顕浄土真実信文類 (本)
出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
目 次
信文類三(本)
顕浄土真実信文類 序
- ここに愚禿釈の親鸞、諸仏如来の真説に信順して、論家・釈家の宗義を披閲す。広く三経の光沢を蒙りて、ことに一心の華文を開く。しばらく疑問を至してつひに明証を出す。まことに仏恩の深重なるを念じて、人倫の哢言を恥ぢず。浄邦を欣ふ徒衆、穢域を厭ふ庶類、取捨を加ふといへども毀謗を生ずることなかれとなり。
至心信楽の願 [正定聚の機]
顕浄土真実信文類 三
真実信
大信釈
愚禿釈親鸞集
顕浄土真実信文類 (本)
- つつしんで往相の回向を案ずるに、大信あり。大信心はすなはちこれ長生不死の神方、欣浄厭穢の妙術、選択回向の直心、利他深広の信楽、金剛不壊の真心、易往無人の浄信、心光摂護の一心、希有最勝の大信、世間難信の捷径、証大涅槃の真因、極速円融の白道、真如一実の信海なり。
- この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。しかるに常没の凡愚、流転の群生、無上妙果の成じがたきにあらず、真実の信楽まことに獲ること難し。
- なにをもつてのゆゑに、いまし如来の加威力によるがゆゑなり、博く大悲広慧の力によるがゆゑなり。たまたま浄信を獲ば、この心顛倒せず、この心虚偽ならず。ここをもつて極悪深重の衆生、大慶喜心を得、もろもろの聖尊の重愛を獲るなり。
経文証
因願文
大経
【2】 至心信楽の本願(第十八願)の文、『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生れんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法を除く」と。{以上}
如来会
【3】 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「もしわれ無上覚を証得せんとき、余仏の刹のうちのもろもろの有情類、わが名を聞き、おのれが所有の善根、心心に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん。もし生ぜずは菩提を取らじと。ただ無間の悪業を造り、正法およびもろもろの聖人を誹謗せんをば除く」と。{以上}
成就文
大経
【4】 本願成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。 かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生を得、不退転に住せん。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。{以上}
如来会
【5】 『無量寿如来会』(下)にのたまはく、[菩提流志訳]「他方の仏国の所有の有情、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せしめ、所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ぜば、願に随ひてみな生れ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間、正法を誹謗し、および聖者を謗らんをば除く」と。{以上}
獲信利益の文
大経
【6】 またのたまはく(大経・下)、「法を聞きてよく忘れず、見て敬ひ得て大きに慶ばば、すなはちわが善き親友なり。このゆゑにまさに意を発すべし」と。{以上}
如来会
【7】 またのたまはく(如来会・下)、「かくのごときらの類は大威徳のひとなり。よく広大仏法の異門に生ぜん」と。{以上}
【8】 またのたまはく(同・下)、「如来の功徳は仏のみみづから知ろしめせり。ただ世尊ましましてよく開示したまふ。天・竜・夜叉及ばざるところなり。二乗おのづから名言を絶つ。もしもろもろの有情まさに作仏して、行、普賢に超え、彼岸に登つて、一仏の功徳を敷演せん。時、多劫の不思議を逾えん。この中間において身は滅度すとも、仏の勝慧はよく量ることなけん。
このゆゑに信・聞およびもろもろの善友の摂受を具足して、かくのごときの深妙の法を聞くことを得ば、まさにもろもろの聖尊に重愛せらるることを獲べし。如来の勝智、遍虚空の所説の義言は、ただ仏のみ悟りたまへり。このゆゑに博く諸智土を聞きて、わが教、如実の言を信ずべし。人趣の身得ることはなはだ難し。如来の出世遇ふことまた難し。信慧多きときまさにいまし獲ん。このゆゑに修せんもの精進すべし。かくのごときの妙法すでに聴聞せば、つねに諸仏をして喜びを生ぜしめたてまつるなり」と。{抄出}
釈文証
曇鸞大師の釈二文(行信を明かす)
【9】 『論の註』(下 一〇三)にいはく、「〈かの如来の名を称し、かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉(浄土論)といへり。〈称彼如来名〉といふは、いはく無碍光如来の名を称するなり。
〈如彼如来光明智相〉といふは、仏の光明はこれ智慧の相なり。この光明、十方世界を照らすに障碍あることなし。よく十方衆生の無明の黒闇を除く。日月珠光のただ室穴のうちの闇を破するがごときにはあらざるなり。
〈如彼名義欲如実修行相応〉といふは、かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破す、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。しかるに称名憶念することあれども、無明なほ存して所願を満てざるはいかんとならば、実のごとく修行せざると、名義と相応せざるによるがゆゑなり。いかんが不如実修行と名義と相応せざるとする。いはく、如来はこれ実相の身なり、これ物のための身なりと知らざるなり。
また三種の不相応あり。一つには信心淳(淳の字、音純なり、また厚朴なり。朴の字、音卜なり。薬の名なり。諄の字、至なり。誠懇の貌なり。上の字に同じ)からず、存せるがごとし亡ぜるがごときのゆゑに。二つには信心一ならず、決定なきがゆゑに。三つには信心相続せず、余念間つるがゆゑに。
この三句展転してあひ成ず。信心淳からざるをもつてのゆゑに決定なし。決定なきがゆゑに念相続せず。また念相続せざるがゆゑに決定の信を得ず、決定の信を得ざるがゆゑに心淳からざるべし。これと相違せるを如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉(浄土論)とのたまへり」と。{以上}
【10】 『讃阿弥陀仏偈』(一六七)にいはく、[曇鸞和尚の造なり]「あらゆるもの、阿弥陀の徳号を聞きて、信心歓喜して聞くところを慶ばんこと、いまし一念におよぶまでせん。至心のひと回向したまへり。生ぜんと願ずればみな往くことを得しむ。ただ五逆と謗正法とをば除く。ゆゑにわれ頂礼して往生を願ず」と。{以上}
善導大師の釈五文(三心即一の義)
【11】 光明寺(善導)の『観経義』(定善義 四四八)にいはく、「如意といふは二種あり。一つには衆生の意のごとし、かの心念に随ひてみなこれを度すべし。二つには弥陀の意のごとし、五眼円かに照らし六通自在にして、機の度すべきものを観そなはして、一念のうちに前なく後なく身心等しく赴き、三輪開悟しておのおの益すること同じからざるなり」と。{以上}
【12】 またいはく(序分義 三九三 )、「この五濁・五苦等は六道に通じて受けて、いまだなきものはあらず。つねにこれに逼悩す。もしこの苦を受けざるものは、すなはち凡数の摂にあらざるなり」と。{抄出}
【13】 またいはく(散善義 四五四)、「〈何等為三〉より下〈必生彼国〉に至るまでこのかたは、まさしく三心を弁定して、もつて正因とすることを明かす。すなはちそれ二つあり。一つには世尊、機に随ひて益を顕すこと、意密にして知りがたし、仏みづから問うてみづから徴したまふにあらずは、解を得るに由なきを明かす。二つに如来還りてみづから前の三心の数を答へたまふことを明かす。
至誠心釈
『経』(観経)にのたまはく、〈一者至誠心〉。至とは真なり、誠とは実なり。
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。
もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}
不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。
深心釈
〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。
一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。
二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。
また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。
また決定して、『弥陀経』のなかに、十方恒沙の諸仏、一切凡夫を証勧して決定して生ずることを得と深信するなり。
また深信するもの、仰ぎ願はくは一切の行者等、一心にただ仏語を信じて身命を顧みず、決定して行によりて、仏の捨てしめたまふをばすなはち捨て、仏の行ぜしめたまふをばすなはち行ず。仏の去らしめたまふところをばすなはち去つ。これを仏教に随順し、仏意に随順すと名づく。これを仏願に随順すと名づく。これを真の仏弟子と名づく。
また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語なるがゆゑに。仏を除きて以還は、智行いまだ満たず。それ学地にありて、正習の二障ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量すれども、いまだ決了することあたはず。平章することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定とすべきなり。もし仏意に称へば、すなはち印可して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意に可はざれば、すなはち〈なんだちが所説この義不如是〉とのたまふ。印せざるはすなはち無記・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有の言説は、すなはちこれ正教・正義・正行・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑碍をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからざれと。{乃至}
釈迦一切の凡夫を指勧して、この一身を尽して専念専修して、捨命以後、さだめてかの国に生るれば、すなはち十方諸仏ことごとくみな同じく讃め、同じく勧め、同じく証したまふ。
なにをもつてのゆゑに、同体の大悲なるがゆゑに。一仏の所化は、すなはちこれ一切仏の化なり。一切仏の化は、すなはちこれ一仏の所化なり。すなはち『弥陀経』のなかに説かく、〈釈迦極楽の種々の荘厳を讃嘆したまふ。また一切の凡夫を勧めて一日七日、一心に弥陀の名号を専念せしめて、さだめて往生を得しめたまふ〉と。
次下の文にのたまはく、〈十方におのおの恒河沙等の諸仏ましまして、同じく釈迦よく五濁悪時・悪世界・悪衆生・悪見・悪煩悩・悪邪・無信の盛りなるときにおいて、弥陀の名号を指讃して衆生を勧励せしめて、称念すればかならず往生を得と讃じたまふ〉と、すなはちその証なり。また十方の仏等、衆生の釈迦一仏の所説を信ぜざらんをおそれて、すなはちともに同心同時におのおの舌相を出して、あまねく三千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、〈なんだち衆生、みなこの釈迦の所説・所讃・所証を信ずべし。一切の凡夫、罪福の多少、時節の久近を問はず、ただよく上百年を尽し、下一日七日に至るまで、一心に弥陀の名号を専念して、さだめて往生を得ること、かならず疑なきなり〉と。このゆゑに一仏の所説をば、すなはち一切仏同じくその事を証誠したまふなり。これを人について信を立つと名づくるなり。{乃至}
またこの正のなかについてまた二種あり。
一つには、一心に弥陀の名号を専念して、行住座臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく、かの仏願に順ずるがゆゑに。もし礼・誦等によらば、すなはち名づけて助業とす。この正・助二行を除きて以外の自余の諸善は、ことごとく雑行と名づく。{乃至}すべて疎雑の行と名づくるなり。ゆゑに深心と名づく。
回向発願心釈
〈三者回向発願心〉。{乃至}また回向発願して生ずるものは、かならず決定して真実心のうちに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心、深信せること金剛のごとくなるによりて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して、一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じて回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり。
問うていはく、もし解行不同の邪雑の人等ありて、来りてあひ惑乱して、あるいは種々の疑難を説きて〈往生を得じ〉といひ、あるいはいはん、〈なんだち衆生、曠劫よりこのかた、および今生の身口意業に、一切凡聖の身の上において、つぶさに十悪・五逆・四重・謗法・闡提・破戒・破見等の罪を造りて、いまだ除尽することあたはず。しかるにこれらの罪は三界悪道に繋属す。いかんぞ一生の修福念仏をして、すなはちかの無漏無生の国に入りて、永く不退の位を証悟することを得んや〉と。
答へていはく、諸仏の教行数塵沙に越えたり。識を稟くる機縁、情に随ひて一つにあらず。たとへば世間の人、眼に見るべく信ずべきがごときは、明のよく闇を破し、空のよく有を含み、地のよく載養し、水のよく生潤し、火のよく成壊するがごとし。これらのごときの事、ことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見つべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種種の益なからんや。随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩の門を出づるなり。随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧の門に入るなり。ここを為(為の字、定なり、用なり、彼なり、作なり、是なり、相なり)つて縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。
なんぢなにをもつてか、いまし有縁の要行にあらざるをもつて、われを障惑する。しかるにわが所愛はすなはちこれわが有縁の行なり、すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛はすなはちこれなんぢが有縁の行なり、またわれの所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修するは、かならず疾く解脱を得るなり。行者まさに知るべし、もし解を学ばんと欲はば、凡より聖に至るまで、乃至仏果まで一切碍なし、みな学ぶことを得よ。もし行を学ばんと欲はば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに、多く益を得ればなりと。
発遣と招喚 二河喩
また一切往生人等にまうさく、いまさらに行者のために一つの譬喩(喩の字、さとす)を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん。なにものかこれや。たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。
この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。
この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。
また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。
この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。これはこれ喩(喩の字、をしへなり)へなり。
合喩
次に喩へを合せば、〈東の岸〉といふは、すなはちこの娑婆の火宅に喩ふ。 〈西の岸〉といふは、すなはち極楽宝国に喩ふ。〈群賊・悪獣詐り親しむ〉といふは、すなはち衆生の六根・六識・六塵・五陰・四大に喩ふ。〈無人空迥の沢〉といふは、すなはちつねに悪友に随ひて真の善知識に値はざるに喩ふ。
〈水火の二河〉といふは、すなはち衆生の貪愛は水のごとし、瞋憎は火のごとしと喩ふ。〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。いまし貪瞋強きによるがゆゑに、すなはち水火のごとしと喩ふ。善心、微なるがゆゑに、白道のごとしと喩ふ。
また〈水波つねに道を湿す〉とは、すなはち愛心つねに起りてよく善心を染汚するに喩ふ。また〈火焔つねに道を焼く〉とは、すなはち瞋嫌の心よく功徳の法財を焼くに喩ふ。〈人、道の上を行いて、ただちに西に向かふ〉といふは、すなはちもろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ。〈東の岸に人の声の勧め遣はすを聞きて、道を尋ねてただちに西に進む〉といふは、すなはち釈迦すでに滅したまひて、後の人見たてまつらず、なほ教法ありて尋ぬべきに喩ふ、すなはちこれを声のごとしと喩ふるなり。〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。
〈西の岸の上に人ありて喚ばふ〉といふは、すなはち弥陀の願意に喩ふ。〈須臾に西の岸に到りて善友あひ見て喜ぶ〉といふは、すなはち衆生久しく生死に沈みて、曠劫より輪廻し、迷倒してみづから纏ひて、解脱するに由なし。
仰いで釈迦発遣して、指へて西方に向かへたまふことを蒙り、また弥陀の悲心招喚したまふによつて、いま二尊の意に信順して、水火の二河を顧みず、念々に遺るることなく、かの願力の道に乗じて、捨命以後かの国に生ずることを得て、仏とあひ見て慶喜すること、なんぞ極まらんと喩ふるなり。
また一切の行者、行住座臥に三業の所修、昼夜時節を問ふことなく、つねにこの解をなし、つねにこの想をなすがゆゑに、回向発願心と名づく。また回向といふは、かの国に生じをはりて、還りて大悲を起して、生死に回入して衆生を教化する、また回向と名づくるなり。
三心すでに具すれば、行として成ぜざるなし。願行すでに成じて、もし生ぜずは、この処あることなしとなり。またこの三心、また定善の義を通摂すと、知るべし」と。{以上}
【14】 またいはく(般舟讃 七一五)、「敬ひて一切往生の知識等にまうさく、大きにすべからく慚愧すべし。釈迦如来はまことにこれ慈悲の父母なり。種々の方便をして、われらが無上の信心を発起せしめたまへり」と。{以上}
【15】 『貞元の新定釈教の目録』巻第十一にいはく、「『集諸経礼懺儀』[上下]大唐西崇福寺の沙門智昇の撰なり。貞元十五年十月二十三日の勅に准じて編入す」と云々。『懺儀』の上巻は、智昇、諸経によりて『懺儀』を造るなかに、『観経』によりて善導の『礼懺』(往生礼讃)の日中のときの礼を引けり。下巻は「比丘善導の集記」と云々。
かの『懺儀』によりて要文を鈔していはく、「二つには深心、すなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づくと。{乃至}
〈それかの弥陀仏の名号を聞くことを得ることありて、歓喜して一心を至せば、みなまさにかしこに生ずることを得べし〉」と。{抄出}
源信和尚の釈(大信の利益)
【16】 『往生要集』(上 九二一)にいはく、「〈入法界品〉にのたまはく、〈たとへば人ありて不可壊の薬を得れば、一切の怨敵その便りを得ざるがごとし。菩薩摩訶薩もまたまたかくのごとし。
菩提心不可壊の法薬を得れば、一切の煩悩、諸魔怨敵、壊することあたはざるところなり。たとへば人ありて住水宝珠を得て、その身に瓔珞とすれば、深き水中に入りて没溺せざるがごとし。菩提心の住水宝珠を得れば、生死海に入りて沈没せず。たとへば金剛は百千劫において水中に処して爛壊し、また異変なきがごとし。菩提の心もまたまたかくのごとし。
無量劫において生死のなか、もろもろの煩悩の業に処するに、断滅することあたはず、また損減なし〉」と。{以上}
【17】 またいはく(往生要集・中 九五六)、「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつるにあたはずといへども、大悲、倦きことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」と。{以上}
総決
三心一心問答
第一の問答、三心字訓釈
- 問ふ。如来の本願(第十八願)、すでに至心・信楽・欲生の誓を発したまへり。なにをもつてのゆゑに、論主(天親)一心といふや。
- 答ふ。愚鈍の衆生、解了易からしめんがために、弥陀如来、三心を発したまふといへども、涅槃の真因はただ信心をもつてす。このゆゑに論主(天親)三を合して一とせるか。
- わたくしに三心の字訓を闚ふに、三すなはち一なるべし。その意いかんとなれば、至心といふは、至とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり。心とはすなはちこれ種なり、実なり。
- 信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり、満なり、極なり、成なり、用なり、重なり、審なり、験なり、宣なり、忠なり。楽とはすなはちこれ欲なり、願なり、愛なり、悦なり、歓なり、喜なり、賀なり、慶なり。
- 欲生といふは、欲とはすなはちこれ願なり、楽なり、覚なり、知なり。生とはすなはちこれ成なり、作(作の字、為なり、起なり、行なり、役なり、始なり、生なり)なり、為なり、興なり。
- いま三心の字訓を案ずるに、真実の心にして虚仮雑はることなし、正直の心にして邪偽雑はることなし。まことに知んぬ、疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく。信楽すなはちこれ一心なり、一心すなはちこれ真実信心なり。このゆゑに論主(天親)、建めに「一心」といへるなりと、知るべし。
第二の問答、三心別相釈(仏意釈)
- また問ふ。字訓のごとき、論主(天親)の意、三をもつて一とせる義、その理しかるべしといへども、愚悪の衆生のために阿弥陀如来すでに三心の願を発したまへり。いかんが思念せんや。
至心釈
至心の体相
- 答ふ。仏意測りがたし。しかりといへども、ひそかにこの心を推するに、一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
- ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
- 如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。すなはちこれ利他の真心を彰す。
- ゆゑに疑蓋雑はることなし。
- この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
経文証
大経
【22】 ここをもつて『大経』(上)にのたまはく、「欲覚・瞋覚・害覚を生ぜず。欲想・瞋想・害想を起さず。色・声・香・味の法に着せず。忍力成就して衆苦を計らず。少欲知足にして染・恚・痴なし。三昧常寂にして智慧無碍なり。虚偽諂曲の心あることなし。和顔愛語にして意を先にして承問す。勇猛精進にして志願倦きことなし。もつぱら清白の法を求めて、もつて群生を恵利しき。三宝を恭敬し、師長に奉事しき。大荘厳をもつて衆行を具足して、もろもろの衆生をして功徳成就せしむとのたまへり」と。{以上}
如来会
【23】 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「仏、阿難に告げたまはく、〈かの法処比丘(法蔵菩薩)、世間自在王如来(世自在王仏)および諸天・人・魔・梵・沙門・婆羅門等の前にして、広くかくのごとき大弘誓を発しき。みなすでに成就したまへり。世間に希有にしてこの願を発し、すでに実のごとく安住す。種種の功徳具足して、威徳広大清浄仏土を荘厳せり。かくのごとき菩薩の行を修習せること、時、無量無数不可思議無有等等億那由他百千劫を経る。内にはじめていまだかつて貪・瞋および痴、欲・害・恚の想を起さず、色・声・香・味・触の想を起さず、もろもろの衆生において、つねに愛敬を楽ふことなほ親属のごとし。{乃至}その性、調順にして暴悪あることなし。もろもろの有情において、つねに慈忍の心を懐いて詐諂せず、また懈怠なし。善言策進して、もろもろの白法を求めしめ、あまねく群生のために勇猛にして退することなく、世間を利益せしめ、大願円満したまへり〉」と。{略出}
釈文証
【24】 光明寺の和尚(善導)のいはく(散善義 四五五)、「この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に求生せんと欲ふは、これかならず不可なり。なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行ぜしとき、乃至一念一刹那も三業の所修みなこれ真実心のなかになしたまへるによりてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なりと。{乃至}
不善の三業をば、かならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに、至誠心と名づく」と。{抄要}
結釈
- 【26】 すでに「真実」といへり。真実といふは、
『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「実諦は一道清浄にして二あることなきなり。真実といふはすなはちこれ如来なり。如来はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ虚空なり。虚空はすなはちこれ真実なり。真実はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ真実なり」と。{以上}
- 「内外」とは、「内」はすなはちこれ出世なり、「外」はすなはちこれ世間なり。「明闇」とは、「明」はすなはちこれ出世なり、「闇」はすなはちこれ世間なり。また「明」はすなはち智明なり、「闇」はすなはち無明なり。
『涅槃経』(迦葉品)にのたまはく、「闇はすなはち世間なり、明はすなはち出世なり。闇はすなはち無明なり、明はすなはち智明なり」と。{以上}
信楽釈
信楽の体相
- 【28】 次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。
- しかるに無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。
- 一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
- なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。
- 如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。
経文証
大経
【29】 本願信心の願(第十八願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「諸有の衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん」と。{以上}
如来会
【30】 またのたまはく(如来会・下)、「他方仏国の所有の衆生、無量寿如来の名号を聞きて、よく一念の浄信を発して歓喜せん」と。{以上}
涅槃経
【31】 『涅槃経』(師子吼品)にのたまはく、「善男子、大慈大悲を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、大慈大悲はつねに菩薩に随ふこと、影の形に随ふがごとし。一切衆生、つひにさだめてまさに大慈大悲を得べし。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大慈大悲は名づけて仏性とす。仏性は名づけて如来とす。
大喜大捨を名づけて仏性とす。なにをもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩は、もし二十五有を捨つるにあたはず、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を得ることあたはず。もろもろの衆生、つひにまさに得べきをもつてのゆゑなり。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といへるなり。大喜大捨はすなはちこれ仏性なり、仏性はすなはちこれ如来なり。
仏性は大信心と名づく。なにをもつてのゆゑに、信心をもつてのゆゑに、菩薩摩訶薩はすなはちよく檀波羅蜜乃至般若波羅蜜を具足せり。一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。
仏性は一子地と名づく。なにをもつてのゆゑに、一子地の因縁をもつてのゆゑに、菩薩はすなはち一切衆生において平等心を得たり。一切衆生は、つひにさだめてまさに一子地を得べきがゆゑに、このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。一子地はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり」と。{以上}
【32】 またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「あるいは阿耨多羅三藐三菩提を説くに、信心を因とす。これ菩提の因、また無量なりといへども、もし信心を説けば、すなはちすでに摂尽しぬ」と。{以上}
【33】 またのたまはく(同・迦葉品)、「信にまた二種あり。一つには聞より生ず、二つには思より生ず。この人の信心、聞よりして生じて、思より生ぜず。このゆゑに名づけて信不具足とす。また二種あり。一つには道ありと信ず、二つには得者を信ず。この人の信心、ただ道ありと信じて、すべて得道の人ありと信ぜざらん。これを名づけて信不具足とす」と。{以上抄出}
華厳経
【34】 『華厳経』(入法界品・晋訳)にのたまはく、「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。
【35】 またのたまはく(同・入法界品・唐訳)、「如来、よく永く一切衆生の疑を断たしむ。その心の所楽に随ひて、あまねくみな満足せしむ」となり。
【36】 またのたまはく(華厳経・賢首品・唐訳)、
「信は道の元とす、功徳の母なり。一切のもろもろの善法を長養す。疑網を断除して愛流を出で、涅槃無上道を開示せしむ。
信は垢濁の心なし。清浄にして驕慢を滅除す。恭敬の本なり。また法蔵第一の財とす。清浄の手として衆行を受く。
信はよく恵施して心に悋しむことなし。
信はよく歓喜して仏法に入る。
信はよく智功徳を増長す。信はよくかならず如来地に到る。
信は諸根をして浄明利ならしむ。信力堅固なればよく壊することなし。
信はよく永く煩悩の本を滅す。
信はよくもつぱら仏の功徳に向かへしむ。
信は境界において所着なし。諸難を遠離して無難を得しむ。
信はよく衆魔の路を超出し、無上解脱道を示現せしむ。
信は功徳のために種を壊らず。
信はよく菩提の樹を生長す。信はよく最勝智を増益す。
信はよく一切仏を示現せしむ。
このゆゑに行によりて次第を説く。
信楽、最勝にしてはなはだ得ること難し。{乃至}[1]
もしつねに諸仏に信奉すれば、すなはちよく大供養を興集す。
もしよく大供養を興集すれば、かの人、仏の不思議を信ず。
もしつねに尊法に信奉すれば、すなはち仏法を聞くに厭足なし。
もし仏法を聞くに厭足なければ、かの人、法の不思議を信ず。
もしつねに清浄僧に信奉すれば、すなはち信心退転せざることを得。
もし信心不退転を得れば、かの人の信力よく動くことなし。
もし信力を得てよく動くことなければ、すなはち諸根浄明利を得ん。
もし諸根浄明利を得れば、すなはち善知識に親近することを得。
すなはち善知識に親近することを得れば、すなはちよく広大の善を修集す。
もしよく広大の善を修集すれば、かの人、大因力を成就す。
もし人、大因力を成就すれば、すなはち殊勝決定の解を得。
もし殊勝決定の解を得れば、すなはち諸仏の為に護念せらる。
もし諸仏の為に護念せらるれば、すなはちよく菩提心を発起す。
もしよく菩提心を発起すれば、すなはちよく仏の功徳を勤修せしむ。
もしよく仏の功徳を勤修すれば、すなはちよく生れて如来の家にあらん。
もし生れて如来の家にあることを得れば、すなはち善をして巧方便を修行せん。
もし善をして巧方便を修行すれば、すなはち信楽の心、清浄なることを得。
もし信楽の心、清浄なることを得れば、すなはち増上の最勝心を得。
もし増上の最勝心を得れば、すなはちつねに波羅蜜を修習せん。
もしつねに波羅蜜を修習すれば、すなはちよく摩訶衍を具足せん。
もしよく摩訶衍を具足すれば、すなはちよく法のごとく仏を供養せん。
もしよく法のごとく仏を供養すれば、すなはちよく念仏の心、動ぜず。
もしよく念仏の心、動ぜざれば、すなはちつねに無量仏を覩見せん。
もしつねに無量仏を覩見すれば、すなはち如来の体、常住を見ん。
もし如来の体、常住を見れば、すなはちよく法の永く不滅なることを知らん。
もしよく法の永く不滅なるを知れば、弁才を得、無障碍を得ん。
もし弁才、無障碍を得れば、すなはちよく無辺の法を開演せん。
もしよく無辺の法を開演せば、すなはちよく慈愍して衆生を度せん。
もしよく衆生を慈愍し度すれば、すなはち堅固の大悲心を得ん。
もし堅固の大悲心を得れば、すなはちよく甚深の法を愛楽せん。
もしよく甚深の法を愛楽すれば、すなはちよく有為の過を捨離せん。
もしよく有為の過を捨離すれば、すなはち驕慢および放逸を離る。
もし驕慢および放逸を離るれば、すなはちよく一切衆を兼利せん。
もしよく一切衆を兼利すれば、すなはち生死に処して疲厭なけん」となり。{略抄}
釈文証
【37】 『論の註』(下 一〇四)にいはく、「如実修行相応と名づく。このゆゑに論主(天親)、建めに〈我一心〉(浄土論)とのたまへり」と。{以上}
【38】 またいはく(同・下 一五七)、「経の始めに<如是>と称することは、信を彰して能入とす」と。{以上}
欲生釈
欲生の体相
- 【39】 次に欲生といふは、すなはちこれ如来、諸有の群生を招喚したまふの勅命なり。
- すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。まことにこれ大小・凡聖、定散自力の回向にあらず。ゆゑに不回向と名づくるなり。
- しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
- このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。
経文証
大経
【40】 ここをもつて本願の欲生心成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「至心回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住すと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く」と。{以上}
如来会
【41】 またのたまはく(如来会・下)、「所有の善根回向したまへるを愛楽して、無量寿国に生ぜんと願ずれば、願に随ひてみな生ぜしめ、不退転乃至無上正等菩提を得んと。五無間・誹謗正法および謗聖者を除く」と。{以上}
釈文証
【42】 『浄土論』(論註・下 一〇七)にいはく、「〈いかんが回向したまへる。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉(浄土論)とのたまへり。回向に二種の相あり。
一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に回施したまひて、作願してともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり。還相とは、かの土に生じをはりて、奢摩他毘婆舎那方便力成就することを得て、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向らしめたまふなり。もしは往、もしは還、みな衆生を抜いて生死海を渡せんがためにしたまへり。このゆゑに〈回向為首得成就大悲心故〉とのたまへり」と。{以上}
【43】 またいはく(同・下 一三八)、「浄入願心とは、『論』(浄土論)にいはく、〈また向に観察荘厳仏土功徳成就・荘厳仏功徳成就・荘厳菩薩功徳成就を説きつ。この三種の成就は願心の荘厳したまへるなりと知るべし〉といへりと。知るべしとは、この三種の荘厳成就はもと四十八願等の清浄の願心の荘厳したまふところなるによりて、因浄なるがゆゑに果浄なり、因なくして他の因のあるにはあらざるなりと知るべしとなり」と。{以上}
【44】 また『論』(論註・下 一五二)にいはく、「〈出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察して、応化の身を示して、生死の園、煩悩の林のなかに回入して、神通に遊戯し教化地に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく〉(浄土論)とのたまへり」と。{以上}
【45】 光明寺の和尚(善導)のいはく(散善義 四六四)、「また回向発願して生るるものは、かならず決定真実心のなかに回向したまへる願を須ゐて得生の想をなせ。この心深く信ぜること金剛のごとくなるによつて、一切の異見・異学・別解・別行の人等のために動乱破壊せられず。ただこれ決定して一心に捉つて正直に進んで、かの人の語を聞くことを得ざれ。すなはち進退の心ありて怯弱を生じ、回顧すれば、道に落ちてすなはち往生の大益を失するなり」と。{以上}
助釈
- 【46】 まことに知んぬ、二河の譬喩のなかに「白道四五寸」といふは、白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。
【47】 『観経義』(玄義分 二九七)に、
「道俗時衆等、おのおの無上の心を発せども、
生死はなはだ厭ひがたく、仏法また欣ひがたし。
ともに金剛の志を発して、横に四流を超断せよ。
まさしく金剛心を受けて、一念に相応してのち、
果、涅槃を得んひと」といへり。{抄要}
【48】 またいはく(序分義 三七四)、「真心徹到して苦の娑婆を厭ひ、楽の無為を欣ひて、永く常楽に帰すべし。ただし無為の境、軽爾としてすなはち階ふべからず、苦悩の娑婆輒然として離るることを得るに由なし。金剛の志を発すにあらずよりは、永く生死の元を絶たんや。もし親り慈尊に従ひたてまつらずは、なんぞよくこの長き歎きを勉れん」と。
【49】 またいはく(定善義 四一九)、「金剛といふは、すなはちこれ無漏の体なり」と。{以上}
問答結帰
三心結釈
- 【50】 まことに知んぬ、至心・信楽・欲生、その言異なりといへども、その意これ一つなり。なにをもつてのゆゑに、三心すでに疑蓋雑はることなし、ゆゑに真実の一心なり。これを金剛の真心と名づく。金剛の真心、これを真実の信心と名づく。真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり。このゆゑに論主(天親)、建めに「我一心」(浄土論)とのたまへり。また「如彼名義欲如実修行相応故」(同)とのたまへり。
大信嘆徳(四不十四非)
- 【51】 おほよそ大信海を案ずれば、貴賤緇素を簡ばず、男女・老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬はよく智愚の毒を滅するなり。
菩提心釈
- 【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
- また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
【53】 『論の註』(下 一四四)にいはく、「王舎城所説の『無量寿経』を案ずるに、三輩生のなかに行に優劣ありといへども、みな無上菩提の心を発せざるはなし。
この無上菩提心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心は、すなはちこれ衆生を摂取して有仏の国土に生ぜしむる心なり。このゆゑにかの安楽浄土に生ぜんと願ずるものは、かならず無上菩提心を発するなり。もし人、無上菩提心を発せずして、ただかの国土の受楽間なきを聞きて、楽のためのゆゑに生ぜんと願ぜん、またまさに往生を得ざるべきなり。このゆゑにいふこころは、自身住持の楽を求めず、一切衆生の苦を抜かんと欲ふがゆゑにと。住持楽とは、いはく、かの安楽浄土は阿弥陀如来の本願力のために住持せられて受楽間なきなり。おほよそ回向の名義を釈せば、いはく、おのれが所集の一切の功徳をもつて一切衆生に施与したまひて、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と。{抄出}
【54】 元照律師のいはく(阿弥陀経義疏)、「他のなすことあたはざるがゆゑに甚難なり。世挙つていまだ見たてまつらざるがゆゑに希有なり」と。
【55】 またいはく(同)、「念仏法門は、愚智豪賤を簡ばず、久近善悪を論ぜず、ただ決誓猛信を取れば臨終悪相なれども、十念に往生す。これすなはち具縛の凡愚、屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。世間甚難信といふべきなり」と。
【56】 またいはく(同)、「この悪世にして修行成仏するを難とするなり。もろもろの衆生のために、この法門を説くを二つの難とするなり。前の二難を承けて、すなはち諸仏所讃の虚しからざる意を彰す。衆生聞きて信受せしめよとなり」と。{以上}
【57】 律宗の用欽のいはく、「法の難を説くなかに、まことにこの法をもつて凡を転じて聖となすこと、なほし掌を反すがごとくなるをや。大きにこれ易かるべきがゆゑに、おほよそ浅き衆生は多く疑惑を生ぜん。すなはち『大本』(大経・下)に〈易往而無人〉といへり。ゆゑに知んぬ、難信なり」と。
【58】 『聞持記』にいはく、「〈愚智を簡ばず〉といふは、[性に利鈍あり。]〈豪賤を択ばず〉といふは、[報に強弱あり。]〈久近を論ぜず〉といふは、[功に浅深あり。]〈善悪を選ばず〉といふは、[行に好醜あり。]〈決誓猛信を取れば臨終悪相なれども〉といふは、[すなはち『観経』下品中生に地獄の衆火、一時にともに至ると等いへり。]〈具縛の凡愚〉といふは、[二惑まつたくあるがゆゑに。]〈屠沽の下類、刹那に超越する成仏の法なり。一切世間甚難信といふべきなり〉といふは、[屠はいはく、殺を宰る。沽はすなはち醞売。かくのごとき悪人、ただ十念によりてすなはち超往を得、あに難信にあらずや。]
阿弥陀如来は真実明・平等覚・難思議・畢竟依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光と号したてまつるなり」と。{以上}
【59】 『楽邦文類』の後序にいはく、「浄土を修するものつねに多けれども、その門を得てただちに造るものいくばくもなし。浄土を論ずるものつねに多けれども、その要を得てただちに指ふるものあるいは寡し。かつていまだ聞かず、自障自蔽をもつて説をなすことあるもの。得るによりてもつてこれをいふ。それ自障は愛にしくなし、自蔽は疑にしくなし。ただ疑・愛の二心つひに障碍なからしむるは、すなはち浄土の一門なり。いまだはじめて間隔せず。弥陀の洪願つねにおのづから摂持したまふ。必然の理なり」と。{以上}
出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社) |