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往生要集上巻 (七祖)

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

2018年8月13日 (月) 18:48時点における林遊 (トーク | 投稿記録)による版 (対十方)

本書は、諸経論釈の中から往生極楽に関する要文を集め、同信行者の指南の書としたもので、源信和尚43歳から44歳の時にかけて撰述された。

 全体は(1)厭離穢土、(2)欣求浄土、(3)極楽証拠、(4)正修念仏、(5)助念方法、(6)別時念仏、(7)念仏利益、(8)念仏証拠、(9)往生諸行、(10)問答料簡という整然とした組織で構成されている。このうち(1)(2)(3)は本書の導入部にあたるもので、(1)六道輪廻の穢土を厭うべきこと、(2)極楽を欣うべきことを説き、(3)その極楽が十方浄土や兜率天よりもすぐれていることを指摘する。(4)以下(9)までは本論にあたる部分である。(4)は念仏を実践する方法を述べた本書の中心部分であり、(5)はその念仏を助成する方法を7項目に分けて示したものである。(6)は特定の日時を限って修める尋常の別行と、臨終念仏の行儀について説いたもの、(7)は念仏の利益を7種あげたものである。(8)は念仏によって往生を得る証拠として経論から10文を示したもの、(9)は念仏以外の諸行について述べたものである。最後の(10)は全体を結ぶもので、上の所論に関連する諸問題を問答形式によって解釈している。

 本書は、日本における最初の本格的な浄土教の教義書であり、撰述後まもないころよりひろく流布して、思想面はもとより、文学や芸術面など広範囲に大きな影響を与えた。

往生要集

巻上

   往生要集 巻上 [尽第四門半

           
天台首楞厳院沙門源信撰

【1】 それ往生極楽の教行は、濁世末代の目足なり。 道俗貴賤、たれか帰せざるものあらん。 ただし顕密の教法、その文、一にあらず。 事理の業因、その行これ多し。 利智精進の人は、いまだ難しとなさず。 予がごとき頑魯のもの、あにあへてせんや。 このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。 これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。

総べて十門あり。 分ちて三巻となす。

一は厭離穢土、二は欣求浄土、三は極楽証拠、四は正修念仏、五は助念方法、六は別時念仏、七は念仏利益、八は念仏証拠、九は往生諸業、十は問答料簡なり。これを座右に置きて、廃忘に備へん

第一 厭離穢土

【2】 大文第一に、厭離穢土といふは、それ三界は安きことなし、もつとも厭離すべし。 いまその相を明かすに、総べて七種あり。 一は地獄、二は餓鬼、三は畜生、四は阿修羅、五は人、六は天、七は総結なり。

地獄

【3】 第一の地獄に、また分ちて八となす。 一は等活、二は黒縄、三は衆合、四は叫喚、五は大叫喚、六は焦熱、七は大焦熱、八は無間なり。

等活

【4】 初めに等活地獄といふは、この閻浮提の下、一千由旬にあり。縦広一万由旬なり。 このなかの罪人、たがひにつねに害心を懐けり。 もしたまたまあひ見れば、猟者の鹿に逢へるがごとくして、おのおの鉄の爪をもつてたがひに掴み裂く。 血肉すでに尽きて、ただ残骨のみあり。 あるいは獄卒、手に鉄の杖・鉄の棒を執りて、頭より足に至るまで、あまねくみな打ち築くに、身体破砕すること、なほ沙揣のごとし。

あるいはきはめて利き刀をもつて分々に肉を割くこと、廚者の魚肉を屠るがごとし。 涼風来りて吹くに、尋いで活ること故のごとし。 欻然としてまた起きて、前のごとく苦を受く。 あるいはいはく、空中に声ありていはく、「このもろもろの有情、また等しく活るべし、また等しく活るべし」と。 あるいはいはく、獄卒、鉄の叉をもつて地を打ちて、唱へて「活活」といふ。 かくのごとき等の苦、つぶさに述すべからず。 [以上、『智度論』・『瑜伽論』・『諸経要集』によりて、これを撰す。]

人間の五十年をもつて四天王天の一日一夜となして、その寿五百歳なり。 四天王天の寿をもつてこの地獄の一日一夜となして、その寿五百歳なり。 殺生せるもの、このなかに堕つ。 [以上の寿量は『倶舎』(倶舎論)による。業因は『正法念経』による。下の六もこれに同じ。]『優婆塞戒経』には、初めの天(四天王天)の一年をもつて初めの地獄(等活地獄)の日夜となせり。 下去これに准へよ。

 この地獄の四門のほかに、また十六の眷属別処あり。

一は屎泥処。 いはく、きはめて熱き屎泥あり。 その味はひ、もつとも苦し。 金剛の嘴ある虫、そのなかに充満せり。 罪人、なかにありてこの熱屎を食らふ。 もろもろの虫、聚集して、一時に競ひ食らふ。 皮を破りて肉を噉らひ、骨を折りて髄を唼ふ。 昔、鹿を殺し鳥を殺せるもの、このなかに堕つ。

二は刀輪処。 いはく、鉄の壁、周匝して、高さ十由旬なり。 猛火熾然として、つねにそのなかに満てり。 人間の火はこれに比ぶれば雪のごとし。 わづかにその身に触るるに、砕くること芥子のごとし。 また熱鉄を雨らすこと、なほ盛りなる雨のごとし。 また刀林あり。 その刃はきはめて利し。 また刃ありて、雨のごとくして下る。 もろもろの苦、交はり至りて、堪忍すべからず。 昔、物を貪りて殺生せるもの、このなかに堕つ。

三は瓮熟処。 いはく、罪人を執りて鉄ののなかに入れて、煎熟すること豆のごとし。 昔、殺生して煮て食らへるもの、このなかに堕つ。

四は多苦処。 いはく、この地獄に十千億種の無量の楚毒あり。 つぶさに説くべからず。 昔、縄をもつて人を縛り、杖をもつて人を打ち、人を駆りて遠き路を行かしめ、嶮しき処より人を落し、煙を薫べて人を悩まし、小児を怖れしむ。 かくのごとき等の、種々に人を悩ませるもの、みなこのなかに堕つ。

五は闇冥処。 いはく、黒闇の処にありて、つねに闇火のために焼かる。 大力の猛風、金剛山を吹きて、合せ磨り、合せ砕くこと、なほ沙の散らすがごとし。 熱風に吹かるるに、利き刀の割くがごとし。 昔、羊の口・鼻を唵ぎ、二の塼のなかに亀を置きて押し殺せるもの、このなかに堕つ。

六は不喜処。 いはく、大きなる火炎ありて昼夜に焚焼す。 熱炎の嘴ある鳥・狗犬・野干の、その声極悪にしてはなはだ怖畏すべし。 つねに来りて食噉す。 骨肉狼藉たり。 金剛の嘴ある虫、骨のなかに往来して、その髄を食らふ。 昔、貝を吹き、鼓を打ち、畏るべき声をなして鳥獣を殺害せるもの、このなかに堕つ。

七は極苦処。 いはく、嶮岸の下にありて、つねに鉄火のために焼かる。 昔、放逸にして殺生せるもの、このなかに堕つ。 [以上、『正法念経』による。 自余の九処、『経』(同)のなかに説かず。]

黒縄

【5】 二に黒縄地獄といふは、等活の下にあり。 縦広、前に同じ。 獄卒、罪人を執りて熱鉄の地に臥せて、熱鉄の縄をもつて縦横に身にちて、熱鉄の斧をもつて縄に随ひて切り割く。

あるいは鋸をもつて解き、あるいは刀をもつて屠りて、百千段になして処々に散在す。 また熱鉄の縄を懸けて、交へ横たふること無数なり。

罪人を駆りてそのなかに入れしむるに、悪風暴に吹きて、その身に交絡して、肉を焼き、骨を焦して、楚毒極まりなし。 [以上、『瑜伽』(瑜伽論)・『智度論』。]

また左右に大きなる鉄山あり。 山の上におのおの鉄の幢を建て、幢の頭に鉄の縄を張り、縄の下に多く熱鑊あり。 罪人を駆りて、鉄の山を負はしめ縄の上より行かしめ、はるかに鉄の鑊に落して摧き煮ること極まりなし。 [『観仏三昧経』意。]

等活地獄および十六の別処の、一切のもろもろの苦を十倍してかさねて受く。 獄卒、罪人を呵責していはく、

「心はこれ第一の怨なり。この怨をもつとも悪となす。
この怨よく人を縛りて、送りて閻羅の処に到らしむ。
なんぢ独り地獄に焼かれて、悪業のために食せらる。
妻子・兄弟等の親属も救ふことあたはず」と。{乃至広説}

後の五の地獄は、おのおの、前々の一切の地獄のあらゆるもろもろの苦をもつて十倍して重く受くること、例してこれを知りぬべし。[以上、『正法念経』意。]

人間の一百歳をもつて忉利天の一日一夜となして、その寿一千歳なり。 忉利天の寿をもつて一日夜となして、この地獄の寿一千歳なり。 殺生・偸盗せるもの、このなかに堕つ。

 また異処あり。等喚受苦処と名づく。いはく、嶮しき岸の無量由旬なるに挙げ在きて、熱炎の黒縄をもつて束縛して、繋けをはりて、しかして後にこれを推して、利き鉄の刀の熱地の上に堕す。 鉄の炎の牙ある狗の噉食するところなり。 一切の身分、分々に分離す。 声を唱へて吼喚すれども、救ふものあることなし。 昔、説法せしに悪見の論によりてし、一切不実にして、一切を顧みず、岸に投げて自殺せるもの、このなかに堕つ。 また異処あり。 畏鷲処と名づく。

[ある本、この四字なし。]いはく、獄卒杖を怒らかして急に打ち、昼夜につねに走らしめ、手に火炎の鉄刀を執り、弓を挽き、箭を弩ち、後に随ひて走り逐ひ、斫き打ち、これを射る。 昔、物を貪ぜしがゆゑに人を殺し、人を縛りて食を奪ひしもの、ここに堕つ。 [『正法念経』略抄。]

衆合

【6】 三に衆合地獄といふは、黒縄の下にあり。

縦広、前に同じ。 多く鉄山ありて、両々あひ対へり。 牛頭・馬頭等のもろもろの獄卒、手に器仗を執りて、〔罪人を〕駆りて山のあひだに入らしむ。 この時に両の山、迫め来りて合せ押す。 身体摧け砕け、血流れて地に満つ。

あるいは鉄の山ありて空より落ちて、罪人を打つに、砕くること沙揣のごとし。 あるいは石の上に置きて巌をもつてこれを押す。 あるいは鉄の臼に入れて鉄の杵をもつて擣く。

極悪の獄鬼、ならびに熱鉄の獅子・虎・狼等のもろもろの獣、烏・鷲等の鳥、競ひ来りて食噉す。 [『瑜伽』(瑜伽論)・『大論』(大智度論)。]また鉄炎の嘴ある鷲、そのを取りをはりて樹の頭に掛け在きて、これを噉食す。

かしこに大きなる河あり。 なかに鉄鉤ありて、みなことごとく火に燃ゆ。 獄卒、罪人を執へて、かの河のなかに擲げて、鉄鉤の上に堕す。 またかの河のなかに熱き赤銅の汁ありて、かの罪人を漂はす。 あるいは身、日のはじめて出づるがごときものあり。 身沈没せること、重き石のごときものあり。

手を挙げて、天に向かひて号哭するものあり。 ともにあひ近づきてしかも号哭するものあり。 久しく大苦を受けて、主もなく、救もなし。 また獄卒、地獄の人を取りて刀葉林に置く。

かの樹の頭を見るに、好き端正にして厳飾の婦女あり。 かくのごとく見をはりて、すなはちかの樹に上れば、樹の葉は刀のごとくして、その身肉を割く。 次にはその筋を割く。

かくのごとく一切の処を劈き割りをはりて、樹に上ることを得をはりて、かの婦女を見れば、また地にあり。 欲の媚たる眼をもつて、上に罪人を看て、かくのごとき言をなさく、「なんぢを念ふ因縁をもつて、われこの処に到れり。なんぢ、いまなんがゆゑぞ、来りてわれに近づかざる。なんぞわれを抱かざる」と。

罪人見をはりて、欲心熾盛にして、次第にまた下れば、刀葉、上に向かひて、利きこと剃刀のごとくして、前のごとくあまねく一切の身分を割く。

すでに地に到りをはりぬれば、しかもかの婦女はまた樹の頭にあり。 罪人見をはりて、また樹に上る。 かくのごとく無量百千億歳、自心に誑かされて、かの地獄のなかに、かくのごとく転行し、かくのごとく焼かるること、邪欲を因となす。 乃至、広く説く。

獄卒、罪人を呵責して、偈を説きていはく、

「異人、悪をなして、異人、苦の報を受くるにあらず。
みづからの業をもつてみづから果を得。衆生みなかくのごとし」と。[『正法念経』。]

人間の二百歳をもつて夜摩天の一日夜となして、その寿二千歳なり。 かの天の寿をもつてこの獄の一日夜となして、その寿二千歳なり。 殺生・偸盗・邪婬のもの、このなかに堕つ。

 この大地獄にまた十六の別処あり。 いはく、一処あり。 悪見処と名づく。 他の児子を取りて、強ひ逼めて邪行して、号哭せしめたるもの、ここに堕ちて苦を受く。 いはく、罪人みづからの児子を見れば、地獄のなかにあり。 獄卒、もしは鉄の杖をもつて、もしは鉄の錐をもつて、その〔児子の〕陰のなかを刺す。 もしは鉄鉤をもつて、その陰のなかに釘つ。

すでにみづからの子のかくのごとき苦事を見て、愛心をもつて悲しみ絶ゆること堪忍すべからず。 この愛心の苦は、火焼の苦においていふに、十六分のなかにその一にも及ばず。 かの人、かくのごとく心の苦に逼められをはりてまた身苦を受く。 いはく、頭面を下に在き、熱き銅の汁を盛りて、その糞門に灌ぐ。

その身内に入るに、その熟臓・大小等を焼く。 次第に焼きをはりて、下にありて出づ。 つぶさに身心の二の苦を受くること、無量百千年のなかに止まず。 また別処あり。 多苦悩処と名づく。

いはく、男の、男において邪行を行ぜるもの、ここに堕ちて苦を受く。 いはく、本の男子を見るに、一切の身分、みなことごとく熱炎あり。 来りてその身を抱くに、一切の身分、みなことごとく解散しぬ。 死しをはりてまた活り、きはめて怖畏をなして、走り避れて去るに、嶮しき岸より堕ち、炎の嘴ある烏、炎の口の野干ありて、これを噉食す。

また別処あり。 忍苦処と名づく。 他の婦女を取れるもの、ここに堕ちて苦を受く。 いはく、獄卒これを樹の頭に懸けて、頭面は下にあり、足は上にあり。 下に大きなる炎を燃きて一切の身を焼く。 焼き尽せばまた生じぬ。 唱喚して口を開けば、火口より入りて、その心・肺・生熟臓等を焼く。 余は経に説くがごとし。[以上、『正法念経』よりこれを略抄す。]

叫喚

【7】 四に叫喚地獄といふは、衆合の下にあり。 縦広、前に同じ。 獄卒の頭、黄なること金のごとし。 眼のなかより火出づ。

赭き色の衣を着たり。 手・足、長大にして、疾く走ること風のごとし。 口より悪声を出して罪人を射る。 罪人惶怖して、頭を叩きて、哀れみを求む。

「願はくは慈愍を垂れて、少し放捨せられよ」と。 この言ありといへども、いよいよ瞋怒を増す。 [『大論』(大智度論)。]あるいは鉄の棒をもつて頭を打ちて熱鉄の地よりして走らしめ、あるいは熱熬に置きて反覆してこれを炙る。

あるいは熱鑊に擲げてこれを煎り煮る。 あるいは駆りて猛炎の鉄の室に入る。 あるいは鉗をもつて口を開きて洋銅を灌ぎて、五臓を焼爛して下よりただに出す。 [『瑜伽』(瑜伽論)・『大論』(大智度論)。]罪人偈を説きて、閻羅人を傷恨していはく、

「なんぢ、なんぞ悲心なき、またなんぞ寂静ならざる。
われはこれ悲心の器なり。われにおいてなんぞ悲なき」と。

時に閻羅人、罪人に答へていはく、

「すでにの羂のために誑かされて、悪・不善の業をなして、
いま悪業の報を受く。なんがゆゑぞわれを瞋り恨むるや」と。

またいはく、

「なんぢ本悪業をなして、欲痴のために誑かされき。
かの時になんぞ悔いずして、いま悔ゆること、なんの及ぶところかあらん」と。[『正法念経』。]

人間の四百歳をもつて兜率天の一日夜となして、その寿四千歳なり。 兜率天の寿をもつてこの獄の一日夜となして、寿四千歳なり。 殺・盗・婬・飲酒のもの、このなかに堕つ。

 また十六の別処あり。そのなかに一処あり。火末虫と名づく。 昔、酒を売りしに、水を加へ益せるもの、このなかに堕つ。 四百四病を具せり。[風黄冷雑に、おのおの百一の病あり。合して四百四あり。]

その一の病の力は、一日夜においてよく四大洲のそこばくの人をしてみな死せしむ。 また身より虫出でて、その皮・肉・骨・髄を破りて飲食す。 また別処あり。 雲火霧と名づく。

昔、酒をもつて人に与へて、酔はしめをはりて、調戯して、これを弄して、かれをして羞恥せしめたるもの、ここに堕ちて苦を受く。 いはく、獄火の満てること厚さ二百なり。 獄卒、罪人を捉へて火のなかに行かしめて、足より頭に至るまで一切洋消せしむ。 足を挙ぐれば還りて生じぬ。 かくのごとく無量百千歳、苦を与ふること止まず。 余は経の文のごとし。

また獄卒、罪人を呵嘖して、偈を説きていはく、

「仏の所にして痴をなし、世・出世の事を壊り、
解脱を焼くこと火のごとくするは、いはゆる酒の一法なり」と。[『正法念経』。]

大叫喚

【8】 五に大叫喚地獄といふは、叫喚の下にあり。 縦広、前に同じ。 苦の相また同じ。

ただし前の四の地獄、およびもろもろの十六の別処の一切のもろもろの苦を十倍して重く受く。 人間の八百歳をもつて化楽天の一日夜となして、その寿八千歳なり。 かの天の寿をもつてこの獄の一日夜となして、その寿八千歳なり。 殺・盗・婬・飲酒・妄語のもの、このなかに堕つ。 獄卒、罪人を呵嘖して、偈を説きていはく、

「妄語は第一の火なり。なほよく大海をすら焼きてん。
いはんや妄語の人を焼くこと、草木薪を焼くがごとし」と。{云々}

 また十六の別処あり。 そのなかの一処を受鋒苦と名づく。 熱鉄の利き針、口舌をともに刺して、啼哭することあたはず。 また別処あり。 受無辺苦と名づく。

獄卒、熱鉄の鉗をもつてその舌を抜き出す。 抜きをはりぬればまた生じ、生じぬればすなはちまた抜く。 眼を抜くこともまたしかなり。

また刀をもつてその身を削る。 刀はなはだ薄く利きこと、剃頭刀のごとし。 かくのごとき等の異類のもろもろの苦を受くること、みなこれ妄語の果報なり。 余は経に説くがごとし。[『正法念経』略抄。]

焦熱

【9】 六に焦熱地獄といふは、大叫喚の下にあり。縦広、前に同じ。

獄卒、罪人を捉へて熱鉄の地の上に臥せ、あるいは仰むけ、あるいは覆せて、頭より足に至るまで、大きなる熱鉄の棒をもつて、あるいは打ち、あるいは築きて、肉摶のごとくならしむ。 あるいは極熱の大きなる鉄熬の上に置きて、猛炎をもつてこれを炙る。 左右にこれを転じて、表裏焼薄す。

あるいは大きなる鉄の串をもつて下よりこれを貫き、頭を徹して出し、反覆してこれを炙り、かの有情をして諸根・毛孔、および口のなかにことごとくみな炎起らしむ。 あるいは熱鑊に入れ、あるいは鉄のに置くに、鉄火猛盛にして骨髄を徹す。 [『瑜伽』(瑜伽論)・『大論』(大智度論)。]もしこの獄の豆ばかりの火をもつて閻浮提に置かば、一時に焚け尽きなん。

いはんや罪人の身は軟らかなること生蘇のごとし。 長時に焚焼せんに、あに忍ぶべけんや。 この地獄の人は、前の五の地獄の火を望み見ること、なほ雪霜のごとし。[『正法念経』。]人間の千六百歳をもつて他化天の一日夜となして、その寿万六千歳なり。

他化天の寿をもつて日夜となして、この獄の寿またしかなり。 殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見のもの、このなかに堕つ。

 四門のほかにまた十六の別処あり。そのなかに一処あり。分荼離迦と名づく。

いはく、かの罪人の一切の身分に、芥子ばかりも火炎なき処なし。 異の地獄の人、かくのごとく説きていはく、「なんぢ、疾くすみやかに来れ。 なんぢ、疾くすみやかに来れ。 ここに分荼離迦の池あり。 水ありて飲みつべし、林に潤影あり」と。 随ひて走り趣くに、道の上に坑あり。 なかに熾りなる火満てり。 罪人入りをはるに、一切の身分みなことごとく焼け尽きぬ。 焼けをはればまた生じ、生じをはればまた焼く。 渇欲息まずして、すなはち前進みて入りぬ。 すでにかの処に入れば、分荼離迦の炎の燃ゆること、高大なること五百由旬なり。

かの火に焼炙せられて、死してまた活る。 もし人、みづから餓死して天に生るることを得ることを望み、また他人を教へて邪見に住せしめたるもの、このなかに堕つ。

また別処あり。 闇火風と名づく。 いはく、かの罪人、悪風に吹かれて、虚空のなかにありて、所依の処なし。 車輪のごとく疾く転じて、身見るべからず。 かくのごとく転じをはるに、異の刀風生じて、身を砕くこと沙のごとくして、十方に分散す。 散じをはればまた生じ、生じをはればまた散ず。 つねにかくのごとし。 もし人、かくのごとき見をなさく、「一切の諸法に、常と無常とあり。 無常といふは身なり。 常といふは四大なり」と。 かの邪見の人、かくのごとき苦を受く。 余は経に説くがごとし。 [『正法念経』。]

大焦熱

【10】 七に大焦熱地獄といふは、焦熱の下にあり。 縦広、前に同じ。 苦の相また同じ。

[『瑜伽』(瑜伽論)・『大論』(大智度論)。]ただし前の六の地獄の根本と別処との一切のもろもろの苦を十倍してつぶさに受く。 つぶさに説くべからず。 その寿、半中劫なり。 殺・盗・婬・飲酒・妄語・邪見、ならびに浄戒の尼を汚せるもの、このなかに堕つ。

この悪業の人は、先づ中有にして大地獄の相を見る。 閻羅人ありて、面に悪き状あり。 手・足きはめて熱くして、身を捩かし、肱を怒らかせり。 罪人これを見て、きはめて大きに恾怖す。 その声、雷吼のごとし。 罪人これを聞きて恐怖さらに増す。 その手に利き刀を執り、腹肚はなはだ大にして、黒雲の色のごとし。 眼の炎は灯のごとく、鉤れる牙、鋒のごとく利し。 臂・手みな長く、揺動して勢ひをなすに、一切の身分、みなことごとく粗起す。 かくのごとき種々の畏づべき形状をもつて、堅く罪人の咽を繋る。

かくのごとくして将て去ること、六十八百千由旬の地海洲城を過ぎて、海の外辺にあり。 また行くこと三十六億由旬にして、漸々に下に向かふこと十億由旬なり。 一切の風のなかには、業風第一なり。 かくのごとき業風、悪業の人を将て去りて、かの処に到らしむ。 すでにかしこに到りをはりぬれば、閻魔羅王、種々に呵責す。 呵責すでに已れば、悪業の羂をもつて縛りて、出して地獄に向かはしむ。 遠く大焦熱地獄のあまねく大きなる炎の燃ゆるを見る。

また地獄の罪人の啼哭の声を聞く。 悲しみ愁へ、恐魄して、無量の苦を受く。 かくのごとく無量百千万億無数の年歳、啼哭の声を聞きて、十倍して恐魄し、心驚き怖畏す。 閻羅人、これを呵責していはく、

「なんぢ地獄の声を聞くに、すでにかくのごとく怖畏す。
いかにいはんや地獄にして焼かるることは、乾れたる薪草を焼くがごとし。
火の焼くはこれ焼くにあらず。悪業すなはちこれ焼くなり。
火の焼くはすなはち滅すべし。業の焼くをば滅すべからず」と。{云々}

かくのごとくねんごろに呵責しをはりて、将て地獄に向かふに、大きなる火聚あり。 その聚、挙れること高さ五百由旬なり。 その量、寛広なること二百由旬なり。 炎の燃ゆること熾盛なるは、かの人の所作の悪業の勢力なり。 急にその身を擲げて、かの火聚に堕すこと、大きなる山の岸より推して険しき岸に在くがごとし。 [以上、『正法念経』よりこれを取意し略抄す。]

 この大焦熱地獄の四門のほかに、十六の別処あり。 そのなかに一処あり。 一切間なく、乃至虚空まで、みなことごとく炎燃して、針の孔ばかりも炎燃せざる処なし。 罪人、火のなかに声を発して唱へ喚ぶ。 無量億歳、つねに焼くこと止まず。 清浄の優婆夷を犯せるもの、このなかに堕つ。

また別処あり。 普受一切苦悩と名づく。 いはく、炎刀をもつて一切の身の皮を剥ぎ割きて、その肉をば侵さず。 すでにその皮を剥ぎ、身とあひ連ねて熱の地に敷き在きて、火をもつてこれを焼き、熱鉄の沸けるをもつてその身体に灌ぐ。

かくのごとく無量億歳、大苦を受く。 比丘の、酒をもつて持戒の婦女を誘へ誑かして、その心を壊りをはりて、しかして後に、ともに行じ、あるいは財物を与へたるもの、このなかに堕つ。 余は経に説くがごとし。 [『正法念経』よりこれを略抄す。]

阿鼻

【11】 八に阿鼻地獄といふは、大焦熱の下にあり。 欲界の最底の処なり。

罪人、かしこに趣向する時に、先づ中有の位にして、啼哭して、偈を説きていはく、

「一切はただ火炎なり。空に遍して中間もなし。
四方および四維、地界にも空しきところなし。
一切の地界処には、悪人みな遍満せり。
われいま帰するところなくして、孤独にして同伴なし。
悪処の闇のなかにありて、大きなる火炎の聚に入りぬ。
われ虚空のなかにして、日・月・星を見ず」と。{以上}

時に閻羅人、瞋怒の心をもつて答へていはく、

「あるいは増劫あるいは減劫に、大火なんぢが身を焼く。
痴人すでに悪をなしてき。いまなにをもつてか悔ゆることをなす。
これ天・修羅・健達婆・竜・鬼のするにもあらず。
業羅の繋縛するところなり。人のよくなんぢを救ふものなし。
大海のなかに、ただ一掬の水を取らんがごとし。
この苦は一掬のごとし、後の苦は大海のごとし」と。{以上}

すでに呵責しをはれば、将て地獄に向かふ。 かしこを去ること二万五千由旬にして、かの地獄の啼哭の声を聞きて、十倍して悶絶す。 頭面は下にあり、足は上にありて、二千年を経て、みな下に向かひて行く。 [『正法念経』よりこれを略抄す。]

かの阿鼻城は、縦広八万由旬にして、七重の鉄の城、七層の鉄の網あり。 下に十八のありて、刀林周匝せり。 四角に四の銅の狗あり。 身の長四十由旬なり。 眼は電のごとく、牙は剣のごとく、歯は刀山のごとく、舌は鉄刺のごとし。 一切の毛孔よりみな猛火を出し、その煙臭悪にして世間に喩へなし。 十八の獄卒あり。 頭は羅刹のごとく、口は夜叉のごとし。 六十四の眼ありて、鉄丸を迸り散らす。 鉤れる牙は、上に出でたること高さ四由旬、牙の頭より火流れて阿鼻城に満つ。 頭の上に八の牛頭あり。 一々の牛頭に十八の角ありて、一々の角の頭よりみな猛火を出す。

また七重の城のうちに七の鉄幢あり。 幢の頭より火涌くこと、なほ沸泉のごとし。 その炎、流れ迸りて、また城のうちに満つ。 四門の閫の上に八十の釜あり。 沸銅涌出して、また城のうちに満つ。

一々の隔のあひだに、八万四千の鉄蟒・大蛇ありて、毒を吐き、火を吐きて、身城のうちに満てり。 その蛇の哮え吼ゆること、百千の雷のごとく、大鉄丸を雨らして、また城のうちに満つ。 五百億の虫あり。 八万四千の嘴ありて、嘴の頭より火流れ、雨のごとくして下る。

この虫下る時に、獄火いよいよ盛りにして、あまねく八万四千由旬を照らす。 また八万億千の苦のなかの苦なるもの、このなかに集在せり。[『観仏三昧経』よりこれを略抄す。] 『瑜伽』(瑜伽論)の第四にいはく、「東方の多百瑜繕那の三熱の大鉄地の上より、猛熾の火ありて、焔を騰げて来りて、かの有情を刺す。 皮を穿ちて肉に入り、筋を断ちて骨を破り、またその髄に徹りて、焼くこと脂燭のごとし。

かくのごとく、身を挙りてみな猛焔となりぬ。 東方よりするがごとく、南西北方もまたかくのごとし。 この因縁によりて、かのもろもろの有情、猛焔と和雑して、ただ火聚の、四方より来るを見る。 火焔、和雑し、間隙あることなく、所受の苦痛また間隙なし。 ただ苦に逼められて号き叫ぶ声を聞きて、衆生ありといふことを知る。 また鉄の箕をもつて三熱の鉄の炭を盛り満てて、これを簸り揃へ、また熱鉄の地の上に置きて、大熱鉄の山に登らしむ。 上りてはまた下り、下りてはまた上る。

その口のなかより、その舌を抜き出して、百の鉄の釘をもつて、これを張りて、皺なからしむること、牛の皮を張るがごとし。

またさらに熱鉄の地の上に仰むけ臥せて、熱鉄の鉆をもつて口を鉆みて開かしめ、三熱の鉄丸をもつてその口のなかに置きて、すなはちその口および咽喉を焼き、腑臓を徹して下より出す。 また洋銅をもつてその口に灌ぎて、喉および口を焼き、腑臓を徹して下より流出す」と。 [以上、『瑜伽』(瑜伽論)に、「三熱」といふは、「焼燃・極焼燃・遍極焼燃」なり。]七の大地獄ならびに別処の一切のもろもろの苦を、もつて一分となすに、阿鼻地獄は一千倍して勝れたり。

かくのごとくして、阿鼻地獄の人は、大焦熱地獄の罪人を見ること、他化自在天処を見るがごとし。

四天下処欲界六天は、地獄の気を聞がば、すなはちみな消え尽きなん。 なにをもつてのゆゑに。 地獄の人はきはめて大きに臭きをもつてのゆゑに。 地獄の臭き気、なんがゆゑぞ来らざる。 二の大山ありて、一は出山と名づけ、二を没山と名づく。 かの臭き気を遮せり。 もし人、一切の地獄のあらゆる苦悩を聞かば、みなことごとく堪へざらん。 これを聞かばすなはち死せん。

かくのごとくなるをもつて、阿鼻大地獄処をば、千分のなかにおいて一分をも説かず。 なにをもつてのゆゑに。 説き尽すべからず、聴くことを得べからず、譬喩すべからざるをもつてなり。 もし人ありて説き、もし人ありて聴かば、かくのごとき人は血を吐きて死せん。 [『正法念経』より、取意略抄す。]この無間獄は寿一中劫なり。 [『倶舎論』。]五逆罪を造り、因果を撥無し、大乗を誹謗し、四重を犯して、虚しく信施を食らへるもの、このなかに堕つ。[『観仏三昧経』による。]

 この無間獄の四門のほかに、また十六の眷属の別処あり。 そのなかの一処を鉄野干食処と名づく。 いはく、罪人の身の上に、火の燃えたること十由旬量なり。 もろもろの地獄のなかに、この苦もつとも勝れたり。 また鉄の塼を雨らすこと、盛りなる夏の雨のごとく、身体破砕すること、なほ乾れたるのごとし。 炎の牙ある野干、つねに来りて食噉し、一切の時において苦を受くること止まず。 昔、仏像を焼き、僧房を焼き、僧の臥具を焼きしもの、このなかに堕つ。

また別処あり。黒肚処と名づく。 いはく、飢渇身を焼きて、みづからその肉を食らふ。 食らひをはればまた生じ、生じをはればまた食らふ。 黒肚の蛇ありて、かの罪人を繞ひて、はじめ足の甲より漸々に齧み食らふ。 あるいは猛火に入れて焚焼し、あるいは鉄鑊に在きて煎煮す。 無量億歳、かくのごとき苦を受く。 昔、仏の財物を取りて食用せるもの、ここに堕つ。

また別処あり。雨山聚処と名づく。
いはく、一由旬量の鉄山、上より下りて、かの罪人を打つに、砕くること沙揣のごとし。 砕けをはればまた生じ、生じをはればまた砕く。 また十一の炎ありて、周遍して身を焼く。 また獄卒、刀をもつてあまねく身分を割きて、極熱の白鑞の汁をその割ける処に入る。 四百四病、具足してつねにあり。 長久に苦を受けて年歳あることなし。 昔、辟支仏の食を取りて、みづから食してこれを与へざるもの、ここに堕つ。

また別処あり。 閻婆度処と名づく。 悪鳥あり、身大きなること象のごとし。 名づけて閻婆といふ。 嘴利くして炎を生ぜり。 罪人を執りて、はるかに空中に上りて、東西に遊行し、しかして後にこれを放つに、石の地に堕つるがごとくして、砕けて百分となる。 砕けをはりてはまた合し、合しをはればまた執る。 また利き刃道に満ちて、その足脚を割く。 あるいは炎の歯ある狗ありて、来りてその身を齧む。 長久の時に大苦悩を受く。 昔、人のゐる〔河を〕決断して、人をして渇死せしめたるもの、ここに堕つ。余は経に説くがごとし。 [以上『正法念経』。]
『瑜伽』(瑜伽論)の第四に、通じて八大地獄の近辺の別処を説きていはく、「いはく、かの一切のもろもろの大那落迦に、みな四方に四岸・四門ありて、鉄の墻、囲繞せり。 その四方の四門より出でをはりて、その一々の門のほかに四の出園を置けり。 いはく、煻煨ありて膝に斉し。 かのもろもろの有情、出でて舎宅を求めんとして遊行して、ここに至りぬ。 足を下す時には、皮肉および血、ならびにすなはち消爛しぬ。 足を挙ぐれば還りて生ず。 次いでこの煻煨に間なくして、すなはち死屍糞泥あり。 このもろもろの有情、舎宅を求めんがために、かしこより出でをはりて、漸々に遊行して、そのなかに淊ち入りて、首足ともに没しぬ。 また、屍糞泥のうちに、多くもろもろの虫あり。 嬢矩吒と名づく。 皮を穿ちて肉に入り、筋を断ちて骨を破り、髄を取りて食らふ。

次に屍糞泥に間なくして、利き刀剣あり。 刃を仰むけて路となす。 かのもろもろの有情、舎宅を求めんがために、かしこより出でをはりて、遊行してここに至り、足を下す時には、皮・肉・筋・血ことごとくみな消え爛れぬ。 足を挙ぐる時には、また復すること故のごとし。 次に刀剣刃路に間なくして、刃葉林あり。 かのもろもろの有情、舎宅を求めんがために、かしこより出でをはりて、かの陰に往き趣きて、わづかにその下に坐するに、微風つひに起りて刃の葉堕落し、その身の一切の支節を斫截して、すなはち地に躄れぬ。 黒黧の狗ありて、脊・胎摣掣して、これを噉食す。 この刃葉林より間なくして、鉄設柆末梨林あり。 かのもろもろの有情、舎宅を求めんがために、すなはち来りてこれに趣きて、つひにその上に登る。 まさに登りぬる時には、一切の刺鋒、ことごとく回りて下に向かふ。 下らんと欲する時には、一切の刺鋒、また回りて上に向かふ。 この因縁によりて、その身を貫き刺して、もろもろの支節に遍す。 その時に、すなはち鉄の嘴ある大きなる烏ありて、かの頭の上に上り、あるいはその髆に上りて、眼精探啄して、しかもこれを噉食す。

鉄設柆末梨林より間なくして、広大なる河あり。 沸きて熱き灰の水、そのなかに弥満せり。 かのもろもろの有情、舎宅を尋ね求めて、かしこより出でをはりて、来りてこのなかに堕ちぬ。 なほ豆をもつてこれを大きなる鑊に置きて、猛く熾りなる火を燃きて、これを煎煮するがごとし。 湯に随ひて騰湧して、周旋して回復す。 河の両の岸に、もろもろの獄卒あり。 手に杖索および大きなる網を執りて、行列して住して、かの有情を遮して出づることを得しめず。 あるいは索をもつて羂け、あるいは網をもつて漉ふ。

また、広大なる熱鉄の地の上に置きて、かの有情を仰むけて、これに問ひていはく、〈なんぢら、いまなんの所須をか欲する〉と。 かくのごとく答へていはく、〈われら、いまつひに覚知することなし。 しかも種々の飢苦のために逼めらる〉と。 時にかの獄卒、すなはち鉄の鉆をもつて口を鉆みて開かしめて、すなはち極熱の焼熱の鉄丸をもつてその口のなかに置く。

余は前に説くがごとし。

もしかれ答へて、〈われいまただ渇苦のために逼めらる〉といへば、その時に、獄卒すなはち洋銅をもつてその口に灌ぐ。 この因縁によりて長時に苦を受く。 乃至、先世に造れるところの一切の、よく那落迦を感じ、悪・不善の業いまだ尽きざれば、いまだこのなかを出でず。 もしは刀剣刃路、もしは刃葉林、もしは鉄設柆末梨林、これを総べて一となす。 ゆゑに四の園あり」と。[以上は『瑜伽』(瑜伽論)ならびに『倶舎』(倶舎論)の意なり。 一々の地獄の四門のほかにおのおのこの四園あり。 合して十六と名づく。 『正法念経』の、八大地獄の十六の別処名相の各別なるには同ぜず。]また頞部陀等の八寒地獄あり。 つぶさに経論のごとし。 これを広述するに遑あらず。

餓鬼

【12】 第二に餓鬼道を明かさば、住処に二あり。 一には地の下五百由旬にあり。 閻魔王界なり。 二には人天のあひだにあり。 その相はなはだ多し。 いま少分を明かさん。 あるいは身の長一尺なり。 あるいは身量、人のごとし。 あるいは千踰繕那のごとし。 あるいは雪山のごとし。 [『大集経』。]あるいは鬼あり。 鑊身と名づく。 その身長大にして、人に過ぎたること両倍なり。 面・目あることなく、手・足はなほ鑊の脚のごとし。 熱火なかに満ちて、その身を焚焼す。 昔、財を貪じて屠殺せるもの、この報を受く。 あるいは鬼あり。 食吐と名づく。

その身広大にして、長半由旬なり。 つねに嘔吐を求むるに、困みて得ることあたはず。 昔、あるいは丈夫の、みづから美食を噉らひて妻子に与へず、あるいは婦人の、みづから食らひて夫子に与へざるもの、この報を受く。 あるいは鬼あり。 食気と名づく。

世人の、病によりて、水の辺、林のなかに祭を設くるに、この香気を臭ぎて、もつてみづから活命す。 昔、妻子等の前にして独り美食を噉らへるもの、この報を受く。 あるいは鬼あり。 食法と名づく。 嶮難の処にして馳走して食を求む。 色は黒雲のごとく、涙の流るること雨のごとし。 もし僧寺に至りて、人の呪願し説法することある時は、これによりて力を得て活命す。 昔、名利を貪ぜしがために不浄に説法せしもの、この報を受く。 あるいは鬼あり。 食水と名づく。 飢渇身を焼き、周慞して水を求むるに、困みて得ることあたはず。

長き髪面を覆ひ、目見るところなし。 走りて河の辺に趣きて、もし人、河を渡りて、脚足の下より遺落せる余りの水あれば、速疾に接り取りて、もつてみづから活命す。 あるいは人の、水を掬ひて亡ぜる父母に施するに、すなはち少分を得て、命、存立することを得。 もしみづから水を取れば、水を守るもろもろの鬼、杖をもつて撾打す。 昔、酒を沽るに水を加へ、あるいは蚓・蛾を沈め、善法を修せざるもの、この報を受く。 あるいは鬼あり。 悕望と名づく。

世人の、亡ぜる父母のために祀を設くる時にのみ、得てこれを食らふ。 余をばことごとく食することあたはず。 もし人、労しくして少物を得たるを、誑惑して取り用ゐるもの、この報を受く。 あるいは鬼あり。 海渚のなかに生れたり。 樹林・河水あることなく、その処はなはだ熱し。 かの冬の日をもつて人間の夏に比ぶるに、過ぎ踰えたること千倍なり。 ただ朝の露をもつてみづから活命す。

海渚に住すといへども、海を見るに枯れ竭きぬ。 昔、路を行く人の、病苦に疲極せるに、その賈を欺き取りて、直を与ふること薄少なるもの、この報を受く。

あるいは鬼あり。 つねにのあひだに至りて、焼屍の火を噉らふに、なほ足ることあたはず。 昔、刑獄を典主して、人の飲食を取れるもの、この報を受く。

あるいは餓鬼あり。 生れて樹のなかにありて、逼迮して身を押さるること賊木虫のごとくして、大苦悩を受く。 昔、陰涼の樹を伐り、および衆僧の園林を伐れるもの、この報を受く。 [『正法念経』。]あるいはまた鬼あり。 頭の髪、垂れ下りて、あまねく身体を纏へり。 その髪刀のごとくして、その身を刺し切る。 あるいは変じて火となりて、〔身体を〕周匝して焚焼す。

あるいは鬼あり。 昼夜におのおの五の子を生む。 生むに随ひてこれを食らふに、なほつねに飢乏す。 [『六波羅蜜経』。]あるいはまた鬼あり。 一切の食をみな噉らふことあたはず。 ただみづから頭を破り脳を取りて食らふ。

あるいは鬼あり。 火口より出づ。 飛蛾の、火に投ずるをもつて飲食となす。

あるいは鬼あり。 糞・涕・膿・血、器を洗へる遺余を食らふ。 [『大論』(大智度論)。]またほかの障によりて食を得ざる鬼あり。 いはく、飢渇つねに急にして、身体枯竭せり。 たまたま清き流に望み、走りてかしこに向かひ赴けば、大力の鬼ありて、杖をもつて逆へ打つ。 あるいは変じて火となり、あるいはことごとく枯れ涸きぬ。 あるいはうちの障によりて食を得ざる鬼あり。

いはく、口は針の孔のごとく、腹は大山のごとくして、たとひ飲食に逢へどもこれを噉らふに由なし。 あるいは内外の障なけれども、しかも用ゐることあたはざる鬼あり。 いはく、たまたま少食に逢ひて食噉すれば、変じて猛焔となりて、身を焼きて出づ。 [『瑜伽論』。]人間の一月をもつて一日夜となして月・年をなし、寿五百歳なり。 『正法念経』(意)にのたまはく、「慳貪と嫉妬のもの、餓鬼道に堕つ」と。

畜生

【13】 第三に畜生道を明かさば、その住処に二あり。 根本は大海に住し、支末は人天に雑せり。 別して論ずれば、三十四億の種類あり。 総じて論ずれば、三を出でず。 一は鳥類、二は獣類、三は虫類なり。 かくのごとき等の類、強弱あひ害す。 もしは飲、もしは食、いまだかつてしばらくも安らかならず。

昼夜のうちに、つねに怖懼を懐けり。 いはんやまた、もろもろの水性の属は漁るもののために害せられ、もろもろの陸行の類は、猟るもののために害せらる。 もしは象・馬・牛・・駱駝・等のごときは、あるいは鉄鉤をもつてその脳を斲ち、あるいは鼻のなかに穿し、あるいは轡をもつて首に繋く。 身につねに重きものを負ひて、もろもろの杖捶を加へらる。 ただ水・草を念じて、余は知るところなし。 また蚰蜒・鼠狼等は、闇のなかに生れて闇のなかに死ぬ。 蟣蝨・蚤等は、人身によりて生じて、還りて人によりて死ぬ。 またもろもろの竜衆は、三熱の苦を受けて昼夜に休むことなし。

あるいはまた蟒蛇は、その身長大なれども、聾騃にして足なく、宛転腹行して、もろもろの小虫のために唼食せらる。

あるいはまた一の毛の百分のごときもの、あるいは窓のなかの遊塵のごときもの、あるいは十五由旬のごときものあり。 かくのごときもろもろの畜生は、あるいは一時を経るあひだ、あるいは七時のあひだ、あるいは一劫・百劫乃至千万億劫に無量の苦を受くるあり。

あるときにはもろもろの違縁に遇ひて、しばしば残害せらる。 これらのもろもろの苦、勝げて計ふべからず。 愚痴・無慚にしていたづらに信施を受けて、他の物を償はざるもの、この報を受く。 [以上諸文、経論に散在せり。]

阿修羅

【14】 第四に阿修羅道を明かさば、二あり。 根本の勝れたるものは、須弥山の北、巨海の底に住せり。 支流の劣なるものは、四大洲のあひだの山巌のなかにあり。 雲雷もし鳴れば、これ天の鼓と謂ひて怖畏周章して、心大きに戦悼す。 またつねに諸天のために侵害せられて、あるいは身体を破り、あるいはその命を夭す。 また日々三時に、苦具おのづから来りて逼害す。 種々の憂苦、勝げて説くべからず。

【15】 第五に人道を明かさば、略して三の相あり。 つまびらかに観察すべし。 一には不浄の相、二には苦の相、三には無常の相なり。

不浄の相

【16】 一に不浄の相といふは、おほよそ人の身のなかに三百六十の骨ありて、節々あひ柱へたり。 いはく、指の骨は足の骨を柱へ、足の骨は踝の骨を柱へ、踝の骨はの骨を柱へ、の骨は膝の骨を柱へ、膝の骨䏶の骨を柱へ、䏶の骨は臗の骨を柱へ、臗の骨は腰の骨を柱へ、腰の骨は脊の骨を柱へ、脊の骨は勒の骨を柱へ、また脊の骨は項の骨を柱へ、項の骨は頷の骨を柱へ、頷の骨は牙歯を柱へ、上に髑髏あり。 また項の骨は肩の骨を柱へたり。 肩の骨は臂の骨を柱へたり。 臂の骨はの骨を柱へたり。 腕の骨は掌の骨を柱へたり。 掌の骨は指の骨を柱へたり。

かくのごとく展転して次第に鎖成せり。 [『大経』(大般涅槃経)の意。]「三百六十の骨の、聚まりて成ぜるところなり。 朽ち壊れたる舎のごとし。

もろもろの節をもつて支え持ち、四の細脈をもつて周匝して弥布せり。 五百分の肉、なほ泥の塗れるがごとく、六の脈あひ繋ぎ、五百の筋纏へり。 七百の細脈、もつて編絡をなし、十六の粗き脈、鉤け帯りてあひ連なれり。 二の肉縄あり。 長さ三尋半なり。 うちにして纏ひ結せり。 十六の腸・胃、生熟臓を繞れり。 二十五の気脈、なほ窓の隙のごとし。 一百七の関、あたかも破砕せる器のごとし。 八万の毛孔、乱れたる草の覆へるがごとし。 五根七竅は不浄にて盈満せり。 七重の皮にて裹み、六味にて長養すること、なほ祠火の、呑受して厭ふことなきがごとし。

かくのごとき身は、一切臭穢にして、自性殨爛せり。 たれかまさにここにおいて愛重し驕慢せん」と。 [『宝積経』九十六。]あるいはいはく、九百の臠、その上に覆ひ、九百の筋、そのあひだに連なれり。 三万六千の脈ありて、三升の血、なかにありて流注す。 九十九万の毛孔ありて、もろもろの汗つねに出づ。 九十九重の皮、しかもその上を裹めり。 [以上、身中の骨肉等なり。]また腹のなかに五臓あり。 葉々あひ覆ひて、靡靡として下に向かへり。 状、蓮華のごとし。

孔竅は空疎にして、内外にあひ通じ、おのおの九十重あり。 肺臓は上にありて、その色白し。 肝臓はその色青し。 心臓は中央にありて、その色赤し。 脾臓はその色黄なり。 腎臓は下にありて、その色黒し。 また六腑あり。

いはく、大腸をば伝送の腑となす。 また肺腑たり。 長さ三尋半、その色白し。 胆をば清浄の腑となす。 また肝腑たり。 その色青し。 小腸をば受盛の腑となす。 また心腑たり。 長さ十六尋、その色赤し。 胃をば五穀の腑となす。 また脾の腑たり。 三升の糞、なかにありて、その色黄なり。 膀胱をば津液の腑となす。 また腎腑たり。

一斗の尿、なかにありて、その色黒し。 三膲をば中涜の腑となす。 かくのごとき等の物、縦横に分布せり。 大小の二腸、赤白、色を交へたり。 十八に周転せること、毒蛇の蟠れるがごとし。 [以上、腹中の腑臓なり。]

また頂より趺に至るまで、髄より膚に至るまで、八万戸の虫あり。 四の頭、四の口、九十九の尾ありて、形相一にあらず。 一々の戸にまた九万の細虫ありて、秋の毫よりも小さし。 [『禅経』・『次第禅門』等。]『宝積経』にのたまはく、「はじめて胎を出づる時に、七日を経て、八万戸の虫、身より生じて、縦横に食噉す。 二戸の虫あり。 名づけて舐髪となす。 髪の根によりて住して、つねにその髪を食す。 二戸の虫を繞眼と名づく。 眼によりて住して、つねに眼を食す。 四戸は脳によりて脳を食す。 一戸を稲葉と名づく。 耳によりて耳を食す。 一戸を蔵口と名づく。

鼻によりて鼻を食す。 二戸を、一を遥擲と名づけ、二を遍擲と名づく。 唇によりて唇を食す。 一戸をば針口と名づく。 舌によりて舌を食す。 五百の戸は左辺によりて左辺を食す。 右辺もまたしかなり。

四戸は生臓を食し、二戸は熟臓を食す。 四戸は小便の道によりて、尿を食らひて住し、四戸は大便の道によりて、糞を食らひて住す。 乃至、一戸を黒頭と名づく。 脚によりて脚を食す。 かくのごとき八万、この身に依止して、昼夜に食噉して、身をして熱悩せしめて、心に憂愁あらしむ。 衆病現前するに良医としてよくために除療するあることなし」と。 [第五十七に出でたり。 これを略抄す。]

『僧伽吒経』に説きてのたまはく、「人まさに死なんとする時には、もろもろの虫怖畏して、たがひにあひ噉食するに、もろもろの苦痛を受く。 男女眷属、大悲悩をなす。 もろもろの虫、あひ食す。 ただ二の虫ありて、七日のあひだ闘諍す。

七日を過ぎをはりて、一の虫は命尽きて、一の虫はなほ存ぜり」と。 [以上、虫蛆。]たとひ上饍の衆味を食すれども、宿を経るあひだにみな不浄となりぬ。 たとへば、糞穢の大小ともに臭きがごとく、この身もまたしかり。 少より老に至るまで、ただこれ不浄なり。 海水を傾けて洗ふとも、浄潔ならしむべからず。 外には端厳の相を施せりといへども、内にはただもろもろの不浄を裹めること、なほ画せる瓶に、しかも糞穢を盛れたるがごとし。

[『大論』(大智度論)・『止観』等の意を取る。]ゆゑに『禅経』の偈にのたまはく、

「身の臭くして不浄なることを知れども、愚者はなほ愛惜す。
外に好しき顔色を視て、内の不浄をば観ぜず」と。[以上、体の不浄を挙ぐ。]

いはんやまた命終の後に、のあひだに捐捨てられて、一・二日、乃至七日を経るに、その身膖脹して、色青瘀に変ず。 臭り爛れ、皮は穿げて、膿血流れ出づ。 ・鷲・・梟・野干・狗等の種々の禽獣、して食噉す。 禽獣食らひをはりて、不浄潰爛せり。 無量種の虫蛆ありて、臭き処に雑はり出づ。 悪むべきこと、死にたる狗よりも過ぎたり。 乃至、白骨となりをはれば、支節分散して、手・足・髑髏おのおの異処にあり。 風吹き、日曝し、雨灌ぎ、霜封じて、積むこと歳年あれば、色相変異し、つひに腐朽砕末して、塵土とあひ和しぬ。 [以上、究竟不浄なり。

『大般若』・『止観』等に見えたり。]まさに知るべし。 この身は始終不浄なり。 所愛の男女みなまたかくのごとし。 いづれの有智のものか、さらに楽着を生ぜんや。 ゆゑに『止観』にいはく、「いまだこの相を見ざるときは、愛染はなはだ強し。 もしこれを見をはれば、欲心すべて罷む。 はるかにしても忍び耐へざることは、糞を見ざればなほよく飯を噉らへども、たちまちに臭き気を聞ぎつれば、すなはち嘔吐するがごとし」と。

またいはく(同)、「もしこの相を証しつれば、また高き眉、翠き眼、皓き歯、丹き唇なりといへども、一聚の屎に、をもつてその上を覆へるがごとし。 また爛れたる屍に、仮りて繒綵を着せたらんがごとし。 なほ眼にすら見ず、いはんやまさに身に近づくべけんや。 鹿杖を雇ひて自害すべし。 いはんや歍ひ抱きて婬楽せんをや。 かくのごとき想は、これ婬欲の病の大黄湯なり」と。 {以上}

苦の相

【17】 二に苦といふは、この身は初生の時より、つねに苦悩を受く。 『宝積経』に説くがごとし。 「もしは男、もしは女、たまたま生じて地に堕つるに、あるいは手をもつて捧げ、あるいは衣をもつて承接し、あるいは冬夏の時に、冷熱の風触るるに、大苦悩を受くること、牛を生剥ぎにして、墻壁に触れしむるがごとし」と。 {取意}長大の後にまた苦悩多し。

同経に説かく、「この身を受けて二種の苦あり。 いはゆる眼・耳・鼻・舌・咽喉・牙歯・胸・腹・手・足に、もろもろの病、生ずることあり。 かくのごとき四百四病、その身に逼切するを、名づけて内の苦となす。 また外の苦あり。

いはゆる、あるいは牢獄にありて、撾打楚撻せられ、あるいは耳・鼻を劓られ、および手・足を削らる。 もろもろの悪鬼神、しかもその便りを得。 また蚊・虻・蜂等の毒虫のために唼食せらる。 寒熱・飢渇・風雨ならびに至りて、種々の苦悩、その身に逼切す。 この五陰の身は、一々の威儀行住坐臥、みな苦にあらずといふことなし。 もし長時に行きて、しばらくも休息せざれば、これを名づけて外苦となす。 住および坐・臥またみな苦なり」と。 {略抄}諸余の苦相は眼の前に見つべし。 説くことを俟つべからず。

無常の相

【18】 三に無常といふは、『涅槃経』にのたまはく、「人の命は停まらざること、山の水よりも過ぎたり。

今日は存ぜりといへども、明くればまた保ちがたし。 いかんぞ心をほしいままにして、悪法に住せしめんや」と。 『出曜経』にのたまはく、

「この日すでに過ぐれば、命すなはち減少す。
少水の魚のごとし。これなんの楽しみかあらん」と。

『摩耶経』の偈にのたまはく、

「たとへば旃陀羅の、牛を駆りて屠所に至るに、
歩々に死の地に近づくがごとく、人の命もまたかくのごとし」と。{以上}

たとひ長寿の業ありといへども、つひに無常を免れず。 たとひ富貴の報を感ぜりといへども、かならず衰患の期あり。 『涅槃経』の偈にのたまふがごとし。

「一切のもろもろの世間に、生ぜるものはみな死に帰す。
寿命、無量なりといへども、かならず終尽することあり。
それ盛りなるはかならず衰することあり、合会するは別離あり。
壮年は久しく停まらず、盛りなる色は病に侵さる。
命は死のために呑まれ、法として常なるものあることなし」と。

また『罪業応報経』の偈にのたまはく、

「水渚はつねに満たず。火の盛りなれば久しく燃えず。
日は出でて須臾に没しぬ。月は満ちをはりてまた欠けぬ。
尊栄高貴なるものも、無常のすみやかなることこれに過ぎたり。
いままさにつとめて精進して、無上の尊頂礼すべし」と。{以上}

ただもろもろの凡下のみ、この怖畏あるにあらず。 仙に登りを得たるもの、またかくのごとし。 『法句譬喩経』の偈にのたまふがごとし。

空にもあらず海のなかにもあらず。山石のあひだに入るにもあらず。地の方処として、脱止して死を受けざるはあることなし」と。[空に騰り、海に入り、巌に隠るる三人の因縁、『経』(同)に広く説くがごとし。]

まさに知るべし。 諸余の苦患は、あるいは免るるものあるも、無常の一事はつひに避るる処なし。 すべからく説のごとく修行して、常楽の果を欣求すべし。 『止観』にいふがごとし。 「無常の殺鬼は豪賢をも択ばず。 危脆にして堅からず、恃怙すべきこと難し。 いかんぞ安然として百歳を規望せん。 四方に馳求して、貯積聚斂すれども、聚斂いまだ足らざるに、溘然として長く往きぬれば、あらゆる産貨はいたづらに他の有となりぬ。 冥々として独り逝くに、たれか是非を訪はんや。 もし無常の、暴水・猛風・掣電よりも過ぎたることを覚らんも、山・海・空・市に、逃げ避くる処なし。 かくのごとく観じをはりて、心大きに怖畏して、眠りは席を安くせず、食はを甘くせず、頭燃を救はんがごとくして、もつて出要を求めよ」と。

またいはく(止観)、「たとへば、野干の耳・尾・牙を失ふまでは、詐り眠りして脱るることを望めども、たちまちに頭を断ることを聞きては、心大きに驚怖するがごとし。 生老病に遭ひては、なほ急なりとなさざらんも、死の事は奢にせず。 いかんぞ怖ぢざることを得ん。 怖心起る時に、湯火を履まんがごとし。 五塵六欲貪染するに暇あらず」と。{以上略抄}人道かくのごとし、実に厭離すべし。

【19】 第六に天道を明かさば、三あり。 一には欲界、二には色界、三には無色界なり。 その相すでに広し。 つぶさに述すべきこと難し。 しばらく一処を挙げて、もつてその余を例せん。

かの忉利天のごときは、快楽極まりなしといへども、命終の時に臨みて五衰の相現ず。 一は頭の上の華鬘たちまちに萎む。 二は天衣、塵垢に着せらる。 三は腋の下より汗出づ。 四は両の目しばしば眴ぐ。 五は本居を楽はず。 この相現ずる時に、天女・眷属みなことごとく遠離して、これを棄つること草のごとし。 林のあひだに偃臥して、悲泣して嘆きていはく、「このもろもろの天女をば、われつねに憐愍しつ。 いかんぞ一旦にわれを棄つること草のごとくする。 われいま依なく怙なし。 たれかわれを救ふものあらん。

善見宮城は、いまよりはまさに絶えなんとす。 帝釈の宝座、朝謁するに由なし。 殊勝殿のなかには、永く瞻望を断つ。 釈天の宝象には、いづれの日か同じく乗らん。 衆車苑のなかには、またよく見ることなからん。 粗渋苑のうちには、介冑長く辞しつ。 雑林苑のなかには、宴会するに日なし。 歓喜苑のなかには、遊止するに期なし。 劫波樹の下の白玉の軟石には、さらに坐する時なし。 曼陀枳尼の殊勝池の水には、沐浴せんに由なし。

四種の甘露はたちまちに食することを得がたく、五妙の音楽はにはかに聴聞を絶つ。 悲しきかな、この身独りこの苦に嬰れり。 願はくは慈愍を垂れてわが寿命を救ひて、さらに少しき日を延ばしめば、また楽しからざらんや。 かの馬頭の山・沃焦の海に堕せしむることなかれ」と。 この言をなすといへども、あへて救ふものなし。

[『六波羅蜜経』。]まさに知るべし、この苦は地獄よりもはなはだし。 ゆゑに『正法念経』の偈にのたまはく、

「天上より退せんと欲する時には、心に大苦悩を生ず。
地獄のもろもろの苦毒は、十六にして一にも及ばず」と。{以上}

また大徳の天すでに生れて後には、旧き天の眷属は、捨ててかれに従ふ。 あるいは威徳の天ありて、心に順ぜざる時には、駆りて宮を出し、住することを得ることあたはざらしむ。 [『瑜伽』(瑜伽論)。]余の五の欲天ことごとくこの苦あり。 上二界(色界・無色界)のなかにはかくのごとき事なしといへども、つひに退没の苦あり。 乃至、非想阿鼻をば免れず。 まさに知るべし、天上また楽しむべからず。 [以上、天道。]

総結厭相

【20】 第七に総じて厭相を結せば、いはく、一篋、ひとへに苦し。 耽荒すべきにあらず。 四の山合せ来らば、避れ遁るところなし。 しかも、もろもろの衆生は貪愛をもつてみづから蔽ひて、深く五欲に着せり。 常にあらざるを常といひ、楽にあらざるを楽といへり。 かの、癰を洗ひ睫を置くがごとき、なほいかんぞ厭はざらん。

いはんやまた刀山・火湯、やうやくまさに至りなんとす。 いづれの有智のものか、この身を宝玩せんや。 ゆゑに『正法念経』の偈にのたまはく、

「智者のつねに憂ひを懐くこと、なほ獄のなかに囚はれたるに似たり。
愚人のつねに歓楽すること、なほ光音天のごとし」と。

『宝積経』の偈にのたまはく、

「種々の悪業をもつて財物を求めて、妻子を養育して歓娯すと謂へども、
命終の時に臨みて、苦、身に逼り、妻子もよくあひ救ふものなし。
かの三途の怖畏のなかにおいては、妻子および親識を見ず。
車馬・財宝は他人に属しぬ。苦を受くるに、たれかよくともにして分つものあらん。
父母・兄弟および妻子、朋友・僮僕ならびに珍財も、死して去りぬれば、一として来りあひ親しむものなし。
ただ黒業のみありてつねに随逐せり。{乃至}
閻羅つねにかの罪人に告ぐ。〈少罪もわがよく加ふることあることなし。
なんぢみづから罪を作りて、いまみづから来れり。業報みづから招く、代るものなし。
父母・妻子もよく救ふことなし。ただまさに出離の因を勤修すべし〉と。
このゆゑに枷鎖の業を捨てて、よく遠離を知りて安楽を求むべし」と。

また『大集経』の偈にのたまはく、

「妻子・珍宝および王位も、命終の時に臨みては、随はざるものなり。
ただとおよび不放逸と、今世・後世に伴侶となる」と。

かくのごとく展転して、悪を作りて苦を受け、いたづらに生じいたづらに死して、輪転際なし。 『経』(雑阿含経)の偈にのたまふがごとし。

「一人一劫のなかに受けたるところのもろもろの身骨を、
つねに積みて腐敗せずは、毘布羅山のごとし」と。

一劫すらなほしかなり。 いはんや無量劫をや。 われらいまだかつて道を修せざるがゆゑに、いたづらに無辺劫を歴たり。 いまもし勤修せずは、未来もまたしかるべし。 かくのごとく無量生死のなかには、人身を得ることはなはだ難し。 たとひ人身を得たれども、もろもろの根を具することまた難し。 たとひ諸根を具すれども、仏教に遇ふことまた難し。 たとひ仏教に遇ふとも、信心をなすことまた難し。 ゆゑに『大経』(大般涅槃経・意)にのたまはく、「人趣に生るるものは爪の上の土のごとし。 三途に堕つるものは十方の土のごとし」と。

『法華経』の偈にのたまはく、

「無量無数劫にも、この法を聞くことまた難し。
よくこの法を聴くもの、この人また難し」と。

しかるをいま、たまたまこれらの縁を具せり。 まさに知るべし、苦海を離れて浄土に往生すべきこと、ただ今生にのみあり。 しかるをわれら、頭に霜雪を戴きて、心は俗塵に染めり。 一生は尽きぬといへども、悕望は尽きず。

つひに白日の下を辞して、独り黄泉の底に入る時、多百踰繕那洞然たる猛火のなかに堕ちて、天に呼ばはり地を扣くといへども、さらになんの益かあらんや。

願はくはもろもろの行者、疾く厭離の心を生じて、すみやかに出要の路に随ふべし。 宝の山に入りて手を空しくして帰ることなかれ。

 問ふ、なんらの相をもつてか厭心をなすべき。 答ふ、もし広く観ぜんと欲はば、前の所説のごとし。 六道の因果、不浄・苦等なり。

あるいはまた龍樹菩薩の、禅陀迦王を勧発する偈(龍樹為王説法要偈)にいはく、

「この身は、不浄、九の孔より流れて、窮まり已むことあることなきこと、河海のごとし。
薄き皮、覆ひ蔽して清浄なるに似たれども、瓔珞を仮りてみづから荘厳せるがごとし。
もろもろの有智の人はすなはち分別して、その虚誑なるを知りてすなはち棄捨す。
たとへば疥者の、猛焔に近づきて、初めはしばらく悦ぶといへども、後には苦を増すがごとし。
貪欲の想もまたしかなり。始め楽着すといへども、つひには患ひ多し。
身の実相はみな不浄なりと見る。すなはちこれ空・無我を観ずるなり。
もしよくこの観を修習するものは、利益のなかにおいてもつとも無上なり。
色・族および多聞ありといへども、もし戒・智なければ禽獣のごとし。
醜賤に処し、聞見少なしといへども、よく戒・智を修するを勝上と名づく。
利衰の八法、よく免るることなし。もし除断することあるは、まことに匹なし。
もろもろの沙門・婆羅門・父母・妻子および眷属の、
かの意のためにその言を受けて、広く不善・非法の行を造ることなかれ。
たとひこれらがためにもろもろの過を起せども、未来の大苦はただ身に受く。
それ衆悪を造れども、ただちに報いず。刀剣のこもごも傷割するがごとくにはあらず。
終りに臨み、罪あひはじめてともに現じて、後に地獄に入りてもろもろの苦に嬰る。
信・戒・施・聞・慧・慚・愧、かくのごとき七法を聖財と名づく。
真実にして無比の牟尼の説なり。世間のもろもろの珍宝に超越せり。
足ることを知りぬれば、貧しといへども富めりと名づくべし。財あれども欲多きは、これを貧と名づく。
もし財業に豊かなれば、もろもろの苦を増すこと、竜の首多きは酸毒を益すがごとし。
まさに観ずべし、美き味はひは毒薬のごとし。智慧の水をもつて灑ぎて浄からしめよ。
この身を存ぜんがために食すべしといへども、色味を貪じて驕慢を長ずることなかれ。
もろもろの欲染においてまさに厭ふことをなして、つとめて無上涅槃の道を求むべし。
この身を調和して安穏ならしめて、しかして後によろしく斎戒を修すべし。
一夜を分別するに五時あり。二時のなかにまさに眠息すべし。
初・中・後夜には生死を観じて、よろしくつとめてを求めて空しく過ぐすことなかれ。
たとへば少塩を恒河に置けるに、水をして鹹味あらしむることあたはざるがごとく、
微細の悪は衆善に遇ひぬれば、消滅散壊すること、またかくのごとし。
梵天の離欲の娯しみを受くといへども、還りて無間の熾然の苦に墜つ。
天宮に居して光明を具せりといへども、後には地獄の黒闇のなかに入る。
いはゆる黒縄・活地獄の、焼・割・剥・刺および無間なり。
この八の地獄はつねに熾然なり。みなこれ衆生の悪業の報なり。
もし図画を見、他の言を聞き、あるいは経書に随ひてみづから憶念し、かくのごとくして知る時にすらもつて忍びがたし。いはんやまたおのが身にみづから経歴せんをや。
もしまた人ありて一日のうちに、三百の矛をもつてその体を鑚さんも、
阿鼻獄の一念の苦に比ぶるに、百千万分にして一にも及ばず。
畜生のなかにおいても、苦は無量なり。あるいは繋縛および鞭撻せらるることあり。
あるいは明珠・羽・角・牙、骨・毛皮・肉のために残害せらるることを致す。
餓鬼道のなかの苦もまたしかなり。もろもろの所須の欲意に随はず。
飢渇に逼せられて寒熱に困しむ。疲乏等の苦、はなはだ無量なり。
屎尿糞穢のもろもろの不浄すら、百千万劫によく得ることなし。
たとひまた推し求めて少分を得れども、さらにあひ劫奪して、尋いで散失しぬ。
清冷の秋の月にも焔熱を患へ、温和の春の日にもうたた寒苦す。
もし園林に趣けば、衆菓尽き、たとひ清流に至れども変じて枯竭しぬ。
罪業の縁のゆゑに、寿、長遠にして、経ること一万五千歳あり。
もろもろの楚毒を受くるに空しく欠くることなし。みなこれ餓鬼の果報なり。
煩悩のき河、衆生を漂はし、深き怖畏、熾然の苦となる。
かくのごときもろもろの塵労を滅せんと欲はば、真実の解脱のを修すべし。
もろもろの世間の仮名の法を離れて、すなはち清浄の不動の処を得よ」と。[以上、百十行の偈あり。いま略してこれを抄す。]

もし略を存ぜば、馬鳴菩薩の、頼吒和羅の伎声に唱へていふがごとし。

「有為の諸法は、幻のごとく化のごとし。
三界の獄縛は、一としても楽しむべきことなし。
王位高顕にして、勢力自在なれども、無常すでに至りぬれば、たれか存ずることを得るものあらん。
空中の雲の、須臾に散滅するがごとし。
この身は虚偽なること、なほ芭蕉のごとし。
怨たり賊たり、親近すべからず。
毒蛇の篋のごとし。たれかまさに愛楽すべき。
このゆゑに諸仏、つねにこの身を呵したまふ」(付法蔵因縁伝)と。{以上}

このなかにつぶさに無常・苦・空を演ぶ。聞くもの道を悟る。あるいはまた堅牢比丘の壁の上の偈(宝積経)にのたまはく、

「生死の断絶せざるは、貪欲嗜味なるがゆゑなり。
怨を養ひて丘塚に入りて、虚しくもろもろの辛苦を受く。
身の臭きこと死屍のごとし。九の孔より不浄を流す。
廁の虫の、糞を楽しむがごとく、愚にして身を貪ずるも異なることなし。
憶想して妄りに分別する、すなはちこれ五欲の本なり。
智者は分別せざれば、五欲すなはち断滅す。
邪念より貪着を生じ、貪着より煩悩を生ず。
正念にして貪欲なければ、余の煩悩また尽きぬ」と。{以上}

過去の弥楼犍駄仏の滅後に、正法滅せし時に、陀摩尸利菩薩、この偈を求め得て仏法を弘宣し、無量の衆生を利益せり。 あるいはまた『仁王経』に四非常の偈あり。見つべし。 もし極略を楽はば、『金剛経』にのたまふがごとし。

「一切有為の法は、夢と幻と泡と影とのごとし。
露のごとくまた電のごとし。かくのごとき観をなすべし」と。

あるいはまた『大経』(大般涅槃経)の偈にのたまはく、

諸行は無常なり。これ生滅の法なり。 :生滅滅しをはりて、寂滅なるを楽となす」と。{以上}

祇園寺の無常堂の四の隅に、頗梨の鐘あり。鐘の音のなかにまたこの偈を説く。 病僧音を聞きて、苦悩すなはち除こりて、清涼の楽を得ること、三禅に入り浄土に生れなんとするがごとし。 いはんやまた、雪山の大士、全身を捨ててこの偈を得たり。 行者よく思念して、これを忽爾にすることを得ざれ。

説のごとく観察して、まさに貪・瞋・痴等の惑業を離るること、獅子の、人を追ふがごとくにすべし。 外道の無益の苦行をなして、痴ななる狗の、塊を追ふがごとくすべからず。

 問ふ。 不浄・苦・無常、その義了りやすし。 現に法体あるをば見るに、なんぞ説きて空となす。 答ふ。 あに『経』(金剛経)に説かずや、「夢・幻・化のごとし」と。 ゆゑに夢の境に例して、まさに空の義を観ずべし。

『西域の記』(大唐西域記)にいふがごとし。 「婆羅痆斯国施鹿林の東、行くこと二三里にして、涸れたる池あり。 昔、一の隠士ありて、この池の側にして廬を結び迹を屏てて、博く伎術を習ひ、神理を究極して、よく瓦礫をして宝となし、人畜をして形を易へしむ。 ただしいまだ風雲に馭りて仙駕に陪することあたはず。 図を閲き、古を考へて、さらに仙術を求む。

その方にいはく、一の烈士に命じて、長き刀を執りて壇の隅に立ち、息を屏て言を絶ちて、昏より旦に逮ばしむ。 仙を求むるものは中壇に坐し、手に長き刀を接り、口に神呪を誦し、視を収め聴を反じて、遅明に仙に登ると。 つひに仙の方によりて一の烈士を求めて、しばしば重貽を加へ、潜かに陰徳を行じき。 隠士のいはく、〈願はくは、一夕、声せざらんのみ〉と。 烈士のいはく、〈死すらなほ辞せじ。 あにいたづらに息を屏てんをや〉と。 ここにおいて壇場を設け、仙の法を受け、方によりて行事して、坐して日の曛るるを待つ。 曛暮の後におのおのその務を司どる。 隠士は神呪を誦し、烈士は銛刀を按ぜり。 ほとほとまさに暁けなんとするに、たちまちに声を発して叫ぶ。 時に隠士問ひていはく、〈子に声することなかれと誡めつ。 なにをもつてか驚き叫ぶ〉と。

烈士のいはく、〈命を受けて後、夜分に至るに、惛然として夢のごとくして、変異さらに起れり。 見れば、昔、事へし主、みづから来りて慰謝す。 厚恩を荷へることを感じて、忍びて報語せず。 かの人震怒して、つひに殺害せられぬ。 中陰の身を受けて、屍を顧みて嘆惜す。

なほ願はくは、世を歴とも言はずしてもつて厚徳を報ぜんと。 つひに見れば、南印度の大婆羅門の家に託生す。 乃至、胎を受け胎を出づるに、つぶさに苦厄を経れども、恩を荷ひ徳を荷ひてかつて声を出さず。 業を受け、冠婚し、親を喪ひ、子をなすに洎ぶまで、つねに前の恩を念ひて忍びて語らず。 宗親戚属ことごとく見て怪異す。

年六十有五に過ぎて、わが妻謂りていはく、《なんぢ、言ふべし。もし語らずは、まさになんぢが子を殺すべし》と。 われ時に惟念すらく、《すでに生世を隔つ。みづから顧みるに、衰老して、ただこの稚子のみありと。よりてその妻を止めて、殺害することなからしめん》と。 つひにこの声を発せるのみ〉と。
隠士のいはく、〈わが過なり。 これ魔の嬈ませるのみ〉と。 烈士、恩を感じて、事のならざるを悲しみて、憤恚して死せり」と。 {以上略抄} 夢の境、かくのごとし。諸法もまたしかなり。

妄想の夢、いまだ覚めざれば、空において、いひて有となす。 ゆゑに『唯識論』(意)にいはく、「いまだ真の覚を得ざるときは、つねに夢のなかに処せり。 ゆゑに仏説きて、生死の長夜となしたまふ」と。

 問ふ。 もし無常・苦・空等の観をなさば、あに小乗の自調・自度に異ならんや。

答ふ。 この観はに局らず。 また通じて大乗にもあり。 『法華』にのたまふがごとし。

「大慈悲を室となす。柔和忍辱は衣なり。
諸法の空を座となす。ここに処してために法を説け」と。{以上}

諸法の空の観、なほ大慈悲心を妨げず、いかにいはんや苦・無常等は菩薩の悲願を催すをや。 このゆゑに『大般若』等の経に、不浄等の観をもつてまた菩薩の法となす。 もし知らんと欲はば、さらに経の文を読め。

 問ふ。 かくのごとき観念は、なんの利益かある。

答ふ。 もしつねにかくのごとく心を調伏すれば、五欲微薄にして、乃至、臨終には正念にして乱れず、悪処に堕ちざるなり。 『大荘厳論』の勧進繋念の偈にいふがごとし。

「盛年にして患ひなき時には、懈怠にして精進せず。
もろもろの事務を貪営して施と戒と禅とを修せず。
死のために呑まるるに臨みて、まさに悔いて善を修することを求む。
智者は観察して、五欲の想を断除すべし。
精勤習心のものは、終時に悔恨なし。
心意すでに専至なれば、錯乱の念あることなし。
智者はつとめて心を捉れば、終りに臨みて意散ぜず。
習心専至ならざれば、終りに臨みてかならず散乱す」と。{以上}

また『宝積経』の五十七の偈にのたまはく、

「この身を観ずべし。筋脈たがひに纏繞せり。
湿へる皮あひ裹み覆ひて、九の処に瘡門あり。
周遍してつねに屎尿のもろもろの不浄を流溢せり。
たとへば舎ととに、もろもろの穀麦等を盛れるがごとく、この身もまたかくのごとし。雑穢そのなかに満てり。
骨の機関を運動するに、危脆にして堅実にあらず。
愚夫はつねに愛楽すれども、智者は染着することなし。
洟・唾・汗つねに流れ、膿血つねに充満せり。
黄なる脂は乳汁に雑はり、脳は髑髏のなかに満つ。
胸鬲には痰癊流れ、うちに生熟臓あり。
肪膏と皮膜と、五臓のもろもろの腹胃とあり。
かくのごとき臭爛等の、もろもろの不浄と同じく居せり。
罪の身は深く畏づべし。これはすなはちこれ怨家なり。
無識耽欲の人は、愚痴にしてつねに保ちて護れども、
かくのごとき臭穢の身は、なほ朽ちたる城廓のごとし。
日夜に煩悩に逼められて、遷流してしばらくも停まることなし。
身の城、骨の墻壁、血肉をもつて塗泥となし、
画彩の貪・瞋・痴、処に随ひて枉飾せり。
悪むべし骨身の城、血肉あひ連合し、つねに悪知識に内外の苦をもつてあひ煎ぜらる。
難陀、なんぢまさに知るべし。わが所説のごとく、昼夜つねに繋念して、欲境を思ふことなかれ。
もし遠離せんと欲はば、つねにかくのごとき観をなし、解脱の処を勤求せば、すみやかに生死の海を超えん」と。{以上}

諸余の利益は『大論』(大智度論)・『止観』等を見るべし。

第二 欣求浄土

【21】 大文第二に、欣求浄土といふは、極楽の依正は功徳無量なり。 百劫・千劫に説くとも尽すことあたはじ。 算分・喩分もまた知るところにあらず。 しかも『群疑論』には三十種の益を明かし、『安国の抄』には二十四の楽を摽せり。 すでに知りぬ。

称揚はただ人の心にあり。 いま十の楽を挙げて浄土を讃ずること、なほ一毛をもつて大海を渧らすがごとし。 一には聖衆来迎の楽、二には蓮華初開の楽、三には身相神通の楽、四には五妙境界の楽、五には快楽無退の楽、六には引接結縁の楽、七には聖衆倶会の楽、八には見仏聞法の楽、九には随心供仏の楽、十には増進仏道の楽なり。

聖衆来迎楽

【22】 第一に聖衆来迎の楽といふは、おほよそ悪業の人は、命尽くる時に、風・火先づ去る。 ゆゑに動熱して苦多し。 善行の人は、命尽くる時に、地・水先づ去る。 ゆゑに緩慢として苦なし。 いかにいはんや念仏の功積り、運心年深きものは、命終の時に臨みて大喜おのづから生ず。 しかる所以は、弥陀如来、本願をもつてのゆゑに、もろもろの菩薩、百千の比丘衆と、大光明を放ちて、皓然として目の前にまします。 時に大悲観世音百福荘厳の手を申べ、宝の蓮台を擎げて行者の前に至りたまひ、大勢至菩薩、無量の聖衆と、同時に讃嘆して手を授けて引接したまふ。 この時に行者、まのあたりみづからこれを見て、心中に歓喜し、身心安楽なること禅定に入るがごとし。 まさに知るべし、草菴に瞑目のあひだはすなはちこれ蓮台結跏の程なり。 すなはち弥陀仏の後に従ひ、菩薩衆のなかにありて、一念のあひだに、西方の極楽世界に生ずることを得。 [『観経』・『平等覚経』、ならびに伝記等の意による。]かの忉利天上の億千歳の楽も、大梵王宮の深禅定の楽も、これらのもろもろの楽は、いまだ楽となすに足らず。 輪転無際にして三途を免れず。

しかもいま、観音の掌に処し、宝の蓮華胎に託して、永く苦海を越過してはじめて浄土に往生しぬ。 その時の歓喜の心、言をもつて宣ぶべからず。 龍樹の偈(易行品)にいはく、

「もし人、命終の時に、かの国に生るることを得るものは、
すなはち無量の徳を具す。このゆゑにわれ帰命したてまつる」と。

蓮華初開楽

【23】 第二に蓮華初開の楽といふは、行者かの国に生じをはりて、蓮華はじめて開くる時に、あらゆる歓楽、前に倍せること百千なり。 なほ盲者の、はじめて明眼を得たるがごとし。 また辺鄙のたみの、たちまちに王宮に入れるがごとし。

みづからその身を見れば、身はすでに紫磨金色の体となり、また自然の宝衣ありて、鐶・釧・宝冠、荘厳無量なり。 仏の光明を見て清浄の眼を得、前の宿習によりてもろもろの法音を聞く。 色に触れ声に触れて、奇妙ならずといふことなし。 尽虚空界の荘厳は、眼、雲路に迷ひ、転妙法輪の音声は、聴き、宝刹に満てり。 楼殿・林池は表裏照曜し、鳧・雁・鴛鴦は遠近に群がり飛ぶ。 あるいは衆生の、き雨のごとくして十方世界より生ずるを見、あるいは聖衆の、恒沙のごとくして無数の仏土より来るを見る。

あるいは楼台に登りて十方を望むものあり。 あるいは宮殿に乗りて虚空に住するものあり。 あるいは空中に住して経を誦し法を説くものあり。 あるいは空中に住して坐禅入定するものあり。 地の上、林のあひだにも、またかくのごとし。 処々にまた河を渉り流に濯ぎ、楽を奏し華を散じ、楼殿に往来して、如来を礼讃したてまつるものあり。

かくのごとき無量の天・人聖衆、心に随ひて遊戯す。 いはんや化仏・菩薩、香雲・華雲、国界に充満して、つぶさに名づくべからず。 またやうやく眸を回らしてはるかにもつて瞻望すれば、弥陀如来は金山王のごとくして宝蓮華の上に坐し、宝池の中央に処したまへり。

観音・勢至は威儀尊重にして、また宝華に坐し、仏の左右に侍らひたまふ。 無量の聖衆、恭敬囲繞せり。 また宝地の上に宝樹行列し、宝樹の下におのおの一仏二菩薩ましまして、光明をもつて厳飾し、流璃の地に遍したまへること、夜闇のなかに大きなる炬火を燃せるがごとし。 時に観音・勢至、行者の前に来至して、大悲の音を出して種々に慰喩したまふ。 行者、蓮台より下りて五体を地に投げて、頭面をもつて敬礼す。 すなはち菩薩に従ひて、やうやく仏の所に至りぬ。 七宝の階に跪きて万徳の尊容を瞻り、一実の道を聞きて普賢の願海に入る。 歓喜して涙を雨らし、渇仰して骨に徹る。

はじめて仏界に入りて未曾有なることを得つ。 行者、昔、娑婆にしてわづかに教文を読みしも、いままさしくこの事を見る。 歓喜の心いくばくぞや。 [多く『観経』等の意による。]龍樹の偈(易行品)にいはく、

「もし人、善根を種ゑたるに、疑へばすなはち華開けず。
信心清浄なるものは、華開けてすなはち仏を見たてまつる」と。

身相神通楽

【24】 第三に身相神通の楽といふは、かの土の衆生はその身真金の色なり。 内外ともに清浄にして、つねに光明ありて彼此たがひに照らす。 三十二相具足して荘厳せり。 端正殊妙にして世間に比なし。 もろもろの声聞衆は、身光一尋なり。 菩薩の光明は百由旬を照らす。 あるいは十万由旬といふ。

第六の天の主をもつてかの土の衆生に比ぶるに、なほ乞丐の、帝王の辺にあらんがごとし。 またかのもろもろの衆生は、みな五神通を具して、妙用測りがたくして、心に随ひて自在なり。 もし十方界の色を見んと欲へば、歩みを運ばずしてすなはち見、十方界の声を聞かんと欲へば、座を起たずしてすなはち聞く。 無量の宿命の事は今日聞くところのごとく、六道衆生の心はあきらかなる鏡に像を見るところのごとし。 無央数仏刹只尺のごとく往来し、おほよそ横に百千万億那由他の国において、竪に百千万億那由他の劫において、一念のうちに自在無礙なり。

いまこの界の衆生は、三十二相において、たれか一相をも得たる、五神通においてたれか一通をも得たる。 灯・日にあらずはもつて照らすことなく、行歩にあらずはもつて至ることなし。 一紙なりといへどもそのほかを見ず。 一念なりといへどもその後を知らず。 燓籠いまだ出でずして、事に随ひて礙あり。 しかるをかの土の衆生は、一人もこの徳を具せずといふことあることなし。 百大劫のうちにおいて相好の業をも種ゑず。 四静慮のうちにおいて神通の因をも修せざれども、ただこれかの土の任運生得の果報なり。 また楽しからざらんや。 [多く『双巻経』(大経)・『平等覚経』等による。]龍樹の偈(易行品)にいはく、

「人天の身相同じくして、なほ金山の頂のごとし。
諸勝の所帰の処なり。このゆゑに頭面をもつて礼す。
それかの国に生るることあるは、天眼耳通を具して、十方ならびに無礙なり。聖中の尊を稽首したてまつる。
その国のもろもろの衆生は、神変および心の通あり。
また宿命智を具せり。このゆゑに帰命し礼したてまつる」と。

五妙境界楽

【25】 第四に五妙境界の楽といふは、四十八の願をもつて浄土を荘厳したまへば、一切の万物、美を窮め極妙なり。 見るところはことごとくこれ浄妙の色にして、聞くところは解脱の声にあらずといふことなし。 香・味・触の境、またかくのごとし。 いはく、かの世界は琉璃をもつて地となして、金縄その道を界へり。 坦然平正にして高下あることなく、恢廓曠蕩にして辺際あることなし。 晃耀微妙にして奇麗清浄なり。 もろもろの妙衣をもつてあまねくその地に布き、一切の天・人、これを践みて行く。 [以上、地相。]衆宝の国土の一々の界の上に、五百億の七宝所成の宮殿・楼閣あり。 高下、心に随ひ、広狭、念に応ず。

もろもろの宝の床座には妙衣をもつて上に敷き、七重の欄楯、百億の華幢ありて、珠の瓔珞を垂れ、宝の幡蓋を懸けたり。 殿のうち、楼の上には、もろもろの天人ありて、つねに伎楽をなして、如来を歌詠したてまつる。 [以上、宮殿。]講堂・精舎・宮殿・楼閣の内外左右にもろもろの浴池あり。 黄金の池の底には白銀の沙あり。 白銀の池の底には黄金の沙あり。 水精の池の底には瑠璃の沙あり。 瑠璃の池の底には水精の沙あり。

珊瑚・虎魄硨磲・馬瑙・白玉・紫金、またかくのごとし。 八功徳の水、そのなかに充満し、宝沙映徹して、深く照らさずといふことなし。 [「八功徳」とは、一には澄浄、二には清冷、三には甘美、四には軽軟、五には潤沢、六には安和、七には飲時に飢渇等無量の過患を除き、八には飲みをはりて、さだめてよく諸根・四大を長養し、種々の殊勝の善根を増益するなり。 『称讃浄土経』に出づ。]四辺の階道は衆宝をもつて合成し、種々の宝華は池のなかに弥覆せり。 青蓮には青光あり。 黄蓮には黄光あり。 赤蓮・白蓮もおのおのその光あり。 微風吹き来りて、華の光乱転す。 一々の華のなかにおのおの菩薩あり。 一々の光のなかにもろもろの化仏まします。

微瀾、回流してうたたあひ灌ぎ注ぐ。 安詳としてやうやく逝きて、遅からず疾からず。 その声微妙にして仏法にあらずといふことなし。 あるいは苦・空・無我、もろもろの波羅蜜を演説し、あるいは十力・無畏・不共の法音を流出す。 あるいは大慈悲の声、あるいは無生忍の声あり。 その所聞に随ひて歓喜すること無量なり。

清浄・寂滅・真実の義に随順し、菩薩・声聞所行の道に随順せり。 また、鳧・雁・鴛鴦・鶖・鷺・鵝・鶴・孔雀・鸚鵡・伽陵頻迦等の百宝色の鳥、昼夜六時和雅の音を出して、念仏・念法・念比丘僧を讃嘆し、五根・五力・七菩提分を演暢す。 三塗苦難の名あることなくして、ただ自然快楽の音のみあり。 かのもろもろの菩薩および声聞衆、宝池に入りて洗浴する時は、浅深、念に随ひ、その心に違はず。 心垢蕩除して、清明澄潔なり。

洗浴しをはれば、おのおのみづから去りて、あるいは空中にあり、あるいは樹下にありて、経を講じ経を誦するものあり、経を受け経を聴くものあり、坐禅するものあり、経行するものあり。 そのなかに、いまだ須陀洹を得ざるものはすなはち須陀洹を得、乃至、いまだ阿羅漢を得ざるものは阿羅漢を得、いまだ阿惟越致を得ざるものはすなはち阿惟越致を得。 みなことごとく道を得て歓喜せずといふことなし。 また清き河あり。 底に金沙を布き、浅深寒温、つぶさに人の好みに従へり。 衆人、遊覧して、同じく河浜に萃まる。 [以上、水相。]

池の畔、河の岸に、栴檀の樹あり。 行々あひ当り、葉々あひ次げり。 紫金の葉、白銀の枝、珊瑚の華、[[車]]の実あり。 一宝・七宝、あるいは純、あるいは雑の、枝・葉・華・菓、荘厳し映飾せり。 和らかなる風、時に来りてもろもろの宝樹を吹くに、羅網微し動じて妙華やうやく落つ。 風に随ひて馥を散じ、水に雑はりて芬りを流す。 いはんや微妙の音を出して宮商あひ和せること、たとへば百千種の楽を同時にともになすがごとし。 聞くもの、自然に仏法僧を念ず。 かの第六天の万種の音楽も、この樹の一種の音声にはしかず。 葉のあひだに華を生じ、華の上に菓あり。 みな光明を放ちて、化して宝蓋となる。 一切の仏事、蓋のなかに映現す。 乃至、十方の厳浄の仏土を見んと欲へば、宝樹のあひだにおいて、みなことごとく照見す。 樹の上に七重の宝網あり。 宝網のあひだに五百億の妙華の宮殿あり。 宮殿のなかに諸天の童子あり。 瓔珞光耀して自在に遊楽す。

かくのごとく七宝のもろもろの樹、世界に周遍せり。 名華・軟草また処に随ひてあり、柔軟・香潔にして、触るるもの楽をなす。 [以上、樹相。]衆宝の羅網、虚空に弥満して、もろもろの宝鈴を懸けて、妙法の音を宣ぶ。 天華妙色は繽粉として乱れ墜ち、宝衣・厳具は旋転して来下す。 鳥の、空を飛びて下るがごとくして、諸仏に供散したてまつる。 また無量の楽器ありて虚空に懸処せり。 鼓たざるにおのづから鳴りて、みな妙法を説く。[以上、虚空。]

また如意の妙香・塗香末香、無量の香、芬馥として、世界に遍満せり。 もし聞ぐことあるものは、塵労垢習、自然に起らず。 おほよそ地より空に至るまで、宮殿・華樹、一切の万物は、みな無量の雑宝、百千種の香をもつて、ともに合成せり。 その香り、あまねく十方世界に薫ず。 菩薩、聞ぐものみな仏の行を修す。 またかの国の菩薩・羅漢、もろもろの衆生等、もし食せんと欲する時には、七宝の机、自然に現前し、七宝の鉢には妙なる味はひ、なかに満てり。

世間の味はひに類せず、また天上の味はひにあらず。 香味なること比なくして、甜酢、意に随ふ。 色を見、香りを聞ぐに、身心清潔なり。 すなはち食しをはるに同じくして、色力増長す。 事已れば化し去り、時至ればまた現ず。 またかの土の衆生は、衣服を得んと欲へば、念に随ひてすなはち至る。 仏の所讃のごとき法に応ぜる妙服、自然に身にあり。 裁縫・染治・浣濯を求めず。

また光明周遍して日・月・灯燭を用ゐず。 冷暖調和して、春秋冬夏あることなし。 自然の徳風は温冷調適し、衆生の身に触るるに、みな快楽を得ること、たとへば比丘の、滅尽三昧を得たるがごとし。 毎日の晨朝に、妙華を吹散して、仏土に遍満し、馨香芬烈して、微妙柔軟なること兜羅綿のごとし。 足をもつてその上を履むに、蹈み下ること四寸、随ひて足を挙げをはりぬれば、また復すること故のごとし。 晨朝を過ぎをはれば、その華地に没す。 旧き華すでに没しぬれば、さらに新しき華を雨らす。 中時・晡時、初・中・後夜、またかくのごとし。

これらのあらゆる微妙の五境、見聞覚者をして身心適悦せしむといへども、しかも有情の貪着を増長せず、さらに無量の殊勝の功徳を増す。

おほよそ八方上下の無央数の諸仏の国のなかに、極楽世界の所有の功徳もつとも第一たり。 二百一十億の諸仏の浄土の厳浄なる妙事をもつて、みなこのなかに摂在せり。 もしかくのごとき国土の相を観ずるものは、無量億劫の極重の悪業を除きて、命終の後にかならずかの国に生る。 [二種の『観経』『阿弥陀経』・『称讃浄土経』・『宝積経』・『平等覚経』・『思惟経』等の意によりて、これを記す。]世親の偈(浄土論)にいはく、

「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。
究竟して虚空のごとし。広大にして辺際なし。
宝華千万種にして、池・流・泉に弥覆せり。
微風華葉を動かすに、交錯して光乱転す。
宮殿・もろもろの楼閣にして、十方を観ること無礙なり。
雑樹に異の光色あり。宝欄あまねく囲繞せり。
無量の宝交絡して、羅網虚空にあまねし。
種々の鈴響きを発して、妙法の音を宣べ吐く。
衆生の願楽するところ、一切みな満足す。
ゆゑにわれかの阿弥陀仏の国に生れんと願ず」と。

快楽無退楽

【26】 第五に快楽無退の楽といふは、いまこの娑婆世界は耽玩すべきことなし。 輪王(転輪王)の位も七宝久しからず。 天上の楽も五衰早く来る。 乃至、有頂も輪廻、期なし。 いはんや余の世人をや。 事と願と違ひ、楽と苦とともなり。 富めるものは、いまだかならずしも寿あらず。 寿あるものは、いまだかならずしも富まず。 あるいは昨は富みて、今は貧し。 あるいは朝には生れて、暮には死ぬ。 ゆゑににのたまはく、「出息は入息を待たず、入息は出息を待たず。 ただ眼の前に楽しみ去りて哀しみ来るのみにあらず。 また命終に臨みて、罪に随ひて苦に堕つ」と。

かの西方世界は、楽を受くること無窮なり。 人天交接して、両ながらあひ見ることを得。 慈悲、心に薫じて、たがひに一子のごとし。 ともに琉璃の地の上を経行し、同じく栴檀の林のあひだに遊戯す。 宮殿より宮殿に至り、林池より林池に至る。

もし寂ならんと欲する時には、風浪、絃管、おのづから耳の下を隔つ。 もし見んと欲する時には、山・川・渓・谷、なほ眼の前に現ず。 香・味・触・法、念に随ひてまたしかなり。

あるいは飛梯を渡りて伎楽をなし、あるいは虚空に騰りて神通を現ず。 あるいは他方の大士に従ひて迎送し、あるいは天・人聖衆に伴ひてもつて遊覧す。 あるいは宝池の辺に至りて、新生の人を慰問す。

「なんぢ知るやいなや。

この処を極楽世界と名づけ、この界の主を弥陀仏と号したてまつる。 いままさに帰依すべし」と。

あるいは同じく宝池のなかにありて、おのおの蓮台の上に坐して、たがひに宿命の事を説く。 「われ本、その国にありて、を発しを求めし時、その経典を持ち、その戒行を護り、その善法をなし、その布施を修しき」と。

おのおの好喜せしところの功徳を語らひ、つぶさに来生せるところの本末を陳ぶ。 あるいはともに十方の諸仏の利生の方便を語らひ、あるいはともに三有の衆生の抜苦の因縁を議す。 議しをはれば縁を追ひてあひ去り、語らひをはれば楽に随ひてともに往く。 あるいはまた、七宝の山[七宝の山、七宝の塔、七宝の坊、『十往生経』に出でたり。]に登り、八功の池に浴み、寂然として宴黙し、読誦・解説す。

かくのごとく遊楽すること、相続して間なし。 処はこれ不退なれば、永く三途・八難の畏れを免れ、寿もまた無量なれば、つひに生老病死の苦なし。 心・事相応すれば愛別離苦なく、慈眼をもつて等しく視れば怨憎会苦もなし。 白業の報なれば求不得苦なく、金剛の身なれば五盛陰苦もなし。

一たび七宝荘厳の台に託しぬれば、長く三界苦輪の海と別れぬ。 もし別願あれば、他方に生ずといへども、これ自在の生滅にして、業報の生滅にはあらず。 なほ不苦・不楽の名すらなし。 いかにいはんやもろもろの苦をや。

龍樹の偈(易行品)にいはく、

「もし人、かの国に生れぬれば、つひに悪趣および、阿修羅とに堕ちず。われいま帰命して礼す」と。

引接結縁楽

【27】 第六に引接結縁の楽といふは、人の世にあるに、求むるところ、意のごとくならず。 樹、静かならんと欲へども、風停まず。 子、養せんと欲へども、親待たず。 志、肝胆を舂くといへども、力水菽に堪へず。 君臣・師弟・妻子・朋友、一切の恩所、一切の知識、みなまたかくのごとし。

空しく痴愛の心を労らかして、いよいよ輪廻の業を増す。 いはんやまた業果推し遷りて、生処あひ隔たぬれば、六趣・四生いづれの処といふことを知らず。 野の獣、山の禽、たれか旧親を弁へん。 『心地観経』の偈にのたまふがごとし。

「世人、子のためにもろもろの罪を造りて、三途に堕在して長く苦を受くれども、
男女聖にあらずして神通なければ、輪廻を見ずして報ずべきこと難し。
有情、輪廻して六道に生ずること、なほ車輪のごとくして始終なし。
あるいは父母となり男女となり、世々生々にたがひに恩あり」と。

もし人、極楽に生じぬれば、智慧高明にして神通洞達し、世々生々の恩所・知識をば心に随ひて引接す。 天眼をもつて生処を見、天耳をもつて言音を聞く。 宿命智をもつてその恩を憶し、他心智をもつてその心を了る。 神境通をもつて随逐し変現し、方便力をもつて教誡示道す。 『平等経』(一・三意)にのたまふがごとし。

「かの土の衆生は、みなみづからその前世に従来せしところの生を知り、および八方上下、去・来・現在の事を知れり。 かの諸天・人民、蠉飛・蠕動の類の、心意に念ずるところ、口にいはんと欲ふところを知る。 いづれの歳いづれの劫に、まさにこの国に生れて菩薩の道をなし、阿羅漢を得べしといふことを、みなあらかじめこれを知る」と。

また『華厳経』の普賢の願にのたまはく、

「願はくは、われ、命終せんと欲する時に臨みて、ことごとく一切のもろもろの障礙を除きて、
まのあたり、かの仏、阿弥陀を見たてまつりて、すなはち安楽刹に往生することを得ん。
われすでにかの国に往生しをはれば、現前にこの大願を成就し、一切円満してことごとく余すことなく、一切衆生界を利楽せん」と。無縁すらなほしかり。いはんや結縁をや。

龍樹の偈にいはく、

無垢荘厳の光、一念および一時に、
あまねく諸仏のを照らして、もろもろの群生を利益す」と。

聖衆倶会楽

【28】 第七に聖衆倶会の楽といふは、『経』(小経)にのたまふがごとし。 「衆生聞くものは、まさに願を発して、かの国に生れんと願ずべし。 所以はいかん。

かくのごときもろもろの上善の人と、倶に一処に会することを得ればなり」と。 {以上}かのもろもろの菩薩聖衆の徳行は、不可思議なり。 普賢菩薩のいはく、「もし衆生ありて、いまだ善根を種ゑざるもの、および少善を種ゑたる声聞・菩薩は、なほわが名字を聞くことを得じ。 いはんやわが身を見んや。 もし衆生ありてわが名を聞くことを得ては、阿耨菩提においてまた退転せじ。 乃至、夢のうちに、われを見、聞くものも、またかくのごとし」と。 [『華厳経』の意。]またのたまはく、

「われつねにもろもろの衆生に随順して、未来の一切の劫を尽すまで、つねに普賢の広大の行を修し、無上大菩提を円満せんと。
普賢の身相は虚空のごとし。によりて住して、国土にはあらず。
もろもろの衆生の心の欲するところに随ひて、普身を示現して一切に等しくす。
一切ののなかの諸仏の所に、種々の三昧をもつて神通を現ず。
一々の神通はことごとく十方の国土に周遍して、遺すものなし。
一切の刹の如来の所のごとく、かの刹の塵のなかにもことごとくまたしかなり」と。[同経の偈。]
文殊師利大聖尊をば、三世の諸仏もつて母となしたまふ。
十方の如来の、はじめてを発すことは、みなこれ文殊の教化の力なり。
一切世界のもろもろの有情、名を聞き、身および光相を見、ならびに随類のもろもろの化現を見るは、みな仏道を成ずること思議しがたし」と。[『心地観経』の偈。]

もしただ〔文殊師利の〕名を聞くものは、十二億劫の生死の罪を除く。 もし礼拝・供養するものはつねに仏家に生る。 もし名字を称すること一日七日すれば、文殊かならず来りたまふ。 もし宿障あるものは、夢のうちに見ることを得て、所求円満す。 もし形像を見るものは、百千劫のうちに悪道に堕ちず。 もし慈心を行ずるものは、すなはち文殊を見たてまつることを得。 もし名を受持し読誦することあるものは、たとひ重障あれども阿鼻の極悪猛火に堕ちずして、つねに他方の清浄の仏土に生る。 [『文殊般涅槃経』の意。

かの形像、『経』(同)に広く説くがごとし。]また百千億那由他の仏の利益衆生は、文殊師利の、一劫のうちにおいてなせるところの利益には及ばず。 ゆゑにもし文殊師利菩薩の名を称するものは、福はかの百千億の諸仏の名号を受持するよりも多し。 [『宝積経』の意。]弥勒菩薩は功徳無量なり。

もしただ名を聞くものは黒闇処に堕ちず。 一念も名を称するものは、千二百劫の生死の罪を除却す。 帰依することあるものは、無上道において不退転を得。 [『上生経』の意。]称讃・礼拝するものは、百千万億阿僧祇劫の生死の罪を除く。 [『虚空蔵経』・『仏名経』の意。]

「無量千万劫に修せるところの願・智・行、広大にして不可量なり。称揚すともよく尽すことなからん」と。[『華厳経』の偈。以上の三の菩薩、つねに極楽世界にまします。『四十華厳経』に出でたり。]

地蔵菩薩は、毎日の晨朝に恒沙の定に入りて、法界に周遍して苦の衆生を抜きたまふ。 所有の悲願、余の大士に超えたり。 [『十輪経』の意。]かの『経』(同)の偈にのたまはく、

「一日も地蔵の功徳、大名聞を称せんは、
倶胝劫のうちに、余の智者を称する徳に勝れたり。
たとひ百劫のうちに、その功徳を讃説すとも、
なほ尽すことあたはじ。ゆゑにみなまさに供養すべし」と。{以上}

観世音菩薩のいはく、「衆生、苦ありて、三たびわが名を称せんに、往きて救はずといはば、正覚を取らじ」と。 [『弘猛海慧経』。]「もし百千倶胝那由他の諸仏の名号を称念することあらん。 またしばらくの時もわが名号において、心を至して称念することあらん。 かの二の功徳は平等平等ならん。

もろもろのわが名号を称念することあるものは、一切みな不退転の地を得てん」と。

[『十一面経』(意)。]

「衆生もし名を聞かば、苦を離れて解脱を得てん。
また地獄に遊戯して、大悲代りて苦を受けん」と。[『請観音経』の偈。]
弘誓の深きこと海のごとし。劫を歴とも思議すまじ。
多千億の仏に侍へて、大清浄の願を発せり。
神通力を具足し、広く智の方便を修して、
十方のもろもろの国土に、として身を現ぜずといふことなし。
念々に疑をなすことなかれ。観世音の浄聖は、
苦悩死厄において、よくために依怙となりたまふ。
一切の功徳を具して、慈眼をもつて衆生を視たまふ。
福聚の海無量なり。このゆゑに頂礼したてまつるべし」と。[『法華経』。]

大勢至菩薩のいはく、「われよくもろもろの悪趣の、未度の衆生を度するに堪任せり」と。 [『宝積経』。]「智慧の光をもつて、あまねく一切を照らして、三塗を離れしむるに、無上の力を得たり。 ゆゑにこの菩薩を大勢至と名づく。

この菩薩を観ずるものは、無数劫阿僧祇の生死の罪を除き、胞胎に処せずして、つねに諸仏の浄妙国土に遊ぶ」と。 [『観経』の意。]

「無量無辺無数劫に、広く願力を修して弥陀を助け、
つねに大衆に処して法言を宣ぶ。衆生の聞くものは浄眼を得。
神通をもつて十方の国に周遍して、あまねく一切衆生の前に現ず。
衆生もしよく心を至して念ずれば、みなことごとく導きて安楽に至らしむ」と。

龍樹の讃。]またいはく、

観音・勢至は大名称まします。功徳・智慧、ともに無量なり。
慈悲を具足して世間を救ひ、あまねく一切衆生海に遊びたまふ。
かくのごとき勝れたる人は、はなはだ遇ふこと難し。一心に恭敬して頭面をもつて礼したてまつる」と。{以上}

かくのごとき一生補処の大菩薩、その数恒沙のごとし。 色相端厳にして、功徳具足し、つねに極楽国にましまして弥陀仏を囲繞したまへり。 またもろもろの声聞衆、その数量りがたし。 神智洞達し、威力自在なり。 よく掌のなかに一切の世界を持つ。

たとひ大目連のごときもの、百千万億無量無数にして、阿僧祇の劫に、ことごとくともに、かの初会の声聞を計校せんに、知るところの数はなほ一渧のごとく、その知らざるところは大海の水のごとし。 そのなかに、般泥洹して去るもの無央数なり。 新たに阿羅漢を得るもの、また無央数なり。

しかれどもすべて増減をなさず。 たとへば大海の、恒水を減ずといへども、恒水を加ふといへども、しかも増なくまた減なきがごとし。 もろもろの菩薩衆は、また上の数に倍せり。 『大論』(大智度論)にいふがごとし。 「弥陀仏の国には、菩薩僧は多く声聞僧は少なし」と。 {以上}かくのごとき聖衆、その国に充満せり。 たがひにはるかにあひ見、はるかにあひ瞻望し、はるかに語声を聞きて、同一に道を求めて、異類あることなし。 いかにいはんや、また十方恒沙の仏土の無量塵数の菩薩聖衆、おのおの神通を現じて安楽国に至りて、尊顔を瞻仰して恭敬し供養したてまつる。 あるいは天の妙華を齎し、あるいは妙宝の香を焼き、あるいは無価の衣を献り、あるいは天の妓楽を奏し、和雅の音を発して、世尊を歌嘆し、経法を聴受し、道化を宣布す

かくのごとく往来すること、昼夜に絶えず。 東方に去れば、西方より来り、西方に去れば、北方より来り、北方に去れば、南方より来る。 四維・上下もたがひにまたかくのごとし。

かはるがはるあひ開避すること、なほ盛りなる市のごとし。 これらの大士は、一たびその名を聞くすら、なほ少縁にあらず。 いはんや百千万劫にも、たれかあひ見ることを得るものあらん。 しかもかの国土の衆生はつねに一処に会して、たがひに言語を交へ、問訊し恭敬し、親近し承習す。 また楽しからざらんや。[以上、『双巻経』(大経)・『観経』・『平等経』等の意。] 龍樹の偈(易行品)にいはく、

「かの土のもろもろの菩薩は、もろもろの相好を具足して、
みなみづから身を荘厳せり。われいま帰命して礼す。
三界の獄を超出して、目は蓮華葉のごとし。
声聞衆無量なり。このゆゑに稽首して礼す」と。

またいはく(十二礼)、

「十方より来るところのもろもろの仏子、神通を顕現して安楽に至りて、
尊顔を瞻仰してつねに恭敬したてまつる。ゆゑにわれ弥陀仏を頂礼す。
願はくは、もろもろの衆生とともに安楽国に往生せん」と。

見仏聞法楽

【29】 第八に見仏聞法の楽といふは、いまこの娑婆世界は、仏を見、法を聞くことはなはだ難し。 師子吼菩薩のいはく(心地観経)、

「われら無数百千劫に、四無量・三解脱を修して、
いま大聖牟尼尊(釈尊)を見たてまつること、なほ盲ひたる亀の浮木に値へるがごとし」と。

また儒童は全身を捨ててはじめて半偈を得たり。 常啼は肝腑を割きて遠く般若を求めたり。 菩薩すらなほしかり、いかにいはんや凡夫をや。

仏(釈尊)、舎衛にましますこと二十五年、かしこに九億の家あり。 三億は仏を見たてまつり、三億はわづかに聞き、その余の三億は見ず聞かず。 在世すらなほしかり、いかにいはんや滅後をや。 ゆゑに『法華』にのたまはく、

「このもろもろの罪の衆生は、悪業の因縁をもつて、
阿僧祇の劫を過ぐれども、三宝の名をも聞かず」と。

しかるをかの国の衆生は、つねに弥陀仏を見たてまつり、つねに深妙の法を聞く。 いはく、厳浄の地の上には菩提樹あり、枝葉四もに布き、衆宝をもつて合成せり。 樹の上には宝の羅網を覆ひ、条のあひだには珠の瓔珞を垂れたり。 風、枝葉を動かすに、声妙法を演べ、その声流布して諸仏の国に遍す。 その聞くことあるものは深法忍を得、不退転に住し、耳根清徹なり。

樹の色を覩、樹の香りを聞ぎ、樹の味を嘗め、樹の光に触れ、樹の相を縁ずるも、一切またしかなり。 仏道を成ずるに至るまで六根清徹なり。 樹下に座あり、荘厳無量なり。 座の上には仏ましまし、相好無辺なり。 烏瑟高く顕れて、晴天の翠濃く、白毫右に旋りて、秋月の光満てり。 青蓮の眼、丹菓の唇、迦陵頻の声、獅子相の胸、仙鹿王の腨、千輻輪の趺、かくのごとき八万四千の相好、紫磨金の身に纏絡し、無量塵数の光明は、億千の日月を集めたるがごとし。

時ありて、七宝の講堂にましまして妙法を演暢したまふに、梵音深妙にして、衆の心を悦可したまふ。 菩薩・声聞・天・人大衆、一心に合掌して尊顔を瞻仰したてまつる。 即時に、自然の微風、七宝の樹を吹くに、無量の妙華、風に随ひて四もに散ず。 一切の諸天、もろもろの音楽を奏す。

この時に当りて、熙怡快楽、勝げていふべからず。 あるいはまた広大の身を現じ、あるいは丈六・八尺の身を現じ、あるいは宝樹の下にましまし、あるいは宝池の上にまします。 衆生の本の宿命により、求道の時、心に喜願せしところに随ひて、大小意に随ひて、ために経法を説き、それをして疾く開解し、得道せしめたまふ。

かくのごとく種々の機に随ひて、種々の法を説きたまふ。 また観音・勢至の両の菩薩、つねに仏の左右の辺にありて、坐侍して政論す。 仏つねにこの両の菩薩とともに対坐して、八方上下、去・来・現在の事を議したまふ。 ある時には、東方の恒沙の仏国の無量無数のもろもろの菩薩衆、みなことごとく無量寿仏の所に往詣して、恭敬し供養して、もろもろの菩薩・声聞の衆までに及ぼす。

南西北方・四維・上下もまたかくのごとし。 かの厳浄の土の微妙難思議なるを見て、よりて無量の心を発して、わが国もまたしからんと願ず。 時に応じて、世尊、容を動かして微笑し、口より無数の光を出して、あまねく十方の国を照らしたまふ。 回光、身を囲ること三匝して頂に入る。

一切の天・人衆、踊躍してみな歓喜す。 大士観世音、服を整へて〔無量寿仏に〕稽首して問ひたてまつる。 「仏、なんの縁ありてか笑みたまふ。 やや、しかなり。 願はくは説きたまへ」と。 時に梵の声、雷のごとくして八音をもつて妙響を暢べたまひ、「まさに菩薩に記を授くべし」と。 告げてのたまはく、「なんぢ、あきらかに聴け。 十方より来れる正士、われことごとくかの願を知れり。 厳浄の土を志求し、を受けてまさに仏に作るべし。

一切の法はなほ夢・幻・響のごとしと覚了するも、もろもろの妙願を満足して、かならずかくのごときを成ぜん。 法は電・影のごとしと知るも、菩薩の道を究竟し、もろもろの功徳の本を具して、決を受けてまさに仏に作るべし。 諸法の性は一切、空・無我なりと通達するも、もつぱら浄仏土を求めて、かならずかくのごとき刹を成ぜん」と。 {以上}いはんやまた、水・鳥・樹林みな妙法を演ぶ。 おほよそ聞かんと欲するところをば、自然に聞くことを得。 かくのごとき法楽は、またいづれの処にかあらんや。 [このなかは多く『双巻経』(大経)・『平等経』等によれり。]龍樹の讃(十二礼)にいはく、

「金を底とし、宝間はりたる池に生ぜる華、善根の成ぜるところの妙台座なり。
かの座の上において山王のごとし。ゆゑにわれ弥陀仏を頂礼したてまつる。
諸有は無常・無我等なり。また水月・電・影・露のごとし。
衆のために法に名字なきことを説きたまふ。ゆゑにわれ弥陀仏を頂礼したてまつる。
願はくはもろもろの衆生とともに安楽国に往生せん」と。

随心供仏楽

【30】 第九に随心供仏の楽といふは、かの土の衆生は、昼夜六時に、つねに種種の天華を持ちて、無量寿仏を供養したてまつる。

また、意に他方の諸仏を供養したてまつらんと欲ふことあれば、すなはち前みて長跪して、手を叉へて仏にまうす。 仏すなはちこれを可したまふに、みな大きに歓喜して、千億万の人、おのおのみづから翻り飛び、等輩あひ追ひ、ともに散飛して、八方上下の無央数の諸仏の所に到りて、みな前みて礼をなし、供養し恭敬したてまつる。

かくのごとく毎日晨朝に、おのおの衣裓をもつてもろもろの妙華を盛れて、他方の十万億の仏に供養したてまつる。 およびもろもろの衣服・妓楽、一切の供具、意に随ひて出生して、供養し恭敬す。 すなはち食時をもつて本国に還り到りて、飯食し経行して、もろもろの法楽を受く。

あるいはいはく、毎日三時に諸仏を供養したてまつると。 行者、いま遺教に従ひて、十方の仏土の種々の功徳を聞くことを得たり。 見るに随ひ、聞くに随ひて、はるかに恋慕を生ず。 おのおのあひ謂りていはく、「われら、いづれの時にか、十方の浄土を見ることを得、諸仏・菩薩に値ふことを得ん」と。 教文に対ふごとに、嗟嘆せずといふことなし。 しかるを、もしたまたま極楽国に生るることを得ば、あるいは自力により、あるいは仏力を承けて、朝に往き暮に来り、須臾に去り須臾に還らん。

あまねく十方の一切の仏刹に至りて、まのあたり諸仏に奉へたてまつり、もろもろの大士に値遇し、つねに正法を聞き、大菩提の記を受けん。 乃至、あまねく一切の塵刹に入りて、もろもろの仏事をなし、普賢の行を修せん。 また楽しからずや。[『阿弥陀経』・『平等覚経』・『双巻経』(大経)の意。]

龍樹の偈(易行品)にいはく、

「かの土の大菩薩は、日々三時に、
十方の仏を供養したてまつる。このゆゑに稽首して礼したてまつる」と。

増進仏道楽

【31】 第十に増進仏道の楽といふは、いまこの娑婆世界は、道を修して果を得ることはなはだ難し。 いかんとなれば、苦を受くるものはつねに憂へ、楽を受くるものはつねに着す。 苦といひ楽といひ、解脱を遠離す。

もしは昇もしは沈、輪廻にあらずといふことなし。 たまたま発心して修行するものありといへども、また成就しがたし。 煩悩内に催し、悪縁外に牽きて、あるいは二乗の心を発し、あるいは三悪道に還りぬ。 たとへば、水のなかの月の、波に随ひて動きやすく、陣の前の軍の、刃に臨みてすなはち還るがごとし。 魚子長じがたく、菴菓熟すること少なし。

かの身子(舎利弗)等の、六十劫に退せるもののごとき、これなり。 ただ釈迦如来、無量劫に難行苦行し、功を積み、徳を累ねて、菩薩の道を求めて、いまだかつて止息したまはず。 三千大千世界を観ずるに、乃至、芥子ばかりのごときも、この菩薩の身命を捨てたる処にあらざること、あることなし。 衆生のためのゆゑなり。

しかして後に、すなはち菩提の道を成ずることを得たまへり。 その余の衆生はおのが智分にあらず。 象の子は力微ければ、身は刀箭に歿す。

ゆゑに龍樹菩薩のいはく(大智度論・意)、「たとへば四十里の氷に、もし一人ありて一升の熱湯をもつてこれに投るれば、当時は氷減ずるに似たれども、夜を経て明に至れば、すなはち余のものよりも高きがごとし。 凡夫のここにありて発心して、苦を救はんとするもまたかくのごとし。 貪瞋の境、順違多きをもつてのゆゑに、みづから煩悩を起して、かへりて悪道に堕しぬ」と。{以上}

かの極楽国土の衆生は、多くの因縁あるがゆゑに、畢竟じて退せずして、仏道に増進す。

一には、仏の悲願力つねに摂持するがゆゑに。

二には、仏の光つねに照らして菩提心を増するがゆゑに。

三には、水・鳥・樹林・風鈴等の声、つねに念仏・念法・念僧の心を生ぜしむるがゆゑに。

四には、もつぱらもろもろの菩薩を、もつて善友となして、外に悪縁なく、内に重惑を伏せるがゆゑに。

五には、寿命永劫にして、仏とともに斉等にして、仏道を修習するに、生死の間隔あることなきがゆゑに。

『華厳』の偈にのたまはく、

「もし衆生ありて一たび仏を見たてまつれば、かならずもろもろの業障を浄除せしむ」と。

一たび見たてまつるすら、なほしかなり。

いかにいはんやつねに見たてまつるをや。 この因縁によりて、かの土の衆生は、あらゆる万物において、我・我所の心なし。 去来進止に心係くるところなし。

もろもろの衆生において大悲心を得、自然に増進して、無生忍を悟り、究竟してかならず一生補処に至り、乃至、すみやかに無上菩提を証す。

衆生のためのゆゑに、八相を示現し、縁に随ひ、厳浄の国土にありて妙法輪を転じ、もろもろの衆生を度す。 もろもろの衆生をしてその国を欣求せしむること、わが今日、極楽を志願するがごとくす。 また十方に往きて衆生を引接すること、弥陀仏の大悲の本願のごとくあらん。 かくのごとき利益、また楽しからずや。 一世の勤修は、これ須臾のあひだなり。 なんぞ衆事を棄てて浄土を求めざらんや。

願はくはもろもろの行者、ゆめ懈ることなかれ。 [多くは『双巻経』(大経)、ならびに天台『十疑』等の意による。]

龍樹の偈(十二礼)にいはく、

「かの尊の無量方便の境には、諸趣悪知識とあることなし。
往生しぬれば退せずして菩提に至る。ゆゑにわれ、弥陀仏を頂礼したてまつる。
われかの尊の功徳の事を説くに、衆善無辺なること海水のごとし。
所獲の善根清浄なるものをもつて、願はくは衆生とともにかの国に生れん。
願はくはもろもろの衆生とともに、安楽国に往生せん」と。

第三 極楽証拠

【32】 大文第三に、極楽証拠を明かさば、二あり。 一は十方に対す。 二は兜率に対す。

対十方

【33】 初めに十方に対すとは、問はく、十方に浄土あり。 なんぞただ極楽にのみ生ぜんと願ふや。

答ふ。 天台大師(智顗)のいはく(十疑論・意)、「もろもろの経論、処々にただ衆生を勧めてひとへに阿弥陀仏を念じ、西方の極楽世界を求めしめたまへり。 『無量寿経』・『観経』・『往生論』(天親の浄土論)等の数十余部の経論の文に、慇懃指授して西方に生ずることを勧めたり。 ここをもつてひとへに念ず」と。 {以上}大師(智顗)、一切の経論を披閲したまへること、おほよそ十五遍。 知るべし、述べたまへるところ、信ぜずはあるべからず。 迦才師の三巻『浄土論』に、十二経七論を引けり。

一には『無量寿経』、二には『観経』、三には『小阿弥陀経』、四には『鼓音声経』、五には『称揚諸仏功徳経』、六には『発覚浄心経』、七には『大集経』、八には『十往生経』、九には『薬師経』、十には『般舟三昧経』、十一には『大阿弥陀経』、十二には『無量清浄平等覚経』なり。 [以上、『双巻無量寿経』・『清浄覚経』・『大阿弥陀経』は同本異訳なり。]一には『往生論』、二には『起信論』、三には『十住毘婆沙論』、四には一切経のなかの弥陀の偈、五には『宝性論』、六には龍樹の『十二礼』の偈、七には『摂大乗論』の弥陀の偈なり。 [以上、智憬師これに同じ。]わたくしに加へていはく、『法華経』の「薬王品」、『四十華厳経』の普賢願、『目連所問経』・『三千仏名経』・『無字宝篋経』・『千手陀羅尼経』・『十一面経』・『不空羂索』・『如意輪』・『随求』・『尊勝』・『無垢浄光』・『光明』・『阿弥陀』等のもろもろの顕・密教のなかに、もつぱら極楽を勧めたること、称計すべからず。 ゆゑにひとへに願求す。

 問ふ。 仏ののたまはく、「諸仏の浄土は実に差別なし」と。 なんがゆゑぞ如来はひとへに西方を讃じたまふ。

答ふ。 『随願往生経』に、仏、この疑を決してのたまはく、「娑婆世界は、人、貪濁多くして、信向のものは少なく、習邪のものは多くして正法を信ぜず、専一なることあたはざれば、心乱れて志なし。 実には差別なけれども、もろもろの衆生をして専心にあることあらしむ。 このゆゑにかの国土を讃嘆したまふのみ。 もろもろの往生人、ことごとくかの願に随ひて果を獲ずといふことなし」と。 また『心地観経』にのたまはく、「もろもろの仏子等、まさに心を至して一仏および一菩薩を見んと求むべし。 かくのごときを名づけて出世の法要となす」と。 {云々}このゆゑに、もつぱら一仏の国を求めしむるなり。

 問ふ。 その心をもつぱらにせんがために、なんがゆゑぞ中においてただ極楽をしも勧むる。

答ふ。 たとひ余の浄土を勧むとも、またこの難を避らじ。 仏意、測りがたし。 ただ仰ぎて信ずべし。

たとへば、痴人の、火坑に堕ちてみづから出づることあたはざらんに、知識これを救ふに一の方便をもつてせば、痴人、力を得て、務ぎてすみやかに出づべし。 なんの暇ありてか、縦横に余の術計を論ぜんや。 行者もまたしかり。 他念を生ずることなかれ。

『目連所問経』にのたまふがごとし。 「たとへば、万川の長流に浮べる草木ありて、前は後を顧ず、後は前を顧ず、すべて大海に会まるがごとく、世間もまたしかり。 豪貴・富楽、自在なることありといへども、ことごとく生老病死を免るることを得ず。 ただ仏経を信ぜざるによるに、後世に人となれども、さらにはなはだしく困劇して、千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。 このゆゑにわれ説く。 〈無量寿仏の国は、往きやすく取りやすし。 しかるを人、修行して往生することあたはずして、かへりて九十五種の邪道に事ふ〉と。 われ説きて、この人を無眼の人と名づけ、無耳の人と名づく」と。 {以上}『阿弥陀経』(意)にのたまはく、「われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。 もし信ずることあるものは、まさに願を発して、かの国土に生るべし」と。 {以上}仏の誡め、慇懃なり。 ただ仰ぎて信ずべし。

いはんやまた機縁なきにあらず。 なんぞ強ひてこれを拒まん。 天台(智顗)の『十疑』(意)にいふがごとし。 「阿弥陀仏、別に大悲の四十八願ましまして、衆生を接引したまふ。 またかの仏の光明、あまねく法界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。 十方各恒河沙の諸仏、舌を舒べて三千界を覆ひ、一切衆生の、阿弥陀仏を念じ、仏の大悲本願力に乗じて、決定して極楽世界に生るることを得ることを証成したまへり。

また『無量寿経』にのたまはく、〈末後法滅の時に、ことにこの経を留めて、百年世にあらしめて、衆生を接引して、かの国土に生れしめん〉と。 ゆゑに知りぬ、阿弥陀仏と、この世界の極悪の衆生とは、ひとへに因縁ありといふことを」と。 {以上}慈恩(窺基)のいはく(西方要決)、「末法万年に、余経はことごとく滅して、弥陀の一教はを利することひとへに増せらん。 大聖(釈尊)ことに留めたまふこと百歳なり。 時に末法を経ること一万年に満たば、一切の諸経はならびに従ひて滅没せん。 釈迦の恩重くして、教を留めたまへること百年なり」と。 {以上}また懐感禅師のいはく(群疑論)、「『般舟三昧経』に説かく、〈跋陀和菩薩、釈迦牟尼仏を請じてまうさく、《未来の衆生は、いかんしてか十方の諸仏を見たてまつることを得ん》と。

仏教へて、阿弥陀を念ぜしめたまふに、すなはち十方一切の仏を見たてまつる〉と。 この仏、ことに娑婆の衆生と縁あるをもつて、先づこの仏において心をもつぱらにして称念すれば、三昧成じやすきなり」と。 {以上}また観音・勢至は、本はこの土にして菩薩の行を修して、転じてかの国に生じたまへり。 宿縁の追ふところ、あに機応なからんや。

対兜率

【34】 第二に兜率に対すとは、問はく、玄奘三蔵のいはく、「西方の道俗ならびに弥勒の業をなす。 同じく欲界にしてその行成じやすきがためなり。 大小乗の師、みなこの法を許す。 弥陀の浄土は、おそらくは凡鄙穢れて修行成じがたからん。 旧き経論のごときは、七地以上の菩薩、分に随ひて報仏の浄土を見ると。 新論の意によらば、三地の菩薩、はじめて報仏の浄土を見ることを得べし。 あに下品の凡夫、すなはち往生することを得べけんや」と。 {以上}天竺(印度)すでにしかり。 いまなんぞ極楽を勧むるや。

答ふ。 中国・辺州、その処異なりといへども、顕密の教門は、その理これ同じ。 いま引くところのごとき証拠、すでに多し。 いかんぞ仏教の明らかなる文に背きて、天竺の風聞に従ふべけんや。 いかにいはんや、祇園精舎の無常院には、病者をして西に面かへて、仏(阿弥陀仏)の浄刹に往く想をなさしめんや。 つぶさには、下の臨終の行儀のごとし。 あきらかに知りぬ、仏意ひとへに極楽を勧むるにあり。 西域の風俗、あにこれに乖かんや。

また懐感禅師の『群疑論』には、極楽・兜率において十二の勝劣を立てたり。 「一には化主の仏と菩薩と別なるがゆゑに。 二には浄・穢土の別。 三には女人の有無。 四には寿命の長短。 五には内・外の有無。 [兜率は、内院は退せず、外院は退あり。 西方は内・外なし、また退なし。]六には五衰の有無。 七には相好の有無。 八には五通の有無。 九には不善心の起・不起。 十には滅罪の多少。 いはく、弥勒の名を称するには千二百劫の罪を除く。 弥陀の名を称するには八十億劫の罪を滅す。 十一には苦受の有無。 十二には受生の異。 兜率は男女の膝の下、懐のなかにあり。 西方は華のうち、殿のなかにあり。

二処の勝劣、その義かくのごとしといへども、しかもならびに仏は勧め讃じたまへり。 あひ是非することなかれ」(意)と。 [以上、おほよそ二界勝劣・差別を立つ。]慈恩(窺基)は十の異を立てたり。 前の八は感禅師(懐感)の所立を出でず。 ゆゑにさらに抄せず。

その第九にいはく(西方要決・意)、「西方は、仏、来迎したまふ。 兜率はしからず」と。 感師は「来迎は同じ」(群疑論・意)といふ。 第十にいはく(西方要決・意)、「西方は、経論に慇懃に勧めたまふこときはめて多し。 兜率は多からず、また慇懃にあらず」と。 {云々}感師(懐感)また往生の難易において、十五の同の義、八の異の義を立てたり。 八の異の義とは(群疑論・意)、「一には本願の異。 いはく、弥陀には引摂の願あり。 弥勒には願なし。 願なきは、みづから浮ぎて水を度るがごとし。 願あるは、舟に乗りて水に遊ぶがごとし。 二には光明の異。 いはく、弥陀仏の光は、念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。 弥勒はしからず。 光の照らすは、昼日の遊びのごとく、光なきは、暗のなかに来往するに似たり。 三には守護の異。 いはく、無数の化仏・観音・勢至、つねに行者の所に至りたまふ。

また『称讃浄土経』にのたまはく、〈十方の十恒河沙の諸仏の、摂受するところなり〉と。 また『十往生経』にのたまはく、〈仏、二十五の菩薩を遣はして、つねに行人を守護せしむ〉と。 兜率はしからず。 護りあるは、多くの人ともに遊ぶに、強賊に逼めらるることを畏ぢざるがごとし。 護りなきは、孤り嶮径に遊ぶに、かならず暴客のために侵さるるに似たり。 四には舒舌の異。 いはく、十方の仏、舌を舒べて証成したまふ。 兜率はしからず。 五には衆聖の異。 いはく、華聚菩薩・山海慧菩薩、弘誓願を発さく、〈もし一衆生として、西方に生るること尽きざることあらんに、われもし先づ去らば、正覚を取らじ〉と。 六には滅罪の多少。 {同前}七には重悪の異。 いはく、五逆罪を造れるものも、また西方に生るることを得。 兜率はしからず。 八には教説の異。

いはく、『無量寿経』にのたまはく、〈横に五の悪趣を截り、悪趣自然に閉ぢ、道に昇るに窮極なからん。 往きやすくして人なし〉と。 兜率はしからず。 十五の同の義あらん。 なほ生じがたしと説くべからず。 いはんや、異に八の門あり。 しかるをすなはち説きて、往きがたしといはんや。

請ふ、もろもろの学者、理および教を尋ねて、その難易の二の門を鑑みて、永くその惑ひを除くべし」と。 [以上略抄。

ただ十五の同の義、かの『論』(群疑論)を見るべし。] 問はく、玄奘の伝ふるところ、会せずはあるべからず。 答ふ。 西域の行法、暗ければ決しがたきも、いま試みに会していはく、かの土の行者、多く小乗にあり。 相伝にいはく、「十五国は大乗を学し、十五国は大小兼学す。 四十一国は小乗を学す」と。]兜率に上生することをば、大小ともに許せり。 他方の仏土に往くことをば、大は許して小は許さず。 かれをばともに許せるがゆゑに、ならびに兜率といふか。 流沙以東盛りに大乗を興す。 かの西域の雑行には同ずべからず。 いかにいはんや、諸教の興隆はかならずしも一時ならず。 就中、念仏の教は、多く末代の、経道滅して後の濁悪の衆生を利す。 はかりみるに、かの時には、天竺(印度)にいまだ興盛ならざりしか。 もししからずは、上足の基師、あに別に『西方要決』を著して、十の勝劣を立てて、自他を勧むべけんや。

 問ふ。 『心地観経』にのたまはく、「われいまの弟子をば弥勒に付く。 竜華会のなかに解脱を得ん」と。 あに如来(釈尊)の、兜率を勧進めたまふにあらずや。

答ふ。 これまた違することなし。 たれか、『上生』・『心地』等の両三の経をばせん。 しかも極楽の文の、顕密且千なるにはしかず。 また『大悲経』の第三(意)にのたまはく、「当来の世に、法の滅せんと欲する時に、まさに比丘・比丘尼ありて、わが法のなかにおいて出家を得をはり、手に児の臂を牽きてともに遊行し、酒家より酒家に至りて、わが法のなかにおいて非梵行をなすべし。 {乃至}ただ性はこれ沙門なれども、沙門の行を汚してみづから沙門と称し、形は沙門に似て、まさに袈裟衣を被着することあるべきものは、この賢劫において、弥勒を首めとなし、乃至、最後の盧遮仏の所にして般涅槃に入りて、遺余あることなからん。 なにをもつてのゆゑに。 かくのごとく一切のもろもろの沙門のなかに、乃至、一たびも仏の名を称し、一たびも信をなすものは、所作の功徳つひに虚設ならざればなり」と。 {以上}『心地観経』の意、またかくのごとし。

ゆゑにかの『経』(同)に、「竜華」とのたまひて「兜率」とはのたまはず。 いまこれを案ずるに、釈尊の入滅より慈尊(弥勒)の出世に至るまで、五十七倶胝六十百千歳を隔てたり。 [『新婆沙』の意。]そのあひだの輪廻、劇苦いくばくぞ。 なんぞ、終焉の暮、すなはち蓮胎に託することを願はずして、悠々たる生死に留まりて、竜華会に至ることを期せんや。 いかにいはんや、もしたまたま極楽に生れなば、昼夜に、念に随ひて兜率宮に往来し、乃至、竜華会のなかに、新たに対揚の首となること、なほ富貴にして故郷に帰るがごとし。 いづれの人か、この事を欣楽せざらんや。 もし別縁あるものは、余方もまた佳し。 おほよそ意楽に随ふべし。 異執を生ずることなかれ。

ゆゑに感法師(懐感)のいはく(群疑論)、「兜率を志求するものは、西方の行人を毀ることなかれ。 西方に生れんと願ずるものは、兜率の業を毀ることなかれ。 おのおの性欲に随ひて、情に任せて修学せよ。 あひ是非することなかれ。 なんぞただ勝処に生れざるのみならん。 またすなはち三途に輪転しなん」と。 {云々}

第四 正修念仏

【35】 大文第四に、正修念仏といふは、これにまた五あり。 世親菩薩の『往生論』(浄土論)にいふがごとし。 「五念門を修して行成就しぬれば、畢竟じて安楽国土に生れて、かの阿弥陀仏を見たてまつることを得。 一には礼拝門、二には讃嘆門、三には作願門、四には観察門、五には回向門なり」と。 {云々}このなかに、作願・回向の二門は、もろもろの行業において、通じてこれを用ゐるべし。

礼拝門

【36】 初めに礼拝門といふは、これすなはち三業相応の身業なり。 一心に帰命して五体を地に投げて、はるかに西方の阿弥陀仏を礼するなり。 多少をば論ぜず、ただ誠心を用ゐよ。

あるいは『観仏三昧経』の文を念ふべし。 「われいま、一仏を礼するは、すなはち一切の仏を礼するなり。 もし一仏を思惟すれば、すなはち一切の仏を見たてまつるなり。 一々の仏の前に一の行者ありて、接足して礼をなすは、みなこれおのが身なり」と。 [わたくしにいはく、「一切仏」とは、これ弥陀の分身なり。 あるいはこれ十方の一切の諸仏なり。]あるいは念ふべし。

能礼・所礼、性空寂なり。自身・他身、体無二なり。
願はくは衆生とともに道を体解して、無上の意を発して真際に帰せん」と。

あるいは『心地観経』の六種の功徳によるべし。 「一には無上大功徳田なり。 二には無上大恩徳なり。 三には無足・二足および多足の衆生のなかの尊たり。 四にはきはめて値遇しがたきこと優曇華のごとし。 五には独り三千大千世界に出でたまふ。 六には世・出世間の功徳円満して、一切の義の依たり。かくのごとき等の六種の功徳を具して、つねによく一切衆生を利益したまふ」と。

{以上}経の文は、きはめて略なり。

いますべからく言を加へて、もつて礼の法をなさん。 一には念ふべし。

一たび「南無仏」と称するものは、みなすでに仏道を成ず。
ゆゑにわれ、無上功徳田を帰命し礼したてまつる。
二には念ふべし。
慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。
ゆゑにわれ、極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。

三には念ふべし。

十方のもろもろの大士、弥陀尊を恭敬したてまつる。
ゆゑにわれ、無上両足の尊を帰命し礼したてまつる。

四には念ふべし。

一たび仏の名を聞くことを得ることは、優曇華よりも過ぎたり。
ゆゑにわれ、きはめて値遇しがたきものを帰命し礼したてまつる。
五には念ふべし。
一百倶胝の界には、二尊並び出でたまはず。
ゆゑにわれ、希有の大法王を帰命し礼したてまつる。

六には念ふべし。

仏法のもろもろの徳海は、三世同じく一体なり。
ゆゑにわれ、円融万徳の尊を帰命し礼したてまつる。

もし広く行ずることを楽はば、龍樹菩薩の『十二礼』によるべし。 また善導和尚の『六時の礼法』あり。 つぶさに出すべからず。 たとひ余行なくとも、ただ礼拝によりてまた往生することを得。 『観虚空蔵菩薩仏名経』にのたまふがごとし。 「阿弥陀仏を心を至して敬礼すれば、三悪道を離れて、後にその国に生るることを得」と。{以上}

讃嘆門

【37】 第二に讃嘆門といふは、これ三業相応の口業なり。 『十住婆沙』の第三にいふがごとし。 「阿弥陀仏の本願、かくのごとし。

〈もし人、われを念じ、名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨菩提を得〉と。 このゆゑにつねに憶念すべし。

偈をもつて〔阿弥陀仏を〕称讃せん。

無量の光明慧あり。身は真金山のごとし。
われいま身口意をもつて、合掌し稽首し礼したてまつる。
十方現在の仏、種々の因縁をもつて、
かの仏の功徳を嘆じたまふ。われいま帰命し礼したてまつる。
仏の足には千輻輪ありて、柔軟にして蓮華の色なり。
見るものみな歓喜す。頭面をもつて仏足を礼したてまつる。
眉間の白毫の光は、なほ清浄なる月のごとし。
面の光色を増益す。頭面をもつて仏足を礼したてまつる。
かの仏の言説したまふところ、もろもろの罪根を破除す。
美言にして益するところ多し。われいま稽首して礼したてまつる。
一切の賢聖衆、およびもろもろの人天衆、ことごとくみなともに帰命す。
このゆゑにわれもまた礼したてまつる。
かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。
みづから度し、またかれを度す。われ自在者を礼したてまつる。
諸仏、無量劫に、その功徳を讃揚せんに、
なほ尽すことあたはず。清浄の人を帰命したてまつる。
われいままたかくのごとく、無量の徳を称讃す。
この福の因縁をもつて、願はくは仏つねにわれを念じたまへ。
この福の因縁をもつて、獲るところの上妙の徳、
願はくはもろもろの衆生の類も、みなまたことごとくまさに得べし」と。

かの『論』(易行品)に三十二の偈あり。いま略して要を抄す。 あるいはまた『往生論』(天親の浄土論)の偈、真言教の仏讃阿弥陀の別讃あり。 これらの文、一遍・多遍、一行・多行、ただ至誠をもつてすべし。 多少を論ぜず。 たとひ余行なくとも、ただ讃嘆によりて、また願に随ひてかならず往生することを得つべし。

『法華』の偈にのたまふがごとし。

「あるいは歓喜の心をもつて、歌唄して仏徳を頌し、
乃至一の小音をもつてせるも、みなすでに仏道を成ぜり」と。

一音すでにしかり。 いかにいはんや、つねに讃ぜんをや。 仏果なほしかり。 いかにいはんや往生をや。 真言の讃仏、利益はなはだ深し。 顕露することあたはず。

作願門

【38】 第三に作願門といふは、以下の三の門は、これ三業相応の意業なり。 綽禅師(道綽)の『安楽集』(上)にいはく、「『大経』にのたまはく、〈おほよそ浄土に往生せんと欲はば、かならずすべからく菩提心を発すをもつて源となすべし〉と。

いかんとなれば、菩提といふはすなはちこれ無上仏道の名なり。 もし心を発して仏に作らんと欲すれば、この心は広大にして法界に遍周せり。 この心は長遠にして未来際を尽す。

この心あまねくつぶさに二乗の障を離る。 もしよく一たびこの心を発せば、無始生死の有淪を傾く。 『浄土論』にいはく、〈菩提心を発すといふは、まさしくこれ願作仏心なり。 願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。

度衆生心とは、すなはちこれ衆生を摂受して有仏の国土に生ぜしむる心なり。 いますでに浄土に生ぜんと願ず、ゆゑに先づすべからく菩提心を発すべし〉」と。 {以上}まさに知るべし、菩提心は、これ浄土菩提の綱要なり。 ゆゑにいささか三の門をもつてその義を決択せん。 行者、繁きを厭ふことなかれ。 一には菩提心の行相を明かす。 二には利益を明かす。 三には料簡せん。

四弘誓願

【39】 初めに行相とは、総じてこれをいはば願作仏心なり。 また、上求菩提・下化衆生の心と名づく。 別してこれをいはば四弘誓願なり。

これに二種あり。 一には縁事の四弘願なり。 これすなはち衆生縁の慈なり。 あるいはまた法縁の慈なり。 二には縁理の四弘なり。 これ無縁の慈悲なり。

縁事の四弘といふは、一には衆生無辺誓願度。 念ずべし、「一切衆生にことごとく仏性あり。 われみな無余涅槃に入らしむべし」と。 この心はすなはちこれ饒益有情戒なり。 またこれ恩徳の心なり。 またこれ縁因仏性なり。 応身の菩提の因なり。 二には煩悩無辺誓願断。 これはこれ摂律儀戒なり。 またこれ断徳の心なり。 またこれ正因仏性なり。 法身の菩提の因なり。 三には法門無尽誓願知。 これはこれ摂善法戒なり。 またこれ智徳の心なり。 またこれ了因仏性なり。 報身の菩提の因なり。 四には無上菩提誓願証。 これはこれ仏果菩提を願求するなり。

いはく、前の三の行願を具足するによりて、三身円満の菩提を証得して、還りてまた広く一切衆生を度するなり。

二に縁理の願とは、一切の諸法は、本来寂静なり。 有にあらず無にあらず、常にあらず断にあらず、生ぜず滅せず、垢れず浄からず。 一色・一香も、中道にあらずといふことなし。 生死即涅槃、煩悩即菩提なり。 一々の塵労門を翻ずれば、すなはちこれ八万四千の諸波羅蜜なり。 無明変じて明となる、氷融けて水となるがごとし。 さらに遠き物にあらず。 余処より来るにもあらず。 ただ一念の心にあまねくみな具足せること、如意珠のごとし。 宝あるにもあらず、宝なきにもあらず。 もし「なし」といはばすなはち妄語なり。 もし「あり」といはばすなはち邪見なり。 心をもつて知るべからず。 言をもつて弁ずべからず。 衆生、この不思議・不縛の法のなかにおいて、しかも思想して縛をなし、無脱の法のなかにおいて、しかも脱を求む。 このゆゑにあまねく法界の一切衆生において、大慈悲を起し、四弘誓を興す。 これを順理の発心と名づく。 これ最上の菩提心なり。

[『止観』の第一を見るべし。]また『思益経』にのたまはく、「一切の法は法にあらずと知り、一切の衆生は衆生にあらずと知る。 これを菩薩の、無上菩提心を発すと名づく」と。 また『荘厳菩提心経』にのたまはく、「菩提心とは、有にあらず造にあらず、文字を離れたり。 菩提はすなはちこれ心なり。 心はすなはちこれ衆生なり。 もしよくかくのごとく解するを、これを、菩薩の菩提を修すと名づく。 菩提は過去・未来・現在にあらず。 かくのごとく、心と衆生と、また過去・未来・現在にあらず。 よくかくのごとく解するを名づけて菩薩となす。 しかもこのなかにおいて、実に所得なし。 所得なきをもつてのゆゑに得。 もし一切の法において所得なくは、これを菩提を得と名づく。 始行の衆生のためのゆゑに、菩提ありと説く。 {乃至}しかもこのなかにおいて、また心もあることなく、また造心のものもなし。 また菩提もあることなく、また造菩提のものもなし。 また衆生もあることなく、また造衆生のものもなし」と。{乃至云々}

この二の四弘におのおの二の義あり。 一にはいはく、初めの二の願は衆生の苦・集二諦の苦を抜く。 後の二の願は衆生に道・滅二諦の楽を与ふ。 二にはいはく、初めの一は他に約す。 後の三は自に約す。 いはく、衆生の二諦の苦を抜き、衆生に二諦の楽を与ふることは、総じて初めの願のなかにあり。 この願を究竟円満せんと欲ふがために、さらに自身に約して後の三の願を発す。 『大般若経』(意)にのたまふがごとし。 「有情を利せんがために大菩提を求む。 ゆゑに菩薩と名づく。 しかも依着せず。 ゆゑに摩訶薩と名づく」と。{以上}

また前の三はこれ因にして、これ別なり。 第四はこれ果にして、これ総なり。 四弘已りて後は、いふべし、

自他法界同利益 共生極楽成仏道」と。

心のなかに念ふべし、「われと衆生と、ともに極楽に生れて、前の四弘願を円満究竟せん」と。 もし別願あるものは、四弘の前にこれを唱へよ。

もし心不浄なるは、正道の因にあらず。 もし心に限ることあるは、大菩提にあらず。 もし誠を至すことなくは、その力強からず。

このゆゑに、かならず清浄にして深広なる誠の心を須ゐよ。 勝他・名利等の事のためにせざれ。 しかも仏眼の照らすところの無尽法界の一切の衆生、一切の煩悩、一切の法門、一切の仏徳において、この四種の願と行とを発せ。

 問ふ。 なんの法のなかにおいてか、無上道を求むる。

答ふ。 これに利・鈍二種の差別あり。 『大論』(大智度論)にいふがごとし。 「黄石のなかに金の性あり、白石のなかに銀の性あるがごとく、かくのごとく一切世間の法のなかに、みな涅槃の性あり。 諸仏・賢聖は、智慧・方便・持戒・禅定をもつて引導して、この涅槃の法性を得しめたまふ。 利根のものは、すなはちこの諸法はみなこれ法性なりと知ること、たとへば、神通の人の、よく瓦石を変じてみな金となさしむるがごとし。

鈍根のものは、方便・分別してこれを求めて、すなはち法性を得。 たとへば、大きに石を冶し鼓して、しかして後に金を得るがごとし」と。{以上}

またいはく(同)、「苦行・頭陀し、初・中・後夜勤心に観禅して、苦しくして道を得るは声聞の教なり。 諸法の相は無縛無解なりと観じて、心、清浄なることを得るは菩薩の教なり。 文殊師利の本縁のごとし」と。{以上}

すなはち、『無行経』の喜根菩薩の偈を引きていはく(大智度論)、

婬欲はすなはちこれ道なり。恚・痴もまたしかなり。
かくのごとき三事のなかに、無量の諸仏の道あり。
もし人ありて、婬・怒・痴とおよび道とを分別するは、
この人は仏道を去ること、たとへば天と地とのごとし」と。

かくのごとく七十余の偈あり。 また同論にいはく、「一切の法の不可得なる、これを仏道と名づく。 すなはちこれ諸法の実相なり。 この不可得もまた不可得なり」と。 {略抄}また迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく(涅槃経)、

「一切諸法のなかに、ことごとく安楽の性あり。
ただ願はくは大世尊、わがために分別して説きたまへ」と。

また『般若経』にのたまはく、「一切有情はみな如来蔵なり。 普賢菩薩の自体、遍せるがゆゑに」と。 『法句経』にのたまはく、

「諸仏は貪瞋によりて、道場に処したまふ。
塵労は諸仏の種なり。もとよりこのかた所動なし。
五蓋および五欲を、諸仏の種性となす。
つねにこれをもつて荘厳せり。もとよりこのかた所動なし。
諸法はもとよりこのかた、是もなくまた非もなし。
是非の性、寂滅せり。もとよりこのかた所動なし」と。[以上四文、これ利根の人の菩提心なるのみ。]

 問ふ。 煩悩・菩提、もし一体ならば、ただ意に任せて惑業を起すべきや。

ふ。 かくのごとき解をなす、これを名づけて悪取空のものとなす。 もつぱら仏弟子にあらず。 いま反質していはく、なんぢ、もし煩悩即菩提なるがゆゑに欣ひて煩悩・悪業を起さば、また生死即涅槃なるがゆゑに欣ひて生死の猛苦を受くべし。

なんがゆゑぞ、刹那の苦果においては、なほ堪へがたきことを厭ひ、永劫の苦因においては、みづからほしいままに作ることを欣ふや。 このゆゑに、まさに知るべし、煩悩・菩提、体これ一なりといへども、時・異なるがゆゑに染・浄不同なり。 水と氷とのごとく、また種と菓とのごとし。 その体これ一なれども、時に随ひて用異なるなり。

これによりて、道を修するものは本有の仏性を顕せども、道を修せざるものはつひに理を顕すことなし。
『涅槃経』の三十二にのたまふがごとし。 「善男子、もし人ありて問はく、〈この種子のなかに果ありや、果なきや〉と。 さだめて答へていふべし、〈またはあり、またはなし〉と。 なにをもつてのゆゑに。 子を離れてほかに果を生ずることあたはず。 このゆゑに〈あり〉と名づく。 子いまだ芽を出さず。 このゆゑに〈なし〉と名づく。

この義をもつてのゆゑに、〈またはあり、またはなし〉と。 所以はいかん。 時節は異なることあれども、その体はこれ一なり。 衆生の仏性もまたかくのごとし。 もし衆生のなかに、別に仏性ありといはば、この義しからず。 なにをもつてのゆゑに。 衆生すなはち仏性なり、仏性すなはち衆生なり。

ただ時の異なるをもつて、浄・不浄あり。 善男子、もしあるが問ひていはく、〈この子はよく果をなすやいなや、この果はよく子をなすやいなや〉と。 さだめて答へていふべし、〈または生じ、生ぜず〉」と。{以上}

 問ふ。 凡夫は勤修するに堪へず。 なんぞ虚しく弘願を発さんや。

答ふ。 たとひ勤修に堪へずとも、なほすべからく悲願を発すべし。 その益、無量なり。 前後に明かすがごとし。 調達(提婆達多)は六万蔵の経を誦せしも、なほ那落を免れず。 慈童は一念の悲願を発して、たちまちに兜率に生るることを得たり。 すなはち知りぬ。 昇沈の差別は心にありて、行にあらず。 いかにいはんや、いづれの人か、一生のうちに、一たびも「南無仏」と称せず、一食をも衆生に施さざるものあらん。 すべからくこれらの微少の善根をもつて、みな四弘の願行に摂入すべし。 ゆゑに行願相応して、虚妄の願とならじ。
『優婆塞戒経』の第一にのたまふがごとし。 「もし人、一心に生死の過咎、涅槃の安楽を観察することあたはずは、かくのごとき人は、また恵施・持戒・多聞なりといへども、つひに解脱分の法を得ることあたはず。 もしよく生死の過咎を厭患し、深く涅槃の功徳と安楽とを見ば、かくのごとき人は、また少施・少戒・少聞なりといへども、すなはちよく解脱分の法を獲得せん」と。 [以上、無量世において、無量の財をもつて無量の人に施し、無量仏の所にして禁戒を受持し、無量世に無量の仏の所にして十二部経を受持・読誦せるを、名づけて多の施・戒・聞となす。 一把の麨をもつて、一の乞人に施し、一日一夜、八戒を受持し、一の四句偈を読むを、少の施・戒・聞と名づく。 『経』(優婆塞戒経)に広く説くがごとし。]このゆゑに、行者、事に随ひて用心すれば、乃至一善をも空しく過ぐすものなし。

『大般若経』にのたまふがごとし。 「もしもろもろの菩薩の、深般若波羅蜜多方便善巧を行ずるは、一心・一行として空しく過ぐして、一切智に回向せざるものはあることなし」と。{以上}

 問ふ。 いかんが用心する。

答ふ。 『宝積経』の九十三にのたまふがごとし。 「食を須つものには食を施せ、一切智の力を具足せんがためのゆゑなり。 飲を須つものには飲を施せ、渇愛の力を断ぜんがためのゆゑなり。 衣を須つものには衣を施せ、無上の慚愧の衣を得んがためのゆゑなり。 坐処を施すは、菩提樹下に坐せんがためのゆゑなり。 灯明を施すは、仏眼の明を得んがためのゆゑなり。 紙墨等を施すは、大智慧を得んがためのゆゑなり。 薬を施すは、衆生の結使の病を除かんがためのゆゑなり。 かくのごとく、乃至、あるいはみづから財なくは、まさに心の施をなすべし。 無量無辺の一切衆生を開示することを得んと欲せば、力あるも力なきも、上のごとく布施すべし。 これわが善行なり」と。 [以上、『経』(宝積経)の文はなはだ広し。いま略してこれを抄す。見つべし。]

かくのごとく事に随ひて、つねに心願を発せ。 「願はくは、この衆生をしてすみやかに無上道を成ぜしめん。 願はくは、われかくのごとく漸々に第一の願行を成就し、檀度を円満して、すみやかに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。

一の愛語を発し、一の利行を施し、一の善事を同ぜんにも、これに准じて知りぬべし。 もししばらくも一念の悪を制伏する時には、この念をなすべし。 「願はくは、われかくのごとく漸々に第二の願行を成就し、もろもろの惑業を断じて、すみやかに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。

もし一文一義を読誦修習する時には、この念をなすべし。 「願はくは、われかくのごとく漸々に第三の願行を成就し、諸仏の法を学してすみやかに菩提を証し、広く衆生を度せん」と。 一切の事に触れて、つねに用心をなせ。 「われ今身より漸々に修学して、乃至、極楽に生れて自在に仏道を学し、すみやかに菩提を証して、究竟して生を利せん」と。 もしつねにこの念を懐きて、力に随ひて修行するものは、渧りの微なりといへども、やうやく大なる器に盈つがごとし。

この心よく巨細の万善を持ちて、漏落せしめずして、かならず菩提に至る。 『華厳経』の「入法界品」にのたまふがごとし。 「たとへば、金剛の、よく大地を持ちて墜没せしめざるがごとく、菩提の心もまたかくのごとし。 よく菩薩の一切の願行を持ちて、墜落して三界に没せしめず」と。{云々}

 問はく、凡夫は常途の用心に堪へず。その時の善根は唐捐なりとやせん。

答ふ。

もし至誠心をもつて、心に念ひ口にいはく、「われ今日よりは、乃至一善をも己身の有漏の果報のためにせず、ことごとく極楽のためにせん、ことごとく菩提のためにせん」と。 この心を発しつる後には、あらゆるもろもろの善は、もしは覚し、覚せざるも、自然に無上菩提に趣向す。 一たび渠溝を穿りつれば、もろもろの水おのづから流入して、転じて江河に至り、つひに大海に会するがごとし。 行者もまたしかり。

一たび発心しつる後には、もろもろの善根の水も自然に四弘願の渠に流入して、転じて極楽に生じ、つひに菩提の薩婆若海に会す。 いかにいはんや、時々に前の願を憶念せんをや。 つぶさには下の回向門のごとし。

 問ふ。 凡夫は力なければ、よく捨てんとして捨てがたし。 あるいはまた貧乏なり。 なんの方便をもつてか、心をしてに順ぜしめん。

答ふ。

『宝積経』にのたまはく、「かくのごとく布施せんに、もし力あることなくしてこれをするにあたはず、財を捨つることあたはずは、この菩薩はかくのごとく思惟すべし。 〈われ、いままさにつとめて精進を加へ、時々漸々に慳貪・吝惜を断除すべし。 われ、まさにつとめて精進を加へ、時々漸々に財を捨てて施与することを学して、つねにわが施心をして増長し広大ならしむべし〉」と。 また『因果経』の偈にのたまはく、

「もし貧窮の人ありて、財の布施すべきものなくは、
他の施を修するを見る時に、しかも随喜の心をなせ。
随喜の福報は、施と等しくして異なることなし」と。

『十住毘婆沙』の偈にいはく、

「われ、いまこれ新学なり。善根いまだ成就せず。
心いまだ自在を得ず。願はくは後にまさにあひ与ふべし」と。{以上}

行者、まさにかくのごとく用心すべし。

 問ふ。 このなかに、理を縁じて菩提心を発すも、また因果を信じて、つとめて道を修行すべきや。

答ふ。 理、かならずしかるべし。 『浄名経』(維摩経)の偈にのたまふがごとし。

「諸仏の国と、および衆生との空なることを観ずといへども、
しかもつねに浄土を修し、もろもろの群生を教化す」と。

『中論』の偈にいはく、

「空なりといへどもまた断ぜず。有なりといへどもしかも常ならず。
業と果報とは失せず。これを仏の所説と名づく」と。

また『大論』(大智度論)にいはく、「もし諸法皆空ならばすなはち衆生なし。 たれか度すべきものあらん。 この時は悲心、すなはち弱し。 あるいは時に衆生の愍れむべきをもつてせば、諸法の空観において弱し。 もし方便力を得つれば、この二法において等しくして偏党なし。 大悲心は、諸法の実相を妨げず。 諸法の実相を得れども、大悲を妨げず。

かくのごとき方便を生ずる、この時、すなはち菩薩の法位に入り、阿鞞跋致地に住することを得」と。{略抄}

 問ふ。 もし偏して解をなさば、その過いかんぞ。

答ふ。 『無上依経』の上巻に、空見を明かしてのたまはく、「もし人ありて、我見を執すること須弥山の大きさのごとくせんをば、われ驚怖せず、また毀呰せず。 増上慢の人の、空見に執着すること一髦髪を十六分になさんがごとくせんをば、われ許可さず」と。

また『中論』の第二の偈にいはく、

「大聖(釈尊)の、空法を説きたまふことは、諸見を離れしめんがためのゆゑなり。
もしまた空ありと見るは、諸仏化せざるところなり」と。

『仏蔵経』の「念僧品」に、有所得の執を破してのたまはく、「有所得のものは、我・人・寿者・命者ありと説き、無所有の法を憶念し分別して、あるいは断・常と説き、あるいは有作と説き、あるいは無作と説く。 わが清浄の法、この因縁をもつて漸々に滅尽せん。 われ、久しく生死にありて、もろもろの苦悩を受けて成ぜるところの菩提をば、このもろもろの悪人、その時に毀壊せん」と。{略抄}
また同経の「浄戒品」にのたまはく、「我見・人見・衆生見のものは、多く邪見に堕つ。 断滅見のものは、多く疾く道を得。 なにをもつてのゆゑに。 これをば捨てやすきがゆゑに。

このゆゑにまさに知るべし、この人はむしろみづから利き刀をもつて舌を割くとも、衆のなかにして不浄に説法すべからず」と。

[有所得執を名づけて不浄となす。]『大論』(大智度論)の第一に、並べて二執の過を明かしていはく、「たとへば、人の、狭き道を行くに、一辺は深水、一辺は大火にして、二辺ともに死するがごとし。 有に着するも、無に着するも、二事ともに失す」と。{以上}
このゆゑに、行者、つねに諸法の本来空寂なるを観じ、またつねに四弘の願行を修習せよ。 空と地とによりて宮舎を造立せんとするも、ただ地、ただ空にしては、つひに成ずることあたはざるがごとし。 これはこれ諸法の三諦相即せるによるがゆゑなり。

『中論』の偈にいふがごとし。

「因縁所生の法をば、われすなはちこれ空なりと説く。
また名づけて仮名となす。またこれ中道の義なり」と。{云々}

さらに『止観』を撿へよ。

 問ふ。 執有の見、罪過すでに重くは、縁事の菩提心、あに勝利あらんや。

答ふ。 堅く有を執する時に、過失すなはち生ず。 いふところの縁事とは、かならずしも堅執にあらず。 もししからずは、見有得道の類なかるべし。 見空もまたしかり。 たとへば、火を用ゐるに、手触るれば害をなし、触れざれば益あるがごとし。 空・有もまたしかり。

【40】 二に利益を明かさば、もし人、説のごとくして菩提心を発さば、たとひ余の行を少くとも、願に随ひて決定して極楽に往生しなん。 上品下生の類これなり。 かくのごとき利益、無量なり。 いま略して一端を示さん。

止観』にいはく、「『宝梁経』にのたまはく、〈比丘の、比丘の法を修せざるは、大千に唾する処なし。いはんや、人の供養を受けんをや。 六十の比丘、悲泣して仏にまうさく、《われら、たちまちに死すとも、人の供養を受くることあたはじ》と。 仏ののたまはく、《なんぢ、慚愧の心を起せり。善きかな、善きかな》と。

一の比丘、仏にまうしてまうさく、《なんらの比丘か、よく供養を受くる》と。 仏ののたまはく、《もし比丘の数にありて、僧の業を修し、僧の利を得たるもの、この人よく供養を受く。 四果の向はこれ僧の数なり。 三十七品はこれ僧の業なり。 四果はこれ僧の利なり》と。

比丘、かさねて仏にまうさく、《もし大乗の心を発すものは、またいかんぞ》と。

仏ののたまはく、《もし大乗の心を発して一切智を求むるは、数に堕せず、業を修せず、利を得ずとも、よく供養を受けてん》と。 比丘驚きて問ひたてまつる。 《いかんが、この人よく供養を受くる》と。

仏ののたまはく、《この人、衣を受けて用ゐて大地に敷き、揣食を受くること須弥山のごとくすとも、またよくつひに施主の恩を報じてん》〉と。 まさに知るべし、小乗の極果は、大乗の初心に及ばず」と。 [以上、信施を消す。]

 またいはく(摩訶止観)、「『如来密蔵経』に説かく、〈もし人、父の縁覚となりしを害し、三宝の物を盗み、母の羅漢となりしを汚し、不実の事をもつて仏を謗り、両舌して賢聖を間て、悪口して聖人を罵り、求法のものを壊乱し、五逆の初業の瞋りと、持戒の人の物を奪ふ貪りと、辺見の痴とあらば、これを十悪のものとなす。 もしよく、如来の、因縁の法は我・人・衆生・寿命なく、生なく滅なく染なく着なく、本性清浄なりと説きたまふことを知り、また一切法において本性清浄なりと知りて、解知し信入せば、われ、この人は地獄およびもろもろの悪道に趣向すと説かず。 なにをもつてのゆゑに。

法は積聚なく、法は集悩なし。 一切の法は、生ぜず住せず、因縁和合して生起することを得。 生じをはれば、還りて滅しぬ。 もし心、生じをはりて滅すれば、一切の結使もまた生じをはりて滅しぬ。 かくのごとく解すれば、犯処なし。

もし犯あり住ありといはば、この処あることなし。 百年の闇室に、もし灯を燃す時には、闇、《われはこれ室の主なり。 ここに住すること久しく、しかもあへて去らじ》といふべからず。 灯もし生じぬれば、闇すなはち滅しぬるがごとし〉と。 その義またかくのごとし。

この経は、つぶさに前の四の菩提心を指す」と。 [以上、かの『経』(如来秘密蔵経)の下巻にあり。 「前の四」といふは、四教の菩提心を指す。]『華厳経』の「入法界品」(意)にのたまはく、「たとへば、善見薬王の、一切の病を滅するがごとく、菩提心の薬も一切衆生のもろもろの煩悩の病を滅す。

たとへば、牛・馬・羊の乳を合して一器に在きて、獅子の乳をもつてかの器のなかに投るれば、余の乳は消尽して、ただちに過ぐること礙なきがごとく、如来師子の菩提心の乳を、無量劫に積めるところのもろもろの業・煩悩の乳のなかに着けば、みなことごとく消尽して、声聞・縁覚の法のなかに住せず」と。 『大般若経』にのたまはく、「もしもろもろの菩薩、多く五欲相応の非理の作意を発起すといへども、しかも一念、無上の菩提と相応せる心を起さば、すなはちよく折滅す」と。[以上三の文、滅罪の益なり。]

「入法界品」にのたまはく、「たとへば、人ありて、不可壊薬を得つれば、一切の怨敵も その便りを得ざるがごとく、菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。

菩提心の不壊の法薬を得つれば、一切の煩悩・諸魔・怨敵も壊することあたはざるところなり。 たとへば、人ありて、住水宝珠を得て、その身に瓔珞としつれば、深水のなかに入れども、しかも没溺せざるがごとく、菩提心の住水宝珠を得つれば、生死海に入れども、しかも沈没せず。 たとへば、金剛の、百千劫に水のなかに処すれども、しかも爛壊せず、また変異なきがごとく、菩提の心もまたかくのごとし。 無量劫に生死のなかに処すれども、もろもろの煩悩・業も断滅することあたはず。 また損減なし」と。

また同経の法幢菩薩の偈にのたまはく、

「もし智慧ある人、一念も道心を発せば、
かならず無上尊となる。つつしみて疑惑をなすことなかれ」と。[以上、
つひに敗壊せずして、かならず菩提に至る益なり。]

また「入法界品」にのたまはく、「たとへば、閻浮檀金の、如意宝を除きては一切の宝に勝れたるがごとく、菩提の心の閻浮檀金もまたかくのごとし。 一切智を除きてはもろもろの功徳に勝れたり。

たとへば、迦陵頻伽鳥の、㲉のなかにある時に大勢力ありて、余の鳥及ばざるがごとく、菩薩摩訶薩もまたかくのごとし。 生死の㲉にして、菩提心を発せるに、功徳の勢力は、声聞・縁覚の及ぶことあたはざるところなり。

たとへば、波利質多樹の華をもつて、一日衣に熏じつれば、瞻蔔華婆師華をもつて千歳熏ずといへども及ぶことあたはざるところなるがごとく、

菩提心の華もまたかくのごとし。 一日熏ずるところの功徳の香、十方の仏の所に徹りて、一切の声聞・縁覚の、無漏の智をもつてもろもろの功徳を熏ずること、百千劫においてせるも、及ぶことあたはざるところなり。 たとへば、金剛の、破れて全からずといへども、一切のもろもろの宝の、なほ及ぶことあたはざるがごとく、菩提の心もまたかくのごとし。

少し懈怠なりといへども、声聞・縁覚のもろもろの功徳の宝の、及ぶことあたはざるところなり」と。 [以上、『経』(華厳経)のなかに二百余の喩へあり。 見るべし。]
「賢首品」の偈にのたまはく、

「菩薩、生死にして最初に発心する時、
一向に菩提を求むること、堅固にして動ずべからず。
かの一念の功徳、深広にして岸際なし。
如来、分別して説きたまはんに、劫を窮むるも尽すことあたはじ」と。[ここにいふ「発心」は凡聖に通ず。つぶさに『弘決』を見よ。]

また同経の偈にのたまはく、

「一切衆生の心をば、ことごとく分別して知りぬべし。
一切刹の微塵をば、なほその数を算へつべし。
十方の虚空界をば、一毛をもつてなほ量りつべし。
菩薩の初発心をば、究竟して測るべからず」と。

また『出生菩提心経』の偈にのたまはく、

「もしこの仏刹のもろもろの衆生を、信心および持戒に住せしめたらん、
かの最上の大福聚のごときは、道心の十六分には及ばじ。
もしこの仏刹のもろもろの衆生を、信心に住し法において行ぜしめん、
かの最上の大福聚のごときは、道心の十六分には及ばじ。
もし諸仏の刹の、恒河沙のごとくならんに、みなことごとく寺を造りて福を求めんがゆゑにし、
またもろもろの塔を造ること須弥のごとくせんも、道心の十六分には及ばず。{乃至}
かくのごとき人等は勝法を得んも、もし菩提を求めて衆生を利せば、
かれら衆生の最勝なるものなり。これ比類なし。いはんや上あらんや。
このゆゑにこの諸法を聞くことを得ては、智者はつねに楽法の心をなし、
まさに無辺の大福聚を得て、すみやかに無上道を証することを得べし」と。

『宝積経』の偈にのたまはく、

「菩提心の功徳、もし色方分あらば、
虚空界に周遍して、よく容受するものなからん」と。{云々}

菩提心には、かくのごとき勝利あり。このゆゑに迦葉菩薩の礼仏の偈(涅槃経)にのたまはく、

「発心と畢竟とは二つ別なし。かくのごとき二心において前の心難し。
みづからいまだ度することを得ずして、先づ他を度す。このゆゑにわれ初発心を礼す」と。

また弥伽大士善財童子の、すでに菩提心を発せることを聞きて、すなはち獅子の座より下り、大光明を放ちて三千界を照らし、五体を地に投げて、童子を礼讃せり。[以上、総じて勝利を顕す。]

 問ふ。 縁事の誓願もまた勝利ありや。

答ふ。 縁理にしかずといへども、これまた勝利あり。 なにをもつてか知るとならば、上品下生の業にいはく(観経)、「ただ無上道心を発す」と。 第一義を解るとはいはず。 ゆゑに知りぬ、ただこれ事の菩提心なり。 もししからずは、かの中生の業と別なかるべし。

[その一。]『往生論』(天親の浄土論)に菩提心を明かすに、ただいへり、「一切衆生の苦を抜くをもつてのゆゑに。 一切衆生をして大菩提を得しむるをもつてのゆゑに。 衆生を摂取してかの国土に生れしめんをもつてのゆゑに」と。{云々}
もし縁事の心に往生の力なくは、論主(天親)あに縁理の心を示さざらんや。

[その二。]『大論』(大智度論)の第五の偈にいはく、

「もし初発心の時に、まさに仏に作るべしと誓願すれば、
すでにもろもろの世間に過ぎたり。まさに世の供養を受くべし」と。{云々}

この『論』(大智度論)にもまた、ただ「願作仏」といへり。明らけし、事の菩提心もまたつひに信施を消すといふことを。

[その三。]『止観』に、『秘密蔵経』を引きをはりていはく、「初めの菩提心、すでによく重々の十悪を除く。 いはんや、第二・第三・第四の菩提心をや」と。{云々}

いふところの「初め」とは、これ三蔵教の、界内の事を縁ずる菩提心なり。 いかにいはんや、深く一切衆生にことごとく仏性ありと信じて、あまねく自他ともに仏道を成ぜんと願ぜんに、あに罪を滅することなからんや。

[その四。]『唯識論』にいはく、「菩提と有情との実有を執せずは、猛利の悲願を発起するに由なし」と。{以上}
大士の悲願すらなほ有を執して起る。 すなはち知りぬ、事の願もまた勝利ありといふことを。

[その五。]余は下の回向門のごとし。

 問ふ。 衆生にもとより仏性ありと信解することは、あに縁理にあらずや。

答ふ。 これはこれ、大乗至極の道理を信解するなり。 かならずしも第一義空相応の観慧にはあらず。

 問ふ。 『十疑』に『雑集論』を引きていはく、「もしは安楽浄土に生れんと願ひて、すなはち往生を得るものあり。 もしは人、無垢仏の名を聞きて、すなはち阿耨菩提を得るものあり。 これはこれ別時の因なり。 まつたく行あることなし」と。 {以上}慈恩(窺基)同じくいはく(西方要決)、「願と行と前後するがゆゑに、別時と説く。 仏を念ずるに、即生せずといはんとにはあらず」と。 {以上}あきらかに知りぬ、願ありて行なきは、これ別時の意なり。 いかんぞ、上品下生の人、ただ菩提の願によりてすなはち往生することを得るや。

答ふ。 大菩提心は功能甚深なり。 無量の罪を滅し、無量の福を生ず。 ゆゑに浄土を求むれば、求むるに随ひてすなはち得。 いふところの別時の意といふは、ただ自身のために極楽を願求するなり。 これ、四弘願の広大の菩提心にはあらず。

 問ふ。 大菩提心、もしこの力あらば、一切の菩薩は、初発心より決定して悪趣に堕するものなかるべし。

答ふ。 菩薩、いまだ不退の位に至らざる前は、染・浄の二の心間雑して起る。 前念に衆罪を滅すといへども、後念にさらに衆罪を造る。 また、菩提心に浅深・強弱あり、悪業に久近・定不定あり。 このゆゑに、退位にては昇沈不定なり。 菩提心に滅罪の力なきにはあらず。 しばらく愚管を述す。 見るもの取捨せよ。

【41】 三に料簡とは、

問ふ、「入法界品」にのたまはく、「たとへば、金剛は金性より生じて、余宝より生ずるにあらざるがごとく、菩提心の宝もまたかくのごとし。 大悲をもつて衆生を救護する性より生じて、余の善より生ずるにあらず」と。

『荘厳論』の偈にいはく、

「つねに地獄に処すといへども、大菩提をば障へず。
もし自利の心を起さば、これ大菩提の障なり」と。

また『丈夫論』の偈にいはく、

「悲心をもつて一人に施するは、功徳の大きなること地のごとし。
おのがために一切に施するは、報を得ること芥子のごとし。
一の厄難の人を救ふは、余の一切の施には勝れたり。
もろもろの星に光ありといへども、一の月の明にはしかず」と。{以上}

明らけし、自利の行はこれ菩提心の所依にあらざれば、報を得ることまた少なし。 いかんぞ、独りすみやかに極楽に生ぜんと願ずるや。

答ふ。

あに前にいはずや、極楽を願ずるものはかならず四弘願を発して、願に随ひて勤修せよとは。 これあに、これ大悲心の行にあらずや。 また、極楽を願求すること、これ自利の心にあらず。 しかる所以は、いまこの娑婆世界は留難多し。 甘露のいまだ沾はざるに、苦海朝宗しぬ。 初心の行者、なんの暇ありてか道を修せん。

ゆゑにいま菩薩の願行を円満して、自在に一切衆生を利益せんと欲ふがために、先づ極楽を求むるなり。 自利のためにはせず。

『十住毘婆沙』にいふがごとし、「みづからいまだ度することを得ずは、かれを度することあたはず。 人のみづから於泥に没せるがごとき、なんぞよく余人を拯済せん。 また、水のために漂はさるるもの、溺れたるものを済ふことあたはざるがごとし。 このゆゑに説かく、〈われ度しをはりて、まさにかれを度すべし〉」と。

また『法句経』の偈に説くがごとし

「もしよくみづから身を安んじて、善処にあらば、
しかして後に余人を安んじて、みづからと所利を同じくせよ」と。{以上}

ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。 これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。

業因・華報・果報・本懐

知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。

 問ふ。 念仏の行は、四弘のなかにおいて、これいづれの行の摂ぞ。

答ふ。 念仏三昧を修するは、これ第三の願行なり。 随ひて伏滅するところあるは、これ第二の願行なり。 遠近に良縁を結ぶは、これ第一の願行なり。 功を積み徳を累ぬるは、第四の願を成ずるなり。 自余の衆善は例して知れ。 俟たざれ。

 問ふ。 一心に仏を念ぜば、理また往生すべし。 なんぞかならず経論に菩提の願を勧むるや。

答ふ。 『大荘厳論』にいはく、「仏国は事大なれば、独り行の功徳をもつては成就することあたはず。 かならず願力を須ゐるべし。 牛は力ありといへども、車を挽くにかならず御者を須ゐて、よく至る所あるがごとく、仏の国土を浄むるも願によりて引成す。 願力をもつてのゆゑに福慧増長す」と。 {以上}『十住毘婆沙論』にいはく、「一切の諸法は願を根本となす。 願を離れてはすなはち成ぜず。 このゆゑに願を発す」と。

またいはく(易行品)、

「もし人、仏に作らんと願じて、心に阿弥陀を念ずれば、
時に応じてために身を現じたまふ。このゆゑにわれ帰命したてまつる」と。{以上}

大菩提心、すでにこの力あり。このゆゑに行者かならずこの願を発せ。

 問ふ。 もし願を発さざるものは、つひに往生せざるや。

答ふ。 諸師不同なり。 あるがいはく、「九品生の人はみな菩提心を発す。 その中品の人は、本これ小乗なりといへども、後に大心を発してかの国に生ずることを得。 かの本習によりてしばらく小果を証す。

その下品の人は、大心を退せりといへども、しかもその勢力なほありて、生ずることを得」と。 [慈恩(窺基)これに同じ。]あるがいはく、「中・下品はただ福分によりて生じ、上品は福分道分を具して生ず」と。 {云々}「道分」とは、これ菩提心の行なり。

 問ふ。 菩提心に諸師の異解あるがごとく、浄土を欣ふ心もまた不同なりや。

答ふ。 大菩提心には異説ありといへども、浄土を欣ふ願は、九品にみな具すべし。

 問ふ。 もし浄土の業、願によりて報を得ば、人の、悪を作りて地獄を願はざるがごとき、かれ地獄の果報を得べからずや。

答ふ。 罪の報は有量なれども、浄土の報は無量なり。 二果すでに別なり。 二因なんぞ一例せんや。 『大論』(大智度論)の第八にいふがごとし。 「罪福には定報ありといへども、ただ願をなすものは、小福を修すれども、願力あるがゆゑに大果報を得。 一切衆生はみな楽を得んと願ひて、苦を願ふものはなし。 このゆゑに地獄を願はず。 これをもつてのゆゑに、福は無量の報あれども、罪報は有量なり」と。 {略抄}

 問ふ。 なんらの法をもつてか、世々に大菩提の願を増長して忘失せざる。

答ふ。 『十住婆沙』の第三の偈にいはく、

「乃至、身命、転輪聖王の位を失はんも、
これにおいてなほ妄語し、諂曲を行ずべからず。
よくもろもろの世間の一切衆生の類をして、
もろもろの菩薩衆において、恭敬の心を生ぜしめよ。
もし人ありて、よくかくのごとき善法を行ずるは、
世々に無上菩提の願を増長することを得ん」と。

[文中にまた二十種の失菩提心の法あり。見るべし。]

往生要集 巻上