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「顕浄土真実行文類」の版間の差分

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

(一乗の機教)
(一乗讃徳)
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:しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。<span id="P--200"></span>
 
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2012年11月17日 (土) 14:06時点における版


浄土真実の行

諸仏称名の願

選択本願の行

ご自釈は、番号をクリックすると現代語訳が参照できます。

目 次

行文類二

諸仏称名の願 {浄土真実の行 選択本願の行}

真実行

顕浄土真実行文類 二

                           愚禿釈親鸞集

大行釈

【1】

 つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり。すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、また往相回向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。[1]

引文

本 経

正依
『大 経』

【2】 諸仏称名の願『大経』(上)にのたまはく、「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟してわが名をせずは、正覚を取らじ」と。{以上}

【3】 またのたまはく(同・上)、「われ仏道を成らんに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ふ、正覚を成らじと。衆のために宝蔵を開きて、広く功徳の宝を施せん。つねに大衆のなかにして、説法獅子吼せん」と。{抄要}

【4】 願(第十七願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「十方恒沙の諸仏如来、みなともに無量寿仏の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまふ」と。{以上}

【5】 またのたまはく(同・下)、「無量寿仏の威神極まりなし。十方世界無量無辺不可思議の諸仏如来、かれを称嘆せざるはなし」と。{以上}

【6】 またのたまはく(同・下)、「その仏の本願力、名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到りて、おのづから不退転に至る」と。{以上}

異訳
『如来会』

【7】 『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「いま如来に対して弘誓を発せり。まさに無上菩提の因を証(証の字、験なり)すべし。もしもろもろの上願を満足せずは、十力無等尊を取らじと。こころ、あるいは常行に堪へざらんものに施せん。広く貧窮を済ひてもろもろの苦を免れしめ、世間を利益して安楽ならしめんと。{乃至}

 最勝丈夫修行しをはりて、かの貧窮において伏蔵とならん。善法を円満し等倫なけん。大衆のなかにして獅子吼せん」と。{以上抄出}

【8】 またのたまはく(如来会・下)、「阿難、この義利をもつてのゆゑに、無量無数不可思議無有等等無辺世界の諸仏如来、みなともに無量寿仏の所有の功徳を称讃したまふ」と。{以上}

『大阿弥陀経』

【9】 『仏説諸仏阿弥陀三耶三仏薩楼仏檀過度人道経』(上)[『大阿弥陀経』といふ、『二十四願経』といふ]にのたまはく、「第四に願ずらく、〈それがし作仏せしめんとき、わが名字をもつてみな、八方上下、無央数の仏国に聞かしめん。みな諸仏おのおの比丘僧大衆のなかにして、わが功徳・国土の善を説かしめん。諸天・人民・蜎飛・蠕動の類、わが名字を聞きて慈心せざるはなけん。歓喜踊躍せんもの、みなわが国に来生せしめ、この願を得ていまし作仏せん。この願を得ずは、つひに作仏せじ〉」と。{以上}

『平等覚経』

【10】 『無量清浄平等覚経』の巻上にのたまはく、「〈われ作仏せんとき、わが名をして、八方上下、無数の仏国に聞かしめん。諸仏おのおの弟子衆のなかにして、わが功徳・国土の善を嘆ぜん。諸天・人民・蠕動の類、わが名字を聞きてみなことごとく踊躍せんもの、わが国に来生せしめん。しからずはわれ作仏せじ〉と。

〈われ作仏せんとき、他方仏国の人民、前世に悪のためにわが名字を聞き、およびまさしく道のためにわが国に来生せんと欲はん。寿終へてみなまた三悪道に更らざらしめて、すなはちわが国に生れんこと、心の所願にあらん。しからずはわれ作仏せじ〉と。阿闍世王太子および五百の長者子、無量清浄仏の二十四願を聞きて、みな大きに歓喜し踊躍して、心中にともに願じていはまく、〈われらまた作仏せんとき、みな無量清浄仏のごとくならしめん〉と。

仏すなはちこれを知ろしめして、もろもろの比丘僧に告げたまはく、〈この阿闍世王太子および五百の長者子、のち無央数劫を却りて、みなまさに作仏して無量清浄仏のごとくなるべし〉と。仏ののたまはく、〈この阿闍世王太子・五百の長者子、菩薩の道をなしてこのかた、無央数劫に、みなおのおの四百億仏を供養しをはりて、いままた来りてわれを供養せり。この阿闍世王太子および五百人等、みな前世に迦葉仏のとき、わがために弟子となれりき。いまみなまた会してこれともにあひ値へるなり〉と。すなはちもろもろの比丘僧、仏の言を聞きて、みな心踊躍して歓喜せざるものなけんと。{乃至}

〈かくのごときの人、仏の名を聞きて、快く安穏にして大利を得ん。
われらが類この徳を得ん。もろもろのこのに好きところを獲ん。
無量覚そのを授けん。
《われ前世に本願あり。一切の人、法を説くを聞かば、みなことごとくわが国に来生せん。
わが願ずるところみな具足せん。もろもろの国より来生せんもの、
みなことごとくこの間に来到して、一生に不退転を得ん》と。
すみやかに疾く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。
この功徳あるにあらざる人は、この経の名を聞くことを得ず。
ただ清浄に戒を有てるもの、いまし還りてこの正法を聞く。
悪と驕慢とと懈怠のものは、もつてこの法を信ずること難し。
宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽んで世尊の教を聴聞せん。
人の命まれに得べし。仏、世にましませどもはなはだ値ひがたし。
信慧ありて致るべからず。もし聞見せば精進して求めよ。
この法を聞きて忘れず、すなはち見て敬ひ得て大きに慶ばば
すなはちわが善き親厚なり。これをもつてのゆゑに道意を発せよ。
たとひ世界に満てらん火にも、このなかを過ぎて法を聞くことを得ば、
かならずまさに世尊となりて、まさに一切生老死を度せんとすべし〉」と。{以上}
末 経
『悲華経』

【11】 『悲華経』の「大施品」の二巻にのたまはく、[曇無讖三蔵の訳]「願はくは、われ阿耨多羅三藐三菩提を成りをはらんに、無量無辺阿僧祇の余仏の世界の所有の衆生、わが名を聞かんもの、もろもろの善本を修してわが界に生ぜんと欲はん。願はくは、それ命を捨ててののち、必定して生を得しめん。ただ五逆と聖人を誹謗せんと、正法を廃壊せんとを除かん」と。{以上}

経文結釈「破闇満願」

【12】

 しかれば名を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、知るべしと。

論文

龍樹『十住毘婆沙論』の四品九文

入初地品

【13】 『十住毘婆沙論』(入初地品)にいはく、「ある人のいはく、〈般舟三昧および大悲を諸仏の家と名づく。この二法よりもろもろの如来を生ず〉と。このなかに般舟三昧を父とす、また大悲を母とす。また次に般舟三昧はこれ父なり、無生法忍はこれ母なり。『助菩提』のなかに説くがごとし。〈般舟三昧の父、大悲無生の母、一切のもろもろの如来、この二法より生ず〉と。家に過咎なければ家清浄なり。ゆゑに清浄とは六波羅蜜・四功徳処なり。方便・般若波羅蜜は善慧なり。般舟三昧・大悲・諸忍、この諸法清浄にして過あることなし。ゆゑに家清浄と名づく。この菩薩、この諸法をもつて家とするがゆゑに、過咎あることなし。世間道を転じて出世上道に入るものなり。世間道をすなはちこれ凡夫所行の道と名づく。転じて休息と名づく

凡夫道は究竟して涅槃に至ることあたはず、つねに生死に往来す。これを凡夫道と名づく。出世間は、この道によりて三界を出づることを得るがゆゑに、出世間道と名づく。上は妙なるがゆゑに名づけて上とす。入はまさしく道を行ずるがゆゑに名づけて入とす。この心をもつて初地に入るを歓喜地と名づくと。

 問うていはく、初地なんがゆゑぞ名づけて歓喜とするやと。

 答へていはく、〈初果の究竟して涅槃に至ることを得るがごとし。菩薩この地を得れば、心つねに歓喜多し。自然に諸仏如来の種を増長することを得。このゆゑにかくのごときの人を、賢善者と名づくることを得〉と。初果を得るがごとしといふは、人の須陀洹道を得るがごとし。よく三悪道の門を閉づ。法を見て法に入り、法を得て堅牢の法に住して傾動すべからず、究竟して涅槃に至る。見諦所断の法を断ずるがゆゑに、心大いに歓喜す。たとひ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。一毛をもつて百分となして、一分の毛をもつて大海の水を分ち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三渧のごとき心、大きに歓喜せん。菩薩もかくのごとし、初地を得をはるを如来の家に生ずと名づく。一切天・竜・夜叉・乾闥婆、{乃至}声聞・辟支等、ともに供養し恭敬するところなり。

なにをもつてのゆゑに、この家過咎あることなし。ゆゑに世間道を転じて出世間道に入る。

ただ仏を楽敬すれば、四功徳処を得、六波羅蜜の果報を得ん。滋味もろもろの仏種を断たざるがゆゑに、心大きに歓喜す。この菩薩所有の余の苦は二三の水渧のごとし。百千億劫に阿耨多羅三藐三菩提を得といへども、無始生死の苦においては二三の水渧のごとし。滅すべきところの苦は大海の水のごとし。このゆゑにこの地を名づけて歓喜とす」と。

地相品

 (地相品)「問うていはく、初歓喜地の菩薩、この地のなかにありて多歓喜と名づく。もろもろの功徳を得ることをなすがゆゑに歓喜を地とす。法を歓喜すべし。なにをもつて歓喜するやと。

 答へていはく、〈つねに諸仏および諸仏の大法を念ずれば、必定して希有の行なり。このゆゑに歓喜多し〉と。かくのごときらの歓喜の因縁のゆゑに、菩薩、初地のなかにありて心に歓喜多し。諸仏を念ずといふは、燃灯等の過去の諸仏、阿弥陀等の現在の諸仏、弥勒等の将来の諸仏を念ずるなり。つねにかくのごときの諸仏世尊を念ずれば、現に前にましますがごとし。三界第一にしてよく勝れたるひとましまさず。このゆゑに歓喜多し。諸仏の大法を念ぜば、略して諸仏の四十不共法を説かんと。

一つには自在の飛行、意に随ふ、二つには自在の変化、辺なし、三つには自在の所聞、無碍なり、四つには自在に無量種門をもつて一切衆生の心を知ろしめすと。{乃至}念必定のもろもろの菩薩は、もし菩薩、阿耨多羅三藐三菩提の記を得つれば、法位に入り無生忍を得るなり。

千万億数の魔の軍衆、壊乱することあたはず。大悲心を得て大人法を成ず。{乃至}

これを念必定の菩薩と名づく。希有の行を念ずといふは、必定の菩薩、第一希有の行を念ずるなり。心に歓喜せしむ。一切凡夫の及ぶことあたはざるところなり。一切の声聞・辟支仏の行ずることあたはざるところなり。仏法無碍解脱および薩婆若智を開示す。また十地のもろもろの所行の法を念ずれば、名づけて心多歓喜とす。このゆゑに菩薩初地に入ることを得れば、名づけて歓喜とすと。

 問うていはく、凡夫人のいまだ無上道心を発せざるあり、あるいは発心するものあり、いまだ歓喜地を得ざらん、この人、諸仏および諸仏の大法を念ぜんと、必定の菩薩および希有の行を念じてまた歓喜を得んと。初地を得ん菩薩の歓喜とこの人と、なんの差別かあるやと。

 答へていはく、〈菩薩初地を得ば、その心歓喜多し。諸仏無量の徳、われまたさだめてまさに得べし〉と。初地を得ん必定の菩薩は、諸仏を念ずるに無量の功徳います。われまさにかならずかくのごときの事を得べし。なにをもつてのゆゑに。われすでにこの初地を得、必定のなかに入れり。余はこの心あることなけん。このゆゑに初地の菩薩多く歓喜を生ず。余はしからず。なにをもつてのゆゑに。余は諸仏を念ずといへども、この念をなすことあたはず、われかならずまさに作仏すべしと。たとへば転輪聖子の、転輪王の家に生れて、転輪王の相を成就して、過去の転輪王の功徳尊貴を念じて、この念をなさん。われいままたこの相あり。またまさにこの豪富尊貴を得べし。心大きに歓喜せん。

もし転輪王の相なければ、かくのごときの喜びなからんがごとし。必定の菩薩、もし諸仏および諸仏の大功徳・威儀・尊貴を念ずれば、われこの相あり。

かならずまさに作仏すべし、すなはち大きに歓喜せん。余はこの事あることなけん。定心は深く仏法に入りて心動ずべからず」と。

浄地品

【14】 またいはく(浄地品)、「信力増上はいかん。聞見するところありてかならず受けて疑なければ増上と名づく、殊勝と名づくと。

 問うていはく、二種の増上あり。一つには多、二つには勝なり。いまの説なにものぞやと。

 答へていはく、このなかの二事ともに説かん。菩薩初地に入ればもろもろの功徳の味はひを得るがゆゑに、信力転増す。この信力をもつて諸仏の功徳無量深妙なるを籌量してよく信受す。このゆゑにこの心また多なり、また勝なり。深く大悲を行ずとは、衆生を愍念すること骨体に徹入するがゆゑに名づけて深とす。一切衆生のために仏道を求むるがゆゑに名づけて大とす。慈心はつねに利事を求めて衆生を安穏す。慈に三種あり」と。{乃至}

易行品

【15】 またいはく(易行品 五)、「仏法に無量の門あり。世間の道に難あり、易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便の易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。{乃至}

〈もし人疾く不退転地に至らんと欲はば、恭敬の心をもつて執持して名号を称すべし〉。もし菩薩、この身において阿惟越致地に至ることを得、阿耨多羅三藐三菩提を成らんと欲はば、まさにこの十方諸仏を念ずべし。名号を称すること『宝月童子所問経』の「阿惟越致品」のなかに説くがごとしと。{乃至}

〈西方に善世界の仏を無量明と号す。身光智慧あきらかにして、照らすところ辺際なし。

それ名を聞くことあるものは、すなはち不退転を得と。{乃至}過去無数劫に仏まします。海徳と号す。このもろもろの現在の仏、みなかれに従つて願を発せり。寿命量りあることなし。光明照らして極まりなし。国土はなはだ清浄なり。名を聞きてさだめて仏にならんと〉。{乃至}

 問うていはく、ただこの十仏の名号を聞きて執持して心に在けば、すなはち阿耨多羅三藐三菩提を退せざることを得。また余仏・余菩薩の名ましまして、阿惟越致に至ることを得とやせんと。

 答へていはく、〈阿弥陀等の仏および諸大菩薩、名を称し一心に念ずれば、また不退転を得ることかくのごとし〉と。阿弥陀等の諸仏、また恭敬礼拝し、その名号を称すべし。

いままさにつぶさに無量寿仏を説くべし。世自在王仏[乃至その余の仏まします]この諸仏世尊、現在十方の清浄世界に、みな名を称し阿弥陀仏の本願を憶念することかくのごとし。もし人、われを念じ名を称しておのづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得、このゆゑにつねに憶念すべしと。をもつて称讃せん。

無量光明慧、身は真金の山のごとし。
われいま身口意をして、合掌し稽首し礼したてまつると。{乃至}
人よくこの仏の無量力功徳を念ずれば、
即のときに必定に入る。このゆゑにわれつねに念じたてまつる。{乃至}
もし人、仏にならんと願じて、心に阿弥陀を念じたてまつれば、
時に応じてために身を現じたまはん。このゆゑにわれ、
かの仏の本願力を帰命す。十方のもろもろの菩薩も、
来りて供養し法を聴く。このゆゑにわれ稽首したてまつると。{乃至}
もし人、善根を種ゑて疑へば、すなはち華開けず。
信心清浄なるものは、華開けてすなはち仏を見たてまつる。
十方現在の仏、種々の因縁をもつて、
かの仏の功徳を嘆じたまふ。われいま帰命し礼したてまつると。{乃至}
かの八道の船に乗じて、よく難度海を度す。
みづから度し、またかれを度せん。われ自在人を礼したてまつる。
諸仏無量劫にその功徳を讃揚せんに、
なほ尽すことあたはじ。清浄人を帰命したてまつる。
われいままたかくのごとし。無量の徳を称讃す。
この福の因縁をもつて、願はくは仏つねにわれを念じたまへ〉」と。{抄出}

天親『浄土論』二文

【16】 『浄土論 二九 』にいはく、

「われ修多羅真実功徳相によりて、願偈総持を説きて仏教と相応せりと。
仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。
よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ」と。

【17】 またいはく(同 四二)、「菩薩は四種の門に入りて自利の行成就したまへりと、知るべし。菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまへりと、知るべし。菩薩はかくのごとく五門の行を修して自利利他してすみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるがゆゑに」と。{抄出}

釈文 中国の師釈

曇鸞『浄土論註』四文

【18】 『論の註』(上 四七)にいはく、「つつしんで龍樹菩薩の『十住毘婆沙』を案ずるにいはく、

〈菩薩、阿毘跋致を求むるに二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道なり。難行道とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難とす。この難にいまし多くの途あり。ほぼ五三をいひてもつて義の意を示さん。

一つには外道の相善は菩薩の法を乱る。二つには声聞は自利にして大慈悲を障ふ。三つには無顧の悪人、他の勝徳を破す。四つには顛倒の善果、よく梵行を壊す。五つにはただこれ自力にして他力の持つなし。これらのごときの事、目に触るるにみなこれなり。

たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。易行道とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ず。仏願力に乗じてすなはちかの清浄の土に往生を得しむ。仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入る。正定はすなはちこれ阿毘跋致なり。たとへば水路に船に乗じてすなはち楽しきがごとし〉と。

この『無量寿経優婆提舎』は、けだし上衍の極致、不退の風航なるものなり。無量寿はこれ安楽浄土の如来の別号なり。釈迦牟尼仏、王舎城および舎衛国にましまして、大衆のなかにして無量寿仏の荘厳功徳を説きたまふ。すなはち仏の名号をもつて経のとす。後の聖者婆藪槃頭菩薩(天親)、如来大悲の教を服膺して、経に傍へて願生の偈を作れり」と。{以上}

【19】 またいはく(論註・上 五一)、「また所願軽からず。もし如来威神を加せずは、まさになにをもつてか達せん。神力を乞加す。このゆゑに仰いで告げたまへり。〈我一心〉とは天親菩薩の自督(督の字、勧なり、率なり、正なり)の詞なり。

いふこころは無碍光如来を念じて安楽に生ぜんと願ず。心々相続して他想間雑することなし。{乃至}〈帰命尽十方無碍光如来〉とは、〈帰命〉はすなはちこれ礼拝門なり、〈尽十方無碍光如来〉はすなはちこれ讃嘆門なり。なにをもつてか知らん、帰命はこれ礼拝なりとは。龍樹菩薩、阿弥陀如来の『讃』(易行品)を造れるなかに、あるいは〈稽首礼〉といひ、あるいは〈我帰命〉といひ、あるいは〈帰命礼〉といへり。この『論』(浄土論)の長行のなかにまた五念門を修すといへり。五念門のなかに礼拝はこれ一つなり。天親菩薩すでに往生を願ず、あに礼せざるべけんや。ゆゑに知んぬ、帰命はすなはちこれ礼拝なりと。

しかるに礼拝はただこれ恭敬にして、かならずしも帰命ならず。帰命はこれ礼拝なり。もしこれをもつて推するに、帰命は重とす。偈は己心を申ぶ、よろしく帰命(命の字、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり)といふべし。

『論』に偈義を解するに、汎く礼拝を談ず。彼此あひ成ず、義においていよいよ顕れたり。なにをもつてか知らん、尽十方無碍光如来はこれ讃嘆門なりとは。下の長行のなかにいはく、〈いかんが讃嘆する、いはく、かの如来の名を称(称の字、軽重を知るなり。『説文』にいはく、銓なり、是なり、等なり、俗に秤に作る、斤両を正すをいふなり)す。かの如来の光明智相のごとく、かの名義のごとく、実のごとく、修行し相応せんと欲ふがゆゑに〉と。{乃至}天親、いま〈尽十方無碍光如来〉とのたまへり。すなはちこれかの如来の名によりて、かの如来の光明智相のごとく讃嘆するがゆゑに、知んぬ、この句はこれ讃嘆門なりとは。

〈願生安楽国〉とは、この一句はこれ作願門なり、天親菩薩帰命の意なり。{乃至}

 問うていはく、大乗経論のなかに、処々に〈衆生畢竟無生にして虚空のごとし〉と説きたまへり。いかんぞ天親菩薩〈願生〉とのたまふやと。

 答へていはく、〈衆生無生にして虚空のごとし〉と説くに二種あり。一つには、凡夫の実の衆生と謂ふところのごとく、凡夫の所見の実の生死のごとし。この所見の事、畢竟じて所有なけん亀毛のごとし、虚空のごとしと。二つには、いはく、諸法は因縁生のゆゑに、すなはちこれ不生にして、あらゆることなきこと虚空のごとしと。天親菩薩、願生するところはこれ因縁の義なり。因縁の義なるがゆゑに仮に生と名づく。凡夫の実の衆生、実の生死ありと謂ふがごときにはあらざるなりと。

 問うていはく、なんの義によりて往生と説くぞやと。

 答へていはく、この間の仮名の人のなかにおいて五念門を修せしむ。前念と後念と因となる。穢土の仮名の人、浄土の仮名の人、決定して一を得ず、決定して異を得ず。前心・後心またかくのごとし。なにをもつてのゆゑに、もし一ならばすなはち因果なけん、もし異ならばすなはち相続にあらず。この義一異を観ずる門なり、論のなかに委曲なり。第一行の三念門を釈しをはんぬと。{乃至}

我依修多羅 真実功徳相 説願偈総持 与仏教相応〉とのたまへりと。{乃至}

いづれのところにか依る、なんのゆゑにか依る、いかんが依ると。いづれのところにか依るとならば、修多羅に依るなり。なんのゆゑにか依るとならば、如来すなはち真実功徳の相なるをもつてのゆゑに。いかんが依るとならば、五念門を修して相応せるがゆゑにと。{乃至}修多羅は十二部経のなかに直説のものを修多羅と名づく。いはく、四阿含・三蔵等のほかの大乗の諸経をまた修多羅と名づく。このなかに〈依修多羅〉といふは、これ三蔵のほかの大乗修多羅なり、『阿含』等の経にはあらざるなり。

〈真実功徳相〉とは、二種の功徳あり。一つには有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫、人・天の諸善、人・天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒す、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二つには菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入れり。この法顛倒せず、虚偽ならず、真実の功徳と名づく。いかんが顛倒せざる、法性により二諦に順ずるがゆゑに。いかんが虚偽ならざる、衆生を摂して畢竟浄に入るるがゆゑなり。〈説願偈総持与仏教相応〉とは、〈持〉は不散不失に名づく、〈総〉は少をもつて多を摂するに名づく。{乃至}

〈願〉は欲楽往生に名づく。{乃至} 〈与仏教相応〉とは、たとへば函蓋相称するがごとしと。{乃至}

 (論註・下)〈いかんが回向する、一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに作願すらく、回向を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに〉とのたまへり。回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相とは、おのれが功徳をもつて一切衆生に回施して、作願してともに阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまへるなり」と。{抄出}

道綽『安楽集』四文

【20】 『安楽集』(上 一八九)にいはく、「『観仏三昧経』にいはく、〈父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたまふ。父の王、仏にまうさく、《仏地の果徳真如実相、第一義空、なにによりてか弟子をしてこれを行ぜしめざる》と。仏、父の王に告げたまはく、《諸仏の果徳、無量深妙の境界、神通解脱まします。これ凡夫の所行の境界にあらざるがゆゑに、父の王を勧めて念仏三昧を行ぜしめたてまつる》と。父の王、仏にまうさく、《念仏の功、その状いかんぞ》と。仏、父の王に告げたまはく、《伊蘭林の方四十由旬ならんに、一科の牛頭栴檀あり。

根芽ありといへどもなほいまだ土を出でざるに、その伊蘭林ただ臭くして香ばしきことなし。もしその華菓を噉することあらば、狂を発して死せん。後の時に栴檀の根芽やうやく生長して、わづかに樹にならんとす。香気昌盛にして、つひによくこの林を改変して、あまねくみな香美ならしむ。衆生見るものみな希有の心を生ぜんがごとし》と。仏、父の王に告げたまはく、《一切衆生、生死のなかにありて念仏の心もまたかくのごとし。ただよく念を繋けて止まざれば、さだめて仏前に生ぜん。ひとたび往生を得れば、すなはちよく一切の諸悪を改変して大慈悲を成ぜんこと、かの香樹の伊蘭林を改むるがごとし》〉と。いふところの伊蘭林とは、衆生の身の内の三毒・三障、無辺の重罪に喩ふ。栴檀といふは、衆生の念仏の心に喩ふ。わづかに樹とならんとすといふは、いはく、一切衆生ただよく念を積みて断えざれば業道成弁するなり。

 問うていはく、一衆生の念仏の功を計りてまた一切を知るべし。なにによりてか一念の功力よく一切の諸障を断ずること、一つの香樹の四十由旬の伊蘭林を改めて、ことごとく香美ならしむるがごとくならんやと。

 答へていはく、諸部の大乗によりて念仏三昧の功能の不可思議なるを顕さんとなり。いかんとならば『華厳経』にいふがごとし。〈たとへば人ありて、獅子の筋を用ゐて、もつて琴の絃とせんに、音声一たび奏するに、一切の余の絃ことごとくみな断壊するがごとし。もし人、菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅すと。また人ありて、牛・羊・驢馬一切のもろもろの乳を搆し取りて、一器のなかに置かんに、もし獅子の乳一渧をもつてこれを投ぐるに、ただちに過ぎて難なし、一切の諸乳ことごとくみな破壊して変じて清水となるがごとし。もし人、ただよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪魔・諸障ただちに過ぐるに難なし〉と。

またかの『経』(華厳経)にいはく、〈たとへば人ありて、翳身薬をもつて処々に遊行するに、一切の余行この人を見ざるがごとし。もしよく菩提心のなかに念仏三昧を行ずれば、一切の悪神、一切の諸障、この人を見ず。もろもろの処処に随ひてよく遮障することなきなり。なんがゆゑぞとならば、よくこの念仏三昧を念ずるは、すなはちこれ一切三昧のなかの王なるがゆゑなり〉」と。

【21】 またいはく(安楽集・下 二五六)、「『摩訶衍』のなかに説きていふがごとし。〈諸余の三昧は三昧ならざるにはあらず。なにをもつてのゆゑに、あるいは三昧あり、ただよくを除いて瞋・痴を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて痴・貪を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて瞋を除くことあたはず。あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除いて過去・未来の一切諸障を除くことあたはず。もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切諸障を問ふことなくみな除くなり〉」と。

【22】 またいはく(同・下 二六一)、「『大経の讃』(讃阿弥陀仏偈)にいはく、〈もし阿弥陀の徳号を聞きて歓喜讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとす。たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞かばまた退せず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる〉」と。

【23】 またいはく(安楽集・上 二四四)、「また『目連所問経』のごとし。〈仏、目連に告げたまはく、《たとへば万川長流に草木ありて、前は後ろを顧みず、後ろは前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となつて、さらにはなはだ困劇して千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説かく、“無量寿仏国は往き易く取り易くして、人、修行して往生することあたはず、かへつて九十五種の邪道に事ふ”と。われこの人を説きて眼なき人と名づく、耳なき人と名づく》〉と。経教すでにしかなり。なんぞ難を捨てて易行道によらざらん」と。{以上}

善導の四釈十文

【24】 光明寺の和尚(善導)のいはく(礼讃 六五七)、「また『文殊般若』にいふがごとし。〈一行三昧を明かさんと欲ふ。ただ勧めて、独り空閑に処してもろもろの乱意を捨てて、心を一仏に係けて相貌を観ぜず、もつぱら名字を称すれば、すなはち念のなかにおいて、かの阿弥陀仏および一切の仏等を見ることを得〉といへり。

 問うていはく、なんがゆゑぞ観をなさしめずして、ただちにもつぱら名字を称せしむるは、なんの意かあるやと。

 答へていはく、いまし衆生障重くして、境は細なり心は粗なり。識颺り、神飛びて、観成就しがたきによりてなり。ここをもつて大聖(釈尊)悲憐して、ただちに勧めてもつぱら名字を称せしむ。まさしく称名易きに由(由の字、行なり、経なり、従なり、用なり)るがゆゑに、相続してすなはち生ずと。

 問うていはく、すでにもつぱら一仏を称せしむるに、なんがゆゑぞ境現ずることすなはち多き。これあに邪正あひ交はり一多雑現するにあらずやと。

 答へていはく、仏と仏と斉しく証して形二の別なし。たとひ一を念じて多を見ること、なんの大道理にか乖かんや。また『観経』にいふがごとし。〈勧めて座観・礼念等を行ぜしむ。みなすべからく面を西方に向かふは最勝なるべし〉と。樹の先より傾けるが倒るるに、かならず曲れるに随ふがごとし。ゆゑにかならず事の碍ありて西方に向かふに及ばずは、ただ西に向かふ想をなす、また得たりと。

 問うていはく、一切諸仏、三身おなじく証し、悲智果円にしてまた無二なるべし。方にしたがひて一仏を礼念し課称せんに、また生ずることを得べし。なんがゆゑぞ、ひとへに西方を嘆じてもつぱら礼念等を勧むる、なんの義かあるやと。

 答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し取むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し。このゆゑに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふるを別異とすならくのみ。またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらざるなりと、知るべし。もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期とするものは、十即十生、百即百生なり。なにをもつてのゆゑに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり」と。{以上}

【25】 またいはく(礼讃 六六二)、「ただ念仏の衆生を観そなはして、摂取して捨てざるがゆゑに、阿弥陀と名づく」と。{以上}

【26】 またいはく(礼讃 六七一)、「弥陀の智願海は、深広にして涯底なし。名を聞きて往生せんと欲へば、みなことごとくかの国に到る。たとひ大千に満てらん火にも、ただちに過ぎて仏の名を聞け。名を聞きて歓喜し讃ずれば、みなまさにかしこに生ずることを得べし。万年に三宝滅せんに、この経住すること百年せん。そのとき聞きて一念せん。みなまさにかしこに生ずることを得べし」と。{抄要}

【27】 またいはく(同 七〇九)、「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受したまへり」と。{以上}

【28】 またいはく(同 七一〇)、「問うていはく、阿弥陀仏を称念し礼観して、現世にいかなる功徳利益かあるやと。

 答へていはく、もし阿弥陀仏を称すること一声するに、すなはちよく八十億劫の生死の重罪を除滅す。礼念以下もまたかくのごとし。『十往生経』にいはく、〈もし衆生ありて阿弥陀仏を念じて往生を願ずれば、かの仏すなはち二十五菩薩を遣はして、行者を擁護して、もしは行もしは座、もしは住もしは臥、もしは昼もしは夜、一切時・一切処に、悪鬼・悪神をしてその便りを得しめざるなり〉と。

また『観経』にいふがごとし。〈もし阿弥陀仏を称し礼念してかの国に往生せんと願へば、かの仏すなはち無数の化仏、無数の化観音・勢至菩薩を遣はして、行者を護念したまふ。また前の二十五菩薩等と百重千重行者を囲繞して、行住座臥、一切時処、もしは昼、もしは夜を問はず、つねに行者を離れたまはず〉と。いますでにこの勝益まします、憑むべし。願はくはもろもろの行者、おのおの至心を須ゐて往くことを求めよ。 また『無量寿経』にいふがごとし。〈もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが名号を称せん、下十声に至るまで、もし生れずは正覚を取らじ〉と。かの仏いま現にましまして成仏したまへり。まさに知るべし、本誓重願虚しからず、衆生称念すればかならず往生を得と。

また『弥陀経』にいふがごとし。〈もし衆生ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、すなはち名号を執持すべし。もしは一日、もしは二日、乃至七日、一心に仏を称して乱れざれ。命終らんとするとき、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せず。すなはちかの国に往生することを得ん〉と。仏、舎利弗に告げたまはく、〈われこの利を見るがゆゑにこの言を説く。もし衆生ありてこの説を聞かんものは、まさに願を発し、かの国に生ぜんと願ずべし〉と。次下に説きていはく、〈東方の如恒河沙等の諸仏、南西北方および上下一々の方に恒河沙等の諸仏のごとき、おのおの本国にしてその舌相を出して、あまねく三千大千世界に覆ひて誠実の言を説きたまはく、《なんだち衆生、みなこの一切諸仏の護念したまふところの経を信ずべし》と。いかんが護念と名づくると。もし衆生ありて、阿弥陀仏を称念せんこと、もしは七日、一日、下至一声、乃至十声一念等に及ぶまで、かならず往生を得と。この事を証誠せるがゆゑに護念経と名づく〉と。次下の文にいはく、〈もし仏を称して往生するものは、つねに六方恒河沙等の諸仏のために護念せらる。ゆゑに護念経と名づく〉と。いますでにこの増上の誓願います、憑むべし。もろもろの仏子等、なんぞ意を励まして去かざらんや」と。[智昇法師の『集諸経礼懺儀』の下巻は善導和尚の『礼讃』なり。これによる。]


【29】 またいはく(玄義分 三〇二)、「弘願といふは『大経』の説のごとし。一切善悪の凡夫、生ずることを得るは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗(乗の字、駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり)じて増上縁とせざるはなし」と。

六字釈

【30】 またいはく(玄義分 三二五)、「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」と。

【31】 またいはく(観念法門 六三〇)、「摂生増上縁といふは、『無量寿経』の四十八願のなかに説くがごとし。〈仏ののたまはく、《もしわれ成仏せんに、十方の衆生、わが国に生ぜんと願じて、わが名字を称すること下十声に至るまで、わが願力に乗じて、もし生れずは正覚を取らじ》〉と。これすなはちこれ往生を願ずる行人、命終らんとするとき、願力摂して往生を得しむ。ゆゑに摂生増上縁と名づく」と。

【32】 またいはく(同 六三五)、「善悪の凡夫、回心し起行して、ことごとく往生を得しめんと欲す。これまたこれ証生増上縁なり」と。{以上}

【33】 またいはく(般舟讃 七二一)、「門々不同にして八万四なり。無明と業因とを滅せんための利剣は、すなはちこれ弥陀の号なり。一声称念するに罪みな除こると。微塵の故業随智と滅す。覚へざるに真如の門に転入す。娑婆長劫の難を免るることを得ることは、ことに知識釈迦の恩を蒙れり。種々の思量巧方便をもつて、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまへり」と。{以上抄要}

自釈(六字釈)

【34】

 しかれば南無の言は帰命なり。帰の言は、[至なり、]また帰説(きえつ)なり、説の字は、[悦の音なり。]また帰説(きさい)なり、説の字は、[税の音なり。悦税二つの音は告なり、述なり、人の意を宣述するなり。]命の言は、[業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり。]ここをもつて帰命は本願招喚の勅命なり。
発願回向といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施したまふの心なり。
即是其行といふは、すなはち選択本願これなり。必得往生といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰すなり。
『経』(大経)には「即得」といへり、釈(易行品 十五)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促光闡するなり。「必」の言は[審なり、然なり、分極なり、]金剛心成就の貌なり。

法照『五会法事讃』八文

【35】 『浄土五会念仏略法事儀讃』にいはく、「それ如来、教を設けたまふに、広略、根に随ふ。つひに実相に帰せしめんとなり。真の無生を得んものには、たれかよくこれを与へんや。しかるに念仏三昧は、これ真の無上深妙の門なり。弥陀法王四十八願の名号をもつて、焉に仏、願力を事として衆生を度したまふ。{乃至}

如来つねに三昧海のなかにして、網綿の手を挙げたまひて、父の王にいうてのたまはく、〈王いま座禅してただまさに念仏すべし。あに離念に同じて無念を求めんや。生を離れて無生を求めんや。相好を離れて法身を求めんや。文を離れて解脱を求めんや〉と。{乃至}

それ大いなるかな、至理の真法、一如にして物を化し、人を利す。弘誓各別なるがゆゑに、わが釈迦、濁世に応生し、阿弥陀、浄土に出現したまふ。方は穢浄両殊なりといへども利益斉一なり。もし修し易く証し易きは、まことにただ浄土の教門なり。しかるにかの西方は殊妙にしてその国土に比びがたし。また厳るに百宝の蓮をもつてす。九品に敷いてもつて人を収むること、それ仏の名号なりと。{乃至}

 『称讃浄土経』による。[釈法照]

〈如来の尊号は、はなはだ分明なり。十方世界にあまねく流行せしむ。
ただ名を称するのみありて、みな往くことを得。観音・勢至おのづから来り迎へたまふ。
弥陀の本願ことに超殊せり。慈悲方便して凡夫を引く。
一切衆生みな度脱す。名を称すればすなはち罪消除することを得。
凡夫もし西方に到ることを得れば、曠劫塵沙の罪消亡す。
六神通を具し自在を得。永く老病を除き無常を離る〉。

 『仏本行経』による。[法照]
〈なにものをかこれを名づけて正法とする。もし道理によらばこれ真宗なり。
好悪今の時すべからく決択すべし。一々に子細朦朧することなかれ。
正法よく世間を超出す。持戒・座禅を正法と名づく。
念仏成仏はこれ真宗なり。仏言を取らざるをば外道と名づく。
因果を撥無する見をとす。正法よく世間を超出す。
禅・律いかんぞこれ正法ならん。念仏三昧これ真宗なり。
性を見、心を了るはすなはちこれ仏なり。いかんが道理相応せざらん〉。{略抄}

 『阿弥陀経』による。
〈西方は道に進むこと娑婆に勝れたり。五欲および邪魔なきによつてなり。
成仏にもろもろの善業を労しくせず。華台に端座して弥陀を念じたてまつる。
五濁の修行は多く退転す。念仏して西方に往くにはしかず。
かしこに到れば自然に正覚を成る。苦界に還来りて津梁とならん。
万行のなかに急要とす。迅速なること浄土門に過ぎたるはなし。
ただ本師金口の説のみにあらず。十方諸仏ともに伝へ証したまふ。
この界に一人、仏の名を念ずれば、西方にすなはち一つの蓮ありて生ず。
ただ一生つねにして不退ならしむれば、一つの華この間に還り到つて迎へたまふと〉。{略抄}

 『般舟三昧経』による。[慈愍和尚
〈今日道場の諸衆等、恒沙曠劫よりすべて経来れり。
この人身を度るに値遇しがたし。たとへば優曇華のはじめて開くがごとし。
まさしくまれに浄土の教を聞くに値へり。まさしく念仏の法門の開けるに値へり。
まさしく弥陀の弘誓の喚ばひたまふに値へり。まさしく大衆の信心ありて回するに値へり。
まさしく今日経によりて讃ずるに値へり。まさしく契を上華台に結ぶに値へり。
まさしく道場に魔事なきに値へり。まさしく無病にしてすべてよく来れるに値へり。
まさしく七日の功成就するに値へり。四十八願かならずあひ携ふ。
あまねく道場の同行のひとを勧む。ゆめゆめ回心して帰去来
借問ふ、家郷はいづれの処にかある。極楽の池のうち七宝の台なり。
かの仏の因中に弘誓を立てたまへり。名を聞きてわれを念ぜばすべて迎へ来らしめん。
貧窮と富貴とを簡ばず、下智と高才とを簡ばず、
多聞と浄戒を持てるとを簡ばず、破戒と罪根の深きとを簡ばず。
ただ回心して多く念仏せしむれば、よく瓦礫をして変じて金と成さんがごとくせしむ。
語を現前の大衆等に寄す。同縁去らんひとはやくあひ尋ねん。
借問ふ、いづれの処をあひ尋ねてか去かんと。報へていはく、弥陀浄土のうちへ。
借問ふ、なにによりてかかしこに生ずることを得ん。報へていはく、念仏おのづから功を成ず。
借問ふ、今生の罪障多し、いかんぞ浄土にあへてあひ容らんや。
報へていはく、名を称すれば罪消滅す、たとへば明灯の闇中に入るがごとし。
借問ふ、凡夫生ずることを得やいなや、いかんぞ一念に闇中あきらかならんや。
報へていはく、疑を除きて多く念仏すれば、弥陀決定しておのづから親近したまふ〉と。{抄要}

 『新無量寿観経』による。[法照]〈十悪・五逆至れる愚人、永劫に沈淪して久塵にあり。一念弥陀の号を称得して、かしこに至れば、還りて法性身に同ず〉」と。{以上}

憬興『無量寿経述文賛』十文

【36】 憬興師のいはく(述文賛)、「如来の広説に二つあり。初めには広く如来浄土の因果、すなはち所行・所成を説きたまへり。後には広く衆生往生の因果、すなはち所摂・所益を顕したまへるなり」と。

【37】 またいはく、「『悲華経』の〈諸菩薩本授記品〉にいはく、〈そのときに宝蔵如来転輪王を讃めていはく、《善いかな善いかな、{乃至}大王、なんぢ西方を見るに百千万億の仏土を過ぎて世界あり、尊善無垢と名づく。かの界に仏まします、尊音王如来と名づく。{乃至}いま現在にもろもろの菩薩のために正法を説く。{乃至} 純一大乗清浄にして雑はることなし。そのなかの衆生、等一に化生す。また女人およびその名字なし。かの仏世界の所有の功徳、清浄の荘厳なり。ことごとく大王の所願のごとくして異なけん。{乃至} いまなんぢが字をあらためて無量清浄とす》〉と。{以上}

 『無量寿如来会』(上)にいはく、〈広くかくのごとき大弘誓願を発して、みなすでに成就したまへり。世間に希有なり。この願を発しをはりて、実のごとく安住して、種々の功徳具足して、威徳広大清浄の仏土を荘厳したまへり〉」と。{以上}

【38】 またいはく(述文賛)、「福智の二厳成就したまへるがゆゑに、つぶさに等しく衆生に行を施したまへるなり。おのれが所修をもつて、衆生を利したまふがゆゑに、功徳成ぜしめたまへり」と。

【39】 またいはく(同)、「久遠の因によりて、仏に値ひ、法を聞きて慶喜すべきがゆゑに」と。

【40】 またいはく(同)、「人聖に、国妙なり。たれか力を尽さざらん。善をなして生を願ぜよ、善によりてすでに成じたまへる、おのづから果を獲ざらんや。ゆゑに自然といふ。貴賤を簡ばず、みな往生を得しむ。ゆゑに著無上下といふ」と。

【41】 またいはく(述文賛)、「〈易往而無人 其国不逆違 自然之所牽〉(大経・下)と。因を修すればすなはち往く。修することなければ生ずること尠し。因を修して来生するに、つひに違逆せず。すなはち易往なり」と。

【42】 またいはく(同)、〈「本願力故〉といふは、[すなはち往くこと誓願の力なり。]〈満足願故〉といふは、[願として欠くることなきがゆゑに。]〈明了願故〉といふは、[これを求むるにむなしからざるがゆゑに。]〈堅固願故〉といふは、[縁として壊ることあたはざるがゆゑに。]〈究竟願故〉といふは、[かならず果し遂ぐるがゆゑに]」と。

【43】 またいはく(同)、「総じてこれをいはば、凡小をして欲往生の意を増さしめんと欲ふがゆゑに、すべからくかの土の勝れたることを顕すべし」と。

【44】 またいはく(同)、「すでに〈この土にして菩薩の行を修す〉とのたまへり。すなはち知んぬ、無諍王この方にましますことを。宝海もまたしかなり」と。

【45】 またいはく(述文賛)、「仏の威徳広大を聞くがゆゑに、不退転を得るなり」と。{以上}

宗暁『楽邦文類』

【46】 『楽邦文類』にいはく、「総官の張掄いはく、〈仏号はなはだ持ち易し、浄土はなはだ往き易し。八万四千の法門、この捷径にしくなし。ただよく清晨俛仰の暇を輟めて、つひに永劫不壊の資をなすべし。これすなはち力を用ゐることは、はなはだ微にして、功を収むることいまし尽くることあることなけん。衆生またなんの苦しみあればか、みづから棄ててせざらんや。ああ、夢幻にして真にあらず。寿夭にして保ちがたし。呼吸のあひだにすなはちこれ来生なり。ひとたび人身を失ひつれば万劫にも復せず。このとき悟らずは、仏もし衆生をいかがしたまはん。願はくは深く無常を念じて、いたづらに後悔を貽すことなかれと。浄楽の居士張掄縁を勧む〉」と。{以上}

慶文法師の文

【47】 台教(天台)の祖師山陰[慶文法師]のいはく、「まことに仏名は真応の身よりして建立せるがゆゑに、慈悲海よりして建立せるがゆゑに、誓願海よりして建立せるがゆゑに、智慧海よりして建立せるがゆゑに、法門海よりして建立せるによるがゆゑに、もしただもつぱら一仏の名号を称するは、すなはちこれつぶさに諸仏の名号を称するなり。功徳無量なればよく罪障を滅す。よく浄土に生ず。なんぞかならず疑を生ぜんや」と。{以上}

元照律師の釈七文

【48】 律宗の祖師、元照のいはく(観経義疏)、「いはんやわが仏大慈、浄土を開示して慇懃にあまねく諸大乗を勧属したまへり。目に見、耳に聞きてことに疑謗を生じて、みづから甘く沈溺して超昇を慕はず。如来説きて憐憫すべきもののためにしたまへり。まことにこの法の特り常途に異なることを知らざるによりてなり。賢愚を択ばず、緇素を簡ばず、修行の久近を論ぜず、造罪の重軽を問はず、ただ決定の信心すなはちこれ往生の因種ならしむ」と。{以上}

【49】 またいはく(同)、「いま浄土の諸経にならびに魔をいはず。すなはち知んぬ、この法に魔なきことあきらけしと。山陰の慶文法師の『正信法門』にこれを弁ずること、はなはだ詳らかなり。いまためにつぶさにかの問を引きていはく、〈あるいは人ありていはく、《臨終に仏・菩薩の光を放ち、台を持したまへるを見たてまつり。天楽異香来迎往生す。ならびにこれ魔事なり》と。

この説いかんぞや。答へていはく、『首楞厳』によりて三昧を修習することあり。あるいは陰魔を発動す。『摩訶衍論』によりて三昧を修習することあり、あるいは外魔(天魔をいふなり)を発動す。『止観論』によりて三昧を修習することあり、あるいは時魅を発動す。これらならびにこれ禅定を修する人、その自力に約してまづ魔種あり、さだめて撃発を被るがゆゑにこの事を現ず。もしよくあきらかに識りておのおの対治を用ゐれば、すなはちよく除遣せしむ。もし聖の解をなせばみな魔障を被るなりと。[上にこの方の入道を明かす、すなはち魔事を発す。]

いま所修の念仏三昧に約するに、いまし仏力を憑む。帝王に近づけばあへて犯すものなきがごとし。けだし阿弥陀仏、大慈悲力・大誓願力・大智慧力・大三昧力・大威神力・大摧邪力大降魔力天眼遠見力天耳遥聞力他心徹鑑力・光明遍照摂取衆生力ましますによりてなり。かくのごときらの不可思議功徳の力まします。あに念仏の人を護持して、臨終のときに至るまで障碍なからしむることあたはざらんや。もし護持をなさずは、すなはち慈悲力なんぞましまさん。もし魔障を除くことあたはずは、智慧力・三昧力・威神力・摧邪力・降魔力、またなんぞましまさんや。もし鑑察することあたはずして、魔、障をなすことを被らば、天眼遠見力・天耳遥聞力・他心徹鑑力、またなんぞましまさんや。『経』(観経)にいはく、《阿弥陀仏の相好の光明あまねく十方世界を照らす。念仏の衆生をば摂取して捨てたまはず》(意)と。もし念仏して臨終に魔障を被るといはば、光明遍照摂取衆生力、またなんぞましまさんや。いはんや念仏の人の臨終の感相、衆経より出でたり。みなこれ仏の言なり。なんぞ貶して魔境とすることを得んや。いまために邪疑を決破す。まさに正信を生ずべし〉」と。{以上彼文}

【50】 また[元照律師の『弥陀経義』の文]いはく、「一乗の極唱終帰をことごとく楽邦を指す。万行の円修、最勝を独り果号に推る。まことにもつて因より願を建つ。志を秉り行を窮め、塵点劫を歴て済衆の仁を懐けり。芥子の地捨身のところにあらざることなし。悲智六度摂化してもつて遺すことなし。内外の両財、求むるに随うてかならず応ず。機と縁と熟し、行満じ功成り、一時に円かに三身を証す。万徳すべて四字に彰る」と。{以上}

【51】 またいはく()、「いはんやわが弥陀は名をもつてを接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」と。{以上}

【52】 またいはく(阿弥陀経義疏)、「正念のなかに、凡人の臨終は識神主なし。善悪の業種発現せざることなし。あるいは悪念を起し、あるいは邪見を起し、あるいは繋恋を生じ、あるいは猖狂悪相を発せん。もつぱらみな顛倒の因と名づくるにあらずや。前に仏を誦して罪滅し、障除こり、浄業内に薫じ、慈光外に摂して、苦を脱れ楽を得ること一刹那のあひだなり。下の文に生を勧む、その利ここにあり」と。{以上}

【53】 慈雲法師[天竺寺の遵式]のいはく(元照観経義疏)、「〈ただ安養の浄業捷真なり、修すべし。もし四衆ありて、またすみやかに無明を破し、永く五逆・十悪重軽等の罪を滅せんと欲はば、まさにこの法を修すべし。大小の戒体、遠くまた清浄なることを得しめ、念仏三昧を得しめ、菩薩の諸波羅蜜を成就せんと欲はば、まさにこの法を学すべし。臨終にもろもろの怖畏を離れしめ、身心安快にして衆聖現前し、授手接引せらるることを得、はじめて塵労を離れてすなはち不退に至り、長劫を歴ず、すなはち無生を得んと欲はば、まさにこの法等を学すべし〉と。古賢の法語によく従ふことなからんや。以上五門、綱要を略標す。自余は尽さず、くはしく釈文にあり。『開元の蔵録』を案ずるに、この『経』におほよそ両訳あり。前本はすでに亡じぬ。いまの本はすなはち畺良耶舎の訳なり。『僧伝』にいはく、〈畺良耶舎はここには時称といふ。宋の元嘉の初めに、京邑に建めたり。文帝の時〉」と。

【54】 慈雲[遵式なり]の讃にいはく(元照観経義疏)、「了義のなかの了義なり。円頓のなかの円頓なり」と。{以上}

【55】 大智[元照律師なり]唱へていはく(同)、「円頓一乗なり。純一にして雑なし」と。{以上}

戒度『観経義疏正観記』(巻下)

【56】 律宗の戒度[元照の弟子なり]のいはく(正観記)、「仏名はすなはちこれ劫を積んで薫修し、その万徳を攬る。すべて四字に彰る。このゆゑにこれを称するに益を獲ること、浅きにあらず」と。{以上}

用欽律師の釈二文

【57】 律宗の用欽[元照の弟子なり]のいはく、「いまもしわが心口をもつて一仏の嘉号を称念すれば、すなはち因より果に至るまで、無量の功徳具足せざることなし」と。{以上}

【58】 またいはく、「一切諸仏、微塵劫を歴て実相を了悟して、一切を得ざるがゆゑに無相の大願を発して、修するに妙行に住することなし。証するに菩提を得ることなし。住するに国土を荘厳するにあらず。現ずるに神通の神通なきがゆゑに、舌相を大千にあまねくして無説の説を示す。ゆゑにこの経を勧信せしむ。あに心に思ひ、口に議るべけんや。わたくしにいはく、諸仏の不思議の功徳、須臾に弥陀の二報荘厳に収む。持名の行法はかの諸仏のなかに、またすべからく弥陀を収むべきなり」と。{以上}

嘉祥『観経義疏』の文

【59】 三論の祖師、嘉祥のいはく(観経義疏)、「問ふ。〈念仏三昧はなにによりてか、よくかくのごとき多罪を滅することを得るや〉と。解していはく、〈仏に無量の功徳います。仏の無量の功徳を念ずるがゆゑに、無量の罪を滅することを得しむ〉」と。{以上}

法位『大経義疏』の文

【60】 法相の祖師、法位のいはく(大経義疏)、「諸仏はみな徳を名に施す。名を称するはすなはち徳を称するなり。徳よく罪を滅し福を生ず。名もまたかくのごとし。もし仏名を信ずれば、よく善を生じ悪を滅すること決定して疑なし。称名往生これなんの惑ひかあらんや」と。{以上}

飛錫『念仏三昧宝王論』(巻上)の文

【61】 禅宗の飛錫のいはく(念仏三昧宝王論)、「念仏三昧の善、これ最上なり。万行の元首なるがゆゑに、三昧王といふ」と。{以上}

釈文 日本の師釈

源信『往生要集』五文

【62】 『往生要集』(下 一〇九八)にいはく、「『双巻経』(大経・下)の三輩の業、浅深ありといへども、しかるに通じてみな〈一向専念無量寿仏〉といへり。三つに四十八願のなかに、念仏門において別して一つの願を発してのたまはく、〈乃至十念 若不生者 不取正覚〉と。四つに『観経』には〈極重の悪人他の方便なし。ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得〉」と。{以上}

【63】 またいはく(往生要集上 八九八)、「『心地観経』の六種の功徳によるべし。一つには無上大功徳田、二つには無上大恩徳、三つには無足・二足および多足衆生のなかの尊なり。四つにはきはめて値遇しがたきこと、優曇華のごとし。五つには独り三千大千界に出でたまふ。六つには世・出世間の功徳円満せり。義つぶさにかくのごときらの六種の功徳による。つねによく一切衆生を利益したまふ」と。{以上}

【64】 この六種の功徳によりて信和尚(源信)のいはく(同・上)、「一つには念ずべし、一称南無仏皆已成仏道のゆゑに、われ無上功徳田を帰命し礼したてまつる。二つには念ずべし、慈眼をもつて衆生を視そなはすこと、平等にして一子のごとし。ゆゑにわれ極大慈悲母を帰命し礼したてまつる。三つには念ずべし、十方の諸大士、弥陀尊を恭敬したてまつるがゆゑに、われ無上両足尊を帰命し礼したてまつる。四つには念ずべし、ひとたび仏名を聞くことを得ること、優曇華よりも過ぎたり。ゆゑにわれ極難値遇者を帰命し礼したてまつる。

五つには念ずべし、一百倶胝界には二尊並んで出でたまはず。ゆゑにわれ希有大法王を帰命し礼したてまつる。六つには念ずべし、仏法衆徳海は三世同じく一体なり。ゆゑにわれ円融万徳尊を帰命し礼したてまつる」と。{以上}

【65】 またいはく(往生要集上 九二二)、「波利質多樹の華、一日衣に薫ずるに、瞻蔔華波師迦華、千歳薫ずといへども、及ぶことあたはざるところなり」と。{以上}

【66】 またいはく(同・下 一一四三)、「一斤の石汁、よく千斤の銅を変じて金となす。雪山に草あり、名づけて忍辱とす。牛もし食すればすなはち醍醐を得。尸利沙昴星を見ればすなはち菓実を出すがごとし」と。{以上}

源空『選択集』二文

【67】 『選択本願念仏集』(選択集 一一八三)[源空集]にいはく、

「南無阿弥陀仏[往生の業は念仏を本とす]」と。

【68】 またいはく(同 一二八五)、「それすみやかに生死を離れんと欲はば、二種の勝法のなかに、しばらく聖道門を閣きて、選んで浄土門に入れ。浄土門に入らんと欲はば、正・雑二行のなかに、しばらくもろもろの雑行を抛ちて、選んで正行に帰すべし。正行を修せんと欲はば、正・助二業のなかに、なほ助業を傍らにして、選んで正定をもつぱらにすべし。正定の業とはすなはちこれ仏の名を称するなり。称名はかならず生ずることを得。仏の本願によるがゆゑに」と。{以上}

決釈

【69】

 あきらかに知んぬ、これ凡聖自力の行にあらず。ゆゑに不回向の行と名づくるなり。大小の聖人・重軽の悪人、みな同じく斉しく選択の大宝海に帰して念仏成仏すべし。


【70】 ここをもつて『論の註』(論註下 一二〇)にいはく、「かの安楽国土は、阿弥陀如来の正覚浄華の化生するところにあらざることなし。同一に念仏して別の道なきがゆゑに」とのたまへり。{以上}

総結

行信利益

【71】

 しかれば真実の行信を獲れば、心に歓喜多きがゆゑに、これを歓喜地と名づく。これを初果に喩ふることは、初果の聖者、なほ睡眠し懶堕なれども二十九有に至らず。いかにいはんや十方群生海、この行信に帰命すれば摂取して捨てたまはず。ゆゑに阿弥陀仏と名づけたてまつると。これを他力といふ。ここをもつて龍樹大士は「即時入必定」(易行品 一六)といへり。曇鸞大師は「入正定聚之数」(論註・上意)といへり。仰いでこれを憑むべし。もつぱらこれを行ずべきなり。

両重因縁

【72】

 まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。真実信の業識、これすなはち内因とす。光明名の父母、これすなはち外縁とす。内外の因縁和合して報土の真身を得証す。ゆゑに宗師(善導)は、「光明名号をもつて十方を摂化したまふ、ただ信心をして求念せしむ」(礼讃 六五九)とのたまへり。
また「念仏成仏これ真宗」(五会法事讃)といへり。また「真宗遇ひがたし」(散善義 五〇一)といへるをや、知るべしと。

行一念釈

【73】

 おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。


【74】 ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。 まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。{以上}

【75】 光明寺の和尚(善導)は「下至一念」(散善義・意)といへり。また「一声一念」(礼讃)といへり。また「専心専念」(散善義・意)といへり。{以上}

【76】 智昇師の『集諸経礼懺儀』の下巻にいはく、「深心はすなはちこれ真実の信心なり。自身はこれ煩悩を具足せる凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること下至十声聞等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし。ゆゑに深心と名づく」と。{以上}


【77】

 『経』(大経)に「乃至」といひ、釈(散善義)に「下至」といへり。乃下その言異なりといへども、その意これ一つなり。また乃至とは一多包容の言なり。大利といふは小利に対せるの言なり。無上といふは有上に対せるの言なり。まことに知んぬ、大利無上は一乗真実の利益なり。小利有上はすなはちこれ八万四千の仮門なり。釈(散善義)に「専心」といへるはすなはち一心なり、二心なきことを形すなり。「専念」といへるはすなはち一行なり、二行なきことを形すなり。いま弥勒付属の一念はすなはちこれ一声なり。一声すなはちこれ一念なり。一念すなはちこれ一行なり。
一行すなはちこれ正行なり。正行すなはちこれ正業なり。正業すなはちこれ正念なり。正念すなはちこれ念仏なり。すなはちこれ南無阿弥陀仏なり。


【78】

 しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮びぬれば、至徳の風静かに、衆禍の波転ず。すなはち無明の闇を破し、すみやかに無量光明土に到りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵ふなり、知るべしと。


【79】 『安楽集』(安楽集 二二五)にいはく、「十念相続とは、これ聖者の一つの数の名ならくのみ。すなはちよく念を積み、思を凝らして他事を縁ぜざれば、業道成弁せしめてすなはち罷みぬ。また労しくこれが頭数を記せざれと。またいはく、〈もし久行の人の念は、多くこれによるべし。もし始行の人の念は、数を記する、またよし。これまた聖教によるなり〉」と。{以上}


【80】

 これすなはち真実の行を顕す明証なり。まことに知んぬ、選択摂取の本願、超世希有の勝行、円融真妙の正法、至極無碍の大行なり、知るべしと。

重釈要義

他力釈

正釈

【81】

 他力といふは如来の本願力なり。

引文

【82】 『論』(論註・下 一五三)にいはく、「本願力といふは、大菩薩、法身のなかにして、つねに三昧にましまして、種々の身、種々の神通、種々の説法を現じたまふことを示す。みな本願力より起るをもつてなり。たとへば、阿修羅の琴の鼓するものなしといへども、しかも音曲自然なるがごとし。これを教化地第五の功徳相と名づく。{乃至}

 〈菩薩は四種の門に入りて、自利の行成就したまへりと、知るべし〉と。 〈成就〉とは、いはく自利満足せるなり。〈応知〉といふは、いはく自利によるがゆゑにすなはちよく利他す。これ自利にあたはずしてよく利他するにはあらざるなりと知るべし。

 〈菩薩は第五門に出でて回向利益他の行成就したまへりと、知るべし〉と。〈成就〉とは、いはく回向の因をもつて教化地の果を証す。もしは因もしは果、一事として利他にあたはざることあることなきなり。〈応知〉といふは、いはく利他によるがゆゑにすなはちよく自利す、これ利他にあたはずしてよく自利するにはあらざるなりと知るべし。

 〈菩薩はかくのごとき五門の行を修して、自利利他して、すみやかに阿耨多羅三藐三菩提を成就することを得たまへるがゆゑに〉と。仏の所得の法を、名づけて阿耨多羅三藐三菩提とす。この菩提を得たまへるをもつてのゆゑに、名づけて仏とす。いま〈速得阿耨多羅三藐三菩提〉といへるは、これはやく仏になることを得たまへるなり。〈阿〉をば無に名づく、〈耨多羅〉をば上に名づく、〈三藐〉をば正に名づく、〈三〉をば遍に名づく〈菩提〉をば道に名づく、統ねてこれを訳して、名づけて無上正遍道とす。無上は、いふこころは、この道、理を窮め、性を尽すこと、さらに過ぎたるひとなけん。なにをもつてかこれをいはば、正をもつてのゆゑに。正は聖智なり。法相のごとくして知るがゆゑに、称して正智とす。法性は相なきゆゑに聖智無知なり。遍に二種あり。一つには聖心、あまねく一切の法を知ろしめす。二つには法身、あまねく法界に満てり。もしは身、もしは心、遍せざることなきなり。道は無碍道なり。『経』(華厳経)にいはく、〈十方の無碍人、一道より生死を出でたまへり〉と。〈一道〉は、一無碍道なり。無碍は、いはく、生死すなはちこれ涅槃なりと知るなり。かくのごときらの入不二の法門は無碍の相なり。

 問うていはく、なんの因縁ありてか〈速得成就阿耨多羅三藐三菩提〉といへるやと。

 答へていはく、『論』(浄土論)に〈五門の行を修してもつて自利利他成就したまへるがゆゑに〉といへり。

覈求其本釈

しかるに覈に其の本を求むれば、阿弥陀如来を増上縁とするなり。他利と利他と、談ずるに左右あり。もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろしく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ。まさに知るべし、この意なり。およそこれかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・人・天の起すところの諸行は、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑに。

三願的証

なにをもつてこれをいはば、もし仏力にあらずは、四十八願すなはちこれいたづらに設けたまへらん。いま的しく三願を取りて、もつて義の意を証せん。

 願(第十八願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生ぜんと欲うて、乃至十念せん。もし生れずは正覚を取らじと。ただ五逆と誹謗正法とをば除く〉と。仏願力によるがゆゑに十念念仏してすなはち往生を得。往生を得るがゆゑに、すなはち三界輪転の事を勉る。輪転なきがゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る一つの証なり。

 願(第十一願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、国のうちの人・天、定聚に住し、かならず滅度に至らずは、正覚を取らじ〉と。仏願力によるがゆゑに正定聚に住せん。正定聚に住せるがゆゑにかならず滅度に至らん。 もろもろの回伏の難なし、このゆゑにすみやかなることを得る二つの証なり。

 願(第二十二願)にのたまはく、〈たとひわれ仏を得たらんに、他方仏土のもろもろの菩薩衆、わが国に来生して、究竟してかならず一生補処に至らしめん。その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに、弘誓の鎧を被て徳本を積累し、一切を度脱して諸仏の国に遊び、菩薩の行を修して十方の諸仏如来を供養し、恒沙無量の衆生を開化して無上正真の道を立せしめんをば除く。常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。もししからずは正覚を取らじ〉と。仏願力によるがゆゑに、常倫に超出し、諸地の行現前し、普賢の徳を修習せん。常倫に超出し、諸地の行現前するをもつてのゆゑに、このゆゑにすみやかなることを得る三つの証なり。これをもつて他力を推するに増上縁とす。しからざることを得んやと。

 まさにまた例を引きて自力・他力の相を示すべし。人、三塗を畏るるがゆゑに禁戒を受持す。禁戒を受持するがゆゑによく禅定を修す。禅定を修すをもつてのゆゑに神通を修習す。神通をもつてのゆゑによく四天下に遊ぶがごとし。かくのごときらを名づけて自力とす。

また劣夫のに跨つて上らざれども、転輪王の行くに従へば、すなはち虚空に乗じて四天下に遊ぶに障碍するところなきがごとし。かくのごときらを名づけて他力とす。愚かなるかな後の学者、他力の乗ずべきを聞きてまさに信心を生ずべし。みづから局分(局の字、せばし、ちかし、かぎる)することなかれ」と。{以上}

元照『観経義疏』

【83】 元照律師のいはく(観経義疏)、「あるいはこの方にして惑を破し真を証すれば、すなはち自力を運ぶがゆゑに、大小の諸経に談ず。あるいは他方に往きて法を聞き道を悟るは、すべからく他力を憑むべきがゆゑに、往生浄土を説く。彼此異なりといへども方便にあらざることなし。自心を悟らしめんとなり」と。{以上}

一乗海釈

一乗釈

【84】

 「一乗海」といふは、「一乗」は大乗なり。大乗は仏乗なり。一乗を得るは阿耨多羅三藐三菩提を得るなり。阿耨菩提はすなはちこれ涅槃界なり。涅槃界はすなはちこれ究竟法身なり。究竟法身を得るはすなはち一乗を究竟するなり。異の如来ましまさず。異の法身ましまさず。如来はすなはち法身なり。一乗を究竟するはすなはちこれ無辺不断なり。大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
引文 正引
涅槃経四文

【85】 『涅槃経』(聖行品)にのたまはく、「善男子、実諦は名づけて大乗といふ。大乗にあらざるは実諦と名づけず。善男子、実諦はこれ仏の所説なり。 魔の所説にあらず。もしこれ魔説は仏説にあらざれば、実諦と名づけず。善男子、実諦は一道清浄にして二つあることなし」と。{以上}

【86】 またのたまはく、(徳王品)「いかんが菩薩、一実に信順する。菩薩は一切衆生をしてみな一道に帰せしむと了知するなり。一道はいはく大乗なり。 諸仏・菩薩、衆生のためのゆゑに、これを分ちて三つとす。このゆゑに菩薩、不逆に信順す」と。{以上}

【87】 またのたまはく(涅槃経・師子吼品)、「善男子、畢竟に二種あり。一つには荘厳畢竟、二つには究竟畢竟なり。一つには世間畢竟、二つには出世畢竟なり。荘厳畢竟は六波羅蜜なり。究竟畢竟は一切衆生得るところの一乗なり。一乗は名づけて仏性とす。この義をもつてのゆゑに、われ一切衆生悉有仏性と説くなり。一切衆生ことごとく一乗あり。無明覆へるをもつてのゆゑに、見ることを得ることあたはず」と。{以上}

【88】 またのたまはく(同)、「いかんが一とする、一切衆生ことごとく一乗なるがゆゑに。いかんが非一なる、三乗を説くがゆゑに。いかんが非一・非非一なる、無数の法なるがゆゑなり」と。{以上}

華厳経

【89】 『華厳経』(明難品・晋訳)にのたまはく、「文殊の法はつねにしかなり法王はただ一法なり。一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。{以上}

示意

【90】

 しかれば、これらの覚悟はみなもつて安養浄刹の大利、仏願難思の至徳なり。

海釈

【91】

 「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上}
願海は二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。
引証
『大経』

【92】 ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「声聞あるいは菩薩、よく聖心を究むることなし。たとへば生れてより盲ひたるものの、行いて人を開導せんと欲はんがごとし。如来の智慧海は深広にして涯底なし。二乗の測るところにあらず。ただ仏のみ独りあきらかに了りたまへり」と。{以上}

『論註』二文

【93】 『浄土論』(論註・下 一三〇)にいはく、「〈なにものか荘厳不虚作住持功徳成就、偈に、《仏の本願力を観ずるに、遇うて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ》といへるがゆゑに〉とのたまへり。
 〈不虚作住持功徳成就〉とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。いままさに略して虚作の相の住持にあたはざるを示して、もつてかの不虚作住持の義を顕す。{乃至}いふところの不虚作住持は、もと法蔵菩薩の四十八願と、今日阿弥陀如来の自在神力とによる。願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願、徒然ならず、力、虚設ならず。力願あひ符うて畢竟じて差はず。ゆゑに成就といふ」と。

【94】 またいはく(論註・上 八四)、「〈海〉とは、いふこころは、仏の一切種智深広にして涯なし、二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず、これを海のごとしと喩ふ。

このゆゑに、〈天人不動衆清浄智海生〉(願生偈)といへり。〈不動〉とは、いふこころは、かの天・人、大乗根を成就して傾動すべからざるなり」と。{以上}

「玄義分」

【95】 光明師(善導)のいはく(玄義分 二九八)、「われ菩薩蔵、頓教と一乗海とによる」と。

『般舟讃』

【96】 またいはく(般舟讃 七一八)、「『瓔珞経』のなかには漸教を説けり。万劫に功を修して不退を証す。『観経』・『弥陀経』等の説は、すなはちこれ頓教なり、菩提蔵なり」と。{以上}

『楽邦文類』

【97】 『楽邦文類』にいはく、「宗釈禅師のいはく、〈還丹の一粒は鉄を変じて金と成す。真理の一言は悪業を転じて善業と成す〉」と。{以上}

一乗の機教

教に約す

【98】

 しかるに教について念仏諸善比挍対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対自説他説対回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。
機に約す

【99】

 また機について対論するに、信疑対、善悪対、正邪対、是非対、実虚対、真偽対、浄穢対、利鈍対、奢促対、豪賤対、明闇対あり。この義かくのごとし。
一乗に結帰す
しかるに一乗海の機を案ずるに、金剛の信心は絶対不二の機なり、知るべし。

一乗歎徳

【100】

 敬つて一切往生人等にまうさく、弘誓一乗海は、無碍無辺最勝深妙不可説不可称不可思議の至徳を成就したまへり。なにをもつてのゆゑに。誓願不可思議なるがゆゑに。
悲願はたとへば太虚空のごとし、もろもろの妙功徳広無辺なるがゆゑに。
なほ大車のごとし、あまねくよくもろもろの凡聖を運載するがゆゑに。
なほ妙蓮華のごとし、一切世間の法に染せられざるがゆゑに。
善見薬王のごとし、よく一切煩悩の病を破するがゆゑに。
なほ利剣のごとし、よく一切驕慢の鎧を断つがゆゑに。
勇将幢のごとし、よく一切のもろもろの魔軍を伏するがゆゑに。
なほ利鋸のごとし、よく一切無明の樹を截るがゆゑに。
なほ利斧のごとし、よく一切諸苦の枝を伐るがゆゑに。
善知識のごとし、一切生死の縛を解くがゆゑに。
なほ導師のごとし、よく凡夫出要の道を知らしむるがゆゑに。
なほ涌泉のごとし、智慧の水を出して窮尽することなきがゆゑに。
なほ蓮華のごとし、一切のもろもろの罪垢に染せられざるがゆゑに。
なほ疾風のごとし、よく一切諸障の霧を散ずるがゆゑに。
なほ好蜜のごとし、一切功徳の味はひを円満せるがゆゑに。
なほ正道のごとし、もろもろの群生をして智城に入らしむるがゆゑに。
なほ磁石のごとし、本願の因を吸ふがゆゑに。
閻浮檀金のごとし、一切有為の善を映奪するがゆゑに。
なほ伏蔵のごとし、よく一切諸仏の法を摂するがゆゑに。
なほ大地のごとし、三世十方一切如来出生するがゆゑに。
日輪の光のごとし、一切凡愚の痴闇を破して信楽を出生するがゆゑに。
なほ君王のごとし、一切上乗人に勝出せるがゆゑに。
なほ厳父のごとし、一切もろもろの凡聖を訓導するがゆゑに。
なほ悲母のごとし、一切凡聖の報土真実の因を長生するがゆゑに。
なほ乳母のごとし、一切善悪の往生人を養育し守護したまふがゆゑに。
なほ大地のごとし、よく一切の往生を持つがゆゑに。
なほ大水のごとし、よく一切煩悩の垢を滌ぐがゆゑに。
なほ大火のごとし、よく一切諸見の薪を焼くがゆゑに。
なほ大風のごとし、あまねく世間に行ぜしめて碍ふるところなきがゆゑに。
よく三有繋縛の城を出して、よく二十五有の門を閉づ。
よく真実報土を得しめ、よく邪正の道路を弁ず。
よく愚痴海を竭かして、よく願海に流入せしむ。
一切智船に乗ぜしめて、もろもろの群生海に浮ぶ。
福智蔵を円満し、方便蔵を開顕せしむ。
まことに奉持すべし、ことに頂戴すべきなり。

正信念仏偈

【101】

 おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。
 ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上 五一)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。{以上}
 しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、


偈頌

【102】

総讃

無量寿如来に帰命し、不可思議光に南無したてまつる。

依経段

弥陀章
法蔵菩薩の因位のとき、世自在王仏の所にましまして、
諸仏の浄土の因、国土人天の善悪を覩見して、
無上殊勝の願を建立し、希有の大弘誓を超発せり。
五劫これを思惟して摂受す。重ねて誓ふらくは、名声十方に聞えんと。
あまねく無量・無辺光、無碍・無対・光炎王、
清浄・歓喜・智慧光、不断・難思・無称光、
超日月光を放ちて塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る。
本願の名号は正定の業なり。至心信楽の願(第十八願)を因とす。
等覚を成り大涅槃を証することは、必至滅度の願(第十一願)成就なり。
釈迦章
如来、世に興出したまふゆゑは、ただ弥陀の本願海を説かんとなり。
五濁悪時の群生海、如来如実の言を信ずべし。
よく一念喜愛の心を発すれば、煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり。
凡聖・逆謗斉しく回入すれば、衆水海に入りて一味なるがごとし。
摂取の心光、つねに照護したまふ。すでによく無明の闇を破すといへども、
貪愛・瞋憎の雲霧、つねに真実信心の天に覆へり。
たとへば日光の雲霧に覆はるれども、雲霧の下あきらかにして闇なきがごとし。
信を獲て見て敬ひ大きに慶喜すれば、すなはち横に五悪趣を超截す。
一切善悪の凡夫人、如来の弘誓願を聞信すれば、
仏、広大勝解のひととのたまへり。この人を分陀利華と名づく。
弥陀仏の本願念仏は、邪見・驕慢の悪衆生、
信楽受持することはなはだもつて難し。難のなかの難これに過ぎたるはなし。

依釈段

総讃
印度西天の論家、中夏(中国)・日域(日本)の高僧、
大聖(釈尊)興世の正意を顕し、如来の本誓、機に応ぜることを明かす。
龍樹章
釈迦如来、楞伽山にして、衆のために告命したまはく、
南天竺(南印度)に龍樹大士世に出でて、ことごとくよく有無の見摧破せん。
大乗無上の法を宣説し、歓喜地を証して安楽に生ぜんと。
難行の陸路、苦しきことを顕示して、易行の水道、楽しきことを信楽せしむ。
弥陀仏の本願を憶念すれば、自然に即のとき必定に入る。
ただよくつねに如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ずべしといへり。
天親章
天親菩薩『論』(浄土論)を造りて説かく、無碍光如来に帰命したてまつる。
修多羅によりて真実を顕して、横超の大誓願を光闡す。
広く本願力の回向によりて、群生を度せんがために一心を彰す。
功徳大宝海に帰入すれば、かならず大会衆の数に入ることを獲。
蓮華蔵世界に至ることを得れば、すなはち真如法性の身を証せしむと。
煩悩の林に遊んで神通を現じ、生死の園に入りて応化を示すといへり。
曇鸞章
本師曇鸞は、梁の天子、つねに鸞のところに向かひて菩薩と礼したてまつる。
三蔵流支浄教を授けしかば、仙経を焚焼して楽邦に帰したまひき。
天親菩薩の『論』(同)を註解して、報土の因果誓願に顕す。
往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。
惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。
かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。
道綽章
道綽、聖道の証しがたきことを決して、ただ浄土の通入すべきことを明かす。
万善の自力、勤修を貶す。円満の徳号、専称を勧む。
三不三信の誨、慇懃にして、像末法滅同じく悲引す。
一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば、安養界に至りて妙果を証せしむといへり。
善導章
善導独り仏の正意をあきらかにせり。定散と逆悪とを矜哀して、
光明・名号因縁を顕す。本願の大智海に開入すれば、
行者まさしく金剛心を受けしめ、慶喜の一念相応してのち、
韋提と等しく三忍を獲、すなはち法性の常楽を証せしむといへり。
源信章
源信広く一代の教を開きて、ひとへに安養に帰して一切を勧む。
専雑の執心、浅深を判じて、報化二土まさしく弁立せり。
極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、
煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつ
ねにわれを照らしたまふといへり。
源空章
本師源空は、仏教にあきらかにして、善悪の凡夫人を憐愍せしむ。
真宗の教証、片州に興す。選択本願悪世に弘む。
生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもつて所止とす。
すみやかに寂静無為の楽に入ることは、かならず信心をもつて能入とすといへり。
結勧
弘経の大士宗師等、無辺の極濁悪を拯済したまふ。
道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべしと。

 六十行すでに畢りぬ。       一百二十句なり。


顕浄土真実行文類 二

 出典(教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』本願寺出版社)


  1. 往相回向の願と選択称名の願名は親鸞聖人の命名。