同じく業を修するものなり。みづから障重くして独業成ぜずといへども、かならず良き朋によりてまさによく行をなせば、危きを扶け厄を救ふ。助力しあひ資けて、同伴の善縁深くあひ保重す。五には三宝を敬ふ。同体・別相ならびに深く敬ふべし。つぶさに録すことあたはず。浅き行者の依修することを果さざるためなり。住持の三宝とは、いまの浅識のために大因縁をなす。いまほぼ料簡すべし。仏宝といふは、いはくに雕り、に繍ひ、素質金容、玉を鏤め、に図し、石に磨り、土に削る。この霊像ことに尊承すべし。しばらく形を観たてまつれば、罪消えて福を増す。もし少慢を生ずれば、悪を長じ善を亡ず。ただし尊容を想ふに、まさに真仏を見つべし。

法宝といふは、三乗の教旨、法界の所流なり。名句の所詮、よく解縁を生ず。ゆゑにすべからく珍仰すべし。もつて慧を発す基なり。尊経を抄写してつねに浄室に安んぜよ。箱篋に盛れ貯へて、ならびに厳敬すべし。読誦の時は、身手清潔なれ。僧宝といふは、聖僧・菩薩・破戒の流なり。等心に敬ひを起せ。慢想を生ずることなかれ。三には無間修。いはくつねに念仏して往生の心をなす。

一切時において心につねに想ひ巧め。たとへば人ありて他に抄掠せられ、身下賤となりてつぶさに艱辛を受けんに、たちまちに父母を思ひて国に走り帰ることを欲す。行装いまだ弁ぜず。なほ他の郷にありて、日夜に思惟して、苦忍ぶるに堪へず。時としてしばらくも捨てて耶嬢を念ぜざることなきが、計をなすことすでに成じて、すなはち帰りて達することを得て、父母に親近してほしいままに歓娯するがごとし。行者もまたしかなり。往因の煩悩、善心を壊乱し、福智の珍財ならびにみな散失して、久しく生死に流れて、制するに自由ならず。つねに魔王のために僕使となりて、六道に駆馳し、身心を苦切す。いま善縁に遇ひて、たちまちに弥陀の慈父、弘願に違はず群生済抜したまふことを聞きて、日夜に驚忙して、心を発して往かんと願ふ。このゆゑに精勤して倦まずして、まさに仏恩を念ずべし。報じ尽すを期となして、心つねに計り念ふ べし。四には無余修。いはくもつぱら極楽を求めて弥陀を礼念するなり。

ただし諸余の業行雑起せしめざれ。所作の業、日別にすべからく念仏・誦経を修すべし。余課を留めざるのみ」と。

 わたくしにいはく、四修の文見つべし。繁きを恐れて解せず。ただし前文のなかに、すでに四修といひて、ただ三修のみあり。もしはその文を脱せるか、もしはその意あるか。さらに脱文にあらず。その深き意を有するなり。
なにをもつてか知ることを得る。四修とは、一には長時修、二には慇重修、三には無余修、四には無間修なり。しかるに初めの長時をもつて、ただこれ後の三修に通用す。いはく慇重もし退せば、慇重の行すなはち成ずべからず。無余もし退せば、無余の行すなはち成ずべからず。無間もし退せば、無間の修すなはち成ずべからず。この三修の行を成就せしめんがために、みな長時をもつて三修に属して、通じて修せしむるところなり。
ゆゑに三修の下にみな結して、「畢命為期誓不中止即是長時修」(礼讃)といふこれなり。例するにかの精進の余の五度に通ずるがごときのみ。

化讃章

【10】弥陀の化仏来迎して、聞経の善を讃歎せずして、ただ念仏の行を讃歎したまふ文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「あるいは衆生ありてもろもろの悪業を作り、方等経典を誹謗せずといへども、かくのごときの愚人、多く衆悪を造りて慚愧あることなし。命終らんと欲する時、善知識の、ために大乗の十二部経の首題の名字を讃むるに遇はん。 かくのごときの諸経の名を聞くをもつてのゆゑに、千劫の極重の悪業を除却す。智者また教へて、掌を合せ手を叉へて〈南無阿弥陀仏〉と称せしむ。

仏の名を称するがゆゑに、五十億劫の生死の罪を除く。その時かの仏、すなはち化仏・化観世音・化大勢至を遣はして、行者の前に至らしめ、〔化仏等の〕讃めてのたまはく、〈善男子、なんぢ仏名を称するがゆゑにもろもろの罪消滅すれば、われ来りてなんぢを迎ふ〉」と。

 同経の『疏』(散善義)にいはく、「聞くところの化讃、ただ称仏の功を述べて、〈われ来りてなんぢを迎ふ〉と、聞経の事を論ぜず。しかるに仏の願意に望むれば、ただ励めて正念に名を称せしむ。往生の義、疾きこと雑散の業に同じからず。この『経』(観経)および諸部のなかのごとき、処々に広く歎じて、勧めて名を称せしむ。まさに要益となす、知るべし」と。

 わたくしにいはく、聞経の善これ本願にあらず。雑業のゆゑに化仏讃めたまはず。念仏の行はこれ本願正業のゆゑに、化仏讃歎したまふ。
しかのみならず、聞経と念仏とは滅罪の多少不同なり。『観経疏』(散善義)にいはく、
「問ひていはく、なんがゆゑぞ、経を聞くこと十二部なるに、ただ罪を除くこと千劫、仏を称すること一声するには、すなはち罪を除くこと五百万劫なるは、なんの意ぞや。
答へていはく、造罪の人障重くして、加ふるに死苦来り逼むるをもつてす。善人多経を説くといへども、餐受の心浮散す。心散ずるによるがゆゑに、罪を除くことやや軽し。また仏名はこれ一なれば、すなはちよく散を摂してもつて心を住せしむ。また教へて正念に名を称せしむ。心重きによるがゆゑに、すなはちよく罪を除くこと多劫なり」と。

約対章

【11】雑善に約対して念仏を讃歎する文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「もし仏を念ずるもの、まさに知るべし、この人はすなはちこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐して諸仏の家に生るべし」と。同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈若念仏者〉といふより下〈生諸仏家〉に至るまでよりこのかたは、まさしく念仏三昧の功能超絶して、実に雑善の比類となすことを得るにあらざることを顕す。

すなはちその五あり。一にはもつぱら弥陀仏名を念ずることを明かし、二には能念の人を讃むることを明かし、三にはもしよく相続して念仏すれば、この人はなはだ希有となし、さらに物としてもつてこれに方ぶべきことなきことを明かす。ゆゑに分陀利を引きて喩へとなす。〈分陀利〉といふは、人中の好華と名づけ、また希有華と名づけ、また人中の上上華と名づけ、また人中の妙好華と名づく。この華相伝して蔡華と名づく。この念仏のものは、すなはちこれ人中の好人なり、人中の妙好人なり、人中の上上人なり、人中の希有人なり、人中の最勝人なり。四にはもつぱら弥陀の名を念ずれば、すなはち観音・勢至つねに随ひて影護したまふこと、また親友知識のごとくなることを明かす。五には今生にすでにこの益を蒙りて、命を捨ててすなはち諸仏の家に入ることを明かす。すなはち浄土これなり。かしこに到り長時に法を聞きて歴事し供養す因円かに果満ず。道場の座、あに賖(お)からんや」と。

 わたくしに問ひていはく、『経』(観経)には、「もし仏を念ずるもの、まさに知るべし、この人」等といふは、ただ念仏者に約してこれを讃歎す。釈の家(善導)なんの意ありてか、「実に雑善の比類となすことを得るにあらず」(散善義)といひて、雑善に相対して独り念仏を歎むるや。
答へていはく、文のなかに隠れたりといへども、義意これ明らけし。知る所以は、この『経』(観経)すでに定散の諸善ならびに念仏の行を説きて、そのなかにおいて孤り念仏を標して分陀利に喩ふ。雑善に待するにあらずは、いかんがよく念仏の功の余善諸行に超えたることを顕さん。
しかればすなはち「念仏者はすなはちこれ人中の好人」とは、これ悪に待して美むるところなり。「人中の妙好人」といふは、これ粗悪に待して称するところなり。
「人中の上上人」といふは、これ下下に待して讃むるところなり。「人中の希有人」といふは、これ常有に待して歎むるところなり。「人中の最勝人」といふは、これ最劣に待して褒むるところなり。
 問ひていはく、すでに念仏をもつて上上と名づけば、なんがゆゑぞ、上上品のなかに説かずして下下品に至りて念仏を説くや。
答へていはく、あに前にいはずや。念仏の行は広く九品に亘ると。すなはち前に引くところの『往生要集』(下)に、「その勝劣に随ひて九品を分つべし」といふこれなり。しかのみならず下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。
ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。ゆゑに弘法大師の『二教論』に、『六波羅蜜経』を引きていはく、「第三に法宝といふは、いはゆる過去無量の諸仏所説の正法、およびわがいまの所説なり。いはゆる八万四千のもろもろの妙法蘊なり。乃至、有縁の衆生を調伏し純熟して阿難陀等の諸大弟子をして、一たび耳に聞きてみなことごとく憶持せしむ。摂して五分となす。一には素咀纜、二には毘奈耶、三には阿毘達磨、四には般若波羅蜜多、五には陀羅尼門なり。この五種の蔵は有情を教化して、度すべきところに随ひて、ためにこれを説く。
もしかの有情、山林に処せんと楽ひて、つねに閑寂に居して静慮を修するものには、しかもかれのために素咀纜蔵を説く。もしかの有情、威儀を楽ひ習ひ、正法を護持して、一味和合して久住することを得しめんには、しかもかれのために毘奈耶蔵を説く。もしかの有情、正法を楽ひて説き、性相を分別し、循環研覈して甚深を究竟せんには、しかもかれのために阿毘達磨蔵を説く。
もしかの有情、大乗真実の智慧を楽ひ習ひて、我法執着の分別を離れんには、しかもかれのために般若波羅蜜多蔵を説く。もしかの有情、契経調伏対法般若を受持することあたはず、あるいはまた有情、もろもろの悪業を造らん。四重・八重・五無間罪・謗方等経・一闡提等の種々の重罪をして消滅することを得しめ、すみやかに解脱し、頓く涅槃を悟らしめんには、しかもかれのためにもろもろの陀羅尼蔵を説く。この五蔵は、たとへば乳・酪・生蘇・熟蘇および妙醍醐のごとし。契経は乳のごとく、調伏は酪のごとく、対法教はかの生蘇のごとく、大乗般若はなほ熟蘇のごとく、総持門はたとへば醍醐のごとし。醍醐の味はひ乳・酪・蘇のなかに微妙第一なり。よく諸病を除きて、もろもろの有情をして身心安楽ならしむ。
総持門は契経等のなかにもつとも第一となす。よく重罪を除き、もろもろの衆生をして生死を解脱してすみやかに涅槃安楽法身を証せしむ」と。{以上}
このなか、五無間罪はこれ五逆罪なり。すなはち醍醐の妙薬にあらずは、五無間の病はなはだ療しがたしとなす。
念仏もまたしかなり。往生の教のなかに念仏三昧はこれ総持のごとく、また醍醐のごとし。もし念仏三昧の醍醐の薬にあらずは、五逆深重の病ははなはだ治しがたしとなす、知るべし。
 問ひていはく、もししからば下品上生はこれ十悪軽罪の人なり。なんがゆゑぞ念仏を説くや。
答へていはく、念仏三昧は重罪なほ滅す。いかにいはんや軽罪をや。余行はしからず。あるいは軽を滅して重を滅せざるあり。あるいは一を消して二を消さざるあり。
念仏はしからず。軽重兼ね滅す、一切あまねく治す。たとへば阿伽陀薬のあまねく一切の病を治するがごとし。ゆゑに念仏をもつて王三昧となす。
おほよそ九品の配当はこれ一往の義なり。五逆の回心上上に通ず読誦の妙行また下下に通ず。十悪の軽罪、破戒の次罪おのおの上下に通じ、解第一義、発菩提心また上下に通ず。一法におのおの九品あり。もし品に約せば、すなはち九九八十一品なり。しかのみならず迦才(浄土論)のいはく、「衆生、行を起すにすでに千殊あり。往生して土を見ることまた万別あり」と。一往の文を見て封執を起すことなかれ。そのなかに念仏はこれすなはち勝行なり。ゆゑに分陀利を引きて、もつてその喩譬となす。
意知るべし。しかのみならず念仏行者をば、観音・勢至、影と形とのごとくしばらくも捨離せず。余行はしからず。
また念仏者は、命を捨てをはりて後決定して極楽世界に往生す。余行は不定なり。
 おほよそ五種の嘉誉を流し、二尊(観音・勢至)の影護を蒙る、これはこれ現益なり。また浄土に往生して、乃至、仏になる、これはこれ当益なり。
また道綽禅師念仏の一行において始終の両益を立つ。『安楽集』(下)にいはく、「〈念仏の衆生を摂取して捨てたまはず、寿尽きてかならず生ず〉(観経)と。
これを始益と名づく。終益といふは、『観音授記経』によるに、〈阿弥陀仏、世に住すること長久にして、兆載永劫にまた滅度したまふことあり。般涅槃の時、ただ観音・勢至ありて、安楽に住持し十方を接引す。その仏の滅度また住世と時節等同なり。
しかるにかの国の衆生は、一切、仏を覩見するものあることなし。ただ一向にもつぱら阿弥陀仏を念じて往生するもののみありて、つねに弥陀は現にましまして滅したまはずと見る〉と。
これはすなはちこれその終益なり」と。{以上}まさに知るべし。
念仏はかくのごとき等の現当二世、始終の両益あり、知るべし。

念仏付属章

【12】釈尊定散の諸行を付属せず、ただ念仏をもつて阿難に付属したまふ文。

 『観無量寿経』にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢよくこの語を持て。この語を持てとは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり〉」と。

 同経の『疏』(散善義)にいはく、「〈仏告阿難汝好持是語〉といふより以下は、まさしく弥陀の名号を付属して、遐代に流通することを明かす。上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」と。

 わたくしにいはく、『疏』(散善義)の文を案ずるに二行あり。一には定散、二には念仏なり。
初めに定散といふはまた分ちて二となす。一には定善、二には散善なり。初めに定善につきて、その十三あり。一には日想観、二には水想観、三には地想観、四には宝樹観、五には宝池観、六には宝楼閣観、七には華座観、八には像想観、九には阿弥陀仏観、十には観音観、十一には勢至観、十二には普往生観、十三には雑想観なり。
つぶさに経説のごとし。たとひ余行なしといへども、あるいは一、あるいは多、その所堪に随ひて十三観を修して往生を得べし。その旨『経』(観経)に見えたり。あへて疑慮することなかれ。
 次に散善につきて二あり。一には三福、二には九品なり。初めの三福とは、『経』(同)にのたまはく、「一には孝養父母、奉事師長、慈心不殺、修十善業。二には受持三帰、具足衆戒、不犯威儀。三には発菩提心、深信因果、読誦大乗、勧進行者なり」と。{以上経文}
「孝養父母」とは、これにつきて二あり。一には世間の孝養、二には出世の孝養なり。世間の孝養とは『孝経』等の説のごとし。出世の孝養とは中の生縁奉事の法のごとし。
「奉事師長」とは、これにつきてまた二あり。一には世間の師長、二には出世の師長なり。世間の師とは仁・義・礼・智・信等を教ふる師なり。出世の師とは聖道・浄土の二門等を教ふる師なり。たとひ余行なしといへども、孝養・奉事をもつて往生の業となすなり。
「慈心不殺、修十善業」とは、これにつきて二義あり。
一には初めの「慈心不殺」とは、これ四無量心のなかの初めの慈無量なり。すなはち初めの一を挙げて後の三を摂するなり。
たとひ余行なしといへども、四無量心をもつて往生の業となす。
次に「修十善業」とは、一は不殺生、二は不偸盗、三は不邪婬、四は不妄語、五は不綺語、六は不悪口、七は不両舌、八は不貪、九は不瞋、十は不邪見なり。
二には「慈心不殺、修十善業」の二句を合して一句となすとは、いはく初めの「慈心不殺」は、これ四無量のなかの慈無量にはあらず。これ十善の初めの不殺を指す。
ゆゑに知りぬ、まさしくこれ十善の一句なり。
たとひ余行なしといへども、十善業をもつて往生の業となす。「受持三帰」とは仏法僧に帰依するなり。これにつきて二あり。一は大乗の三帰、二は小乗の三帰なり。
「具足衆戒」とは、これに二あり。一は大乗戒、二は小乗戒なり。「不犯威儀」とは、これにまた二あり。一は大乗、いはく八万あり。二は小乗、いはく三千あり。
「発菩提心」とは、諸師の意不同なり。天台にはすなはち四教の菩提心あり。いはく蔵・通・別・円これなり。つぶさには『止観』の説のごとし。
真言にはすなはち三種の菩提心あり。いはく行願勝義三摩地これなり。つぶさには『菩提心論』の説のごとし。
華厳にはまた菩提心あり。かの『菩提心義』および『遊心安楽道』等の説のごとし。三論・法相におのおの菩提心あり。つぶさにはかの宗の章疏等の説のごとし。
また善導の所釈の菩提心あり。つぶさには『疏』(観経疏)に述ぶるがごとし。「発菩提心」、その言一なりといへども、おのおのその宗に随ひてその義不同なり。
しかればすなはち「菩提心」の一句、広く諸経に亘り、あまねく顕密を該ねたり。意気博遠にして詮測沖邈なり。願はくはもろもろの行者、一を執して万を遮することなかれ。もろもろの往生を求むる人、おのおのすべからく自宗の菩提心を発すべし。
たとひ余行なしといへども、菩提心をもつて往生の業となす。
「深信因果」とは、これにつきて二あり。一は世間の因果、二は出世の因果なり。世間の因果は、すなはち六道の因果なり。『正法念経』の説のごとし。出世の因果は、すなはち四聖の因果なり。もろもろの大小乗経の説のごとし。
もしこの因果二法をもつてあまねく諸経を摂せば、諸家不同なり。しばらく天台によらば、いはく『華厳』は仏・菩薩二種の因果を説き、「阿含」は声聞・縁覚の二乗の因果を説き、方等の諸経は四乗の因果を説く。
「般若」の諸経は通・別・円の因果を説き、『法華』は仏因仏果を説き、『涅槃』はまた四乗の因果を説く。しかればすなはち「深信因果」の言、あまねく一代を該ね羅ねたり。
もろもろの往生を求むる人、たとひ余行なしといへども、深信因果をもつて往生の業となすべし。
「読誦大乗」とは、分ちて二となす。一は読誦、二は大乗なり。「読誦」とは、すなはちこれ五種法師のなか、転読諷誦の二師を挙げて、受持等の三師を顕す。もし十種法行に約せば、すなはちこれ披読・諷誦の二種の法行を挙げて、書写・供養等の八種法行を顕すなり。「大乗」とは、小乗を簡ぶ言なり。別して一経を指すにあらず。通じて一切の諸大乗経を指す。いはく一切とは、仏意広く一代所説の諸大乗経を指す。しかも一代の所説において、已結集の経あり。未結集の経あり。また已結集の経において、あるいは竜宮に隠れて人間に流布せざる経あり。あるいは天竺(印度)に留まりて、いまだ漢地(中国)に来到せざる経あり。
しかるにいま翻訳将来の経につきてこれを論ぜば、『貞元の入蔵の録』のなかに、『大般若経』六百巻より始めて『法常住経』に終るまで、顕密の大乗経すべて六百三十七部二千八百八十三巻なり。
みなすべからく「読誦大乗」の一句に摂すべし。願はくは西方の行者、おのおのその意楽に随ひて、あるいは『法華』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『華厳』を読誦してもつて往生の業となし、あるいは『遮那』『教王』および諸尊の法等を受持し読誦してもつて往生の業となし、あるいは「般若」・方等および『涅槃経』等を解説し、書写してもつて往生の業となせ。
これすなはち浄土宗の『観無量寿経』の意なり。
 問ひていはく、顕密の旨異なり、なんぞ顕のなかに密を摂するや。
答へていはく、これは顕密の旨を摂せんといふにはあらず。『貞元入蔵録』のなかに、同じくこれを編みて大乗経の限りに入る。ゆゑに「読誦大乗」の一句に摂するなり。
 問ひていはく、爾前の経のなかになんぞ『法華』を摂するや。
答へていはく、いまいふところの「摂」とは、権・実・偏・円等の義を論ずるにはあらず。「読誦大乗」の言、あまねく前後の大乗諸経に通ず。前とは『観経』以前の諸大乗経これなり。後とは王宮以後の諸大乗経これなり。ただ大乗といひて権実を選ぶことなし。
しかればすなはちまさしく『華厳』・方等・「般若」・『法華』・『涅槃』等の諸大乗経に当れり。
勧進行者」とは、いはく定散諸善および念仏三昧等を勧進するなり。
 次に九品とは、前の三福を開して九品の業となす。いはく上品上生のなかに「慈心不殺」といふは、すなはち上の世福のなかの第三の句に当る。
次に「具諸戒行」とは、すなはち上の戒福のなかの第二の句の「具足衆戒」に当る。次に「読誦大乗」とは、すなはち上の行福のなかの第三の句の「読誦大乗」に当る。
次に「修行六念」とは、すなはち上の第三の福のなかの第三の句の意なり。上品中生のなかに「善解義趣」等といふは、すなはちこれ上の第三福のなかの第二・第三の意なり。
上品下生のなかに「深信因果発道心」等といふは、すなはちこれ上の第三の福の第一・第二の意なり。中品上生のなかに「受持五戒」等といふは、すなはち上の第二の福のなかの第二の句の意なり。
中品中生のなかに「或一日一夜受持八戒斎」等といふは、また同じく上の第二の福の意なり。中品下生のなかに「孝養父母行世仁慈」等といふは、すなはち上の初めの福の第一・第二の句の意なり。
下品上生は、これ十悪の罪人なり。臨終の一念に罪滅して生ずることを得。下品中生は、これ破戒の罪人なり。臨終に仏の依正の功徳を聞きて、罪滅して生ずることを得。
下品下生は、これ五逆の罪人なり。臨終の十念に罪滅して生ずることを得。
この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。
もし上の三福に准ぜば、第三福の大乗の意なり。
定善・散善大概かくのごとし。文(散善義)に、すなはち「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども」といふこれなり。
 次に念仏とは、もつぱら弥陀仏の名を称するこれなり。念仏の義常のごとし。しかるにいま、「正明付属弥陀名号流通於遐代」(同)といふは、おほよそこの『経』(観経)のなかに、すでに広く定散の諸行を説くといへども、すなはち定散をもつて阿難に付属し後世に流通せしめず。
ただ念仏三昧の一行をもつてすなはち阿難に付属し遐代に流通せしむ。
 問ひていはく、なんのゆゑぞ定散の諸行をもつて付属流通せざるや。もしそれ業の浅深によりて嫌ひて付属せずは、三福業のなかに浅あり深あり。

その浅業は孝養父母・奉事師長なり。その深業は具足衆戒・発菩提心・深信因果・読誦大乗なり。すべからく浅業を捨てて、深業を付属すべし。もし観の浅深によりて嫌ひて付属せずは、十三観のなかに浅あり深あり。
その浅観といふは日想水想これなり。その深観といふは、地観より始めて雑想に終るまで、すべて十一観これなり。すべからく浅観を捨てて、深観を付属すべし。
就中第九観は、これ阿弥陀仏観なり。すなはちこれ観仏三昧なり。すべからく十二観を捨てて、観仏三昧を付属すべし。

観仏三昧と念仏三昧の一経両宗

就中同疏の「玄義分」のなかにいはく、「この経は観仏三昧をとなし、または念仏三昧を宗となす」と。すでに二行をもつて一経の宗となす。なんぞ観仏三昧を廃して念仏三昧を付属するや。
答へていはく、「仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」(散善義)といふ。
定散の諸行は本願にあらず。ゆゑにこれを付属せず。またそのなかにおいて、観仏三昧は殊勝の行といへども、仏の本願にあらず。ゆゑに付属せず。
念仏三昧はこれ仏の本願なるがゆゑに、もつてこれを付属す。
「仏の本願に望む」といふは、『双巻経』(大経)の四十八願のなかの第十八の願を指す。
「一向専称」といふは、同経の三輩のなかの「一向専念」を指す。本願の義、つぶさに前に弁ずるがごとし。
 問ひていはく、もししからば、なんがゆゑぞただちに本願の念仏の行を説かず、煩はしく本願にあらざる定散諸善を説くや。
答へていはく、本願念仏の行は、『双巻経』(大経)のなかに委しくすでにこれを説く。ゆゑにかさねて説かざるのみ。
また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。ただし定散の諸善みなもつて測りがたし。おほよそ定善とは、それ依正の観、鏡を懸けて照臨す。往生の願、掌を指して速疾なり。
あるいは一観の力、よく多劫のを祛(さ)く。あるいは具憶の功、つひに三昧の勝利を得。しかればすなはち往生を求むる人、よろしく定観を修行すべし。就中第九の真身観は、これ観仏三昧の法なり。行もし成就せば、すなはち弥陀の身を見たてまつる。
弥陀を見たてまつるがゆゑに、諸仏を見たてまつることを得。諸仏を見たてまつるがゆゑに、現前に記を授けらる。この観の利益もつとも甚深なり。
しかるをいま『観経』の流通分に至りて、釈迦如来、阿難に告命して往生の要法を付属流通せしむるちなみに、観仏の法を嫌ひてなほ阿難に付属せず、念仏の法を選びてすなはちもつて阿難に付属したまふ。
観仏三昧の法、なほもつて付属したまはず。いかにいはんや日想・水想等の観においてをや。
しかればすなはち十三定観は、みなもつて付属せざるところの行なり。しかるに世の人、もし観仏等を楽ひて念仏を修せざるは、これ遠く弥陀の本願を乖くのみにもあらず、またこれ近くは釈尊の付属に違ふ。行者よろしく商量すべし。
 次に散善のなかに、大小持戒の行あり。世みなおもへらく、持戒の行者はこれ真要に入るなり。
破戒のものは往生すべからずと。また菩提心の行あり。人みなおもへらく、菩提心はこれ浄土の綱要なり。もし菩提心なくは、すなはち往生すべからずと。
また解第一義の行あり。これはこれ理観なり。人またおもへらく、理はこれ仏の源なり。理を離れて仏土を求むべからず。
もし理観なくは、往生すべからずと。
また読誦大乗の行あり。人みなおもへらく、大乗経を読誦してすなはち往生すべし。もし読誦の行なくは、往生すべからずと。
これにつきて二あり。一には持経、二には持呪なり。持経とは、「般若」・『法華』等の諸大乗経を持するなり。
持呪とは随求・尊勝・光明阿弥陀等のもろもろの神呪を持するなり。
おほよそ散善の十一人、みな貴ぶといへども、そのなかにおいてこの四箇の行は、当世の人ことに欲するところの行なり。
これらの行をもつてほとほと念仏を抑ふ。つらつら経の意を尋ぬれば、この諸行をもつて付属流通せず。ただ念仏の一行をもつて、すなはち後世に付属流通せしむ。
知るべし、釈尊の諸行を付属したまはざる所以は、すなはちこれ弥陀の本願にあらざるゆゑなり。
また念仏を付属する所以は、すなはちこれ弥陀の本願のゆゑなり。
いままた善導和尚、諸行を廃して念仏に帰する所以は、すなはち弥陀の本願たる上、またこれ釈尊の付属の行なり。ゆゑに知りぬ、諸行は機にあらず時を失す。
念仏往生は機に当り、時を得たり。感応あに唐捐せんや。

随自随他

まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。
またこのなかに「遐代」とは、『双巻経』(大経)の意によらば、遠く末法万年の後の百歳の時を指す。これすなはち遐きを挙げて邇きを摂するなり。
しかれば、法滅の後なほもつてしかなり。いかにいはんや末法をや。
末法すでにしかり。いかにいはんや正法・像法をや。ゆゑに知りぬ、念仏往生の道は正像末の三時、および法滅百歳の時に通ず。

阿弥陀経による念仏

多善根章

【13】念仏をもつて多善根となし、雑善をもつて少善根となす文。

 『阿弥陀経』にのたまはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず。舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持して、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、心を一にして乱らずは、その人命終の時に臨みて、阿弥陀仏もろもろの聖衆と現じて、その前にましまさん。この人終時に心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得」と。

 善導この文を釈していはく(法事讃・下)、

「極楽無為涅槃の界には、縁に随ふ雑善はおそらくは生じがたし。
ゆゑに如来(釈尊)、要法を選びて、教へて弥陀を念ぜしむること専にしてまた専ならしむ。
七日七夜、心無間なれ。長時に行を起すもますますみなしかなり。
終りに臨みて聖衆、華を持ちて現じたまふ。身心踊躍して金蓮に坐す。
坐する時にすなはち無生忍を得。一念に迎へ将て仏前に至る。
法侶衣をもつて競ひ来りて着す。不退を証得して三賢に入る」と。
 わたくしにいはく、「少善根福徳の因縁をもつて、かの国に生ずることを得べからず」といふは、諸余の雑行はかの国に生じがたし。
ゆゑに「随縁雑善恐難生」といふ。少善根とは多善根に対する言なり。
しかればすなはち雑善はこれ少善根なり、念仏はこれ多善根なり。
ゆゑに龍舒の『浄土文』にいはく、「襄陽の石に『阿弥陀経』を刻れり。
すなはち隋の陳仁稜が書けるところの字画、清婉にして人多く慕ひ玩ぶ。〈一心不乱〉より下に、〈専持名号以称名故諸罪消滅即是多善根福徳因縁〉といふ。今世の伝本にこの二十一字を脱せり」と。{以上}
ただ多少の義あるのみにあらず。また大小の義あり。いはく雑善はこれ小善根なり、念仏はこれ大善根なり。
また勝劣の義あり。いはく雑善はこれ劣の善根なり、念仏はこれ勝の善根なり。その義知るべし。

証誠章

【14】六方恒沙の諸仏余行を証誠せず、ただ念仏を証誠したまふ文。

 善導の『観念法門』にいはく、「また『弥陀経』にのたまふがごとし。

〈六方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、みな舌を舒べてあまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。《もしは仏(釈尊)の在世にもあれ、もしは仏の滅後にもあれ、一切の造罪の凡夫、ただ心を回して阿弥陀仏を念じて、浄土に生ぜんと願じて、上百年を尽し、下七日・一日、十声・三声・一声等に至るまで、命終らんと欲する時、仏、聖衆とみづから来りて迎接したまひて、すなはち往生を得》〉と。

上のごとき六方等の仏、舌を舒べて、さだめて凡夫のために証をなしたまふ、罪滅して生ずることを得と。もしこの証によりて生ずることを得ずは、六方諸仏の舒べたまへる舌、一たび口より出でて以後、つひに口に還り入らずして、自然に壊爛せん」と。

 同じく『往生礼讃』に『阿弥陀経』を引きていはく、「東方の恒河沙のごとき等の諸仏、南西北方および上下一々の方の恒河沙のごとき等の諸仏、おのおの本国にして、その舌相を出して、あまねく三千大千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。〈なんぢら衆生、みなこの一切諸仏の所護念経を信ずべし〉と。

いかんが護念と名づくる。もし衆生ありて阿弥陀仏を称念すること、もしは一日および七日、下十声乃至一声、一念等に至るまで、かならず往生を得。この事を証誠するがゆゑに護念経と名づく」と。

 またいはく(礼讃)、

「六方の如来舌を舒べて、もつぱら名号を称して西方に至ることを証したまふ。
かしこに到りて華開けて、妙法を聞くに、十地の願行自然に彰る」と。

 同じく『観経疏』(散善義)に『阿弥陀経』を引きていはく、「また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざることを恐畏して、すなはちともに同心同時に、おのおの舌相を出してあまねく三千世界に覆ひて、誠実の言を説きたまふ。〈なんぢら衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。

一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心にもつぱら弥陀の名号を念ずれば、さだめて往生を得ることかならず疑なし〉」と。

 同じく『法事讃』(下)にいはく、

「心々に念仏して疑を生ずることなかれ。六方の如来虚しからずと証したまふ。
三業専心にして雑乱せざれば、百宝の蓮華、時に応じて見ゆ」と。

 法照禅師の『浄土五会法事讃』にいはく、

「万行のなか急要となす。迅速なること浄土門に過ぎたるはなし。
ただ本師金口の説のみにあらず。十方の諸仏ともに伝へ証したまふ」と。
 わたくしに問ひていはく、なんがゆゑぞ六方の諸仏の証誠、ただ念仏の一行に局るや。
答へていはく、もし善導の意によらば、念仏はこれ弥陀の本願なり、ゆゑにこれを証誠す。余行はしからず、ゆゑにこれなし。

 問ひていはく、もし本願によりて念仏を証誠せば、『双巻』(大経)・『観経』等に念仏を説く時、なんぞ証誠せざるや。
答へていはく、解するに二義あり。一に解していはく、『双巻』・『観経』等のなかに本願念仏を説くといへども、兼ねて余行を明かす。ゆゑに証誠せず。
この『経』(小経)のなかに一向にもつぱら念仏を説く。ゆゑにこれを証誠す。二に解していはく、かの『双巻』等のなかに証誠の言なしといへども、この『経』にすでに証誠あり。これに例してかれを思ふに、かれらの経中(大経・観経)において説くところの念仏、また証誠の義あるべし。
文この『経』にありといへども、義かの経に通ず。ゆゑに天台(智顗)の『十疑論』にいはく、「また『阿弥陀経』・『大無量寿経』・『鼓音声陀羅尼経』等にのたまはく、〈釈迦仏、経を説きたまふ時に、十方世界におのおの恒河沙の諸仏ましまして、その舌相を舒べてあまねく三千大千世界に覆ひて、《一切衆生の阿弥陀仏を念じて仏の本願大悲願力に乗るがゆゑに、決定して極楽世界に生ずることを得》と証誠したまふ〉」と。

護念章

【15】六方諸仏、念仏行者を護念したまふ文。

 『観念法門』にいはく、「また『弥陀経』に説くがごとし。〈もし男子・女人ありて、七日七夜および一生を尽して、一心にもつぱら阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、この人はつねに六方恒河沙等の仏、ともに来りて護念したまふことを得。ゆゑに護念経と名づく〉と。

護念の意は、またもろもろの悪鬼神をして便りを得しめず、また横病、横死、横に厄難あることなく、一切の災障自然に消散しぬ。不至心をば除く」と。

 『往生礼讃』にいはく、「〈もし仏を称して往生するものは、つねに六方恒沙等の諸仏のために護念せらる。ゆゑに護念経と名づく〉(小経)と。いますでにこの増上の誓願あり、憑むべし。もろもろの仏子等、なんぞ意を励まさざらんや」と。

 わたくしに問ひていはく、ただ六方の如来のみましまして行者を護念したまふはいかんぞ。
答へていはく、六方の如来のみには限らず。弥陀・観音等また来りて護念したまふ。ゆゑに『往生礼讃』にいはく、「『十往生経』にのたまはく、〈もし衆生ありて阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すなはち二十五の菩薩を遣はして、行者を擁護したまふ。
もしは行、もしは坐、もしは住、もしは臥、もしは昼、もしは夜、一切の時、一切の処に、悪神をしてその便りを得しめず〉と。
また『観経』にのたまふがごとし。〈もし阿弥陀仏を称・礼・念して、かの国に往生せんと願ずれば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念したまふ〉と。
また前の二十五の菩薩等と百重千重行者を囲繞して、行住坐臥を問はず、一切の時処に、もしは昼、もしは夜、つねに行者を離れたまはず。いますでにこの勝益あり。憑むべし。
願はくはもろもろの行者、おのおのすべからく至心に往くことを求むべし」と。
また『観念法門』にいはく、「また『観経』の下の文のごとし。〈もし人ありて、心を至してつねに阿弥陀仏および二菩薩を念ずれば、観音・勢至つねに行人のために勝友知識となりて随逐影護したまふ〉」と。
またいはく(同)、「また『般舟三昧経』の〈行品〉のなかに説きてのたまふがごとし。〈仏ののたまはく、《もし人もつぱらこの念弥陀仏三昧を行ずれば、つねに一切の諸天および四天大王・竜神八部の随逐影護、愛楽相見を得て、永くも

ろもろの悪鬼神、災障・厄難、横に悩乱を加ふることなし》〉と。

つぶさには〈護持品〉のなかに説くがごとし」と。
またいはく(観念法門)、「三昧道場に入るを除きては、日別に弥陀仏を念ずること一万、命を畢ふるまで相続すれば、すなはち弥陀の加念を蒙りて罪障を除くことを得。
また仏、聖衆とつねに来りて護念したまふことを蒙る。すでに護念を蒙りぬれば、すなはち延年転寿を得」と。

八選択と三選

名号付属章

【16】釈迦如来、弥陀の名号をもつて慇懃に舎利弗等に付属したまふ文。

 『阿弥陀経』にのたまはく、「仏この経を説きたまふこと已りて、舎利弗およびもろもろの比丘、一切世間の天・人・阿修羅等、仏の所説を聞きて、歓喜し信受して、礼をなして去りにき」と。

 善導の『法事讃』(下)に、この文を釈していはく、

「世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。
五濁増の時疑謗多く、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起して、方便して破壊して競ひて怨を生ず。
かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。
大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。
大衆同心にみな、あらゆる破法罪の因縁を懺悔せよ」と。

結勧流通

 わたくしにいはく、おほよそ三経の意を案ずるに、諸行のなかに念仏を選択してもつて旨帰となす。
先づ『双巻経』(大経)のなかに三の選択あり。
一には選択本願、二には選択讃歎、三には選択留教なり。一に選択本願といふは、念仏はこれ法蔵比丘、二百一十億のなかにおいて選択するところの往生の行なり。細しき旨上に見えたり。ゆゑに選択本願といふ。
二に選択讃歎といふは、上の三輩のなかに菩提心等の余行を挙ぐといへども、釈迦すなはち余行を讃歎せず、ただ念仏において讃歎したまひて、「無上の功徳」(大経・下意)とのたまふ。ゆゑに選択讃歎といふ。
三に選択留教といふは、また上に余行諸善を挙ぐといへども、釈迦選択してただ念仏の一法を留めたまふ。ゆゑに選択留教といふ。
次に『観経』のなかにまた三の選択あり。
一には選択摂取、二には選択化讃、三には選択付属なり。
一に選択摂取といふは、『観経』のなかに定散の諸行を説くといへども、弥陀の光明ただ念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。ゆゑに選択摂取といふ。
二に選択化讃といふは、下品上生の人、聞経・称仏の二行ありといへども、弥陀の化仏、念仏を選択して、「汝称仏名故諸罪消滅我来迎汝」(観経)とのたまふ。ゆゑに選択化讃といふ。
三に選択付属といふは、また定散の諸行を明かすといへども、ただ独り念仏の一行を付属す。ゆゑに選択付属といふ。
次に『阿弥陀経』のなかに一の選択あり。いはゆる選択証誠なり。
すでに諸経のなかにおいて多く往生の諸行を説くといへども、六方の諸仏かの諸行において証誠せず、この『経』(小経)のなかに至りて念仏往生を説きたまふときに、六方恒沙の諸仏、おのおの舌を舒べて大千に覆ひて、実の語と証誠して、これを証誠したまふ。
ゆゑに選択証誠といふ。
しかのみならず『般舟三昧経』のなかにまた一の選択あり。いはゆる選択我名なり。弥陀みづから説きて、「わが国に来生せんと欲はば、つねにわが名を念じて、休息せしむることなかれ」(意)とのたまへり。
ゆゑに選択我名といふ。
本願・摂取・我名・化讃、この四はこれ弥陀の選択なり。讃歎・留教・付属、この三はこれ釈迦の選択なり。証誠は六方恒沙の諸仏の選択なり。
しかればすなはち釈迦・弥陀および十方のおのおのの恒沙等の諸仏、同心に念仏の一行を選択したまふ。余行はしからず。ゆゑに知りぬ、三経ともに念仏を選びてもつて宗致となすのみ。

三選義趣

【17】

はかりみれば

それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門をきて選びて浄土門に入るべし。
浄土門に入らんと欲はば、正雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行をてて選びて正行に帰すべし。
正行を修せんと欲はば、正助二業のなかに、なほ助業をらにして選びて正定をもつぱらにすべし。
正定の業とは、すなはちこれ仏名を称するなり。名を称すれば、かならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑなり。

偏依善導

【18】問ひていはく、華厳・天台・真言・禅門・三論・法相の諸師、おのおの浄土法門の章疏を造る。なんぞかれらの師によらずして、ただ善導一師を用ゐるや。

答へていはく、かれらの諸師おのおのみな浄土の章疏を造るといへども、浄土をもつて宗となさず、ただ聖道をもつてその宗となす。ゆゑにかれらの諸師によらず。善導和尚は偏に浄土をもつて宗となして、聖道をもつて宗となさず。ゆゑに偏に善導一師に依る。
 問ひていはく、浄土の祖師その数また多し。いはく弘法寺の迦才、慈愍三蔵等これなり。なんぞかれらの諸師によらずして、ただ善導一師を用ゐるや。
答へていはく、これらの諸師浄土を宗とすといへども、いまだ三昧を発さず。善導和尚はこれ三昧発得の人なり。道においてすでにその証あり。ゆゑにしばらくこれを用ゐる。
 問ひていはく、もし三昧発得によらば、懐感禅師はまたこれ三昧発得の人なり。なんぞこれを用ゐざる。
答へていはく、善導はこれ師なり。懐感はこれ弟子なり。ゆゑに師によりて弟子によらず。いはんや師資の釈、その相違はなはだ多し。ゆゑにこれを用ゐず。
 問ひていはく、もし師によりて弟子によらずは、道綽禅師はこれ善導和尚の師なり。そもそもまた浄土の祖師なり。なんぞこれを用ゐざるや。
答へていはく、道綽禅師はこれ師なりといへども、いまだ三昧を発さず。ゆゑにみづから往生の得否を知らずして、善導に問ひていはく、「道綽念仏して往生を得べしや否や」と。
導(善導)一茎の蓮華を弁ぜしめて、これを仏前に置きて、「行道七日せんに華萎み悴けずは、すなはち往生を得ん」と。
これによりて七日、華果然として華萎黄せず。綽(道綽)その深詣を歎ず。ちなみに定に入りてまさに生を得べしや否やを観ずることを請ふ。
導(善導)すなはち定に入りて、須臾に報へていはく、「師、まさに三の罪を懺すべし。まさに往生すべし。
一には師、嘗、仏の尊像を安んじて、簷牖の下に在きて、みづからは深房に処せり。二には出家人を駆使し策役す
三には屋宇を営造して虫の命を損傷す。師、よろしく十方の仏前において第一の罪を懺し、四方の僧の前において第二の罪を懺し、一切衆生の前において第三の罪を懺すべし」と。
綽公(道綽)静かに往の咎を思ひて、「みな虚しからず」といふ。ここに心を洗ひ、悔謝しをはりて、導(善導)に見ゆ。
すなはちいはく、「師の罪滅したり。後にまさに白光ありて照燭すべし。これ師の往生の相なり」と。[以上、『新修往生伝』。]
 ここに知りぬ。善導和尚は行、三昧を発し、力め、師の位に堪へたり。解行、凡にあらざることまさにこれ暁らけし。
いはんやまた時の人の諺にいはく、「仏法東行してよりこのかた、いまだ禅師(善導)のごとくの盛徳あるはあらず。絶倫の誉、得て称すべからざるものか」と。
しかのみならず『観経』の文疏を条録する刻に、すこぶる霊瑞を感ず。しばしば聖化に預かる。すでに聖の冥加を蒙りて、しかも『経』(観経)の科文を造る。
世を挙りて「証定の疏」と称す。人これを貴ぶこと仏経の法のごとくす。
すなはちかの疏の第四巻(散善義)のにいはく、「敬ひて一切有縁の知識等にまうす。余(善導)はすでにこれ生死の凡夫なり。智慧浅短なり。しかも仏教は幽微なり。あへてたやすく異解を生ぜず。
つひにすなはち心を標し願を結びて、霊験を請ひ求めて、まさに造心すべし。尽虚空遍法界の一切の三宝、釈迦牟尼仏・阿弥陀仏・観音・勢至、かの土のもろもろの菩薩大海衆および一切の荘厳相等に南無し帰命したてまつる。
某、いまこの『観経』に要義を出して、古今を楷定せんと欲す。もし三世の諸仏・釈迦仏・阿弥陀仏等の大悲の願意に称はば、願はくは夢のうちにおいて、上の所願のごときの一切の境界の諸相を見ることを得ん。
仏像の前において願を結びて、已りて日別に『阿弥陀経』三遍を誦し、阿弥陀仏三万遍を念じ、心を至して願を発す。
すなはち当夜において西方の空中を見るに、上のごときの諸相の境界ことごとくみな顕現す。雑色の宝山百重千重して、種種の光明、下、地を照らす。
地、金色のごとし。なかに諸仏・菩薩ましまして、あるいは坐し、あるいは立し、あるいは語し、あるいは黙し、あるいは身手を動かし、あるいは住して動ぜざるものあり。
すでにこの相を見て、合掌して立して観ることやや久しくして、すなはち覚めぬ。
覚めをはりて欣喜に勝へず。すなはち〔観経の〕義門を条録す。これより以後、毎夜夢中につねに一の僧ありて、来りて玄義の科文を指授することすでに了りて、さらにまた見えず。
後の時に本を脱しをはりぬ。またさらに心を至してかならず七日を期して、日別に『阿弥陀経』十遍を誦し、阿弥陀仏三万遍を念じ、初夜・後夜にかの仏の国土の荘厳等の相を観想して、誠心に帰命してもつぱら上の法のごとくす。
当夜にすなはち三具の磑輪の道の辺に独り転ずるを見る。
たちまちに一人ありて、白き駱駝に乗りて前に来りて、見えて勧む。〈師、まさにゆめゆめ決定して往生すべし。退転をなすことなかれ。この界は穢悪にして苦多し。労しく貪楽せざれ〉と。
答へていはく、〈大きに賢者の好心の視誨を蒙りぬ。某、畢命を期となして、あへて懈慢の心を生ぜず〉と。{云々}
第二の夜に見らく、阿弥陀仏の身は真金の色にして、七宝樹の下の金蓮華の上にましまして坐したまへり。十僧囲繞して、またおのおの一の宝樹の下に坐せり。
仏樹の上にすなはち天衣ありて、挂り繞れり。面を正しくし西に向かへて、合掌して坐して観ず。
第三の夜に見らく、両の幢杆大きに高く顕れて、幡五色を懸けたり。道路縦横に、人観ること礙なし。すでにこの相を得をはりて、すなはち休止して七日に至らず。
上来あらゆる霊相は、本心、のためにして己身のためにせず。すでにこの相を蒙れり。あへて隠蔵せず。つつしみてもつて義後に申べ呈して、末代に聞えられん。
願はくは含霊をしてこれを聞かしめて信を生ぜしむ。有識の覩るもの西に帰せよ。この功徳をもつて衆生に回施して、ことごとく菩提心を発して、慈心をもつてあひ向かひ、仏眼をもつてあひ看ん。
菩提の眷属として真の善知識とならん。同じく浄国に帰してともに仏道を成ぜん。
この義すでに証を請ひて定めをはりぬ。一句一字加減すべからず。写さんと欲はば、もつぱら経法のごとくすべし。知るべし」と。{以上}
 静かにおもんみれば、善導の『観経の疏』はこれ西方の指南行者の目足なり。
しかればすなはち西方の行人、かならずすべからく珍敬すべし。
就中、毎夜に夢のうちに僧ありて、玄義を指授す。僧とはおそらくはこれ弥陀の応現なり。
しかればいふべし、この『疏』はこれ弥陀の伝説なりと。
いかにいはんや、大唐にあひ伝へていはく、「善導はこれ弥陀の化身なり」と。しかればいふべし、またこの文はこれ弥陀の直説なり。すでに「写さんと欲はば、もつぱら経法のごとくせよ」(散善義)といふ、この言誠なるかなや。

本迹化一

仰ぎて本地を討ぬれば、四十八願の法王(阿弥陀仏)なり。十劫
正覚の唱へ、念仏に憑みあり。俯して垂迹を訪へば、専修念仏の導師(善導)なり。
三昧正受の語、往生に疑なし。本迹異なりといへども化道これ一なり。

 ここに貧道(源空)、昔この典(観経疏)を披閲して、ほぼ素意を識る。立ちどころに余行を舎めてここに念仏に帰す。
それよりこのかた今日に至るまで、自行化他ただ念仏を縡とす。しかるあひだ希に津を問ふものには、示すに西方の通津をもつてし、たまたま行を尋ぬるものには、誨ふるに念仏の別行をもつてす。これを信ずるものは多く、信ぜざるものは尠なし。

教行感応

まさに知るべし。浄土の教、時機を叩きて行運に当れり。念仏の行、水月を感じて昇降を得たり

莫遺窓前

しかるにいま図らざるに仰せを蒙る。辞謝するに地なし。よりていまなまじひに念仏の要文を集めて、あまつさへ念仏の要義を述ぶ。
ただし命旨を顧みて不敏を顧みず。これすなはち無慚無愧のはなはだしきなり。庶幾はくは一たび高覧を経て後に、壁の底に埋みて、窓の前に遺すことなかれ。
おそらくは破法の人をして、悪道に堕せしめざらんがためなり。

選択本願念仏集

元久元年十一月二十八日書写しをはりぬ。
願はくはこの功徳をもつて、一仏土に往生せんのみ。]
[[元久元年十二月二十七日       源空](花押)]]