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「安楽集 (七祖)」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

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またかの『経』(維摩経)にのたまはく、「[[無作を行ず]]といへども[[受身を現ず]]。

2018年5月11日 (金) 16:53時点における版

本書は、諸経論の文を援引して『観経』の要義を示し、安楽浄土の往生を勧めたものである。全体は、上下2巻、12大門(上巻3大門、下巻9大門)の組織よりなっている。
 その内容を見ると、第1大門では、教法が時代と根機にかなっていなければ効がないことを指摘し、現今の人々は称名念仏によって往生を願うべきであると主張して、『観経』の宗旨や阿弥陀仏の身土などについて説示する。第2大門では、菩提心が願生心に結帰することを示し、あわせて別時意説など種々の論難に答える。第3大門では、龍樹菩薩の難易二道判、曇鸞大師の自力他力判を受けて、聖道・浄土二門の判釈をくだし、末法の時代には浄土の一門こそ通入すべき道であることを力説する。第4大門以下は、上の3大門を補説したもので、第4、第5大門は主として往生の因行について、第6大門から第11大門までは浄土の意義や往生者のありさまなどについて述べ、最後の第12大門は全体を結ぶものとして疑謗を誡め信順を勧めている。

 本書は、往生浄土の教えが大乗仏教の基本理念の上に立脚するものであることを種々の観点から巧みに論証しており、浄土門の理論的基礎を築きあげたものとして大きな思想的意義を有している。

安楽集

巻上

   安楽集 巻上

釈道綽撰

総説

【1】 この『安楽集』一部のうちに、総じて十二の大門あり。 みな経論を引きて証明して、信を勧め往くことを求めしむ。

【2】 いま先づ第一の大門のうちにつきて、文義衆しといへども、略して九門を作りて料簡し、しかる後に文に造らん。 第一に教興の所由を明かして、に約し機に被らしめて勧めて浄土に帰せしむ。 第二に諸部の大乗によりて説聴の方軌を顕す。 第三に大乗の聖教によりて、もろもろの衆生の発心の久近、供仏の多少を明かして、時会の聴衆をして力め励みて発心せしめんと欲す。 第四に諸経の宗旨の不同を弁ず。 第五に諸経の得名おのおの異なることを明かす。

『涅槃』・「般若経」等のごときは法につきて名となす。 おのづから喩へにつくことあり、あるいは事につくことあり、また時につき、処につくことあり。 この例一にあらず。 いまこの『観経』は人法につきて名となす。

「仏」はこれ人の名、「説観無量寿」はこれ法の名なり。 第六に説人の差別を料簡す。 諸経の起説五種を過ぎず。 一には仏の自説、二には聖弟子の説、三には諸天の説、四には神仙の説、五には変化の説なり。 この『観経』は、五種の説のなか、世尊の自説なり。 第七に略して真・応の二身を明かし、ならびに真・応の二土を弁ず。 第八に弥陀の浄国は位上下を該ね、凡聖通じて往くことを顕す。 第九に弥陀の浄国の三界の摂と不摂とを明かす。

第一大門

教興の所由

【3】 第一大門のなか、教興の所由を明かして、時に約し機に被らしめて勧めて浄土に帰せしむとは、もし教、時機に赴けば、修しやすく悟りやすし。 もし機と教と時と乖けば、修しがたく入りがたし。 このゆゑに『正法念経』にのたまはく

「行者一心に道を求むる時、つねにまさに時と方便とを観察すべし。
もし時を得ず、方便なくは、これを名づけて失となし利と名づけず。

なんとなれば、

もし湿へる木を攅りてもつて火を求めんに、火得べからず、時にあらざるがゆゑなり。

もし乾きたる薪を折りてもつて火を覓めんに、火得べからず、智なきがゆゑなり」と。

このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「仏滅度の後の第一の五百年には、わがもろもろの弟子、慧を学ぶこと堅固なることを得ん。 第二の五百年には、定を学ぶこと堅固なることを得ん。 第三の五百年には、多聞・読誦を学ぶこと堅固なることを得ん。 第四の五百年には、塔寺を造立し福を修し懺悔すること堅固なることを得ん。 第五の五百年には、白法隠滞して多く諍訟あらん。 微しき善法ありて堅固なることを得ん」と。

四種度生

またかの『経』(同・意)にのたまはく、「諸仏の世に出でたまふに、四種の法ありて衆生を度したまふ。 なんらをか四となす。

一には口に十二部経を説く。すなはちこれ法施をもつて衆生を度したまふ。
二には諸仏如来には無量の光明・相好まします。一切衆生ただよく心を繋けて観察すれば、益を獲ざるはなし。これすなはち身業をもつて衆生を度したまふ。
三には無量の徳用・神通道力・種々の変化まします。すなはちこれ神通力をもつて衆生を度したまふ。
四には諸仏如来には無量の名号まします。もしは、もしはなり。それ衆生ありて心を繋けて称念すれば、障を除き益を獲て、みな仏前に生ぜざるはなし。 すなはちこれ名号をもつて衆生を度したまふ」と。

いまの時の衆生を計るに、すなはち仏世を去りたまひて後の第四の五百年に当れり。 まさしくこれ懺悔し福を修し、仏の名号を称すべき時なり。 もし一念阿弥陀仏を称すれば、すなはちよく八十億劫の生死の罪を除却す。 一念すでにしかなり。 いはんや常念を修せんをや。 すなはちこれつねに懺悔する人なり。

またもし聖(釈尊)を去ること近ければ、すなはち前のもの定を修し慧を修するはこれその正学なり、後のものはこれ兼なり。 もし聖を去ることすでに遠ければ、すなはち後のもの名を称するはこれ正にして、前のものはこれ兼なり。 なんの意ぞしかるとならば、まことに衆生、聖を去ること遥遠にして、機解浮浅暗鈍なるによるがゆゑなり。 ここをもつて韋提大士、みづからおよび末世の五濁の衆生の輪廻多劫にしていたづらに痛焼を受くるを哀愍するがゆゑに、よくかりに苦の縁に遇ひて出路を諮開す。 しかれば大聖(釈尊)弘慈をもつて勧めて極楽に帰せしむ。 もしここにおいて進趣せんと欲せば、勝果階ひがたし。 ただ浄土の一門のみありて、をもつて悕ひて趣入すべし。 もし衆典を披き尋ねんと欲せば、勧むるところいよいよ多し。

つひにもつて真言を採り集めて助けて往益を修せしむ。 なんとなれば、前に生ずるものは後を導き、後に去かんものは前を訪ひ、連続無窮にして願はくは休止せざらしめんと欲す。

無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり。

説聴の方軌

【4】 第二に諸部の大乗によりて説聴の方軌を明かすとは、なかに六あり。 第一に『大集経』(意)にのたまはく、「説法のものにおいては医王の想をなし、抜苦の想をなせ。 説くところの法には甘露の想をなし、醍醐の想をなせ。 それ法を聴くものは増長勝解の想をなし、愈病の想をなせ。 もしよくかくのごとく説くもの、聴くものは、みな仏法を紹隆するに堪へたり、つねに仏前に生ず」と。

 第二に『大智度論』にいはく、

「聴くものは端視して渇飲のごとくせよ。一心に語議のなかに入り、
法を聞きて踊躍し心に悲喜す。かくのごとき人にために説くべし」と。

 第三にかの『論』(同・意)にまたいはく、「二種の人ありて、福を得ること無量無辺なり。 なんらをか二となす。

一には楽みて法を説く人、二には楽みて法を聴く人なり。 このゆゑに阿難、仏にまうしてまうさく、〈舎利弗・目連なにをもつてか得るところの智慧・神通、聖弟子のなかにおいてもつとも殊勝なりとなす〉と。

仏、阿難に告げたまはく、〈この二人は、因中の時において、法の因縁のために千里を難しとせず。 このゆゑに今日もつとも殊勝なりとなす〉」と。
 第四に『無量寿大経』(下)にのたまはく、

「もし人善本なければ、この経を聞くことを得ず。
清浄に戒を有てるもの、すなはち正法を聞くことを獲」と。

 第五にのたまはく(同・下意)、

「曾更世尊を見たてまつるもの、すなはちよくこの事を信ず。
億の如来に奉事して、楽みてかくのごとき教を聞く」と。

 第六に『無量清浄覚経』(四・意)にのたまはく、「善男子・善女人、浄土の法門を説くを聞きて、心に悲喜を生じて身の毛為竪ちて抜け出づるがごとくなるものは、まさに知るべし、この人は過去宿命にすでに仏道をなせるなり。 もしまた人ありて浄土の法門を開くを聞きて、すべて信を生ぜざるものは、まさに知るべし、この人ははじめて三悪道より来りて、殃咎いまだ尽きず。 これがために信向なきのみ。 われ説く、〈この人はいまだ解脱を得べからず〉」と。 このゆゑに『無量寿大経』(下)にのたまはく、

「驕慢と懈怠とは、もつてこの法を信ずること難し」と。

発心の久近

【5】 第三に大乗の聖教によりて、衆生の発心の久近、供仏の多少を明かすとは、『涅槃経』*(意)にのたまふがごとし。

「仏、迦葉菩薩に告げたまはく、〈もし衆生ありて、熙連半恒河沙等の諸仏の所において菩提心を発せば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいて、この大乗経典を聞きて誹謗を生ぜず。 もし一恒河沙等の仏の所において菩提心を発すことあれば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいて経を聞きて誹謗を起さず、深く愛楽を生ず。

もし二恒河沙等の仏の所において菩提心を発すことあれば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいてこの法を謗ぜず、正解し信楽し受持し読誦す。

もし三恒河沙等の仏の所において菩提心を発すことあれば、しかして後にすなはちよく悪世のなかにおいてこの法を謗ぜず、経巻を書写し、人のために説くといへども、いまだ深義を解らず〉」と。

なにをもつてのゆゑにかくのごとき教量を須ゐるとならば、今日坐下にして経を聞くものは、曾すでに発心して多仏を供養せることを彰さんがためなり。 また大乗経の威力不可思議なることを顕す。 このゆゑに『経』(涅槃経・意)にのたまはく、「もし衆生ありてこの経典を聞けば、億百千劫にも悪道に堕せず。 なにをもつてのゆゑに。 この妙経典の流布するところの処、まさに知るべし、その地はすなはちこれ金剛なり。 このなかの諸人また金剛のごとし」と。 ゆゑに知りぬ、経を聞きて信を生ずるものはみな不可思議の利益を獲るなり。

宗旨の不同

【6】 第四に次に諸経の宗旨の不同を弁ずとは、もし『涅槃経』によらば仏性を宗となす。 もし『維摩経』によらば不可思議解脱を宗となす。 もし「般若経」によらば空慧を宗となす。 もし『大集経』によらば陀羅尼を宗となす。 いまこの『観経』は観仏三昧をもつて宗となす。 もし所観を論ずれば依正二報に過ぎず。 下に諸観によりて弁ずるところのごとし。 もし『観仏三昧経』(意)によらばのたまはく、「仏、父の王に告げたまはく、〈諸仏の出世に三種の益あり。 一には口に十二部経を説きたまふ。 法施の利益なり。

よく衆生の無明の暗障を除き、智慧の眼を開きて諸仏の前に生じて早く無上菩提を得しむ。 二には諸仏如来に身相・光明、無量の妙好まします。 もし衆生ありて称念し観察すれば、もしは総相、もしは別相、仏身の現在・過去を問ふことなく、みなよく衆生の四重・五逆を除滅して永く三途に背き、意の所楽に随ひてつねに浄土に生じ、すなはち成仏に至る。

三には父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ〉と。 父の王、仏にまうさく、〈仏地の果徳、真如実相第一義空なり。 なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる〉と。

仏、父の王に告げたまはく、〈諸仏の果徳には無量深妙の境界・神通・解脱まします。 これ凡夫所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる〉と。 父の王、仏にまうさく、〈念仏の功その状いかん〉と。

仏、父の王に告げたまはく、〈伊蘭林の方四十由旬なるに、一科の牛頭栴檀あり。 根芽ありといへども、なほいまだ土を出でず。 その伊蘭林はただ臭くして香ばしきことなし。 もしその華菓を噉らふことあれば、狂を発して死す。 後の時に栴檀の根芽やうやく生長してわづかに樹とならんと欲するに、香気昌盛にしてつひによくこの林を改変して、あまねくみな香美ならしむ。 衆生見るものみな希有の心を生ずるがごとし〉と。 仏、父の王に告げたまはく、〈一切衆生生死のなかにありて念仏の心もまたかくのごとし。 ただよく念を繋けて止まざれば、さだめて仏前に生ず。 一たび往生を得れば、すなはちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ずること、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし〉」と。

いふところの「伊蘭林」とは、衆生の身のうちの三毒・三障、無辺の重罪に喩ふ。 「栴檀」といふは、衆生の念仏の心に喩ふ。 「わづかに樹とならんと欲す」とは、いはく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば、業道成弁するなりと。

 問ひていはく、一切衆生の念仏の功を計りてまた一切に応じて知るべし。 なにによりてか一念の力よく一切の諸障を断つこと、一の香樹の四十由旬の伊蘭林を改めてことごとく香美ならしむるがごとくなるや。

答へていはく、諸部の大乗によりて念仏三昧の功能の不可思議なることを顕さん。 なんとなれば、『華厳経』(意)にのたまふがごとし。 「たとへば人ありて獅子の筋を用ゐて、もつて琴の絃となして、音声一たび奏するに、一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。 もし人菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障ことごとくみな断滅す。 また人ありて牛・羊・驢馬、一切のもろもろの乳を搆り取りて一器のなかに置くに、もし獅子の乳一渧を持ちてこれを投ぐるに、ただちに過ぎて難りなし。 一切の諸乳ことごとくみな破壊して、変じて清水となるがごとし。 もし人ただよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障ただちに過ぎて難りなし」と。 またかの『経』(華厳経・意)にのたまはく、「たとへば人ありて翳身薬を持ちて処々に遊行するに、一切の余人この人を見ざるがごとし。

もしよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪神、一切の諸障この人を見ず。 所詣の処に随ひてよく遮障することなし。 なんがゆゑぞよくしかるとならば、この念仏三昧はすなはちこれ一切の三昧のなかの王なるがゆゑなり」と。

三身三土

【7】 第七に略して三身三土の義を明かすとは、問ひていはく、いま現在の阿弥陀仏はこれいづれの身ぞ、極楽の国はこれいづれの土ぞ。

答へていはく、現在の弥陀はこれ報仏、極楽宝荘厳国はこれ報土なり。 しかるに古旧あひ伝へて、みな阿弥陀仏はこれ化身、土もまたこれ化土なりといへり。 これを大失となす。 もししからば、穢土もまた化身の所居、浄土もまた化身の所居ならば、いぶかし、如来の報身はさらにいづれの土によるや。

いま『大乗同性経』によりて報化・浄穢を弁定せば、『経』(同・意)にのたまはく、「浄土のなかに仏となりたまへるはことごとくこれ報身なり、穢土のなかに仏となりたまへるはことごとくこれ化身なり」と。 かの『経』(大乗同性経・意)にのたまはく、「阿弥陀如来・蓮華開敷星王如来・竜主如来・宝徳如来等のもろもろの如来、清浄の仏刹にして現にを得たまへるもの、まさに道を得たまふべきもの、かくのごとき一切はみなこれ報身の仏なり。

何者か如来の化身。 なほ今日の踊歩如来・魔恐怖如来のごとき、かくのごとき等の一切の如来の、穢濁世のなかにして現に仏となりたまへるもの、まさに仏となりたまふべきもののごとし。 兜率より下り、乃至一切の正法・一切の像法・一切の末法を住持す。 かくのごとき化事みなこれ化身の仏なり。

何者か如来の法身。 如来の真法身とは、色なく形なく、現なく着なく、見るべからず、言説なく、住処なく、生なく滅なし。 これを真法身の義と名づく」と。

 問ひていはく、如来の報身は常住なり。 いかんぞ『観音授記経』(意)に、「阿弥陀仏入涅槃の後、観世音菩薩次いで仏処を補す」とのたまふや。

答へていはく、これはこれ報身、隠没の相を示現す。 滅度にはあらず。 かの『経』(同・意)にのたまはく、「阿弥陀仏入涅槃の後、また深厚善根の衆生ありて、還りて見ること故のごとし」と。 すなはちその証なり。 また『宝性論』(意)にいはく、

「報身に五種の相まします。説法とおよび可見と、
諸業の休息せざると、および休息隠没と、
不実体を示現するとなり」と。すなはちその証なり。

 問ひていはく、釈迦如来の報身・報土はいづれの方にかましますや。

答へていはく、『涅槃経』(意)にのたまはく、「西方ここを去ること四十二恒河沙の仏土に世界あり、名づけて無勝といふ。 かの土のあらゆる荘厳また西方極楽世界のごとし。 等しくして異なることあることなし。 われかの土において世に出現す。 衆生を化せんがためのゆゑに、来りてこの娑婆国土にあり。 ただわれのみこの土に出づるにあらず、一切の如来もまたかくのごとし」と。 すなはちその証なり。

 問ひていはく、『鼓音経』(意)にのたまはく、「阿弥陀仏に父母あり」と。 あきらかに知りぬ、これ報仏・報土にあらずや。

答へていはく、なんぢはただ名を聞きて経の旨を究め尋ねずしてこの疑を致す。 これを毫毛に錯りてこれを千里に失すといふべし。 しかれども阿弥陀仏また三身を具へたまへり。 極楽に出現したまふはすなはちこれ報身なり。 いま父母ありといふは、これ穢土のなかに示現したまへる化身の父母なり。 また釈迦如来、浄土のなかにしてその報仏を成じ、この方に応来して父母ありと示してその化仏を成じたまふがごとし。 阿弥陀仏もまたかくのごとし。

また『鼓音声経』(意)にのたまふがごとし。 「その時阿弥陀仏、声聞衆と倶なり。 国を清泰と号く。 聖王の所住なり。 その城は縦広十千由旬なり。 阿弥陀仏の父はこれ転輪聖王なり。 王を月上と名づけ、母を殊勝妙顔と名づく。 魔王を無勝と名づけ、仏子を月明と名づけ、提婆達多を寂と名づけ、給侍の弟子を無垢称と名づく」と。 また上来に引くところはならびにこれ化身の相なり。

もしこれ浄土ならば、あに輪王および城・女人等あらんや。 これすなはち文義炳然なり、なんぞ分別を待たんや。 みなよく尋ね究めずして、名に迷ひて執を生ぜしむることを致す。

 問ひていはく、もし報身に隠没休息の相ましまさば、また浄土に成壊の事あるべきや。

答へていはく、かくのごとき難は、古よりいまに将りて義また通じがたし。 しかりといへども、いまあへて経を引きて証となさん。 義また知るべし。 たとへば仏身は常住なれども、衆生涅槃ありと見るがごとし。 浄土もまたしかなり。 体は成壊にあらざれども、衆生の所見に随ひて成あり壊あり。 『華厳経』にのたまふがごとし。

「なほ導師に種々無量の色を見るがごとく、
衆生の心行に随ひて、仏刹を見ることもまたしかなり」と。

このゆゑに『浄土論』にいはく、

一質成ぜざるがゆゑに、浄穢虧盈あり。
異質成ぜざるがゆゑに、原を捜ればすなはち冥一なり
無質成ぜざるがゆゑに、縁起すればすなはち万形なり」と。

ゆゑに知りぬ、もし法性の浄土によらばすなはち清濁を論ぜず、もし報化の大悲によらばすなはち浄穢なきにあらず。 また汎く仏土を明かして機感の不同に対するに、その三種の差別あり。 一にはより報を垂るるを名づけて報土となす。 なほ日光の四天下を照らすがごとし。 法身は日のごとく、報化は光のごとし。 二には無而忽有なる、これを名づけて化となす。

すなはち『四分律』(意)にのたまふがごとし。 「定光如来提婆城を化して、抜提城とあひ近くして、ともに親婚をなして往来す。 後の時に忽然と火を化して焼却す。 もろもろの衆生をしてこの無常を覩しめて、厭を生じて仏道に帰向せしめざるはなし」と。

このゆゑに『経』(維摩経・意)にのたまはく、

「あるいは劫火の焼きて、天地みな洞然たるを現じ、
衆生の常想あるものをして、あきらかに無常を知らしめ、
あるいは貧乏を済はんがために、現に無尽蔵を立てて、
縁に随ひて広く開導して、菩提心を発さしむ」と。

三には穢を隠し浄を顕す。 『維摩経』(意)のごとし。

「仏、足の指をもつて地を按じたまふに、三千の刹土厳浄ならざるはなし」と。 いまこの無量寿国は、すなはちこれより報を垂るる国なり。 なにをもつてか知ることを得る。

『観音授記経』(意)によるにのたまはく、「未来に観音成仏して阿弥陀仏の処に替りたまふ」と。 ゆゑに知りぬ、これ報なり。

凡聖通往

【8】 第八に弥陀の浄国は位上下を該ね、凡聖通じて往くことを明かすとは、いまこの無量寿国はこれその報の浄土なり。

仏願によるがゆゑにすなはち上下を該通して、凡夫の善をしてならびに往生を得しむることを致す。 上を該ぬるによるがゆゑに、天親・龍樹および上地の菩薩またみな生ず。 このゆゑに『大経』(下・意)にのたまはく、「弥勒菩薩、仏に問ひたてまつる。 〈いまだ知らず、この界にいくばくの不退の菩薩ありてか、かの国に生ずることを得る〉と。 仏のたまはく、〈この娑婆世界に六十七億の不退の菩薩ありて、みなまさに往生すべし〉」と。 もし広く引かんと欲せば、余方もみなしかなり。

 問ひていはく、弥陀の浄国すでに位上下を該ね、凡聖を問ふことなくみな通じて往くといはば、いまだ知らず、ただ無相を修して生ずることを得や、はた凡夫の有相もまた生ずることを得や。

答へていはく、凡夫は智浅くして多く相によりて求むるに、決して往生を得。 しかるに相善は力微なるをもつて、ただ相土に生じてただ報化の仏を覩る。 このゆゑに『観仏三昧経』の「菩薩本行品」(意)にのたまはく、「文殊師利、仏にまうしてまうさく、〈まさに知るべし、われ過去無量劫数に凡夫たりし時を念ふに、かの世に仏ましましき、宝威徳上王如来と名づく。 かの仏出でたまひし時、いまと異なることなし。

かの仏また長丈六、身紫金色にして三乗の法を説きたまふこと釈迦文のごとし。 その時かの国に大長者あり、一切施と名づく。 長者に子あり、名づけて戒護といふ。 子母胎にありし時、母敬信をもつてのゆゑにあらかじめその子のために三帰依を受く。 子すでに生じをはりて年八歳に至るに、父母、仏を家に請じて供養したてまつる。 童子、仏を見たてまつりて、仏のために礼をなす。 仏を敬ふ心重くして、目しばらくも捨てず。

一たび仏を見たてまつるがゆゑに、すなはち百万億那由他劫の生死の罪を除却することを得。 これより以後つねに浄土に生じてすなはち百億那由他恒河沙の仏に値遇したてまつることを得たり。 このもろもろの世尊また相好をもつて衆生を度脱したまふ。 その時童子、一々に親しく侍へて、あひだに空しく欠くることなし。 礼拝し供養し合掌して仏を観たてまつる。 因縁力をもつてのゆゑに、また百万阿僧祇の仏に値遇したてまつることを得。 かの諸仏等もまた色身相好をもつて衆生を化度したまふ。

これより以後すなはち百千億の念仏三昧門を得、また阿僧祇の陀羅尼門を得たり。 すでにこれを得をはりて、諸仏現前してすなはちために無相の法を説きたまふ。 須臾のあひだに首楞厳三昧を得。 時にかの童子ただ三帰を受けて一たび仏を礼するがゆゑに、あきらかに仏身を観じて心に疲厭なし。 この因縁によりて無数の仏に値ふ。 いかにいはんや念を繋けて具足し思惟して仏の色身を観ぜんをや。 時にかの童子あに異人ならんや。 これわが身なり〉と。

その時世尊、文殊を讃めてのたまはく、〈善きかな善きかな、なんぢ一たび仏を礼するをもつてのゆゑに、無数の諸仏に値ふことを得たり。 いかにいはんや未来のわがもろもろの弟子、ねんごろに仏を観ずるもの、ねんごろに仏を念ずるものをや〉と。 仏、阿難に勅したまはく、〈なんぢ文殊師利の語を持ちて、あまねく大衆および未来世の衆生に告げよ。 もしはよく仏を礼するもの、もしはよく仏を念ずるもの、もしはよく仏を観ずるものは、まさに知るべし、この人は文殊師利と等しくして異なることあることなし。 捨身して、他世に、文殊師利等のもろもろの菩薩、その和上となる〉」と。 この文をもつて証す。

ゆゑに知りぬ、浄土は相土に該通せり、往生すること謬らず。 もし無相離念を体となすと知りて、しかも縁のなかに往くことを求むるものは、多くは上輩の生なるべし。 このゆゑに天親菩薩の『論』(論註・下意)にいはく、「もしよく二十九種の荘厳清浄を観ずれば、すなはち略して一法句に入る。

一法句とはいはく、清浄句なり。 清浄句とはすなはちこれ智慧無為法身なるがゆゑなり。 なんがゆゑぞすべからく広略相入すべきとならば、ただ諸仏・菩薩に二種の法身まします。 一には法性法身、二には方便法身なり。 法性法身によるがゆゑに方便法身を生ず。 方便法身によるがゆゑに法性法身を顕出す。 この二種の法身は異にして分つべからず。 一にして同ずべからず。 このゆゑに広略相入す。

菩薩もし広略相入を知らざれば、すなはち自利利他することあたはざるなり。 無為法身とはすなはち法性身なり。 法性寂滅なるがゆゑに、すなはち法身は無相なり。 法身無相なるがゆゑに、すなはちよく相ならざるはなし。 このゆゑに相好荘厳すなはちこれ法身なり。 法身は無知なるがゆゑに、すなはちよく知らざるはなし。 このゆゑに一切種智はすなはちこれ真実の智慧なり。 縁につきて総別二句を観ずることを知るといへども、実相にあらざるはなし。 実相を知るをもつてのゆゑに、すなはち三界の衆生の虚妄の相を知る。 三界の衆生の虚妄を知るをもつてのゆゑに、すなはち真実の慈悲を起す。 真実の慈悲を知るをもつてのゆゑに、すなはち真実の帰依を起す」と。 いまの行者緇素を問ふことなく、ただよく生・無生を知りて二諦に違せざるものは、多く上輩の生に落在すべし。

三界の摂と不摂

【9】 第九に弥陀の浄国の三界の摂と不摂とを明かすとは、

問ひていはく、安楽国土は三界のなかにおいて、いづれの界の所摂ぞ。

答へていはく、浄土は勝妙にして体世間を出でたり。 この三界はすなはちこれ生死の凡夫の闇宅なり。 また苦楽少しき殊にし、修短異なることありといへども、すべてこれを観ずるに有漏の長津にあらざるはなし。 倚伏相乗して循環無際なり。 雑生の触受四倒長く溝はる。 かつは因かつは果、虚偽相習せり。 深く厭ふべし。

このゆゑに浄土は三界の摂にあらず。 また『智度論』(意)によるにいはく、「浄土の果報は欲なきがゆゑに欲界にあらず、地居のゆゑに色界にあらず、形色あるがゆゑに無色界にあらず、地居といふといへども精勝妙絶なり」と。 このゆゑに天親の『論』(浄土論)にいはく、

「かの世界の相を観ずるに、三界の道に勝過せり。
究竟して虚空のごとく、広大にして辺際なし」と。

このゆゑに『大経の讃』にいはく(讃阿弥陀仏偈)、

「妙土広大にして数限を超ゆ。自然の七宝をもつて合成するところなり。
仏の本願力より荘厳起る。清浄大摂受を稽首したてまつる。
世界光耀すること妙にして殊絶す。適悦晏安として四時なし。
自利利他の力円満したまふ。方便巧荘厳を帰命したてまつる」と。

第二大門

菩提心義

【10】 第二大門のなかに三番の料簡あり。 第一に発菩提心を明かし、第二に異見邪執を破し、第三に広く問答を施して、疑情を釈去す。

【11】 初めの発菩提心につきて、うちに四番あり。 一には菩提心の功用を出し、二には菩提の名体を出し、三には発心異なることあることを顕し、四には問答解釈す。

 第一に菩提心の功用を出すとは、『大経』にのたまはく

「おほよそ浄土に往生せんと欲せば、かならずすべからく菩提心を発すを源となすべし」と。 いかんとなれば、「菩提」といふはすなはちこれ無上仏道の名なり。 もし心を発し仏に作らんと欲すれば、この心広大にして法界に遍周せり。 この心究竟して等しきこと虚空のごとし。 この心長遠にして未来際を尽す。 この心あまねくつぶさに二乗の障を離る。 もしよく一たびこの心を発せば、無始生死の有輪を傾く。

あらゆる功徳を菩提に回向すれば、みなよく遠く仏果に詣るまで失滅あることなし。 たとへば華を五浄に寄すれば風日にも萎まず、水を霊河に附すれば世旱にも竭くることなきがごとし。

 第二に菩提の名体を出すとは、しかるに菩提に三種あり。 一には法身の菩提、二には報身の菩提、三には化身の菩提なり。 法身の菩提といふは、いはゆる真如実相第一義空なり。 自性清浄にして、体穢染なし。 理、天真に出でて修成を仮らざるを名づけて法身となす。 仏道の体本を名づけて菩提といふ。 報身の菩提といふは、つぶさに万行を修してよく報仏の果を感ず。 果の因に酬ゆるをもつて名づけて報身といふ。 円通無礙なるを名づけて菩提といふ。 化身の菩提といふは、いはく、報よりを起して、よく万機に趣くを名づけて化身となす。 益物円通するを名づけて菩提といふ。

 第三に発心に異なることあることを顕すとは、いまいはく、行者因を修し心を発すにその三種を具せり。 一には、かならずすべからく有無もとよりこのかた自性清浄なりと識達すべし。 二には、万行を縁修す。 八万四千の諸波羅蜜門等なり。 三には、大慈悲を本となしてつねに運度せんと擬するを懐となす。 この三因はよく大菩提と相応す。 ゆゑに発菩提心と名づく。 また『浄土論』(論註・下意)によるにいはく、「いま発菩提心といふは、まさしくこれ願作仏心なり。 願作仏心とは、すなはちこれ度衆生心なり。 度衆生心とは、すなはち衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。 いますでに浄土に生ぜんと願ず。 ゆゑに先づすべからく菩提心を発すべし」と。

 第四に問答解釈すとは、

問ひていはく、もしつぶさに万行を修してよく菩提を感じ成仏を得といはば、なんがゆゑぞ『諸法無行経』に、

「もし人菩提を求めば、すなはち菩提あることなし。
この人菩提を遠ざかること、なほ天と地とのごとし」とのたまへるや。

答へていはく、菩提の正体は、理求むるに無相なり。 いま相をなして求む。 理実に当らず。 ゆゑに人遠ざかると名づく。

このゆゑに経にのたまはく、「菩提は心をもつて得べからず、身をもつて得べからず」と。 いまいはく、行者修行して往きて求むるを知るといへども、了々に理体求むることなきことを識知して、なほ仮名を壊せず。 このゆゑにつぶさに万行を修す。 ゆゑによく感ず。 このゆゑに『大智度論』にいはく

「もし人般若を見るも、これすなはち縛せられたりとなす。
もし般若を見ざるも、これまた縛せられたりとなす。
もし人般若を見るも、これすなはち解脱となす。
もし般若を見ざるも、これまた解脱となす」と。

龍樹菩薩の釈にいはく、「このなかに四句を離れざるをとなし、四句を離るるをとなす」と。

いま菩提を体るに、ただよくかくのごとく修行すれば、すなはちこれ不行にして行なり。 不行にして行なれば、二諦の大道理に違せず。 また天親の『浄土論』(論註・下意)によるにいはく、「おほよそ発心して無上菩提に会せんと欲せば、その二義あり。 一には、先づすべからく三種の菩提門と相違する法を離るべし。 二には、すべからく三種の菩提門に順ずる法を知るべし。 なんらをか三となす。 一には智慧門によりて自楽を求めず。 我心をもつて自身に貪着することを遠離するがゆゑなり。 二には慈悲門によりて一切衆生の苦を抜く。 衆生を安んずることなき心を遠離するがゆゑなり。 三には方便門によりて一切衆生を憐愍する心なり。 自身を恭敬し供養する心を遠離するがゆゑなり。 これを三種の菩提門相違の法を遠離すと名づく。

菩提門に順ずるとは、菩薩はかくのごとき三種の菩提門相違の法を遠離して、すなはち三種の菩提門に随順する法を得。 なんらをか三となす。

一には無染清浄心なり。 自身のために諸楽を求めざるがゆゑなり。 菩提はこれ無染清浄の処なり。 もし自身のために楽を求むれば、すなはち菩提門に違せり。 このゆゑに無染清浄心はこれ菩提門に順ずるなり。

二には安清浄心なり。 一切衆生の苦を抜かんがためのゆゑなり。 菩提は一切衆生を安穏にする清浄処なり。 もし心をなして、一切衆生を抜きて生死の苦を離れしめざれば、すなはち菩提に違す。 このゆゑに一切衆生の苦を抜くはこれ菩提門に順ずるなり。

三には楽清浄心なり。 一切衆生をして大菩提を得しめんと欲するがゆゑなり。 衆生を摂取してかの国土に生ぜしむるがゆゑなり。 菩提はこれ畢竟常楽の処なり。

もし一切衆生をして畢竟常楽を得しめざれば、すなはち菩提門に違す。 この畢竟常楽はなにによりてか得る。 かならず大義門による。 大義門といふは、いはく、かの安楽仏国これなり。 ゆゑに一心に専至してかの国に生ぜんと願ぜしむ。 早く無上菩提に会せしめんと欲すればなり」と。

破異見邪執

【12】 第二に異見邪執を破することを明かすとは、なかにつきてその九番あり。 第一には大乗の無相を妄計する異見偏執を破す。 第二には菩薩の愛見の大悲会通す。 第三には心外に法なしと繋するを破す。 第四には穢国に生ぜんと願じて、浄土に往生せんと願ぜざるを破す。 第五にはもし浄土に生ずれば、多く喜びて楽に着すといふを破す。 第六には浄土に生ぜんと求むるは非なり、これ小乗なりといふを破す。 第七には兜率に生ぜんと求めて、浄土に帰せざれと勧むるを破す。 第八にはもし十方の浄土に生ぜんと求めんよりは、西に帰するにしかずといふを会通す。 第九には別時意を料簡す。

【13】 第一に大乗無相の妄執を破すとは、なかにつきて二あり。 一には総生起なり。

後代の学者をしてあきらかに是非を識りて邪を去り正に向かはしめんと欲す。 第二には広く繋情につきて正を顕してこれを破す。 一に総生起とは、しかるに大乗の深蔵は名義塵沙なり。

このゆゑに『涅槃経』(意)にのたまはく、「一名に無量の義あり、一義に無量の名あり」と。 かならずすべからくあまねく衆典を審らかにして、まさに部旨を暁むべし。 小乗と俗書との文を案じて義を畢るがごときにあらず。 なんの意かすべからくしかるべき。 ただ浄土は幽廓にして経論隠顕す。 凡情をして種々に図度せしむることを致す。 おそらくは諂語刁々に渉りて、百盲偏執し雑乱無知にして往生を妨礙することを。 いましばらく少状を挙げて一々これを破せん。

 第一に大乗の無相を妄計するを破すとは、問ひていはく、あるいは人ありていはく、「大乗は無相なり、彼此を念ずることなかれ。 もし浄土に生ぜんと願ずれば、すなはちこれ取相なり、うたたを増す。 なにをもつてかこれを求むる」と。 答へていはく、かくのごときはまさに謂ふにしからず。 なんとなれば、一切諸仏の説法はかならず二縁を具す。 一には法性の実理による。 二にはすべからくその二諦に順ずべし。 かれは、大乗は無念なり、ただ法性によると計して、しかも縁求を謗り無みす。 すなはちこれ二諦に順ぜず。 かくのごとき見は、滅空の所収に堕す。

このゆゑに『無上依経』(意)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈一切の衆生もし我見を起すこと須弥山のごとくならんも、われ懼れざるところなり。 なにをもつてのゆゑに。 この人はいまだすなはち出離を得ずといへども、つねに因果を壊せず、果報を失はざるがゆゑなり。 もし空見を起すこと芥子のごとくなるも、われすなはち許さず。 なにをもつてのゆゑに。 この見は因果を破り喪ひて多く悪道に堕す。 未来の生処かならずわが化に背く〉」と。 いま行者に勧む。 理、無生なりといへども、しかも二諦の道理縁求なきにあらざれば、一切往生を得。

このゆゑに『維摩経』(意)にのたまはく、

「諸仏の国とおよび衆生とは、空なりと観ずといへども、
しかもつねに浄土を修して、もろもろの群生を教化す」と。

またかの『経』(維摩経)にのたまはく、「無作を行ずといへども受身を現ず。 これ菩薩の行なり。 無起を行ずといへども、一切の善行を起す。 これ菩薩の行なり」と。 これその真証なり。

 問ひていはく、いま世間に人ありて、大乗の無相を行じてまた彼此を存ぜず、まつたく戒相を護らず。 この事いかん。

答へていはく、かくのごとき計は害をなすことますますはなはだし。 なんとなれば、『大方等経』(意)にのたまふがごとし。 「仏、優婆塞のために戒を制す。 〈寡婦・処女の家、沽酒家・藍染家・押油家・熟皮家に至ることを得ざれ、ことごとく往来することを得ざれ〉と。 阿難、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんらの人のためにか、かくのごとき戒を制したまふ〉と。 仏、阿難に告げたまはく、〈行者に二種あり。 一には在世人の行、二には出世人の行なり。 出世人には、われ上の事を制せず。 在世人には、われいまこれを制す。 なにをもつてのゆゑに。

一切衆生はことごとくこれわが子なり。 仏はこれ一切衆生の父母なり。 遮制約勒すれば、早く世間を出でて涅槃を得るがゆゑなり〉」と。

【14】 第二に菩薩の愛見の大悲会通すとは、

問ひていはく、大乗の聖教によるに、「菩薩もろもろの衆生において、もし愛見の大悲を起さばすなはち捨離すべし」と。 いま衆生を勧めてともに浄土に生ぜしむるは、あに愛染取相にあらずや。 いかんぞその塵累を勉れんや。

答へていはく、菩薩の行法功用に二あり。 なんとなれば、一には空慧般若を証る。 二には大悲を具す。 一には空慧般若を修する力をもつてのゆゑに、六道生死に入るといへども、塵染のために繋がれず。 二には大悲をもつて衆生を念ずるがゆゑに涅槃に住せず。

菩薩、二諦に処すといへども、つねによく妙に有無を捨て、取捨、を得て大道理に違せず。 このゆゑに『維摩経』にのたまはく、「たとへば人ありて空地において宮舎を造立せんと欲せば、意に随ひて礙なきも、もし虚空においてはつひに成ずることあたはざるがごとし。 菩薩もまたかくのごとし。 衆生を成就せんと欲するがためのゆゑに仏国を取らんと願ず。 仏国を取らんと願ずるは、空においてするにはあらず」と。

【15】 第三に心外に法なしと繋するを破すとは、なかにつきて二あり。 一には計情を破し、二には問答解釈す。

 問ひていはく、あるいは人ありていはく、「所観の浄境は内心に約就すれば浄土融通す。 心浄ければすなはち是なり。 心外に法なし。 なんぞ西に入るを須ゐんや」と。

答へていはく、ただ法性の浄土は、理、虚融に処し、体、偏局なし。 これすなはち無生の生にして、上士のみ入るに堪へたり。 このゆゑに『無字宝篋経』(意)にのたまはく、「善男子また一法あり、これ仏の覚るところなり。 いはゆる諸法は不去不来・無因無縁・無生無滅・無思無不思・無増無減なり。 仏、羅睺羅に告げてのたまはく、〈なんぢいまわがこの所説の正法義を受持すやいなや〉と。 その時十方に九億の菩薩ありて、すなはち仏にまうしてまうさく、〈われらみなよくこの法門を持して、まさに衆生のために流通して絶えざらしむべし〉と。

世尊答へてのたまはく、〈これを善男子等すなはち両肩に菩提を荷担すとなす。 かの人すなはち不断弁才を得、よく清浄なる諸仏の世界を得。 命終の時にすなはち現に阿弥陀仏、もろもろの聖衆とその人の前に住したまふを見たてまつることを得て往生を得〉」と。 おのづから中・下の輩あり。 いまだを破することあたはざれども、かならず信仏の因縁によりて浄土に生ぜんと求む。 かの国に至るといへども、還りて相土に居す。 またいはく、もし縁を摂して本に従へば、すなはちこれ心外に法なし。 もし二諦を分ちて義を明かさば、浄土はこれ心外の法なることを妨ぐることなし。

 二に問答解釈すとは、問ひていはく、向に「無生の生はただ上士のみよく入る、中・下は堪へず」といふは、はたただちに人をもつて法に約してかくのごとき判をなすや、はたまた聖教ありて来し証すや。 答へていはく、『智度論』(意)によるにいはく、「新発意の菩薩機解軟弱にして発心すといふといへども、多く浄土に生ぜんと願ず。 なんの意ぞしかるとならば、たとへば嬰児のもし父母の恩養に近づかざれば、あるいは坑に堕ち井に落ち火蛇等の難あり、あるいは乳に乏しくして死す。 かならず父母の摩洗養育するを仮りて、まさに長大してよく家業を紹継すべきがごとし。 菩薩もまたしかなり。

もしよく菩提心を発して、多く浄土に生ぜんと願ずれば、諸仏に親近したてまつりて法身を増長し、まさによく菩薩の家業を匡紹し十方に済運す。 この益のためのゆゑに多く生ぜんと願ず」と。 またかの『論』(同・意)にいはく、「たとへば鳥子の翅翮いまだならざるをば、逼めて高く翔けしむべからず。 先づすべからく林によりて樹を伝はしむべし。 羽成り力ありてまさに林を捨て空に遊ぶべきがごとし。 新発意の菩薩もまたしかなり。 先づすべからく願に乗じて仏前に生ずることを求め、法身成長して感に随ひて益に赴くべし。 また阿難、仏にまうしてまうさく、〈この無相の波羅蜜は、いづれの処にありてか説きたまふ〉と。 仏のたまはく、〈かくのごとき法門は、阿毘跋致地のなかにありて説く。 なにをもつてのゆゑに。 新発意の菩薩ありてこの無相波羅蜜門を聞かば、あらゆる清浄の善根ことごとくまさに滅没すべし〉」と。 またただかの国に至りぬれば、すなはち一切の事畢りぬ。 なにをもつてかこの深浅の理を諍はんや。

【16】 第四に穢土に生ぜんと願じて、浄土に生ぜんと願ぜざるを破すとは、

問ひていはく、あるいは人ありていはく、「穢国に生じて衆生を教化せんと願じて浄土に往生することを願ぜず」と。 この事いかん。

答へていはく、これ人にまた一の徒あり。 何者ぞ。 もし身不退に居して以去なれば、雑悪の衆生を化せんがためのゆゑに、よく染に処すれども染せず、悪に逢へども変ぜず。 鵝鴨の水に入れども、水の湿すことあたはざるがごとし。 かくのごとき人等よく穢に処して苦を抜くに堪へたり。 もしこれ実の凡夫ならば、ただおそらくは自行いまだ立たず、苦に逢はばすなはち変じ、かれを済はんと欲せばあひともに没しなん。 鶏を逼めて水に入らしむるがごとし。 あによく湿はざらんや。

このゆゑに『智度論』(意)にいはく、「もし凡夫発心してすなはち穢土にありて衆生を抜済せんと願ずるをば、聖意許したまはず」と。 なんの意ぞしかるとならば、龍樹菩薩釈していはく(同・意)、「たとへば四十里の氷に、もし一人ありて一升の熱湯をもつてこれを投ずれば、当時は少しき減ずるに似如たれども、もし夜を経て明に至れば、すなはち余のものよりも高きがごとし。

凡夫ここにありて発心して苦を救ふも、またかくのごとし。 貪瞋の境界違順多きをもつてのゆゑに、みづから煩悩を起して、返りて悪道に堕するがゆゑなり」と。

【17】 第五にもし浄土に生ずれば、多く喜びて楽に着すといふを破すとは、

問ひていはく、あるいは人ありていはく、「浄土のなかにはただ楽事のみありて、多く喜びて楽に着して修道を妨廃す。 なんぞ往生を願ずるを須ゐんや」と。

答へていはく、すでに浄土といふ、衆穢あることなし。 もし楽に着すといはば、すなはちこれ貪愛の煩悩なり。 なんぞ名づけて浄となさん。 このゆゑに『大経』(上・意)にのたまはく、「かの国の人天は、往来進止、情に繋くるところなし」と。 また四十八願にのたまはく(同・上意)、「十方の人天、わが国に来至して、もし想念を起して身を貪計せば、正覚を取らじ」(第十願)と。 『大経』(下・意)にまたのたまはく、「かの国の人天適莫するところなし」と。 なんぞ着楽の理あらんや。

【18】 第六に浄土に生ぜんと求むるは非なり、これ小乗なりといふを破すとは、問ひていはく、あるいは人ありていはく、「浄土に生ぜんと求むるはすなはちこれ小乗なり。 なんぞこれを修するを須ゐんや」と。 答へていはく、これまたしからず。 なにをもつてのゆゑに。 ただ小乗の教には一向に浄土に生ずることを明かさざるがゆゑなり。

【19】 第七に兜率に生ぜんと願ずることと、浄土に帰するを勧むることとを会通すとは、

問ひていはく、あるいは人ありていはく、「兜率に生ぜんと願じて、西に帰することを願ぜず」と。 この事いかん。

答へていはく、この義類せず。 少分は同じきに似たれども、体によれば大きに別なり。 その四種あり。 なんとなれば、一には弥勒世尊、その天衆のために不退の法輪を転ず。 法を聞きて信を生ずるものは益を獲。 名づけて信同となす。 楽に着して信なきもの、その数一にあらず。

また兜率に生ずといへども、位これ退処なり。 このゆゑに『経』(法華経)にのたまはく、「三界は安きことなし、なほ火宅のごとし」と。 二には兜率に往生してまさに寿命を得ること四千歳なり。 命終の後退落を免れず。 三には兜率天上には水・鳥・樹林和鳴哀雅なることありといへども、ただ諸天の生楽のために縁たり。 五欲に順ひて聖道を資けず。 もし弥陀浄国に向かはば、一たび生ずることを得るものはことごとくこれ阿毘跋致なり。 さらに退人のそれと雑居するものなし。

また位はこれ無漏にして、三界に出過してまた輪廻せず。 その寿命を論ずれば、すなはち仏(阿弥陀仏)と斉し。 算数のよく知るところにあらず。

それ水・鳥・樹林ありてみなよく法を説き、人をして悟解して無生を証会せしむ。 四には『大経』によりて、しばらく一種の音楽をもつて比校せば、『経の讃』にいはく(讃阿弥陀仏偈)、

「世の帝王より六天に至るまで、音楽うたた妙にして八重あり。
展転して前に勝るること億万倍、宝樹の音の麗しきこと倍してまたしかなり。
また自然の妙なる伎楽あり。法音清和にして心神を悦ばしめ、
哀婉雅亮にして十方に超ゆ。このゆゑに清浄勲を稽首したてまつる」と。

【20】 第八に十方の浄土に生ぜんと願ぜんよりは、西方に帰するにしかずといふを校量すとは、

問ひていはく、あるいは人ありていはく、「十方浄国に生ぜんと願じて、西方に帰せんと願ぜず」と。 この義いかん。

答へていはく、この義類せず。 なかに三あり。 なんとなれば、一には十方仏国も不浄となすにはあらず。 しかるに境寛ければすなはち心昧く、境狭ければすなはち意もつぱらなり。 このゆゑに『十方随願往生経』(意)にのたまはく、「普広菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、十方の仏土みな厳浄なりとなす、なんがゆゑぞ諸経のなかにひとへに西方阿弥陀国を歎じて往生を勧めたまふ〉と。 仏、普広菩薩に告げたまはく、〈一切衆生濁乱のものは多く、正念のものは少なし。 衆生をして専志あることをあらしめんと欲す。

このゆゑにかの国を讃歎すること別異となすのみ。 もしよく願によりて修行すれば、益を獲ざるはなし〉」と。 二には十方の浄土みなこれ浄にして深浅知りがたしといへども、弥陀の浄国はすなはちこれ浄土の初門なり。 なにをもつてか知ることを得る。

『華厳経』(意)によるにのたまはく、「娑婆世界の一劫は極楽世界の一日一夜に当る。 極楽世界の一劫は袈裟幢世界の一日一夜に当る。 かくのごとく優劣あひ望むるに、すなはち十阿僧祇あり」と。 ゆゑに知りぬ、浄土の初門となすなり。 このゆゑに諸仏ひとへに勧めたまふ。 余方の仏国はすべてかくのごとく丁寧ならず。 このゆゑに有信の徒は多く往生を願ず。 三には弥陀の浄国はすでにこれ浄土の初門なり。 娑婆世界はすなはち穢土の末処なり。 なにをもつてか知ることを得る。

『正法念経』(意)にのたまふがごとし。 「ここより東北に一世界あり、名づけて斯訶といふ。 土田にただ三角の沙石のみあり。 一年に三たび雨る。 一雨の湿潤すること五寸を過ぎず。 その土の衆生、ただ菓子を食し樹皮を衣となし、生を求むるに得ず、死を求むるに得ず。 また一世界あり。 一切の虎狼・禽獣、乃至蛇蝎ことごとくみな翅ありて飛行す。 逢ふものあひ噉らふ。 善悪を簡ばず」と。

これあに穢土の始処と名づけざらんや。 しかるに娑婆の依報はすなはち賢聖と流を同じくす。 ただこれすなはちこれ穢土の終処なり。 安楽世界はすでにこれ浄土の初門なり。 すなはちこの方と境次いであひ接せり。 往生はなはだ便なり。 なんぞ去かざらんや。

料簡別時意

【21】 第九に『摂論』とこの『経』(観経)と相違するによりて、別時意の語を料簡すとは、いま『観経』(意)のなかに、仏、「下品生の人現に重罪を造るも、命終の時に臨みて善知識に遇ひて十念成就してすなはち往生を得」と説きたまふ。

『摂論』にいふによるに、「仏の別時意の語なり」といふ。 また古来通論の家多くこの文を判じていはく、「臨終の十念はただ往生の因となることを得るも、いまだすなはち生ずることを得ず。

なにをもつてか知ることを得るとならば、『論』(摂大乗論釈・意)にいはく、〈一の金銭をもつて千の金銭を貿ひ得るは、一日にすなはち得るにはあらざるがごとし〉と。 ゆゑに知りぬ、十念成就は、ただ因となることを得るも、いまだすなはち生ずることを得ず。 ゆゑに別時意の語と名づく」と。

かくのごとき解はまさにいまだしからずとなす。 なんとなれば、おほよそ菩薩の、論を作りて経を釈することは、みな遠く仏意を扶けて聖情に契会せんと欲してなり。 もし論文の経に違することあらば、この処あることなからん。 いま別時意の語を解せば、いはく、仏の常途の説法はみな先因後果を明かす。 理数炳然なり。

いまこの『経』(観経)のなかには、ただ一生罪を造りて、命終の時に臨みて十念成就してすなはち往生を得と説きて、過去の有因無因を論ぜざるは、ただこれ世尊当来の造悪の徒を引接して、その臨終に悪を捨て善に帰し、念に乗じて往生せしめんとなり。 ここをもつてその宿因を隠す。

これはこれ世尊始めを隠して終りを顕し、因を没して果を談ずるを名づけて別時意の語となす。 なにをもつてかただ十念成就するは、みな過去の因ありと知ることを得る。 『涅槃経』(意)にのたまふがごとし。 「もし人過去にすでにかつて半恒河沙の諸仏を供養し、またすでに発心し、しかうしてよく悪世のなかにおいて大乗の経教を説くを聞けば、ただよく謗らざるのみ、いまだ余の功あらず。 もしすでに一恒河沙の諸仏を供養し、およびすでに発心して、しかる後に大乗の経教を聞けば、ただ謗らざるのみにあらず、また愛楽を加ふ」と。

この諸経をもつて来験するに、あきらかに知りぬ、十念成就するものはみな過因ありて虚しからず。 もしかの過去に因なきものは、善知識にすらなほ逢遇ふべからず、いかにいはんや十念して成就すべけんや。 『論』(摂大乗論釈)に、「一の金銭をもつて千の金銭を貿ひ得るは一日にすなはち得るにはあらず」といふは、もし仏意によれば、衆生をして多く善因を積みてすなはち念に乗じて往生せしめんと欲す。 もし論主(無着)に望むれば過因を関づるに乗ず、理また爽ふことなし。 もしこの解をなさば、すなはち上は仏経に順ひ、下は論の意に合はん。 すなはちこれ経・論あひ扶けて往生の路通ず。 また疑惑することなかれ。

広施問答

【22】 第三に広く問答を施して、疑情を釈去することを明かすとは、自下は『大智度論』につきて広く問答を施す。

 問ひていはく、ただ一切衆生曠大劫よりこのかた、つぶさに有漏の業を造りて三界に繋属せり。 いかんが三界の繋業を断ぜずして、ただしばらく、阿弥陀仏を念じてすなはち往生を得て、すなはち三界を出づるといはば、この繋業の義またいかんせんと欲する。

答へていはく、二種の解釈あり。 一には法につきて来し破す。 二には喩へを借りてもつて顕す。

法につくといふは、諸仏如来に不思議智大乗広智無等無倫最上勝智まします。 不思議智力とは、よく少をもつて多となし、多をもつて少となす。 近をもつて遠となし、遠をもつて近となす。 軽をもつて重となし、重をもつて軽となす。 かくのごとき等の智ありて無量無辺不可思議なり。 自下は第二に七番あり。 ならびに喩へを借りてもつて顕す。

第一にはたとへば百夫、百年薪を聚めて積むこと高さ千刃ならんに、豆ばかりの火をもつて焚くに、半日にすなはち尽くるがごとし。 あに百年の薪半日に尽きずといふことを得べけんや。

第二にはたとへば癖者他の船に寄載すれば、風帆の勢ひによりて一日に千里に至るがごとし。 あに癖者いかんぞ一日に千里に至らんといふことを得べけんや。

第三にはまた下賤の貧人一の瑞物を獲て、もつて王に貢ぐに、王得るところを慶びてもろもろの重賞を加ふれば、しばらくのあひだに富貴望みを盈つるがごとし。 あに数十年仕へてつぶさに辛勤を尽せども、上なほ達せずして帰るものあるをもつて、かの富貴をいひてこの事なしといふことを得べけんや。

第四にはなほ劣夫己身の力をもつてに擲りて上らざれども、もし輪王の行に従へば、すなはち虚空に乗じて飛騰自在なるがごとし。 あに劣夫の力をもつてかならず虚空に昇ることあたはずといふことを得べけんや。

第五にはまた十囲の索は千夫も制せざれども、童子剣を揮へば儵爾として両分するがごとし。 あに童子の力、索を断つことあたはずといふことを得べけんや。

第六にはまた鴆鳥水に入れば魚蚌ここに斃れてみな死し、犀角泥に触るれば死せるもの還りて活くるがごとし。 あに生命一たび断ゆれば、生くべからずといふことを得べけんや。

第七にはまた黄鵠「子安子安」と喚ぶに、子還りて活くるがごとし。 あに墳下の千齢決して蘇るべきことなしといふことを得べけんや。 一切の万法はみな自力・他力、自摂・他摂ありて、千開万閉無量無辺なり。 なんぢあに有礙の識をもつて、かの無礙の法を疑ふことを得んや。

また五の不思議のなかに、仏法もつとも不可思議なり。 なんぢ三界の繋業をもつて重しとなし、かの少時の念仏を疑ひて軽しとなして、安楽国に往生して正定聚に入ることを得ずといふはこの事しからず。

 問ひていはく、大乗経にのたまはく、「業道は秤のごとし、重き処先づ牽く」と。 いかんが衆生一形よりこのかた、あるいは百年、あるいは十年、すなはち今日に至るまで、悪として造らざるはなし。 いかんが臨終に善知識に遇ひて十念相続してすなはち往生を得ん。 もししからば、「先牽」の義なにをもつてか信を取る。

答へていはく、なんぢ一形の悪業を重しとなして、下品の人の十念の善をもつて、もつて軽しとなすといはば、いままさに義をもつて軽重の義を校量せん。 まさしく心に在り、縁に在り、決定に在り、時節の久近・多少には在らざることを明かす。 いかんが「心に在る」とは、いはく、かの人罪を造る時は、みづから虚妄顛倒の心に依止して生ず。 この十念は、善知識の、方便安慰して実相の法を聞かしむるによりて生ず。 一は実、一は虚、あにあひ比ぶることを得んや。

なんとなれば、たとへば千歳の闇室に光もししばらくも至れば、すなはち明朗なるがごとし。 闇あに室にあること千歳なるをもつて、去らずといふことを得べけんや。 このゆゑに『遺日摩尼宝経』(意)にのたまはく、「仏、迦葉菩薩に告げたまはく、〈衆生また数千巨億万劫、愛欲のなかにありて、罪のために覆はるといへども、もし仏経を聞きてひとたび善を念ずれば、罪すなはち消尽す〉」と。 これを心に在ると名づく。

二にはいかんが「縁に在る」とは、いはく、かの人罪を造る時は、みづから妄想に依止し、煩悩果報の衆生によりて生ず。 いまこの十念は、無上の信心に依止し、阿弥陀如来の真実清浄無量功徳の名号によりて生ず。 たとへば人ありて毒の箭を被るに、中るところ、筋を徹し骨を破る。 もし滅除薬の鼓の声を聞けば、すなはち箭出で毒除こるがごとし。 あにかの箭深く毒はげしくして鼓の音声を聞けども、箭を抜き毒を去ることあたはずといふことを得べけんや。 これを縁に在ると名づく。

三にはいかんが「決定に在る」とは、かの人罪を造る時は、みづから有後心有間心に依止して生ず。 いまこの十念は無後心・無間心に依止して起る。 これを決定となす。

また『智度論』(意)にいはく、「一切衆生臨終の時、刀風形を解き、死苦来り逼むるに、大怖畏を生ず。 このゆゑに善知識に遇ひて大勇猛を発して、心々相続して十念すれば、すなはちこれ増上の善根なるをもつてすなはち往生を得。 また人ありて敵に対して陣を破るに、一形の力一時にことごとく用ゐるがごとし。 その十念の善もまたかくのごとし。 またもし人臨終の時、一念の邪見、増上の悪心を生ずれば、すなはちよく三界の福を傾けてすなはち悪道に入る」と。

 問ひていはく、すでに終りに垂んとするに十念の善よく一生の悪業を傾けて浄土に生ずることを得といはば、いまだ知らず、いくばくの時をか十念となすや。

答へていはく、経に説きてのたまふがごとし。 百一の生滅、一刹那を成ず。 六十の刹那、もつて一念となす。 これ経論によりて汎く念を解す。 いまの時は念を解するにこの時節を取らず。 ただ阿弥陀仏の、もしは総相、もしは別相を憶念して、所縁に随ひて観じ、十念を経るに、他の念想間雑することなし。 これを十念と名づく。

また十念相続といふは、これ聖者の一の数の名なるのみ。 ただよく念を積み思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道をして成弁せしめてすなはち罷みぬ。 用ゐざれ。 またいまだ労はしくこれが頭数を記せず。 またいはく、もし久行の人の念は多くこれによるべし、もし始行の人の念は数を記するもまた好し。 これまた聖教によるなり。

 また問ひていはく、いま勧めによりて念仏三昧を行ぜんと欲す。 いまだ知らず、計念の相状はなににか似たる。

答へていはく、たとへば人ありて空曠のはるかなる処において、怨賊の刀を抜き勇を奮ひてただちに来りて殺さんと欲するに値遇す。 この人ただちに走るに、一の河を度らんとするを視る。 いまだ河に到るに及ばざるに、すなはちこの念をなす。

「われ河の岸に至らば、衣を脱ぎて渡るとやせん、衣を着て浮ぶとやせん。 もし衣を脱ぎて渡らば、ただおそらくは暇なからん。 もし衣を着て浮ばば、またおそらくは首領全くしがたからん」と。

その時、ただ一心に河を渡る方便をなすことのみありて、余の心想間雑することなきがごとし。 行者もまたしかなり。

阿弥陀仏を念ずる時、またかの人の渡ることのみを念じて、念々あひ次いで余の心想間雑することなきがごとし。 あるいは仏の法身を念じ、あるいは仏の神力を念じ、あるいは仏の智慧を念じ、あるいは仏の毫相を念じ、あるいは仏の相好を念じ、あるいは仏の本願を念ず。 名を称することもまたしかなり。 ただよく専至に相続して断えざれば、さだめて仏前に生ず。

いま後代の学者を勧む。 もしその二諦を会せんと欲せば、ただ念々不可得なりと知るはすなはちこれ智慧門にして、よく繋念相続して断えざるはすなはちこれ功徳門なり。 このゆゑに『経』(維摩経・意)にのたまはく、「菩薩摩訶薩つねに功徳・智慧をもつて、もつてその心を修す」と。 もし始学のものは、いまだを破することあたはず、ただよく相によりて専至せば、往生せざるはなし。 疑ふべからず。

 また問ひていはく、『無量寿大経』(上)にのたまはく、「十方の衆生、心を至し信楽して、わが国に生ぜんと欲して、すなはち十念に至るまでせん。 もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。 いま世人ありて、この聖教を聞きて現在の一形まつたく意をなさず、臨終の時に擬してまさに修念せんと欲す。 この事いかん。

答へていはく、この事類せず。 なんとなれば、経に十念相続とのたまふは、難からざるに似若たり。 しかれどももろもろの凡夫の心は野馬のごとく、識は猿猴よりも劇し。 六塵に馳騁して、なんぞかつて停息せん。 おのおのすべからくよろしく信心を発して、あらかじめみづから剋念し、積習してを成じ、善根をして堅固ならしむべし。

仏、大王に告げたまふがごとし。 「人善行を積めば、死するとき悪念なし。 樹の先より傾けるは倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし」(大智度論・意)と。 もし刀風一たび至れば、百苦身に湊る。 もし習先よりあらずは、懐念なんぞ弁ずべけんや。 おのおのよろしく同志三五あらかじめ言要を結び、命終の時に臨みてたがひにあひ開暁して、ために弥陀の名号を称して安楽国に生ぜんと願じ、声々あひ次いで十念を成ぜしむべし。 たとへば蝋印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。 ここに命断ゆる時は、すなはちこれ安楽国に生ずる時なり。 一たび正定聚に入れば、さらになんの憂ふるところかあらん。 おのおのよろしくこの大利を量るべし。 なんぞあらかじめ剋念せざらんや。

 また問ひていはく、もろもろの大乗経論にみな、「一切衆生は畢竟無生にしてなほ虚空のごとし」といへり。 いかんぞ天親・龍樹菩薩みな往生を願ずるや。

答へていはく、「衆生は畢竟無生にして虚空のごとし」といふは、二種の義あり。 一には凡夫人の所見のごときは、実の衆生、実の生死等なり。 もし菩薩によらば、往生は畢竟じて虚空のごとく兎角のごとし。 二にはいま「生」といふはこれ因縁生なり。 因縁生なるがゆゑにすなはちこれ仮名の生なり。 仮名の生なるがゆゑにすなはちこれ無生なり。 大道理に違せず。 凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらず。

 また問ひていはく、それ生は有の本たり、すなはちこれ衆累の元なり。 もしこの過を知りて生を捨て無生を求めば、脱るる期あるべし。 いますでに浄土に生ずることを勧む。 すなはちこれ生を棄てて生を求む。 生なんぞ尽くべけんや。

答へていはく、しかるにかの浄土は、すなはちこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。 三有の衆生の愛染虚妄の執着の生のごときにはあらず。 なにをもつてのゆゑに。 それ法性清浄にして畢竟無生なればなり。 しかるに生といふは得生のものの情なるのみと。

 また問ひていはく、上にいふところのごとく、生は無生なりと知るは、まさに上品生のものなるべし。 もししからば下品生の人の十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。 もし実の生ならば、すなはち二疑に堕す。 一にはおそらくは往生を得ず。 二にはいはく、この相善、無生のために因となることあたはず。

答へていはく、釈するに三番あり。 一にはたとへば浄摩尼珠、これを濁水に置けば、珠の威力をもつて水すなはち澄清なるがごとし。 もし人無量生死の罪濁ありといへども、もし阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きてこれを濁心に投ずれば、念々のうちに罪滅し心浄くして即便往生す。 二には浄摩尼珠を玄黄の帛をもつて裹みてこれを水に投ずれば、水すなはち玄黄にしてもつぱら物の色のごとくなるがごとし。 かの清浄仏土に、阿弥陀如来の無上宝珠の名号まします。 無量の功徳成就の帛をもつて裹みてこれを往生するところのものの心水のうちに投ずるに、あに生を転じて無生の智となすことあたはざらんや。 三にはまた氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷液く、氷液くればすなはち火滅するがごとし。 かの下品往生の人は法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなし、かの土に生ぜんと願じて、すでに無生の界に至る時に見生の火自然に滅す。

 また問ひていはく、なんの身によるがゆゑに往生を説くや。

答へていはく、この間の仮名人のなかにおいて、もろもろの行門を修すれば、前念は後念のために因となる。 穢土の仮名人と浄土の仮名人と決定して一なることを得ず、決定して異なることを得ず。 前心後心もまたかくのごとし。 なにをもつてのゆゑに。 もし決定して一ならばすなはち因果なからん。 もし決定して異ならばすなはち相続にあらず。 この義をもつてのゆゑに、横竪別なりといへども、始終これ一の行者なり。

 また問ひていはく、もし人ただよく仏の名号を称へてよくもろもろの障を除かば、もししからば、たとへば人ありて指をもつて月を指すがごとし。 この指よく闇を破すべきや。

答へていはく、諸法万差なり。 一概すべからず。 なんとなれば、おのづから名の法に即するあり、おのづから名の法に異するあり。 名の法に即するありとは、諸仏・菩薩の名号、禁呪の音辞、修多羅の章句等のごときこれなり。 禁呪の辞に、「日出東方乍赤乍黄」といはんに、たとひ酉亥に禁を行ずるも、患へるものまた愈ゆるがごとし。 また人ありて狗の所噛を被らんに、虎の骨を炙りてこれを熨せば、患へるものすなはち愈ゆ。 あるいは時に骨なければ、よく掌を獺げてこれを磨り、口のなかに喚びて「虎来虎来」といはんに、患へるものまた愈ゆるがごとし。 あるいはまた人ありて脚転筋を患はんに、木瓜の枝を炙りてこれを熨せば、患へるものすなはち愈ゆ。 あるいは木瓜なければ、手を炙りてこれを磨りて、口に「木瓜木瓜」と喚べば、患へるものまた愈ゆ。 わが身にその効を得たり。

なにをもつてのゆゑに。 名の法に即するをもつてのゆゑなり。 名の法に異するありとは、指をもつて月を指すがごときこれなり。

三不三信

 また問ひていはく、もし人ただ弥陀の名号を称念すれば、よく十方の衆生の無明の黒闇を除きて往生を得といはば、しかるに衆生ありて名を称し憶念すれども、無明なほありて所願を満てざるはなんの意ぞ。

答へていはく、如実修行せず、名義と相応せざるによるがゆゑなり。 所以はいかん。 いはく、如来はこれ実相身、これ為物身なりと知らず。

また三種の不相応あり。 一には信心淳からず、存ぜるがごとく亡ぜるがごとくなるがゆゑなり。 二には信心一ならず、いはく、決定なきがゆゑなり。 三には信心相続せず、いはく、余念間つるがゆゑなり。 たがひにあひ収摂す。

もしよく相続すればすなはちこれ一心なり。 ただよく一心なれば、すなはちこれ淳心なり。 この三心を具してもし生ぜずといはば、この処あることなからん。

第三大門

難易二道

【23】 第三大門のなかに四番の料簡あり。 第一には難行道・易行道を弁ず。 第二には時劫の大小不同を明かす。 第三には無始世劫よりこのかた、この三界・五道に処して、善悪二業に乗じて苦楽の両報を受け、輪廻無窮にして生を受くること無数なることを明かす。 第四には聖教をもつて証成して、後代を勧めて信を生じ往くことを求めしむ。

【24】 第一に難行道・易行道を弁ずとは、なかに二あり。 一には二種の道を出し、二には問答解釈す。 余(道綽)すでにみづから火界に居して、実に想ふに怖れを懐けり。 仰ぎておもんみれば、大聖(釈尊)三車をもつて招慰し、しばらく羊鹿の運は権の息にしていまだ達せず。 仏、邪執は上求菩提を障ふと訶したまふ。 たとひ後に回向するも、なほ迂回と名づく。 もしただちに大車に挙るも、またこれ一途なり。 ただおそらくは現に退位に居して嶮径はるかに長きことを。 自徳いまだ立たず。 昇進すべきこと難し。

このゆゑに樹菩薩いはく、「阿毘跋致を求むるに二種の道あり。 一には難行道、二には易行道なり。 〈難行道〉といふは、いはく、五濁の世、無仏の時にありて阿毘跋致を求むるを難となす。 この難にすなはち多途あり。 略して述ぶるに五あり。 なんとなれば、一には外道の相善菩薩の法を乱る。 二には声聞は自利にして大慈悲を障ふ。 三には無顧の悪人は他の勝徳を破る。 四にはあらゆる人天の顛倒の善果は、人の梵行を壊つ。 五にはただ自力のみありて他力の持つなし。 かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。 たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。 ゆゑに難行道といふ。

〈易行道〉といふは、いはく、信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願じて、心を起し徳を立て、もろもろの行業を修すれば、仏願力のゆゑに即便往生す。 仏力住持するをもつてすなはち大乗正定の聚に入る。 正定聚とはすなはちこれ阿毘跋致不退の位なり。 たとへば水路に船に乗ずればすなはち楽しきがごとし。 ゆゑに易行道と名づく」と。

 問ひていはく、菩提はこれ一なり。 修因また不二なるべし。 なんがゆゑぞ、ここにありて因を修して仏果に向かふを名づけて難行となし、浄土に往生して大菩提を期するをすなはち易行道と名づくるや。

答へていはく、もろもろの大乗経に弁ずるところの一切の行法に、みな自力・他力、自摂・他摂あり。 何者か自力。 たとへば人ありて生死を怖畏して、発心出家して定を修し、を発して四天下に遊ぶがごときを名づけて自力となす。 何者か他力。 劣夫ありて己身の力に信せてに擲りて上らざれども、もし輪王に従へばすなはち空に乗じて四天下に遊ぶがごとし。 すなはち輪王の威力のゆゑに他力と名づく。 衆生もまたしかなり。

ここにありて心を起し行を立て浄土に生ぜんと願ずるは、これはこれ自力なり。 命終の時に臨みて、阿弥陀如来光台迎接して、つひに往生を得るをすなはち他力となす。 ゆゑに『大経』(上・意)にのたまはく、「十方の人天、わが国に生ぜんと欲するものはみな阿弥陀如来の大願業力をもつて増上縁となさざるはなし」と。 もしかくのごとくならずは、四十八願すなはちこれ徒設ならん。 後学のものに語る。 すでに他力の乗ずべきあり。 みづからおのが分を局り、いたづらに火宅にあることを得ざれ。

劫の大小

【25】 第二に劫の大小を明かすとは、『智度論』(意)にいふがごとし。 「劫に三種あり。

いはく一には小、二には中、三には大なり。 方四十里のごとき城あり、高下もまたしかなり。 なかに芥子を満てて、長寿の諸天ありて三年に一を去り、すなはち芥子尽くるに至るを一小劫と名づく。 あるいは八十里の城あり、高下もまたしかなり。 芥子をなかに満てて、前のごとく取り尽すを一中劫と名づく。 あるいは百二十里の城あり、高下もまたしかなり。 芥子をなかに満てて取り尽すこと、もつぱら前の説に同じきをまさに大劫と名づく。 あるいは八十里の石あり、高下もまたしかなり。 一の長寿の諸天ありて、三年に天衣をもつて一たび払ふ。 天衣の重さ三銖なり。 払ふことをなすこと已まず、この石すなはち尽くるを名づけて中劫となす。 その小石・大石前の中劫に類す、知るべし」と。 労はしくつぶさに述べず。

輪廻無窮

【26】 第三門のなかに五番あり。 第一に無始劫よりこのかたここにありて、輪廻無窮にして身を受くること無数なることを明かすとは、『智度論』(意)にいふがごとし。 「人中にありて、あるいは張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。 かくのごとく閻浮提の界を尽して、あるいはかさねて生じ、あるいは異家に生ず。 あるいは南閻浮提に死して西拘耶尼に生ず。

閻浮提のごとく余の三天下もまたかくのごとし。 四天下に死して四天王天に生ずることもまたかくのごとし。 あるいは四天王天に死して忉利天に生ず。 忉利天に死して余の上四天に生ずることもまたかくのごとし。 色界に十八重天あり、無色界に四重天あり。 ここに死してかしこに生ず。 一々にみなあまねきことまたかくのごとし。 あるいは色界に死して阿鼻地獄に生ず。 阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。 軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。 畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。 餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。 かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。

胎生すでにしかなり。 余の三生もまたかくのごとし」と。 このゆゑに『正法念経』(意)にのたまはく、「菩薩化生してもろもろの天衆に告げていはく、

〈おほよそ人この百千生を経て、楽に着し放逸にして道を修せず。
往福やうやく已り尽き、還りて三塗に堕して衆苦を受くることを覚らず〉」と。

このゆゑに『涅槃経』にのたまはく、

「この身は苦の集まるところなり。一切みな不浄なり。
扼縛癰瘡等の根本にして、義利あることなし。
上諸天の身に至るまで、みなまたかくのごとし」と。

このゆゑにまたかの『経』(同・意)にのたまはく、「勧めて不放逸を修せしむ。 なにをもつてのゆゑに。 それ放逸はこれ衆悪の本なり。 不放逸はすなはちこれ衆善の源なり。 日月光の諸明のなかに最なるがごとし。 不放逸の法もまたかくのごとし。 もろもろの善法においては最となし上となす。

また須弥山王の、もろもろの山のなかにおいて最となし上となすがごとし。 不放逸の法もまたかくのごとし。 もろもろの善法のなかにおいて最となし上となす。 なにをもつてのゆゑに。 一切の悪法は放逸より生ず。 一切の善法は不放逸を本となす」と。

 第二に問ひていはく、無始劫よりこのかた六道に輪廻して無際なりといふといへども、いまだ知らず、一劫のうちにいくばくの身数を受くるを流転といふや。

答へていはく、『涅槃経』(意)に説きたまふがごとし。 「三千大千世界の草木を取りて、截りて四寸のとなして、もつて一劫のうちに受くるところの身の父母の頭数を数へんに、なほおのづから澌きず」と。 あるいはのたまはく(同・意)、「一劫のうちに飲むところの母の乳は四大海水よりも多し」と。 あるいはのたまはく(同・意)、「一劫のうちに積むところの身骨は毘富羅山のごとし」と。 かくのごとく遠劫よりこのかた、いたづらに生死を受くること今日に至りて、なほ凡夫の身となる。 なんぞかつて思量して傷歎して已まざらんや。

 第三にまた問ひていはく、すでに曠大劫よりこのかた身を受くることを無数といふは、はたただちに総じて説きて、人をして厭を生ぜしむるや、はたまた経文ありて来し証するや。

答へていはく、みなこれ聖教の明文あり。 なんとなれば、『法華経』(意)にのたまふがごとし。 「過去不可説の久遠大劫に仏の出世まします。 大通智勝如来と号したまふ。 十六の王子あり。 おのおの法座に昇りて衆生を教化す。

一々の王子おのおの六百万億那由他恒河沙の衆生を教化せり」と。 その仏の滅度よりこのかた、至極久遠なり。 なほ数へ知るべからず。 なんとなれば、『経』(法華経・意)にのたまはく、「総じて三千大千世界の大地を取りて、磨りてもつて墨となす。 仏のたまはく、〈この人千の国土を過ぎてすなはち一点を下さん。 大きさ微塵のごとし。 かくのごとく展転して、地種の墨を尽す〉と。 仏のたまはく、〈この人の経るところの国土、もし点ずると点ぜざると、ことごとく末きて塵となし、一塵を一劫とするに、かの仏の滅度よりこのかた、またこの数に過ぎたり〉と。 今日の衆生は、すなはちこれかの時の十六王子の座下にして、かつて教法を受けたり」と。 このゆゑに『経』(同)にのたまはく、「この本因縁をもつて、ために『法華経』を説きたまふ」と。

『涅槃経』(意)にまたのたまはく、「一はこれ王子、一はこれ貧人、かくのごとき二人たがひにあひ往反す」と。 「王子」といふは今日の釈迦如来、すなはちこれかの時の第十六王子なり。 「貧人」といふは今日の衆生等これなり。

 第四に問ひていはく、これらの衆生はすでに流転多劫なりといふ。 しかるに三界のなかには、いづれの趣にか身を受くること多しとなす。

答へていはく、流転すといふといへども、しかも三悪道のなかにおいて身を受くることひとへに多し。

『経』(十住断結経・意)に説きてのたまふがごとし。 「虚空のなかにおいて方円八肘を量り取りて、地より色究竟天に至る。 この量内においてあらゆる可見の衆生は、すなはち三千大千世界の人天の身よりも多し」と。 ゆゑに知りぬ、悪道の身多し。

なんがゆゑぞかくのごとしとならば、ただ悪法は起しやすく、善心は生じがたきがゆゑなり。 いまの時ただ現在の衆生を看るに、もし富貴を得れば、ただ放逸・破戒を事とす。 天のなかにはすなはちまた楽に着するもの多し。 このゆゑに『経』(五苦章句経・意)にのたまはく、「衆生は等しくこれ流転してつねに三悪道を常の家となす。 人天にはしばらく来りてすなはち去る。 名づけて客舎となすがゆゑなり」と。 『大荘厳論』(意)によるに、「一切衆生に勧む、つねにすべからく繋念現前すべし」と。 偈(同)にいはく、

「盛年にして患なき時は、懈怠にして精進せず。
もろもろの事務を貪営してとを修せず。
死のために呑まれんとするに臨みて、まさに悔いて善を修することを求む。
智者は観察して、五欲の想を除断すべし。
精勤習心のものは、終時に悔恨なし。
心意すでに専至なれば、錯乱の念あることなし。
智者はねんごろに心を投ずれば、臨終に意散ぜず。
習心専至ならざれば、臨終にかならず散乱す。
心もし散乱する時は、馬を調するにを用ゐるがごとくせよ。
もしそれ闘戦の時には、回旋してただちに行かず」と。

聖浄二門判

 第五にまた問ひていはく、一切衆生みな仏性あり。 遠劫よりこのかた多仏に値ひたてまつるべし。 なにによりてかいまに至るまで、なほみづから生死に輪廻して火宅を出でざる。

答へていはく、大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。

その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。

このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。

このゆゑに『大経』にのたまはく「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。

また一切衆生すべてみづから量らず。 もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。 もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、すなはち那含・羅漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。 たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。 しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり。 もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。 ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。 たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。 なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。

引証勧信

【27】 自下は第四に聖教を引きて証成して、信を勧め生を求めしむとは、『観仏三昧経』(意)によるにのたまはく、「その時に会のなかに財首菩薩ありて、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われ過去無量劫を念ふ時に、仏ましまして世に出でたまへり。 また釈迦牟尼仏と名づく。

かの仏の滅後に一の王子あり、名づけて金幢といふ。 驕慢・邪見にして正法を信ぜず。 知識の比丘あり、定自在と名づく。 王子に告げていはく、《世に仏の像あり、きはめて可愛なりとなす。 しばらく塔に入りて、仏の形像を観たてまつるべし》と。 時にかの王子、善友の語に従ひて塔に入りて像を観たてまつる。 像の相好を見て、比丘にまうさく、《仏像すら端厳なることなほかくのごとし、いはんや仏の真身をや》と。 比丘告げていはく、《王子、いま仏像を見て礼することあたはずは、まさに“南無仏”と称すべし》と。 宮に還りて、念を繋けて塔のなかの像を念ずるに、すなはち後夜に夢に仏像を見て、心大きに歓喜して邪見を捨離し、三宝に帰依す。

寿命終るに随ひて、前に塔に入りて仏を称する功徳によりて、すなはち九百億那由他の仏に値遇することを得、諸仏の所においてつねにねんごろに精進して、つねに甚深の念仏三昧を得たり。 念仏三昧の力のゆゑに、諸仏現前してみな授記を与ふ。 これよりこのかた百万阿僧祇劫に悪道に堕せず。 乃至今日首楞厳三昧を獲得せり。

その時の王子とは、いまわれ財首これなり〉と。 その時会中にすなはち十方のもろもろの大菩薩あり、その数無量なり。 おのおの本縁を説くに、みな念仏によりて得たり。

仏、阿難に告げたまはく、〈この観仏三昧は、これ一切衆生の犯罪のものの薬なり、破戒のものの護りなり、失道のものの導きなり、盲冥のものの眼なり、愚痴のものの慧なり、黒闇のものの灯なり、煩悩の賊のなかの大勇猛将なり、諸仏世尊の遊戯したまふところの首楞厳等の諸大三昧のはじめて出生するところなり〉と。 仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢいまよく持ちて、つつしみて忘失することなかれ。 過去・未来・現在の三世の諸仏、みなかくのごとき念仏三昧を説きたまふ。 われと十方の諸仏および賢劫の千仏とは、初発心よりみな念仏三昧の力によるがゆゑに一切種智を得たり〉」と。

また『目連所問経』のごとし。 「仏、目連に告げたまはく、〈たとへば万川の長流に浮べる草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。 世間もまたしかなり。 豪貴・富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。 ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となれども、さらにはなはだ困劇して、千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。 このゆゑにわれ説く、《無量寿仏国は往きやすく取りやすし。 しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。 われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。

経教すでにしかなり。 なんぞ難を捨てて易行道によらざらんや。


安楽集 巻上

安楽集

巻下

   安楽集 巻下               釈道綽撰

第四大門

念仏大徳所行

【28】 第四大門のなかに三番の料簡あり。 第一に中国(印度)の三蔵法師ならびに此土(中国)の大徳等みなともに聖教を詳審し、歎じて浄土に帰するにより、いまもつて勧めてよらしむ。 第二にこの『経』(観経)のおよび余の大乗諸部によるに、凡聖の修入多く念仏三昧を明かして、もつて要門となす。 第三に問答解釈して、念仏者の種々の功能利益を得ること不可思議なることを顕す。

【29】 第一に中国および此土の大徳の所行によるとは、余(道綽)は五翳にして面牆なり。 あにいづくんぞみづからたやすくせんや。 ただおもんみれば遊歴し披き勘ふるに、敬ふに師承あり。 なんとなれば、いはく、中国の大乗法師流支三蔵(菩提流支)あり。 次に大徳の名利呵避するあり、すなはち恵寵法師あり。 次に大徳の尋常に敷演するごとに聖僧の来聴を感ずるあり、すなはち道場法師あり。 次に大徳の光を和らげて孤り栖みて、二国(梁・魏)慕仰するあり、すなはち曇鸞法師あり。 次に大徳の禅観に独り秀でたるあり、すなはち大海禅師あり。 次に大徳の聡慧にして戒を守るあり、すなはち斉朝の上統あり。

しかるに前の六大徳は、ならびにこれ二諦の神鏡、これすなはち仏法の綱維なり。 志行、倫を殊にして古今に実に希なり。 みなともに大乗を詳審し、歎じて浄土に帰す。 すなはちこれ無上の要門なり。

 問ひていはく、すでに歎じて浄土に帰す、すなはちこれ要門なりといはば、いまだ知らず、これらの諸徳臨終の時、みな霊験ありやいなや。

答へていはく、みなあり、虚しからず。 曇鸞法師のごときは、康存の日つねに浄土を修す。

またつねに世俗の君子ありて、来りて法師を呵していはく、「十方仏国みな浄土たり、法師なんぞすなはち独り意を西に注むる。 あに偏見の生にあらずや」と。

法師対へていはく、「われすでに凡夫にして、智慧浅短なり。 いまだ地位に入らざれば、念力すべからく均しくすべけんや。 草を置きて牛を引くに、つねにすべからく心を槽櫪に繋ぐべきがごとし。 あにほしいままにして、まつたく帰するところなきことを得んや」と。

また難者紛紜たりといへども、法師独り決せり。 ここをもつて一切道俗を問ふことなく、ただ法師と一面あひ遇ふものは、もしいまだ正信を生ぜざるには、勧めて信を生ぜしめ、もしすでに正信を生ぜるものには、みな勧めて浄国に帰せしむ。 このゆゑに法師命終の時に臨みて、寺の傍らの左右の道俗、みな幡華の院に映ずるを見、ことごとく異香・音楽迎接して往生を遂げたまへるを聞く。 余の大徳命終の時に臨みて、みな徴祥あり。 もしつぶさに往生の相を談ぜんと欲せば、ならびに不可思議なり。

諸経所明念仏

【30】 第二に此彼の諸経に多く念仏三昧を明かして宗となすことを明かすとは、なかにつきて八番あり。 初めの二は一相三昧を明かし、後の六は縁につき相によりて念仏三昧を明かす。

 第一に『華首経』(意)によるに、「仏、堅意菩薩に告げたまはく、〈三昧に二種あり。 一には一相三昧あり、二には衆相三昧あり。 一相三昧とは、菩薩あり、その世界にその如来ましまして現にましまして法を説きたまふと聞き、菩薩この仏の相を取るに、もつて現じて前にまします。

もしは道場に坐し、もしは法輪を転じ、大衆囲繞す。 かくのごとき相を取る。 諸根を収摂して心馳散せず、もつぱら一仏を念じてこの縁を捨てず。 かくのごとき菩薩は、如来の相および世界の相において無相を了達し、つねにかくのごとく観じ、かくのごとく行じて、この縁を離れず。

この時に仏像すなはち現じて前にましまして、ために法を説きたまふ。 菩薩その時深く恭敬を生じて、この法を聴受し、もしは深、もしは浅、うたた尊重を加ふ。 菩薩この三昧に住して、諸法はみな可壊の相なりと説くを聞く。 聞きをはりて受持して、三昧より起ちてよく四衆のためにこの法を演説す〉と。 仏、堅意に告げたまはく、〈これを菩薩の一相三昧門に入ると名づく〉」と。

 第二に『文殊般若』(意)によりて一行三昧を明かさば、「時に文殊師利、仏にまうしてまうさく、〈世尊いかなるをか名づけて一行三昧となす〉と。 仏のたまはく、〈一行三昧とは、もし善男子・善女人空閑の処にありて、もろもろの乱意を捨て、仏の方所に随ひて端身正向にして、相貌を取らず、心を一仏に繋けてもつぱら名字を称して念ずること休息なくは、すなはちこの念のうちによく過・現・未来の三世の諸仏を見たてまつるべし。 なにをもつてのゆゑに。 一仏を念ずる功徳無量無辺にして、すなはち無量の諸仏の功徳と無二なればなり。 これを菩薩の一行三昧と名づく〉」と。

 第三に『涅槃経』によるに、仏のたまはく、「もし人ただよく心を至してつねに念仏三昧を修すれば、十方諸仏つねにこの人を見そなはすこと、現に前にましますがごとし」と。

このゆゑに『涅槃経』(意)にのたまはく、「仏、迦葉菩薩に告げたまはく、〈もし善男子・善女人ありてつねによく心を至しもつぱら念仏するものは、もしは山林にもあれ、もしは聚落にもあれ、もしは昼、もしは夜、もしは坐、もしは臥に、諸仏世尊つねにこの人を見そなはすこと、目の前に現ずるがごとし。 つねにこの人と住して施を受けたまふ〉」と。

 第四に『観経』および余の諸部によるに、所修の万行ただよく回願してみな生ぜざるはなし。 しかるに念仏の一門、もつて要路となす。 なんとなれば、聖教を審量するに始終の両益あればなり。 もし善を生じ行を起さんと欲すれば、すなはちあまねく諸度を該ぬ。 もし悪を滅して災を消すれば、すなはち総じて諸障を治す。 ゆゑに下に『経』(同・意)にのたまはく、「念仏の衆生を摂取して捨てたまはず、寿尽きてかならず生ず」と。 これを始益と名づく。 終益といふは、『観音授記経』(意)によるにのたまはく、「阿弥陀仏、世に住したまふこと長久にして兆載永劫なるも、また滅度したまふことあり。

般涅槃の時、ただ観音・勢至のみありて、安楽を住持して十方を接引したまふ。 その仏の滅度また住世の時節と等同なり。 しかるにかの国の衆生は一切、仏を覩見したてまつるものあることなし。 ただ一向にもつぱら阿弥陀仏を念じて往生するもののみありて、つねに弥陀現にましまして滅したまはざるを見る」と。 これすなはちこれその終時の益なり。 修するところの余行、回向してみな生ずるも、世尊の滅度に覩ると覩ざるとあり。 後代を勧めて審量して遠益に沾さしむ。

 第五に『般舟経』(意)によるにのたまはく、「時に跋陀和菩薩あり、この国土に阿弥陀仏ましますと聞きて、しばしば念を係く。 この念によるがゆゑに阿弥陀仏を見たてまつる。 すでに仏を見たてまつりをはりて、すなはち従ひて啓問すらく、〈まさにいかなる法を行じてか、かの国に生ずることを得べき〉と。 その時阿弥陀仏、この菩薩に語りてのたまはく、〈わが国に来生せんと欲せば、つねにわが名を念じて休息あることなかれ。 かくのごとくして、わが国土に来生することを得ん。 まさに仏身の三十二相ことごとくみな具足して、光明徹照し端正無比なるを念ずべし〉」と。

 第六に『大智度論』(意)によるに三番の解釈あり。 「第一に仏はこれ無上法王にして、菩薩は法臣たり。 尊ぶところ重くするところはただ仏世尊なり。 このゆゑにまさにつねに念仏すべし。 第二にもろもろの菩薩ありてみづからいはく、〈われ曠劫よりこのかた、世尊の長養を蒙ることを得たり。 われらが法身・智身大慈悲身、禅定・智慧、無量の行願、仏によりて成ずることを得たり。 報恩のためのゆゑに、つねに仏に近づかんと願ず。 また大臣、王の恩寵を蒙りて、つねにその主を念ふがごとし〉と。 第三にもろもろの菩薩ありてまたこの言をなさく、〈われ因地において、悪知識に遇ひて般若を誹謗して悪道に堕して、無量劫を経たり。 余行を修すといへども、いまだ出づることを得ることあたはず。 後に一時に善知識の辺によるに、われを教へて念仏三昧を行ぜしむ。 その時にすなはちよく諸障を併せ遣り、まさに解脱を得たり。 この大益あるがゆゑに、願じて仏を離れず〉」と。

 第七に『華厳経』によるにのたまはく、

「むしろ無量劫において、つぶさに一切の苦を受くとも、
つひに、如来に遠ざかりて自在力を覩たてまつらざることなからん」と。

またのたまはく(同)、

「念仏三昧はかならず仏を見たてまつり、命終の後に仏前に生ず。
かの臨終を見ては念仏を勧め、また尊像を示して瞻敬せしめよ」と。

また「善財童子、善知識を求めて功徳雲比丘の所に詣りてまうさく、〈大師いかんが菩薩の道を修して普賢の行に帰するや〉と。

この時比丘、善財に告げていはく、〈われ世尊の智慧海のなかにおいてただ一法を知る。 いはく念仏三昧門なり。 なんとなれば、この三昧門のなかにおいて、ことごとくよく一切の諸仏およびその眷属、厳浄の仏刹覩見して、よく衆生をして顛倒を遠離せしむ。 念仏三昧門は、微細の境界のなかにおいて一切の仏の自在の境界を見、諸劫の不顛倒を得。 念仏三昧門はよく一切の仏刹を起すに、よく壊するものなし。 あまねく諸仏を見たてまつりて、三世の不顛倒を得〉と。 時に功徳雲比丘、善財に告げていはく、〈仏法の深海は広大無辺なり。 わが知るところは、ただこの一の念仏三昧門を得たるのみ。 余の妙境界は数量に出過して、われいまだ知らざるところなり〉」(華厳経・意)と。

 第八に『海竜王経』(意)によるに、「時に海竜王、仏にまうしてまうさく、〈世尊、弟子、阿弥陀仏国に生ぜんと求む。 まさにいかなる行を修してか、かの土に生ずることを得べき〉と。 仏、竜王に告げたまはく、〈もしかの国に生ぜんと欲せば、まさに八法を行ずべし。 なんらをか八となす。 一にはつねに諸仏を念ず。 二には如来を供養す。 三には世尊を咨嗟す。 四には仏の形像を作りてもろもろの功徳を修す。 五には回して往生を願ず。 六には心怯弱ならず。 七には一心に精進す。 八には仏の正慧を求む〉と。 仏、竜王に告げたまはく、〈一切衆生この八法を具すれば、つねに仏を離れず〉」と。

 問ひていはく、八法を具せずとも、仏前に生じ仏を離れざることを得やいなや。

答へていはく、生ずることを得ること疑はず。 なにをもつてか知ることを得る。 仏、『宝雲経』を説きたまひし時のごとし。 また十行具足して浄土に生ずることを得て、つねに仏を離れざることを明かしたまへり。 「時に除蓋障菩薩ありて仏にまうさく、〈十行を具せずして生ずることを得やいなや〉と。 仏のたまはく、〈生ずることを得。 ただよく十行のなかに一行具足して闕くることなければ、余の九行もことごとく清浄と名づく。 疑を致すことなかれ〉」(意)と。

また『大樹緊陀羅王経』(意)にのたまはく、「菩薩は四種の法を行じてつねに仏前を離れず。 なんらをか四となす。 一にはみづから善法を修し兼ねて衆生を勧めて、みな往生して如来を見たてまつる意をなさしむ。 二にはみづから勧め他を勧めて正法を聞くことを楽はしむ。 三にはみづから勧め他を勧めて菩提心を発さしむ。 四には一向に志をもつぱらにして念仏三昧を行ず。 この四の行を具すれば、一切の生処つねに仏前にありて諸仏を離れず」と。 また『経』(大樹緊陀羅王経・意)にのたまはく、「仏、菩薩の行法を説きたまふに、三十二の器あり。 なんとなれば、布施はこれ大富の器、忍辱はこれ端正の器、持戒はこれ聖身の器、五逆不孝はこれ刀山・剣樹・钁湯の器、発菩提心はこれ成仏の器、つねによく念仏して浄土に往生するはこれ見仏の器なり」と。 略して六門を挙げて余は述べず。 聖教すでにしかり。 行者生ぜんと願ぜば、なんぞつねに念仏せざらんや。

また『月灯三昧経』によるにのたまはく、

「仏の相好および徳行を念じ、よく諸根をして乱動せざらしめ、
心に迷惑なく法と合して、聞くことを得れば、智を得ること大海のごとし。
智者この三昧に住して、念を摂して行ずれば、経行のところにおいて、
よく千億のもろもろの如来を見たてまつり、また無量恒沙の仏に値ひたてまつる」と。

念仏三昧利益

【31】 第三に問答解釈して、念仏三昧に種々の利益あることを顕すに、その五番あり。

 第一に問ひていはく、いまつねに念仏三昧を修すといはば、なほ余の三昧を行ぜざるや。

答へていはく、いま常念といへども、また余の三昧を行ぜずとはいはず。 ただ念仏三昧を行ずること多きがゆゑなり。 ゆゑに常念といふ。 まつたく余の三昧を行ぜずといふにはあらず。

 第二に問ひていはく、もしつねに念仏三昧を修することを勧めば、余の三昧とよく階降ありやいなや。

答へていはく、念仏三昧の勝相は不可思議なり。 これいかんが知る。

摩訶衍』のなかに説きていふがごとし。 「もろもろの余の三昧、三昧ならざるにはあらず。 なにをもつてのゆゑに。 あるいは三昧あり、ただよくを除きて瞋痴を除くことあたはず。 あるいは三昧あり、ただよく瞋を除きて痴貪を除くことあたはず。 あるいは三昧あり、ただよく痴を除きて貪瞋を除くことあたはず。 あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除きて過去・未来の一切諸障を除くことあたはず。 もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来を問ふことなく一切諸障ことごとくみな除こる」と。

 第三に問ひていはく、念仏三昧すでによく障を除き福を得ること功利大ならば、いぶかし、またよく行者を資益して年を延べ寿を益せしむやいなや。

答へていはく、かならず得るなり。 なんとなれば、『惟無三昧経』にのたまふがごとし。 「兄弟二人あり。 兄は因果を信ず。 弟は信心なし、しかもよく相法を解れり。 ちなみにその鏡のなかにみづから面上を見るに、死相すでに現じて七日を過ぐさじ。 時に智者ありて往きて仏に問はしむ。 仏時に報へてのたまはく、〈七日といふは虚ならず。 もしよく一心に念仏し戒を修せば、あるいは難を度することを得ん〉と。 すなはち教によりて繋念す。 時に六日に至りてすなはち二鬼あり、来りて耳にその念仏の声を聞きてつひによく前進むことなし。 還りて閻羅王に告ぐ。 閻羅王符を索む。 符すでに注していはく、〈持戒・念仏の功徳によりて第三炎天に生ず〉」と。

また『譬喩経』のなかに、「一の長者あり、罪福を信ぜず、年すでに五十、たちまちに夜夢に見らく、殺鬼符を索め来りて、これを取らんと欲して十日を過ぐさじと。 その人眠り覚めて惶怖することつねにあらず。 明に至りて相師を求覓めて夢を占はしむ。 師卦兆を作りていはく、〈殺鬼あり、かならずあひ害せんと欲す、十日を過ぐさじ〉と。 その人惶怖することつねに倍す。 仏に詣りて求請す。 仏時に報へてのたまはく、〈もしこれを攘はんと欲せば、いまより以去意をもつぱらにして念仏し、戒を持ち、香を焼き、灯を燃し、繒幡蓋を懸け、三宝を信向せば、この死を勉るべし〉と。 すなはちこの法によりて専心に信向す。 殺鬼、門に到りて功徳を修するを見、つひに害することあたはず。 鬼すなはち走げ去れり。 その人この功徳によりて寿百年を満てて、死して天に生ずることを得たり。 また一の長者あり、名づけて執持といふ。 戒を退して仏に還し、現に悪鬼のこれを打つを被る」と。

 第四に問ひていはく、この念仏三昧はただよく諸障を対治し、ただ世報のみを招くや、またよく遠く出世無上菩提を感ずやいなや。

答へていはく、得るなり。 なんとなれば、『華厳経』の「十地品」にのたまふがごとし。 始め初地よりすなはち十地に至るまで一々の地のなかにおいて、みな入地の加行道地満の功徳利已不住道とを説きをはりて、すなはちみな結してのたまはく、「このもろもろの菩薩余行を修すといへども、みな念仏・念法・念僧を離れず。 上妙の楽具をもつて三宝を供養す」(意)と。 この文証をもつて知ることを得。 もろもろの菩薩等、すなはち上地に至るまで、つねに念仏・念法・念僧を学して、まさによく無量の行願を成就して功徳海を満つ。 いかにいはんや二乗・凡夫、浄土に生ぜんと求めて念仏を学せざらんや。 なにをもつてのゆゑに。 この念仏三昧はすなはち一切の四摂・六度を具する通の行通の伴なるがゆゑなり。

 第五に問ひていはく、初地以上の菩薩は、仏と同じく真如の理を証するをもつて仏家に生ずと名づく。 みづからよく仏と作りて衆生を済運す。 なんぞさらに念仏三昧を学して仏を見たてまつらんと願ずるを須ゐんや。

答へていはく、その真如を論ずるに、広大無辺にして虚空と等し。 その量知りがたし。 たとへば一の大きなる闇室に、もし一灯・二灯を燃せば、その明あまねしといへども、なほ闇となすがごとし。 やうやく多灯に至れば、大明と名づくといへども、あに日光に及ばんや。 菩薩の所証の智は、地々あひ望むるにおのづから階降ありといへども、あに仏の日の明らかなるがごとくなるに比ぶることを得んや。

第五大門

【32】 第五大門のなかに四番の料簡あり。 第一にあまねく修道の延促を明かして、すみやかに不退を獲しめんと欲す。 第二に此彼の禅観比校してを勧む。 第三に此彼の浄穢二境、また漏・無漏と名づけて比校す。 第四に聖教を引きて証成し、後代を勧めて信を生じ往くことを求めしむ。

修道延促

【33】 第一にあまねく修道の延促を明かすとは、なかにつきて二あり。 一には修道の延促を明かし、二には問答解釈す。 一に延促を明かすとは、ただ一切衆生苦を厭ひて楽を求め、を畏れてを求めざるはなし。 みな早く無上菩提を証せんと欲せば、先づすべからく菩提心を発すを首となすべし。 この心識りがたく、起しがたし。 たとひこの心を発得すとも、によるに、つひに、すべからく十種の行、いはゆる信・・戒・定・慧・・護法・発願・回向を修して、菩提に進詣すべし。

しかるに修道の身相続して絶えずして、一万劫を経てはじめて不退の位を証す。 当今の凡夫は現に信想軽毛と名づけ、または仮名といひ、または不定聚と名づけ、または外の凡夫と名づく。 いまだ火宅を出でず。

なにをもつてか知ることを得る。 『菩薩瓔珞経』によりてつぶさに入道行位を弁ずるに、法爾なるがゆゑに難行道と名づく。

またただおもんみれば一劫のうちの受身生死すらなほ数へ知るべからず、いはんや一万劫のうちにいたづらに痛焼を受くるをや。

もしよくあきらかに仏経を信じて浄土に生ぜんと願ずれば、寿の長短に随ひて、一形にすなはち至りて位不退に階ふ。 この修道一万劫と功を斉しくす。 もろもろの仏子等、なんぞ思量せずして難を捨てて易を求めざらんや。 『倶舎論』のなかにまた難行・易行の二種の道を明かすがごとし。 難行とは、『論』(同・意)に説きていふがごとし。 「三大阿僧祇劫において、一々の劫のうちに、みな福智の資糧六波羅蜜一切の諸行を具す。 一々の行業にみな百万の難行の道ありて、はじめて一位に充つ」と。 これ難行道なり。

易行道とは、すなはちかの『論』(同・意)にいはく、「もし別に方便あるによりて解脱することあるを易行道と名づく」と。 いますでに勧めて極楽に帰せしむ。 一切の行業ことごとくかしこに回向して、ただよく専至なれば、寿尽きてかならず生ず。 かの国に生ずることを得れば、すなはち究竟して清涼なり。 あに易行の道と名づけざるべけんや。 すべからくこの意を知るべし。

 二に問ひていはく、すでに浄土に往生せんと願ずれば、この寿尽くるに随ひてすなはち往生を得といふは、聖教の証ありやいなや。

答へていはく、七番あり。 みな経論を引きて証成せん。 一には『大経』(下・意)によるにのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈それ衆生ありて、今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲せば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生ぜんと願ずべし。 すなはち往生を得るがゆゑなり〉」と。

『大経の讃』にいはく(讃阿弥陀仏偈)、

「もし阿弥陀の徳号を聞きて、歓喜し讃仰し、心帰依すれば、
下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとなす。
たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。
阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる」と。

二には『観経』(意)によるに、九品のうちにみなのたまはく、「臨終正念にしてすなはち往生を得」と。 三には『起信論』(意)によるにいはく、「もろもろの衆生を教へて真如平等一実を観ぜよと勧む。 また始発意の菩薩あり、その心軟弱にして、みづからつねに諸仏に値ひたてまつりて親承供養することあたはずと謂ひ、意退せんと欲するものには、まさに知るべし、如来に勝方便ましまして信心を摂護したまふ。 いはく、意をもつぱらにして仏を念ずる因縁をもつて、願に随ひて往生す。 つねに仏を見たてまつるをもつてのゆゑに、永く悪道を離る」と。 四には『鼓音陀羅尼経』(意)によるにのたまはく、「その時世尊、もろもろの比丘に告げたまはく、〈われまさになんぢがために演説すべし。

西方安楽世界にいま現に仏まします。 阿弥陀と号けたてまつる。 もし四衆ありて、よくまさしくかの仏の名号を受持し、その心を堅固にして憶念して忘れざること十日十夜、散乱を除捨して精勤して念仏三昧を修習し、もしよく念々に絶えざらしむれば、十日のうちにかならずかの阿弥陀仏を見たてまつることを得て、みな往生を得〉」と。

五には『法鼓経』によるにのたまはく、「もし人臨終の時に念をなすことあたはざれども、ただかの方に仏ましますと知りて往生の意をなせば、また往生を得」と。 六には『十方随願往生経』(意)にのたまふがごとし。 「もし終りに臨み死に及びて地獄に堕することあらんに、家のうちの眷属その亡者のために念仏しおよび転誦斎福すれば、亡者すなはち地獄より出でて浄土に往生す。 いはんやその現在にみづからよく修念せば、なにをもつてか往生することを得ざるものあらんや」と。 このゆゑにかの『経』(同・意)にのたまはく、「現在の眷属、亡者のために追福すれば、遠人に餉するにさだめて食を得るがごとし」と。

第七には広く諸経を引きて証成す。 『大法鼓経』に説きたまふがごとし。 「もし善男子・善女人つねによく意を繋けて諸仏の名号を称念すれば、十方の諸仏、一切の賢聖つねにこの人を見ること目の前に現ずるがごとし。 このゆゑにこの経を大法鼓と名づく。 まさに知るべし、この人は十方浄土に願に随ひて往生す」と。

また『大悲経』(意)にのたまはく、「なにをか名づけて大悲となす。 もしもつぱら念仏相続して断えざるものは、その命終に随ひてさだめて安楽に生ず。 もしよく展転してあひ勧めて念仏を行ずるものは、まさに知るべし、これらをことごとく大悲を行ずる人と名づく」と。

このゆゑに『涅槃経』(意)にのたまはく、「仏、大王に告げたまはく、〈たとひ大庫蔵を開きて一月のうちに一切衆生に布施すとも、所得の功徳、人ありて仏を称する一口の功徳にしかず。 前に過ぎたること校量すべからず〉」と。 また『増一阿含経』(意)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈それ衆生ありて、一閻浮提の人に衣服・飲食・臥具・湯薬を供養せんに、所得の功徳、むしろ多しとなすやいなや〉と。 阿難、仏にまうしてまうさく、〈世尊、はなはだ多しはなはだ多し、数へ量るべからず〉と。 仏、阿難に告げたまはく、〈もし衆生ありて善心相続して仏の名号を称すること、一たび牛乳を搆るあひだのごとくせんに、所得の功徳上に過ぎたること量るべからず。 よく量るものあることなし〉」と。

『大品経』(意)にのたまはく、「もし人散心念仏すれば、すなはち苦を畢るに至るまでその福尽きず。 もし人散華念仏すれば、すなはち苦を畢るに至るまでその福尽きず」と。 ゆゑに知りぬ、念仏の利、大なること不可思議なり。 『十往生経』、諸大乗経等、ならびに文証あり、つぶさに引くべからず。

禅観難易

【34】 第二に次に此彼の禅観比校して往生を勧むることを明かすとは、ただこの方は穢境にして、乱想ありて入りがたし。 たとひ修得するも、ただ事定を獲て多く味染を喜ぶ。 またただよく業報の生を伏し上界の寿尽きぬれば多く退す。 このゆゑに『智度論』にいはく、

「多聞と持戒と禅とは、いまだ無漏法を得ざれば、
この功徳ありといへども、この事いまだ信むべからず」と。

もし西に向かひて修習せんと欲せば、事境光浄にして、定観成じやすし。 罪を除くこと多劫にして、永く定まりすみやかに進みて究竟して清涼なり。 『大経』に広く説きたまふがごとし。

 問ひていはく、もし西方の境界勝にして禅定をなして感ずべくは、この界の色天は弱くして禅定をなして招くべからざるや。

答へていはく、もし修定の因を論ぜば、彼此に該通す。 しかるにかの界は位これ不退にして、ならびに他力の持つあり。 このゆゑに説きて勝となす。 この所はまた定を修するに剋すといへども、ただ自分の因のみありて、闕けて他力の摂することなし。 業尽くれば、退することを勉れず。 これにつきてしかずと説く。

此彼浄穢

【35】 第三に此彼の浄穢二境をまた漏・無漏と名づくるによるとは、もしこの処の境界を論ずれば、ただ三塗・丘坑・山澗・沙鹵・蕀刺水旱・暴風・悪触・雷電・・虎狼・毒獣・悪賊・悪子・荒乱・破散・三災・敗壊あり。

正報を語り論ずれば、三毒・八倒・憂悲・嫉妬・多病・短命・飢渇・寒熱あり。 つねに伺命害鬼の追逐するところとなる。 深く穢悪すべし。 つぶさに説くべからず。 ゆゑに有漏と名づく。 深く厭ふべし。

かの国に往生するは勝なりとは、『大経』(意)によるにのたまはく、「十方の人天ただかの国に生ずれば、みな種々の利益を獲ざるはなし」と。 なんとなれば、一たびかの国に生ずれば、行けばすなはち金蓮足を捧げ、坐すればすなはち宝座躯を承け、出づればすなはち帝釈前にあり、入ればすなはち梵王後に従ふ。 一切の聖衆はわれと親朋なり。 阿弥陀仏はわが大師たり。 宝樹・宝林の下には意に任せて翺翔し、八徳の池なかにはを遊ばせ足を濯ぐ。 形はすなはち身金色に同じく、寿はすなはち命仏と斉し。 学すればすなはち衆門並び進み、止まればすなはち二諦虚融す。 十方に済運すればすなはち大神通に乗じ、晏安すれば暫時にすなはち三空門に坐す。 遊べばすなはち八正の路に入り、至ればすなはち大涅槃に到る。 一切衆生ただかの国に至れば、みなこの益を証す。 なんぞ思量せずしてすみやかに去かざらんや。

引証勧信

【36】 第四に聖教を引きて証成し、後代を勧めて信を生じ往くことを求願せしむとは、『観仏三昧経』(意)によるにのたまはく、「その時会中に十方諸仏ましまして、おのおの華台のなかにおいて結跏趺坐して空中に現じたまふ。 東方の善徳如来を首となして、大衆に告げてのたまはく、〈なんぢらまさに知るべし、われ過去無量世の時を念ふに、仏ましましき、宝威徳上王と名づけたてまつる。 かの仏出でたまふ時、また今日のごとく三乗の法を説きたまふ。 かの仏の滅後末世のなかに一の比丘ありて、弟子九人を将て仏塔に往詣して仏像を礼拝するに、一の宝像の厳顕にして観ずべきを見る。 観じをはりて敬礼して、目にあきらかにこれを観ず。 おのおの一偈を説きて、もつて讃歎をなす。 寿の修短に随ひて各自に命終す。 すでに命終しをはりてすなはち仏前に生ず。 これより以後つねに無量の諸仏に値遇することを得て、諸仏の所において広く梵行を修して念仏三昧海を得。 すでにこれを得をはりて諸仏現前にすなはち授記を与へたまふ。 十方の面において意に随ひて仏と作る。

東方の善徳仏とはすなはちわが身これなり。 自余の九方の諸仏はすなはちこれ本昔の弟子九人これなり。 十仏世尊は塔を礼し、一偈をもつて讃ずるによるがゆゑに仏となることを得たり。 あに異人ならんや、われら十方の仏これなり〉と。 この時十方の諸仏空より下りて千の光明を放ち、色身白毫相の光を顕現して、おのおのみな釈迦仏の床に坐す。 阿難に告げてのたまはく、〈なんぢ知るや、釈迦文仏は無数の精進、百千の苦行をもつて仏の智慧を求めてこの身を報得したまへり。 いまなんぢがために説きたまふ。 なんぢ仏語を持ちて、未来世の天・竜・大衆・四部の弟子のために、観仏相好および念仏三昧を説くべし〉と。 この語を説きをはりて、しかる後に釈迦文仏に問訊す。 問訊しをはりておのおの本国に還りたまへり」と。

第六大門

【37】 第六大門のなかに三番の料簡あり。 第一に十方浄土ともに来して比校す。 第二に義推す。 第三に経の住滅を弁ず。

十方西方比校

【38】 第一に十方浄土ともに来して比校すとは、その三番あり。 一には『随願往生経』(意)にのたまふがごとし。 「十方仏国みなことごとく厳浄なり。 願に随ひてならびに往生を得。

しかりといへども、ことごとく西方の無量寿国にはしかず。 なんの意をもつてか、かくのごとくなる。 ただ阿弥陀仏、観音・大勢至と先に発心したまひし時、この界より去りたまへり。 この衆生においてひとへにこれ縁あり。 このゆゑに釈迦処々に歎帰したまふ」と。

二には『大経』(上・意)によるに、「法蔵菩薩因中に世饒王仏の所において、つぶさに弘願を発してもろもろの浄土を取りたまふ。 時に仏、ために二百一十億の諸仏刹土の天・人の善悪、国土の精粗を説きて、ことごとく現じてこれを与へたまふ。 時に法蔵菩薩願じて西方を取りて成仏したまひ、いま現にかしこにまします」と。 これ二の証なり。

三にはこの『観経』(意)のなかによるに、「韋提夫人また浄土を請ふ。 如来(釈尊)光台にために十方一切の浄土を現じたまふ。 韋提夫人、仏にまうしてまうさく、〈この諸仏の土また清浄にしてみな光明ありといへども、われいま極楽世界の阿弥陀仏の所に生ぜんと楽ふ〉」と。 これその三の証なり。 ゆゑに知りぬ、もろもろの浄土のなかに安楽世界は最勝なり。

義 推

【39】 第二に義推すとは、問ひていはく、なんがゆゑぞかならず面を西に向かへて坐して礼・念・観するを須ゐる。 答へていはく、閻浮提には、日の出づる処を生と名づけ、没する処を死と名づくといふをもつて、死地によるに神明の趣入その相助便なり。

このゆゑに法蔵菩薩願じて成仏し、西にありて衆生を悲接したまふ。 坐して観・礼・念等によるに、面を仏に向かふるはこれ世の礼儀に随ふ。 もしこれ聖人ならば、飛報自在なることを得て方所を弁ぜず。 ただ凡夫の人は身心あひ随ふ。 もし余方に向かはば、西に往くことかならず難からん。 このゆゑに『智度論』(意)にいはく、「一の比丘あり、康存の日『阿弥陀経』を誦し、および般若波羅蜜を念じ、命終に臨みて弟子に告げていはく、〈阿弥陀仏、もろもろの聖衆といまわが前にまします〉と。 合掌帰依して須臾に捨命す。 ここにおいて弟子火葬の法によりて火をもつて屍を焚くに、一切焼き尽くれども、ただ舌根の一種ありて本と異せず。 つひにすなはち収め取りて塔を起てて供養す」と。

龍樹菩薩釈していはく(大智度論・意)、「『阿弥陀経』を誦するがゆゑに、ここをもつて終りに垂んとするに、仏みづから来迎し、般若波羅蜜を念ずるがゆゑに、ゆゑに舌根尽きず」と。 この文をもつて証す。 ゆゑに知りぬ、一切の行業ただよく回向するに往かざるはなし。 ゆゑに『須弥四域経』にのたまはく、「天地はじめて開くる時、いまだ日・月・星辰あらず。 たとひ天人来下することあれども、ただ項の光をもつて照用す。 その時人民多く苦悩を生ず。 ここにおいて阿弥陀仏、二菩薩を遣はす。 一は宝応声と名づけ、二は宝吉祥と名づく。 すなはち伏羲女媧これなり。

この二菩薩ともにあひ籌議して第七の梵天の上に向かひて、その七宝を取りてこの界に来至して、日・月・星辰二十八宿を造り、もつて天下を照らしてその四時春秋冬夏を定む。 時に二菩薩ともにあひいひていはく、〈日・月・星辰二十八宿の西に行く所以は、一切の諸天・人民ことごとくともに阿弥陀仏を稽首したてまつれ〉となり。 ここをもつて日・月・星辰みなことごとく心を傾けてかしこに向かふ。 ゆゑに西に流る」と。

経教住滅

【40】 第三に経の住滅を弁ずとは、いはく、「釈迦牟尼仏一代、正法五百年、像法一千年、末法一万年には、衆生減じ尽き、諸経ことごとく滅す。 如来痛焼の衆生を悲哀して、ことにこの経を留めて止住すること百年ならん」(大経・下意)と。

この文をもつて証す。

ゆゑに知りぬ、かの国はこれ浄土なりといへども、しかも体上下に通ず相無相を知るはまさに上位に生ずべし。 凡夫は火宅にして一向に相に乗じて往生するなり。

第七大門

此彼取相縛脱

【41】 第七大門のなかに両番の料簡あり。 第一門のなかに此彼の取相を料簡す。 第二に次に此彼の修道に功を用ゐるに軽重ありて、報を獲るに真偽あることを明かし、ことさらに勧めてかしこに向かはしむ。

【42】 第一に此彼の取相に縛・脱を料簡すとは、もし西方の浄相を取らば、疾く解脱を得、もつぱら極楽を受けて、智眼開けて朗らかなり。 もしこの方の穢相を取らば、ただ妄楽・痴盲・厄縛・憂怖のみあり。

 問ひていはく、大乗の諸経によるに、みな「無相はすなはちこれ出離の要道なり、相に執し拘礙するは塵累を勉れず」といへり。 いま衆生を勧めて穢を捨て浄を欣はしむ、この義いかん。

答へていはく、この義類せず。 なんとなれば、おほよそ相に二種あり。 一には五塵の欲境において妄愛貪染して境に随ひて執着す。 これらのこの相、これを名づけて縛となす。 二には仏の功徳を愛して浄土に生ぜんと願ず。 これ相なりといふといへども、名づけて解脱となす。 なにをもつてか知ることを得る。 『十地経』(意)にのたまふがごとし。 「初地の菩薩、なほみづから二諦を別観して心を厲まして作意す。 先には相によりて求め、終りにはすなはち無相なり。 もつてやうやく増進して大菩提を体す。 七地の終心を尽して相心はじめて息む。 その八地に入りて相求を絶す。 まさに無功用と名づく」と。

このゆゑに『論』(十地経論・意)にいはく、「七地以還は悪貪を障となし、善貪を治となす。 八地以上は善貪を障となし、無貪を治となす」と。 いはんやいま浄土に生ぜんと願ずるは、現にこれ外凡なり。 所修の善根みな仏の功徳を愛するより生ず。 あにこれ縛ならんや。 ゆゑに『涅槃経』(意)にのたまはく、「一切衆生に二種の愛あり。 一には善愛、二には不善愛なり。 不善愛はただ愚のみこれを求め、善法愛は諸菩薩これを求む」と。 ゆゑに『浄土論』(論註・下意)にいはく、「観仏国土清浄味摂受衆生大乗味類事起行願取仏土味畢竟住持不虚作味、かくのごとき等の無量の仏道の味あり」と。 ゆゑにこれ相を取るといへども、執縛に当るにあらず。 またかの浄土にいふところの相とは、すなはちこれ無漏の相、実相の相なり。

此彼修道

【43】 第二段のなかに此彼の修道に功を用ゐるに軽重ありて、報を獲るに真偽あることを明かすとは、もし発心して西に帰せんと欲するものは、ひとへに少時の礼・観・念等をもつて、寿の長短に随ひて、命終の時に臨めば光台迎接して、迅くかの方に至りて位不退に階ふ。 このゆゑに『大経』(上・意)にのたまはく、「十方の人天、わが国に来生して、もしつひに滅度に至らずしてさらに退転あらば、正覚を取らじ」(第十一願)と。 この方は多時につぶさに施・戒・忍・進・定・慧を修して、

いまだ一万劫を満たざるよりこのかたは、つねにいまだ火宅を免れず、顛倒墜堕す。 ゆゑに功を用ゐることは至りて重く、報を獲ることは偽なりと名づく。

『大経』(下・意)にまたのたまはく、「わが国に生ずるものは横に五悪趣を截る」と。 いまこれは弥陀の浄刹に約対して、娑婆の五道を斉しく悪趣と名づく。 地獄・餓鬼・畜生は純悪の所帰なれば、名づけて悪趣となす。 娑婆の人天は雑業の所向なれば、また悪趣と名づく。 もしこの方の修治断除によらば、先づ見惑を断じて三塗の因を離れ、三塗の果を滅す。 後に修惑を断じて人天の因を離れ、人天の果を絶つ。 これみな漸次に断除すれば、横截と名づけず。

もし弥陀の浄国に往生することを得れば、娑婆の五道一時にたちまちに捨つ。 ゆゑに「横截五悪趣」と名づくるはその果を截るなり。

悪趣自然閉」(大経・下)とはその因を閉づるなり。 これ所離を明かす。 「昇道無窮極」(同・下)とはその所得を彰すなり。 もしよく作意し回願して西に向かへば、上一形を尽し下十念に至るまで、みな往かざるはなし。 一たびかの国に到ればすなはち正定聚に入りて、ここにして道を修する一万劫と功を斉しくす。

第八大門

【44】 第八大門のなかに三番の料簡あり。 第一に略して諸経を挙げて来し証して、勧めてここを捨ててかしこを欣はしむ。 第二に弥陀・釈迦二仏比校す。 第三に往生の意を釈す。

経論勧説

【45】 第一に略してもろもろの大乗経を挙げて来し証して、みな勧めてここを捨ててかしこを悕はしむとは、一にはいはく耆闍崛山の説、『大経』二巻。 二には『観経』一部、王宮・耆闍両会の正説なり。 三には『少巻無量寿経』(小経)、舎衛の一説。 四にはまた『十方随願往生経』の明証あり。 五にはまた『無量清浄覚経』二巻一会の正説あり。 六にはさらに『十往生経』一巻あり。 諸余の大乗経論に指讃する処多し。 『請観音』・『大品経』等のごとし。 また龍樹・天親等の論のごとし。 歎勧一にあらず。 余方の浄土はみなかくのごとく丁寧ならず。

二尊比校

【46】 第二に弥陀・釈迦二仏比校すとは、いはく、この仏釈迦如来、八十年世に住まりてしばらく現じてすなはち去りたまひ、去りて返りたまはず。 忉利の諸天に比するに、一日にも至らず。 また釈迦の在時救縁また弱し。 毘舎離国にして人の現患を救ひたまへる等のごとし。 なんとなれば、時に毘舎離国の人民五種の悪病に遭へり。 一には眼赤きこと血のごとし。 二には両の耳より膿を出す。 三には鼻のなかより血を流す。 四には舌噤みて声なし。 五には食らふところの物化して粗渋となる。 六識閉塞せることなほ酔人のごとし。 五夜叉あり、あるいは訖拏迦羅と名づく。 面の黒きこと墨のごとくして五眼あり、狗牙上に出でて人の精気を吸ふ。 良医の耆婆その道術を尽すも、救ふことあたはざるところなり。 時に月蓋長者あり。 首となりて病人を部領し、みな来りて仏に帰して頭を叩きて哀れみを求む。 その時世尊無量の悲愍を起して、病人に告げてのたまはく、「西方に阿弥陀仏・観世音・大勢至菩薩まします。 なんぢら一心に合掌して見たてまつらんと求めよ」と。 ここにおいて大衆みな仏の勧めに従ひて、合掌して哀れみを求む。 その時かの仏、大光明を放ちて、観音・大勢と一時にともに到りて大神呪を説きたまふに、一切の病苦みなことごとく消除して、平復すること故のごとし。

しかるに二仏(阿弥陀仏・釈尊)の神力また斉等なるべし。

ただ釈迦如来おのが能を申べたまはずして、ことさらにかの〔阿弥陀仏の〕長を顕して、一切衆生をして斉しく帰せざるはなからしめんと欲す。 このゆゑに釈迦処々に〔阿弥陀仏を〕歎じて帰せしめたまへり。 すべからくこの意を知るべし。 このゆゑに曇鸞法師意を正して西に帰す。 ゆゑに『大経』に傍へて奉讃していはく(讃阿弥陀仏偈)、

「安楽の声聞・菩薩衆、人天、智慧ことごとく洞達せり。
身相の荘厳殊異なし。ただ他方に順ずるがゆゑに名を別つ
顔容端正にして比ぶべきなし。精微妙躯にして人天にあらず。
虚無の身無極の体なり。このゆゑに平等力を頂礼したてまつる」と。

往生意趣

【47】 第三に往生の意を釈すとは、なかにつきて二あり。 一には往生の意を釈し、二には問答解釈す。

 第一に問ひていはく、いま浄土に生ぜんと願ず、いまだ知らず、なんの意をかなすや。

答へていはく、ただ疾く自利利他を成じ、利物深広ならんと欲す。 十信・三賢より正法を摂受して、不二に契会し、仏性を見証し、あきらかに実相を暁る。 観照の暉心、有無の二諦、因果の先後、十地の優劣、三忍、三道金剛無礙大涅槃を証す。 大乗寛く運びて無限の時に住せんと欲す。 無辺の生死海を尽さんがためのゆゑなり。

 問に三番あり。 問ひていはく、浄土に生ぜんと願ずるは、利物を欲するに擬すとは、もししからば、所抜の衆生はいま現にここにあり、すでによくこの心を発得すれば、ただここにありて苦の衆生を抜くべし。 なにによりてかこの心を得をはりて、先づ浄土に生ぜんと願ずる。 衆生を捨ててみづから菩提の楽を求むるに似如たり。

答へていはく、この義類せず。 なんとなれば、『智度論』(意)にいふがごとし。 「たとへば二人ともに父母・眷属の深淵に没在するを見るに、一人はただちに往きて力を尽してこれを救ふ。 力の及ばざるところなればあひともに没す。 一人ははるかに走りて一の舟船に趣き、乗り来りて済接するに、ならびに難を出づることを得るがごとし。 菩薩もまたしかなり。

もしいまだ発心せざる時は、生死に流転すること衆生と無別なり。 ただすでに菩提心を発す時は、先づ願じて浄土に往生し、大悲の船を取りて無礙の弁才に乗じて生死の海に入り、衆生を済運す」と。 二に『大論』(大智度論・意)にまたいはく、「菩薩浄土に生じて大神通を具し、弁才無礙にして衆生を教化する時も、なほ衆生をして善を生じ悪を滅し、を増し位を進めて、菩薩の意に称はしむることあたはず。 もしすなはち穢土にありて抜済するものは、闕けてこの益なし。 鶏を逼めて水に入るるがごとし。 あによく湿はざらんや」と。

三に『大経の讃』にいはく(讃阿弥陀仏偈・意)、

「安楽仏国のもろもろの菩薩、それ宣説すべきことは智慧に随ふ。
おのが万物において我所を亡ず。浄きこと蓮華の塵を受けざるがごとし。
往来進止汎べる舟のごとし。利安を務めとなして適莫を捨つ。
かれもおのれも空のごとくして二想を断ず。智慧の炬を燃して長夜を照らす。
三明六通みなすでに足れり。菩薩の万行心眼に観ず。
かくのごとき功徳辺量なし。このゆゑに心を至してかしこに生ぜんと願ず」と。

第九大門

【48】 第九大門のなかに両番の料簡あり。 第一に苦楽善悪相対す。 第二に彼此の寿命の長短を明かして比校す。

苦楽善悪

【49】 初段のなかにつきて二あり。 一には苦楽善悪相対す。 二には『大経』を引きて証となす。 初めに苦楽善悪相対すといふは、この娑婆世界にありては苦楽二報ありといへども、つねにもつて楽は少なく苦は多し。 重きはすなはち三塗にして痛焼し、軽きはすなはち人天にして刀兵・疾病あひ続きて連なり注ぎ、遠劫よりこのかた断ゆる時あることなし。 たとひ人天に少楽ありとも、なほ泡沫・電光のすみやかに起りすみやかに滅するがごとし。 このゆゑに名づけて唯苦唯悪となす。

弥陀の浄国は水・鳥・樹林つねに法音を吐きて、あきらかに道教を宣ぶ。 清白を具足してよく悟入せしむ。 二に聖教を引きて証となすとは、『浄土論』(意)にいはく、「十方の人天、かの国に生ずるものは、すなはち浄心の菩薩と無二なり。

浄心の菩薩、すなはち上地の菩薩畢竟じて同じく寂滅忍を得。 ゆゑにさらに退転せず」と。 また『大経』の四十八願を引くなかに五番の大益あり。 第一に『大経』(上・意)にのたまはく、「十方の人天、わが国に来生することあらんに、ことごとく真金色ならずは、正覚を取らじ」(第三願)と。 二にのたまはく(同・上意)、「十方の人天、わが国に来生して、もし形色不同にして好醜あらば、正覚を取らじ」(第四願)と。 三にのたまはく(大経・上意)、「十方の人天、わが国に来生して宿命智を得ず、下百千億那由他の諸劫の事を知らざるに至らば、正覚を取らじ」(第五願)と。 四にのたまはく(同・上意)、「十方の人天、わが国に来生して天耳通を得ず、下百千億那由他の諸仏の所説を聞かず、ことごとく受持せざるに至らば、正覚を取らじ」(第七願)と。 五にのたまはく(同・上意)、「十方の人天、わが国に来生して他心智を得ず、下百千億那由他の諸仏国のうちの衆生の心念を知らざるに至らば、正覚を取らじ」(第八願)と。 かの国の利益の事を論ぜんと欲するに、つぶさに陳ぶべきこと難し。 ただまさに生ぜんと願ずべし。 かならず不可思議なり。 このゆゑにかの方は唯善唯楽にして、苦なく悪なし。

寿命長短

【50】 第二に寿命の長短を明かすとは、この方の寿命大期百年に過ぎず。 百年のうち少しきは出づるも、多くは減ず。 あるいは生年に夭喪し、乃至童子にして身亡ず。 あるいはまた胞胎にして傷堕す。 なんの意かしかるとならば、まことに衆生因を作る時雑なるによる。 ここをもつて報を受くることまた斉同なることを得ず。 このゆゑに『涅槃経』(意)にのたまはく、「作業の時なれば果報また黒なり。 作業の時なれば果報また白なり。 浄雑またしかなり」と。

また『浄度菩薩経』によるにのたまはく、「人寿百歳なるも、夜その半ばを消す。 すなはちこれ五十年を減却す。 五十年のうちにつきて、十五以来はいまだ善悪を知らず、八十以去は昏耄虚劣なり、ゆゑに老苦を受く。 おのづからこのほかはただ十五年あり。 中にありて、外にはすなはち王官逼迫して長征・遠防し、あるいは繋がれて牢獄にあり、内はすなはち門戸の吉凶の衆事に牽き纏はれ、煢々忪々としてつねに求むるに足らず。

かくのごとく推計するに、いくばくの時ありてか道業を修することを得べけんや。 かくのごとく思量するに、あに哀しまざらんや。 なんぞ厭はざることを得んや」と。

またかの『経』(同)にのたまはく、「人世間に生じておほよそ一日一夜を経るに、八億四千万の念あり。 一念悪を起せば一悪身を受け、十念悪を念へば十生の悪身を得、百念悪を念へば一百の悪身を受く。 一衆生の一形のうちを計るに、百年悪を念へば、悪すなはち三千国土遍満してその悪身を受く。 悪法すでにしかり。 善法もまたしかなり。 一念善を起せば一善身を受け、百念善を念へば一百の善身を受く。 一衆生の一形のうちを計るに、百年善を念へば、三千国土に善身また満つ。 もし十年・五年阿弥陀仏を念じ、あるいは多年に至ることを得れば、後に無量寿国に生れ、すなはち浄土の法身を受くること恒沙無尽にして不可思議なり」と。

いますでに穢土は短促にして、命報遠からず。 もし阿弥陀浄国に生ずれば、寿命長遠にして不可思議なり。 このゆゑに『無量寿経』にのたまはく、「仏、舎利弗に告げたまはく、〈かの仏をなんがゆゑぞ阿弥陀と号くる。 舎利弗、十方の人天、かの国に往生するものは、寿命長遠にして億百千劫なり。 仏と同等なるがゆゑに阿弥陀と号く〉」と。 おのおのよろしくこの利の大なることを量りて、みな往かんと願ずべし。 また『善王皇帝尊経』にのたまはく、「それ人ありて、を学して西方阿弥陀仏国に往生せんと念欲するものは、憶念すること昼夜一日、もしは二日、あるいは三日、もしは四日、もしは五日、六日、七日に至るべし。 もしまた中において還悔せんと欲するものは、われこの善王の功徳を説くを聞くべし。 命尽きんと欲する時、八菩薩ありて、みなことごとく飛び来りてこの人を迎へ取り、西方阿弥陀仏国のうちに到りて、つひに止まることを得ざらん」と。

これより以下、また『大経の偈』(讃阿弥陀仏偈)を引きて証となす。 『讃』にいはく(同・意)、

「それ衆生ありて安楽に生ずれば、ことごとく三十有二相を具す。
智慧満足して深法に入る。道要を究暢して障礙なし。
根の利鈍に随ひて忍を成就す。三忍乃至不可説なり。
宿命五通つねに自在にして、仏に至るまで雑悪趣に更らず。
他方の五濁の世に生じて、示現して同じく大牟尼(釈尊)のごとくなるを除く。
安楽国に生じて大利を成ず。このゆゑに心を至してかしこに生ぜんと願ず」と。

第十大門

引類証誠

【51】 第十大門のなかに両番の料簡あり。 第一に『大経』によりて類を引きて証誠す。 第二に回向の義を釈す。

【52】 第一に『大経』によりて類を引きて証誠すとは、十方の諸仏西方に帰することを勧めたまはざるはなく、十方の菩薩同じく生ぜざるはなし。 十方の人天、意あるは斉しく帰す。 ゆゑに知りぬ、不可思議の事なり。

このゆゑに『大経の讃』にいはく(讃阿弥陀仏偈)、

神力無極の阿弥陀は、十方無量の仏の讃じたまふところなり。
東方恒沙の諸仏の国、菩薩無数にしてことごとく往覲す。
また安楽国の菩薩・声聞・もろもろの大衆を供養し、
経法を聴受して道化を宣ぶ自余の九方もまたかくのごとし」と。

回向釈義

【53】 第二に回向の義を釈すとは、ただ一切衆生すでに仏性あるをもつて、人人みな成仏を願ふ心あり。 しかれども所修の行業いまだ一万劫に満たざるよりこのかたは、なほいまだ火界を出でざるによりて、輪廻を免れず。 このゆゑに聖者この長苦を愍れみて西に回向するを勧むるは、大益を成ぜしめんがためなり。 しかるに回向の功は六を越えず。 なんらをか六となす。

一には所修の諸業をもつて弥陀に回向すれば、すでにかの国に至りて、還りて六通を得て衆生を済運す。 これすなはち道に住せざるなり。 二には因を回して果に向かふ。 三には下を回して上に向かふ。 四には遅を回して速に向かふ。 これすなはち世間に住せざるなり。 五には衆生に回施して、悲念して善に向かはしむ。 六には回入して分別の心を去却す。 回向の功ただこの六を成ず。

このゆゑに『大経』(上・意)にのたまはく、「それ衆生ありて、わが国に生ずるものは自然に勝進して、常倫諸地の行に超出して、仏道を成ずるに至るまでさらに回復の難なし」(第二十二願)と。 ゆゑに『大経の讃』にいはく(讃阿弥陀仏偈)、

「安楽の菩薩・声聞の輩、この世界において比方なし。
釈迦無礙の大弁才をもつて、もろもろの仮令を設けて少分を示し、
最賤の乞人を帝王に並べ、帝王をまた金輪王に比ぶ。
かくのごとく展転して六天に至る。次第してあひ類することみな始めのごとし。
天の色像をもつてかれに喩ふるに、千万億倍すともその類にあらず。
みなこれ法蔵願力のなせるなり。大心力を稽首し頂礼したてまつる」と。

第十一大門

【54】 第十一大門のなかに略して両番の料簡をなす。 第一に一切衆生を勧めて善知識に託して西に向かふ意をなさしむ。 第二に死後に生縁の勝劣あることを弁ず。

勧託善知識

【55】 第一に勧めて善知識に託すとは、『法句経』によるに、衆生のために善知識となる。 「宝明菩薩あり。

仏にまうしてまうさく、〈世尊、いかんが名づけて善知識となすや〉と。 仏のたまはく、〈善知識はよく深法を説く。 いはく無相無願となり。 諸法平等にして業なく報なく、因なく果なし。 究竟如如にして実際に住す。 しかるに畢竟空のなかにおいて、熾燃として一切の諸法を建立す。 これを善知識となす。 善知識はこれなんぢが父母なり、なんぢらが菩提の身を養育するがゆゑなり。 善知識はこれなんぢが眼目なり、よく一切の善悪の道を見るがゆゑなり。 善知識はこれなんぢが大船なり、なんぢらを運度して生死海を出すがゆゑなり。 善知識はこれなんぢが緪縄なり、よくなんぢらを挽き抜きて生死を出すがゆゑなり〉」と。 また勧む。 衆生のために善知識となるといへども、かならずすべからく西に帰すべし。

なにをもつてのゆゑに。 この火界に住まれば、違順の境多々にして、退没ありて出づること難きによるがゆゑなり。 このゆゑに舎利弗ここにおいて発心して菩薩の行を修すること、すでに六十劫を経たり。 悪知識の乞眼の因縁に逢ひて、つひにすなはち退転す。 ゆゑに知りぬ、火界にして道を修することははなはだ難し。 ゆゑに勧めて西方に帰せしむ。 一たび往生を得れば、三学自然に勝進し、万行あまねく備はる。 ゆゑに『大経』(下・意)にのたまはく、「弥陀の浄国は造悪の地毛髪ばかりのごときもなし」と。

死後受生勝劣

【56】 第二に次に衆生の死後に受生の勝劣あることを弁ずとは、この界の衆生寿尽き命終りて、みな善悪の二業に乗ぜざるはなし。 つねに伺命の獄率と妄愛の煩悩のためにあひともに生を受く。 すなはち無数劫よりこのかた、いまだ免離することあたはず。 もしよく信を生じて浄土に帰向し意を策まして専精なれば、命終らんと欲する時、阿弥陀仏、観音聖衆と光台をもつて行者を迎接したまふ。 歓喜し随従し合掌して台に乗じ、須臾にすなはち到りて快楽ならざるはなく、すなはち成仏に至る。 また一切衆生、業を造ること不同にして、その三種あり。 いはく上・中・下なり。 みな閻羅に詣りて判を取らざるはなし。 もしよく信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願じて、所修の行業ならびにみな回向すれば、命終らんと欲する時、仏みづから来迎して死王に干されず。

第十二大門

総決勧信

【57】 第十二大門のなかに一番あり。 『十往生経』につきて証となして往生を勧む。 仏(釈尊)、阿弥陀仏国に生ずることを説くに、もろもろの大衆のために観身正念解脱を説きたまふがごとし。 『十往生経』(意)にのたまはく、「阿難、仏にまうしてまうさく、〈世尊、一切衆生の観身の法はその事いかん。 ただ願はくはこれを説きたまへ〉と。 仏、阿難に告げたまはく、〈それ観身の法は東西を観ぜず、南北を観ぜず、四維・上下を観ぜず、虚空を観ぜず、外縁観ぜず、内縁を観ぜず、身色を観ぜず、色声を観ぜず、色像を観ぜず、ただ無縁を観ず。 これを正真の観身の法となす。

この観身を除きて十方にあきらかに求むること在々処々なるも、さらに別法にして解脱を得ることなし〉と。 仏また阿難に告げたまはく、〈ただみづから身を観ずるに善力自然なり、正念自然なり、解脱自然なり。 なにをもつてのゆゑに。 たとへば人ありて精進直心にして正解脱を得るがごとし。 かくのごとき人は解脱を求めざるに、解脱おのづから至る〉と。 阿難また仏にまうしてまうさく、〈世尊、世間の衆生もしかくのごとき正念解脱あらば、一切の地獄・餓鬼・畜生の三悪道なかるべし〉と。

仏、阿難に告げたまはく、〈世間の衆生解脱を得ず。 なにをもつてのゆゑに。 一切衆生はみな虚多く実少なきによりて、一として正念なし。 この因縁をもつて地獄のものは多く、解脱のものは少なし。 たとへば人ありて、みづからの父母および師僧において、外には孝順を現じ内には不孝を懐くがごとく、外には精進を現じ内には不実を懐く。 かくのごとき悪人報いまだ至らずといへども、三塗遠からず、正念あることなし、解脱を得ず〉と。 阿難また仏にまうしてまうさく、〈もしかくのごときものは、さらになんの善根を修してか正解脱を得る〉と。

仏、阿難に告げたまはく、〈なんぢいまよく聴け。 われいまなんぢがために説かん。 十の往生の法ありて解脱を得べし。 いかんが十となす。 一には観身正念にしてつねに歓喜を懐き、飲食・衣服をもつて仏および僧に施せば、阿弥陀仏国に往生す。 二には正念にして甘妙の良薬をもつて一の病比丘および一切衆生に施せば、阿弥陀仏国に往生す。 三には正念にして一の生命をも害せずして一切を慈悲すれば、阿弥陀仏国に往生す。 四には正念にして師の所に従ひて戒を受け、浄慧をもつて梵行を修し、心につねに歓喜を懐けば、阿弥陀仏国に往生す。 五には正念にして父母に孝順し、師長に敬奉して驕慢の心を起さざれば、阿弥陀仏国に往生す。 六には正念にして僧房に往詣し、塔寺を恭敬し、法を聞きて一義を解れば、阿弥陀仏国に往生す。 七には正念にして一日一夜のうちに八戒斎を受持して一をも破らざれば、阿弥陀仏国に往生す。 八には正念にしてもしよく斎月・斎日のうちに房舎を遠離してつねに善師に詣れば、阿弥陀仏国に往生す。 九には正念にしてつねによく浄戒を持ちて禅定を勤修し、法を護りて悪口せず。 もしよくかくのごとく行ずれば、阿弥陀仏国に往生す。 十には正念にして、もし無上道において誹謗の心を起さず、精進にして浄戒を持ち、また無智のものを教へてこの経法を流布し、無量の衆生を教化す。 かくのごときもろもろの人等は、ことごとくみな往生を得〉と。

その時会中に一の菩薩あり、山海恵と名づく。 仏にまうしてまうさく、〈世尊、かの阿弥陀国になんの妙楽勝事ありてか一切衆生みなかしこに往生せんと願ずる〉と。 仏、山海恵菩薩に告げたまはく、〈なんぢいままさに起立し合掌して身を正しくし、西に向かひて正念にして阿弥陀仏国を観じ、阿弥陀仏を見たてまつらんと願ずべし〉と。

その時一切の大衆またみな起立し合掌してともに阿弥陀仏を観じたてまつる。 その時阿弥陀仏、大神通を現じて大光明を放ち、山海恵菩薩の身を照らしたまふ。 その時山海恵菩薩等、すなはち阿弥陀仏の国土のあらゆる荘厳妙好の事を見たてまつるに、みなことごとく七宝なり。 七宝の山、七宝の国土あり。 水・鳥・樹林つねに法音を吐き、かの国には日々につねに法輪を転ず。 かの国の人民外事を習はず、まさしく内事を習ふ。 口に方等の語を説き、耳に方等の声を聴き、心に方等の義を解る。

その時山海恵菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われらいまかの国を覩見するに、勝妙の利益不可思議なり。 われいま願はくは一切衆生ことごとくみな往生せんことを。 しかして後にわれらもまた願はくはかの国に生ぜん〉と。 仏これを記してのたまはく、〈正観・正念せば正解脱を得て、みなことごとくかしこに生ぜん。 もし善男子・善女人ありてこの経を正信し、この経を愛楽して衆生を勧導せば、説者も聴者もことごとくみな阿弥陀仏国に往生せん。

もしかくのごとき等の人あらば、われ今日よりつねに二十五菩薩をしてこの人を護持せしめ、つねにこの人をして病なく悩なからしめん。 もしは、もしは非人、その便を得ず、行住坐臥に昼夜を問ふことなく、つねに安穏なることを得ん〉と。 山海恵菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、われいま尊教を頂受してあへて疑ふことあらず。 しかるに世に衆生あり、多く誹謗してこの経を信ぜざることあらん。 かくのごとき人は、後においていかん〉と。 仏、山海恵菩薩に告げたまはく、〈後において閻浮提に、あるいは比丘・比丘尼ありて、この経を読誦することあるものを見て、あるいはあひ瞋恚し心に誹謗を懐かん。 この謗正法によるがゆゑに、この人現身のなかに諸悪・重病・身根不具・聾盲瘖瘂・水腫・鬼魅を来致して、坐臥安からず、生を求むるに得ず、死を求むるに得ず。 あるいはすなはち死するに致りて地獄に堕し、八万劫のうちに大苦悩を受く。 百千万世にいまだかつて水食の名を聞かず。 久しくして後に出づることを得れども、牛・馬・猪・羊にありて人のために殺されて大極苦を受く。 後に人となることを得れども、つねに下処に生れ、百千万世にも自在を得ず。 永く三宝の名字を聞かず。 このゆゑに無智・無信の人のなかにして、この経を説くことなかれ〉」と。

【58】

撰集流通の徳、あまねく一切に施して、
先づ菩提心を発し、同じく浄国に帰向して、
みなともに仏道を成ぜん。




安楽集 巻下

[この集一部、現行本につきて開彫刻印せり。ただ浄教を通ぜしめ、蒼生を沾さんがためなり。ただ虎唐の謬、魚魯詳らかにしがたし。正本流伝せば、後昆刪定せよ。庶はくは、乃至一聞の類をして同じく九品の縁を結ばしめんのみ。


   [寛元三年{乙巳}仲秋の日            願主比丘往成